真相(1)

 アイドルなんて知らないし興味ないし好きか嫌いかで言えば嫌い。

「ねえ。あなたって、地下ドル好きなの?」

「……う、うん。まあその、好き、だけど」

 にも拘わらず、通り魔じみた唐突さで投げかけられたその子からの問いかけに、私は本音を返せなかった。

 単純に私の気が小さいというのもある。でも、声をかけられたのが地下アイドルのライブハウスの入口付近だったこと、今まさに全グループのステージを見終わって地上に帰還したばかりだったこと、私と同じくライブハウスから出てきたばかりの制服姿の見知らぬ女子がその瞳をあからさまな期待で輝かせていたことなどを考慮すれば、私のことをいくじなしと責めるのは些か酷じゃないかと思う。

「本当⁉ 私も好きなの! このあたりじゃ見かけないけど、いつもは別の箱に行ってるの? 好きなユニットは? というか、歳いくつ? 名前は?」

 キラキラした瞳を更なる輝きで彩りながら、追加の質問を投げかけてくるその子。一つ目の問いは「うん、まあ」と曖昧な返事をすることで逃げ、二つ目は「い、色々……」とこれまた答えになっていない答えを返してお茶を濁して、三つ目と四つ目については正直に「三神柚葉。十五歳で、今日から高一」と答えた。

「高一かぁ。だったら私と一緒だね。あ、てかさ、今日のライブのことなんだけど」

 誰のパフォが一番良かっただの、誰が一瞬だけ視線を向けてくれて最高だっただの、頬を軽く上気させながらステージの感想を語るその子。対する私は「うん」とか「そうだね」とか、第三者が客観的な状況分析をしたら即座に話聞いてない認定をするであろう相槌を機械的に打つことしかできなかった。

「あ、なんかごめんね。私ばっかり話す感じになっちゃって。同い年で趣味が合う子って初めてだから、テンション上がっちゃって。ええと、帰りって電車? ひとまず駅まで移動しようか。どっち方面?」

 中心街の外れにある夜闇に沈んだ通りを、その子はテクテクと歩きだす。私はその子の一歩から半歩後ろくらいの距離を保ちながら、一方的に語られる話に延々と相槌を打ちながら足を進めた。

「そうだ。良かったらライン交換しない? 今日、入学式だったんだけど、学校に話合う人いなさそうだから寂しいんだよね」

 改札口で帰りの電車が逆方面であることが判明した直後、何の気なしに連絡先の交換を提案された。瞬間的に言い訳が思いつく頭脳も、嫌ですと断れるだけの胆力も有していない私は、「あ、はい」と言いながらおずおずとスマホを取り出すことしかできなかった。

 電源を入れた途端になだれ込んできた大量の新規メッセージと着信履歴を一括で消去して、覚束ない手付きでQRコードを表示する。追加されたアカウントのユーザー名で、その子の名前が日向だということを知る。会話の中で名乗られた気もするのだけれど、そのときの記憶は海馬に刻み込まれることなく頭からこぼれ落ちていた。

「こっちのライブに来ることがあったら、連絡してよ。もっとゆっくり、アイドル談義とかしてみたいから」

「あ、うん、わかった。……それじゃ」

 知り合ったばかりの他人から解放されたことによる落ち着きは、向き合わなければならない現実を意識したことによる憂鬱にすぐに取って代わられた。

 逃れようのない現実から目を逸らすかのように、今まさに着信画面が表示されたスマホの電源を切って、ホームへの階段を降りた。

 

 アイドルが好きなわけでも、興味を持っているわけでもない。そんな私が何故、地下アイドルのライブを見たのか。その理由を説明するには、私の生い立ちから確認し始める必要がある。

 幼い頃、私はちょっとした事故で右目を失った。ここで言う幼い頃とは、記憶にさえ残っていないほど小さかった時期のことを指す。要は、物心がついたときには義眼生活をしていたということだ。

 私の通っていた小学校は一学年にクラスが二つしか存在しない、少子化の概念を体現したような学校だった。五十名くらいの同学年の子供らと、小一という物心がついているんだかついていないんだか微妙な時期から一緒の空間で過ごすのだ。皆、私が片目であることを当たり前のように認知していたし、それを特別視してくるようなこともなかった。

 当時から、私は内気な性格をしていた。クラスの中心人物になるような活発なタイプではなかった。休み時間も校庭でドッジボールをするのではなく、図書室に入り浸って本を読んで過ごしていた。

 だからといって、クラスの中で浮いていたわけではない。グループワークのときなんかはクラスメイトとも普通に会話できたし、親友とまでは言えずとも学校生活を送る上で不自由しない程度の仲の友人は数名いた。当時の私はどこにでもいる、ちょっとおとなしめな女子生徒の一人でしかなかった。

 今となっては信じられないほど平凡極まりない小学校生活を送っていた私だけれど、中学に入った途端、その平穏は瓦解した。

 私の小学校は生徒数が少なかったこともあり、進学した中学の同級生は大半が知らない人間だった。入学式の後の自己紹介で、私は何を喋ったのだったか。よく覚えていないけど、覚えていないということは当たり障りのないことを話したのだと思う。趣味とか、好きな教科とか、出身の小学校とか。

 だけど、一つだけ明確に覚えていることがある。私は右目が義眼であることを皆の前で語らなかった。隠したかったわけではない。普通の生活を送る上ではこれといった不自由もないのだから、わざわざ喧伝する必要性もないと思っただけだ。

 でも、担任の先生はそうは思わなかった。あの人はクラスの全員が私の目のことを周知して、日常生活の中で介助してやらなければならないと考えた。手短な自己紹介を終えて席に着こうとした私に待ったをかけると、先生は何やら神妙な面持ちで教室全体を見回した。

「皆。一つ、聞いてほしいことがあるんだ」

 厳粛な声音で前置きをした後に、その人は私の右目のことを暴露し始めた。まるで私が難病もののドラマに出てくる悲劇のヒロインででもあるかのような、大袈裟極まりない語り口だった。

「とにかく三神は、幼い頃の事故で右目を失っているんだ。もしかしたら学校生活の中で、何か困るようなことがあるかもしれない。そういうときは皆、積極的に助けてあげるように。目のことで三神のことを特別扱いするようなことだけは、絶対にやめてくれ。でもまあ、皆なら大丈夫だよな! 俺は皆が、どんなクラスメイトにも優しく出来る良い子たちだって信じてるから! ええと、じゃあ次は森本、自己紹介お願いな。三神はもう座っていいぞ」

「……あ、はい」

 いくつもの眼差しで串刺しにされている割には、私の身体は何の抵抗もなく椅子の上にストンと落ちた。

 クラスメイトの私への反応は、大きく分けて二つだった。一つは、私に関わると面倒事を押し付けると思って遠巻きにするタイプ。もう一方が、好奇心からあれこれと質問を投げかけてくるタイプ。私が嫌だったのは主に後者だ。これまで出会ったことのない人種を目の当たりにしたことで、十代前半の子供らしい知的好奇心を刺激されたのだろう。自己紹介が終わった後、私の席にはそれなりの数の同級生がやってきて、質問のオンパレードを浴びせかけてきた。

「確か、片目だと物の距離がよくわからないんだよね。そうだ。ちょっとこれ掴んでみてよ」

 そう言って、一人の女子生徒が眼前にシャーペンを突きつけてくる。瞳孔の開いたその目を見れば、コミュ障の私でもすぐにわかった。目測を誤った私がシャーペンの代わりに虚空を掴むのを期待していているのだろう。他の子たちの目つきも、その女子生徒と似たり寄ったりだった。

 葛藤はした。嫌だという気持ちもあった。だけど最終的に私が選び取ったのは、シャーペンの数センチ手前で無様に空振りをするという結末だった。

 見るからにわざとらしい低級低俗な猿芝居。だけど観客はそんな出来栄えでも満足のようだった。慣れない愛想笑いを貼り付けた私が「あ、あれ。おかしいな」なんて口にするのを眺めつつ、その反応が見たかったと言わんばかりに一斉に哄笑した。

「ていうか、義眼って取れるの? 入れるときとか痛くないの? 取った後って、どんな感じになってんの? 気になるんだけど」

 一人の男子が口にした。周りの生徒たちも気になる気になる、としきりに頷く。

 私は要望通りに義眼を取った。空っぽの眼窩も見せた。返された反応の全てを記憶しているわけではないけれど、気持ち悪いとかグロいとかエグいみたいな笑い混じりに口に出されたマイナスな単語だけは、一切の劣化を経ることなしに脳の皺に刻み込まれている。

 私は周りに合わせて不格好に笑いつつ、教室の隅の方で何らかの作業をしている先生へと目をやった。溺れる者は藁をも掴む。だけど藁は藁でしかない。私の視線に気がついた先生は、受け持ちの生徒が仲良さげに談笑しているのを見て安心したのか、満足気な顔つきでうんうんと首肯した。

 こうして私は予定調和的に溺れた。

 翌日、私の足が教室に向かうことはなかった。

 朝起きてから登校までの行動は初日と大差なかった。普段通りにご飯と目玉焼きの朝食を取り、「友達できた?」という問いかけには「うん」と答えて、「行ってきます」とこれまでと寸分違わぬトーンで声に出し、まだ一度しか辿っていない通学路をトコトコ歩いた。努めて何も考えないようにしたおかげで、校門をくぐって上履きに履き替えるところまでは何とかいけた。だけど私の身体は教室をスルーして、荷物を置くこともなしに奥にあるトイレへと直行していた。尿意も便意もないのに便座の上に腰を下ろして、何やってるんだろう、と心の中で呟きながら項垂れる。でも問題はない。予鈴がなったら個室から出て、平然とした顔つきで教室に戻れば良いのだから。

 気づいたときには本鈴が鳴っていた。胃の中に巨大な金属の重りを埋め込まれたかのように、私の身体は意志に反して便座から持ち上がってくれなかった。

 結局、個室に籠もりきったまま一限から六限までを過ごした。夕方になって人気がなくなった頃合いを見計らって、私は家に帰った。どうか親には連絡が行っていませんようにと祈っていたけど、願望は所詮願望でしかない。会社を早退していた母親に「柚葉⁉ どこ行ってたの⁉」と本気で心配されて、数年ぶりに抱きしめられたりなんかした。情けなさと不甲斐なさと申し訳無さとその他諸々が渾然一体となった何かが胸の奥からせり出してきて、気づいたときには嗚咽が漏れていた。

 翌日、私は生まれて初めて学校をずる休みした。一度休んでしまったら、不登校になるのは早かった。二、三日の休みなら風邪で誤魔化かせるかもしれないけれど、一週間も欠席が続けば誰もが察する。同級生の中には初日の出来事が原因だったんじゃないかと勘づいた子もいたはずだ。それでどんな感想を抱いたのかはわからない。罪悪感を抱かれたのか、ナイーブで面倒臭い奴だと思われたのか、そもそも開始初日でリタイアした私のことなど即座に意識から抜けていて、何もかも私の考え過ぎでしかないのか。答えのない命題を延々と考え続けているうちに私はますます疲弊して、教室に足を踏み入れるのが更に億劫になっていった。

 結局、私が中学で得た学びと言えば、出席日数が一桁であっても義務教育のうちは卒業できるという豆知識だけだった。

 卒業後の進路については、両親と何度も話をした。

「登校が辛いなら通信制という手もあるけど、どうする?」

 私の事情を慮って、優しげな口調でそう語るお父さんとお母さん。しかしその実、内心では普通の子供と同じように全日制の高校に通ってほしいと思っているのは明らかだった。

「頑張って、普通の高校に行くことにするよ。遠くの学校を受験すれば、同じ中学の人たちとも顔を合わせずに済むだろうし」

 結論から言えばそれはただの詭弁であり、体の良い理想論であり、机上の空論の範疇を出なかった。

 長年の不登校生活の影響だろう。その頃の私は、制服を着た人間の姿を見ると条件反射的に顔を伏せ、そそくさと距離を取るのが習慣と化していた。一時間半も電車に揺られ、入学した高校の最寄り駅に降り立つところまでは頑張れた。でも、残り距離に反比例するように生徒数が増していく通学路を歩き切ることはできなかった。頭の中では中学の入学式の後の出来事が繰り返し再生されていた。私はたまらずコンビニのトイレに逃げ込んで、げぇげぇと吐瀉物をぶちまけた。

 その後は駅前の繁華街をぶらついて時間を潰した。学校や親からひっきりなしに電話がかかってきたけど、出る勇気もなかったので途中で電源を切ってしまった。家に帰って親と顔を合わせれば、気遣いという名のオブラートで包まれた落胆や軽蔑を投げかけられる。それが嫌で帰りの電車に乗る気にもなれなかった。太陽がすっかり沈んで、駅前の飲み屋街に酔っ払いたちの甲高い声がこだまするようになっても、私が駅の改札を通ることはなかった。

 夜の訪れとともに、私は本格的な焦燥に駆られ始めた。いくらなんでも、朝になるまで街を徘徊し続けるわけにはいかない。このまま音信不通が続けば、警察に捜索届を出される可能性だってある。いや、もしかしたら既に出されているのかも。だとしたら、帰ったら絶対に面倒臭いことになる。

 ……取り敢えず、どこかに逃げなきゃ。どこかってどこ? ファミレス? カラオケ? ゲームセンター? いや、駄目だ。そんなありきたりな場所じゃ、すぐに見つかって終わってしまう。もっと、普通の高校生が寄り付かなさそうな場所に逃げなくちゃ。人目につかなくて、閉鎖空間で、警察がわざわざ巡回したりすることのなさそうな場所――

 そうして辿り着いたのが、あのライブハウスだった。

 平時なら、ライブハウスなんて得体の知らない地下室に足を踏み入れるような度胸は絶対ない。だけど、そのときはとにかく必死だった。少なくともライブの終了時刻までは安全地帯にいられるという束の間の安堵感。それにしがみつきたい一心で、入り口へと続く薄暗い階段を下っていった。

 会場に入ると、私は人気を避けるようにして隅の方に陣取った。程なくしてステージが始まる。何もやることがない夜にぼーっとテレビを見るときのような心持ちで、アイドルたちのパフォーマンスを眺める。正直言って、興味をそそられた瞬間は一度もなかった。テレビで見かけるメジャーなアイドルと比べると歌もダンスも、お世辞にも上手だとは言えない。地下ドルの売りとされている距離感の近さだって、アイドルに関心のない私にとっては何の魅力にもなり得なかった。

 そんな退屈なステージであっても、何もせずにひたすら棒立ちし続けているよりかは時間の経過もマシだった。現実に向き合う瞬間を三時間だけ先送りすることに成功したところで、すべての演目が終了したライブハウスを後にして、地上に戻った。

 そのときだった。背後から、ねぇ、と声をかけられたのは。

 物音に驚いたときの猫みたいに全身をビクッとさせながら、勢いよく振り返った先にいたのが、何を隠そう、後に私とユニットを組むことになる見峠日向だったというわけだ。

 この頃の日向はヘアスタイルを変える前で、私と似たような黒髪のロングヘアをしていた。今となっては銀色のボブカットがトレードマークの日向だけれど、黒髪ロングにセーラー服という絵に書いたような女子高生だった頃の姿も、充分に魅力的だった。あの頃は日向の容姿をまじまじと見つめる余裕なんてなかったけれど、ちゃんと目に焼き付けておけばよかったな、なんて後悔が今更ながら脳裏によぎった。


 さて、時計の針を日向と別れた後に戻そう。

 家に帰った後、私と親の間でなされたやり取りについては、本筋とは関係ないので割愛する。引き続き不登校の身の上に甘んじることとなった、という結論を語るだけに留めておく。

 翌日、私が目覚めたときには既に昼になっていた。両親はとっくのとうに出社していて、リビングから物音が聞こえてくることもなかった。ベッドから這い出して、鞄の底で眠ったままになっていたスマホを取り出して電源を入れる。

 両親からの長文のラインに紛れて、日向からのメッセージが送られてきていることに気がついた。ただでさえ重い心臓に、更なる重力がのしかかったのを感じた。

 ……これ、どうしよう。返事したほうがいいのかな。無視するのは流石に失礼だし。でも、こっちは好き好んで連絡先を交換したわけじゃない。下手にやり取りを続けてライブに誘われでもしたら、なんて言い訳をすればいいのかわからない。大体、あの子が連絡先をせがんできたのは私を地下アイドルのファンだと勘違いしたせいだ。私はアイドルなんかに興味はないし、本来ならあっちにだって、私なんかとラインをする意味はないはず。

 よし、ブロックしよう。

 そう結論づけたところで、でも、と思い直した。あの日、私は制服を見られている。私が通う(はずだった)高校を特定するのは容易だろう。そして彼女には、私の本名も伝えてある。連絡がつかないことに痺れを切らした日向が学校に押しかけてくるようなことがあったら、どうなるだろう。絶対に厄介なことになる。最悪、学校側から文句を言われるかも――

 いくら何でも考えすぎだ。骨の髄までネガティブに汚染された私でも、流石にわかる。だけどひとたび湧いた悪い予感を簡単に一蹴することができたなら、私は不登校になんてなってない。

 私は結局、ラインを返すことにした。送られてきていたのは、「よろしくね、三神さん」という当たり障りのない挨拶だった。私もそれに倣って「よろしく、日向さん」とだけ送った。たまたまスマホを見ているタイミングだったのか、既読は即座についた。数十秒遅れで返信も送られてくる。

「その呼び方、お上品な感じがする」

「なんで?」

「だって、名前にさんづけだから」

 一瞬、頭が混乱した。というのも私はこのとき、日向を「ひなた」という名前ではなく「ひゅうが」という苗字だと勘違いしていたのだ。

 日向のIDに「hinata」が含まれていたことで、勘違いにようやく気づいた。どうしよう、と思い悩む。真実を伝えれば、昨日の日向の話を聞き流していたことがバレてしまう。だけど私は、いきなり名前呼びをしてくるような距離感を弁えない人間が苦手だった。率直に言って、軽蔑してさえもいた。その手の連中と同じ行動をしてしまったということに、心がひどくざわついた。だけど日向はそうした行為に抵抗を覚える性格ではないらしく、「私も柚葉さんって呼んでいい?」などと軽率に訊いてくる。

 私は深々とため息を吐きながら、「いいよ」と返した。「やった」「改めてよろしくね、柚葉さん」「今からバイトの面接だから、また後で」という三件のメッセージを立て続けに送ったところで、日向からの連絡が途絶えた。

 私は再度、重苦しいため息を吐き出しながら、ベッドの上にスマホを力なく放り投げた。

 正直言って、日向に対する第一印象は悪かった。嫌いというより、単純に苦手だった。それも当然だと思う。性格が合わない上に、騙しているという引け目まであったのだ。これで親密になれという方が無茶な話だ。ブロックするのは気が引けるという罪悪感と、悪いのは本当のことを話せなかった私だという自責の念。その二つだけが、日向のラインに返信し続ける理由だった。

 不幸中の幸いだったのは、一日のラインのやり取りが昼と晩の二回のみに終止していたことだ。日向は部活こそやってないものの、アルバイトを精力的にやっているおかげでそれなりに忙しいようだった。四六時中スマホに張り付いて、こちら側が返信すれば即座にメッセージを返し、既読スルーでもしようものなら圧力をかけてくる。もしも日向がその類の人種だったなら、私たちの関係は数日で崩壊していたことだろう。

 私たちの間で交わされる話題は、ごく僅かな例外を除けばアイドル関連のみだった。根っからのアイドル好きな上、社交的な性格をしている日向のことだ。アイドルに対する熱を誰かと共有することに飢えていたのだろう。実際、「アイドルの話できる人とか、学校には一人もいないんだよね」「本当、柚葉と友達になれてよかった」なんて小っ恥ずかしいラインを送ってきたくらいだ。私というアイドル仲間を見つけた喜びは、ひとしおだったのだろう。

 とはいえそれは、あくまでも日向の勘違いに過ぎない。実際の私にはアイドルへの熱意もなければ、一ミリほどの知識もない。あれこれと話を振られたところで気の利いた受け答えをすることは不可能だ。

 でも、そこは不登校の面目躍如だ。私は有り余る時間を湯水の如く費やして地下アイドルの勉強をしまくって、どうにか窮状をしのいだ。

 日向からラインが送られてくるのは、昼と夜の一日二回。私は起床すると同時に昨夜に送られてきたラインを確認し、言及されている楽曲やアイドルについてひたすら調べた。昼までにどうにかそれらしい返答をでっちあげ、送信。昼過ぎになると日向からまたラインが送られてくるので、再度ネットの力を借りながら文面をひねり出し、夕方までに送信。すると日向がバイト終わりから寝るまでの間に再びラインを入れてくるので、翌朝にそれをチェックする。いつの間にか、これが私のライフワークになっていた。

 好きでもないアイドルのMVやSNSを何時間も漁り続ける。その作業は苦痛以外の何物でもなかった。人間の顔を見るのが苦手な私は、アイドルの自撮り画像を見ることに楽しさを見いだせなかった。音楽だって、それまでは映画やアニメのサントラか、ボカロみたいな機械音声しか聞いてこなかった。人間の歌に慣れていない私には、生の声帯から発せられた歌声は汗まみれの手で鼓膜を撫でられるような感覚がして、落ち着かなかった。

 そんな私の感情とは無関係に、知識だけは澱のように堆積していく。二ヶ月も経つ頃には、私の地下ドル知識は古参ファンにも遅れを取らないほどになっていた。

 その間にも日向とは二度、一緒にライブを見に行った。事前の予習が功を奏して、アイドルオタクへの擬態にはどうにか成功した。懸念していた日向との対面での会話についても、結局は杞憂に終わった。日向は聞き手に積極的に発言を求めてくるタイプではなく、自分の中の感想や熱を言葉にして発散したいタイプだ。私はただ、興奮冷めやらぬ面持ちで感想を語る日向の横顔を眺めつつ、機械的に相槌を打っているだけで良かった。その作業にはコミュ力もアイドル愛も必要ない。ボロが出る恐れは限りなく低かった。

 そのことに気づいてしまえば、日向との面と向かってのやり取りもさして苦痛には感じなかった。加工に加工を重ねたアイドルの自撮り画像を見るのは苦手だったけど、日向の横顔を一方的に眺めるのは嫌いじゃなかった。それは多分、日向の関心がアイドルのみに向けられていて、私個人には向いていないのだと心の何処かで気がついていたせいだろう。

 それを証明するように、日向が私の義眼や私生活に触れてくることは一度もなかった。同好の士と見れば初対面の相手にも臆さず話しかける活発さや、私がアイドルに興味がないという事実に気が付かない鈍感さ。こうした気質を備えている一方で、私が触れられたくないと感じている部分にはノータッチでいてくれる。そのアンバランスを意外に思うと同時に、好ましく感じている自分がいた。この人は、あのときの同級生とは違う。私のことを不用意に傷つけたりすることはないんだ、と。

 当時の私にとって、他人と時間を共有することは苦痛以外の何物でもなかった。誰かと会話するときには心臓がキュッと傷んで、息の詰まる思いがしたものだ。だけど、日向の隣を歩くときだけは違かった。変に身構えておく必要はなかったし、私が時折、客観的な分析に基づいて良かったと感じた点を口にすると、「わかる……!」と弾けるような笑顔で同意してくれるのも嬉しかった。私の反応で日向が喜んでくれている。その実感は、孤独を孤独とも感じないほどに一人に慣れきっていた私の心に急速に浸透し、ささくれた心臓を癒やしていった。

 出会い自体は不本意だった。付き合い始めたのだって嫌々だった。

 だけどいつの間にか、日向に絆され始めている自分がいるのも、また事実だった。

 とはいえ、この申し出を受けたときには、流石に閉口せざるを得なかった。

 出会ってから三ヶ月。初対面のときも含まれば四度目のライブを見終わった後の話だ。たまには一緒に夕食でも取ろうという流れになって、私たちは駅前のファミレスに入店した。ライブの感想もあらかた出尽くて、そろそろ解散する流れかなと思っていたところ、とんでもない爆弾発言が日向の口から飛び出した。

「あのさ。私達で一緒に、アイドルやらない?」

「……はい?」

 空いた口が塞がらなかった。比喩でも何でもなく、物理的に。

「実は私、ずっと自分でアイドルやるのに憧れてたんだよね。夢はお恥ずかしながら武道館」

「……いやでも、どうして私なの?」

「ほら、私達って二人とも根っからのドルオタじゃない? アイドルのこともアイドルファンのことも知り抜いているんだから、最高のアイドルになれると思うんだ。ね、どうかな?」

 どうかなと言われても困る。アイドルをやる気なんてさらさらないし、そもそも私はドルオタですらない。完全に脈なしだ。諦めて他を当たって欲しい。

 選択肢さえ発生し得ないほどに、一秒後の未来は揺るぎなく確定していた。だけどこの頃には、関係が途切れることに躊躇いを覚えるくらいには日向のことを憎からず思い始めていた。

 断ったらどうなるだろう。嫌われるかな。不愉快な気持ちにさせるかな。もう友達でいてくれなくなるかも。

 そのことを考えた瞬間、心臓がひときわ強く収縮し、傷んだ。

 それは嫌だ。私はもう、一人ぼっちにはなりたくない。

「……まあ、いいけど」

 声に出たのは、決まり切っていた結末とは正反対の、大嘘だった。

「っ、本当⁉ 本当にいいの⁉」

 日向が威勢よく口にして、テーブル越しに上半身を乗り出してくる。いつになく顔が近い。私は「うん」と曖昧に言いながら、サッと顔を伏せることしかできない。

「約束。絶対、私達二人で武道館の舞台に立とう」

 テーブルの上に放ってあった私の右手を持ち上げて、日向が小指を絡めてきた。

 無論、私に針千本飲み下す勇気なんてない。

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