最後にして最高のファンサ

 遡ること一ヶ月。今年一番の寒気が本州に流れ込んでくるとかで、東京に初雪が降った夜のことだ。

 初雪という言葉の持つロマンチシズムを意識したわけではないけれど、私たちはその日、日向の大学合格とワンマンライブの開催決定を祝した、ちょっとした食事会を催していた。

 お祝いと言ってもお互い懐に余裕はないし、お酒が飲める年齢なわけでもない。高校生にはちょっとだけハードルの高い、けれど社会人ならばお手頃と捉えるであろう価格帯の洋食屋でパスタを食べただけの、簡素なお祝いパーティーだった。

 行きはパラつく程度だった雪も、店を出る頃には本降りになっていた。黒色のアスファルトの上には、綿埃のような白い層が薄っすらと広がっていた。そのお店は住宅街の中にある隠れ家的なお店だったし、雪が降って冷え込んでいることもあって他の通行人の姿はなかった。

 私は折り畳み傘を持っていたけど、日向は傘を持ってきていなかった。小ぶりな傘に二人分の半身をどうにかして収めつつ、真新しい白雪の上に平行線を刻んでいく。足取りはいつもより心做しかゆっくりで、会話の頻度もそれに呼応するように少なめだった。

 二人きりでいるときの沈黙なんて、人生における気まずいひとときナンバーワンと言っても過言じゃない。だけど日向との間に落ちる静寂は、決して息苦しいものではなかった。それどころか適温のお風呂に身を沈めたときのような、気の休まる感覚さえあった。この世には心地良い沈黙もあるのだということを、私は日向を通して生まれて初めて知ったのだった。

「今更だけど、ありがとうね」

 その居心地の良い沈黙を破るように、日向が不意に口を開いた。唇の先では吐き出されたばかりの吐息が、白い蒸気となって暗闇の中にふわりと舞っていた。

「ありがとうって、何が?」

「アイドルやろうって誘いに乗ってくれて。あのとき話しかけた相手が柚葉で本当に良かったなって、改めて思ったから」

「ちょっと、急にどうしたの。私がトイレ行ってる間にお酒でも飲んだ?」

 からかうように私が言うと、日向はちょっと拗ねた調子で「茶化さないでよ、真面目に言ってるんだから」と文句を言ってくる。私は「ごめんごめん」と謝りながら、雪が降っていてくれてよかった、と内心で安堵した。頬が朱色に染まっているのも、寒さのせいだと言い訳することができるから。

「とにかく、これからもよろしくね、柚葉。ここから先の一年は、今まで以上に忙しくなると思うから。ハーンズとしての勝負の年になることは間違いないね」

「ん、そうだね」

 私は小さく頷きながら、横目に日向のことを見る。正面を向いている日向の視線を辿るように、左目を徐々に前方へとスライドさせていく。

 立ち並ぶ家々に挟まれた一車線道路は遠近法に従って狭まり、目抜き通りとの合流箇所で消失点へと収束している。その一点だけが、大通りから漏れ出る街明かりで奇妙に光り輝いていた。その様はなんだか、漆黒の夜空にぽつんと浮かぶポラリスのようでもあった。

 私は足元の雪をつま先で軽く蹴飛ばしてから、でもさ、と言葉を続けた。

「日向はだいぶ大変だよね。アイドル活動だけじゃなくって、大学にも行かなきゃなんだから」

「いやいや、大変なのは柚葉の方でしょ。ウェブマガジンの連載だけじゃなく、小説の依頼まで舞い込んできたんだし」

「小説の方はまだ確約ってわけじゃないけどね。原稿の完成度によっては、没になる可能性も充分あるから」

 後ろ向きな未来予測を口にする私に対し、「本当におめでとう」と日向は前だけを見据えた称賛を投げかけてくる。

「ありがと。印税で大金稼いで、ハーンズの活動資金に還元できるように頑張るよ」

 先程のネガティブを打ち消すように、柄にもなく大言壮語を吐いてみる。「それはまた大きく出たことで」と日向がクスリと吹き出した。

 このとき、日向の眼差しは私へと向けられていた。でもそれを正面へと戻した瞬間、日向はふっと両目を細めて、でも、と独りごちるような調子で言った。

「……そしたら私、ますます柚葉に頭が上がらなくなっちゃうな。ハーンズは、柚葉の文才のおかげで売れたようなところがあるし」

「え? そんなこと――」

「でもまあ、これで柚葉のアイドル人生は安泰間違いなしだよね! アイドルと小説家の二足の草鞋わらじなんて前例がないし、向こう二十年は誰ともキャラ被りしないだろうから」

 冗談めかして言いながら、日向が顔をこちらに向けた。チェキ会のときにファンに見せているような、晴れやかで曇りのない笑みだった。

 一瞬の沈黙の後、そうかもね、と私は返した。

 それきり静寂が訪れた。だけど今度のそれは長くは続かず、ものの数秒で日向が新たな話題を振ってきた。

「それにしても、柚葉が小説家デビューかぁ。なんか、いまいち実感が湧かないんだよね。小説家って身近にいるイメージがないからさ」

「別に、そこまで希少なわけではないと思うけど。小説家だって、アイドルと同じくらいの人数はいるよ」

「それはそうだろうけど、私、本とかさっぱり読まないからさ」

 もっともな話ではあった。熱心なアイドルファンなら沢山のアイドルの存在を認知しているし、SNSで私生活の一部分を垣間見たりもしている。だけど、ゴールデンタイムの音楽番組に出るようなメジャーどころしか知らない層にとっては、私たちのような二等星以下の地下ドルなんて世界に存在していないも同義だ。本を読む習慣のない日向にとって小説家という存在が遠いものとしか思えないのも、それと同じ理屈だった。

「私、小説なんて現代文の授業くらいでしか読んだことないや。それだって、内容なんて何一つ覚えてないんだけどね」

 私は逆に授業で小説呼んだ記憶が殆どない。そもそも学校に行っていないのだから当たり前なのだけど。

「あ、でも、中学の頃にやった『高瀬舟』は覚えてるな。文学作品の面白さとか私には正直わからないんだけど、あれだけは結構気に入ってるんだよね」

「そうなの?」

 意外だった。というのも、日向はホラーやスプラッタ系の物語が好きではないのだ。以前、二人で一緒に映画を見ようという話になったとき、私のサブスクのオススメ欄がホラー系ばかりなのを見て「バナーの画像だけで駄目だわ」と目を覆っていたのを覚えている。「ホラーが無理っていうか、グロテスクな描写が苦手なんだよね。私って痛いの苦手だからさ。血とか傷って見てるだけで痛い気分になってきて、それが駄目なの」とのことだった。私はそれ以後、日向と鑑賞会をするときには視聴履歴を削除してから臨むようにしている。

 言うまでもないことだけど、高瀬舟はホラーではない。近代日本を代表するれっきとした純文学だ。だけど作中には、主人公の男が弟の喉笛に突き刺さった剃刀かみそりを引き抜く描写がある。森鴎外が軍医だっただけあって、そこの描写がやけに真に迫っているのだ。音も映像もなにもないのにここまでの痛ましさを感じさせてくるなんて凄い、と読んだときには感心させられたものだった。

 そのことを指摘すると、日向は勢いよく耳を塞いで「思い出させないで」と言ってきた。あの場面が苦手なのは私の予想通りらしい。でもそれは裏を返せば、そのトラウマを打ち消すレベルで心に刺さった何かがあるということでもあった。

「私が『高瀬舟』を好きなのは、主人公の……えっと」

「確か、喜助じゃなかったっけ」

「そうだ、喜助だ」日向がぽんと手のひらに拳の側面を打ち付けた。「私、喜助の弟の気持ちが結構わかっちゃってさ。自分が病弱で働けないせいで兄に迷惑をかけちゃってて、心苦しい。でも喜助は優しいから、切り捨ててもらうこともできない。だから、潔く自分で首を切って死のうとした。……彼と同じ立場だったら、私も多分そうしてただろうなって。私は痛いの無理だから自殺とかはできないだろうけど、少なくとも似た気持ちにはなってた。要は、喜助の弟に感情移入しちゃったの」

 言って、日向が照れ隠しじみた笑いを浮かべる。

 自分の声帯から発せられた「そうなんだ」という相槌がやけにうつろに感じられたのは、多分、次に続けられるであろう言葉に察しがついていたからだ。

「……えっと、だからね。もしもこの先、私が柚葉の足を引っ張るようなことがあったら、そのときは潔く切り捨ててほしいかな、なんて」

 眼の前に、日向の背中があった。

 無意識に足を止めていたことに、そのときようやく気がついた。

 私のせいで傘の庇護下から飛び出た日向は、絶え間なく降る粉雪を全身に受けていた。だけど日向の髪は氷のような銀色で、全身を包むロングコートも鋼鉄のような灰色だった。頭や肩に付着しているはずの白雪は、背景の色に同化して視認できない。

 降りしきる雪の中に佇んでいるはずなのに、雪に汚されることはない。その立ち姿は本物の雪女と見紛うほどに幻想的で、ひどく心細い気持ちになった。

「ちょっと。急に止まらないでよ。寒いんだけど」

「あ、ごめん」

 大股で足を前に動かす。追いついた私が一旦足を止めて傘を横に傾けたのと、日向が右足を前に踏み出したのは同時だった。ワンテンポ遅れて私も歩みを再開させる。そこでようやく、私たちの歩行のペースが揃った。

「言っておくけど、さっきのは別れ話とかじゃないからね? ただの仮定の話っていうか、心意気の話だから」

 言い訳じみた口調で語る日向の双眸は、やはり正面に向いていた。瞳の指し示す方角にあるのは、一点の眩い光。大通りへの合流地点には先程よりも近づいているはずなのに、どうしてだろう。蜃気楼でも見せつけられているみたいに、その輝きの遠さには変化がなかった。

「だってさ、一方が一方の足を引っ張ってるなんて何だか気持ち悪いじゃん? だからもし、柚葉だけに夢の舞台に近づくチャンスが舞い込んできたら、そのときは遠慮しないでほしいって思うんだ。私も絶対に追いつくから。それで、いつかまた二人で一緒にライブができたら、二人で一緒に武道館の舞台に立てたら、嬉しいなって」


     /


「――だからですよ」

 そこまで話したところで、私は意識の向け先を過去から目の前の刑事さんへと移した。

「日向が自分で言ったんです。足を引っ張るくらいなら潔く切り捨ててくれって。なら、率先して殺してやるのが人情ってものじゃないですか?」

 刑事さんからの返事はなかった。でもそれは無視しているわけでも私が先を続けるのを待っているわけでもなく、どう返答するのかを考え込んでいる様子だった。

 私は大人しく、刑事さんが納得の行く言葉を見つけるのを待つ。

「事故のとき、見峠さんが三神さんの足を引っ張ると考えた保証はないと思いますが。お二人の認識が共通していたとは限らない以上、日向さんが必ずしも絞殺を望んでいたとは言えないはずです」

「その心配なら無用です。だって、当の本人が今際の際にこう言ったんです。『ごめん。これじゃキャラ、被っちゃうね』って。足を引っ張るという自覚がなければ、こんな遺言は残さないと思いますけど?」

 たっぷり十秒は費やされた返答を、一秒とかからずに切り捨てる。

 刑事さんは再び思案顔で黙り込んだ後、「……一応の筋は通りますね」と頷いた。

 その時点では、刑事さんの表情は相変わらずの仏頂面だった。しかしその直後、真一文字に結ばれていた口の端が引きつった。聞き分けの悪い子供相手に苛立ちを覚える大人のように。

 切羽詰まったように発せられた次の言葉は、「でも」という逆説の接続詞だった。その続きには察しがついた。どうせムキになって、だとしてもなんちゃら罪に抵触するだの倫理的に許される行為ではないだのと、誰にでも思いつくような反駁を捲し立ててくるのだろう。うんざりはするけれど、悪いことだは思わない。警察というのは社会正義の執行者であり、社会正義とは基本的には最大公約数的な正義のことを言うはずだ。警察が非凡な倫理観に則った発言をしようものなら逆に問題があるだろう。

「でも、貴方は嘘を吐いていますよね?」

 勝者の余裕じみた上から目線の考えに身を浸していたせいで、疑念をかけられているのだと理解するのに若干の時間を要した。

 私は心外だと言わんばかりに苦笑しながら、「ひどいなぁ」と大仰に肩を竦めてみせた。

「いきなり嘘つき扱いですか? まあ確かに、私の他に日向の遺言を聞いた人間はいませんからね。証明ができない以上、疑われるのは仕方ないのかもしれませんけど――」

「私が疑っているのは、その件ではありません」

 特段、声が張り上げられているわけではない。だけどそれは磨き上げられた日本刀のような鋭さで、私の軽薄な発言をいとも容易く断ち切った。

「遺言の話も怪しいと言えば怪しいですが、所詮は枝葉末節でしかありません。真実だろうが虚言だろうが、どちらでもいいことです。私が指摘しているのは遺言の件よりもよっぽど嘘臭く、なおかつ核心的な嘘のことですよ」

「……一体、何の話ですか?」

 思いのほか強張った声が出た。無意識のうちに眉間に皺が寄っていた。

「動機ですよ。三神さんが、見峠さんの首を絞めた動機」

 刑事さんは間髪入れずに、事前に台本を用意してきたかのような流暢な語り口で返した。私が何も言えずにいるのを見て取ると、刑事さんは格下の相手を機械的に追い詰めるプロ棋士のような容貌で、淡々と自説の続きを語り始めた。

「片目が潰れた見峠さんとはキャラが被る。アイドルにキャラの被りは厳禁。故に、事故後の見峠さんは武道館という目標を達成するための障害になる。それが三神さんの主張する動機です。でも、どう考えても矛盾していますよね、その理屈は。先程のお話にもあった通り、車に跳ねられた見峠さんは既に瀕死の重態でした。あと数分で息を引き取るのが明らかなのに、わざわざ絞殺する必要がありますか? たとえ奇跡的に一命を取り留めたとしても、アイドル活動が出来るレベルまで回復するとは考えにくい。アイドルでなくなるのならキャラクターの被りなんて問題にはなりませんから、この場合にも首を絞める必要性はありません。つまり、見峠さんを絞殺することで得られるメリットは限りなくゼロに近いわけです。一方でデメリットは、メリットとは比べ物にならないほど明確に存在している。事故で重傷を負った相方の首を絞め、息の根を止める。そんなことをすれば社会的名声に傷がつき、アイドル生命を断たれるであろうことは容易に想像がつきますからね」

 刑事さんはそこで一旦間を開けてから、「要するに」と推理のまとめに入った。一番の山場たる解決編には不相応なほど、平坦で感情の抜けた語り口だった。

「『武道館に行く』というのが動機なら、見峠さんの首を絞めるはずがないんです。なにせ、デメリットがメリットを圧倒的に上回っているんですからね。三神さんはまた別の動機に基づいて、見峠さんの首を絞めたに決まってるんですよ」

「……それは」

 事故当時は混乱していた。あくまで衝動的な犯行だった。言い訳はいくつか思い浮かんだ。だけどそのどれもがあまりにも安っぽく、声に出されるだけの価値を持ち合わせているとは思えなかった。

 ああ、駄目だ。やっぱり私は大根役者だ。

 日向との人前で喋る練習も、二年に渡るアイドル活動も、所詮は後付の矯正でしかない。私みたいな陰湿な根暗女がプロの刑事さんを騙して真実を隠蔽するなんて、できるわけがなかったんだ。

「あの、いきなりこんなこと言われても困るかもしれませんけど……、実は私も、三神さんに一つ嘘を吐いていました。本当は以前から、ハーンズのことを存じ上げていたんです」

「は?」

 陰キャ特有の脳内反省会が強引に断ち切られるほどの衝撃が走った。

「私、例の夏フェスにたまたま参加していたんです。目当ては別のグループだったんですけど、ハーンズのステージのときはちょうど時間が空いていて。時間潰しがてら、後ろの方から見ていたんです。例の義眼の演出もこの目で見ました。初見だったので混乱した部分もありましたが、この二人は何か普通じゃないことをやっている、という衝撃を受けたのは覚えています。家に帰ってからSNSやMVを漁っているうちに、他のアイドルにはない独特の世界観が癖になって、気づけばファンになっていたんです。ファーストアルバムも買いました。今度のワンマンライブも、有給取って参加するつもりでいました」

 今日一番の衝撃的事実を前に絶句する私を他所に、刑事さんは滔々と自白を続ける。先程までの堅い顔が嘘に思えるほどの神妙な面持ちになっていて、その顔はチェキ会で初めて対面したファンが向けてくる緊張と期待が入り混じった相貌そのものだった。

 私はたまらない気持ちになった。やめて。そんな切実な顔しないで。私と日向はいつだって、吸血鬼と雪女という設定を崩さなかった。あんた、私たちのファンなんでしょ? 本職の警察官なんでしょ? なら最後まで、刑事と容疑者という関係性を守ってよ。

「私には、どうしても信じられないんです。キャラが被るからなんて下らない理由で、三神さんが見峠さんの首を絞めるだなんて。お二人のSNSを見たり配信を聞いたりしていたら、嫌でもわかります。アイドルにありがちな百合営業なんかじゃなくて、この二人は真実、心が通じ合っているんだって。三神さんの話を聞いて、その気持ちはますます強固になりました。……だからどうか、本当のことを仰ってください」

 机越しに身体を乗り出しながら、熱っぽい眼を向けてくる刑事さん。私が言葉に詰まっているのを見て確信を強めたのか、刑事さんは更に声量を上げて続きを捲し立ててくる。

「私の推理をお話ししてみましょうか。ハーンズの黎明期についてのお話をした際に、三神さんは『死なば諸共』という言葉を口にしていましたよね。三神さんの動機は、それだったんじゃないですか。敢えてスキャンダルを起こすことで自身のアイドルとしてのキャリアを終わらせて、見峠さんとの仮想的な心中を図る。それが真の目的だったんじゃないですか。或いは、それこそ『高瀬舟』の喜助と同じだったのかもしれない。痛みに喘ぐ見峠さんを見ていられなくて、どうせ助かるはずがないのだから楽にしてあげようと考えた。見峠さんがドジな割には痛みに弱いのは、周知の事実ですからね。どちらにせよ、三神さんの犯行理由は見峠さんを慮ってのことだった。そうとしか考えれないんです。一人の刑事としても、一人のハーンズファンとしても」

 違いますか? と言わんばかりに真剣一色の眼差しを向けてくる刑事さん。その瞳から無意識に逃亡を図るみたいに、顔が自然と下を向く。下唇を噛み締めながら、机の下に置いた両手を力強く握りしめる。爪が皮膚に食い込むくらい、強く、きつく。

 ……本当に。これだから厄介なんだ、ファンというやつは。

「……わかりました」

 観念したように言いながら、私は小さく首を縦に振る。

「刑事さんの言う通りです。確かに私は、一つ嘘を吐いていました」

 今の一言で緊張の糸が緩んだと言うかのように、刑事さんの表情が緩んだ。

 そうして無防備に晒しだされた彼女の素顔に、私は現実という名の最強の矛を無造作に投げつけた。

「だけど、貴方の推理は見当違いです。私と日向の心が通じ合っていたことなんて、ただの一度もありませんから」

「――え?」

 ぽかん、と刑事さんの表情が固まった。

 当たり前のように信じ切っていた期待が当たり前のように裏切られ、現実を受け止めきれていないときの小学生。そんな表現が意味もなく頭に浮かぶ。対する私は足元にこぼれ落ちていく様が目に見えるような重苦しいため息を漏らしつつ、「これだからファンは嫌いなんですよね」と嫌味ったらしい言葉をこぼした。別段、悪意や作為に背中を押されたわけじゃない。面倒臭さが上限を突破した結果、理性というフィルターが活動を停止して思考がダダ漏れになっているだけだった。

「SNSも配信もステージもただの上辺に過ぎないっていうのに、その虚像を真実だと思いこんで勝手な妄想を拗らせる。あまつさえ、その思い込みを一方的に押し付けてくる。そういうの、迷惑千万も甚だしいです。貴方みたいな現実を直視できないファンが、私は一番嫌いなんですよ。反吐が出ます」

 言葉は思考の産物だけど、同時に思考そのものでもある。口先からこぼれ出た言葉の全ては骨を通って音の形で脳髄へと回帰して、私の思考回路を憂鬱とか嫌悪とか自暴自棄とか破壊衝動とか、そういう暗くて重くてどろっとした液体のような何かで満たして犯して埋め尽くして黒一色に染め上げていく。

 ――もういいや。ぶち壊してやれ。何もかも。

 チェキ会のときと同質の笑みを顔一杯に貼り付けて、今日一番の愛想の良さで今日始めての本心を、相手の目を見てハキハキとした声で最初に「あ」を挟むこともなく一息でぶちまけた。

「心中もクソもありませんよ。私にとってはアイドルも武道館も、どうでもいいことなので」

 私史上、最後にして最高のファンサービスだった。

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