高校1年2学期①

 日和はあれから一度も家には来なかった。互いが誤魔化した感情に触れたくはなかったので、メールが来なくなった事にも安堵を覚えていた。知らなければ、その感情は存在しないのと同じだ。このまま、荒波立てずに生徒達を見守る教師の立場を貫きたい。


 夏明けにすぐ実力テストがあり、日和の解答は相変わらず完璧だった。だが、いつもの質問が解答用紙の下に書かれていなかった。日和の解答用紙を何か見逃したのかと思い、何度も何度も確認をしたが、やはり何も書かれていなかった。何故か落胆を覚え、独り言を口にしていた。


「…You idiot. What am I thinking? (馬鹿か、俺は。何やってんだ?)」


 生徒にここまでなつかれたことがなかったので、足を踏み込み過ぎたようだ。男子学生だから大丈夫と自分に只管言い聞かせ、本当は日和に頼られることで、自分の寂しさを埋めようとしていたに違いない。だが、生徒と教師の間には圧倒的な壁がある。好きな人が出来たと目を輝かせ色めきだつ生徒達と、そんな純真な生徒達の授業あがりに、自宅に帰って平然と好きでもない女を抱いていた汚れた俺とでは、揺るぐことのない信頼関係など生まれる筈がない。結局上辺だけ、生徒と教師によくある一過性の興味本位の好意だけ。家庭の事情で父親不在の日和が、俺にその面影を求めた可能性も否めない。時々会って居るとは言え、寂しくないとは言い切れないだろう。父と子のような関係を生徒と築ける程、自分自身が父親と信頼関係を構築する努力をしてこなかったので、日和の求めるものに応えられる自信はない。


 テストの解答用紙を一人一人に返す中、日和は余り俺と目も合わさずにそれを受け取った。殆どの生徒が受け取る時、右端にある点数を手で隠すのが、見ていて若干面白い。赤点ギリギリの生徒には、手渡す時に「You gotta do something about it」と明確に伝えると、「…ヤベェって…独り言、英語でなんて言うんですか?」と聞かれ、笑った。「Oh no... Oh my gosh... Yikes...辺り」と答えたが、内心自分だったら「Oh fuck!」と口走っていただろう。答えを説明している間、時々日和を見たが、日和は余り話を聞いているようには見えなかった。見直す必要がない完璧な解答なので気にすることではないが、上の空の様子に引っかかった。


「はい、授業は終わりますが、採点ミスとかあったらちゃんと持って来いよ。後、今配ってるプリント、来週の授業までにしてくるように。全員提出だからな。忘れた人は、この倍のプリントを更にノルマとして課します。以上」


 授業が終わり教室を出ると、廊下の突き当りで息を切らした日和が走って来て、ぶつかりそうな勢いで背後で止まり、かなり驚いた。


「Whoa! Jeez! 日和か!Uh…何?採点ミスとか?」


 それはない。完璧な回答だった。久々に近くで見る日和は、少し日に焼けて、サラッとした髪から甘い香りを放っていた。


「違います。あの、少しお時間頂けませんか?」


 もう6限も終わり、後は職員室に戻って残りの仕事をするだけだった。


「ここで良い?」


「いや、あの、ちょっと来て頂きたいなと」


 日和は俺を直視することなく歩き出すので、形容し難い複雑な気持ちになりながら、沈黙状態で後をついて歩いた。日和に連れていかれた場所は、小ホールの裏だった。


「ヴァイオリンでも弾いてくれるのか?」


 持っていたファイルを軽く日和の頭に乗せると、日和はゆっくり振り返り、上目遣いでこちらを見上げた。


「先生が何て言うかも、何て思うかも、全部分かってるし、こんな事しても、自分が惨めになるだけなの分かってるけど、やっぱりちゃんと言わないと、先生に嘘ついてる気がして辛いから、自分勝手ですがスッキリするために、言わせてください。僕、ずっと前から先生のことが」


 日和の長い前置きで、あの日あの瞬間に抱いた不安がどうしてなのか、曖昧有耶無耶で済まそうとした部分が、明確になってしまった。だが決定的な言葉にして欲しくない、そう思い咄嗟に日和の口を手でふさいだ。


「Please don't. Uh…そこまで前置きされたら、分かるから。あの、本当何も言わなくて良い」


 どういう理由でそうなったのか、全く心当たりはなかったが、日和がこの男の教員である俺に、特別な気持ちを持ってくれている。でも、それは気の迷いで本気ではない。それも分かっている。生徒から見たら大人に見える教員への憧れと、恋愛感情を履き違えているだけの、一時的な感情の混乱だ。だが口を抑える俺の手を日和はしっかりと掴み、潤んだ瞳で視線を逸らさずに囁いた。


「好きです。ごめんなさい」


 その一言で今まで日和としてきた事が、全て色味を変えて記憶を塗り替えた。初めから、やはり日和を近づけるべきではなかった。男だからという言い訳は、生徒には適応すべきではなかった。日和を可愛いと思った自分の気持ちも、急に後ろめたさを伴う感情に変化した。


「Don't apolozise, really...uh, ありがとうな、その気持ちだけ受け取っておくから。じゃ、先生は職員室に戻るから。部活頑張れよ」


 二人の空間に居る事が急に後ろめたさを生むこの状況から、早く立ち去ろうとした瞬間に、日和がぼろぼろ泣き出した。日和は何故こんなにすぐに泣くのだろうと小さく苛立つのと同時に、自分が最後に泣いたのはいつだったかを一瞬考えてしまった。泣ける時に泣くことは悪いことではないのに、いつから泣かなくなったのだろうか。


「Oh no... please, don't cry. 先生、どうしたら良いか分からなくなるだろ?」


 涙が止まることなく零れ落ちるのを日和も必死に堪えようとしていたが、それでもこらえきれずに肩を揺らして泣いた。

 気持ちを知った上で、日和の肩を抱くことは日和にも失礼で、教師としてやはりすべきではない。それでも、余りに子供の様に泣く日和を、このまま放置しておくことは出来なかった。

 静かに深呼吸をし、日和をゆっくり抱き寄せた。小さく肩を揺らす日和が、生徒としてではなく、人として純粋に見えた。好きな気持ちを相手に言葉で真っ直ぐ伝える、嘘のない人間。自分とは全く違う種類の人間。人として尊敬出来るほどの素直さで、胸の奥が締め付けられた。こんなにも汚れのない気持ちを、受け取ることは出来ない。


「Please, I really don't know what to do...(頼むよ、ほんとどうしたら良いか分かんないからさ…)」


 小さな声で「Sorry…」と何度も呟く日和の声に、反射的に頭に分かるか分からないかの小さなキスをした。ただ単純に、こういう気持ちで素直に泣く生徒を人として愛しく思うのと、自分如き相手にその涙を無駄にはして欲しくない気持ちで泣き止んで欲しくなり、子供をあやす親のようにキスをした。日和はその直後、御免なさいと再度謝り、走り去ってしまった。呆然とそれを見送りながら、今、自分自身が取った行動に我に返り、更に酷い罪悪感を覚えた。


              ****


「先生って、ひよと付き合うの?」


 翌日、放課後体育館と校舎の渡り廊下を掃除をしている青木が、職員室に向かう俺を捕まえて聞いた。


「あのな、お前はどうしてそういう発想になるんだよ?俺は、こう見えても教師。しかも男。日和は生徒でそれ以上でもそれ以下でもない。生きる世界が違うの。分かる?」


 昨日泣く日和の肩を抱き寄せ、頭髪にキスをしてしまった自分の行動を、一晩中悔いていたので、この質問に若干の後ろめたさを感じていた。日和は、あれに気が付いたのだろうか?青木は、それを日和から聞いたのだろうか?強気な返事をしたものの、何かを見透かされてはいないか内心ヒヤヒヤしていると、青木が分かったような口調で言った。


「ふーん。付き合う気ないなら、思わせぶりな態度、辞めた方がいいと思いますよ。ひよが報われない」


 やはり、あんなことはしなければ良かったと再度悔いた。


 高校教師歴、たったの3年目だが一度も生徒に告白され、泣かれ、だからと言って相手を抱き寄せたり頭髪とは言えキスをしたりしたことはなかった。日和に対して、何故あんな事してしまったのか、自分で自分が理解できない。


「青木、はっきりさせておきたいけど、先生は生徒だけじゃなくて誰に対しても思わせぶりな態度を取るつもりはないし、誰とも付き合うつもりもない。特に生徒は論外。だから、安心しろ。お前の親友が傷つくような事には絶対ならないから」


 青木が何か言いたそうに口を開いたが、見えないふりをしてその場を立ち去った。

 今まで、適当な相手と適当に付き合ってきていた。相手に期待した事もないし、期待されたこともないと思う。だから、それが心地よかったし、楽だった。だが教師になり生徒たちを見ていて、自分のそういうだらしなさが、下らなく無意味で虚しいと感じるようになってはいた。誰かに本当に必要とされたことがない、一緒に切れることのない未来を見たいと思って貰ったこともない、ただ存在しているだけの自分が、あんなに純粋な涙を流せる生徒と、学校以外で関わることは許されない。

 日和が男子だからという言い訳が、もう出来ない今は、日和とクラス以外で関わる事は不可能だ。

 職員室に戻り、荷物をまとめ帰宅することにした。今日は会議もなく、部活も不参加の旨を伝えてある。残りの仕事は持ち帰る事にして校門を潜ると、覚えのある足音がパタパタと付いてきた。もう俺は、日和のことを足音で分かるようになっていた。


「先生、もうお帰りですか?」


 少し顔を赤らめた日和は、努めていつも通りを繕おうとしているが、やはり昨日のことがあったからぎこちない。


「日和は、バイト?」


 一瞬止めた足を動かし始めると、日和も少し後ろから付いてきた。


「はい。今日はオケ休んでバイトです。あの、」


 日和が何かを言おうとした瞬間、前方から派手にウェーブのかかった髪の長い女が歩いて来て、俺の名前を呼んだ。


「Eight!OMG, I can't believe it! What a coincidence!! 久し振り!元気だった??」


 ヒールの高い靴を綺麗に履きこなし、細身のジーンズを履いて大きな歩幅で近づいてきたのは、以前大学の時に一番長く付き合っていたクルス・マイアだった。


「Maia?!Wow、what the hell are you doing here?? お前、アメリカ帰ったんじゃないのか?」


 卒業してから一度も会っていなかったが、マイアは親のいるアメリカに戻ったと聞いていたので相当驚いた。


「結婚した姉がこの近くに家買ったの。それでお祝い兼ねて戻って来てて、今日は引越しの手伝いしてたの!」


 大学を卒業し、教員になってから自分の世界は学校と家が主だった。半年前まで付き合っていた女も、たまたま飲み屋で知人に紹介され、数ヶ月付き合っただけで、自分の世界が外にもあることなど、すっかり忘れていた。


「そっか、おめでとう。真里さんが結婚に新居か…そんな会ってなかったっけ?」


 俺とマイアの横で、凄く決まりが悪そうに日和が立っているのに気がつくと、話さないで済む口実を見つけたように、日和をあしらった。


「あー、先生の知り合いでちょっと話したいから、ここでな。気をつけて帰れよ」


 日和はショックを受けたような表情で俺を見て、消えそうな声でさようならと呟き走り去った。日和はこうして見ると、凄く子供に見えた。なのに走り去る背中から、何故か目が離せなかった。


「He's so cute...教え子か。英人、本当に教員になったんだ?」


「あぁ、似合わないだろ?自分でも全然向いてないと思う」


「そ?英人は誰かに必要とされてないとダメな性格だから、教師なんて一番向いてると思うけど。さっき切なそうな顔して帰った子みたいな生徒には、気をつけた方がいいけどね。入れ込みすぎないように」


 昔からマイアは俺の事をよく分かっている。何故彼女と別れたのか、今となっては全く思い出せない。久しぶりに直帰せずに、マイアと夕飯を食べに出掛けた。忘れていた大学時代、マイアと離れていたい時間はあっという間に埋まり、久々に年相応の自分に戻れた気分で帰宅すると、日和からメールが来ていた。


 <昨日のこと、忘れて下さい。おやすみなさい。>


 何故かほんの少し切なくなった。忘れることは、簡単だ。だが忘れたくはないと思った。気の迷いでも届けてくれた気持ちは、密かに思い出として持っていたいと身勝手な事を考え、<ありがとう。おやすみ>と返事を打った。

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