高校1年1学期②
青木翔。俺を馬鹿なのかと言った生徒。普段は明るくクラスを盛り上げる元気な人気者で、様子を見ていると、どうもクラスの大八木と特に親しいように見受けられる。しかし、日和とは相変わらずクラスで余り話している様子はない。かなり謎だ。
その青木が、テスト解答用紙の一番下に、さらに謎の文を書いてきた。
ーDo you remember that rainy day when you lent your umbrella to someone?
この解答用紙の余白に教員に一問一答形式が、今高校生の間でひそかに流行り始めたのだろうか?それとも、日和が青木に質問何でも書けば、俺は応えてくれるとでも言ったのだろうか?全くザクっとした内容過ぎて、何の事を言っているのか分からない。
ーRemind me when?
雨の日、傘を誰かに貸したことなど、何度もある。貸した傘が大学に戻って来たのは、一度だけだが。日和の解答用紙にも律儀に一番下に、質問が書いてあった。
ーWhat's your plan on August 8?
誕生日の予定を担任に聞いて、本当に何が楽しいのか皆目見当がつかない。
ーI'll be working. How fun.
生徒達に返す解答用紙は、これが今学期最後だ。最後の質問が誕生日。以前日和は俺の事をもっと知りたいと言ったが、何の為に知りたいのか理解に苦しむ。この年の男子生徒が担任教員の事を知りたい理由は、一体何なのだろう?弱みを握りたい?弱みを握った所でどうするつもりなのだろうか?脅して試験内容を教えて欲しい、は日和には必要ない。日和はよく出来る。第一、日和は人を脅すようなタイプではない。やはり、全く理解が出来ない。
解答用紙の上にボールペンを放り投げクッションを枕に寝転がると、外から響く蝉の声が急に家の中に入り込んでくる。夏が来たのに、楽しみな事など何一つない。母の足跡をなぞる様に、この高校で教員になって今年で3年目。ふと自分が今している事の意味が、一体何なのか分からなくなる。
「あーーー!!!」
大きな声を出してうつ伏せになり、クッションに顔を埋めると、ふと日和との約束を思い出した。律儀に英語のテストは満点だった。
日和の解答用紙をもう一度引っ張り出し、小さな余白に書き込んだ。
ーWell done! When are you available?
***
解答用紙の返却と答え合わせが終わり、職員室に戻っている最中、青木が走って追いかけてきた。
「おーい、廊下走るなよ」
「話、あるんですけど、良いですか?」
教師を馬鹿呼ばわりしたあの一件から殆ど話してこなかった生徒が、自ら話をしたいと声を掛けて来たのは素直に嬉しかった。
「どうぞ。何?」
「いや、えーっとちょっとここじゃなんなので」
日和も以前同じことを言った。やはりこの二人は仲が良いのだと思うと、何故か心が和んだ。
「この廊下の先、余り人来ないからそこなら良いか?」
青木は無言でうなずいてついてきた。8歳も年下の子供に余り威圧的な態度はとりたくないので、和やかな雰囲気にしようと取り留めのない事を話した。
「青木も日和みたいにバイトしてんの?」
「いえ、俺はしてません。ひよは、本当に頑張ってるけど、俺はそうじゃないから」
青木がクラスで日和の事を呼ぶ時、日和と呼ぶのに、こういう時や日和と二人の時はひよと呼ぶ。こういう関係性が、同中らしくて微笑ましくもあり、やはり謎でもあった。
「で、話って何でしょうか。採点何か間違ってた?」
青木は少し躊躇してから、下を向いたまま話した。
「あの、雨の日。あの日の事、本当に覚えてないのかって思って」
「あー、あの謎の。書いたろ、ちゃんと。いつの話してんの?」
「だから、4年前の6月の話です」
4年前、まだ大学生だった頃の話だ。昔過ぎて全く何も思い出せない。
「あ、そういう事を聞くって事は、俺はお前にでも傘貸したの?何、鶴の恩返しでもしてくれるのか?」
「いや、そうじゃないです。でも、覚えてない程傘って人に貸すものですか?」
「俺は何度もあるからな。ま、それを律儀にどうやって調べたのか、大学まで届けてくれた人は一人だけだけど」
そう返事をすると、青木がやっと俺の顔を見上げた。両目でしっかり俺の顔色を探る様に、じっと見つめる。
「その子の事は、覚えてますか?」
「あぁ、何となく。怪我してたし、親が迎えに来るって場所まで担いでいったからな。何で?あれ、もしかして青木?まさかな」
あの子はもう少し可愛らしい顔をしていた。いや、しかし4年も経てばこういう風になることもあるのかもしれない。だが、だったとしたらどうだと言うのだろうか?たかが、一度傘を貸しただけの関係だ。
「それ、ひよです」
青木がこの事を、わざわざ凄く重要な事の様に話す理由が、やはりよく分からない。「そうか」とだけ返事をしたが、青木は俺の反応に不服な様子だった。何か言いたげに口を開くと、遠くから青木の名前を呼ぶ声が響き、青木はそのまま教室の方へ戻って行った。
職員室に戻ると、机に何枚かのプリントが置いてある中、一枚見覚えのある字で俺宛の小さな手紙のようなものが置いてあった。
「アノせーとが置いた…置いてた…置く置いた老いたおイタ…Fuck, I'm confused...」
ALTのジョーが懸命に日本語の動詞活用して教えてくれたあの生徒とは、恐らく日和の事だとすぐに分かった。紙を開くと日付が大きく記されていた。
ー8月8日。
俺の誕生日を紙に書いて置いていく、意味不明過ぎると思ったが、暫くしてこれがバイクに乗りたい日だと言う事に気が付いた。仕事をしてると書いたはずだが、学生は教員が暇人だと思っているらしい。多少の苛立ちを覚えた俺は、その日日和のバイトしているスーパーに足を運んだが、その日は働いていなかった。
結局、16歳の子供には大人の事情など分からないものだ。人が仕事をしていると言った日をわざわざ指定してくる、その空気読まない感じが子供だ。仕事終わりでは親御さんも心配するだろうし、昼間に適当にちょろっと乗せてやりたかっただけなのだが、昼間が空いてない日時指定は無理がある。
とりあえずスーパーで買い物をしノロノロ歩いていると、家の近くの公園のブランコに、日和が座っていた。
「何やってんだ、こんな所で。バイトしてないなら家直帰しろよな」
ブランコの前の柵に腰を下ろすと、日和が俯いたまま立ち上がった。
「あの、すみません。やっぱりちょっと図々しかったかな、と思って。その、バイクの。お仕事の後、きっと一緒に祝う人とか、居たりするかなと」
喧嘩を売っているとしか思えない言い分に、余計に腹が立った。
「Are you trying to push my buttons or what?(俺をわざとイラつかせようとしてんだろ?)普通に仕事終わったら一人で家帰って、終わりだよ。わざわざそんな事言わせんなよ」
立ち上がって日和の頭を少し強めに小突くと、日和がまた赤い顔をして俯いた。
「何、一人で可哀想な先生を慰めてくれるつもりな訳?」
日和を揶揄うと、日和は足元に目を落としたまま言った。
「その、やっぱりその日が良いです…Uh, only if you don't mind...」
俺が高校1年の時、担任の誕生日を祝おうと思った事はなかったので、日和が更に理解出来ない。
「...I don't get it.(いや、よく分からん)日和、担任の誕生日に一緒にバイク乗って何が楽しんだ?バイクなら今度、昼間にちょっと乗せてやるから。その日だと夕方過ぎになるから、親御さんも心配するし。な?」
「先生は、誕生日に僕が一緒じゃ嫌ですか?」
「嫌とか何とかじゃなくて、日和が楽しくないだろ、そんなの。お前、本当に変な質問ばっかするな。全く、今の高校生を先生は理解できん」
大きな息を吐き日和を見ると、街灯に当たって日和の睫毛が影を落としていた。
「すみません。僕、何か」
「日和って、睫毛凄い長いな?今ちょっとびっくりした」
日和の睫毛に手を伸ばすと、日和が一瞬体を強張らせた。伸ばした手を引っ込めようとすると、その手を日和がそっと触った。
「先生の手、変わらないですね…」
取った手を震える親指で撫でる日和の行動が、一瞬理解できずに思考が停止した。このシチュエーションは、一体何なのだろうか?変わらないとは、いつからの事だろうか?そう思った瞬間に、青木の言葉を思い出した。
「あ、そうか。あの時の子供、日和だったんだってな?大きくなったな、お前。大分、男らしくなった。あんなにしくしく泣いてたのに」
俺の言葉を聞いた途端に、日和は手を離して俺の目を見た。日和の目は少し潤んで見える。
「お、覚えてたんですか?」
「いや、今日青木に言われて思い出した。世間って狭いな。あの子供が今俺の教え子とか、感慨深い」
少し落胆したような顔をした日和が、妙な間の後に続けた。
「あの時だけじゃないです、僕が先生に会ったの。先生は、知らないと思うけど」
「What?いつ?何処で?何時何分?言われても分かんないと思うけど」
日和をいじるふりをして、少し恥ずかしい気持ちを隠した。教師面して生徒の前に立っているが、実は教師になる前に生徒に出逢っていたというのが、異常に恥ずかしく感じた。違法行為をしていた訳ではないが、学生の頃は大分適当な生活を送っていたので、それを生徒に知られたくはないと思った。
「それはいつか話します。すみません、今日は帰ります」
そう言って立ち去ろうとする日和の腹の虫が、この上ない程の大音量を上げて鳴いた。
「Hey, you did that on purpose, didn't you?? (おーい、お前それワザとだろ?)」
思わず笑ってしまうと、日和は暗がりでも分かるぐらいの赤面をかまし、お腹を押さえながら違うと否定しまくった。
「タイミングが良すぎるんだよ、全く。今日は生姜焼きだけど、食ってく?」
日和はただ黙って頷いて、家まで大人しくついてきた。このどうも俺を以前から知っていたらしい生徒を連れて帰り飯を食わせる俺も、この生徒と同様に意味不明だ。ただ料理は一人分作るより、二人分作った方が効率がいい。それは確実だ。
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