高校1年夏休み
写真部の顧問として、今年の夏は新たな二年の部長と企画した写真撮影会に秩父と高尾山に行く事になっていた。日和もオケの練習を縫って、それは参加するらしい。
あれから日和も青木も、何事もなかったように終了式を迎え、釈然としない気持ちを抱えていた。あの二人が言いたかったことが、一体何だったのか全く理解が出来ないまま、夏休みになってしまった。
夏休みとは言え、教員の仕事は山の様にある。当たり前のように登校する毎日。人気の少ない校内には部活動をしに来た生徒達が楽しそうに笑う声と、楽器音、運動部の掛け声が響き渡り、夏が来たことを実感させてくれる。今年の夏は、特に暑い。
「せんせーーーーー!!!水遊び一緒にしよー!」
体育館の近くの水道で生徒達がはしゃいでいるその姿は、夏の風物詩みたいなものだ。今日のように暑い日は、少し濡れても全く問題はないだろう。
「しねーよ。先生、プリント持ってるから、濡れる訳にいかないの。お前らも程々にしろよー」
はーいと言いながら手を振る生徒達の輝きは、やはりこの時期独特のものがあり、とても眩しくとても誇らしく思えた。この子達がここを出て行く時には、未来の光がそれぞれはっきり見えている事を、願わずにはいられない。教員の仕事をし始めて、他人の幸せを初めて願うことを覚えた気がする。
職員室に戻る渡り廊下から、小ホールが見える。日和は今日も、青木と外で練習しているのだろうか。気まぐれに覗きに行こうと思い立ち、小ホールに向かった。
あの夜、家で生姜焼きを残さず食べた日和は、バイクに乗るのは8月まで待ちたいからと言い張るので、自転車で家まで送って行った。バイクだとよく分からなかったが、日和は身長の割に凄く軽く、華奢な体つきだ。ここから、大人になっていくのだから、きっと体格も変わっていく。生徒達が大人になる通過点に俺が存在する。教師として、彼らに出来ることは限られているが、人生のほんの数年の関りであったとしても、それがかけがえのない宝になる様に、生徒達をサポートしたいと思う。それが俺のエゴであったとしても。
渡り廊下を過ぎ小ホールの茂みに近づくと、日和がいるのが見えた。声を掛けようとすると、青木が日和に近づき日和の肩を優しい手つきで抱き寄せていた。見てはいけないものを見てしまったと思い、走って職員室に向かった。男子校だとよくあると聞くが、この共学でこういう光景を見る事は予期していなかった。何故か心臓がドキドキして息が上がった。青木と日和という意外な組み合わせ、若しくは合点のいく組み合わせに、現実味を感じ心臓が早なった。
****
「東京から秩父って思ったより遠かったですね~」
写真部新部長の仁道が言った通り、電車で二時間半も掛かった。それでも、駅に着くなり都会の生活に慣れ切った生徒達は、大はしゃぎし始めた。
「先生、川下り絶対行こーね」
女子部員達も元気よく走り出す中、日和は一人俺の少し斜め後ろをついて歩いた。電車の中でも俺の隣に少し隙間を開けて座ったものの、殆ど話さずにここまで来た。若干の気まずさが漂い、歯痒い。青木が日和を抱擁する姿を見たとは言え、何事もなかったように日和に接しているつもりだ。彼らの事は彼らの問題であって、教師が生徒の交際問題にジャッジを下すのは間違っている。年頃の男子はセンシティブで、こういう事は特別視したり変に首を突っ込まない方が良い。そう思ったので、ニュートラルな状態を保っている。だが、日和は蟠りを抱えている様子だ。
「日和、お前元気ないな。またお腹でも空いてるのか?」
土産屋の通りを歩いている中わざと冷やかすように言うと、日和は震えるような声で聞いた。
「優月先生、この前、小ホール、来ましたか?」
一瞬冷や汗が出た。敢えて何も言わなかった行為が、二人の事を覗き見していたように取られてしまったのではとバツが悪かった。あの場で潔く声を掛けるなり、何かアクションを取った方が良かったのかもしれない。見なかったふりというのは、それだけで相手の行為を無言に否定していると取られかねない事にハッとさせられた。
「ごめん、でも先生は意見するつもりないから。お前達にはお前達の世界があるから、そこまで足を踏み入れるつもりは一切ない」
日和を見ると、日和が泣きそうな顔になった。今の言葉の何かが日和の心を傷つけたのだろうか?慌てて部長の仁道に先に行くと伝え、日和の腕を掴み土産屋を抜けて急な階段を下りて行き、右手の岩場に連れて行った。
「悪い、先生何か無神経な事言ったのか?」
顔を覗き込むと、日和の目から一粒涙が零れて、夏の日差しに輝いた。
「僕、翔と別にそういうんじゃないです。ただの友達です」
あの時見た二人の雰囲気は、余りただの友達と言った感じではなかった。特に青木の日和を見る目は、明らかにそれ以上の気持ちがあるように見えた。それでも、日和がそれを否定するなら、きっと俺の下世話な勘違いに違いない。
「ごめんな、そんな事お前に言わせるような態度取ったつもりないんだけど。本当、ご、」
謝りかけると、日和が頭を俺の胸につけた。
「僕は、他に好きな人がいるから」
日和の小刻みに揺れる華奢な肩が、妙に頼りなく見えて思わず抱き締めてしまった。
「ごめん、何も言わなくていいから。泣くなよ、皆もうすぐ来るぞ」
母は、生徒の肩を抱きしめた事があるのだろうか?だが恐らくこれも同性なら、許される。その呪文に甘え、暫くそのまま日和が落ち着くのを待った。日和は子供の様に俺の胸に額を付け、震える手で俺のシャツの裾を小さく握った。
日和が落ち着いた直後、他の生徒たちがやってきて、皆で川下りをした。皆それなりに濡れて笑ったり、沢山皆で写真を撮り、写真部らしい活動が出来た事に顧問として満足を覚えた。その後皆でかき氷を食べたが、その時の日和は面白かった。冷たすぎて頭が痛いと、一口ごとに目を瞑って頭痛を堪える姿が異常に可愛く見えた。
「先生、日和君と写真撮ってあげるから、かき氷の前で。はいチーズ」
スマホを生徒に向けられ、目を瞑って悶えている日和の頭を笑いながら抱き寄せた。日和の髪からまた甘い香りがした。
帰りの電車から見えた夕陽は格別赤く、帰り道は行きより更に長く感じた。流れる川や涼しげに茂る木々が窓の外を流れていく。暗くなった東京に到着すると、夜の優しい月光を押しのけるような煌びやかな街の光が迎えてくれた。都会の生活で疲れている時、皮肉な事にこの自然と懸け離れた夜の街灯に癒された。
「綺麗ですね」
日和が一眼を向けた先は、夜景ではなく俺だった。
「撮るなら夜景にしろよ、おっさん撮ってもフィルムの無駄だぞ」
「これ、デジカメです。何枚でも取り放題なんです。それに優月先生は、おっさんじゃない。前にも言いましたけど」
デジカメと言うのは、便利なようで不便だ。枚数が勿体ないから、吟味して写真を撮るという行為が必要ない。何枚でも撮って不必要なものは消せばいいだけ。デジタル化されたのは人間関係にも影響があるように見えるとふと思う。多くと出会い、気に入らなければ、切って行けば良いだけ。厳選して慎重に撮影するフィルムと、瞬発力だけで量産した中から良いものだけを選ぶデジタル。一長一短あるが、個人的にはフィルムカメラの方が好きだ。
だが日和のカメラのレンズの向こうから、日和のブレることのない鋭い視線を感じ、一瞬身震いがした。
「先生、明後日、僕オケの練習で学校行くので、終わったら校門の所で待っていて良いですか?」
地元の駅に到着すると日和が聞いた。明日、8月8日。バイクに乗せる約束をした日だ。
「バイク学校に乗ってくるわけじゃないから、お前、俺の家の前の公園で待ってろよ。多分6時には行けるから。オケもっと早く終わるだろ?」
「じゃ、あの公園で待ってます」
秩父で泣いた日和が、そんな事はもう忘れたとでも言うように明るく笑うので、自分の誕生日だと言うことを忘れ、ただ純粋にバイクに興味のある生徒をバイクに乗せてあげたいと思った。自分の誕生日など今まで格別意識した事はないが、今年はそれを思い出させてくれる生徒のお陰で、少しだけ楽しみだ。
****
「悪い、日和!思ったより遅くなった」
急に気が向いたからとALTのジョーが学校に来て捕まり、6時半過ぎに公園に着いた。日和はまたブランコに座って本を読んでいた。
「大丈夫です、本読んでたし。お仕事、お疲れ様です」
教員になって3年目、いまだかつて生徒にお仕事お疲れ様ですと言われたことはなかった。物凄く新鮮に感じた。
「How sweet!! 日和~、お前は~!」
嬉しくてつい日和の髪をぐしゃぐしゃにすると、日和は一瞬で真っ赤な顔になった。毎回日和の反応は面白かった。
「トマトみたいだぞ、日和」
頬を人差し指で突くと、日和は余計に赤くなり目を逸らした。
「先生って、大人なのに大人じゃない。高校生の僕より鈍いですよね」
「…今、日和、先生を軽く蔑んだ?」
「はい。人を揶揄ったお返しです」
精一杯突っ張って言っている様子が、また可笑しくて可愛くて、日和の事を構いたくなってしまった。自分が高校生の頃、こんな可愛い所は皆無だった。冷めていたし人に無関心だったし、こういう日和みたいな素直で可愛い所など、一つもなかっただろう。担任の教師に悪い事をしたと、自分がこの立場になって初めて反省を覚えた。
「よし、バイク乗るぞ!あ、お前もう夕飯食った?」
「いえ、まだです」
「んじゃ、夕飯食ってからな。今日はメンチカツな」
アパートに日和が来るのはこれで何回目だろうか。一度来てしまうと、もうその後はなし崩しではないが、生徒が家に上がる事への抵抗感がなくなってきていた。これで正解かどうかは分からないが、これも男同士だからセーフに違いない。
「な~、日和、俺シャワー浴びて来ても良い?今日凄い汗かいてて、このままバイク乗ったらお前俺のくっさいシャツに抱き着くことになるからさ」
日和はクッションに座ったまま誰も居ない俺の寝室の方を見たまま、どうぞと答えた。汗だくのシャツを脱ぎ捨て、シャワーを浴びると生き返る気持ちがした。
シャワーから出ると、日和がタオル一枚の俺を見て露骨に固まった。
「あ、悪いな、先生の家脱衣所ないからあの中で着替えるの無理なんだよ。先生、身長がちょっと規格外なもんで。男同士だから勘弁してくれよな、目の毒だろうけど」
寝室にそのまま歩いていくと、日和はずっと窓の方を見ていた。網戸に蝉がとまり、急に大音量の鳴き声を響かせ俺も日和も驚いて、顔を見合わせ一緒に笑った。
「しっかり捕まれよ」
バイクのエンジン音と共に、日和は後ろからしっかりと腕を俺の腰に回し、腹付近のシャツをギュッと握った。夏の夕方、まだ暑い中風を切り走らせ130号を下って行く。日和のリクエストで大分近いがお台場まで行く事になった。レインボーブリッジに生徒を乗せて行く事になるとは、予想していなかったが、これはこれで悪くはない。
「せんせー!!!」
日和がレインボーブリッジのど真ん中で大きな声を出した。
「あーーーー??何だーーー?」
バイクの音で二人とも異常な声量で話す。日和が大きな声を出したのを初めて聞いたので、新鮮だ。
「・・・い・・ね!」
「Whaaaat?? I can't hear you!!! (あーーー??聞こえねーよー!)なんて言った?」
だがバイクの音にかき消されて、日和の言葉が全く聞き取れない。
「I SAID ・・・・!!(・・・って言いました!)」
やはり聞こえず笑い出すと、日和もそれが分かったらしく笑い出した。
「もうすぐ着くから、着いたらはなそーなー!」
大声で言うと日和は顔を思いっきり俺の背中にくっつけた。ここを通ったのは、いつぶりだろうか。半年前に女と別れる前、ここに来たいと言われて連れてきた以来かもしれない。半年前付き合っていたのに、その子の顔すら今となっては余り思い出せない自分のだらしなさに、メットの中で苦笑いをした。
バイクを停めて振り返ると、日和がシャツを握ったまま俯いていた。
「着いたぞ。怖かったか?」
メットを日和の頭から外すと、日和は慌てて前髪を撫でつけた。16にもなったら、一丁前に色気づく。その様子が子供らしくて可愛く思う。
「歩くか?」
「はい」
お台場を男二人、しかも教師と生徒が歩いて一体誰が得をするんだろうと思いながらも、日和が楽しそうにしているので良いかと思えた。噴水公園から対岸に見える無機質な光景は、悪くなかった。階段に座ると日和が立てた膝に頭を乗せて、こちらを見ながら微笑んだ。
「先生、お誕生日おめでとうございます」
「Thanks!! もう25歳か。これで先生、日和より9歳年上。年って人に分けてあげられたら良いのにな?そしたら俺4歳お前にやるよ。したらお前、もう20歳で俺は21歳。ははは」
年の分配はどんなに科学が進んでも無理な話だが、もし俺が21歳に戻れたら、俺は何をするだろうか?
「本当に、出来たら良いですね。僕は早く先生の年齢に追い付きたいです」
「Don't be silly! 今しかない若さを楽しめ、日和。年は嫌でも取るもんだから」
日和は遠くに点滅する赤い光をじっと見ながら言った。
「それでも僕は早く大人になりたい…」
バイクに日和を乗せて迎えた25歳の誕生日、母が俺を産んでから25年、母が居なくなってから20年。点滅する赤い光が、あの日最後の朝に母が剥いていたザクロの実に似ている。朝日を反射し輝く小さな赤い実。呆然と眺めていると、日和が俺の膝を指先でつついて聞いた。
「先生は恋愛…って得意ですか?」
日和の突然の質問に、一旦思考が停止した。しかし日和は至って真面目な顔で質問をしているようで、きちんと聞かれたことには応えるべきだと思い、素直に答えた。
「What do you think? 得意だったら、誕生日に生徒のお前とこんな所、いると思う?」
日和がそれもそうだと言い、嬉しそうに笑った。
「It's not funny! 大人を笑うな。ま、でも俺は元々興味がないから」
他人に興味がない、というわけではない。でも誰かを好きになったところで、いつかは別れる。母親ですら子供を捨てられるのだから、血のつながりのない赤の他人など尚更だと、ずっと思っている。続かないものに労力を注ぎ込むこと程、無駄な事はない。無駄な事はしたくない主義だ。
「何、日和もしかして先生に恋愛相談?そう言えば、好きな人居るって言ってたな?話ぐらいは聞くけど、役に立てる自信は全くないぞ?」
生徒の恋愛相談と言うのは、今まで何度か経験があるが本当に良い事を言ってやれたことがない。自分が信じていないものを、どうやって助言出来るのだろうか?頑張れとか、諦めるなとか、そういう事を高校生は聞きたい訳ではないと思う。そこそこ具体的なアドバイスを求めてくるのに、大抵最後は、先生にはちょっと分からない、で終わってしまう。
日和は暫くまた立てた膝に今度は額を付け、考えている様子だった。
「話、ですか。聞くだけって言うのは微妙かもしれません…」
「そっか。ごめんな、先生経験乏しいからアドバイスとかちょっと苦手なんだよな」
「アドバイスは要りません。僕が欲しいのは、アドバイスじゃないから」
日和は急に立ち上がったと思うと、俺をただ真っすぐ澄んだ瞳で見つめた。アドバイスではなく協力要請なのだろうか?一度生徒に協力要請されたことはあるが、教員の立場でそれは出来ない。そう伝えようとすると、日和は全く予期していなかった言葉を発した。
「先ずは先生の連絡先、教えて欲しいです」
携帯のチャットアプリを画面に出し、こちらに見せている日和は、真面目な表情だ。
「ごめんな、でも一応生徒とそういうチャット機能の連絡先交換は禁止って規定があるから無理だな。それに俺あんまそういうの正直使ってないし」
「絶対誰にも教えないから、教えてください」
「いや、ダメなんだって。俺クビになりたくはないからダメ」
「…じゃあ、メアドは?」
「…Uh…umm...but, uh...何で?」
「…あの…相談とか、色々、家のこととか、その、話しづらいこととか文字なら何とか出来るかなみたいな…」
日和の挙動不審の返事に、日和が不登校を起こしていることを思い出し、一つ溜息を吐いて答えた。
「…分かった。メアドだけな。絶対誰にも渡すなよ?良い?悪戯メール来たらメアド変えるの面倒だから」
「はい!」
これと恋愛相談と何の関係があるのかは不明だが、日和ならいいかと思い教えてしまった。そして日和から数日後来た初めてのメールは、チャットのように短かった。
<今日は帰り何時ですか?>
返事をしようと思っていたが、仕事に追われてすっかり忘れて帰宅してしまった。家に着くと更にメールが届いていた。
<すみません、余計な事聞いて。おやすみなさい。>
こんな些細な事を聞かれても別に何とも思っていなかったが、日和を無下にしてしまった罪悪感を感じて返信を送った。
<ごめん、仕事が忙しくて返信忘れてた。帰りはいつも大抵夏休み中は6時過ぎ。おやすみ。>
それから返事は来なかったので納得したのだと思っていたら、夜中、就寝直前にまたメールが届いた。
<今、星が綺麗です。>
カーテンを開けて窓を開けると、薄明りのついた通りの遥か遠くに、小さな星が無数見えた。
<そうだな。>
同じ時に同じ空を眺めている、ただそれだけの事なのに、妙に独りではない気がして心が落ち着いた。
翌日、学校帰りに日和のバイトするスーパーへ行くと、日和が商品を棚に陳列していた。
「日和」
肩を叩くと、嘘のように綺麗に振り返るので、つい頬を突くと日和がまた真っ赤な顔をした。
「せ、先生!」
「ごめんごめん、つい。仕事頑張れよ。先生はもう帰るから」
今日は学校の園芸部に貰ったジャガイモがあるので、肉じゃがにしようと思っていると、日和はじっと籠の中を見た。
「今日は何ですか?」
「肉じゃが。あ、また腹ペコなの、お前?」
日和は少し口をとがらせながらも、モゴモゴと言った。
「そうだって言ったら、食べさせてくれるんですか?」
日和のこういう分かりやすさは、嫌いじゃなかった。生徒になつかれるというのは、悪い気はしない。
「全く、お前は。バイト終わったら連絡しろよ、ご飯温め直すから。じゃな」
日和の頭を軽く小突いてレジに向かった。クラスでもこの素直さを見せたら、きっと周りに沢山友達が集まって来るだろうに、何故クラスの奴らとは距離を置こうとするのか理解が出来ない。中学の時の不登校と何か関係があるのだろうか?
家に着き、夕飯を作った後、なかなか連絡が来ないのでシャワーを浴び始めると、玄関の呼び鈴が鳴った。
「悪い、まだかと思ってシャワー浴びてた」
まだ泡の付いた髪に、タオル一枚で玄関を開けると、日和が凄い勢いで後ずさった。
「あ、悪い。ちょっととりあえず上がって。泡落としてくるから」
俯いた日和の顔に、わざと泡を少しかけると、日和は瞬時に顔を上げたが、やはり顔は真っ赤だった。
「さて、先生の作った肉じゃがはどうだ?」
相変わらず俯き加減の日和は、肉じゃがを黙々と食べていた。さっき泡が鼻についた日和の顔の赤さは、深紅のバラのようだった。可愛い反応に、心底日和が男子で良かったと思わずには居られなかった。
「美味しいです」
ちっとも顔を上げようとしない日和に、つい短気を起こして顎に手を伸ばして顔を上げさせると、日和は想像していたのとは違う表情をしていた。泣きそうに見えて、咄嗟に謝罪した。
「あ、悪い。さっきから拗ねてるのかと思って、ついな。悪気はない」
日和には一度長瀞で泣かれていたから、また泣かすのは教師としてまずい。手を引っ込めると、日和がまた俯いて箸を置いた。
「何?やっぱいまいちとかだった?」
肉じゃがは家庭の味が出るものだから、取った出汁の味が気に入らなかったのかもしれない。少し顔を傾けて、日和の顔を覗き込むと、日和が扇風機の音でかき消されそうなか弱い声で呟いた。
「やっぱり、僕、ちゃんと言わないと騙してる感じ、ですね」
ところどころ聞き取れなかったが、騙しているという所ははっきり聞こえた。誰が誰を騙している?俺が日和?日和が俺?どちらもないと思う。クラスの中で何か俺の知らない問題でも本当は起きてるのだろうか?
「どういう意味?」
日和は耳までピンク色に染まりながらも、震えた声で一言一句俺の聞き取れるように、でも少し掠れた自信なさげな声で答えた。
「僕、お腹空いてるから先生の家来てるんじゃないんです。ごめんなさい…」
日和が言おうとしている事が何か分からないのに、この先日和が何かを言えば、この居心地のよい腹すかしの生徒と俺の関係性が変わってしまう気がして、日和が続けるのを敢えて遮った。
「あ、そっかそっか。英語で聞きたいことがある、とか?別に良いよ、俺は日和の教師なんだし、テスト問題を先に教えるのはダメだけど、英語の質問ぐらい幾らでも答えるけど?文法?発音?」
日和は瞳を右往左往させながら、俺の様子を観察していた。正しい答えを探している様だった。
「そ…です。…分からない所、あって」
日和の返事を聞いて、何故か物凄く安堵した。
「お前、そういう遠慮はいらないからな。で、何?夏に出てるやつ?」
「はい、あの参考書ので、」
日和が咄嗟に嘘をついているのが分かった。だが同時に日和の頭の回転の良さを、この時妙に実感した。それなりに分かりづらい文法部分の質問を淡々とし、聞き取りづらい発音と、発音しづらい音について幾つかの質問を即興で思い付く程、頭の中で情報が整理されている。感心しながら質問に答え、日和が本当は言おうとしていた事が何であれ、それを蒸し返さずに済んだことに救われた。この心地よい生徒との距離がこのままである事を願いながら、口数の減った日和を家まで送った。
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