彷徨う記憶

森本 晃次

第1話


 佐久間浩司が麻衣と出会ったのは、昼下がりというには、すでに日が西に傾きかけた頃であった。少し赤みが掛かった日差しだったが、赤いというよりも黄色い色のイメージが頭に残っているのは、西日の強さに目が奪われていたからであった。日差しに向かって歩いていたので眩しさを避けるように足元を見ながら歩いていたが、その時、自分の影が見えていることに、疑問を感じることがなかった。

 足元から伸びている影は限りなく暗黒に近いほどの黒さである。眩しさから目を背けるようにしているから、足元を見ていて、そこに影があるのを発見し、影を見ながらいろいろ思いを巡らせようとしているという経緯は分かっているのに、影があることの不思議さに気付くことはなかった。

 気が付いたのは、しばし見ていた影が、急に目の前から消えた時で、目の前に聳えるビルの影に、人一人の影など、ひとたまりもなかった。

 消えてしまった影を見て、

「あっ、そんな」

 と、思わず声をあげてしまった。それは、今から影を見ながらいろいろ思いを巡らせようとしているのを予感していたからであった。予感が、浩司にとってどれほど大切にしたいものかということを感じさせた瞬間だった。大切なものを奪われることは、いくらそれまで平常心でいられたとしても、精神に痛手を与えるものである。精神というものにバランスがあって、ちょっとした弾みで一端が崩れると、自分でも想像していなかったあられもない姿が、まわりの人に不愉快な思いを与えることを分かっていたのだ。

 まわりの人に気を遣っているわけでも、まわりから変に思われようとも、最近の浩司にはあまり気になるものではなかった。それよりも、そんな時に限って、まわりの人がやたらと幸せそうに見え、自分だけが不幸に陥りそうな気分になるのが嫌だったのだ。余計な気をまわしているだけのことなのだろうが、

――一人で周りの不幸を背負い込んでいる――

 という思いは、なぜか嫌ではなかった。同情されることを嫌うわりに、まわりからどう思われようが、結果的にまわりのためになっているようなことに対して、満足感を覚える。いわゆる自己満足というべきであろう。

 今年、三十五歳を迎えようとしていた浩司は、社会人として、中堅という年齢に達しているような気がした。

「百里の道を行く時、九十九里を過ぎて半分としなさいということわざだってあるだろう? 三十五歳なんて、まだまだこれからさ」

 今年四十五歳を迎えた上司に言われる。上司は部長職で、浩司は、やっと課長に昇進したばかりだった。

「そうなんですか? 僕にはよく分かりませんが」

 と口では言っているが、部長の言葉は、課長に昇進した浩司に対して、「舞い上がらないためにするための戒めの言葉だけとしか聞こえなかったことで、ついついつっけんどんな言葉になってしまう。

 そんな浩司の態度も部長にとっては手に取るように分かるのだろう。訝しがるわけでもなく、暖かい目を向け、

「まあ、あまり意固地にならないことだ。俺とお前は年齢が近づくことはないんだ。ましてや、追い抜くことなんか絶対にできないんだぞ」

 なるほど、浩司を部下として見る目に、距離が広がったり、狭まったりすることはないということなのだろう。部長の言いたいことは分かるのに、どうしても素直な気持ちになれないのはなぜなんだろう。縮まらない距離に苛立ちと、見上げることで自然と培われてくる尊敬の念を認めてしまうことへの照れ隠しのようなものなのかも知れない。

 最近、浩司はよく本を読むようになっていた。それまでは、新聞にしか目を通していなかった、新聞にしても、気になることは覚えているが、毎日ともなれば、半分は斜め読み。読んでいるようで、覚えていないのが本音だった。覚えていないのか、最初から読みながら他のことを考えているために最初から頭の中に残っていないのか、定かでないのは、その時に気持ちを持って行かないと分からないからであった。

 前任の課長は、他部署の部長として呼ばれて行った。出世というべきなのだろうが、それが喜ばしいことなのかどうか、浩司には分からない。今自分が課長職を拝命したが、やってみると、今までの第一線で引っ張っていく仕事とは、かなり違っている。

「今まで後ろで、部下が仕事をしやすいようにここまで気を遣ってくれていたんだな」

 と、感心させられた。それまでは、

「なかなか部下の要望を聞いてくれずに、叱責したり、文句ばかりを言っていたのに」

 としか思えなかった。叱責もするのは、さらに上の上司との間に課長というワンクッションを設けることになり、直接の責任問題になることまではなかった。そのことを自分がその立場になってやっと気づいた。まだ気付くだけでもいいのかも知れないが、前任の課長に対して済まないという気持ちと、これからの自分を思うと、どこまでできるかという不安がないわけではない。やはり上司からの叱責も食らわされることもあり、浩司にとっては気が休まらない日々を過ごさなければならないことは、苦痛以外の何者でもなかった。

 浩司はその日、仕事を定時に終わり、会社を出た。係長くらいの頃までの、第一線で活躍していた頃は、定時で帰るなど考えられなかった。だが、定時で帰るからと言って、仕事が楽になったわけではない。部下の手前、自分が早く帰らないと、誰も帰れないという悪しき習慣を脱却するためでもあった。だが、第一線の人間が、そう簡単に定時に帰れるわけではないことは分かっている。それでも、なるべく早めに仕事を片付けて、それでも終わらない時は、翌日早く来るようにする。おかげで、一番最初に出社して、一番最初に退社するのは浩司だったのだ。

 それでも、浩司は第一線が好きだった。やりがいという意味では、今はまったくなくなってしまった。毎日を忌々しい思いで過ごしているのも事実で、第一線の時も毎日の繰り返しだったが、今のような忌々しさはない。

「どこが違うというのだ?」

 やはり、やりがいの問題だろう。やりがいは、浩司の中では「自己満足」に属するものだった。浩司はそこまで思わないが、人によっては、自己満足は諸悪の根源のように思われている。だが、

「自分が満足しないのに、他人を満足させられるはずがない」

 というのが浩司のモットーであり、言葉には出さないが、誰もが大なり小なり同じ思いでいると思っている。それなのに、諸悪の根源であるかのように思われているのは、きっと習慣や伝統なるものが、存在しているからであろう。

 今の言葉を再度反芻してみた。

「自分が満足しないのに、他人を満足させられるはずがない」

 この言葉は、自分の中にあるセックス論とは反していた。どちらかというとサディスティックなところがあると思っている浩司だったが、普段のセックスは、あくまでも相手に満足してもらえることを目指しているからだった。

「そういえば、最近、女性を抱いてないな」

 どこにでもいる何の変哲もない顔立ちをしていると思っている浩司だったが、結構女性にはモテる気がしていた。一度に複数の彼女を作ったが、なぜか、罪悪感はなかった。なぜなら、彼女たちは、それぞれ自分以外にも浩司と付き合っていることを知っていたからだ。それも漠然と感じていたわけではない。ハッキリと知っていた。

 理由は簡単。浩司が自分から白状するからだ。

「今、他にも付き合っている女性がいるんだけど、それでもいいかい?」

 ある意味、ずるいやり方でもあった。女性が浩司のことを好きになって、告白までさせておいて、その段になってやっと告げるのである。卑怯であり、詐欺行為だとなじられても仕方がない。

 それでも女性たちは、浩司から離れることはない。実際に複数でデートすることもあったし、その都度女性たちは、

「こんなの初めて」

 と、その場の状況に置かれた自分を可哀そうというよりも、新鮮な気持ちで見ているのだった。

 そのセリフは、一人の女性から何度も聞く。普段のデートの時だけではなく、ベッドの中での今際の際で、あられもない声を上げている。そんな時、浩司は大きな満足感に包まれる。

「この瞬間が、女性を征服したような気持ちにさせられる」

 この思いが、浩司が自分のことを

「サディスティックなところがある」

 と思わせる部分であった。この瞬間だけがサディストだという思いにさせるわけではないが、少なくとも裸と裸の世界で征服感に包まれた時、自分の性を思い知り、自己満足というものが、悪いものではないことを感じるに至るのだった。

 仕事においてのストレスを、彼女たちで発散させる。彼女たちも、浩司に抱かれることで溜まっているものを発散できる。持ちつ持たれつである。

 浩司は、彼女たちの相談にも乗ってあげる。自分のことでなければ、的確なアドバイスもできるだろうし、彼女たちの中には、浩司以外と付き合っている女性もいる。

「どっちもどっちだな」

「そうね」

 苦笑いを浮かべるが、そんな時、浩司は複雑な気持ちに見舞われる。それはきっと相手も同じだろう。それをサラリとした会話で逃れるのが大人の会話だと思う。お互いに大人の会話に酔うことが好きなのだ。そんな女性が浩司にとって一番好きなタイプだったりするのだった。

 複数の女性と付き合うことが多い浩司だったが、主婦と付き合うことは今までにはなかった。敢えて避けていたわけではないが、知り合う機会がなかっただけだと思っているが、ひょっとすると、主婦の目線には、浩司という男性が危険な男に見えたのかも知れない。それだけ浩司のまわりには、危険な匂いのする男性に惹かれる主婦はいなかっただけに違いない。

 女性から好かれる理由は、

「浩司さんは真面目だから」

 というのが、もっぱらの理由らしいが、

「真面目なくせに、複数の女性と付き合っているんだぜ。とんだ真面目な男じゃないのかい?」

 とおどけた調子で言うと。

「まあ、その通りよね。でも、それでも浩司さんは真面目なのよ」

 そう言いながら、唇を求めてくる。こういう会話ができるのも、ベッドをともにしている時である。

 こういう会話が、ほとんどの女性との間で繰り広げられるのは面白いものだ。違う女性を抱いているのに、ベッドの中では、皆同じようなシチュエーションで、浩司もそれに応じている。ベッドの中では浩司の方から発言することというのはほとんどないだろう。女性の方から話しかけてきて、それに応答しているだけというのがパターンである。

 背が高く、スチュワーデスのような女性だったり、小柄で少しぽっちゃりの女性であったり、気が強そうな女性であったり、いつもおどおどしている女性であったり、複数の女性と付き合っている時は、いつも同じタイプの女性はいない。別に選んでいるわけではない。寄ってくる女性がたまたまそういう女性だったということだ。

「来る者は拒まず」

 これが浩司の信念で、さらには、言葉は悪いが、なかなかモノを捨てることのできないタイプでもあった。

 捨てることができないことを、物持ちがいいという言葉を言い訳に使っている。要するに整理整頓ができないのだ。女性に関して、その言葉が当てはまるかは分からないが、少なくとも今はうまくいっている。

「そのうち、大きなしっぺ返しを食らうかも知れないわよ」

 と言われることもあったが、

「その時は、君だけが残っていれば、僕は幸せさ」

 と言って微笑む。

「まあ、ありがたいことだわ」

 ニッコリと微笑む相手の女性は、今付き合っている中で唯一の年上の女性で、実は以前の上司であった。結婚を機に「寿退社」したのだが、二年もしないうちに離婚した。会社に復帰することもなく。派遣会社に登録し。派遣社員として、他の会社に勤めている。彼女のことを覚えている人も会社内には少なくなり、覚え散る人でもそのほとんどが。彼女は幸せな結婚生活を送っていると思っているに違いない。

「出会いって、本当に偶然なのかしらね?」

 年上の女性、名前を麻衣という。自分をサディストだと浩司が思うようになったきっかけとなった女性が、この麻衣だった。

「そうだよね。僕と麻衣の再会も、出会いの一つになるのかな?」

「なるわよ。だって、あの頃の浩司さんとも、私とも違うでしょう? あの頃は結びつくなど考えられないような仲だったと思うもの。浩司さんは、私のことが嫌いだったでしょう?」

 口元にいやらしい笑みを浮かべた。淫乱さとは違ったその笑みは。麻衣の特徴でもあり、麻衣が会社にいる頃、もっとも苦手だった笑みなのに、今では同じ笑みを返せるのではないかと思うほど、性格の似たところがあることを気付かされたのである。

 麻衣が浩司のことを、会社にいる頃から意識していたと聞かされたのは、最初に身体を重ねた時だった。出会いは偶然だったと今でも思っている浩司だったが、その日、喫茶店に立ち寄ろうと思った時の心境は、定かではない。

 夏の暑い日、確かに喉の渇きに精神的に耐えられないものを感じていた。ただ、もう少しいけば、馴染みのお店があったのだから、そこまで我慢できないこともなかったはずだ。その日も店の前で少し躊躇した。我慢できない気持ちと、馴染みの店の馴染みのドリンク、頭の中で比較もしたし、知らない店で今のような憔悴した状態で、どのような目で見られるか分からない状況を想像してみると、簡単に扉を開く勇気がなかった。

 思い切って扉を開いた瞬間、すぐに飛び込んできたのが、麻衣の顔だった。

「まさか」

 すぐにそこにいるのが麻衣だと分かった。バツの悪さが、浩司の脳裏を駆け抜けた。

「しまった」

 という思いを麻衣も抱いているのか、軽く唇を噛み、表情が凍り付いているように見えたのだ。

 だが、それも一瞬のことで、最初に表情を崩したのは麻衣の方だった。会社では見せたことのない含みのある笑みには、包容力が感じられた。引いた血の気が一気に戻ってきた浩司も同じように微笑み返す。その表情は麻衣に負けないほどの満面の笑みを返していたに違いない。

「本当に浩司さんは真面目だわ」

 麻衣も他の女性と同じことを言ったが、麻衣が浩司の満面の笑みを気に入った証拠であり、それは他の女性の感じる真面目さとは少し違っているように思うのだった。

 真面目さとは、自然と滲み出るものだとすれば、麻衣のセリフもまんざらでもないかも知れない、確かに、意識して真面目を装うようなことはしていないが、一度意識してしまうと、そこから先はわざとらしさが見えてきても仕方がないものであった。

「君は真面目だね」

 と言われるのが、一番嬉しかったのは小学生の頃だった。

 中学生になって、真面目だと言われると、苛めを見て見ぬふりをしなければいけなくなった。中立の立場が一番無難であることは分かっていても、中立を保つと、

「見ていた連中も同罪だ」

 と言われる。かといって、逆らっても損するばかりで、次の苛めの対象が自分になりかねない。真面目だと言われると、逆らえない人間をイメージしてしまう。どうしていいか分からず、じっとしていることが無難にやり過ごす秘訣である。見て見ぬふりをするほど、辛いものはなかった。

 大人になるにつれて、真面目さがまた脚光を浴びるように思えた。ただ、無駄なことはしたくないという思いと、何が無駄なのかということを考える頭は別であった。

 ただ、真面目なだけの人間が社会に出ると、今度は用無しだと思われている。誰もができることをできても、バイトで賄えるではないかと言われてしまえば、それきりだった。麻衣と知り合ったのは、そんな真面目な性格を今一度思い返してみようと思った時だった。

「ひょっとすると、麻衣と出会ったことで、真面目な自分を振り返ってみようと考えるようになったのかも知れない」

 そう思うと、どんどんその思いが深まってくるのである。麻衣の出会った相手がその時は真面目を追い求める人間ではなかったかも知れないと思うと、出会いが本当に偶然ではなかったのかということが、曖昧になってくるから不思議だった。

 麻衣が他の女性と違うと感じたのは、きっと自分の好みが微妙に変化し始めた時に知り合った相手だからだと思っていたのだが、実際には違っているように思う。確かに女性の好みは、その時々で変わってきたが、実際には浩司にとって女性の好みというのは存在せず、好きになった人がその時の好みだと思い込んでいたのかも知れない。

 基本的な好みがないわけではないが、好み以外の人を受け入れないわけでもない。どんなに好みの相手でも、相手がこちらを好きになってくれなければ、よほど生理的に好まない相手でもかい限り、好きになってくれた人に靡くのは当然ではないだろうか。それを男の性だとして考えるか、それとも、優柔不断と考えるかは、また人それぞれの感覚であろう。

 麻衣の場合は、相思相愛に近かった。どちらが先に好きになったかは分からないが、

「あなたが、好きになってくれたから、私も好きになったのよ」

 と言われると、

「違うだろう。君が先だよ」

 と、浩司は答えるが、それ以上の好きになってくれたから好きになったという言葉を発しない。それは浩司自身が、本当に自分の方が先に好きになったのかという自問自答を繰り返して、自信をもって答えることができないからなのかも知れない。

 また、浩司の性格からして、返事を返す時に、

「君が好きになってくれたから、好きになってあげたんだ」

 という、最初はへりくだった言い方でも、最後は恩着せがましい言い方になってしまうことを懸念していた。売り言葉に買い言葉というのは、まさしくそのことなのかも知れない。

 麻衣という女性は、浩司の前では性格が一定していなかった。普通は逆で、他の人に対して一定していない性格を示していても、自分に対してだけは、一徹したものがあるのが、今付き合っている女性たちであり、今まで付き合ってきた女性たちでもあった。そう思うと浩司は、自分が麻衣に興味を示した理由が分かってくるのだった。

「僕が女性に興味を持つのは、その時々で理由があるんだ。ただ、その時に感じたことは、すぐに忘れてしまうのが、ちょっと困ったところなんだけどね」

 酒を呑みに行って、酒の肴に女性の好みや、女性に対する態度の話が出た時、浩司が話したセリフだった。酒に酔っていたからといって、出まかせを言ったわけではない。しらふになってからも、今でも、そのセリフはしっかりと覚えているのだ。

 麻衣との待ち合わせはいつも駅だった。彼女が寿退社してからしばらくして、麻衣は浩司を一度見かけたという。浩司は、まったく麻衣に気付かなかったが、麻衣は浩司から目が離せなかったという。その頃から、麻衣と旦那の間に少し不協和音が感じられたという。亀裂に繋がるなど思っていなかったというが、それだけに、どう転ぶか分からない状態で、一番不安が募っていた時期だったに違いない。

「浩司さんに、本当は胸の奥の苦しみを取ってもらいたくて、声を掛けようと思ったんだけど、できませんでした」

「どうしてだい? 声を掛けてくれればよかったのに」

 麻衣が声を掛けられなかった理由は何となく分かった気がした。

「だって、幸せな結婚をしたと思っている人に、今さら言えないでしょう? しかも、相手が浩司さんならなおさらのこと。私がまだ結婚を迷っている時にも、一番相談しやすいと思ったのは浩司さんだったんだけど、一番してはいけない相手だと思っていたのも事実なんですよ」

 と、はにかんだ笑顔を見せた。要するに、麻衣は浩司のことが好きだったのである。

 結婚相手と天秤を掛けたわけではないだろう。天秤を掛けて、顔に出さないようにできるほど、麻衣は器用な女性ではない。それは、親しさを増した今だから分かることではなく、前から分かっていたことだ。親しくなったことで、確信に変わったというべきなのだろう。

 麻衣は、結婚してから趣味を持った。何事にも不満のない頃は、専業主婦で満足していて、旦那のためにすることすべてが自分のすべてだったのだ。

「趣味を持つというのは、気を紛らわすことを前提としているもので、私には無用のものだって思っていたのね。でも、旦那との距離を感じはじめると、最初に浮かんできたのが趣味を持つことだったというのは、私にとって幸いだったのかも知れないわ。離婚するまでの時間が長くなったのは事実なんだけど、それよりも一人になってからの自分を見失うことがなかったのは、きっと趣味という世界を垣間見ることができたからなのかも知れないわ」

 麻衣の趣味は、絵画だった。デッサンに近いもので、油絵のように大げさなものではない。イラストに近いものでもあるが、簡単にできて、出来上がったものに一番満足を与えられるのがデッサンだったのだ。

 デッサンは、見ようによっては奥が深い。描いている時の自分を見ることができないが、きっと少年のような目の輝きを放っているのではないだろうか。

 デッサンでは色を使わない。鉛筆書きの濃淡で、色や風、さらには息遣いや情景までも見る人に思い浮かべさせなければならない。最初に全体をイメージしてから、細かいところに入っていくのだが、細かいところを描いていると、本当に風や、植物の息吹を感じることができるようだ。

「実際の目で見ていて感じることのできないものを、私は絵によって表現するのよ。我ながら素晴らしいと思うわ」

 自己陶酔に浸る麻衣の横顔は、実に素敵だった。ベッドの中で乱れ、自分の腕にしがみついてくるオンナと同じ女性なのかと思うと、思わず溜息が漏れる。それは、自己陶酔に浸っている女性が、その時だけ自分の支配の中から抜け出してしまったかのように思えることに対しての嫉妬であった。

 麻衣の最大の魅力、それは笑顔だった。特に浩司に向けられた笑顔は、他の誰に対してのものでもない。また、浩司が付き合っている女性たちそれぞれの笑顔に魅力を感じるが、麻衣の笑顔は、本当に満面だった。ただ、時々浩司を見つめる笑顔の後ろに、誰かを意識しているように思えてくるのは気のせいであろうか。

 一度、聞いてみたことがあった。

「麻衣の笑顔って最高だよね。でも、僕に対しての笑顔だけ特別なの?」

「ううん、そんなことないわよ。誰に対しても平等のつもり。でもその中で浩司さんに対しての笑顔が特別だとすれば、私は嬉しいな。本当は、浩司さんに対しての笑顔が特別であってほしいっていつも思っているんだけど、本人としては、この人だからっていう贔屓目な気持ちはないのよ」

 確かにそれも麻衣の特徴だった。誰に対しても分け隔てのない表情は、誰からも好かれる麻衣の魅力だった。

 デッサンの時は、真面目な表情をしている。一点を見つめて、それを素直にスケッチブックに描くのだ。だが、それを知っているのは浩司だけだろう。麻衣の描くデッサンは特徴がありすぎて、原型をとどめていないことさえある。

「私は素直な気持ちで描いているだけなのよ」

 そんな麻衣の気持ちを知ってか知らずか、麻衣の絵を密かに芸術の域だと思っている人も何人かいた。もし、麻衣の気持ちをその人たちが知ったらどうだろう? 芸術の域が見せかけに思えてしまうのだろうか。それとも、やはり芸術の域だと思うのだろうか。浩司は前者であってほしいと思っていた。もちろん、麻衣にはそんな気持ちでいることを話してはいないが、麻衣にとっては、前者であってほしいと思っている浩司を、求めているのかも知れない。

 いつもの駅での待ち合わせの時間は曖昧だった。普段は拘束しないというのが、お互いに暗黙の了解だった。

「待った?」

「そんなことはないよ」

 というのが、いつものセリフ。少しだけ遅れてくるのが、麻衣だった。

 悪びれた様子はない。かといって、待たせて当然と思っているわけではない。浩司は待つことを苦にしない。それを麻衣は分かっているからだ。

「必ず来てくれると分かっている人を待つのって、意外と快感なんだよ」

「へえ、そうなの? 私には分からないわ」

 と口ではいう麻衣だったが、実際は分かっていた。旦那と離婚して、浩司と出会うまでに他の男性と付き合ったことがないわけではない。その男性からいつも待たされていた。しかも、遅れてでも現れる可能性はほとんどなかった。それでも待ちわびている自分に対して惨めだと思うことはない。

「人を信じることが、その時の私には一番大切なことだったのよ」

 と、浩司に話した。

 麻衣は、浩司に隠し事をしないようにしている。実際に隠さなければいけないこともなかったし、それが浩司を愛している麻衣の証でもあったのだ。浩司も麻衣のそんな気持ちが分かるから、そのことについては何も言わない。

「麻衣が勇気を出して打ち明けてくれたことだ。僕がどうこう言うことではない」

 と、少々冷たく言い放ったが、麻衣にはありがたかった。下手に優しさを込めて言われると、余計に後ろめたくなってきて、言い訳がましく相手を見てしまうからであろう。

――勇気を出して――

 というところを分かってくれていることが、麻衣には嬉しかった。麻衣が発する言葉に対して、浩司は必ずと言っていいほど、麻衣が嬉しく思う言葉が含まれている。

――私はそんな浩司さんを愛しているんだ――

 と感じる麻衣だったのだ。

「お腹が減ったね」

「うん、もうぺこぺこ」

 この会話もいつものことだった。ただ、この言葉の裏には、

「僕は君を抱きたい」

「ええ、受け止めて」

 という意味が含まれていた。違う言葉で表現することが却って二人の間に欲情を芽生えさせ、秘密めいた雰囲気をまわりに醸し出しているのが、心地よかった。

 麻衣はベッドの中では従順だった。普通にデートしている時は、あくまでも対等。そんな相手でないと、麻衣の相手は務まらない。嫌気が差して麻衣から離れるようなオトコであれば、本当の麻衣の魅力を知ることはできないだろう。

 従順という言葉、浩司は好きだった。浩司に対して従順な女性は、自分に対しても嘘をつくことはない。それが浩司には嬉しかったのだ。

 麻衣と出会うまで、従順という言葉の本当の意味を知らなかった。ただ、自分のいうことに逆らうことなく、ただただそばにいるだけというのをイメージしていたが、それだけではないようだ。

 そんな女性も浩司は嫌いだというわけではない。むしろ、学生時代まではそんな女性の方が好きだった。少しでも言い訳や逆らったりされると、こっちが身構えてしまう。それが浩司には嫌だったのだ。

「犬と猫、どっちが好きなんですか?」

 と聞かれると、迷わず、

「犬の方が好きです」

 と答えるだろう。理由を聞かれると、

「人懐っこさが好きなんですよ。猫は何を考えているか分からないところがありますからね」

 と、答えていたが、最近では少し違っていた。やたらと愛想がいい犬と違って、猫は本音でぶつかってくれているように思う。犬と猫、どちらが人間に近いのかと聞かれれば、迷わず、

「ネコの方じゃないんですか?」

 と答えることだろう。人間でも下手な媚びを売る人をまともに信じてしまっていたら、いつ酷い目に遭うか分からない。それを思うと、信じようとさせられるのは猫の方に思えてならなかったのだ。

「でも、ネコって冷たいところがあるじゃないですか。それも自分勝手だっていうイメージがあるんだけど」

 と、言っていた女性がいた。

「でも、男性にとっては、ただ黙って自分のいうことを聞いているだけの女性というのが物足りないと思っている人も多いかも知れないですよ」

 浩司は、完全に犬と猫の話を、男女の話へと置き換えてしまっていた。まるで最初のきっかけを忘れてしまったかのようであるが、これは巧みな誘導でもあった、相手が女性であれば、自分が猫を好きだというと、相手の女性も知らず知らずのうちに浩司の話術の中に嵌ってしまう。

 その典型が麻衣だったと言ってもいい。

 麻衣と出会うまで、浩司は、一人の女性以外を好きになることはなかった。

「一人を好きになったら、他の人を好きになるなど、考えられない」

 と言っていたが、それは間違いだった。一人を好きになったら、その人を自分がどこまで好きなのかということを確かめたくて、余計に他の女性を知りたくなる。それは、本命の女性を見ている目で見つめることで、初めて感じることのできるものだ。相当器用でないとそんなことができるはずがない。最初は浩司も他の女性を見ている目を何とか隠そうとしていたが、隠そうとすればするほど、ぎこちなくなってしまう。

――相手はそれだけ僕のことを真剣に見てくれているんだな――

 と思うと、本当は、好きな人だけを見つめていればいいはずなのに、浩司は敢えて、自分が他の人に目が行ってしまっていることを告白した。

――嫌われるかも知れない――

 という思いがあった。かなりの勇気がいることであったが、ここを乗り越えない限り、本当に好きな人と、ここから先、もっと好きになって愛し合っていくことなどできないと思うようになっていった。

 そんなことは、浩司の勝手な思い上がりに違いない。自分でも分かっているのだが、そんな自分の性格や隠し切れないことで相手に悟られる前に告白したことで相手が遠ざかっていくのであれば、

「それはそれでここまでの相手だったんだ」

 として諦めるしかないだろう。

 浩司は、麻衣と付き合い始めて自分に対して感じたことが二つあった。

「僕って、こんなに器用なところがあったんだ」

 という思いと、

「決意するまでは結構時間が掛かるが、一旦決めてしまえば、そこから先揺らぐことはないんだ」

 という思いであった。

 一言でいえば、開き直りという言葉で言い表せるものであるが、浩司の場合はそれだけではないようだ。

「浩司さんのセックスは、浩司さんの性格そのもののようね」

 たった今、絶頂を迎えたばかりで、神経がまだ上の空の状態の時、麻衣の口から、まるで勝ち誇ったように出てきた言葉だった。それはたっぷりと浩司の支配する時間の中で踊らされていた自分と浩司をビックリさせてやろうという気持ちの表れであったかのように思えるが、きっと最初からこのシチュエーションで、口に出して言ってみたいという思いがずっと前から芽生えていたに違いない。

 浩司は、自分のセックスが淡白だと感じたことは一度もない。女性から淡白だと見られたこともなかった。

「だけど、時々虚しくなるんだよな」

 と、麻衣に愚痴のようにこぼしたことがあったが、それを聞いた麻衣は、口元に笑みを浮かべ、

「あなたは疲れているのよ」

 と言って、その胸に浩司の顔を自ら埋めるように押し付けた。

 悲しいわけではないのに、涙腺が緩み、とめどもなく流れる涙が、麻衣の胸を濡らした。麻衣はそんな浩司をただ抱くだけで、必要以上のことは何も言わなかったのだ。普段はどちらかというと自信過剰なくらいの浩司である。

「僕は自信過剰なくらいがちょうどいいんだ」

 と言っていたが、心の中では、どこまでの自信が自分のものなのか分かるはずもないと思っていた。それは誰もが思っていることで、要は、自分に自信が持てるか持てないかというだけの違いである、

「その人の性格だ」

 と言ってしまえばそれまでだが、一度持つことができた自信は、よほどのことがない限り、なくなることはないだろうというのが、浩司の考え方だった。麻衣にも話をしたが、

「それが浩司さんという人なのね」

 と言って感心してくれた。その時の麻衣の笑顔の奥に、怪しく歪んだ唇が浮かび上がっていた。

 麻衣は離婚の理由を浩司に話すことはなかった。浩司も敢えて聞かないようにしていたが、本当は聞きたくてうずうずしていた。聞かないのは、遠慮や気を遣っているからではなく、かといって、聞くことの勇気が持てないわけでもない。聞いてしまうことで、麻衣が自分のそばから離れていくという妄想を、浩司は頭の中で描いていたからであった。

「どうして、あなたは結婚しないの?」

 と、麻衣に聞かれたことがあった。麻衣の声が心なしか震えていたことから、勇気を持って思い切って聞いてみたという思いが伝わってくるようだった。それは、浩司がどういう答えを出すかに対しての怖さというよりも、浩司の中で、結婚しないことへの何かしっかりした理由があることの方が怖いようだった。

 そう感じた理由は、浩司が口を開こうとした瞬間、

「いや、いいのよ。無理に聞いているわけじゃないから、答える必要はないわ」

 普通なら、

「自分から聞いておいて、何という言い草だ」

 と言われても仕方がないだろう。だが、その時の浩司は、正直麻衣が口を開かせないようにしてくれたことで、助かったと思った。もし口を開いていれば、浩司は自分が何を言ったのか想像もつかないからだ。考えがまとまってもいないのに、言葉を発しようとするなど、それまでの浩司から考えられないことだった。

――何とか、答えを引き出してあげないといけない――

 という麻衣への思いが、浩司をジレンマへと導いている。何と何のジレンマなのかは定かではないが。少なくともジレンマに陥りそうになるようなものが、その時の浩司の中に二つ以上蠢いていたことは確かなようだ。

 浩司の中で、結婚しない理由として、一つあったのは、

「結婚したいと思う年齢を通り過ごしてしまった」

 というものだった。

 これは、浩司だけではなく、一般的な意見であったが、浩司の中では、それ以外にも理由が存在し、意識してはいないが、大きなものであるというのは確かなものだという気持ちはあった。それがジレンマの片方になっているのではないかと思っているのだ。

「結婚という言葉に縛られたくない」

 という思いもあった。結婚を「言葉」として考えてるところがある。それはまるで立体を平面としてしか見ることができない感覚に似ている。立体の一角だけを見ているわけではなく、全体を見ているはずなのに、実際には一方向からしか見ることができないということを示しているかのようだ。

 立体を平面でしか見ることができないというのは、全体を見ていることを自覚させるものでもあった。たとえば、結婚と離婚、まったく正反対のように思えるが。浩司はそうは思わない。

「ニワトリが先か、タマゴが先か」

 という禅問答に似ている。決して交わることのない平行線の上を歩いているかのようだ。

 麻衣は小柄でスリムであったが、胸の張りは服の上からでもよく分かった。しかし、実際に触れて、揉んでみなければ分からない弾力を誰のものでもなく、自分のものだけにできたことを、浩司は自慢げに思っている。

 身体の相性は抜群だった。お互いに初めての快感を貪った最初の夜。二人は初めて誰にも話したことのない話に明け暮れた。

 一人の話が終わると、身体を貪る。落ち着くと、今度は相手が話を始める。そのうちに身体か心か、どちらの快感に酔いしれているのか分からなくなってきた。

「私、何かおかしいわ」

「身体がかい? 心がかい?」

「そのどっちも、身体の感覚は完全にマヒしているように思えるの。それなのに、震えが止まらなくなってきたのはどうして?」

 見つめる目は求めているというよりも、お互いに貪っているものが何なのかを探っているかのようだった。浩司を見上げる目には涙が滲む。頬は真っ赤に紅潮し、すでに一人では身体を制御できなくなっているかのようだった。

 麻衣は、結婚に失敗したとは思っていない。少なくとも、浩司の前では、結婚経験のない未婚女性を思わせる。あどけなさの中に、無邪気なのだが、どこか無鉄砲である。怖いもの知らずの雰囲気に、

――これが僕の女性の好みだったのかな?

 と、疑問符が膨らんでくる。

 麻衣との待ち合わせの後、火照った身体を持て余しながら、麻衣は浩司から視線を逸らそうとしない。まわりから見ていると、どこか不思議なカップルに見えるかも知れない。無邪気で、鼓動の止まらない胸を誰にも知られまいとしながら、必死で大人びた態度を取ろうとする。それが浩司には滑稽に見えたが。可愛らしさから、いとおしさに変わっていく瞬間に思えるのだった。

 二人の食事は、麻衣が常連としている店だった。常連といっても、店の人と話をするわけでもなく、

――いつも通ってくるお得意様――

 という程度のものではないだろうか。それだけに浩司に対する好奇の目は尋常ではなかった。どうやら、麻衣にはその視線を感じる余裕などなかったかも知れない。ただ、自分が普段どんなお店に立ち寄っているかということを知ってほしかっただけなのかも知れない。

 浩司にも馴染みのお店があった。一軒だけではなく、数軒あるが、そのどこにも他の人を連れて行ったことはない。一人になれる空間を以前から欲していたので、その時々で新しいお店が増えていき、学生時代の頃から数えて数軒の馴染みの店ができたというわけだった。

 最近できた馴染みの店では、結構常連客と話をするようになった。しつこく話しかけられるのはあまり好きではなく、鬱陶しさから、邪険な態度を取ってしまうことも少なくなかったが、その店で話しかけてきたのは、一人の初老の男性で、自分が考えそうなことを先に言われてしまい、それでもイライラしてこないのは、その男性がまるで将来の自分を見ているようだったからだ。

――これが将来の自分?

 と、思うと正直がっかりだったが、次第に憎めない男性だと思うようになってくると、今度は自分から話をしてみたいと思うようになっていた。

 その頃にはすでに麻衣と知り合った後だったので、頭の中が麻衣一色だったところに、急に忍び込んできたその人は、実に新鮮な感じがした。

「君は恋をしているようだね」

 肯定も否定もできない問いかけに、ただ黙っていると、その男は微笑みながら、

「恋というのは、人にいうものじゃないって思っているかも知れないけど、そんなことはないんだ。自分を求める人がいて、自分も求める人がいる。素晴らしいことじゃないかね?」

 と、無精ひげに白髪混じりの髪の毛と、ギラギラした目線は年齢を若く見せるだけの力がありそうに見え、淡々と話す中で、説得力を伴うのも、納得がいくものだった。男性の言葉を感じながら、思い浮かべた麻衣の姿は、普段感じている麻衣とは、また違ったいでたちだった。

 とても真面目そうに見えない麻衣の姿が、目を瞑った瞼の裏で、生真面目な少女のように見える。はにかみを感じるが、それは淫靡なものではなく、少女のような清楚な雰囲気が醸し出されたからだった。

 麻衣が、旦那の話をするようになったのは、最近のことだったが、浩司には最初辛いものとなるだろうと思われたが、今では辛い思いをすることはない。

「僕は、結局、君の元旦那に勝てないんだな」

――交わることのない平行線――

 そう感じた時、年齢を思い浮かべた。年齢だけは絶対に追いつくこともなければ追いつかれることもない。そのことを麻衣に話すと、

「そんなことはないわよ。私が愛しているのは、浩司さんだけだから」

「じゃあ、どうして最近になって、元旦那の話を僕の前でするんだい?」

 麻衣に対して高圧的な態度に出ることのなかった浩司は、高圧的な態度に出られる自分に複雑な気持ちを抱いていた。元々嫉妬心が溜まってくることで、一気に爆発させる気持ちは、「発散」という言葉にふさわしかった。爆発は、発散の起爆剤である。ただ、最終目的が発散では、少々寂しい気もしていた。

 麻衣は、少し黙り込んだ。何かを言おうとしていて、なかなか出てこないのは、適切な言葉が見つからないというよりも、タイミングを計っているように思えていた。

「私の元旦那。事故で死んだの」

 衝撃的なセリフをあっけらかんという人が最近増えている気がしていた浩司だったが、重苦しい空気をわざわざ作り出して言葉に発するのも麻衣の性格なのかも知れない。言葉を選びながら考えている麻衣はじれったく見えるわけではない。どんな言葉を発するのか、麻衣の答えを待っている時間が長く感じられることもあれば、あっという間に過ぎてしまう。重苦しい空気に包まれたその時は、時間が長く感じられた。

 聞いてしまったことを後悔した浩司だった。聞かなくてもいいことを聞いてしまったと後悔の念がこみ上げてくるが、後悔が重苦しい空気と同調し、麻衣のもう一つの、浩司しか知らない麻衣が現れる。

――二重人格というのは、誰もが持っていて、親しい人にしか見えない種類の人格があるから、二重人格者は特定の人間にしか現れないのかも知れない――

 麻衣は続けた。

「私は知ってたんだ。最初から、事故で死んだって聞いた時、その助手席に誰が乗っていたかということは想像できた」

 麻衣の旦那を、新婚の頃に見たことがあった。とても浮気をするような人には見えなかったが、人は見かけによらぬもの。しかも、人は時間が経てば変わるものだという意識が強かった頃だった。ただ、旦那が麻衣の本当の姿を知っていたかどうかが、疑問だったのだ。

「旦那は君が知っていたことを、知らなかったのかな?」

「知っていたかも知れないわ。でも、まったく顔に出さなかった。元々プライドが高い人だったから、彼にも意地があったのかも知れないわね」

 プライドの高さが、麻衣との距離を一定に保っていたのかも知れない。麻衣にも負けず劣らずのプライドがあるが、麻衣のプライドは負けてはいけないというものであって、明らかに女性らしさだった。

 男性のプライドは、負けてはいけないという気持ちよりも、絶えず「紳士であることのプライド」だったようだ。紳士というのは、女性から見たものと、男性から見たものとでは、かなり見方が違っている。

 女性から見るものは、頼りがいがある男性というイメージで、男性から見ると、女性に対して優しい態度が取れる人だと思える。頼りがいのある男性は、同性に対しては気を遣うことなく自然に接することができ、まわりに人が寄ってくるオーラを持っている。

 麻衣にとって、旦那は「紳士」だったという。

「死ぬ前まで紳士だったのかも知れないわね。だからこそ、私はあの人との離婚を決意したのかも知れないわ」

「紳士のプライドというのは、どういうことなんだい?」

「それは女性から見て初めて分かるものなのかも知れないわ。だからあなたに話したとしても、完全には理解されないものなのでしょうね」

「じゃあ、僕には紳士のプライドが存在するように見えるかい?」

「いいえ、あなたには感じないわ」

「どうしてなんだい?」

「あなたの中にある優しさは、きっとあなたにしか分からないんだわ。私は分かっているつもりなんだけど、きっとそれは幻なのよ」

「どうして言い切れる?」

「私があなたしか見ることができなくなったから、一人の人を愛するということは、盲目になるということじゃないと思うの。盲目になってしまうと、私自身、自分のことが見えなくなるから……」

 麻衣の言葉には説得力があった。だが、麻衣の言葉を理解できるのも浩司しかいないかも知れない。

 麻衣という女は自分を大切にする女だ。浩司は男だろうが女だろうが、自分を大切にできる人が好きだった。浩司自身、自分のことをあまり大切にするタイプではない。自分が可愛いと思うのと、自分を大切にできるのとでは違うのだ。

「私、奴隷に憧れたことがあるの」

「奴隷?」

「ええ、性的奴隷とでもいうのかしら? 私が誰かのものになるというシチュエーションを何度か抱いたことがあるの。その中には浩司さん、あなたもいたのよ」

 奴隷などという言葉、麻衣が口にするなど信じられなかった。

 誰かに委ねたい、慕いたいという気持ちは、女性だけのものではない。また、女性の中には、男性を縛りたいと思っている人も少なくないだろう。ただ、縛られたいと思っても奴隷という言葉には抵抗を持っていて、切り離して考える人は、男女とも多いに違いない。どちらが多いかは疑問であるが、妄想を誇大にするのは女性の方が強いと思うと、ついていけない男性は、理性が強いのかも知れない。

 理性を紳士のステータスのように思っている男性もいるだろう。むしろ、女性がそういう目で見ているのかも知れない。

 紳士という言葉にも段階があるのかも知れない。

 小説に「起承転結」があるように、成長期があって、どこかで自覚する時期が必ず訪れる。自覚する時期は成長が止まって見えるかも知れないが、それだけではない。微妙な成長は、自覚を遅らせるためのものではないかと思うが、自覚を遅らせることで、興奮を抑える効果があり、余計に想像を膨らませることができるのだ。

 麻衣の旦那にも紳士的なところを感じ取った。麻衣が離婚したと聞かされた時、あまり揉めなかっただろうことは想像できた。理由がどちらにあるにせよ。揉めることはないと思った。麻衣の性格からすると、もし、非が旦那にあるとすれば、その元の原因を作ったのは自分だと思うことだろう。そのあたりが浩司と似ている。何かあった時、まずは自分に何か原因があると思うことが浩司には多い。ただ、それは浩司がまわりに対して一歩引いた目で見ているからだろう。普通なら自分を一歩下げて見るところを、浩司はまわりを遠ざけてしまう。そのせいで、神秘的なイメージが曖昧に描き出され、ぼやけた影が。そのまま実層として植え付けられ、すべてが大きく浮き彫りにされる。

 奴隷に憧れていると言った麻衣。癒されたりいとおしく思われたりすることには、今まで何度も経験していることで、慣れているに違いない。今まで経験したことのない興奮を味わってみたいと思うようになったのも、離婚という人生の節目が危険な憧れを作り上げてしまった。

 性的な奴隷。それは浩司の中にある異常性癖を呼び起こした。独身であることで、いろいろな女性と知り合うきっかけはあったが、実際に知り合ったのは、普通の恋愛対象の女性だった。

 複数の女性と一度に付き合うことができるのは、特技のようなものだと思っていた。特技というのは、悪びれた様子がなく、自分だけ特殊だという発想がないことだった。

 最近、それでも複数の女性を絞ろうと思っている。まるで企業が行う業務効率化を目指した支店の統廃合を行うような感覚だ。減らした中で、残った人との濃厚な付き合いを目指そうという考えだ。

 だが、浩司には誰を残すかということを選ぶことができないでいた。それは女性に対する未練というよりも、浩司自身の性格によるところが大きかった。

 きっかけとなる性格は、整理整頓ができないということだった。

 整理整頓ができないと、ごみを捨てることを躊躇ってしまう。何が必要で、何が不要なものなのかを、いざとなると見極めることができない。そのままごみが溜まってしまうことで、さらに整理がつかなくなる。それが悪循環となって、ごみと必要なものが混在した形で、乱雑に散らばめられてしまうのだ。

 散乱した部屋の光景は、そのまま浩司の頭の中を示していた。往々にして本人はそのことに気付いていない。ただ、最初に整理できなかったことが悪循環に繋がっていることは分かっている。最初が肝心だと分かっているくせに、何事も同じことを繰り返している。

「ひょっとして、複数の女性と付き合うことになったのは、僕の役得などではなく、整理整頓できないという悪いくせが招いたことではないのだろうか。いい思いをしていると今は感じていても、そのうちに大きなしっぺ返しを食らうのではないか」

 と思うようになっていた。

 ただ、それでも悪いことはあまり考えないようにしようというのも浩司の性格の一つで、鈍いくせに、都合の悪いことは蓋をしてしまう。性格的には、あまりたちのいい方ではないのかも知れない。

 それでも、一人の女性と別れることができた、彼女の名前は里美という。里美とは、浩司が複数の女性と付き合うようになった最初から、その人数の中に入っていた。それだけ長く付き合った相手である。

「そろそろ三年になるか」

 これが、里美を選んだ理由であった。

 心が痛まないわけではない。だが、これは一度は通らないといけない道だと思った。

「もしここで里美と別れなければ、取り返しのつかないことになるかも知れない」

 漠然と浮かんだ思いが次第に暗雲に包まれていく。まるで、暗黒の世界の中に立ち上る白い煙がシルエットとなって、いずれかともなく消えていくのを見つめているようだった……。


 里美と出会ったのは、雨の日の夜だった。

 少し残業して会社を出た時、表はさすがに真っ暗で、しかも時雨のような雨が降っていた。傘を差さないとさすがに濡れてしまう。道のところどころに水溜まりができていて、なるべく踏まないように歩くようにしていたが、駅までのいつもの道は裏路地で、薄暗い通路では、なかなか難しかった。

 神経は足元に集中していた。ただ、裏路地と言っても、歩く人は意外と多い。浩司と同じようなことを考えている人が多く、しかも、誰もが早歩きだった。

 それは雨の日であっても変わりはなかった。ビチャビチャと足元から水飛沫が上がる。水溜まりを気にせず、歩くスピードを変えずに歩く人ばかりで、少なくとも裏路地に入り込む人たちは、どこかに共通点を持っていて、共通点が薄くとも、まわりから見ると同じような性格に見えてしまうのだろう。

 裏路地という空間に存在する人は、誰もが通行人だった。裏路地で佇んでいる人を、晴れた日であっても見たことがない。他の裏路地に関しては分からないが、浩司が使っている裏路地に関しては、どこも似たりよったりであった。

 裏路地から表通りに出るまでに、三つの裏路地を抜けることになる。二つ目の路地を反対側に曲がると、そこには飲み屋街や、風俗街があった。浩司は飲み屋街、風俗街に通ったことがないわけではないが、裏路地から入ったことはない。必ず表通りから入ることにしていた。

「裏路地から入るのは、気持ち悪いんだよな」

 裏路地から入ったことがないくせに、裏路地から風俗街の横を通り過ぎる時は、必ず風俗街を見つめていた。最初は意識してだったが、今では無意識にである。日課となってしまっては、頭の中で、勝手に無意識のスイッチが入ってしまうのだ。それだけに意識はなく、時々見たことにハッとすることがあるのだった。

 里美と出会ったのは、そんな時だった。

 その日の雨は冷たかった。昼間は天気がよく、気温もそこそこに上がっていたので、まさか雨が降るとは思えなかった。朝、天気予報を見た時、

「昼間はいいお天気ですが、夕方からの突然の雨にはご注意ください」

 と、女性の気象予報士の話だった。

「気象予報士の女の子って、どうして皆可愛いんだろうな」

 と、いつもと同じ疑問を頭に浮かべながら、漠然と見ていた天気予報である。

「天気予報も、結構当たるものだな」

 と感心していたが、それは今までの的中率を頭から消したうえでの、その時に感じた思いをそのまま表現しただけだった。

 いつものように風俗街を横目に見て、二番目の路地を通り過ぎようとした時、風俗街と反対側の柱の陰に、一人の女性が佇んでいるのが見えた。それが里美だったのだ。

 里美は、最初、浩司に気付いていないようだった。底冷えする雨の中、ずっと佇んでいたのだろう。まるで寒さに震える子猫のように、背筋や肩を丸めて震えている。

 震えている様子は、近づく前から感じていた。里美が浩司に気付いた瞬間、震えがピタリと止まり、相手が浩司であることに気付くと、また身体を小さくして、震えはじめたのだ。

 近づくにつれ、里美が子猫に思えてきた。やっと浩司に気付いた里美の表情は、一瞬こわばったが、すぐに人懐っこい表情に変わり、浩司を安心させた。雰囲気とのギャップから人懐っこい表情に見えたが、実際には目は潤んでいて、何かを求める顔色は、青ざめていたようだ。

 表情の確認にも困難なほど薄暗い中で、よく潤んだ眼だと分かったものだ。よく見ると、顔色がカメレオンのように少しずつ色が変わっていく。右側は赤いのに、左側が青く、次第にどちらかに色が偏っていくように移動している。実に気持ち悪さを感じさせる光景だった。

 だが、それもすぐにどうしてなのか分かった。分かってしまえば、

「何だ、そういうことか」

 と感心したが、色が変わるのは、浩司の背後に立ち並んでいる風俗街のネオンサインが原因だったのだ。

「見事なグラデーションだ」

 広告デザインには少し興味のある浩司だったが、さすがに風俗街のネオンサインには興味を示さなかった。その割りに毎日気になってしまうのは、心のどこかで風俗を軽視していたのかも知れないと、思わざるおえなかった。

 ネオンサインに照らされ、グラデーションを自らの顔に刻んだ里美の表情への第一印象は、やはり気持ち悪さだった。しかも表情はかなり暗く見えている。性格的に暗い女性であることは分かったが、なぜか浩司は里美が気になって仕方がなかった。

 気になって顔を見ていたが、歩みを止めることはなかった。里美も浩司に気が付いてから、浩司が目の前を通り過ぎるのを目で追っている。身体は震えているにも関わらず、しっかりとした視線である。どこか挑戦的な表情に見えるのに、すがるような目をしているようにも思えた。次第に挑戦的な視線よりもすがる目の方が強く感じられるようになり、思わず、浩司は歩みを止めた。

「しまった」

 声に出したかどうか、ハッキリとはしないが、表情には明らかに狼狽が表れていたに違いない。

 この時、浩司には里美と、ここまで長く付き合うことになるとは思っていなかったが、その場で終わるような思いもなかった。気になってしまったが最後、「しまった」という声にならない言葉を発したのは、歩みを止めてしまったことに対してなのか、それとも、里美に対して感じた予感に対してのことなのか、すぐには分からなかった。

 里美は誰かを待っているわけではなかった。ただそこに佇んでいるだけだったが。浩司を見つめる前は。風俗街のネオンを見ていた。

――まさか、風俗街への扉を開くつもりなのか?

 と感じた瞬間、浩司の背筋がゾクゾクとした。何か暖かいものが流れてきたような気がしたが、次第に冷えてくるようにも感じられた。

――このまま放っておけない――

 里美に声を掛けるきっかけになったのは、その思いからだった。

 最初にどんな言葉を掛けたのか、覚えていない。それなのに、声を掛けた時に感じていた思いだけは思い出せた。

――捨てられたネコのようだ――

 この思いが一番強かった。

 ノラネコを拾ってきたような感覚なのかも知れない。声を掛けてから、話を始めるようになると、浩司の頭の中では優越感がみなぎっていた。それは、

――僕がこの可哀そうなネコを救ってあげるんだ――

 という押しつけがましい思いであった。上から目線になってしまうのは仕方がないのかも知れないが、そこまで感じさせたのは、背後の風俗街から照らされているネオンサインが原因かも知れない。

「どうして、ここに?」

 核心にはなるべく触れないようにしないといけないと思いながら、声を掛けていくつか質問したが、何も答えない。そこを敢えて核心に迫ってきいてみると、

「私、どこも行くところがないんです」

 と、質問の答えではないが、初めての回答だった。里美はひょっとすると、この答えができる質問を待っていたのかも知れない。言いたいことを言えずに我慢することは、結構苦痛になるものであることは、浩司にも分かっているつもりだった。

 お客を取っている女性にはとても見えない。全身の震えは怯えであり、お客を取っている女性であれば、いきなり自分が行くところがないとは告げないだろう。

 浩司は、ありがちな質問をしたいとは思わない。聞いても、答えてくれないだろうと思うからだ。だが、どう対応していいのか分からない。里美が行くところがないと答えてくれたのも、浩司の質問に対して、ただ思い浮かんだことを答えただけなのかも知れない。ただ、本来なら切羽詰った状態であるにも関わらず、答えた時には、驚くほど落ち着いていた。まるで他人事に見えたくらいだ。

 無言で、手を握った時、想像以上に冷たかった。

――いつから、ここにいるんだろう?

 と思われるほど冷たかった。自分の手まで凍り付いてしまいそうな冷たさに、自分の顔がこわばってくるのを感じると、堪えていた震えが急に襲ってきた。それは寒さや冷たさからくるものではない。里美を最初に見つけた時に感じた震えだった。里美に近づくうちに次第に震えを忘れてしまったが、残っていた感触が、我慢していたことを感じさせず、その代わり、我慢によって引き起こされた震えの増幅だけが、時間を超越して現れた気がしたのだ、

 震えは最初、大きなものだったが、次第に小さくなっていった。しかし、小さくなる過程で、小刻みな震えは、大きなものから、激しいものへと形を変えた。

 子供の頃、浩司はどこの子供にも経験があるだろう、子猫を拾ってきて、密かに飼おうとしていた。親に言っても、

「捨てていらっしゃい」

 と言われるのがオチだと思っていたからだ。

――自分だって、子供の頃があったはずだ。その時に子猫を拾ってきて、飼いたいと考えたことがあったはずだ――

 と思ったが、口に出すことはなかった。これを口にすれば、きっと親と喧嘩になるはずだ。なぜなら、親が答えられない質問をしているからだった。

 その時はしてやったりだと思っても、長い目で見れば、何のメリットも自分にはない。最後は大人の子供に対しての優位さで押し切られてしまってはどうにもならないからだ。最終手段に訴えられてしまっては、子供に勝ち目はないし。大人としても最後の太刀を浴びせることは、パンドラの函を開けてしまったと言っても大げさではないくらいに後味の悪いものとして残るだろう。

 それが、親子の確執になってしまうことは否めない。実際に少しずつではあったが、親子の確執が見えていて、いつ亀裂となるか、そうなれば、一触即発を招いてしまいそうで恐ろしかった。

――でも、子供の頃に、そこまで考えていたとは思えないけどな――

 と子供の頃を振り返るが、実際には自分が感じているよりも、当時は大人の考えを持っていたのかも知れない。そう思うと、大人になるにつれ、

――だんだん大切なことを忘れていっているのではないか?

 と感じることがあったが、その思いが現実味を帯びてきているようで、仕方がない。

 整理整頓ができない性格と、子供の頃の捨て猫を拾ってきた時の経験を思い出すことで、里美を家に連れて帰えろうと思ったのだ。一人暮らしなので、誰に遠慮もいらないし、防音効果は最初から部屋選びの最優先項目だったことが今となっては、ありがたいと思ったものだ。

 それからしばらくは、里美との蜜月生活が始まった。少しの間だけだったが、部屋の中に染みついた里美の匂いは、抜けることがなかった。

 落ち着いてから里美は仕事を始めた。最初は部屋代として浩司に渡していたが、

「そろそろ一人暮らしができるんじゃないかい?」

 というと、里美は少し寂しそうな表情になったが、

「うん、そうだね」

 と答えた。

「別に別れるわけではないから、心配いらない。僕はいつでも里美のそばにいるよ」

 というと、表情が明るくなり、里美は無言で大きく頷いた。

 里美は余計なことを口にしない方だった。言葉がいらない場面をしっかりと心得ている。ただ、それは浩司だから分かることなのかも知れない。他の人が相手だと、

「何を考えているのか、よく分からない」

 と言われることだろう。

 里美が一人暮らしを始め、浩司は自分の部屋がこれほど広いものだったのかと、思い知らされた気がした。

――大は小を兼ねる――

 というが、この場合は当てはまらない。広さは冷たさを含み、湿気を含んでいた。誰かがまだいるような感触を残したまま孤独な状態なのだ。一人取り残されたという思いは究極の寂しさを残し、部屋に充満していた。こんな気持ちになるだろうということは覚悟はしていたが、想像以上の冷たさに、部屋を広く感じてしまう自分の感覚が恨めしかった。

 寒く冷たい部屋だったが、なぜか里美の匂いだけが残った。甘く女性独特の匂いだが、その中に、動物的な匂いも残っていた。

「やっぱり、捨て猫だったのかな?」

 などと、くだらないことを口に出して言ってみたが、口に出したのは、自分の心の中では絶対否定の思いがあったからだ。敢えて声に出すことで、もう一人の自分に思いを気付かせ、否定してもらいたいという気持ちの作用が働いたのかも知れない。

 そのせいか、この部屋には今までに誰もつれてきたことがない。それは女性だけではなく、男もであった。

――この部屋を知っているのは、里美だけなんだ――

 それも、この部屋にいた時の里美であり、一人暮らしを始めてからの里美ではない。一度一人暮らしを始めた里美がこの部屋を訪れたいと言ったことは一度もない。この部屋に来たいと里美に言われたら。浩司は一体どうするのだろう?

――連れてくることはないかも知れないな。何とか理由をつけて、来させないようにするだろう。もうこの部屋も里美も、一緒に住んでいた時とは違うんだ――

 これは浩司にとっての「けじめ」であった。このけじめは、浩司だけではなく。里美にも味わってもらわなければならない。里美はもう味わっているかも知れない。時々里美が「けじめ」という言葉を口にするが、味わっている証拠ではないだろうか。

――ただ、里美の中のけじめとは何なのだろう?

 浩司との関係ではないようだが、それは浩司の知らない里美の一面ではないだろうか。

――そういえば、僕は里美の何を知っているというのだろう?

 一人でいるところを拾ってきて、一緒に住まわせた。一緒にいれば情が湧いてくるというが、情が湧いてくることはなかった。もちろん、愛し合っている時は、里美しかいないことが最高の幸せだと思っているし、里美がいれば、他には何もいらないとさえ思えていた。

 里美には従順という言葉は似合わなかった。

――そばにいて、まったく違和感のない。まるで空気のような存在――

 だが、一たび身体を重ねると、

――痒いところに手が届き、自分の思考能力がなくなるほどの快感を与えてくれる女性――

 麻衣と一緒にいる時に、

――僕はサディストだ――

 と思わせるが。里美と一緒にいる時には、逆にされるがままであった。余計な力や頭を使うことなく里美のそばにいるだけが、一番の快感であった。

 下手に動けば快感が薄れていく。完全な減算方式。最初が百で、動くたびに百から減っていくのだ。どんなにじっとしていても、最後には七十残ればいい方だろう。動けばそれがすぐに半分以下になり、どんどん減っていく。ただ、ある程度まで減ってくると、ゼロに近づくことはない。微妙なところで残ってしまうのだ。

 ゼロになると、新しく生まれてくるものがあるはずなのだが、中途半端に残ってしまう。これほど辛いことはなく、まるでヘビの生殺しのようではないか。それでも我慢できる自分は、里美との相性がよく、されるがままになる快感を知っているからだ。それはそのまま自分にはサディストだけではなく、マゾヒストの気もあることを示していた。サディストとしての資質は麻衣だけに対してではないが、マゾヒストとしての資質は、里美に対してだけ見せる自分の一面であった。

 里美が浩司の部屋にいたこと、そして今里美と付き合っていることは、誰にも言いたくない。里美の存在自体を知られたくない。ひょっとすると里美という女性は、浩司の前だけに存在する人間で、他の人からは見えていないのかも知れない。浩司にとっての里美は、頭の中だけに刻み込まれた幻なのではないかと思えて仕方がなかった。

――余計なことを考えたらいけない――

 里美に対して疑問や存在の否定を考えることはやめにした。考えると里美は浩司の前から離れていくような気がするからだ。

――それでもいい――

 里美のことをあれこれ考えてしまって後悔の念を抱き始めると、すぐに浩司は自分の中で否定し、成り行きに任せるべく、それでもいいと思うのだろう。これは決して開き直りではなかったのだ。

 浩司が里美のされるがままになっていて我慢できるようになったのは、年齢のせいもあるかも知れない。それまでは、自分から行動を起こさないと我慢できないタイプだった。基本的には、自分から行動するのが浩司の性格なのだが、そんな中で、されるがままという快感を覚えられる自分がいることに気付いたのは、年とともに落ち着いてきたからなのかも知れない。

「浩司さんは、元々気が長い方なのよ」

 普段はあまり口を開かない無口な里美も、ベッドの中では積極的で饒舌だ。しかもその話はほとんどが的を得ていて、何度目から鱗が落ちる気分にさせられたか分からない。里美によって教えられたことも数知れず、それだけでも里美と知り合ってよかったと思っている。

 一人暮らしを始めた頃の里美は、何にでも興味を持っていた。まるで中学生の女の子のように感情をあらわにし、喜怒哀楽の激しさを表に出していた。行くところがないと言って泣いていた「捨て猫」ではもはやなくなっていた。自分が解放してあげたことで自分のことのように嬉しい気分であったが、少し自分から離れたような気がして一抹の寂しさがよぎったのも事実だった。

 里美の過去について、その時であれば聞けたかも知れない。その時の里美なら、笑って話してくれたかも知れないと思ったが、逆にせっかく明るくなった里美が、自分の一言で急に冷めてしまって、元のように無口で怖がりになってしまったらどうしようという思いもあった。

 今度は無口で怖がりなだけではない。完全に殻に閉じ籠ってしまうだろう。しかも一番大きな殻を形成する相手は浩司に対してである。

 ひょっとすると浩司以外に誰か拠り所になる人を見つけるかも知れない。それならそれで救われる気分になるが、男として、果たして耐えられるだろうか? それを思うと、浩司はとても里美に過去のことを聞き出す気にはなれなかったのである。

 ただ、後になって少し後悔した。

――あの時に聞いておけば――

 それは一度、里美がいなくなったことがあった時だった。仕事でどうしても我慢できない辛いことがあり、急にいなくなったのだ。一人で頭を冷やしたかっただけと言って、翌日には戻ってきたが。その時、

――里美の過去について少しでも聞いておけば、探し場所もあったのに――

 と思ったのだ。

 結局は、聞いていても何の手がかりにもならなかったが、その時の思いが頭に残り、それが後悔になってしまった。一度ならず二度までも聞きそびれてしまうと、三度目はないも同然だった。

 里美が浩司に内緒で、病院に通っている時期があった。それは神経内科で、浩司は何度、そのことについて里美を問い詰めようとしたか分からない。病院に問い合わせたとしても、病院側の答えは決まっている。

「個人情報なので、お話するわけにはいきません」

 肉親でもない者に、病院が答えるわけにはいかない。もっとも、肉親であっても、病院は答えるだろうか? それほど個人情報というのは大切なものである。

「守られるはずの個人情報がこんなに恨めしいなんて」

 これでは守りたい相手を守ることができないと、地団駄を踏みたくなるほどだ。浩司は自分の力のなさを痛感し、じれったさに、唇を噛み切ってしまうほど噛みついていた。

 それでも一度苦しさを通り超えると、感情が発散されるのかも知れない。逃げに回ったと言われればそれまでだが、里美のことを気にするあまり、自分の感覚が次第にマヒしていった。里美のことをあまり気にしなければいいんだという結論に達したのだが、そう簡単に割り切れるものではない。

 その頃、今まで気にならなかったまわりの女性の目が気になり始めた。

――なんて不謹慎なんだ――

 里美のことを気にしていると言いながら、実際はまわりの女を気にしてしまう自分に口惜しさを感じる。だが、これも人間らしさだと思うと、納得がいくが、里美はいつもと変わらず、静かな雰囲気を保っていた。

 そのうちに今まで浩司にだけ見せていた態度が少し鳴りを潜めてきた。他の人への態度と変わらなくなってきたと言った方がいいのか、浩司にとって、辛く悔しいものだった。

 こうなれば、浩司は何も遠慮することはない。他の女性と仲良くなることも否めないと思い始めると、今まで見えてこなかったものが見えてきたようで、急に明るくなった視界が新鮮に感じられるようになった。

 本当は、里美の態度は、里美にとっては苦渋の選択だった。そうでもしないと、自分が分からないことに押し潰されてしまう。その時、里美は自分が記憶喪失であることを、やっと自覚していたのだ。

 里美に対して遠慮のあまり、過去のことを何も聞かなかったことが、浩司にとってあだになった。少しでも聞いていれば、里美が記憶喪失であることが分かっていただろう。しかも、聞かなかったことで、里美に自分が記憶喪失であることの発見が遅れてしまったのだ。遅れれば遅れるほど、本人にとって気が付いた時に訪れるショックの大きさも分かるはずないだろう。

 里美は、病院通いしていることを浩司に話さなかったのは、浩司に話すと余計な気を遣わせてしまうという工事への配慮と、余計な気を遣わせてしまうことで、自分の中に背徳感を持ちたくないという思いとが交差していたからだろう。きっと後者の方が大きかったのではないかと浩司には感じられた。なぜなら、自分がもし里美の立場であれば、きっと後者ではないかと思うからだった。

 浩司には、相手に対して気を遣うことを嫌うところがあった。自分一人の痛みをまわりの人に知られたくないという思いからである。足が攣ってしまった時、なるべくまわりの人に知られたくないと思う。それは下手な同情をされ、心配そうな表情を浮かべられると、必要以上に痛みを感じるからである。できるならそっとしておいてほしい。心配そうな表情は、余計本人に不安感を抱かせるからである。

 里美のことが分かったのは、里美を追い詰めて白状させたからではない。病院で話をしてくれるはずはないということは分かっているので、病院に聞く選択肢はありえない。後は本人に問いただすしかないが、それも傷口に塩を塗り付けるようで、できるわけもない。何とか、里美が話しやすい状況を作ってあげることだけしかないが、それはしばらく知らぬふりをしておくしかなかった。

 待っている時の苦痛は、

――自分のことだったら、これほど苦しむことはないのに――

 と思わせるほど、辛いものだった。確かに自分のことであれば、ここまで辛いことはないだろう。では、その違いは何なのか、言わすと知れている。

――痛みが分からない――

 あくまでも、親身になったとしても、自分のことでなければ痛みは分からない。それだけに人が苦しんでいる姿を見るのは辛いものだ。理由が分かっても、痛みが分からないと、下手な助けは却って相手に対してためにならないだろう。

 浩司はその苦しみを顔に出してはいけない。浩司が苦痛の表情を見せるのは、里美からすれば何に浩司が苦しんでいるのか分からないだけに、苦痛なのだ。要するに、お互い相手を想って、苦痛を分け合っている形になっている。ただ、それは決して交わることのない平行線と同じで、どちらかが歩み寄らない限り、消えることはない。それならば、敢えて苦痛を背負い込むのは浩司の方だと覚悟していたのだ。

 だが、逆にストレートに聞いてみるという選択肢もあったはずだ。最初に打ち消したのは、まだまだ考えが浅い時だった。次第に考え抜いていく頭の中では。最初に否定したことがよみがえってくることはない。選択を誤ったというより、仕方がないことだったのだ。今さら言っても後の祭りではあるが、決断を誤れば、事態の悪化を招くこともあるということが分かってきた。

――里美という女性がもしいなかったら、僕はどうなっているだろう?

 と、考えたことがあった。

――何人もの女性と付き合っている中の一人――

 というだけでは割り切れないものがあった。

 いないと気になってしまう。そばにいる時は、いて当然だという意識なのだが……。

 果たして最初からそうだったのかと聞かれると、絶対に違っていたはずだ。最初に感じた里美への思い、それは、

――神秘的な女性――

 というイメージだったはずだ。

 確かに、今まで出会った中では、里美のような女性はいなかった。

「行くところがないの」

 と言われた時に、ドキッとしてしまったのを、忘れてしまったというのだろうか。

 優越感だけではなかったはずだ。可愛らしさ、いじらしさ、怯えながらも浩司を慕っている目は、本物だったはずだ。何とかしてあげなければいけないという思いは同情だったかも知れない。「いけない」という言葉がついている時は、同情から自分の中で義務を課していたのかも知れないが、それ以外は、里美に対してのいじらしさと、いとおしさからの自分の内側から出る愛情だったに違いない。里美が次第に浩司に馴染んでいき、話を対等にできるようになった時には、

――他の人には表さない態度を、自分にだけしてくれるんだ。それが里美の僕への愛情表現なんだ――

 と思った。

 本当は、知り合ってからの最初の頃のことを思い出すこと自体、里美にとって重荷になっているのかも知れない。自分のことで分からないことが多いわりには、鋭いところがあったりする。いや、却って自分を分からないだけに、まわりに敏感になり、気を遣うことで敏感になっているのではないだろうか。そう思うと、里美という女性が気の毒に思えてきた。

――いや、それでは結局同情に立ち返ってしまう――

 では、一体どうすればいいというのだろうか……。

 里美の記憶が戻ることは、本当であれば喜ばしいことだが、そのことに浩司は決して触れようとしない。

「もし、過去に傷を持っていれば、わざわざ今さら掘り起こすことはないんだ」

 というのが、浩司の考えで、そのことに、まわりもあまり口出しできないでいた。

 それだけ、浩司と里美の間にはまわりの人が入り込めない空間があった。丸く広い空間があり、その中のどの位置に浩司がいて、里美がいるか、分からない。浩司だけが里美をよそに、遊びまわっている感覚があるのだが、実は里美は、浩司の気持ちを分かっていて、見逃していたのだ。下手に浩司に対して文句をつけようものなら、

「じゃあ、別れよう」

 と言われかねない。本当は浩司がそんなことを言うような人間ではないことは分かっているつもりではいたが、自分の考えに自信が持てない里美は、強く言えないのだった。

 それよりも、浩司の楽しい顔が見れればそれでいい。浩司は里美には甘く、思い切りわがままも聞いてくれたりする。それが浩司にとっての優越感であることは里美に分かるはずもなかったが、浩司としても、ただの優越感だけではなかった。ただ、里美を自分の「所有物」という感覚でいることは確かで、里美が何も言わないことをいいことに、好き勝手やっているというのも事実だ。里美に対して悪いと思ってはいるのだが、絶対的な優位に立っている浩司には、今の立場を捨てる勇気はなかったのだ。

 浩司に「拾われて」三年が経って、里美は仕事場で、自分を好きになってくれる人に出会った。最初は彼が気になっていることを分からなかったが、相手は恋愛に不器用なまだ二十歳の学生だった。アルバイトの立場ではあったが、里美にだけは対等に接していた。他の正社員に対してどれほどへりくだった態度を取っても、里美に対しては、恥かしいとは思っていなかったのだ、

 彼に対して、里美はまったくの無表情だった。いや、里美は彼に対してだけではなく、誰に対しても無表情なのだ。そんな里美に対してその男は最初、

「なんて無粋で失礼な人なんだ」

 と思っていた。たとえ先輩社員であっても、失礼にもほどがある。里美に対する時だけは、自分が学生だということを忘れてしまっていた。

 里美が、誰に対してもいつも一線を画していることに気付いた彼は、里美から目が離せなくなってしまった。その思いがそのまま好意を持つということに繋がったわけではないが、気になってしまうと、四六時中考えてしまうタイプだったようだ。

――どうして俺があの女のことで、気を揉まなければならないんだ?

 苛立ちにも似た感覚が、自分の考えを打ち消していることに気付いていなかった。

――打ち消していること――

 すなわちそれは、自分が里美に興味を持ってしまったということである。

 彼には別に、学校でも好きな女の子がいた。付き合うところまでは行っていなかったが、同じサークルで、結構会話も弾み、二人だけの時間も持てたりした。ハッキリとした告白まではしていないまでも、お互いに付き合っているという暗黙の了解が、まわりの人たちにも蔓延しているようだった。

 それなりに充実した学生生活を送っている彼が、なぜか里美に惹かれていた。里美が今の会社で社員として働くことができているのは、少なくとも浩司の口添えがあったからだ。学生時代の友達の会社がちょうど事務員を募集していたこともあって、紹介したのだが、その会社の社長が、浩司の働いている会社とまんざらではない関係にあったことも手伝ってか、採用にはさほど問題はなかった。

 過去の記憶が欠落している部分があることは隠していた。別に話す必要はないと思っていたが、後から思うと、少し心配でもあった。いつボロがでるか分からないという思いがあったのと、里美が自分の殻を作ってしまって、そこに閉じ籠ってしまうのではないかという危惧だった。

 後者の方が浩司には気がかりだ。前者であれば、会社を辞めれば済むだけのことだが、後者であれば、人間関係にしこりが残った上に、ますます里美を孤立させてしまう。それはどうしても避けたいことだった。

 もちろん浩司には里美に対しての愛情がある。長く付き合っていれば情も深まっていく。愛情とは違うものなのかも知れないが、愛情と同じところは、絶えず、最悪の場合が頭を掠めるということだった。

 浩司の心配性は、今に始まったわけではない。

「好事魔多し」

 という言葉があるが、幸せな時ほど、不安が押し寄せてくるようで、いつも最悪の場面を思い浮かべてしまう。

 幸せと背中合わせにある最悪の場面、想像を絶するものだろう。思い浮かべたとしても、不安が募るだけで、実際にどのようなもので、どんな精神状態に陥ってしまうか、自分でも分からない。恐怖が頭を巡り、また、同じ場所に立ち戻る。繰り返された堂々巡りは、いつしか感情をマヒさせるほどの大きな効果を、自分の中に植え付けるのであった。

 里美も、気が付けばいつしか、彼のことが気になっていた。純情なところが心を打ったのだろうが、何よりも彼に対して懐かしさを感じたのだ。

 彼は名前を高杉俊二と言ったが、里美は高杉のことを、

「ちょっとおかしな人がいるの」

 と、まるで他人事のように、浩司に話していた。

 里美は最初、本当に他人事であった。浩司も高杉の話をする里美に、何ら違和感を覚えることもなく、ただの同僚の話をしているだけだと思った。逆に、今まで会社の話を浩司の前ですることなどなかったことが、浩司には少し気になっていただけに、却って安心したくらいだった。

――里美もだいぶ明るくなってくれたんだな――

 自分一人で里美を独占したいという思いは男性なら、誰でも持っているものなのかも知れない。だが、浩司もその頃には複数の女性と付き合うようになっていて。後ろめたさがなかったわけではないだけに里美が会社の話をすることに、後ろめたさが少しは解消された気分になっていた。

 本当に他人事のように話す里美だった。それだけ心の中に自分以外のことは完全に切り分けていて、浩司のことも、疑う余地すらないように感じられた。ある意味、里美のことを、

――都合のいい女――

 という目で見ていたのかも知れない。そのことは里美にもウスウス気が付いていた。案外、冷たい態度に関しては敏感だったりする。それでも普段から無表情の里美は、心に思っていることを表に出さない方法を生まれつきのように持っていたのだった。

 高杉は、本当に純朴だった。それだけに、他人に言わせると、

「まったく気の利かない男よね」

 と、思わるほど、その場の態度がまったくピントの外れたものだったりするのだ。

 里美は、高杉を見ていると、出会った頃の浩司を思い出すのだった。浩司自身は変わっていないつもりでいるようだが、実際には、里美に対して取る態度は大きく変わっている。そのことは本人たちよりも、むしろまわりにいる人の方が敏感に感じているようで、浩司に対しての視線の方が、まわりからは、厳しいものになっていた。

 浩司が、最近里美に対しての態度が変わってきたのを、里美自身は、自分が高杉を気にし始めた証拠だと思っていた。実際には、浩司の方が後ろめたいことがあるのだが、里美も自分の中に態度の変化によって、違った感覚が芽生えてきた。

 お互いに距離ができたのは、その時からだった。距離が生まれたのだと思っているうちは、まだよかったが、そのうちに亀裂が生まれたことに気付くと、不安がさらに増幅された。先に亀裂を感じたのは、里美の方だった。言い知れぬ不安は誰かに救ってほしいというもので、それが浩司であり得るはずはない。それなのに、里美の中には不安を感じた時でさえも、頭に浮かんでくるのは浩司の顔だけだった。里美にとって浩司は、不安を感じた時にそばにいてくれる、そんな存在だったのだ。

 だが、今の浩司には、どれだけ里美の不安を解消してあげられるものがあるというのだろう? 逆に不安を煽る行動を取っているのは浩司であった。里美は浩司が自分以外の女性と付き合っていることを知っているはずで、そのことに不安を感じたことなどなかったはずなのに、一体どうしたというのだろう。

 その頃、浩司と付き合っている女性たちの間でも、交流が深まっていた。浩司という男性は、独り占めにしたいという女性がいたとしても、寄ってくる女性同士が途中で仲良くなったりして、なかなか独占欲を表に出そうとする人は少なかった。それが浩司の性格であり、役得でもあるのだろう、そうでもなければ、一度に複数の女性と付き合いながら、不安を感じることもなく、うまくやっていけるはずもないからだ。

 だが、逆に浩司は、本当の落とし穴を知らないのかも知れない。本当は薄氷を踏んでいるにも関わらず、重なっている偶然だけのおかげで、今まで痛い目に遭っていないだけなのかも知れない。もしそうだとすると、浩司は、これからの自分の人生も、

――何とかなる――

 という悪しき精神が最後にはモノをいい、うまくいかなくなった時に、どれほどの抵抗を示せるかを思えば、他人事で見ることすら、怖い状況なのだろう。

 しばらくして、浩司は、それまでのペースが少し崩れていることに気が付いた。元々、自分のペースを意識しているわけではなく、無意識にペースを作り、気が付いた時には、

「意外と僕って、規則正しいペースを保っているんだな」

 と思うのだった。自他ともに認める整理整頓ができない男なので、さぞや、生活リズムも適当なのかと思っていたが、自分の中で無意識にリズムが作れるところは才能の一つではないだろうか。

 逆を言えば、整理整頓ができずに、リズムが適当であれば、救いようがない。少しでも不利な立場に立たされると、ロクなことにならないのは火を見るよりも明らかではないだろうか。今までの浩司は、気が付いた時はいつも規則正しいペースであることに安堵し、それが気分転換となるのだが、その時は、ペースの崩れを感じたのだ。

 焦りに似た不安を感じた。本当であれば、安堵のための安心感が生まれることを想像していることから、よほどの違いがなければ、そこまで焦りを感じることはない。ちょっとした違いであっても、大きなものだと考えるならば、それは客観的に自分を見ている証拠ではないだろうか。

 大きな違いであれば、自分が一番よく分かる。それだけに小さな違いは普段なら気付かないものだ。そこに気付くということは、大きな違いに気付いてしまった自分を客観的に見て、次第に表から見ている自分が本人に乗り移る感覚である。乗り移る感覚を、目を瞑って感じていると、衝撃もなく、スッと入り込む。身体の奥から次第に自分を意識し始め、焦りのための汗が、滲み出ているのが分かってくる。

 リズムの違いは、里美が影響しているというのは、客観的に見ていた自分がいなければ分からなかっただろう。自分の目だけでは見ることのできないものを客観的に見ていた自分は感じることができるのだ。里美が今までのように従順ではなく、浩司と対等な位置に立っていることが焦りに繋がっていた。今まで、自分は対等だと思っていて、里美の従順さを役得として受け入れていただけだと思っていたことがウソだったことに気付いたのだ。

 ある程度の優越感は仕方がない、しかし優越感は上下関係ではない、対等なつもりだった。

「そういえば、里美の表情のいくつを僕は知っていたというのだ?」

 感情をあまり表に出さないのが里美の性格で、記憶のないことが性格に拍車を掛けていたのだと思っていた。

 里美が高杉に惹かれたのには、高杉が自分以外の女性を見ていたのが大きな原因であることを、里美本人は意識していない。嫉妬などという言葉とは無縁の里美だったが、心のどこかで嫉妬心がくすぶっていたのだろう。里美が明るいのは、明らかに空元気である。少しでも高杉の気を引こうと、今までにない性格を表に出した。浩司は里美の気持ちの変化の奥深くまでは分からなかったが、自分以外の男性に心引かれた里美に、自分で封印できると思っていた嫉妬心がふつふつと湧いてきたのである。

 里美は、いつの間にか、高杉の術中に嵌っていた。ただ、高杉にどれほどの計算があったかどうか分からないが、ある程度の計算があった方が女性の性をくすぐるもののようで、ちょうどうまく、二人を結びつけたのかも知れない。

「僕はね。あまり女性と付き合ったことがないので、恥かしいんだけど、それでもいいなら付き合ってもらえると嬉しい」

 女性と付き合ったことがないと言っているわりには、ハッキリとした告白だった。

「私も男性とあまり付き合ったことがないんです。だから……」

 それ以上の言葉が出てこない。里美も浩司がいながら、よく言えたものだ。だが、里美の頭の中には、その時、浩司のことが消えていた。高杉を目の前に、正直であり、素直な自分を表現しているだけだった。それが高杉にも分かったのか、細かいことを聞こうとはしなかった。

「僕は、高校の時に女性恐怖症になったんだ。昔でいえば、スケ番グループに目を浸けられて、結構苛めを受けていたんだ。辱めを受けていたと言ってもいい。どうやら、スケ番のリーダーが僕のことを気に入ったらしく、そんなことを知らない僕は鬱陶しいと思っていたら、急に向こうが切れちゃって、逆恨みもいいところさ。すぐにそのスケ番グループは他のグループに潰されちゃって、僕は解放されたんだけど、それがトラウマとして残ってしまったんだ。そのトラウマが、『女性は汚い』というものだったんだ」

「でも、今のあなたからは、そんなことは想像できないけど?」

「そうだね。大学に入って知り合ったお姉さんが、僕を変えてくれたんだ。その人は結構遊んでいるように見られていたけど、そんなことはない。僕が一番よく知っていて、他の人の知らないその人のいいところを知ることができたことに、僕は有頂天になったんだ。ものすごく遅い初恋だったんだね。初恋は成就しないっていうけど本当だ。どうしても彼女とは交わることのできない平行線上にいることが分かってきたんだよ」

 何となく里美にも分かる気がしてきた。

「初恋っていつだったの?」

 と、聞かれるとハッキリ答えることができない。ひょっとすると浩司なのかも知れないと思ったが、すぐに頭を振って打ち消した。

 初恋が成就しないものだと思うから、頭を振った、しかし、浩司との仲が本当に成就してほしいものなのかというと、これはまた疑問であった。

――もっと素敵な人が現れるかも知れない――

 という思いがいつもあって、今目の前に現れたのが高杉である。彼も本当に成就してほしい相手なのかは疑問だが、少なくとも、里美自身にはいくつもの選択肢が存在していることを感じさせた。

――この人なら、術中に嵌ってみてもいいかも知れないわ――

 高杉に感じた想いであるが、決して浩司のことを頭から打ち消す気にもなれなかった。高杉と一緒にいる時は、高杉だけを見て、浩司と一緒にいる時は浩司だけを見ていたいという思いを大切にしたかった。この思いがあるからこそ、新しい恋が本物なのかどうか、見極められる気がしたのだ。

 浩司と最初に出会った時は、里美が浩司の術中に落ちたというよりも、里美には他意はなかったのに、浩司が里美の術中に嵌った形になった。それでも何年も付き合っていられるのは、お互いに惹き合うものがあるからで、二人だけの独特の世界は、何物にも代えられるものではなかった。

「俊二さんは、私のどこが気に入ったの?」

 すでに下の名前で呼ぶようになっていたが、それも自然だった。

「俊二って呼んでいい?」

 などと聞いたわけでもない。高杉も里美のことを、いつの間にか、名前で呼ぶようになっていた。

「どこだろう? 僕が何かを言おうとすると、きっとニコッと笑って、何でも分かるわよと言わんばかりに、何でもしてくれそうな感じかな? 僕は男として主導権を握りたいタイプだと思っていたけど、里美と出会って、ひょっとして、そうじゃないんじゃないかな? って思うようにもなったんだ」

 無言で二度里美は頷いた。きっと高杉ならそういうだろうと思ったからだ。お互いに何も言わなくても相手の言うことが分かる快感というのは、くすぐったくても、触れることができないもどかしさにも似ていた。ただ、ずっと耐えているわけではなく、すぐに解放される。それが里美の中での今までになかった「心の解放」を促すものだった。

 記憶喪失なのは、高杉にも話した。少し驚いていたようだが、

「神秘的でいいかも」

 他の人が言えば他人事のように聞こえるが、高杉に言われれば正面から話してくれているように思えて、感心させられる。

「神秘的って言えば、俊二さんも神秘的なのよ」

「そうなのかい? そんなこと言われたことなかったよ。いつも昔のトラウマに縛られて、人と話すことはおろか、なるべく誰にも近づこうなんて思ってなかったからね。お姉さんと一緒にいる時だって、まわりの目にいつも怯えていたものさ」

「そのお姉さんはどうしたの?」

「それが、急に僕の前から消えたんだ。行方不明ということなんだけど、警察もいろいろ調べたんだけど、結局分からなくてね。皆、お姉さんは男とどこかに逃げたんだって話をしてたけど、僕には中途半端な噂は信じられなかった。そんなことを言う人たちって、皆人のことを中途半端にしか見ていない人たちなんだって思ったものだよ」

 高杉のショックは計り知れないものだったんだろうと、里美は思った。思った瞬間、またしても胸を締め付けられる思いに見舞われ、俊二を抱きしめたい衝動に駆られた。それは里美自身も、以前に感じたことがある感覚だが、いつだったのか、まったくと言っていいほど思い出せない。暗幕に包まれたその奥の秘密を、一瞬だけだが垣間見た気がしてきた。

 里美には、俊二の中で、空白の期間があるように思えてならなかった。それを本人は意識していないのかも知れない。いや、本人だけではなく、里美以外の誰もが、そのことに気付かないのだろうと思われた。

 特殊な過去を持っているかも知れない里美と、過去に空白を感じる高杉、ひょっとすると出会うべくして出会った相手ではないだろうか。

――ひょっとすると、高杉なら、里美の失った過去を引き戻すことができるかも知れない――

 という思いが里美にはあった。

 だから、高杉に惹かれたのかと言えばそうではない。逆に過去を引き戻すことが高杉にできるとすれば、それは里美にとって本当にいいことなのかが疑問である。ゆっくりとここまで時間を掛けてきたものを、一気に引き戻すのは危険ではないかと里美は思うのだ。

「里美は、過去のことを気にしているようだけど、一気に思い出す必要はないんだよ」

 と、高杉は言ってくれたが、まさしくその通りだ。なのに、それが分かっているのに、高杉といると、過去に一気に引き戻されてしまいそうで怖いのだ。それがジレンマとなって里美に襲い掛かる。里美にとって高杉の存在が怖くなる瞬間でもあった。

 記憶喪失になった人が、過去のことを思い出そうとすると頭が痛くなるというシーンを、ドラマや映画で何度も見たが、本当にそうだろうか?

 里美は今までにも何度も過去のことを思い出そうとしてみたが、それほど苦痛は感じられなかった。ただ、思い出せないことで苛立ちを覚え、汗が額に滲んだりしたことはあった。それをまわりの人に対して、

――気付かれないようにしないといけない――

 という思いも働いたが、ただ、そうして意識を強めると、却ってまわりに気を遣ってしまう。

 まわりが気付けば、きっと、

「大丈夫ですか?」

 と、心配そうな表情を浮かべることだろう、

 心配そうな表情ほど、苦しんでいる本人にきついものはない。

――お願いだから、そっとしておいて――

 と言いたくなるものだ。相手の心配そうな顔を見ることで、自分がどれほど苦しんでいるかという鏡になってしまうのだ。自分の顔を確認できないことで、苦しみを少しは緩和できているのだから、それを人の表情で分かってしまうというのも、皮肉で辛いことなのだろう。

「記憶がないことって、それほどきついと思わないのよ」

 と、高杉に話してみた。

「そうなんだね。もし無理に思い出したくないと思うんだったら、思い出さなくてもいいんじゃないかな? 思い出そうとして頭が痛くなったり苦しんだりするのは、きっと思い出したくないことを思い出そうとするからなんだろうね。でも思い出さないといけないと思う。そして、また苦しむ……」

「それって、悪循環ですよね」

「そうだよね。でも、里美ちゃんは記憶がないことをきつくないって言った。ということは無理に思い出すこともないし、思い出さなければいけないことだって思っていない。意外とそういう時って、ふとした時に思い出すのかも知れないね。だから、無理して思い出す必要なんてサラサラないような気がするんだ」

「俊二さんって、結構楽天家なんですか?」

 難しく考える人よりも、今の里美には、楽天家の方が合っていると思う。浩司もあまり無理なことは言わないが、必要以上なことも一切口にしようとしない。それは里美に気を遣っているからなのかも知れないが、たまに一抹の不安に襲われる。そんな里美を知ってか知らずか、浩司はいつも大人で紳士だった。

 高杉は、里美と一緒にいることでいつも対等でいてくれる。里美が浩司に求めているものは慕う気持ちと、委ねる気持ちだった。だが、それだけでは何か物足りない。それを満たしてくれるのが、高杉という存在だった。

 時々、里美は自分がどんな男性を欲しているか、考えることがある。その対象は、もちろん浩司と高杉である。他の男性には興味を示さないし、世の男性のほとんどは、高杉か、浩司のどちらかのタイプに属してしまうのではないかと思うほどだ。

 だからといって、二人がまったく正反対のタイプだというわけではない。むしろ、共通点は多いのだと思う。だからこそ里美は、二人が気になってしまうのであり、二人の違いは、それぞれ紙一重のところであることから、他の人には二人の共通点が見えてこないように里美は感じていた。

 浩司に対して従順で、明らかに自分の方が慕っている。本当はこれが自分の本性ではないかと思っていたが、高杉の出現によって、相手と対等であることがどういうことかというのを思い出した気がしたのも事実だ。本当であれば、先に高杉と知り合い、その後で浩司と知り合ったのであれば、きっと、浩司にだけ惹かれていたに違いない。順番が逆になったことで、里美は、高杉に忘れていた何かを思い出す術を見出したのかも知れない。

 どちらを選ぶなどできないという思いが里美の中に巡っているのを、浩司は見逃さなかった。

 里美の中に、

「浩司さんだって、複数の女性とお付き合いしてるじゃないの」

 という自分優位になる切り札を持っているのが分かっていた。それは自分の中では抜いてはいけない最後の剣だということを分かっているつもりでいたが、表になるべく出さないように気を遣っていた。

「俊二さんの魅力って何なのかしら?」

 と考えると、会話の中で考えていた、

「楽天家」

 というイメージである。どこか投げやりなところもあるが、神経質にばかり考えがちな里美にとって、余裕を感じさせられる俊二は、何といっても新鮮で、誰にも代えがたいものであった。

 そういう意味でいけば、浩司とは正反対かも知れない。

 里美は浩司と出会って最初に感じたことは、

「私と同じものを持っている人だわ」

 ということだった。

 それはお互いに気持ちが分かり合えるということで、その時の里美にはよかったのだ。

 だが、あくまでも「その時」であり、長い目で見れば、どうなのか分からない。ただ、慕いたい、委ねたいという気持ちが根底にある里美には、浩司から離れることは考えられない。

 それは今も変わっていない。目の前に新たな男性、高杉が現れても、それは同じことだった。

――浩司さんには複数の付き合っている女性がいるって言ってたけど、それも分かる気がするわ――

 浩司が複数の女性と付き合っていて、しかもそれを隠そうとしない。神経質なところがあるが、信頼のおける男性である浩司になら、他に女性がいても、それでもいいという女性ばかりと付き合っているのだ。

「ということは、私もその中の一人?」

 他の女性のことなど考えたこともなかった。それは浩司に対して気を遣っていることであった。浩司が自ら告白してくれたのだから、敬意を表して、こちらもあれこれ詮索してはいけないと思ったのである。

 浩司の付き合っている女性は、皆大人の女性だという意識しかなかった。もちろん他の女性と話をしたこともなければ、会ったことすらない。

――他の人たちはどうなのかしら?

 里美だけが特別で、他の女性たちの間では交流があるのかも知れない。それは里美だけが特別だということだが、それは里美にとってありがたいことなのか、ハッキリ分からなかった。要は、浩司が里美を特別な女性として見てくれているかどうかということである。

 浩司は本当に大人だった。浩司のような男性を大人というのであり、他の男性は皆子供にしか見えなかった。

 高杉には、確かに浩司のような包容力も、強引に思えるほどのぐいぐい引っ張っていく力を感じることはなかったが、違った意味での大人を感じる。

――紳士的なところだわ――

 確かに浩司にも紳士的なところを感じるが、高杉の紳士的なところとは違っている。

 高杉には強引なところがない。それが対等な立場で話ができるということで、話したい時に遠慮する必要のないことを教えてくれた。もちろん、相手が高杉でも遠慮はあるが、それも自分からしたいと思うことで、心地よさを感じることだった。遠慮とはあくまでも相手を煩わさないためにするものだとしか思っていなかったが、相手を思いやる気持ちを持つと、それが自然と遠慮に結びつくこともあるのだということを、初めて知らされた気がした。

――浩司が里美と同じものを持っているので、強引にされても逆らえない――

 という考えは当たらずも遠からじである、

 持っている同じものというのは、まったく同じというわけではなく、

――しっくりくるもの――

 という意味である、足りないところを補ったり、穴があればそこを埋めたりというものなのだ。

 磁石のS極とN極とでもいうべきか、引き合うところがピッタリと合うのだ。里美はそれを「主従関係」だと思った。

 もし、浩司に言えば、

「何だ、今頃気付いたのか?」

 と言って、笑われるかも知れない。

 浩司にとって、二人の主従関係は最初から暗黙の了解のようなものだったに違いない。里美も薄々気づいていたはずだ。気付いていて嫌な思いがなかったのは、それだけ自分が誰かに従属することを望む性格だということだろう。

 確かに誰かに委ねるというのは、気は楽だ。しかしプライドを持っている人間なら、心が痛むはずである。幸か不幸か里美は記憶が途絶えた部分がある。自分の本当の性格を図り知っていない。それゆえに他の人なら軽く受け流すような不安でも、一度抱いてしまうと増幅するばかりで、拭いようがない悩みを一生抱えて生きていくことを自覚している。本当は違うと思いたいのに、それが許されないのは自分の性格なのか、それとも記憶がないことの後遺症のようなものなのか、里美の悩みは尽きることがない。

 そんな時に現れた高杉は、巧みに里美の気持ちに入り込んだ。高杉は、それほど悪い人間ではないかも知れないが、現れたタイミングといい、その時の里美の精神的な弱みといい、天が与えたものに思えてならなかった。

「これって運命よね」

 と自分に言い聞かせるが、浩司との運命的な出会いの方が、インパクトは強かった。

「やっぱり、私は、浩司さんから離れることはできないんだわ」

 と、過去の運命を振り払ってまで、新しく現れた男性に運命を感じることは、里美にはできない気がした。

 里美が、高杉との関係を悩んでいた時、高杉から、

「一緒に温泉に行かないか?」

 と誘われた。

 今までの里美であれば、

「嫌よ。女の子もいるならいいんだけどね」

 と、二人きりになるのを避けていた。それなのに、高杉は性懲りもなく、何度も誘いを掛けてきた。しかも、今度は温泉ときたのだ。

――こんなに断っているのにどういうつもりなのかしら? 私がそのうちに一緒に行くようになるとでも思っているのかしらね――

 誘い方はいつも同じ調子である。明るく振る舞っているが、目だけは真剣に見える。それでも里美が断ると、

「そっかそっか、ごめんね。今言ったこと、忘れてくれていいからね」

 完全に、恥かしがっていて、しどろもどろだ。ついさっきまで真剣な表情だった人が、手のひらを返したように、忘れてもいいからというのは、おかしなものだ。

 だが、里美は、そんな高杉が気に入っていた。純粋さは素朴だとも言える。純粋さを見ることができても、素朴さまで見えてくる人は、里美のまわりにはそれほどいない。いつも浩司と一緒にいるから、余計に高杉が新鮮に見えるのだろうが、共通点の多い二人なので、浩司に対しても、思わず素朴さを探してみようとしていた。

 温泉に誘われた里美は、

「一泊だけなら」

 と承知した。いつも断ってばかりでは気の毒だというよりも、確実に好きになり始めている人への自分の気持ちがどこまで真剣なのか、試してみたいという気持ちが大きいのかも知れない。

「一泊だって構やしないさ。俺は里美ちゃんと一緒にいる時間が長ければ長いほど、それだけで幸せなんだ」

 まるで子供が精いっぱい背伸びしているかのようであった。話しているその態度は勝ち誇っていて。誰に対しての勝ちなのか、里美はおろか、当の本人である高杉にも分からなかった。

――記憶の断片でも思い出せるかも知れないわ――

 それは、里美だけでなく、高杉も感じていたことだった。

 近場には、結構いい温泉もあった。

「探せばあるものね」

「うん、結構穴場の温泉もあるんだよ」

 と、高杉が話すように、彼が探してきた温泉は、観光ブックに載っているような有名なところではなく、お忍びで旅行するにはもってこいのところであった。いわゆる「訳アリ」の客が多いようで、中年の男性と若い女の子のカップルが他に泊まっていた。

「上司と部下かしらね?」

 と、里美がいうと、

「いや、学校の先生と、生徒という設定を僕なら思い浮かべるね」

「上司と部下というよりも、淫蕩な感じがするわね」

 高杉と、里美、他の人たちから見れば、どう見えるだろう? 高杉の方が明らかに若いのだが、主導権は完全に高杉だった。

――最初に出会った時は、あんなに初々しかったのに――

 初々しい高杉に新鮮さを感じ、興味を持ったはずなのに、今では高杉に委ねている。

――委ねて慕っているのは、浩司さんのはずじゃなかったのかしら? だったら、浩司さんだけでいいはずなのに――

 と、考えてしまう。

 しかし、好きになった相手が変わっていくのも仕方がないことなのかも知れない。それに、同じ委ねるとしても、微妙に委ね方が違っている。浩司に対しては、最初に自分の弱い部分を前面に出して付き合い始めているのだから、恥かしさは暗黙の了解になっているのだが、高杉の場合は同じ恥かしさでも、見られたくないと思う恥かしさだ。

 見られたくないと思いながらも、見てほしい自分がいるのも事実で、そんな里美を高杉は、余裕を持った目で見ている。里美にたまらない気持ちにさせ、委ねる気分にさせるのだ。

――私に記憶がないことを、分かっていて触れないようにしてくれる浩司さん、そして分かった上で、何とかしようとしてくれる俊二さん。どちらの気持ちもありがたいんだけど、私が本当に欲しているのは、どちらの男性なのかしら?

 記憶喪失だけに関してではなく、次第に自分の気持ちの移り変わりを、心の中で反芻していた。そしてあくまでも自分に対して態度を変えようとしない浩司と、気持ちに忠実に態度を変えてくる高杉のことを、自分を客観的に見ながら、遠目で見ることで、全体を感じようとしているのだった。

 里美は時々考えることがあった。

――もし、記憶喪失が治って失った記憶が戻ってきた時、記憶を失っていた後に生まれた記憶って、どうなるんだろう?

 それは、浩司と作り上げた記憶であり、さらに、これから高杉とも作り上げようとしている記憶である。

 少なくとも、今の自分にとってはすべての記憶であり、絶対に失いたくないものであった。過去にどんな記憶があるとしても、今の記憶は代えがたいものである。時々鬱状態になることがあったが、それは記憶について考えた時のことであった。

 そんな里美を浩司も高杉も気にしていた。

 高杉は、そんな里美の気持ちを理解できていないようだ。それも無理のないこと。記憶を失ったことのある人間でなければ、分かるはずのない理屈で、しかも、不安を横で見ていると、不安というものが、過去の記憶に対してのものだということを確信しているからに違いない。

「里美ちゃんの過去に何があったとしても、僕の気持ちは変わらないよ」

 と、優しい言葉を掛けてくれる。

「ええ、ありがとう」

 高杉の気持ちは本当にありがたいが、実際の気持ちを分かってくれていないことに一抹の不安を感じる。いや、逆に気持ちを分かってくれていない方が却って気が楽なのかも知れないとも里美は思う。里美が感じている不安自体、ハッキリとしたものではないのだから……。

 そういう意味では、浩司は里美が抱えている不安を、漠然とではあるが分かってくれているようだ。その証拠に記憶を失っていることについて、浩司は触れようとしない。それは、里美に対して、浩司の中で絶対的な余裕を持っているからだ。最初から里美に対して優位の気持ちを持っていたことで、浩司は里美のことを、何でも分かっているのだろう。気持ちに余裕を持てる浩司を尊敬できる相手だと思うし、本当に委ねることができるのは、浩司だけなのかも知れないとも感じていた。

 温泉に高杉と一緒に出掛けて、高杉に対しての気持ちよりも、浩司のことを思い出す方が多くなった。高杉への気持ちをハッキリさせなければいけないのに、浩司を思い出すのは、これ以上、高杉に甘えてはいけないと自分に言っているようなものではないか。里美は自問自答を繰り返しながら、高杉と二人だけの一夜を過ごし、大切な思い出として過去のものにしてしまう決意を固めようとしていたのだ。

 温泉には、それぞれ一人で入った。家族風呂も混浴もあったのだが、里美が強硬に拒んだのだ。

「どうして、そんなに拒むんだい? ここまで来たんだから、別にそんなに拒むこともないと思うけど」

「違うの、一人で考えたいことがあるのよ」

 里美は、高杉の目を正面から見つめながら言った。その言葉にウソのないことを、高杉は感じ取ったので、

「分かった。好きなようにすればいいさ」

「ありがとう」

 高杉の言葉は冷たく響いたが、この場では、下手に優しい言葉を掛けられるよりもよかった。優しい言葉を掛けられてしまうと、里美は自分が孤立してしまいそうに感じたのだ。それは、はしごを使って昇った場所から、はしごを外された気分になるのと同じように感じたからだ。

 里美が温泉に入った時、中は一人もいなかった。半分露天風呂になっていて、まずは、身体を流すと、迷うことなく露天風呂に入った。

 露天風呂は天然の石で造られているようで、温泉の性質からか、ヌルヌルして足を滑らしそうになりながら、ゆっくりと、身体を沈めていった。表の寒さに震えていた身体を、一気に温泉に浸けるのは、あまり身体によくないと思ったからだ。

 芯から温まるとは、まさにこのこと、立ち上る湯気を目で追いながら、ホッとした気分になると、しばらく湯気から目が離せなくなった。

――一体どこに行こうとするのかしら?

 湯気を見ながら、漠然としてだが、他の人は自分と同じことを感じないのだろうかと思いながら、身体から疲れが抜けていくのを感じていた。温泉は水質がかなりヌルヌルしていて、いかにも肌によさそうに思いながら、顔を洗った。温泉の熱さは冷たかった身体に次第に馴染んでいったが、身体の芯を無数の張りがつつくといった、くすぐったく微妙な痛みを含んだ、何とも言えない感覚に酔いしれていた。

 湯気には、影のような黒い部分が滲んでいるのが見えた。何かの影が映っているのだろうが、そこにいるのは、里美一人だけのはずである。

――幻なのかしら?

 幻が見えるのは、温泉という不思議な心地良さが、幻を見せるのだろうか? 幻だとしても見るとすれば、気になっている人の姿だと思う。それでは気になっている男性というのは誰なのだろう?

 今は高杉に対して興味を増している。気になっているというのとは少し違うような気がするのだが、一緒に来ている相手の幻を今さら見るというのもおかしなものだ。となれば、後は浩司のことしかないだろう。

――今頃、浩司さん、どうしているのかしら?

 浩司と一緒にいない間は、なるべく浩司のことを考えるのをよそうと思っていた。最初の頃は浩司のことを四六時中考えていたのだが、それは自分の中にある言い知れぬ不安が拭い取れなかったからだ。誰かのことを考えることで、少しでも気が紛れると思ったことが一番の理由だったのだ。

 だが、浩司のことを考えていると、どうしても、他の女性のイメージが頭に浮かぶ。他の女性を抱いているイメージが強くなり、嫉妬心がふつふつと湧き上がってくる。

 温泉で嫉妬心は、自殺行為だ。完全にのぼせてしまって、倒れてしまうかも知れない。それは分かっているのだが、ついつい浩司のことを思い浮かべた。

 思い浮かべた浩司の顔が、出てこない。煙の中に浮かぶ黒い影が見えるだけで、その向こうに誰かがいるようで、気配だけを感じる。煙に浮かんだ黒い影は、男の人の姿だとすれば少し大きすぎるように思う。浩司はそれほどの大きな身体ではないので、本当に浩司なのかどうか、疑問にも感じられた。

 温泉に浸かり始めて、どれほどの時間が経ったのか、ついさっき、温泉に浸かった気がしていたのに、すでに顔が茹で上がったほど、真っ赤になっているのを感じていた。お湯に浸かっている身体から、汗だけが流れ落ちる気がしていた。ヌルヌルとした温泉が、そんな気分にさせるのかも知れない。

 温泉から上がって、部屋に戻ると、高杉はいなかった。きっとまだ温泉に浸かっているのかも知れないと思った。ただ、彼の荷物の半分が、部屋から消えているのが分かったので、またしても一抹の不安が感じられるのだった。

 高杉は、温泉に浸かった後、ロビーでくつろいでいた。男性なので、女性ほど温泉に浸かっているわけではないので、温泉の酔い覚ましにソファーに座って、テレビを見ていた。

「俊二さん」

 その時、高杉に声を掛けてきた女性があり、高杉が振り向くと、そこには想像通りの女性が立っていた。掛けてきた声ですぐに誰かは分かったが。声を掛けるとすれば、その人以外にはいないという思いはあったのだ。

「こんなところまで……」

 振り向いた高杉の顔は、里美に見せる顔とは、まったく違うもので、二十歳そこそこの男性とは思えないほどの大人びた表情になっていた。ただ、その顔には困惑の表情が見え隠れしていて、声を掛けた人間の唇がにやりと歪んだのを、高杉は見逃さなかった。

――この女、こんな表情になるんだ――

 彼女は名前を祥子といい、高杉と同じ学部のクラスメイトだった。

 高杉が大学に入学してきて、最初に友達になったのが祥子だったのだが、元々声を掛けてきたのが、祥子の方だったのだ。

 高杉はビックリした。高校時代とのギャップに戸惑っていた高杉を見て、祥子には興味があったのだろう。大学に入った途端、羽目を外す男性が多い中、本人は戸惑っているだけだと思っていたが、まわりから、特に祥子からは、慎重派な男性に見えていたようだ。

 高杉にとって、祥子は、

――逆らえない女性――

 のイメージが強かった。ひょっとして高杉が里美に興味を持った一番最初の理由は、

――祥子からの脱却――

 という理由が大きかったのも事実だろう。

 もちろん、高杉にはその意識はあった。祥子のことが嫌いなわけではないのだが、祥子から言われる言葉の一言一言に、何とも言えないプレッシャーに襲われるのだった。

 祥子はしばらく高杉を見つめて、動こうとしない。それが高杉には一番辛かった。高杉も動くことができず、まるでヘビに睨まれたカエル状態だったのだ。

 どれくらいの時間が経ったのだろう? 祥子はもう一度にやりと笑うと、踵を返して歩いていく。威風堂々とした今までに何度となく見せられた祥子の後ろ姿から、目が離せなくなっていた。

 エスカレーターから降りていく祥子の髪の毛が消えていくと、それまで掛かっていた金縛りが解けた気がした。

「これはいかん」

 高杉は見えなくなった祥子からの呪縛が解けると、思わず時計に目をやった。あっという間の時間だったような気がしていたが、二十分近く経過していたのを見て、愕然としたのだ。急いで我に返ると、心を落ち着けるように伸びをし、呼吸を整えたが、呼吸が荒れていたわけではない。思ったよりも冷静だったようだ。

 腰を起した時、身体に気だるさを感じた。温泉酔いがまだ残っているのかと思ったが、それだけではないようだ。やはり祥子のイメージが頭に残っているのだが、それを里美に会うまでに消してしまわなければいけないと、焦りばかりが前面に出てしまう。

 焦れば焦るほど、ボロが出るものだ。それも分かっているので、時間を掛けなければならない。顔が紅潮しているのは、耳が熱くて脈を打っているように感じることで分かっていた。

「里美が待っている」

 すでに里美が温泉に入ると言って部屋を出てから一時間近く経っている。なるべく里美のことばかりを考えようとするのだが、どうしても頭にへばりついてしまった祥子が離れてくれない。

――祥子はどうしてここにいるんだ?

 という発想を、さっきまで浮かべていなかったのはなぜだろう? 本当であれば最初に浮かぶ疑問ではないか。心の中で、

――祥子なら、ここにいても不思議はない――

 というような思いがあったのかも知れない。祥子には神秘的な出現を好むところがあり、いつも驚かされていたが、今までは害がない現れ方だった。だが、今回は明らかに焦りを伴ってしまう。いつもと違う場所というのも大きな理由だ。

 そういえば、以前祥子に告白されたことがあったが、それも押しつけがましい感じの告白だった。

「私が好きになってあげた」

 という言い草に、いささかシラケた感じを受けた高杉は、祥子の真意がどこにあるか、その時から分からなくなっていた。

「待ちくたびれたわよ」

 大げさに声を上げたが、まんざらでもない表情を浮かべる里美は、これから起こることへの覚悟半分に、おどけた態度で挑むしかなかった。

「ああ、ごめんね」

 里美の様子に少し戸惑っている高杉は、やはり頭の中を整理できずに、里美を見つめた。見つめてはいるが、心ここにあらずといった雰囲気は、明らかに表に出ていた。

 お互いに探り合いながらの雰囲気は、ぎこちなさから始まった。お互いにパニクッてはいるが、テンパっているのは、高杉の方だろう。

 高杉は里美に対して一目惚れだった。なかなか告白できないでいたのは、高杉の引っ込み思案な性格からだと里美は思っていたが、実はそうではない。確かに引っ込み思案な性格ではあるが、むしろ好きな人ができたら、告白することに躊躇することはない。躊躇しているというよりも戸惑っていたのだ。理由は祥子の存在であった。

 高杉が里美にモーションを掛けてきたのは、自分の気持ちが里美に向いていることを確信したのには違いないが、それよりも祥子の興味が高杉以外の男性に向いたことが大きかった。

 祥子が夢中になったのは、かなり年上の男性だった。一度見かけたことがあったが、白髪が目立つ、中年というよりも初老と言ったくらいの男性であった。確かに祥子であれば、同年代の男性よりも年上の男性の方が似合っていそうな気がした。祥子が従順になるとすれば、父親くらいの年齢の男性であろうとは思っていた。

――やっぱり、俺は自分に従順な女性がいいのかも知れないな――

 祥子との関係は、成り行きだった。望んで結んだ関係ではない。飲み会の後で、そのまま……、というのは珍しい話でもない。ただ、今から思えば、祥子の計算にまんまと引っかかったように思えてならない。今となってはそれでも悪いとは思わないが、そろそろ自分から呪縛を解放してあげてもいいと思うようになっていた。

 今回の温泉旅行は、高杉にとっても、冒険だった。なりゆきで関係を結んでしまったとはいえ、高杉はいつの間にか祥子の身体に溺れていた。祥子が最初の相手だったわけではない。ただ、祥子と離れてしまって、一人になるのが怖かったというのもウソではなかった。

「あなたって、とっても素敵よ」

 ベッドの中で祥子にそう言われると、高杉はその言葉だけで何もいらないと思うのだ。その言葉が本音なのか計算ずくなのか、高杉には分からなかった。

 祥子とは離れられないという宿命を感じていた高杉は、祥子の友達が困っている時に見捨ててしまったという後ろめたさがあった。金銭的なことなので、別に高杉が責任を感じる必要はないのだが、祥子からすれば、高杉が何もしてくれなかったという思いを強めた。

 本当であれば、その時に祥子と別れていれば、祥子に苦しめられることもなかったのだ。その時が祥子と別れる唯一のチャンスだったのに、みすみす棒に振ってしまったのだ。

 別れられなかったことを後悔しているはずなのに、安心している高杉もいる。一人になるのが怖いのだ。そういう意味では里美と似ている。浩司から離れられないと思っているのは、一人になるのが怖いからだ。

 だが、里美の場合は、真剣に浩司と別れようなどと考えたことはない。別れる理由が見つからないのだ。もし、このまま高杉と深い仲になったとしても、里美は浩司と別れるなど考えられない。

――捨てられたらどうしよう――

 不安は募るばかりだが、それなのに、なぜか高杉にも惹かれてしまう、

「お互いに似た者同士なんだよ」

 と、まだ里美が高杉を意識する前に、高杉から言われた言葉だが、今となってみれば、まさしくその通り、その言葉を意識していたからこそ、危険とも思える高杉との温泉旅行に出かけてきたのである。

――のこのこ出かけてきた私を、俊二さんはどう思うかしら?

 はしたないオンナだと思われたくない。浩司と一緒にいるうちに、知らず知らずに、自分が淫乱になっていくのではないかと思うようになっていった。浩司はたまに里美にアブノーマルなプレイを求めることがある。最初の頃こそ、

「嫌、そんなのやめて」

 いかがわしいおもちゃがあったり、拘束器具があったりと、里美は望んでいないものが目の前に並んだ時は、そこから逃げ出したい衝動に駆られたものだ。

 だが、その時の浩司の表情は、いやらしいものではなかった。いつもの里美を求める表情と変わらず、熱い目で正面から里美を見ていた。

「怖かったら、いいんだよ」

「ううん、ちょっとビックリしたけど、頑張ってみる」

「ありがとう」

 何を頑張るというのか、浩司を信じていれば頑張ることもないはずだった。それなのに「頑張ってみる」という言葉は、浩司に言っているというよりも、自分に言い聞かせていた言葉だった。

 浩司は、その言葉に有頂天になった。里美にとってすべてが初めてのことで戸惑いがあったが。浩司に拘束されながら、実は自分が浩司を独占しているのだという思いがこみ上げてきて、幸せな気持ちにさえなった。

 次の瞬間、里美は今までに感じたこともない快感に酔いしれることになるのだが。心のどこかで懐かしさが湧いてくるのを意識していた。

――きっと今感じたことは、絶対に忘れないわ――

 実際にそれから浩司とベッドをともにする時、必ず思い出す。いつもアブノーマルではないので、物足りなくなるほどだが、そんな自分が恥かしくもあり、むずがゆさを感じるのだった。

――こんな私を、俊二さんには見せられないわ――

 他の人にも、もちろん見せられるものではない。だが、それ以上に今は俊二にだけは見られたくなかった。

 その時、里美は、浩司が自分と別れようなどと思ってもいなかった。

――どうやって、浩司さんと別れよう――

 と、いつも思っていた自分が信じられない。身体の関係だけだと思っていたが、実際にはそうではなかった。今では浩司なしでは生きていけないくらいに思っているのに、瞬時に惹かれてしまった自分が一体何なのだろうと思わずにはいられない。

「里美は、時々宙を見ているようだけど、何を見ているんだい?」

 図星をつかれてドキッとしたが、逆にストレートで聞かれた方が気が楽だ。

――明らかに俊二さんは、私の後ろに誰かがいることに気付いている――

 と思っているからだ。しかし、

――それでもいいなんてどうしてなのかしら?

 俊二の後ろにも女性がいるかも知れないことは、里美にも分かるような気がした。確信があるわけではないが、女の勘というやつだ。だが、自分の中では、

――私だけだ――

 と思いたい。自分にも浩司という存在があるのに、身勝手なものだ。それを里美は女の性として見逃そうとしている。ただ、見逃そうとすればするほど、記憶を失った自分に口惜しさを感じる。

――失った記憶の中に、身勝手さを見逃そうとすることに、嫌悪でもあるのかしら?

 と思えて仕方がない。

 夕焼けを見ていて、時々涙が出てくることがあるが、夕焼けを見るのを決してやめようとはしない。それは、記憶を取り戻す原点が、夕焼けに潜んでいるように思えるからだ。

 浩司と一緒に何度も見た夕日。浩司が好んで夕日を見る場所が好きだった。

――今日も浩司さん、一人で夕日を見ているのかしら?

 そう思うと、その隣に誰か自分とは違う女性の影が見え隠れし、口惜しさが溢れてくる。ただ、その口惜しさは長くは続かなかった。里美にとっての浩司と同じように、浩司が一緒に見る女性も里美と同じように夕日に何か思い入れがあるのかも知れない。かなりの贔屓目だが、浩司の目に映る夕日の色は、いつも同じではない。それなのに、里美は思い出すことができる。いったいいつの目だったのだろうか?


 里美が浩司のことを思い出している間、浩司は一人の女性と出会っていた。出会ったという表現には、いささか違和感があるのだが、女性というにはあまりにも幼く、制服の似合う高校生だった。

 しかも、高校二年生で友達との間では元気なのだが、友達から離れると、急に静かになってしまう。引っ込み思案なのか、恥かしがり屋なのか、いかにも浩司の好みの女の子だった。

 朝、通勤電車に乗ると、その娘はいた。たくさんの女子高生が満員電車の扉の近くに偏って、大きな声で話をしている。浩司はそれを横目で見ながら、いかにも鬱陶しいという気持ちを表に出して、睨みつけるかのようだった。

 ただ、中には単独で扉に寄りかかるように立っていて、携帯を弄っている姿をところどころで見かける。いつも同じ女の子だとは限らないのはなぜだろう? 一人で乗り込んでくる女の子は、いつも同じ時間、同じ車両の同じ場所に佇んでいると思うのは、浩司の一人勝手な想像にすぎないのだろうか?

 浩司は、電車通勤には慣れたものだったが、時々立ちくらみを起すことがあり、あまり好きではなかった。満員電車のムンムンとした熱気に、完全にのぼせてしまうことも少なくなかった。

 なるべく女性から離れたと思っていた。化粧の匂いが明らかに自分に毒だと分かっていたからだ。

「そんなに気にならないのにな」

 と、他の人は化粧の匂いをあまり気にしていないが、浩司には敏感に感じられた。

 理由は分かっている。

 あれは麻衣と一緒にデパートに行った時のことだった。一階にある化粧品売り場で、何時間も麻衣に付き合わされたことがあった。鼻孔は完全にマヒしていて、匂いを感じないところまで来ているほど、薬品の毒気に晒されていた。

 浩司は麻衣に対しては優位に立っていたが、それはベッドの中でのことがほとんどで、表に出れば、麻衣に主導権を渡すことも少なくなかった、

――その方が、気が楽だからな――

 と、思う気持ちと、相手にも優位な気持ちを味あわせることで、二人きりになった時、自分の優位を絶対的なものにしておけるのと同じような考えであった。

――毒にしかならないのに――

 と思いながらも、楽しそうな麻衣の顔を見るだけで、浩司は嬉しかった。

 浩司はタバコは吸わないが、駅ホームに隣設してある喫煙コーナーの近くから乗るようにしている。駅を降りてからの乗り換えに便利だからだ。毎日同じ場所で待っていると、それでも慣れてくるものだが、さすがにタバコだけは我慢できなかったりする。

 喫煙室は自動ドアになっているので、誰かが出入りすると、しばらく空きっぱなしになってしまうことがある。なるべく人と目が合わないように、恨めしそうに睨みつけることが多かった。

 そんな浩司を見て、二コリと笑った女子高生がいた。ポニーテールが可愛い女の子は、あどけない顔を浩司に向けて、目が合っても、逸らそうとしなかった。

 思わず微笑み返した浩司だったが。その時に電流が走ったような衝動に駆られたのはなぜだろう? 二十歳代前半くらいまでであれば、女子高生であっても、恋愛対象として考えていたが、さすがに三十歳を超えると、変わってくる。というよりも、大人の女性ばかりを相手にしていて、その中で、あどけなさが残る女性が浩司は好きだった。淫行になってしまいそうな危険な相手を、今の浩司が相手にすることもないのである。

 微笑み返すと、彼女はすぐに踵を返して、足元軽やかに歩いていった。まるでスキップするかのような歩みは、草原を跳ねながら歩いているアニメで見た少女のようだった。

 最近、浩司は通勤途中で寄り道をすることが多かった。そのため、いつもより一本遅い電車での通勤になったが、一本遅れるだけで、電車の混み具合は半端ではないくらいになっていた。もし、その娘と微笑み返すことがなければ、浩司は二度とその電車に乗って通勤することはなかったであろう。

 浩司は、動物が好きである。特に犬は子供の頃から好きだった。猫派と犬派で、小学生の頃、言い争いになったことがあったが、普段物静かな浩司が、犬に関して熱弁をふるったことで、クラスメイトのほとんどが、目を丸くしてビックリしているほどだった。

 家でも犬を飼っていた。室内犬で、毎日学校から帰ってくると飛びついてきたものだ。それが可愛らしくて、中学の頃は、

――彼女よりも犬がいればそれだけでいい――

 と思っていたほどだ。

 犬と一緒にいる時に何が楽しいと言って、お互いに顔を近づけて、鼻先をこすれ合うほどに近づけた時、犬の目が寄ってきているのを見るのが可愛らしかったことだった。

――きっと自分も同じ顔をしているんだろうな――

 と思っただけで、表情が緩んでくるのを感じる。

 駅まで向かう通勤路の途中で、最近気になっている犬がいる。セントバーナードのような大きな犬だが、たぶん、雑種ではないだろうか。別に血統書にこだわっているわけではない。むしろ、雑種の方があどけない表情をしていて、可愛いと思うくらいだ。

「犬と女、どっちが好きだ?」

 と、聞かれると、思わず迷ってしまう、

「三度の飯と女では?」

 と、聞かれれば、迷わず

「オンナだ」

 と答えるくせに、相手が犬だと迷ってしまう。食欲よりも犬を選ぶところが浩司らしく、それはたまに感じる人間不信と微妙にかかわっているのかも知れない。

 女を嫌いになることはないのに、人間不信に陥る。陥った時は、さすがに女を近づける気にはならない。もし女が近寄ってくると、露骨に嫌な顔をするだろう。幸いなことに、人間不信の期間は、女が寄ってくることはない。きっと浩司の表情から、近寄ってはいけないという感覚が、本能として湧き上がってくるのかも知れない。

 家を出てから、駅までの約十五分の間、途中よりも少し行ったくらいなので、約十分くらい歩いたところであろうか。駅はすぐ近くに見えているので、

「あと少しだ」

 という安心感からか、一度まわりを見渡したことがあり、その時初めて犬がいることに気付いたのだ。

――それほど、まわりを意識していなかったんだ――

 と、今さらのように思った。

 道を歩いている時、まず間違いなく、何かを考えながら歩いている。そんな時は目に飛び込んできた景色を、覚えていることはないと思うほど、集中力に欠いていた。考え事をしていると、

――乗り換えの電車の時間を気にしなければいけない――

 という意識を、前の駅を発車する時に持っていたとしても、車内アナウンスが流れてきても、すでに意識は外れている。

――たった今のことだったのに――

 これが記憶喪失に陥っている里美とは明らかに違うが、自分も注意力散漫が原因とはいえ、覚えきれないことへの苛立ちが頭を悩ませるのだった。

 人間不信になっても、犬が嫌いになることがないのは、

――犬は裏切らない――

 と思うことだ。

「動物は裏切らないっていうよな」

 と、子供の頃、友達から聞いたが、動物すべてが裏切らないわけではない。全部の動物が裏切らないのか、分からないではないか。もっとも、人間も動物の一つだ。人間だけを特別に動物ではないというような考えこそ、人間の傲慢さなのではないだろうか。

 だが、大人になると、裏切るのは人間だけのように思えてきた。本能だけで人は動くものではないからだ。だが、これも考え方によっては、人間の傲慢さなのかも知れない。

 記憶喪失の里美を「拾ってきて」、一緒に住んでいる時が、ひょっとすると幸せだったのかも知れない。大好きな犬と一緒にいる感覚だった。女を犬と一緒にしてはいけないのだろうが、里美だけは、犬を見ているような感覚だった。それだけ、本能的なものを感じていたのかも知れない。

 本能のままに生きる人間を、浩司は嫌いではない。

「人間は、本来、本能のままに生きるものだ」

 と、友達の間で力説したことがあったが、まさしくその通りだ、里美を見ていれば、本来自分が目指していた生き方が分かってくるように思えたのは、事実だった。

 だが、そう思いながらも、

「どこか違う」

 と感じていたのも事実だ。

 浩司が考えている本能のままというのは、欲望をむき出しにした感覚に近いものがあった。まるで野獣のごとく貪る感覚、それこそ、人間の本能だと思っていたのだ。

 里美と一緒にいると、本能というよりも、純粋に忘れてしまったことを思い出そうとするわけでもなく、ただ生きているという姿に魅せられた。もっと言えば、欲望をむき出しにすることが悪いわけではなく、欲望をむき出しにすることに対して、いけないことをしているような目を向けることが嫌なのだ。

――本能とは、欲望を抑えつけるのではなく、うまくコントロールしていくことに繋がる素直で純粋な感覚――

 と、浩司は定義づけていた。犬と一緒にいると、本能の何たるかを、もう一度原点に戻って考えることができると思っていた。

 その日もいつもの犬が寄ってきた。足を若干引きずるようにして歩く姿は、少しメタボになっているからなのかも知れない。頭を下げて歩いてくる姿は、浩司に対して従属していることを示しているようで、尻尾を振っているのは、なついている証拠であった。

 自分が支配している相手だという意識を持たされるが、相手が犬では、あまりありがたいことではない。犬が従順であるのは当たり前で、当たり前なのは嫌なのだ。犬が寄ってくる姿を見ると、痛々しく感じられるくらいで、ひょっとして浩司は、いずれこの犬も、浩司と同等の態度を取るようになるのを待っているのかも知れない。

 この犬は、従順な相手は飼い主と浩司にだけだった。初めて見た時、浩司はスナックの女の子と一緒に歩いていた。その時に犬は女の子に対して吠え立てているのに、浩司に対しては、じっと見つめるだけで吠えようとしなかった。その眼は何かを探っているかのようで、思わず浩司も見つめた。

「何よ、この犬」

 スナックの女性は、犬に対して言いたいことを、浩司に向かっていった。まるで犬に嫉妬しているようだが、その時の浩司はそれでもよかった。本当は、

――この女を今夜は独占しよう――

 と思っていたのだが、結局ぎこちなくなり、その日はお互いに途中で別れ、二度と二人きりでどこかに行こうということはなかった。

――それほどいいオンナというわけでもないしな――

 と、浩司は自分に言い聞かせた。少しはもったいないと思ってはいたが、後悔はなかった。それよりも妙にその時の犬のことが気になっていて、次の日に一人で犬を見に行ったくらいだ。

 言い聞かせたというよりも言い訳だったのかも知れない。それ以降、どうも調子に乗らず、女の子をどこかに誘うなどという一夜のお遊びはピッタリとやめてしまった。すでに複数の女性と付き合うことに慣れてしまっていた浩司は、さらなる興奮を求めていたのかも知れない。

 そういう意味では犬がいい戒めになった。まだまだ自分が若いと思っていても、どこかはキチンと落ち着いていないといけない年齢に差し掛かっているのだ。落ち着くというのがどういうことかその時は分からなかったが、

――若さとは、落ち着きがない証拠だ――

 と、若さと落ち着きを比較している間は、まだまだ甘い若さを引きずっているのを自覚しているのだろう。

 犬の相手をしながら、その日は、やけに犬が飛びついてくるのが気になった。その犬が雌犬であることは知っていたが、

「発情期なのか?」

 と飛びつこうとするのを、頭を撫でて、なだめていた。

 あまり嬉しいものではない。適当になついてくれるのは嬉しいが、飛びつかれるほどなつかれていると思うと、急に身体にだるさを感じた。足の裏から汗が流れているのを感じ、靴に包まれた足の先が浮腫んでいるかのようだった。髪の毛の間の毛根から湯気が立っているかのようにも感じ、頭が痒くて仕方がない感じもしてきた。

――文字通り、足の先から頭のてっぺんまでだな――

 と感じた。

 避けながら後ずさりしていたが、さすがに鬱陶しくなり、逃げるようにその場を後にした。今までこの犬に対して逃げるような態度でその場から立ち去ったのは初めてのことだった。逃げたことに対しては意識はないが、それよりも、中途半端でその場を立ち去ったことで、気分的にその日一日が冴えない日になってしまいそうな気分だったのだ。

 電車の中にいても、気分は沈んだままだった。扉に寄りかかるように立っていたが、満員電車のために、身動きは取れない。それでも表を見ていれば流れる景色を見ることで、幾分か精神的に楽になれた。

 しかし、その日は表を見ていても気分は沈んでいた。まわりに押されても力の流れに任せるだけだったのだが、その日は、気持ち悪さが身体に襲い掛かってくるのを感じた。

 いつもの人がいつもの電車で、いつのもように揺れに任せて佇んでいるはずなのに、まったく知らない人たちに揉まれているかのように思え、

――他の人の身体から感じる体温が、これほど気持ち悪いとは思わなかった――

 体温を感じると、人の身体は、今さらながら、

――本当に他人は気持ち悪い――

 と、自分が潔癖症にでもなったかのように感じた。

 浩司は決して潔癖症ではない。整理整頓ができないところから起因しているのだが、潔癖症の人が嫌う気持ち悪さというものを、最初から否定するような感覚になっている。そんな時、まわりの人全員が嫌いにしか感じない鬱状態に見舞われるのを感じるのだった。

 鬱状態に入る時、普段なら入り口が分かっている。学生時代から躁鬱を意識していた浩司には、

――鬱状態は、定期的に襲ってくるもの――

 として、諦め半分だった。

 分かっているとしても、備えることはできない。精神的に同じレベルから見て、低いのを感じているのであれば、何とかなるのかも知れないが、違うレベルから、違う高さを見ているのだから、どうしようもない。鬱状態に陥ると、何をするのも億劫で、まるで水の中で必死に喘いでいる感覚だった。

 歯を必死に食いしばっている感覚が襲ってくるが、それは、自分だけが焦っているのに、まわりが呑気なことへの苛立ちなのか、逆にまわりが焦っているのに、自分だけ乗り遅れてしまったことへの苛立ちなのかが分からない。それでもどちらかだと分かっていればいいのかも知れないが、中途半端な位置に置き去りにされてしまった感覚なのだ。

――これがジレンマというものなのかも知れないな――

 まわりからではなく、自分の両側からだけ攻めてくるのに、前も後ろも身動きが取れず、迫ってくるものに対して対応ができないやるせなさ、それが中途半端な状態に陥った時の感情だった。

 身体の横から迫ってくるものに対して、横を向くこともままならない。目だけを恐る恐る向けてみるが、とても最後まで見る勇気がなくて、途中で見るのをやめてしまう。そんな夢のような世界が、目を瞑れば繰り広げられているようだった。

――青い色は緑ではなく、完全な青に、そして、赤い色はより鮮明に瞼に刻まれている。そのわりに空気は淀んでいて、まるで黄砂が飛来した夕方のようだ――

 矛盾した感覚であるが、いかにもジレンマに陥った時の感覚にふさわしいではないか。いつ果てるとも知らない不可思議な世界も、終わりが近づいてくる時も、前兆があるのだった。

 黄色く淀んだ世界は、まるでトンネルの中のようだ。

 黄色い照明が規則正しく等距離から光を発しているが、出口が近づいてくると、出口が見える前に、青い光が飛び込んでくるのだ。青い光は、それまでの黄色を真っ向から否定する色で、それほどのインパクトがなければ、鬱状態からは抜け出せないことを示している。そして、それまでの黄色い色がどれほど身体に苦痛を及ぼしていたのかを意識させるかのように、青さは雲一つない真っ青な空を感じさせるほどのものだった。

 鬱状態への入り口という、少し嫌な予感を抱きながら駅へと急いだ浩司は、途中何度か信号に引っかかり、普段乗らない電車に乗る羽目になったのは、翌日のことだった。

 普段と違う電車は、いつもの満員電車とは少し違い、人は多いが、扉の近くで立っている分には、それほど息苦しいものではなかった。

 車窓からの景色も普段と違って感じられ、最初はずっと表を見ていた。そのうちに車窓から車内を見渡せるくらいの精神的な余裕があり、見渡してみると、昨日目が合った女子高生が、その日も浩司を見つめていた。明らかに意識して見つめる目をしていて、昨日は目を逸らされてしまったが、その日は目を逸らすことなく見つめている。次第に表情が柔らかくなり、こちらを見て微笑んでいるのが感じられるほどだった。

 すると、その女の子が近づいてきた。声を掛けてくれるわけでもなく、ただ隣に立って、時々浩司を見上げるように見つめて、微笑んでくれる。

――まるで、天使のような微笑みだな――

 と思えるほど、暖かなものだった。

 柑橘系の香りが、鼻孔をくすぐる。化粧の濃さがあるわけではないが、香水の香りが柑橘系なのだ。普段はあまり柑橘系の匂いが好きではなかったが、満員電車の中で、甘い香りの香水がどれほどきついものかを実感してしまうと、今度は柑橘系の香りが新鮮で、暖かさを感じられるようになった。

 満員電車の中では、普段は暖かさしか感じることのない甘い香りが、汗や体臭に混じって、薬品のきつい匂いだけを充満させる結果になるようだ。同じ充満させる香りであるならば、柑橘系の香りの方がどれほど心地よいかということを、浩司は初めて知ったのだった。

 その日の電車の中は、サラリーマンやOLというよりも、学生が多く目立っていた。しかもほとんどが、ノートや参考書を開いて勉強してる姿が見られる。学生が多いわりに車内が静かなのは、どうやら皆勉強に勤しんでいるからなのに、他らなかったからだ。

 気になる女子高生も参考書を片手に、目は参考書を負いながら、時々顔を上げて浩司を見つめる。一度見つめると、しばらく目が離せなくなってしまうのか、急にハッと思い立って、参考書に目を落とす。

 じわりと視線を上げるくらいのことはあるだろうと思っていたが、参考書に集中すると、神経はそちらにしか向いていない。

――一つのことに集中すると、他は見えなくなるタイプなのかも知れないな――

 これは、実は浩司も同じ性格だった。それだけに見ていて彼女がよく分かった。じっと見つめていれば、そのうちに何を考えているかということくらいまで、分かってくるのではないかと思えるほどだった。

――相手は子供じゃないか?

 と、思ったが、浩司にとって、昔からのコンプレックスが今、思い出されてくるのだった。

 浩司は、子供の頃、苛められっこだった。

 小学生の頃から、中学二年生くらいまでだっただろう。いつ頃からというのは記憶が定かではないが、理由は何となく分かっていた。

 苛められっこと言っても、社会問題になったほどの苛めではなかったのが幸いだった。ニュースなどを見ると、自殺に追い込まれた子供が後を絶たない様子だったが、それも氷山の一角だと報じていた。しかし、その氷山も、本当に自殺に追い込まれるほどの悲惨なものだけではなく、ひどくないものまで含めると、苛めに関係をしたことのない人はほとんどいくらいかも知れない。浩司の場合は、それほどひどくない中に含まれていたが、一歩違っていると、自分が苛める側に回っていたかも知れないと思うのだった。

 苛められていたことで、非は自分にもあった。苛めがひどくない理由の中には、苛めの非が自分の方にある場合も含まれていることだろう。浩司の場合は、人に対して、まったく気を遣っていなかったことが一番の原因だった。

 浩司は、何をするにも考えて、理屈に合わないことは疑問だけが残って、動かないタイプの少年だった。簡単に言えば素直ではなかっただけなのだろうが、自分に納得がいかないと動かないのだ。

 まわりはそんな人を友達だなんて思ってはくれないだろう。何かあっても、誰も助けてはくれない。すると孤立した自分に対しての苛立ちよりも、助けてくれなかったまわりに対しての苛立ちが募ってくる。最初はまわりに対して何も言えなかったのに、途中から言うようになると、主張がまったく違っているので、話にはならない。まわりは当然理不尽に感じ、苛めに走るのも仕方がないというものだった。

「どうして、僕が苛められなければいけないんだ?」

 と思ってみても、非が自分にあることに気付かない以上、まわりとは、交わることのない平行線を描くだけなのだ。一度描いてしまった平行線は、自分で意識できてしまうだけに、交わらないことも仕方がないと思って諦めてしまう自分がいて、そんな時のまわりとの距離は、想像もついていなかった。

 苛められっこだった自分もまわりから少しずつ相手にされるようになったが、それでも、異性に興味を持つようになるのが、少し遅くなってしまった。

 高校に入るくらいになって、やっと異性を意識するようになったが、それも理由としては、友達が女の子と一緒にいるのを見て、羨ましく見えることだった。女の子に対して浮かんでくる欲情ではなかったのだ。

 羨ましさが次第に欲情に変わってくるのだが、それはやはり歪んだ感情だったのかも知れない。そのせいもあってか、女性と仲良くなれることはなかった。自分から話しかける勇気もなければ、女性に対しての目が羨ましさも含んでいたため、少し違った目線だったに違いない。

「あの人、気持ち悪い」

 と、影では言われているような気がして、自己嫌悪に陥ったこともあった。確かに自分でも女の子を見る目に、欲情以外にも浅ましさが含まれていたように感じた。ただ、それは自分ではどうすることもできないことだったのだ。

 浩司の友達に、

「女の子を紹介してやろう」

 と言ってくれた人がいて、浩司も、

――これでやっと、羨ましくまわりを見ないで済みそうだ――

 と思ったのだが、それは、最初から相手に好かれるという自分勝手な想像が抱いた妄想に過ぎなかった。

 実際に会ってみると、会話などまったくなく、最初は、ウブな浩司を興味深げに見ていた相手の女の子も、次第にシラケてきたようだ。浩司の方も、相手に興味深げな目で見られたことで、余計に緊張してしまい、結局、一言も発することができなかった。

「こんにちは」

 という最初の挨拶すらできずじまいでは、相手から愛想を尽かされても仕方がないというもので、せっかく紹介してくれた友達の顔に泥を塗ってしまったという罪悪感も拭えなかった。

「まあ、仕方ないさ」

 と、友達は言ってくれたが、浩司自身、自己嫌悪に鬱状態が重なり、相当な落ち込み方で、立ち直るまでに、数か月かかったほどだ。高校時代の数か月は結構長く、無駄な時間を使ってしまったという意識が、今でも残っていたのだ。

 そんな浩司が、高校三年生の頃、毎日が悶々としていた。受験へのストレスも重なり、自分の精神状態を把握できなくなり、ほとんどの感覚がマヒしてしまっていた。ただ、それは浩司に限ったことではない。その感覚があるため、なるべくまわりの人に感覚がマヒしてしまっていることを知られたくないという思いが強かったのだ。

 だが、理由はそれだけではなかった。人に知られてしまうと、余計な気をまわりに遣わせてしまうという思いがあったからだ。浩司は別にまわりに対して義理堅いわけではない。人に知られて大げさに騒がれることを嫌ったのだ。大げさにされると、意識していないことまで意識せざるおえなくなってしまい、それが自分の首を絞めてしまうと思ったからだった。

 いっぱいではち切れそうになっているはずの神経を持った浩司の目には、制服姿の女の子の姿は眩しすぎた。それは、はちきれそうに思えていた精神状態が、実は隙間だらけであることを示していたが、その時の浩司にそんなことが分かるはずもない。

 胸の奥にしまっているつもりだったが、まわりにはこれほど目立つものはない。ほとんど誰もそのことについて触れる人はいなかったが、急に親友の一人に、

「それだけ女の子に目がいけば、精神的には大丈夫なんじゃないか?」

 と、言われたが、

「そ、そんなことはないよ。僕ってそんなに意識した目をしているのか?」

「ああ、いやらしいまでの視線だけど、でも、俺は悪いことじゃないと思っているから、敢えてお前に教えたんだけどな。何も言わない人たちは気付いていないんじゃなくて、気付いていて、敢えて触れないんだ。そのことに触れること自体が、罪悪だと思っているからな」

 顔から火が出るほど恥かしかった。でも、言われないと、気付いた時には遅かっただろう。気付かないなら気付かないでよかったのかも知れない。癖というのは、そう簡単に治るものではないだろうし、浩司自身、簡単に治るものだとは思っていない。何しろ、意識がないのだから、仕方がないというものだ。

――一生治らない癖なんだ――

 その時にそう思ったのは、意識しても、治そうとまで思わなかったからだ。思った通り、その癖は今でも残っている。治そうとしないからなのかも知れないが、それ以上に、性癖として生まれながらに持っていたものなのかも知れないとさえ感じるほどなのだ。

 その日、電車の中で見かけた女子高生、それは初めて見るはずなのに、以前にも会ったことがあるような意識があったからだ。彼女は、浩司のことをまったく意識している素振りは見せない。というよりも、誰かを意識するという素振りを一切見せないのが彼女の特徴だった。

 浩司は、彼女と話をしたような記憶が頭の奥にあった。どんな話をしたのかを思い出そうとするが、今度は、その時の自分をイメージすることができなかった。彼女と話をしている意識はあるのだが、その時の自分の顔はシルエットに包まれていて、自分ではないかのように見えた。

 シルエットの自分は笑顔を見せている。顔や表情は分からないのに、笑顔を見せているのが分かるというのもおかしなものだが、それは時々シルエットの男の目線に自分が入り込んで、彼女の表情を覗き込んだ時、思わず顔がゆるんでしまったのを意識したからだった。

 女子高生の名前は、沙織という。それはシルエットの男が教えてくれた。沙織はその男の前では絶えず笑顔である。普段見せない笑顔をこの時だけのために溜めていたかのようだ。

「俊二さん、どうして私を選んでくれたの?」

 沙織は、シルエットの男を俊二と呼んだ。俊二は、しばし考えたが、

「それは、沙織が一番分かるんじゃないかい? しいて言えば、沙織のすべてをこの俺が知っているからだということかな?」

 二人は愛を語らっているのだろうか? そのわりには妙に冷静である。

――感情を笑顔で覆い隠しているのかも知れないな――

 と、二人の精神状態を分析した。

――もし、自分がシルエットの男だったら?

 と思ってみたが、とても、そんなセリフは言えないだろうと思った。

 夢を見たり、妄想を繰り広げる時に出てくる自分を、正当化させたいという思いは、誰にだってあるだろう。

 沙織は、浩司にとってもいとおしく思える女性であった。性癖だけのせいではない。小柄で細身の沙織は、抱きしめればそのまま崩れてしまいそうなほど華奢な身体を、惜しげもなく浩司の前に投げ出し、貪るようにキスを繰り返す姿を思い浮かべると、恥かしさから顔が紅潮していることに気付く。耳たぶはまるで脈を打つほど真っ赤になっているに違いない。それは、グラマーが売りの麻衣とは正反対で、麻衣だけに惹かれていた時期があったことを思い出させたほどだ。

――そういえば、付き合っている複数の女性で、一人にだけ惹かれたという意識があったのは、麻衣だけだったな――

 決して、身体の魅力に溺れたわけではない。麻衣の魅力に溺れたのだが、確か、浩司にとって忘れられない言葉を言われたのが原因だったように思う。それなのに、最近は思い出そうとしても思い出せないのだ。どうしたことなのだろう?

――心の奥に封印してしまったのだろうか?

 浩司は一人で考えていたが、これは一人で考えていても出てくる答えではないような気がする。

 沙織が俊二との愛を語り合っているその後ろで、怪しく光った白い閃光を感じた。まるでオオカミの目のようで、優しさのかけらのない目であったが、そこに女の視線を感じたのは自分でも不思議だった。それはきっと、自分が犬好きで、犬の目線で見ることができるようになったからではないかと思えたのだ。

 犬のような優しい視線を思い出した時、浩司は意識が沙織から麻衣に移行していた。麻衣の優しい笑顔が目に浮かんだのだ。麻衣の優しさは一言でいうと、ふくよかさというべきであろうか。優しさというイメージにはいくつものパターンが含まれているように思える。優しさを女性に求める人は、自分が最初に出会った「優しさ」を本当の優しさだと思うのだろう。それは、まるで生まれたばかりのツバメが、最初に見たものを親だと思い込むのと同じで、実に自然なことだろう。

――では、なぜ、他の動物は違うのだろう?

 そちらの方が不自然な気がするが。本能で分かってしまうという動物も限られているのではないか。そう思うと、親子としての意識なくして、子供が育つということか、それではあまりにも、悲しい一生ではないだろうか?

 もっともそう感じるのは人間だけで、情というものがどれだけの動物に存在するのか、ひょっとすると人間だけなのかも知れない。裏切らないという感覚が他の動物にあるかわりに、人間には情があるのではないか。そう思うと、自分が人間として生まれたことをよかったと思っていいものかどうか、疑問に感じるのだった。

 浩司は、麻衣の制服姿を思い浮かべていた。すでに制服を身に纏っていた頃から十数年過ぎてしまった麻衣は、

「今さら、制服なんて」

 というかも知れない。

 だが、一旦想像してしまうと、妄想に行きつくまでとどまることを知らない。妄想には隠微な発想がつきもので、妄想が興奮を駆り立て、一人の世界を一番形成しやすい環境を作り上げる。

 妄想によって出来上がった一人の世界に、誰も入り込む余地などない。それが最愛の相手であっても同じだ。最愛であればあるほど、自分の妄想を知られたくない。それも一つの真理なのだろう。

 だが、この時の浩司は、自分の妄想に麻衣が入ってきてほしいと願っていた。一人で妄想するには恥かしいというよりは、妄想という時間を二人で作りたいとも思ったのだ。その理由は、麻衣には浩司が想像してもし足りない部分があり、それはどうしても麻衣本人がいなければ存在できないものだからである。

 願いは叶うものではないはずなのに、その時の浩司の思いに何が答えたのか、麻衣が現れた。ひょっとすると、二人の思いが共鳴したのかも知れない。一度共鳴してしまうと、どんなに離れていても関係はない。思いは一つなのだ。

 同じ時間に、違う空間で共鳴し合う二人、それは可能性というものが無数にあるとすれば、その無数の中の唯一のもので、可能足りうることなどありえないと思われていることだった。

――妄想の行きつく先を見たような気がするな――

 それほどのレアなケースなのに、しかもそれを意識していながら、浩司は冷静だった。

 制服の女子高生を見たことから、ここまでの妄想、そして、妄想の行きつく先に対しての考えを巡らせることができるなど、想像もつかなかった。

 麻衣は妄想の中で制服姿を惜しげもなく見せつけている。ただ、それは、浩司に対して見せつけているだけだった。まるでファッションショーのようないでたちは、どこかわざとらしさを含んでいるようで、最初に感じたほどの感動は次第になくなっていく。それでも麻衣の笑顔に変化はない。浩司が妄想をやめるまで、まったく同じ表情を繰り返すだろう。

――エンドレスの映像を見ているようだ――

 エンドレスの映像は、モニターの中だけに存在している麻衣の姿を次第に小さくしていく。そのうちに見えなくなってしまいそうなのだが、最後は限りなく無に近いほどの大きさになってしまうだけであろう。見えなくなっても存在していることで、気配は残る。浩司はその場から、妄想を消し去ることはできるのだろうか?

 麻衣はセーラー服が似合っていた。以前にも、麻衣で制服を妄想したことがあったが、その時はブレザーだった。ブレザーの中の落ち着きのある麻衣は、優しく微笑んでくれたが、それ以上を妄想することができなかった。

 セーラー服で妄想し直すことができ、麻衣の姿を再度目に焼き付けたが、今度は勝手に反応する身体が、悦びを訴えているのがすぐに分かった。

 妄想は、夢と違って、会話が成立している。

「麻衣、君を待っていたんだよ」

 浩司が語り掛けると、

「嬉しいわ。私も浩司さんを待ち望んでいたの。この身体があなたを欲しているの」

 その言葉を聞くと、背景には桜の花びらが舞っているのが見えた。生暖かい風が心地よく吹いてくるが。麻衣が発した言葉に、桜色が彩られ、浩司に向かってくるのが感じられるほどだった。見ようによっては、隠微なピンクにも見えるが、妄想の中での浩司は、淫靡には感じなかった。淫靡さは、発する声に反応するものではないようだ。

「浩司さんは、麻衣を愛してくれるの?」

「ああ、当たり前じゃないか。麻衣には僕しかいないんだろう?」

 と、言った瞬間に、

――しまった――

 と思った。自分には、他に付き合っている女性が数人いる。しかもそれを麻衣は知っていて、その話題を口にするなど、本来であれば、反則であろう。だが、麻衣は悲しげな表情を一つもせずに、

「そうよ、私は浩司さんだけなの」

 貪りついてくる唇は尖っていて、キスの醍醐味でもあった。舌を入れてくるまでの数秒間、身体がとろけるような気分にさせられる唯一の時間だった。浩司は愛を形にする過程をそれぞれで大切にしたい方だった。身体がとろける場面をここだけだと自覚しているだけに、キスをおろそかにせずに、気持ちが一番通じ合う時間だということを自覚している。麻衣も分かっているようで、浩司に委ねる姿勢を絶えず崩さなかったのだ。

 麻衣は浩司に委ねながら、乱れていく。

「ああ、早く浩司さんに出会いたかった」

 身体をのけぞらせながら、麻衣はうわ言を呟く。

「僕だってそうだ」

 浩司はビックリした。麻衣を抱いている浩司のセリフは、妄想している浩司の意識とは違っている。麻衣を抱いている浩司は、あくまでも妄想の中だけの浩司なのだ。妄想している自分は客観的にしか見ることができない。それなのに、快感は間違いなく浩司に襲い掛かってくる。

 ただ、快感を貪っているのは、妄想の中の自分なので、支配欲の強い浩司には、満足するには程遠いものがあった。

「麻衣、愛してるぞ」

「嬉しいわ、浩司さん」

 まるで他人事である。耳の奥に響いてきても、その声は明らかに他人だった。

――もっと、低くてハスキーな声だと思っていたのに――

 と自分の声を感じていたが、目を瞑って聞いていれば、まったく知らない人の声だったのだ。

 だが、セリフはいつもの言葉だ。それも自然と出てくる言葉なので、他人事のように聞いていると、恥かしさで胸の鼓動が静まらない。それに答える麻衣のセリフもどこか芝居がかって聞こえるのは、きっと耳元での声ではないからだろう。耳元での声であれば、吐息が混じっているので、さぞや興奮がみなぎってくるに違いない。浩司は麻衣を感じながら、目は虚空を見つめている。それはいつもの自分の行動だったが、妄想の中の自分の目には。何が見えているというのだろうか。

 麻衣は浩司の腕の中で目を瞑り、貪りながら、快感に身を反らせている。

――なんて、可愛いんだ――

 実際に抱いているよりも、妄想の中の自分に抱かれて乱れまくっている麻衣を見る方が興奮する。

――男がアダルトビデオを見て、興奮する気持ちを凝縮しているようだ――

 浩司もアダルトビデオに嵌った時期があった。学生時代のことだが、女性と経験する前も、女性を経験し、彼女ができてからも、行動パターンに変わりはなかった。彼女ができてからの方が、余計に興奮する。それは、女性を知っているだけに、自分の中に残った快感を映像に照らし合わせて、その違いからさらなる未知の世界を快楽という感情で満たそうと思うのだ。未知の世界は、妄想にとって、究極の終着点なのかも知れない。

「究極の終着点というのが存在し、そこを目指すんだけど、そこは到達してはいけない禁断の世界。到達すれば最後、すべてがリセットされ、足元がすべてなくなってしまうんじゃないかな?」

「どういうことだい?」

「目標ということさ。次の目標が見つかる前に到達すれば、目標を失って、自分の中がすべて空になってしまうということさ」

 そういえば、子供の頃、世界の果てを考えたことがある。それは浩司だけにとどまらずほとんどの子供が考えたことがあると答えることなのかも知れない。

 ただ、それほど大げさなものでなくても、浩司が考えていたのは、電車の終着駅についてだった。親に伴って電車に乗って、いつも出かける街の百貨店。父親が百貨店好きだったのだ。

「庶民のささやかな贅沢というところだ」

 と、嘯いていたのを思い出したが、百貨店は、今でこそ若者好みに作られているが、以前は、有閑マダムを中心に展開されていたところがあった。仲良さそうにしていても、心の底では見栄を張っている人をターゲットにしていたのかも知れない。

 だが、浩司はマダムが嫌いではなかった。特に昼下がりのオープンカフェに姿を見せるマダムの中には一人で佇んでいる人もいた。落ち着いて本を読んでいる人が多いが、そこには優雅な雰囲気が醸し出されていて、他の人との違いを見栄などで飾ろうなどという雰囲気をまったく感じさせないのが素敵に思えたのだ。

 百貨店までは、いつも電車で行っていたが、浩司はそれ以上向こうへは行ったことがない。てっきり、その向こうは電車では行けないところだというイメージがあったのだが、

――どうやってそこから先はいけばいいのか?

 という発想はなかった。

「そこから先を電車は繋がっているの?」

 と聞かれれば、

「それ以上は繋がってない」

 と答えるに違いない。

 夏休みなど、家族で旅行に出かけたりもして、特急電車で出かけるが、いつもより遠くに行っているにも関わらず、まったく違う路線を通って行っているだけで、若干の矛盾は抱きながらも、いつもの路線はやはり百貨店のある駅で終わっているという思いに変わりはなかった。

 麻衣の身体が自分に合っていると思ったのは、最初からではなかった。最初は、他の女と変わりない感じだったので、ここまで長く続くとは、正直思ってもいなかった。それなのに、麻衣だけで収まらないのが男の性というべきか、麻衣を知ったことで、もっと相性が合う女を探そうと思っていたのかも知れない。

 だが、麻衣を知れば知るほど、いとおしくなってきた。その頃には、麻衣だけでもいいと思うようになっていったのに反し。身体は他の女も求めてしまう。

 他の女を抱くことで、麻衣という女が素晴らしい身体をしているのだと、気付くことは皮肉なことだった。

 そんな麻衣にはウソをつけないと思ったのが、複数の女性を相手にしていることを誰にも隠すことはない、もし、それで嫌だという女がいるのだとすれば、少しもったいないと思うかも知れないが、その女性を切り捨てることも否めないと思っていた。

 その中で里美が最初に浮かんだのは、里美が最近、どこか上の空なところがあるからだった。

――里美ほど、気持ちを素直に表に出す女はいない――

 と思っていた。

 ただ、それを感じるのは、浩司だけである。

 表に一番出しているのは、麻衣だと誰もが言うに違いない。最初に里美を知らなかったら、浩司も麻衣が一番だと思ったことだろう。もっとも、里美が一番だと思ったのも、最初からではない、麻衣という女を知ることによって、里美が一番素直な女であることに気付いたのだった。

 里美に対してそろそろ潮時だと思ったことを、本人は分かっているだろうか?

 里美は、知っているように浩司には思えた。里美は勘が鋭いオンナだということは、浩司だけが知っている。浩司にだけしか心を開こうとしないのは、鋭い勘を他の人に知られたくないという思いも若干あるのかも知れない。

「里美は、本当に従順だね」

「嬉しい」

 従順という言葉の意味を本当に分かっているのかと浩司が思うほど、里美の表情には感情が現れていた。他の人の前では決して現さない浩司の前だけでの里美の表情だった。

 浩司は、麻衣と出会った頃のことを思い出していた。それは麻衣のことではなく、当時の自分のことだった。

 当時の浩司は、里美とつつがなく付き合っていた。別に他に付き合いた女の子がいるとか、気になる女の子がいるわけでもなく、里美一人に満足していたのだ。

 従順な女性をこよなく愛する自分の姿に酔っていたと言ってもいい。その頃に好きだった曲が浩司にはあったが、同じ曲を里美が好きだったというのも、里美に運命的なものを感じた一つだったのかも知れない。

 その頃会社でも、プライベートでもあまりいいことはなかった。極端に悪いこともなかったが、未来を感じさせるものがないことは、苦痛だった。

 いいことなのかどうか分からないが、今の浩司は未来について、さほど執着を持っているわけではない。

「なるようになるさ。いや、なるようにしかならないものさ」

 と、時々自分に言い聞かせている。その回数も最近ではめっきりと少なくなってきた。それは今の快楽に溺れてしまっていて、先のことに対しての感覚がマヒしてしまっているからかも知れない。一度覚えた快楽は、手放したくないという思いが本能的に浮かんでくる。年を取れば未来が近くなってきて、考えることを怖がっているのかも知れない。

 仕事は第一線の兵隊から、管理者になる。聞こえはいいが、

「自分でやった方が早いことか」

 と、何度思ったことだろう。先輩も自分たちを見て同じことを思っていたのだろうが、第一線の者は、自分たちのことで精一杯、それが会社を支えていると自負していたものだ。

 それなのに、実際に管理者になると、一生懸命にやるだけではダメだということを思い知らされる。一生懸命に仕事しやすい環境を作ってあげるのが、今度は自分の仕事になるのだ。

「一体、何からどう手を付けていけばいいんだ?」

 この思いはストレスに繋がり、いずれは部下と上司に挟まれたジレンマになる。

 会社でうまくいかないと、プライベートもうまくいかない。友達が少ない方だったが、次第に人と一緒にいることが億劫になり、家と会社の往復も辛くなる。何よりも時間が経つのが遅くなったのが一番辛いことだった。

 嫌なことがあっても、なかなか忘れてくれない。

「時間が解決してくれる」

 と言われるが、そんなのはウソで、解決してくれるはずの時間から、ストレスを溜める羽目に持っていかれるのだった。

「仕事と女、どっちを選ぶ?」

 と聞かれて、迷っていたのは、第一線に身を置いていた時であろう。管理者となってからは、迷わず、

「女だ」

 と答えることだろう。

 だが、さすがに上司の前で答えるわけにはいかず、酒を呑んだ時、夢の中だけで叫んでいたものだ。

 だが、夢の中で叫ぶ時、隣に誰がいたかが問題である。里美であれば、

「寝言だわ。疲れているのね」

 と許してくれただろう。だが、これが麻衣であれば、簡単には行かない。皮肉の一つや二つは確実に言われ、頭を上げることができずに、屈辱の時間を味あわされて、何とか解放してくれる。

 それでも、解放してくれるだけましかも知れない。他の女だったらと思うと、少し首筋に冷たいものを感じる。麻衣だからいいのだ。

 麻衣は、言いたいことを言ってしまえば、後は従順である。

「浩司さん、さっきは苛めてしまって、ごめんなさい」

 殊勝に頭を下げてくる。

――謝るくらいなら、苛めるなよな――

 と言いたい言葉を笑顔に変えて、ニッコリと微笑むと、麻衣もにこりと微笑む。これが浩司と麻衣が離れられない心地よい関係なのだ。麻衣の性格は竹を割ったかのようにさっぱりしていて、分かりやすい。

――やっぱり、麻衣だ――

 これが麻衣を好きになった最大の理由でもある。

――僕は、本当に麻衣に救われたんだな――

 女というのがどういうものかを教えてくれたのも麻衣だった。里美は自分のことが分からないだけに自分のことで精一杯だった。そんな里美を大切にしてあげるのが、自分の勤めだと思っていたことが、当時の浩司の生きがいでもあった。

――麻衣と出会わなければ、僕は今頃、どうしていただろう? ひょっとしたら、里美とも続いていなかったかも知れないな。何が幸せか分からないけど、今の自分が不幸でないことだけは、間違いないようだ――

 と、浩司は麻衣と知り合った頃のことを思い起こしていたのだった。

 気になる女子高生が浩司のそばに立って、毎日の通勤が楽しくなっていったのは、浩司にまだ純情な気持ちが残っていた頃だった。ある日を境に、浩司は自分に純情な気持ちが薄れてきていることを感じていた。しばらくすると、また純情な気持ちに戻るのだが、そのきっかけが、自分の中に寂しさを感じた時だった。

 寂しさは漠然としたもので、一抹の不安と言ってもいいだろう。

 不安と寂しさは切っても切り離せない関係にあることに浩司が気付いたのは、その時が最初だったかも知れない。何度も思い出すことになるのだが、それは、逆を言えば、何度も忘れてしまっているからでもある。

 不安は募っていくばかりのもので、完全に解消されなければ、心の隅で燻っているものであるが、減っていくものではない。寂しさも同じであるが、それを自覚することはあまりない。何かのきっかけがあれば、減っていくものではないかという意識もあるが、浩司には寂しさも不安と同じように募っていくものだと思うようになっていった。

 気になる女子高生は、浩司の近くに寄ると、意識が遠のいていくように見えた。まるで催眠術に掛かったかのように扉にしな垂れ掛け、たまに顔を上げると、目はうつろでトロンとしている。視線はまったく定まっておらず、上気した顔は、はち切れんばかりであった。まるで熱でもあるのではないかと思うほど上気した頬に、光るものが流れていた。

――涙?

 明らかに涙であるが、それほど苦しそうには見えない。むしろ、無表情な顔なのに、何かを求めているような雰囲気を醸し出していて、求めている顔をしながら、浩司を見つめているのだから、気にするなという方が無理である。

 涙が口の中に入っていくのが見えたが、彼女は、軽く舌を出して、涙を自分で舐めているようだ。しょっぱさなどまったく感じない様子だが、舐めた時に見せた一瞬の表情に、大人の色香を感じたのも事実だった。涙を舐めた瞬間、ふっと彼女の身体が宙に浮いたような錯覚を覚えた。そのまま浩司に倒れ掛かっていくのだが、最初から身構えていた浩司には、彼女を支えることができたが、次第に身体に重みを感じるようになり、石のような重たさを感じさせるのだった。

 催眠術などのように、完全に本人に意識がないことを、重たくなっていく彼女の身体が示している。浩司は思わずまわりを見渡し、そこに彼女を蹂躙している誰かがいないか、探してみたのだった。

 彼女の顔が、「大人のオンナ」に変わっていくようだった。制服の少女というと、ノーメイクですっぴんというのが、浩司の印象だったので、戸惑いが少なからずあった。しかし、彼女から相変わらず目を離すことができずに、ずっと見つめていた。なかなか上を見上げることができずにいるようだったが、思い切って見上げたその視線は、いきなり、浩司の視線とぶつかったのだ。

 その表情にドキッとしてしまった。大人の表情の女性とあまり顔を合わせたことのない浩司には刺激的だった。しかも、こんな近距離で、どんなに抑えても聞こえてくる小さな吐息を聞き逃さないようにしようと、浩司は耳を必死に傾けていた。まわりの喧騒とした雰囲気が次第に静まり返っていき、二人だけの世界がそこには形成され、化粧の匂いが漂っているのを感じていた。

「あれほど、百貨店で嗅ぐ香水の匂いが嫌いだったのに」

 彼女の毛根から醸し出されているかと思うほど、香水には、女の香りが混ざっているかのようだった。上司に連れられて出かけたクラブで嗅いだ匂いを思い出す。そこで嗅いだ香水の香りが漂っていたのだ。

 クラブに連れて行かれた時、浩司は最初から最後まで戸惑いっぱなしだった。三十歳近くになっていたのに、まるで童貞に戻ったかのような感覚に、恥かしさで顔から火が出そうになったほどだったが、ホステスの人たちも心得たもの、客に恥を掻かせまいと、会話でうまく繫いでくれた。それくらいはお手の物といった雰囲気で、さぞや百戦錬磨を思わせた。

 それでも、浩司にはありがたかった。ホステスとはいえ、彼女たちも一人の女性、視線を合わせれば微笑み返してくれて。その表情は、その場で救われた浩司の気持ちを和らげるに十分なものだった。

 スナックを思い出しながら、どれくらいの時間、電車の中で過ごしたことだろう。足もだいぶ痺れてきて、先ほどから足の痺れも止まらない状態だった。その時の浩司は、自分のことに精一杯で、隣の女の子を意識はしていたが、ほとんど見ているわけではなかったのだ。

 足の痺れが収まり、彼女のことを意識してみると、しばらく浩司に倒れ掛かりながら、意識が朦朧としているようだったが、今度は、本当に寝てしまったようだった。その表情は、純真無垢そのもので、浩司の胸の鼓動は早鐘のように高鳴っていった。

 寄りかかった胸は服の上からでも十分に弾力を感じる。暖かさが伝わってくるのが感じられるほどで、肘が自分の身体から離れて、勝手に動いてしまっているようだ。

――このままではいけない――

 他の人の様子を伺ったが、幸いにもこちらを意識している人はいない。下手におどおどしていると、悪いことをしているわけでもないのに、いかにも不審者に間違えられてしまいそうだ。

 肘でついていると、彼女の胸の鼓動も感じられたが、次第に、その感覚がなくなってきた。どうやら、肘の振動と彼女の胸の鼓動が同化してしまったようだ。それを浩司は自分に都合よく考えた。

――これは彼女と僕が、波長が合っているということなんだろうな――

 一旦、信じてしまうと、疑うことを知らない。しかも、自分にとって不利で危険な状況にありながら、そんなことが考えられるのが不思議に思えた。

 しかし考えてみれば、こういう状況だからこそ、自分に都合よくしか考えられないのかも知れない。悪い方に考えてしまえば、どんどん悪い方に傾いていく。精神的に悪い方に傾いてしまうと、招かれる結果は、おのずと悪い方にしか向かないだろう。浩司は自分の考えに陶酔し、従っていくしかないと思うようになっていた。

 女子高生は、まだ眠りに就いている。スースーと軽い寝息を立てているが、この満員電車の奥に押し込まれている状況で、よく眠ることができるというものだ。

 浩司は、まだ、まわりを気にしていた。いくら、世間の人が自分のこと以外に無関心だとはいえ、女子高生にもたれかかられている状況で、少しでもおかしな動きをしてしまうと、それが発覚してしまえば、どんな言い訳をしても逃れられないだろう。

 浩司の頭の中に冤罪という言葉が浮かんだ。テレビのニュース、テロップが頭を巡る。

――公務員だったら、実名だろうな――

 自分が公務員でないことにホッとした浩司だったが、そんな問題ではないと、再度我に返っていた。

 浩司にとって、満員電車は今まで、鬱陶しいものだというイメージ以外には何もなかった。女子高生が気になることもあったが、自分とは実際以上に距離のあるもので、彼女たちから見れば、すれにおじさん。バカにされる姿が目に浮かんでくるが、そんな馬鹿げたことを想像していた自分の情けなさに、思わず溜息をついていた。

 胸の大きさは、麻衣を思わせ、下を向いたまま顔を上げようとしない素振りは、里美を思わせる、

――誰かもう一人、彼女の中にいるような気がするんだが――

 浩司は今自分が付き合っている女性を思い浮かべたが、その中にはどうもいないようである、

 確か里美と付き合い始めて、麻衣と出会うまでにもう一人付き合ったことのある女性がいた。浩司は今その女性のことを思い出そうとしていた……。


「私、そのうちに誰かに殺されるわ」

――なんと物騒なことを言う女なんだ――

 里美と知り合ってから、半年が経とうとしていた。里美はすでに浩司に馴染んでいて、浩司も里美一人いれば十分だと思っていた。

 ただ、男としての性を里美と知り合ってから感じるようになったことで、女性と知り合う機会が増えたことは否めなかった。

 上司に連れていかれたクラブ。その店に行ったのは一度きりだったが、その店の近くにあるスナックには、何度か通ったことがある。今ではそのまま常連となってしまった。

 店に名前は、スナック「モダンバタフライ」。和風の雰囲気が表からは見て取れたが、中に入れば洋風だった。

「騙しみたいでしょう? でもこれが私の趣味なの。お客さんが拍子抜けた様子を見せながら、すぐに冗談っぽく文句を言う。それが私には見ていて快感に思うくらいに楽しいことなのよ」

 三回目には、すでに常連になってしまっていた。ほとんどの客が常連なので、二回目に来た時点で、店側からは、常連の仲間入りだと思っているようだ。

「こんな僕でも常連なんですか?」

「もちろんですよ。このあたりはクラブなどの高級店が多いでしょう? 私どもには肩身が狭いところなんですよ」

 と言って、マスターが笑ったが、それは開き直った笑いではなく、本当に楽しくて笑っているのだ。人の顔色を見抜くのはどうも苦手な浩司だが、笑顔が本物かどうかを見抜く力は、人よりも秀でているのではないかと思う浩司だった。

「モダンバタフライ」には、女の子が常時三人いた。時間帯によっては二人になることもあるようだが、三人は多すぎるのではないかと思っていたが、客が増えてくるとそうでもなかった。何しろ常連で持っているお店である。客のそれぞれに贔屓の女の子がいるので、三人とも手放すわけにはいかなかったのだろう。

 最初にこの店に来る気になったのは、上司から連れていかれたクラブの帰りに、立ち寄ったことからだった。上司から連れていかれたクラブに、急に取引先の専務から連絡があり、

「すまない。急に接待の連絡が入った。今日は悪いが、一人で帰ってくれんか?」

 と言われたのだ。キープしたシャンパンは、呑んでいいということにしてくれていたので、

「安心して、このままゆっくりしていってくれ」

 と、肩を叩かれて、上司はその場を後にした。

 クラブに一人取り残されてしまっては、いくらキープを呑んでいいと言われたとはいえ、ゆっくりできるほど肝が据わっていない。第一、酒が喉を通らないだろう。

 かといって、すぐにお暇するのも、わざとらしい。ついてくれた女の子と適当に話をしてから、

「それでは私は」

 と、そそくさと立ち上がった。態度としては、落ち着いていたように見えるだろうが、内心では気が休まることはない。しかもそんな浩司の精神状態などは、海千山千のクラブホステスの皆さんには、すぐに分かってしまうことだろう。

「ありがとうございました」

 一斉に声が上がると、思わず手を振ってしまった。それが正しいことなのかどうなのか分からなかったが、そうせざるおえなかったのもその時の精神状態を表しているものであった。

 店の外に出ると、一気に寒気が襲ってきた。風の強さも感じられ、骨身に沁みるとはまさしくこのことだろう。

 二、三度身震いして、コートの襟を立て、

「さぶっ」

 と一言言い。寒空の中を一人、歩き始めた。

――こんなに表が暗くて、寂しかったなんて――

 クラブには車で乗り付けたので分からなかったが、表に出て、まっすぐ歩いて行く分には明るいところに出ていくという印象だが、駅に向かったり、大通りに出るために歩いて行く分には、寂しいところを歩かなければならなかった。

 ただ、目が慣れてくると、ところどころにお店の跡があるのが見て取れる。

――このあたりは、以前も活気があったのかな?

 と想像でき、それは、さっきまでいたクラブの存在が、このあたりの店の衰退に影響を及ぼしているのではないかと思うと、複雑な気分だった。

 店の中には、細々とであるが、経営している店もある。店の中には、照明があまりくらくない看板を出している店もあり、

――ひょっとすると、裏商売をしているのかも知れないな――

 と、もし、客が出てくるとすれば、どんな客か、見てみたいと思ったが、残念ながら誰も出てくる様子もない。気が付けばそこで二十分も費やしていて、すっかり身体が冷えてしまっていた。

――どこかのお店に入ってみるか――

 この界隈の店の相場が分からないのが不安であったが、

――嫌なら二度と来なければいいんだ。二万も三万も取られることはあるまい――

 風俗の中に、三十分、五千円ポッキリなどという如何わしい看板でもない限り大丈夫であろう。浩司は思い切って、限られた開いている店の中の一つに入ってみる決意を固めていた。

――どうせ、こんな精神状態で帰るのも嫌だしな――

 本当であれば、風俗に行くのが簡単なのだろうが、探す時に限って見つからないものである。もっとも、こんな路地に風俗があるとも思えないが、歩いてみる限りは確かになかった。

 その日はそのまま帰る気にはどうしてもられずに、

――どこかで手を打つか――

 と思い、飛び込んだ店が、「モダンバタフライ」だったのだ。

「今から思えば、危険極まりないよね」

 と笑いながらマスターに話したのは、常連になってしばらくしてからだった。

「どうして、佐久間さん。うちの常連になってくれたんでしょうね?」

 理由などない。いや、厳密にいえば理由がないなどありえない。どんなことにも理由はあるだろう。ただ、言葉にするのが難しいのだ。何といえばいいのだろう?

 この店で最近まで働いていた由香という女の子が、実は今は浩司と付き合っていたのである。

 店を辞めたのは、別に浩司と付き合い始めたからではない。店を辞めるまでは浩司と身体を重ねたこともなく、浩司自身、それほど由香を気にしていたわけでもなかった。

 だが、気になっていたのは由香の方だった。なかなかそのことを浩司に告白しなかったのだが、つい最近、告白した。

「本当は、もっと前から言いたかったんですけどね。なかなか言いそびれてしまって」

 由香は浩司と年はほとんど同じだった。それなのに由香は浩司に対して敬語を使う。

「別に敬語じゃなくっていいんだぞ」

 と言っても、

「いいんですよ。私が使いたいんですから」

 由香は、母子家庭で育ったことで、他人に対して敬語を使うことは必須になったと言っている。母親に対してもほとんどが敬語だという徹底ぶりだった。

 スナックのマスターも、由香のことを気に入っていて、

「由香ちゃんのような女の子を、大和撫子って言うんだろうね」

 と言っていたが、まったくの同感だった浩司も、ただ二、三度何も言わずに大きく頷くだけだった。

「マスター、おだてても何も出ませんよ」

 と、顔を真っ赤にしておちゃらけて見せた由香の表情は、まさに少女そのものだった。

「三十歳にはとても見えないよ。セーラー服でもまだいけるんじゃない?」

 浩司もおどけて笑いながら言ったが、実は半分本音だった。

――由香にセーラー服を着せてみたい――

 と思ったのは事実で、ただ、もし着せたとすれば、自分の中にあるSの部分が顔を出し、苛めてみたいという性癖が湧き上がってくるようで、想像しただけで、ゾクゾクしていた。だが、その思いを一瞬だけにすることができるのも浩司の性格で、その場の和みの中に、想像、いや、妄想したものをしまい込んだのである。

 由香が店を辞めることは、浩司はもちろん、マスターもいきなりだったという。いきなりと言っても、契約上の決まりは守っていたのだが、マスターにしてみれば、

「何か気に入らないことでもあるの? こんないきなり……」

 いきなりと思うのも無理はない。今まで一番店に馴染んで、長く勤めていたのが、由香だったからだ。

 由香が店を辞めた時、常連の何人かも店に来なくなった。それだけ由香の人気は高かったようだが、だからといって、店が傾くようなことは当然ない。新しい女の子も入ってきて、違った意味での活気が店にはみなぎっていたからだ。

 由香は、どこか天然のところがあった。これが会社勤めのOLならば、上司や同僚、部下からさえもバカにされたり、陰口を叩かれたり、愛想尽かされたりしたかも知れない。しかし、スナックでは愛嬌で済まされるのだ、由香の場合は愛嬌にふさわしい笑顔がある。それは誰もが認めるもので、そうでなければ、店の看板娘と言われることはなかっただろう。

 浩司も、最初由香が店の看板娘と言われていることを知らなかった。言われても、俄かには信じがたく、

「それ、何かの冗談?」

 と、本人を前にして、敢えて言ってみた。

「うん、冗談だよ」

 と、実に素直な回答が返ってきた。

 この回答は、本当に天然なのか、それとも、よほど肝が据わっているかのどちらかだろうが、どう見ても、天然にしか見えなかった。

――天然だから、由香なんだ――

 と、付き合い始めて、浩司は感じたが。天然という友達が身近にはいなかっただけに、浩司にとって、新鮮というよりも、興味深いものだった。興味深さが浩司の中で、由香に対してのイメージを少しずつ変えていく。そう、あくまでも少しずつであった。

 これが、急激な変化であったら、浩司は由香と付き合おうなどと考えることはなかったに違いない。変わっていくのは分かったが、あまりにもゆっくりなので、想像していた変化よりも、かなり大きな変化が浩司に訪れたようだ。浩司にとって由香という存在は、友達を通り越して彼女となった。ただ、その間の空白は、一体どこに行ってしまったのか、自分でも分からなかった。

 浩司は今まで女性と付き合うまでのステップとして、必ず友達というステップがあった。しかし、由香に対しては、友達というステップがなかったのである、ステップは自分の中で作り上げるものだというよりも、糧に形成されるもので、後になって、それが友達だというステップだったと気付くのだった。

 天然の由香が仕事を辞める時は、度胸が行ったことだろう。

 そのまま勤めていれば、まわりに気を遣う人はおらず、気軽にやっていけるものを、職場が変わることで環境が変わり、まわりすべての人に気を遣わなければいけない。何よりも、ほとんど全員が由香のことを知らないのだ。

 新しい職場は、母親の紹介だと言っていたが、昼間の仕事だった。事務員ということなのだが、簿記の勉強をしたわけでもなく、机に座ってのデスクワークができるかどうか、想像してみたが、イメージがどうしても湧いてこないのだった。

 由香は、人の引き立て役としては秀でていたかも知れない。場の雰囲気を和ませることも彼女の特技と言ってもいい。曲がりなりにもスナックで仕事をしているのだから、何か秀でたものがないと、なかなかもつものではない。

「天は二物を与えず」

 というが、由香の場合は正反対のことわざがふさわしい。

「捨てる神あれば拾う神ありだな」

 と、店の他の客からからかわれていたことがあったが、まさしくその通りだと、今さらながらに思うのだった。

 その時も、まさしくその通りだと感じたが。由香に興味を持った瞬間はいつかと聞かれれば、

「捨てる神あれば拾う神あり」

 と、皆からからかわれていた、その時だったに違いない。

 スナックの女の子と、店の外で会えば、声を掛けてほしくない女の子と声を掛けられたい女の子ではどちらの方が多いだろう? 馴染みの客なら、声を掛けられると嬉しいかも知れないが、興味本位で声を掛けられるのを嫌う女の子は、なるべく放っておいてほしいと思うに違いない。

 ある日、前を歩いている時、急に前から女の子が手を大きく振って、こちらに近づいてきた。まさか自分に対してなどと思ってもみなかったので、まわりを見渡せば、誰も何も反応していない。

 浩司は、あまり視力のいい方ではないので、自分だと思っても、相手が誰か分からなかった。髪を後ろで結んだおさげ髪にしていた。手を目いっぱい開いてこちらに手を振る女の子は、まるで女子高生だった。

 それが由香だと気付いた時、

――やっぱり――

 と思ったのも事実で、確か昼の仕事を始めたという話を聞いた翌日だったと思う。もし、由香に会ったとしても、ビジネススーツしか想像していなかったので、普段着の由香はまったくイメージが違っていた。

 由香がこれほど大きいと思ったことはなかった。思い切り両手を広げてこちらに向かって手を振っているのだから、当たり前であろう。

――そこまで僕に会えたのが嬉しいのか?

 と思うと、自然と顔が綻んでくるのを感じる。由香は、他の女性たちと違って飾ろうなどという意識はない。ないわりに出来上がった形は芸術的なのだ。そういえば、芸術家と言われる人たちは一風変わっている人たちが多い。由香のその中の一人だと思うと、

――由香とこれからも一緒にいることができれば素敵なことだ――

 と、思えるようになった。

 浩司は里美とのことを忘れていたわけではない。むしろ、里美と由香を比較していたのかも知れない。里美には里美の魅力があり、由香には由香の魅力がある。しかし、里美のことを考える時、里美のことだけを考えることもできるが、由香と比較してみることもできる。しかし、由香に対しては、その時はまだ、里美との比較でしか、由香を見ることができないでいた。

 もちろん、最初から由香と付き合うことになるなど、考えていたわけではない。由香を意識したとしても、それは友達としての意識だけで、付き合うなどという気持ちは起こるはずなどないと思っていた。万が一起きたとしても、由香を里美との比較としてしか見ることができないのだから、付き合うところまで行くはずはないというのが、浩司の考えだった。

「由香は、よく僕だって分かったね」

「うん、浩司さんだってすぐに分かったんですよ。だって、浩司さんが大きく見えたんだもん」

 浩司は確かに慎重は百八十センチ以上あり、遠くからでも目立つのだろう。

「大きく見えた?」

「普段の浩司さんもお店では大きく見えていたんだけど、明るい時に見ると、特に大きく感じてしまったのよね」

――おや?

 お店ではいつも敬語しか話さなかった由香が、明るいところでは、敬語というよりも親しげに話しかけてくる。これほど嬉しいと思うことはないが、やはり、明るさの中でひときわ目立つ何かが、浩司と由香の間には存在しているに違いない。

 普段から天然を「売り」にしている由香だったが、時々、ドキッとすることを言うことがあった。

 予言というには大げさではあるが、由香が、

「何となく予感がするのよ」

 と言った時に口から語られた内容には、信憑性があった。

「今日、身近な人の中で、交通事故に遭う人がいるわ。気を付けた方がいいんだけど」

 などと、漠然とした幅の広い「予言」をして、

「何をバカなことを言っているの。その人が誰なのか特定しないと、気をつけようもないじゃない」

 と言われて、それ以上言い返しようのない由香だったがその時の表情がいつもの天然と違っていることは、誰もが口にしないだけで、気持ち悪く思っていることだろう。

「確かにそうね。でも、私の予感って、結構当たるのよ」

 普段から引っ込み思案で、人と話す時も不安がみなぎった表情をしている由香なのに、予言をする時の由香の顔は真剣そのもので、普段との違いから、皆恐ろしく感じていることだろう。

 言葉遣いも、普段の敬語はまったくない。自分がまわりよりも上であること、そして、予言者としての貫録すら見せられては、さすがにいつもの由香と話をしているのとわけが違うことも皆分かっている。

 敬語を使わない由香も、浩司には魅力だった。普通敬語を使わないというと、親密な関係になっているということで、喜ばしいことなのだろう。浩司も由香が敬語を使わないことをいいことだと思っているが、それは、喜ばしいという発想とは少し違っている。

 引っ込み思案が解消されるということの方が、浩司にはありがたかった。ただ、それでも自分に対してだけは他の人と違っていればそれでいいという考えで、自分のものにしたいというところまでは行ってなかった。

 自分のものにしたいという表現が、もっとも似合わないはずの相手が由香だったはずだ。由香には闇を照らす者と、明るさの中でひっそりと静まっている者との二人が存在している。そのどちらかだけをまわりが知っていて、両方知っているのは、浩司だけであってほしい。それは二重人格という性格を、自分だけのものにしておきたいという思いがあるからであった。

 由香の予言は、いわゆる「虫の知らせ」である。特別に霊感の強い人は、誰のまわりにもいるだろう。ただ、今まで浩司のまわりにはそこまで的中する人はいなかったので、少しビックリしている。最初は、そんな由香には人間として興味はあったが、女性として意識することはなかった。

 それにしても、普段とのギャップの何と激しいことよ。

 普段はいつも何かに怯えている。しかし、もう一つの顔を見ることで、由香のことが分かってしまえば、何ということはない。由香が怖いのは、「人間」なのだ。

 とは言うものの、由香ほど人間臭い人はいないとも言えるのではないだろうか。天然で、ボケているのか、本気なのか分からない。それでいて、「虫の知らせ」がある時は、それまでの自虐的な性格はどこへやら、思い切り自信が全身からみなぎっているのを見て取れる。

 由香にとって、人との付き合いは、何なのだろう?

 何とかボケることで、人から敵対されないようにしているのは、まるで動物が保護色で身を守るかのようである。防衛本能が人よりも強く表に出ているということか? それほど由香には人には言えない何かがあり、防衛本能を表に出してまで、自分を守らなければいけないのだろう。

 由香が、お店を辞めなければいけなくなった理由は、「虫の知らせ」を予言する由香の存在が少なからず影響しているのではないか。それ以外に由香がお店を辞める理由が思い浮かばない。思い切って、家で母親に相談し。昼の仕事を探してくれたのかも知れない。それよりも、浩司には、由香が母親にスナックで勤めていることを最初から話していたかどうかも疑問だった。由香の性格からすると、母親には怖くて話していないように思う。

「夜の仕事なんて、あなたに勤まるのかしら?」

 と、それほど厳しい口調で言われたのではなくとも、由香には、少々優しさが籠ったくらいの中途半端な言い方をされる方が、きっと精神的にきついのではないだろうか。

 それでも、誰にも言えないほどの辛さを一身に背負って、何とか頑張ろうとしたが、結局ダメで、親に相談することになったのだろう。

 浩司の勝手な想像であるが、当たらずとも遠からじだと思っている。それは由香と付き合い始めてからも、その思いに変わりはない。

――由香の本当のことは、僕にしか分からないんだろうな――

 と、付き合い始めてから感じるようになった。

 普段の由香は、自分が虫の知らせモードに入った時のことを覚えていないという。となると、虫の知らせモードの時の由香も普段の由香を覚えていないだろう。

 由香に対して浩司は二つの思いが存在する。

――一番話しやすい相手と、一番声を掛けにくい相手が共存しているのが、由香なのだ――

 という思いである。

 普段の由香ほど、誰よりも話しやすい相手はいない。それは由香にとっても同じことで、だからこそ付き合い始めたのだが、お互いに惹き合っているのも間違いない。

 しかし、虫の知らせモードの由香は、普段の由香を知っているだけに、そして、普段の由香のすべてを知っていると思うだけに、声を掛けることすらできなくなるほど、浩司にとって、接しがたい相手である。

 由香としてもそうだろう。いや、由香自身が一番怖がっているのかも知れない。普段の由香が、天然なのは、ひょっとすると、もう一人の自分の存在による反動のようなものなのかも知れない。

 たまにしか出てこないと思っていた、虫の知らせモードの由香だが、本当は、半々くらいなのかも知れない。無意識のうちにコントロールしていて、浩司の前ではなるべく、普段の由香でいるのだろう。

 では、虫の知らせモードの由香は、誰か違う人の前にいる時に多く現れているのかも知れない。そう思うと、由香の背後に、誰か男性の影があっても、不思議ではない気がしてくる。

 しかし、よほどお物好きでもないと、もう一人の由香を付き合おうなどと思わないのではないだろうか。自分だったら、嫌である。普段の由香を知っているからなのかも知れないが、どう接していいか分からない相手というイメージしか、浩司にはないからだった。

 浩司は、由香のことは信じられるが、もう一人の由香の存在が気になって仕方がない。もう一人の由香の存在が、普段の由香との付き合いを壊しかねないと思うからだ。ひいては、その時付き合っていた里美との関係も、崩れてしまうのではないだろうかと心配になってきた。

――僕って心配性なんだよな――

 と、思ってしまうが、それも浩司の性格の一つだった。

 冒険心は多いのだが、それ以上に心配性なので、人は慎重派だと思っているだろう。だが、浩司にも二重人格的なところがあり、ただ、由香と違うところは、二重人格であることを、人から指摘されなくても分かっていることだった。

 浩司が今までに知っていた二重人格と思える人たちは、浩司に似ていた。皆それぞれに自分が二重人格であるという自覚を持っている。

 ただ、全員が全員、二重人格のもう一人の自分の存在を知っていても、性格や、それがまわりの人にどれほどの影響を与えているかまで自覚している人は、さほどいないようだった。

 確かに自分の性格を把握するのは難しい。一つの性格だけでも難しいのに、二つあるのだから、それも当然だろう。しかし、浩司には少し違った考えがあった。

「一つでは分からなくても、二つなら分かることもあるということさ」

 友達と性格について話したことがあり、その時の会話だ。

「どういうことだい?」

「一つだと、一方向にしか目が向かないだろう? だけど性格が二つで、しかもそれぞれが相反する正反対に近い性格であれば、一つを漠然としてでも分かってしまえば、もう一つはそこから反対を見れば、見えてくるものもある。正反対というのは、意外と分かりやすいもので、少しずつ端の方から詰めていくと、結構性格のパズルを埋めるのは、そう難しいことではない」

「お前は変わってるな」

 と、友達はあきれ顔で、浩司に向かって言った。

「性格をパズルのように考えることを、冒涜のように思っている人もいるかも知れないが、僕はそうは思わない。利用できて、それが正確に答えを見出せれば、それでいいのではないかとね」

「楽天的なんだな」

「いつでもそうだったら、気が楽なんだけどな」

 と、自分の二重人格性を振り返った。

 浩司は二重人格を最初は、嫌で嫌で仕方がなかったが、程度の差はあれ、誰もが二重人格ではないかと思うようになると、少し気が楽になってきた。だからこそ、楽天的だと言われるのかも知れない。

 由香の前では、なるべくもう一人の由香の話をしないようにしていた。下手に心配を掛ける必要もない。浩司としても、普段の由香でいてくれればそれで十分だったからだ。

 だが、浩司がそう考えるようになってからもう一人の由香が浩司の前に現れることが多くなってきた。それはまるで浩司の気持ちを知った上で、計算ずくのようであった。

「あなたは、私の予言を信じているんでしょう?」

 いつになく氷のような表情は、普段の由香をまったく感じさせない。知らない人が見れば、誰が同一人物だと信じるだろうか。

「ああ、信じないね。僕は君の存在自体信じたくないと思っているほどだよ」

「そうでしょうね、あなたの性格ならそれは分かるわ。あなたは由香を本当に愛しているのね」

「ああ、そうだよ」

 と、言いながら、浩司の脳裏に里美の顔がちらついた。それを相手に悟られないようにしようと思うと、気を遣ってしまうのだ。

 目の前の由香は、浩司の一瞬の変化に気付いていないようである。ホッと胸を撫で下ろした。

「でも、浩司さんには何か秘密があるような気がして仕方がないのよ」

――鋭い――

 この鋭さは、普段の由香には絶対にないものだ。由香だから里美のことを知られずに済むだろう、ひょっとして由香と付き合いたいと思った気持ちの中に、そんな打算的な気持ちがあったのかも知れない。打算的というよりも、考え方が確信犯なのだ。それにしても、この女の勘の鋭さはどういうものなのだろうか? やはり、普段から影となり、表に出ることをずっと抑えていると、勘も鋭くなるのだろうか?

 それとも元々勘の鋭さから、表に出ないのかも知れない。

 浩司は由香を一人の人間として考えてみた。

 もし、由香が元は一人の人間だとすると、どこかで分裂するために、選択が行われたはずである。二人の性格になるのだから、いくつかある特徴をどちらに持っていくかということであるが、その選択がどちらの由香に対しても、罪深きものであるとすれば、浩司は由香という女性は、本当にかわいそうなのだと思う、

 浩司が由香に惹かれたのは、普段の由香を見ているからだけであろうか? もう一人の由香の存在も知っていて、それで二人をひっくるめて惹かれているのかも知れない。

 浩司は、普段の由香だけを考えようとしてみたが、もう一人の由香の存在を知ってしまうと、すでに一人のことだけを考えることは難しくなっていた。それは、もう一人の由香が怖いとかいう段階ではない。由香の方が浩司に対してどう考えているかが、怖くなっているのも事実だった。

 由香と一緒にいると、夢を見ているように思う。普段の由香自体が、浩司にとっては夢なのだ。

――こんなに純粋無垢な女性がいるなんて――

 天然というのは、裏を返せば純真無垢な女の子のことである。迷惑を掛けられることもあるだろう、だが、それもいとおしさの代償だと思えば何でもないことだった。

 里美に対しても同じような思いを抱いている。もちろん、それぞれに違う性格なので、違った意味での純真無垢なイメージで、自分からのいとおしさなのだ。

 純真無垢という言葉にもいろいろなイメージがあり、その中に里美と普段の由香が含まれる。今から思えば、麻衣も当然に含まれている。

 三人の中で一番素直なのは誰かと聞かれれば、答えに困ってしまう。

 浩司に対して素直なのは、普段の由香であろう、一生懸命に尽くしてくれようとするのは、三人三様なのだが、それぞれに違っている。由香だけは、そんな中で、まったく損得から無縁であった。

 麻衣も分かりやすかった。

 麻衣の場合は、基本として、

「自分が一番、可愛い」

 のである。快楽を得るために浩司に尽くす。それはある意味一番女らしいと言えるかも知れない。それが浩司には嬉しくもあり、くすぐったくもあるのだ。

 里美の場合は、自分でも、浩司に対してでもない。自分を分かっていない里美は、必死に自分を探そうとしている。そのために浩司にしがみついているというのが、見たそのままであろう。実際には違っているのかも知れない。ただ、そんな中でも里美にも損得はないだろう。損得ではなく、必死にもがいているのだ。必死にもがいている人間が、損得を考えるというのもおかしい。そこが、また浩司が里美に惹かれる理由でもあった。

 もう一人の由香は、予言できると言った。ということは、その時すでに、由香には里美以外にも、まだ浩司すら知らない麻衣の存在を予見していたのかも知れない。そういえば、麻衣と知り合ってからすぐ、もう一人の由香が急に現れなくなった。麻衣に溺れかけていた浩司は、感覚がマヒしかかっていたせいもあってか、不覚にももう一人の由香の存在を忘れてしまう結果になってしまったのだ。

 それが、浩司に大きな後悔の念を残してしまった。後悔の念を引きずったままいると、今度は、もう一人の由香に会いたくてたまらなくなる。

――何とも因果な性格ではないか――

 と、浩司は思うようになっていた。

 一度忘れてしまうと、記憶から抹消されてしまったかのようで、あれだけ普段の由香がいいと思っていた気持ちが、物足りなさを帯びたようになった。

――これって、もう一人の由香が僕の気持ちを知っていて。弄んでいるのかな?

 と思うようになると、さらにもう一歩踏み込んだ考えも生まれてきた。

――もう一人の由香というのは、本当は架空の存在で、由香は一人ではないか。一人の由香が、僕をもてあそぶかのようにしながら、巧みに二重人格を演じているのかも知れない――

 そう思うと、ゾッとしてきた。

 由香がいとおしくてたまらないと思っていた気持ちの中で、自分に従順な由香を支配しているような気持ちになっていたのにも関わらず、

――実際に操られていたのは自分だったのではないか?

 などと思ってしまうと、

――因果な性格は自分だけではなく、由香の方にあったのだ――

 と思わずにはいられない。そうなると、由香にとって浩司を手放したくないと思うのは必然で、もう一人の由香が顔を出さないのは、浩司に自分を気になるようにさせるための計算ずくでのことだと思うと、恐ろしく感じられるようになる。

 由香という女性を、

――彼女は天然の女の子だ――

 と思っているのは、ひょっとすると浩司だけなのかも知れない。他の人には普通の女の子に見えていて、浩司にだけ、二重人格に見えているのかも知れないという感覚は、突飛過ぎるだろうか?

 そういえば、由香のことを二重人格だと言っている人はいない。予言というのも、占いの類だと思うと、普通の女の子と変わりはないだろう。浩司が由香の後ろを気にしすぎているからなのかも知れない。いや、由香の後ろだけではなく、自分の後ろも気にしている。それは、時々由香の視線が、自分の背後に向いているのに気付いたからだ。

 何となく、視線が明後日の方向を向いているのを、以前から気にしていたのは事実だったが、最初から気になっていたわけではない。由香の視線が最初から他の方向を向いていたとしても、

――彼女は天然だからな――

 ということで納得していたのだろう。

 そういう意味で彼女の性格自体が、最初から作られたものだとすれば、由香を見るのが怖くなってくる。そう思うからこそ、もう一人の由香が、目の前から消えてしまったことが怖いのだ。

 一緒にいて、どちらかが顔を出しているだけだから、気にならないのかも知れない。バランスがうまく取れているから、浩司も安心できるのだ。

 まわりの人に対しては、最初から一つの性格として馴染んでいるから、急に一人の性格が鳴りを潜めたとしても、それほど気にする人はいないだろう。

「少し丸くなった気がするな」

 と、由香が大人になったのだと思っている人がいるくらいで、それもわずかな人だけだろう。

 由香の大人の部分をすべて、もう一人の由香が担っているわけではない。もう一人の由香はいなくなったわけではなく、一つの身体を共有していることで、身体の中に入り込んでしまっているのだ、姿を現さないだけで、裏から操っているのだと思うと、今まで他の人が見てきた由香の姿を、その時初めて浩司が目の当たりにしているのではないかと思うのだった。

――もう一人の由香が姿を隠したのは、普段皆に見せている由香を見せるためなのかも知れない――

 と思うと、また別の考えが浮かんできた。

 それは、浩司に由香を諦めさせようという思いが、もう一人の由香を封印しているという考えだ。由香がどうしてそう考えたのかは別にして、そういう理屈を一つ一つ積み重ねていくと、今まで見えてこなかったものが見えてくるようだ。

 それが本当に見たいことだったのではないかも知れない。だが、予言ができるほど、未来のことが分かる由香だ、何か思うところがあったとしても不思議ではない。

 ただ、由香には本当に二人の未来が見えていたかどうかは、疑問である。予言者というもの、自分のことを予言するのは苦手だと思うからだった。

「どうして、由香と別れようとは思わないんだろう?」

 確かに別れるには捨てがたい相手であった。身体の面でもピッタリと相性が合っている。今まで付き合った女性の中でも一番かも知れないと思うほど、相性が合っていた。

 しかし、別れない理由はそれだけではない。言葉では表現しにくいが、敢えて言うなら、

「宿命のようなもの」

 というべきであろうか。

「私は予言できる」

 と言った瞬間、言い知れぬ不安感に襲われた。それは自分の祖父が占い師だったからだ。

 占い師である祖父は、全国を歩き回ったという。父親も子供の頃は祖父に連れられて、いろいろな土地を回っていたというから、友達はあまりできなかった。浩司も、最初苛められっこであることを除いても、あまり友達ができる方ではなかった。実際に友達を作ろうという意識も少なかったのだ。

 父は、祖父を憎んでいた。浩司がおばあちゃん子だったのも、あまり気持ちのういいものではなかっただろう。父は、祖父だけではなく、子供や母親までも、寄せ付けないところがあった。

 今から思えば、表に他の女性を作っていたのかも知れないと思う。さすがに自分の父親だと思う浩司だったが、浩司自身も、複数の女性と付き合うことに罪悪感がなかった。それは、皆に正直に話しているからであって、

「正直に話せば許してくれる」

 という教えをそのまま守っていたからだ。

 この教えは、祖父の頃から、家訓のようなものだと思っていた。実際には祖母から教えてもらったことだが、そういえば、この話をする時の祖母は、少し悲しそうな表情だったのが印象的だった。

 浩司は、家族全員が憎み合っていた時期を何となく覚えている気がする。時期的には長いものではなかったが、一度だけのことでもなかった。何度か同じようなことを繰り返し、生活に与える刺激のようなものだった。あまりいい刺激ではないが、リズムだけで、抑揚のない生活をしていれば、矛盾が起こった時に、何も対応できなくなってしまう。その恐ろしさに比べれば、たまの刺激も悪いものではない。ただ。それが子供相手となると、将来への影響がないわけではないので、問題ではなかっただろうか。

 父から、祖父の話を聞いた時、自分にも予言の力が備わっているかも知れないと思った。しかし、その気持ちを打ち砕くかのように、

「おじいさんの占いは結構当たったらしいんだけど、それだけに、結構恨みも買ったという話を聞いたことがある。だから、おとうさんは、占いに対して最初から興味はなかったし、占いを憎んでさえいたりしたんだ。だから、お前にも、おじいさんが占い師だったことを、ずっと黙っていたんだよ」

 親の職業を継ぎたいという人は、親と別の職に就きたいという人に比べて、かなり少ないだろう。親が子供に継いでもらいたいと思う職業は、時代が変わるたびに減っていっているような気がする。それだけサラリーマンが増えてきたのか、それとも個人事業が成り立たなくなってきたのか、あるいは、専門的な職業が減ってきて、世襲が難しくなってきたのかのどれかであろう。

 もっとも、占いなどというものは、女の子が遊びでするものだという意識がずっとあったので、最初から興味もなかった。ただ、予言ということになれば別で、予知夢であったり、虫の知らせなるものには、少なからずの興味があったのも事実だ。

 元々占いとは別括りのものである。占いは、何かの媒体を使って、人の未来を予見するもので、予言は、根拠がどこにあるのか分からないが、信憑性がどれだけあるかがポイントで、理屈がしっかりしていないと、誰も信じないだろう。

 予言の場合は、一度当たれば、それが根拠になる。信じる人は誰よりも占いよりも予言を信じる。根拠となる説明は痕からついてくるもので、説明がなくても、その人が言ったことが根拠になるのだから、信じてもらえることが、予言の命であった、

 由香の予言は、もう一人の由香の存在を信じるか信じないかで決まる。浩司は、もう一人の由香を信じていることで、予言も信じられると思っている。

 だが、由香に敢えて聞かないことにしている。当たってしまうことが怖い。当たることを知ってしまったことが怖いと言ってもいい、ただ、そこに宿命的なものを感じるとするならば、祖父が占い師だったこと以外に共通点に近づくものはない。

「そういえば、おばあちゃんの言っていたことは、よく当たったな」

 ひょっとすると、おばあちゃんが予言者で、おばあちゃんの言うとおりに占うことで、おじいさんの占いが成立していたのかも知れない。おばあさんが時々、

「浩司も大きくなったら、何かを感じることがあるんだろうけど、その時は、思った通りに行動しなさい」

 と、言っていた。何のことだか分からなかったが、理解できない言葉を言われたということは覚えていた。とにかく、思った通りに行動すればいいんだと、おばあちゃんを思い出すたびに、そう感じていた。


 麻衣が、浩司に自分から連絡を入れることというのは、珍しいことだった。

「今晩、空いてる?」

 生理前なのかと思ったが、どうもそうではない。女性は生理前になると、男をほしがるというが、浩司も数人の女性と付き合って、そのことに確信めいたものを感じることができるほどであった。

 麻衣の生理に関しては、把握している。あまり生理不順ではない麻衣は、言い方は悪いが計算が立てやすい。どちらかというと、里美が生理不順である。神経質な性格にともなって、記憶を失っているという思いが、無言のプレッシャーとなって。麻衣を追い詰めていうのかも知れない。

 麻衣は、あまり細かいことは気にしないタイプで、浩司と付き合い始める前に付き合っていた男から、ピルを薦めらえて飲んでいたという。

「身体によくないから、そんなもの飲むんじゃない」

 と、浩司に言われて、やっとやめたのだが、本人は、ケロッとしたもので、

――ピルのどこがよくないの?

 と、言いたげで、キョトンとした表情にも見えた。

「だって、ナマでできるし、気持ちいいでしょう?」

 堂々と言ってのけるが、本心からなのだろうか?

 浩司と付き合う前の男は、相当なSだったようだ。麻衣への命令は絶対。麻衣も命令されることに違和感はほとんどなく、

「これが普通の男女付き合いじゃないの?」

 と、浩司に言ったくらいだ。

 麻衣は過去のことを隠すことをしない。聞かれれば率先して話をする。隠しているという気持ちはないが、聞いてくれないと、自分に興味がないのかと思うほど、浩司に対して最初から積極的だった。

 前の男と別れたのは、相手の男が麻衣に飽きたからで、すぐに他に女を作ると、麻衣を捨てようとしたという。

 そのあたりは麻衣の勘も鋭く、

「こっちから別れてやるわよ」

 と、啖呵を切ったという。

「でもね、今から思えば、結局、あの男に言わされたのかも知れないわね。そういう意味じゃ、悪いオトコだったのよ」

「だから、僕と知り合えた?」

「ええ、きっと変な男と別れられた私にご褒美をくれたのかも知れないわね」

「誰から?」

「恋の神様」

 麻衣との会話は、楽しいというよりも、愉快である。こちらが言いたいこと、向こうが言いたいこと、それぞれにすぐに分かるようである。それだけに会話が充実しているのではないだろうか。

 麻衣は浩司に対して、あまり気を遣っていないように思えるが。どこかに怯えが感じられるのは、浩司の中にも、Sの気を見たからではないだろうか。

 前の男ほどひどくはないが、従順で委ねたい気持ちをあらわにできる相手、それが浩司である。

「一緒にいるだけで、何も考えられなくなる。そんな人ばかりを私は探しているの。だから、時にはひどいオトコに当たってしまうかも知れないけど、本当に委ねたいと思える人が現れれば、それは、ずっと添い遂げることのできる相手になるかも知れないわよ」

 麻衣が学生時代から姉のように慕っている女性がいるが、彼女から言われたのだという。

 その女性とは、浩司は今までに何度か会ったことがある。

 麻衣が最初に結婚した相手のことも、まわりは誰も反対しなかったのに、麻衣だけが心配した。かなり反対の意見を言ったが、麻衣には効かなかった。麻衣が結婚前に付き合っていた男、そして結婚した相手、どちらも、麻衣には失敗だったが、浩司に対してだけは、彼女も反対をしない。

「あなたにとって、きっと素敵な男性なんだと思うわ」

 今までの二人から比べれば雲泥の差であった。

 ただ、浩司はその時、里美がいた。それを知ってか知らずか、素敵な男性と言われた。痛いところを突かれたような気がしたが、浩司も本当は、麻衣のような女性を探していたのだと思っていたところだったので、皮肉には聞こえなかった。

 その言葉を聞いた時、浩司の中で、麻衣という女性が、これからもずっと自分のそばにいてくれることを確信したのだった。

 麻衣といつも一緒に出掛けたカフェに、今日は麻衣から誘いがあった。扉を開けるのはいつも浩司であったが、その日は、扉を開けたのは、麻衣である。その様子を見ながらあっけにとられていたマスターは、

「なるほど」

 と、二、三度うなずきながら、微笑んでいた。どうやら、二人の関係はどちらが強いというわけではなく、先に声を掛けたり言い出した人が、先導する関係になっていることに気付いたのだ。

 傍目から見ていると、完全に男性主導の関係にしか見えない。それは、すべてを最初に行うのが浩司だったからだ。しかし、たまにであるが、麻衣の方から誘いを掛けると、浩司は、素直に麻衣にしたがっている。それも新鮮で、お互いに、悪い気はしていなかったのだ。

 二人が行くと席はいつも決まっている。奥の四人掛けのテーブルに二人で座るのだ。奥の方に座るのは浩司、そして、手前から向こうに向かって座るのが、麻衣だった。だから、麻衣の顔を知らない客も少なくはないのではないかと思われた。

 確かに、浩司も麻衣も、お互いに一人では来たことがない。二人の待ち合わせ場所にしか使っていない場所で、常連となっていることで、店の人とも、二人共通の話題でしか、話をしたことがなかった。

 浩司は浩司で、麻衣は麻衣で、それぞれ自分だけの店を持っている。浩司も麻衣も、その店には一人でしか行かない。自分の隠れ家にしている店だった。隠れ家だからと言って、店の人と、それほど話をするわけでもない。一人で飲みながら店の人と話をすると、どうしても愚痴っぽくなってしまうことを嫌ったのだ。

 麻衣は、自分の隠れ家に、音楽を求めにやってくる。店内では、八十年代前半のロックが掛かっている。麻衣にすれば、オールディーズに分類されるジャンルなのだろうが、その頃の音楽には、学生の頃から興味があったのだ。

 浩司の方は、どちらかというと、クラシックが好きだった。一人で行く店もクラシックが流れている店で、客も単独の客が多い、人と話を楽しむという客はほとんどおらず、純粋に音楽を楽しむ客が多いのだ、

 ソファーも深く、店内の照明の暗さから、ついつい眠ってしまいそうだ。眠ってしまえば、なかなか目が覚めない。ひどい時には、自分のいびきで目が覚めてしまい、思わずまわりを見渡してしまったほどだった。

 麻衣がおどけたように、大げさにソファーに沈み込むと、浩司も表情を和らげた。浩司にとって、麻衣のおどけた態度は癒しに変わる。そんな時の麻衣の表情を見るのが好きだった。

 おどけた態度が好きなのは、麻衣に対してだけではないのだが、麻衣の場合は特別だった。他の女性のおどけた態度には、意図はまったく感じられないが、麻衣は明らかに、浩司の癒しになっていることを喜びと感じてくれている。目が合った時、その表情に浮かぶ笑顔には、妖艶な雰囲気が漂っていることに、浩司は満足感を抱いている。

 倒れ掛かるように腰をソファーに沈めると、包み込まれた身体が、むず痒く感じられる。襲ってくる睡魔を必死に堪えながら見ている麻衣の表情は、心地よさすら感じられた。

「浩司さんの眠そうな顔。私好きよ」

 そう言って、横に座った麻衣が、身体をもたれかけてくる。

「やっぱりクラシックもいいわね。でも、眠くなっちゃうのよね」

 浩司の方はこのまま少し眠ってしまいたいと思っていた。相手が麻衣でなければ、必死に我慢するが、麻衣と一緒の時間は浩司にとって自由に使える時間だ。眠たくなれば眠っていい時間を、浩司は大切な時間だと思っていた。自由に使える時間を、安心できる時間に変えたいと思う気持ちは、麻衣も分かっているのだろう。一緒にいて、ウトウト眠ってしまっても、麻衣は起そうとしない。逆に横に座って、そのまま一緒に寝てくれるのだ。

――これが麻衣の一番の魅力なのかも知れないな――

 若いオトコは、麻衣の身体だけに魅力を感じる。

「私って、結構男運が悪いのかも知れないわね」

 と言っていたのも、なまじグラマーな身体を持ってしまったために、求めている男性となかなか知り合えないことを言っているのだろう。

「でも、僕と知り合えただろう?」

「うん、浩司さんのような男性は初めてよ」

「そう言われると、くすぐったいな」

「私の本音よ。本当は男性の前ではなかなか本音を言わないんだから、ありがたく思ってね」

「はいはい」

 そう言って、二人は顔を見合わせて微笑み合う。麻衣は本当のことだと言っているけれど、今までにどれだけ麻衣の本音を聞けたというのだろう? それでも浩司は、麻衣の言葉を本当だと信じることをやめないつもりでいた。

 どちらが先に目を覚ましたというわけでもない。浩司が目を開ければ、そこには麻衣がいて、麻衣が目を覚ませば、目の前に浩司がいた。お互いに眠そうな表情をしているが、相手に眠そうな顔を見られることも構わないと思い、出てきた表情が照れ笑いだった。

 部屋の薄暗さは、眠りに就く前よりもさらに暗くなったかのように思えた。テーブルの上には小さなキャンドルの炎が揺れていて、まるで、精霊流しのようである。

 眠い目をこすりながら、浩司が麻衣を見ていると、自分の方が先に意識がハッキリしてくるように思えた。麻衣はまだ夢の中にいるかのようで、うつろな目は、浩司を捉えてはいない。

 ただ、こちらを見上げるようにして潤んだ眼で見つめられると、いとおしさがこみ上げてくる。思わずキスをしたくなるのも無理のないことだった。

 ミントガムの味がする。サラリと伸びたストレートな髪を撫でるように抱き寄せると、麻衣の目はすでに閉じられていた。

 普段、キスをする時は、

「目を閉じないでいてくれよ」

 と、お願いをしているが、

「そんなことできないわよ。本能だもの」

 と、言いながら、それでも浩司のために、なるべく目を開けてあげようとしている。その態度がいじらしく、さらに強く抱きしめるのだった。

「浩司さん、この間、お誕生日だったでしょう?」

 そういえば、先週の月曜日は、自分の誕生日だった。毎年数日前までは覚えているのだが、直近が近づくにつれて忘れていく。誰かに声を掛けてもらわなければ、覚えていることはなかった。

 今年の誕生日は、里美が声を掛けてくれた。

「浩司さん、いつもお誕生日の時は忙しそうなので、今年は私が前もって教えておきますね」

 と、二コリと微笑みながら、話してくれた。

 いつも誕生日には、最初に教えてくれた人と過ごすことにしている。今年は里美と一緒だったが、昨年は、麻衣が一緒だった。

 どちらがよかったかと聞かれれば、答えようがない。それぞれに素敵な夜だった。去年の麻衣には

――今までにこれほど華やかな誕生日があっただろうか?

 と思わせるほど楽しかった。お金を掛けなくても、いくらでも楽しい気分にさせてくれるということを教えてくれるのはいつも麻衣だったのだ。

 里美の場合は、これほど地味な誕生日というのも珍しい。ケーキと手料理のアットホームな二人だけのパーティ、地味でもアットホームでも、

――この人がいてくれるだけで、何と幸せな――

 という気分にさせてくれる。

 二人ともまったく違ったイメージだが、求めるところと、行く着く先は、二人とも大きく変わらないと思うのだった。

 浩司の誕生日は冬だが、麻衣の誕生日は夏である。里美は秋が誕生日だが、誕生日の季節が、性格に実に合っているのだが、あまりにもぴったりと嵌りすぎて、誰も誕生日と性格について意識していなかったのが、おかしかった。

 きっと人の誕生日と季節を意識することはできるのだろうが、自分の誕生日と性格を比較するのは難しいだろう。自分の性格はどうしても贔屓目に見てしまったり、誕生日を忘れがちになってしまうからである。誕生日を忘れがちになってしまうのも、ひょっとすると、性格を贔屓目に見て、意識過剰になってしまうことから始まっているのかも知れない。

 麻衣と出会うまで、どちらかというと細身の女性が好みだった。だが、麻衣と出会うことで、グラマーな女性を好むようになったのだが、最初はただ、身体に溺れたのではないかと思い、自己嫌悪に陥っていた。だが、実際には違ったのだが、一番の理由としては、

「自分にないものを持っている」

 というのが大きかった。

 浩司はスリムで背が高い。女性からモテるタイプなのであろうが、自分ではモテるという意識がない。むしろ、痩せていることにコンプレックスがあり、まわりから嫌われているとさえ思っていた。

 苛められっこだった頃のイメージが残っているのか、さらには、テレビドラマなどで、犯罪者を見ていると、痩せこけている人が多いことから、痩せていることが自分でも嫌いだったのだ。

 だから、あまり自分の意識の中に体型を意識しないようにしていたのだが、実際に女性と付き合うようになると、グラマーな女性が好きになってきた。

 そこでもう一つの理由が顔を出すのであるが。

「グラマーな女性は包容力があり、暖かい」

 というものだ。

 今まではグラマーな女性を偏見で見ていた。身体を武器に男を誑かすのではないかというところまで考えていたほどである。

 実際に今まで浩司が好きになった人はスリムな女の子が多かった。そのほとんどが暗い雰囲気を滲み出ていて、それが本人の意識したるものなのかどうか分からないが、性格的にも、大人しくて、引っ込み思案な女性が好きなのだと思っていたのだ。

 確かに引っ込み思案で恥かしがり屋な女の子は好きである。だが、それはうるさいのを嫌う傾向にある浩司の性格とも合致したからで、グラマーで明るい性格の女性と知り合うことで、自分までまったく違った人間になったと感じさせるほど、麻衣という女は、浩司にとって衝撃的だったのだ。

 麻衣は性格的に、浩司の中で革命を起こさせるに十分だった。

 それまで自分の好みだと思っている里美だけしか知らないことで、自分がどれほど内に籠った性格をしていたか、まったく考えたこともなかった。パッと明るく開いた花、四方に綺麗に開いた花は、展開図に示したよりもはるかに広く見えているようで、自分のすべてを包み込んでくる快感に、酔いしれてしまうようだ。

 浩司は自分が饒舌ではないことを気にしていた。里美と話をしていても、次第に話題がなくなっていくと、まったくの無口になってしまい、言葉が出なくなってくる。何を話していいのか頭の中がパニックになっているのに、その様子はまったく表に出てこない。

――何か話さなくては――

 焦りが汗となって滲んでくるが、その様子を里美が見ていて、浩司が苦しんでいるのが分かっていてもどうすることもできない。お互いに噛み合わないリズムは苦しさを生むだけだった。

 それなら最初から会話がない方がマシだ。それなのに、よく何年ももったものだ。それは麻衣との出会いによって、浩司の性格が少し変わってきたことで、里美との関係にも新鮮な風が吹き込んできたことが、破局の危機を救ったのだから、何とも皮肉なものだ。

 麻衣とは自分から話をしなくても、麻衣が勝手に話題を提供してくれる。浩司は相槌を打っているだけでいいのだ。だが、麻衣との会話のキャッチボールは、タイミングが素晴らしい。そのうちに浩司からも話題を提供するようになると、今度は、麻衣が一歩引くようになった。

 里美との会話も、今まで何を話していいかなどと考えていたことがウソのように、浩司は饒舌になった。それにともなって、返事を返すことを少しずつ覚えた里美とも、会話になっている。一つリズムが噛み合えば、ここまで広い範囲で好影響をもたらすことができるなど、考えたこともなかった。

「浩司さんは、子供がほしいと思います?」

 いきなりというか、唐突だった。ニッコリと微笑んだ笑顔に、

――まさか――

 と思いながら、麻衣が深刻な話を、いきなり切り出すとも思えない。

 かといって、まったくありえない話を麻衣がするはずもなく、戸惑いとも困惑とも言えない心境に、どのようなリアクションをしていいか分からなかった。

「子供、できたのかい?」

 恐る恐る聞いてみた、ただ、麻衣はいつもピルを飲んでいたはずだ。妊娠の可能性がかなり低い。しかし、コンドームと違って、男性主体で、しかも形のあるものではないので、本人が、「飲んだ」と言っているだけで、飲んでいなくても、飲んだか飲んでいないかを証明することは難しい。

 浩司は麻衣をじっと見つめた。

「生理不順には慣れているつもりだったけど、最近身体が重くて、しかも一か月近く遅れているので、さすがの私も不安になってきたのよ」

 浩司はベッドの中での行動を思い出していた。

 確かに浩司は、慎重派で、ピルを飲んでいると言われても、中に出すことはまずしたことがない。たまに、

「中に出しても大丈夫だから、今日は中にちょうだい」

 と言われても、いざとなると、中に出さずにいた。欲求が高揚してくると、理性を呼び起こす瞬間があるようで、興奮を最高潮に迎えても、冷静すぎるくらいになっていることが往々にしてあった。

「どうして? いいって言ってるのに、私の気持ちに答えてくれないの?」

 こんな時にオンナは、本当はホッとしているはずなのに、相手を責める言葉を吐くことがある、それは相手をさらに感じたいという思いからではないだろうか。答えが何であろうが、幸福な気持ちになっていることには変わりないだろう。

「僕は君を大切に想っているだけさ。それ以上でもそれ以下でもない」

 麻衣の顔が満足げに笑みを浮かべた。だが、それでも次の瞬間、

「そんなこと言って、他の女の人を思っているんじゃないの?」

 と、さらに浩司を困らせる。

「そんなことはないさ」

 浩司もまんざらでもない。ここまで来ればお互いに気持ちが通じ合っていることを理解しているので、何を言っても怒ることはない。お互いに気持ちが通じ合っている時間帯での至福の悦びを感じていることだろう。

「病院、僕も付き合おうか?」

 責任という言葉とは無縁であった、言葉の裏には、子供ができたできないは関係なく、一緒にいる時間の口実が持てたことが嬉しかった。

 他の女性たちへの未練が頭に浮かぶ。もし、付き合っている女性の中で、妊娠してしまった人がいれば、他の女性とは付き合いをやめて、子供を宿してくれた女性と結婚しようと思っていたのだ。

 妊娠して一緒になるとすれば、一番望んでいた相手は、麻衣だった、ただ、他の女性と別れることが前提なので、別れることになる中でも里美だけが気になっていた。

 記憶喪失の里美を途中で置き去りにするような気がしたからだ。別れた後、どうすればいいかなど考えたこともなかった。

「私はいつも、浩司さんがいないと、ダメなんだって思っているんですよ」

 と、里美は話していた。もちろん、本音だろう。だからといって、里美に子供ができて、結婚するとなると、いろいろ心配な面が浮き彫りになりそうで怖かった。

 普通に付き合っている分には、さほど気にはならないが、結婚して、しかもいきなり子供を持ってとなると、制約や、今後の生活あるいは、お互いの性格面など、どれを考えても、不安が募るばかりだった。

 浩司が付き合っている相手のことを、浩司はあまり詳しくは知らない。麻衣に関しては、男関係の話は聞いていたが、それ以外のプライベートな部分、そして仕事にしても、詳しくは知らない。自分から聞こうとはしなかったし、聞こうとしない相手に、わざわざ自分から話をすることもないだろう。

 麻衣は、そんな浩司に対して、あまり気を遣うことはない。気を遣っていない代わりに甘えることにしている。だから深刻な話をあまりしないようにしていたし、するとしても、考えてからしてくれていた。そのほとんどは浩司とは関係のないことが多く、気も楽だったのだ。

 二人の関係は、

「もし、僕が第三者で、麻衣と誰かが僕の役で付き合っているとすれば、嫉妬するよりも、そっとしておくかも知れないな」

「何それ、どういうこと?」

 麻衣は浩司の琴南一瞬あっけにとられたようだったが、すぐに理解したのか、呆れたように、言った。

「だからさ。表から見ていて入り込む余地を感じないということさ。正面から見て、まず入れない。今度は横から、そして後ろから、そのどれにも、麻衣か、その男の目が見つめているような気がするんだ。バリアが張られているのかな?」

 そう言って、浩司は笑った。つられて麻衣も笑ったが、

「そうかも知れないわね。でも、そんなにたくさん目があったら、気持ち悪いわよ」

「だから、余計に入り込まれないでいいじゃないか。まるで、田んぼの案山子のようじゃないか」

 似たような会話を何度もしていた。内容に変わりはないが、たとえが微妙に違っている。微妙に違ったたとえを考えているのも楽しいもので、思い浮かぶと、この会話になった。

「結局僕たちって、飽きない関係なんだね」

「腐れ縁?」

 麻衣は、本当におかしいみたいで、腹を抱えて笑った、たとえを変えて、毎回同じ話題で話がもつのだから、確かにおもしろいだろう、だが、それもお互いの関係を確かめ合っているのだから、大切なことだと思っている。

「大切なことを、ごく自然にできる関係」

 それが、浩司と麻衣の関係だった。

 その翌日、浩司は会社に遅刻する旨を申し出て、麻衣と病院に出かけた。

「すみません。朝、病院に寄ってきますので、遅刻します」

 と、それ以上詳しい話はしなかった。もし、本当に自分のことで病院に寄るのであれば、

「体調が悪いから」

 という言葉を付け加えるに違いない。

 そして、何時頃には出社するということも付け加えているだろう。普段なら、昼過ぎくらいだと言っていたはずだ。

 もっとも、あまり体調を崩したことのない浩司は、病院に行くと言って、会社に電話を入れたこともなかった。電話応対してくれた女性事務員も、そういう意味ではまったく疑う素振りもなかった。ひょっとしたら、

「佐久間さんて、こういう時は肝心なことを言わない人なのね」

 というくらいは思ったかも知れない。

 麻衣とは、出勤時間の少し前くらいの時間に、駅で待ち合わせた。こんなに早く待ち合わせをすることなどなかったので、浩司も少し眠かった。だが、それよりも胸の鼓動が気になっていた。麻衣には、子供のことは心配しないでいいと言っていたが、内心では今まで遊んでいた自分が、覚悟を決めて、結婚に落ち着いてしまうことが果たしてできるかどうか、半信半疑だった。

――自分のことのくせに――

 と思い、他に付き合っている女性たちに対し、どういう態度を取っていいのか、決めかねていた。

 病院は、前もって麻衣が探して、決めていたようだ。

 産婦人科を決めるということは、結構迷うものではないだろうか。特に、子供ができていたとすれば、ずっと通うことになるだろうから、最初が肝心ということもある。

 歯医者に通うのでさえ、浩司には勇気がいった。実際に歯医者を何か所も変えた経験があり、

「病院選びは、結構大変だ」

 と、何度も感じていた。

 女性にとっての産婦人科は、また特別であろう。人によっては、病院というイメージとは違うかも知れない。特に最近は、待合室などまるで、美容院のようだったり、大きな水槽に熱帯魚が泳いでいるシーンをドラマなどで見たりしたこともあった。

 だが、さすがにいざ産婦人科となると、自分が付き添いにすぎないとはいえ、緊張するものだ。特に、虚勢を張っているが、内心ではビクビクしている麻衣に、どのように接していいかが、気になってしまう。

 麻衣はあくまでも、おどけているが、それも浩司を慕ってのことだということは分かっている。だからこそ、可愛いと思うのだ、

 さすがに普段の麻衣とは違う。病院にこれから赴くということ、そして、朝という時間が麻衣へのイメージを変えていた。

 太陽の位置が違うだけで、精神的に大きく違ってくる。朝と夕方でこれほど違うのはなぜかと以前から思っていたが、太陽の位置の違いを感じるようになったのは、最近のことだった。

 夜は太陽の光が一切なく、人工の光が、夜という世界を彩り、それが人それぞれに夜の街という印象を植え付けるのだ。

 そんな夜の街を何度も二人で堪能した。夜の街が二人を呼んでいるとさえ思い、入っていくことが、その日の始まりのように思えていたくらいだ。昼間はあくまでも、夜の時間の前哨だとしてしか思えない時は、夜に麻衣と待ち合わせた時だった。他の女性の時では決して味わえないものだった。

 夜の街の明かりの中に消えていく二人の後ろ姿を想像する。行きつく先は、いつもの店であっても、その時々で、精神状態も違う。まるで違う店に赴く気がして、気持ちはいつも新鮮だった。

「二人でいれば、大丈夫さ」

 夜の街に入る時、たまに、

「私、たまにこの景色が怖くなることがあるの」

 と言っていたが、それは景色が怖いというよりも、景色に自分が染まっていくことが怖いのだろう。景色という字には色という字が入っている、夜の色に染まるという意味を、浩司は考えていた。

 浩司は、麻衣の後ろ姿の向こうに、夜の世界を垣間見たのを想像したことが何度もある。一緒に自分が寄り添っている時もあれば、麻衣が一人だけの時もある。麻衣に寄り添っている男性が自分であることは分かっているが、どうしても主観的に見ることができない。そのせいもあってか。嫉妬心が燻っている感じがしてくる。

「浩司さんって、そんな風に見てるんだ」

 麻衣に、自分の想像を話したことがあったが、その時に麻衣は、ニコニコ笑って、答えた。それは、興味津々の表情で、妖艶な雰囲気とは少し違っていた。夜の街に対してのイメージを自分がどのように抱いているか、麻衣も半信半疑なのではないかと感じる浩司だった。

「そんな私が、朝から浩司さんと一緒にいるなんて、少し違和感があるわね」

 これから産婦人科に赴こうというのに、麻衣は朝の時間を楽しんでいるところもあった。それは浩司も同じで、お互いに朝から同じことを考えていることに、くすぐったさを感じながら満足していた。

 浩司はコーヒーを普段に比べてゆっくりと飲んだ。普段は出勤前に、時々駅前の喫茶店でモーニングサービスを食べていくが、あまりゆっくりとした時間を過ごしたことはない。

 本当はゆっくりとした時間を過ごしたいのだが、元々貧乏性なところもあり、会社に行く前であればなおさらのこと、つい気ばかり焦ってしまって、喉のどこを通ったか分からないことも少なくはなかった。

 その日も、本当は子供のことで気が気ではなかったはずだ。すぐにでも産婦人科で確認したかった。麻衣には心配しなくてもいいと言っておきなから、自分の中で気持ちの整理がついていないのも事実だったからである。

 コーヒーの熱さが喉に沁みている。ゆっくりと息を吹きかけて飲んでいるが、舌に熱さを感じ、少しやけどするくらいの方が自分らしいと思っていた。それでも、口に持っていくカップはゆっくりで、落ち着いた気分になれるから不思議だった。

 麻衣はそんな浩司を見つめていた。目が離せないと言った方が正解かも知れない。ただ、その眼は落ち着きのない目ではない。いつものように、暖かい目で見てくれている。

 夜の店での麻衣と、日中の麻衣とではこれほど違うものなのかと思うほどで、夜の麻衣は、妖艶な雰囲気の中で、完全に浩司にもたれかかり、委ねきっている。しかし、昼間の麻衣は正反対で、まるで姉のように、暖かい目で浩司を見つめてくれている。そんな時、浩司はまるで自分が子供に戻ったかのような錯覚を覚え、自分が麻衣に委ねているのだった。

「僕は夜と変わっているわけではないのにな」

 というと、

「じゃあ、私が昼と夜とで違っているのね。でも、それが昔からの私の理想でもあったのよ。本当の私って、どっちなのかしらね?」

 どちらが本当の麻衣であっても、浩司には何の問題もなかった。

「どっちも本当の麻衣さ」

 と答えるだけであった。昼と夜とで違っていると言っても、麻衣の姿を知っているのは浩司だけ、そう思うだけで浩司は満足だった。麻衣も、浩司が満足してくれているということだけで嬉しく思うのか、表情は穏やかで、余裕のある笑みが浮かんでいた。

 麻衣は、コーヒーを口に運ぶのも、いつもと違っていた。いつもは、カップを口に運んで一気に口に含んで味わいながら飲み込む。それをいつも、

――麻衣らしいな――

 と思って眺めていた浩司だったが、その日は、あくまでも神妙にゆっくりとカップに口を運んで、口に含むのもおしとやかだ。

「一気に口に含むのは、コーヒーの苦さを少しでも和らげたくて、口に含むことでマイルドになっていくのを感じるのも楽しいものよ」

 と、言っていたが、それをチビリチビリと飲むということは、コーヒーの苦さをまともに味わう飲み方をしていることになる。

「大丈夫かい?」

 と、思わず声を掛けたが、

「苦くないかい?」

「うん、ちょっと苦いかも知れないけど、でも最近はこういう飲み方をすることが多くなったの」

 少なくとも、以前に一緒にコーヒーを飲んだ時は、いつもの飲み方だった。そうでなければ、今の飲み方に違和感を覚え、聞いてみることはしないだろう。最近というのがいつのことなのか、気になった浩司だった。

 麻衣と一緒にコーヒーを飲むことは、最近では少なくなったが、付き合い始めた頃は好きだった。麻衣の部屋に行った時、いつもコーヒーメイカーで入れてくれる。麻衣の好みのコーヒーは、香りは激しく、味がまろやかなものだった。

「その方が、飲んだ時、甘さすら感じるほどになるのよ」

 と言っていたが、まさしくその通りだった。

 浩司は、麻衣の入れてくれたコーヒーを飲みながら、付き合っている複数の女たちのことを考えていた。

 里美とは別に、最近知り合った由香、さらには、結婚すると言って、最近浩司から離れて行った女性がいたが、気が付けば、すでに忘れかけようとしていることにビックリしてしまっていた。

 名前をルリと言ったが、彼女はスナックで勤めた経験のある女だった。もっと長く付き合っていけると思っていただけにショックは大きかった。彼女は一言でいうと、

――そばにいて、一番違和感のない女性――

 であった。

 まるで路傍の石のように、そばにいるだけで、誰も何も感じない存在。いなくても、誰も分からないかも知れない存在が、一番その人にとって大切なことかも知れないと、浩司は時々感じることがある。

 それは自分が忘れっぽい性格であることを自覚し始めて、

――どうして、簡単に忘れてしまうんだろう?

 と、何度も自問自答したりした。

 人に言わせると、

「一番大切なものを意識できないからだよ」

 と、いうことらしい。

「どういうことなんだい?」

「何でも揃っていて、不足しているものがないと、あって当たり前なんだよね」

「確かに、ないと困るという意識よりも、あって当たり前という方が意識として強いかも知れないな」

 言葉の違いこそあれ、自分にとって同じものを意味しているように思う。あって当たり前だという意識を持てば、なくては困るとなかなか思えない。忘れてしまって思い出さないといけない時だけ、なくては困ることに気付くのだ。

 だが、なくても困るものでも、事なきを得ると、また意識は遠ざかる。あって当たり前だと思い始めると、思い出すのが困難になったりもする。

 ルリのことを思い出したのも、麻衣が妊娠していると、あって当たり前という存在のルリが、なくては困る存在に変わり、手放すことを、自分が耐えられるだろうか? 今までルリが取り乱したところを見たことがない。もし、目の前で取り乱されたら、果たして浩司にはルリを諦めることができるだろうか? 浩司はルリのことが頭に過ぎらせながら、麻衣と応対しなければならない。

 麻衣にはルリの存在を教えていない。他の女性のことは知っているはずだとは思うが、ルリの存在は意識して隠そうとしていたのだ。

――もし、麻衣がルリの存在を知ってしまったら――

 と思うと、言い知れぬ不安に駆られる。その不安は、麻衣が抱く嫉妬に対してだった。

 今の麻衣に嫉妬心を抱かせてはいけない。ただでさえ、妊娠したかも知れないということで、心身を痛めているのだ。追い打ちをかけるような真似はできないし、浩司は麻衣だけのことを考えていなければいけないのだ。

 コーヒーを飲み干すのは、結局麻衣の方が早かった、最初は浩司の方が圧倒的に早いと思われたのだが、浩司の頭の中でルリのことがよぎった時から、形勢は逆転した。逆に麻衣の方の飲み干すスピードは速くなり、あっという間に麻衣は飲み干していた。

 浩司がルリのことを考えている時、ずっと麻衣の視線を感じていた。何を考えているかはさすがに麻衣でも分かるまいと思っていたが、どうやら、麻衣にはおぼろげに分かっていたようである。相手が誰かということまでは分からないはずだが、分かっているかも知れないと思うと、浩司は自分が身構えてしまっていることにビックリしていた。

――この僕が気後れしている――

 この状況で、他の女性のことを考える浩司は、自分でもどういう心境なのか計り知れないでいた。それだけに、自分に自信が薄れていくのを感じると、麻衣の顔を直視できなくなっていた。麻衣が浩司の様子に違和感を覚えたとすれば、直視できない様子におかしいと感じたのかも知れない。

 麻衣の気持ちは、一直線に浩司を見ていた。浩司が考えているほど、麻衣は深くを考えていない。

 麻衣という女性は浩司が考えているほど、したたかな女性ではない。弱いところまで表に出すことで、弱さを感じさせないようにしているというのは、男の立場で考える浩司の、考えすぎではないだろうか。

 麻衣がコーヒーを早く飲み干したのには、深い理由があるわけではない。確かに浩司の様子を見て、

――心ここにあらず――

 という雰囲気を感じ取ったからであるが、それだけではない。そういう意味では麻衣は強い女性であった。

 二人の間に会話がないことで、喫茶店の中には、少し重たい空気が流れていた。他の客は朝ということもあり、単独の客が多い。単独の客は静かなのは当たり前だが、二人の雰囲気とはまた違っている。だが、下手な会話は却って重苦しさに拍車を掛けてしまうだろう。そんな時間帯が少しだけ続いた。

 コーヒーを飲み終えて、しばらく会話のない状態が続いた。

「麻衣」

 最初に声を掛けたのは、浩司の方だった。

「心配しなくていい」

 浩司が一言告げると、一瞬口元が何か言葉を言おうと動いた麻衣だったが、すぐに思い直して、軽く会釈した。浩司のいう言葉の意味が、よく分からなかったのだ。

 あまりにも漠然としている言葉だからだ。一体何を心配しなくていいというのだろう?

 確かに浩司は、子供ができていたら、他の女性とはきっぱりと別れて、麻衣と結婚してくれると言ってくれた。だが、それは子供を利用したかのようではないか。できていなければ、結局は今まで通りの生活。麻衣の中で、子供ができたかも知れないと感じたことで、精神的に大きな変化があったようだ。言葉や態度で表すことは難しい、自分でも漠然としてしか分かっていないからだ。

「今までのような付き合い方で、私は満足できるのかしら?」

 麻衣は自問自答した。

 浩司のためにということを最優先で考えていたが、一度子供を意識してしまうと、今度は最優先は子供に移ってくる。浩司のような男に、子供を最優先にして見ている女を、今まで通りの付き合いができるかと言われれば無理であろう。たとえ浩司ができたとしても、麻衣の方で難しいと思うかも知れない。

 お互いに、ぎこちなくなってくるのは分かっている。子供ができていたとすれば、間に子供が入ってくる。少なくとも男女関係としては、制約が入り込んでくる。それは浩司が子煩悩であっても同じことだ。逆に子煩悩であれば、余計に二人の間に立ちはだかることを悪いことではないとして、子供中心の生活に楽しさを覚えるかも知れない。

 麻衣にはそれが耐えられるだろうか。確かに子供ができることで、母性本能が目を覚まし、どんなに男好きであっても、子供に気持ちが移るのは当たり前だ。人からはそう言われても、実際になってみないと分からない。麻衣はその不安が大きかったのだ、

 麻衣は自分の性格を顧みる。今まで顧みたことなどなかったことが不思議なくらいだった。

――ついこの間も、自分の過去を顧みた気がするのにな――

 と思ったが、少し違和感があったのも否めない。なぜなら、その時に感じた自分の過去に、覚えのないことが多かったことだ。まるで別人を顧みたようだったが、ひょっとすると、過去を見たわけではなく、未来を見たのかも知れない。

 麻衣は、由香のことは知っていた。由香が予言を意識しているのも知っている。だが、バカバカしいと思い、深くは考えていない。浩司を介しながら、自分が近しい仲であるかのような錯覚を持っていたことも否めなかった。

 病院が近づいてくるにしたがって。麻衣の不安は募ってくる。

――どうして私はこんなに不安なんだろう?

 浩司も麻衣が何を不安なのかが分からなかった。最初に麻衣が子供ができたかも知れないと言われた時、浩司は本当に麻衣のために結婚を考えた。そして、本心を麻衣に告げたのだ。そのことを麻衣が信じていないということだろうか?

 麻衣も、浩司の言葉を疑っているわけではない。むしろ分かっていて、ありがたいと思っている。だが、どこかで虫が知らせるのだ。

「もし子供ができていたとして、浩司と本当に一緒になっていいのか?」

 と……。

「それしかないじゃない。それに浩司さんだって。子供ができれば、私と一緒になってくれるって言ってくれているのよ?」

 知らせてきた虫に訴える。

「あなたが離婚したのを思い出してごらんなさいよ。本当にあなたは離婚したくて離婚したの?」

 確かにその通りだ。離婚したくて離婚を考えたわけではない。結局は、夫の死という最悪な結果を迎えたわけだが、そのことを知っているのは、麻衣しかいないはずだ。

 ということは、知らせている虫というのは、自分ということになる。

「そう、分かっているはずよね。私はあなた自身なんだから。それもあなたが隠しておきたい部分。そして今まで隠してきた部分。でもね。私もあなたなのよ。あなたが不利益になることを黙って見ているわけにはいかないの」

 出て来ようとしている自分を必死で隠していた感覚というのは何となく覚えている。それが今になって出て来ようというのか?

――いや、以前にも感じたことがあるわ――

 いつだったか定かではない。だが、離婚のことを話に出したということは、あの時も出てきたのだろうか?

 思い出そうとするが、肝心なところで頭痛に襲われる。

――そういえば、記憶喪失の人が、失った過去を思い出そうとすると、頭痛がするというわ。今がそうなのかしら?

 麻衣は、里美が記憶を失っているのを知っている。麻衣の頭に、里美のことが浮かんできた。

 だが、麻衣は里美の顔を知らないので、イメージは湧いてこない。それに里美が過去のことを思い出そうとしても頭痛がしてこないことも知らない。何よりも、過去のことを思い出そうとしていないこと自体、想像もできないだろう。

 麻衣はたまに自分が記憶喪失ではないかと思うことがある。奇しくもそれは里美が自分の記憶喪失を意識した時であるが、お互いに記憶喪失を考えているという意識で繋がるかも知れないことを、お互いに知る由もなかった。

 麻衣は、

――なんて頻繁に、記憶喪失だなんて思うのかしら?

 と感じ、里美の方では、

――あまり記憶喪失だということを意識しないのは、私自身で、冷静に自分を見つめているからなのかも知れないわ――

 と思っていた。

 まさしく感じたままに生きる女と、いつも冷静でありながら、ずっと何かに怯えている女らしい考え方だった。

 だが、いつも何かに怯えているというのは、実は麻衣も同じであった。態度に出さないだけなのだが、感情をあらわにする麻衣が、態度に出さないことは、考えていないことなのだと自他ともに認めていたことだったが、例外もあるのだ。

 共通点があるのではないかとは、麻衣は感じていた。里美は麻衣のことをあまり意識していないようなので、共通点について考えることもない。だが、里美の鋭い感性から考えれば、麻衣のことを知っていれば、共通点を見出すことなど、できないわけではない。

 では、二人に一番の共通点である浩司はどうだろう? 浩司には二人の共通点は見えていなかった。それは、麻衣を相手にする時は、麻衣のことだけ、里美を相手にする時は里美のことだけを考え、相手を愛することだけに邁進していた、それが自然に出てくることが浩司の最大の特徴で、女性から慕われる一番の理由なのだ。それを優しさというべきなのかどうかは、浩司は自分で判断できない。それでも付き合っている複数の女性は皆口を揃えて、

「浩司さんの優しさよ」

 と、答えることだろう。

 麻衣は自分が離婚した時のことを思い出した。

 確かに相手が嫌いになって離婚したわけではない。金銭トラブルから、旦那への愛想を尽かしたのが原因だった。離婚に際して、彼は最後まで首を縦に振らなかったが。今となってみれば、あの時に彼に対して未練を残さなかったのが、今の自分を支えていると思っている。

 元々麻衣は情に厚い方だった。彼と付き合い始めたのも、どこか頼りない彼を自分が支えてあげるという気持ちからだった。まさか最後には自分の手に負えないとトラブルで離婚に追い込まれようなど、想像もしなかったが、彼には優しさがあった。その優しさが最後は裏目に出たわけだが、一歩間違えば、彼の優しさにそのまま振り回され、一生、彼から逃れることができなくなっていたかも知れない。それを思うと、麻衣は彼と別れて浩司と出会えたことを、本当に幸運だと思っている。

――私もまだまだ捨てたもんじゃないわ――

 と、虚勢を張ったものだった。

 浩司には離婚の原因を話している。本当の事情を知っている人以外には、性格の不一致としか話していないが、それもまんざら嘘ではない、性格の不一致という言葉は実に便利で、

「木を隠すには森の中」

 ということわざがあるが、まさしくその通り、本当の理由を隠すにはちょうどいい。少々のことであれば、ほとんどの理由が性格の不一致に当てはまるからで、ウソをついているわけではないからだ。

 人に騙されたと言えば、聞こえは悪いが、麻衣には同情してしまうところがあった。だからと言って、許せることではない。

「もう、お前しかいないんだ」

 と、言っていた人が、開き直ったのか、

「もういいよ」

 と言って、離婚届に判をついてくれた。本当は、麻衣と一緒にやり直したかったのかも知れないと思うと後ろ髪を引かれる思いだが、同情は禁物だった。

 麻衣が自分の思ったように表現したり、素直な気持ちを表に出すのは、このことがあったからだろう。

 ただ、元々の明るい性格が作用していることは言うまでもない。いくら開き直ったと言っても、そう簡単に性格を変えることなどできるはずもないからだ。

「私、あの人の子供を宿さなくてよかったわ」

 喫茶店を出て、産婦人科までの道を歩き始めてすぐに、麻衣がつぶやいた。浩司は何と答えていいのか分からずに、振り返りもせず前だけを見て歩いていた。

 麻衣も、答えを求めているわけではない。下手に答えを出されても、それについて会話できるほどの話題もなければ、気持ちもない。忘れるつもりだった元旦那のことを思い出してしまったことを、浩司に黙っているのが、耐えられなかったのだ。

 前を向きながら歩いていると、麻衣が急に立ち止まり、

「あれ?」

 お腹を抑えて、顔を捻った。

「どうしたんだい?」

「いえ、何でもないの。ただ、お腹の中で何かが蹴ったような気がして」

 もし、妊娠していたとしても、そんなに早く子供が母親のお腹を蹴るはずもない。まだ人間の影も形もできていないはずだからである。

 それを聞いた浩司も立ち止まり、麻衣のお腹に耳を当ててみた。

「ちょっと」

 麻衣もビックリしたが、案外気持ちのいいものだ。気持ちがいいというよりも安心できるというのが本音で、くすぐったさも、浩司の暖かさが伝わってくれば、心地よさに変わるのだった。

「何か聞こえた?」

「いや、麻衣の胸の鼓動だけだ」

「当たり前でしょう?」

 麻衣は心細くなっていたので、浩司の行動がさらなる不安を掻きたてた。だが、嫌だったわけではない、浩司であれば、結婚しても、きっといい父親になってくれるに違いないと、麻衣は感じていた。

 浩司との結婚生活を、麻衣は今まで夢見たこともあった。だが、あまりにも現実離れしているので、なるべく考えないようにしていた。それは、浩司には自分以外にも女性がいるからだった。

 恋人としては、許せるかも知れない仲でも、結婚してしまえば、きっと許せなくなるに違いない。

 それに麻衣には一度離婚経験がある。いざ離婚となると、二度目は、最初ほど考え深いものはないかも知れない。許せないと思ったら、あっさり離婚してしまうだろう。

 だが、浩司が結婚を考えているのは、麻衣に子供ができたかも知れないと思っているからだ。

――子供を中心に結婚を考える――

 というのは、男としてのけじめとして格好いいかも知れないが、結局は、どこかで収めなければならない鞘を収めるきっかけが見つかっただけのことなのだ、

――男って、何て身勝手なのかしら?

 と、前の旦那を思い出してみたが、今度は、最初に感じた同情は欠片もなかった。男というずるがしこい動物に対して麻衣は、今自分が開き直っているのを感じていた。

――スーッとしてきたわ――

 気持ちが次第に楽になる。開き直ったわけではなく、自分の中で気持ちに整理がついたのかも知れない。男というものがずるがしこいものだと分かってしまえば、麻衣はどうするか、何となくだが、見えてきたような気がした。

 浩司の後を肩身の狭い思いで歩いていた麻衣は、ゆっくりと浩司に近づき、浩司の腕に抱き付いた。

 浩司はビックリしることもなく、まるで当たり前のことのように、麻衣を見下ろし、微笑んでいる。

「やっと来たか」

 と、一声掛けると、しかめ面にも見える笑顔を麻衣に浴びせた。

 麻衣は以前にも同じような表情を見たことがあったような気がした。それが浩司の表情だったのか、他の人の顔だったのか思い出せなかった。

――思い出す必要なんてないんだわ――

 今、目の前にある浩司の表情が真実だ。真実だけを見つめていればいい状況に今自分がいるのだと思っている。それはいつも同じであって、ただ、その真実がどこにあるかを、いつも探し求めているだけなのだ。

 どうしていいか分からない。そして、何を信じていいのか分からない。分からないものばかりだと、襲ってくるのは不安だけだ。それか一つでも開眼できれば、後は、そこから分かってくるものも多いだろう。麻衣は、浩司を見つめていて、信じることだけが今は大切にしていけばいいことを知ったのだ。

 目指す産婦人科まであと少し、ここまでの道のりが一時間くらいに感じられたが、実際には十五分ほどであった。

 産婦人科のイメージは、浩司にとって想像以上に綺麗だった。待っている時間、この間買ってきた文庫本を開いて読んでいた。少し前に話題になったミステリーだ。

 産婦人科という場違いなところで読むミステリーというのも、おかしなもので、お腹がはち切れんばかりの女性たちが、大事そうに自分の身体を支えている姿は滑稽にさえ見えた。その雰囲気のまま小説を読んでいると、思ったよりも早く読めてしまうようで、不思議だった。

 早く読めているわけではない。本当は思っていたよりも、時間が経つのが早かったのだ。それは想像以上という言葉を使うものではなく、思っていたよりもという言葉が似合っていた。

 髪を長く伸ばした奥さん、ショートカットの奥さん、身体を見なければ性格が分かってくるのかも知れないが、皆一様にお腹が大きいと、普段がどんな性格なのか、想像できなかった。ただ、どの人も身体を持て余しながら、大切にしているのは分かった。命をはぐくむとは、そういうことなのだ。

 浩司は、麻衣に言った言葉を再度噛み締めていた。

「子供ができたのなら、結婚しよう」

 子供を条件にしたのは、いけないことだと思ったが、子供という命を育むのが女。しかもその命は自分との共同作業で生まれたもの。遊びまくっていた男性が、子供が生まれてから、急に子煩悩になったという話をよく聞く。

「俺はそうはならないさ」

 と、言うやつに限って、子煩悩になるものだ。浩司は果たしてどうなのだろう?

 診察室から呼ばれるまで、浩司と麻衣は一言も話をしなかった。麻衣は週刊誌を持ってきて、開いてはいるが、見ている様子はまったくない。浩司の方が、まだ小説を読んでいるだけ、落ち着いて見えた。だが、麻衣がピッタリと身体を寄せて、震えているのを感じると、

――この身体に新しい命が宿っていてほしいな――

 とも感じた浩司だった。

――僕が父親になったら、何をしてあげよう――

 それは、麻衣に対してなのか、まだ見ぬ子供に対してなのか、自分でも分からない。子供ができたと確定しているわけでもないのにである。

 麻衣の順番がやってきて、呼ばれた麻衣は、立ち上がった。その時すでに震えは止まっていた。

 さっきまでは意識がなかったが、周囲のざわめきを感じるようになった。お腹にいるのは何番目の子供になるのか、幼稚園に上がる前くらいの子供が、泣き叫び始めた。それを最初は誰も注意しないので、どこの子供か分からなかったが、さすがに業を煮やしたか、そばにいた奥さんが、子供を叱りつける。

「あんた、いい加減にしなさい」

 その声がヒステリックだったので、子供は泣き止むどころか、さらに声を荒げている。それを見ながら、

「母親失格だ」

 と、小さい声で呟いた浩司は、次第に自分にもストレスが溜まってきたのを感じた。

――こんなところにいたんじゃ、溜まったものではないな――

 と、苛立ちを隠せない自分を感じた。さぞや、厳しい形相をした自分がそこにいるのだろうと想像してみた。

――これくらい耐えられなくて、結婚して大丈夫なのか?

 さっきまでの麻衣に対しての態度に少し自信が揺らぎ始めていた。子供のためにと言いながら、麻衣だけを見ていたのだ。やはり、子供を材料に結婚を考えようとするのには無理があるのだろうか?

 だが、それでも麻衣への気持ちに変わりはない。早く麻衣が出てきて、抱きしめてあげたい気持ちは最初から本物だ。

 しばらくすると、麻衣が出てきた。麻衣の表情は少なからず上気していて、胸を撫で下ろした様子が見て取れた、だが、その本心は浩司には計り知れなかった。子供ができていないことで、ホッと胸を撫で下ろしたのか、それとも、子供が宿ったことで、自分の中にいる子供を思って、胸を撫で下ろしたのかである。どちらにしても、すぐに麻衣の口から真実が語られることになるだろう。

「妊娠三か月だそうよ」

 麻衣の表情は複雑だった。それを見て、浩司はどのようなリアクションを示していいのか、考えあぐねていた……。


 記憶喪失の里美と別れるのが、浩司には一番辛かった。最初、落ち着こうと思い、最初に里美と別れようと思った浩司だったが、里美とはどうしても別れることができなかった。別れようと思った時、里美の中で何かが変わったのが分かったからだ。それをもたらしたのが自分ではないと知った時、本当に別れるなどと自分が考えていたことすら、信じられないほど、精神的に豹変していた。

 一度は別れた相手だった。確かに別れていた時期があったはずなのに、その時期がまるで幻のようだった、

――里美と別れなければ、大変な取り返しのつかないことになる――

 という思いを抱いていたのは、奇しくも麻衣に自分の子供が宿ったことを、麻衣自身が気付き始めた頃だった。

 浩司は、すでに他の女性たちとは手を切ったつもりでいた。里美と手を切ることが一番難しかったが、由香と手を切るのも実は難しかった。

「私、そのうち、誰かに殺されるわ」

 と言っていたのが、引っかかっていた。

 確かに由香は自分に予言の力があると言っていたが、天然であることから、予言の信憑性を疑問視していたのも事実だ。

 誰かに殺されるとは、さすがに穏やかではない。信憑性に欠けるとはいえ、頭の中にずっと引っかかっていた。

 天然な由香だっただけに、浩司は自分の手から離れると、糸の切れた凧のように、どこに飛んでいくか分からないという意識も強くあり、そちらも心配していた。

 由香には、浩司が別れを考えていた時から、友達が少しずつ増えていった。だが、親友と呼べるような人や。男の友達はなかなかできない。できた友達も、由香のことを、

「何を考えているか分からない」

 と言って、付き合いに一線を画していたようだ、

 浩司は、由香を少し離れて見守っていた。いきなり、別れを告げても、由香に耐えられるかどうか分からなかったので、少しずつ距離を置いていくようにしたのだ。

 由香は天然ではあったが、勘は鋭い方だった。予言できるのも勘の鋭さがあったからかも知れない。

 浩司は、里美と別れることはできないと感じていたが、由香とは別れなければいけないと思っていた。正直麻衣に子供ができたと知った時から、由香に対しての気持ちがどんどん薄れてくるのを感じた。それは空気の入ってパンパンになっている風船に穴を開けて、空気が漏れていく様に似ていた。

――里美の記憶が戻るための協力は、してあげないといけないな――

 そのためには、麻衣に里美の存在を知らせておく必要がある。以前から付き合っていたということをいう必要はないだろう。麻衣は浩司が複数の女性と付き合っていることは知っているが、浩司としては、一番麻衣に知られたくない相手であることに間違いはない。里美には、「雰囲気」があり、麻衣が見れば、何かを感づくかも知れないと思ったからだ。

 しかし、隠そうとすればするほどボロというのは出てくるもので、どちらがいいのか、浩司は悩んでいた。だが、もし分かってしまった時にどちらがショックが少なくて済むかと考えれば、おのずと答えは決まっていた。

 妊娠が分かった麻衣は、一時期のようなベッドの中での快楽を貪る行為はしない。何かに憑りつかれたような乱れ方をする麻衣だったが、快楽に身を任せてしまうことに溺れかけてしまっていた浩司も、その時の麻衣の精神状態まで考えようとしなかった。

 また、考える必要もないと思っていた。元々、アブノーマルなプレイにも興味があった浩司は、

――するとすれば、麻衣しかいない――

 と思っていただけに、麻衣から言い出してくれたことは、ありがたいことだった。まるで水を得た魚のようにお互いを貪りながらのプレイ、

――これほど身体の相性が合っているなんて思わなかった――

 と思わせるほどだった。

 そんな麻衣に自分の子供が宿ったのだ。ショックだったというよりも、身体の相性がピッタリだと思っていただけではなく、精神的にも麻衣に近づけたことが嬉しかった。

「めちゃくちゃにして」

 と絶叫していた麻衣と、子供を宿して幸せな顔をしている麻衣、まったく別人に見えるが、どちらも幸せな気持ちになっていることに違いはない。アブノーマルなプレイでも、相手が浩司であり、性的に一番深くつながることができることは、幸せ以外の何者でもないだろう。

 今の麻衣は、浩司を独り占めにできたことをどう感じているだろう。里美のことを話して、取り乱すかも知れないが、それもいずれ通らなくてはいけない道であることには違いない。

 里美を、麻衣と会わせるために段取りを考えていたが、麻衣と二人だけの場所は使いたくない。里美とはいずれ別れるつもりでいるからだ。

 浩司は付き合っている女性と待ち合わせという意味で、二人きりになるための場所をそれぞれ持っている。もちろん、里美との間にも存在していて、そこで麻衣と面会させようと思った。

――里美はどう思うだろうな?

 あまり取り乱すことのない里美は、文句を言うこともないだろう。もちろん、浩司の勝手な思い込みで、女心を本当に分かっているのかと言われれば自信はないが、自分が付き合った女性とのテリトリーくらいは、把握しているつもりだった。

 最初に話を持って行ったのは、麻衣にだった。

「友達の女性で、記憶がない時期を持っている人がいるんだけど、一度会ってもらえるかな?」

 麻衣の表情が一瞬歪んだ気がした。しかし、すぐに元に戻り、

「いいですよ、浩司さんは、その人の面倒を見ていたんでしょう?」

「そうだね。今後は麻衣とも一緒になって、彼女のためにしてあげられることをしてあげたいと思うんだ」

 麻衣の表情が緩んだ。

――麻衣と一緒になって――

 という言葉に反応したのだろう。自分との共同作業と言われたことが相当嬉しかったようだ。

「どんな方なのか、お会いしてみたいですね」

「うん、じゃあ、彼女と待ち合わせの調整をするので、予定に入れておいてくれ」

 そう言い終わるか否かの時、麻衣が抱き付いてきて、キスをしてきた。麻衣が妊娠したと聞いてからというもの、麻衣を抱いていない。別にセックス禁止ではないのだから愛し合うことに問題はないのだが、浩司だけでなく、麻衣の方も性欲に火がつかないようで、身体を求め合うことはなかった。

 元々麻衣は、欲情が激しい方なのだが、よほど感情が高揚してこないと求め合うことはない。濃厚なセックスをするからと言って、絶えず発情しているわけではないのだ。

 この日、麻衣に里美のことを話した時、麻衣の中で、ほのかな嫉妬心が芽生えたのかも知れない。それを思うと、里美という女性が媒体になって、麻衣との性生活は活性化されるのではないかと、里美を失いことの寂しさが、半減されるように思えた。だが、それは浩司の側の勝手な言い分で、里美からすれば、いい迷惑であるに違いない。

 浩司は里美の携帯に連絡を入れると、留守電だった。里美には麻衣のことを正直に話し、詫びを入れた。元々付き合いだしたのは、里美が最初だった。それなのに、妊娠したからと言って、麻衣を選んでしまったことを、詫びたのだ。だが、それ以前に自分の中の整理をしたいと思い、里美と別れようと考えたことだけは、黙っていた。理由は里美の記憶喪失を何とかしてあげたいと思ったからだということを話してしまうと、また里美の中で、浩司への思いが沸騰してくるかも知れないと感じたからだ。別れようと思っている相手になまじ期待を残させるような酷い真似はできないと思っていた。

「お電話いただきました?」

 夜になって、里美から連絡が入った。

「ああ、すまない。実は今度、麻衣と会ってほしいんだ」

 いきなりこんな話を、しかも電話で済ませられる話ではないかも知れないことは分かっていたが、まずは話をしておきたいと思い、浩司には珍しく、焦りから電話をしてしまった。

 里美は、しばらく固まってしまったように返事ができずにいた。

――しまった――

 と思ったが、後の祭りだ。

 吐息が感じられ、胸の鼓動まで聞こえてくるようだった。それでもすぐに呼吸が整ってきたのか、

「いいですよ。浩司さんにお任せします」

「すまない」

 と言って、待ち合わせ場所と日程の調整をしたが、さすがに場所を指定した時の里美も少し戸惑いが感じられた。

――里美は分かりやすいな――

 付き合っている時は分からなかった。それだけ里美に対して、浩司の中での偏見に近い思い入れがあったのを改めて感じたのだ。

 待ち合わせの日程はあっさりと決まり、後は二人を会わせるだけになった。里美も麻衣も楽しみなようだが、間に挟まれた浩司は心配だった。女同士というのは、一旦拗れてしまうと、なかなか元に戻らないということを聞かされていたからだ、もっとも、その話を聞いたのは、麻衣の口からだったのだが……。

 麻衣にお腹の子供は順調だということだった。産婦人科に一緒について行ったのは、最初の一度きりだったが、その後は、

「もう私一人で大丈夫だから」

 と、言って麻衣が一人で出かけている。経過からすると、そろそろ四か月に入る頃だろうか。つわりが残っているか、安定期に入るのかよく分からなかった。

 麻衣が妊娠し、浩司が結婚を考えていることは、まわりにはまだ話していない。浩司の親にも、麻衣の親にもそろそろ話を持って行かないといけないと思いながら、麻衣はそのことに触れようとしない。

 浩司にとって形式的なことは別に気にしていなかった。反対されたとしても、自分の決めた道を、麻衣と進むだけだと思っているし、麻衣にもその話をしていた。それよりも、里美のことが気になっていたのだ。

 里美のことを、もう恋愛対象として見てはいけない。麻衣の妊娠が分かった時から、里美を抱いていない。抱いてはいけないという思いよりも、感情が湧いてこないと自分で思っていた。

 だが、実際に抱けない。抱いてはいけないと思っていると、今度は、我慢できない自分がいることに気付く。完全に別れてしまうのであれば、諦めがつくのだが、記憶喪失の彼女を放っておけないなどと、なまじっかな同情を残してしまったために、浩司の中で整理できないものがこみ上げてきた。

 そういう意味でも、里美を麻衣に会わせることで、浩司の中にいる我慢できない欲望を抑えようという気持ちがあるのかも知れない。しかし、最初に諦めたはずが諦めきれないでいる自分に、果たして理屈だけで考えていることが通じるだろうか?

 麻衣は、育児教室に通い始めた。

「浩司さんも、一度見に来ればいいのに」

 産婦人科への同伴は、恥かしがるが、育児教室への参加を、促してくる。それこそ浩司の方で恥かしいというものだが、それを言うと、

「だって、浩司さんの育児姿、似合いそうですもん」

 と笑顔で話す麻衣の表情に明るさが戻っていて、嬉しくなった浩司は微笑み返しを行った。

 その笑顔は、今まで見た麻衣の表情とは違って、落ち着きが感じられる。お腹に一つの命が宿っただけで、ここまで表情が変わるというのは、本当に命の誕生の神秘さを、思い知った浩司だった。

 麻衣を見ていると、幸せいっぱいだった。この幸せを浩司は何とか守りたいという決意を抱いている。そのためにも里美のことから逃げるわけにはいかない。里美の気持ちを分からない浩司ではないので、逆にそれが心配なのだ。

 里美は、本当に心の優しい女性だ。

「里美と一緒にいる理由は何か?」

 と聞かれれば、

「一緒にいるだけで、それだけでいいって思いにさせてくれることだ」

 と答えるだろう。それが里美の魅力であり、それは持って生まれたものもあるであろうが、浩司と一緒にいることで培われた部分も少なくはない。そう思うと、本当に放っておけない。今までは浩司の癒しになってくれていたが、今度は浩司がその気持ちに報いなければいけない。ただ、それには障害が多い。麻衣も里美も納得いくようにしないといけないからだ。

「どちらも傷つけないように八方をうまく収めることができるだろうか?」

 浩司自身が、不安であれば、どうしようもない。いい方法などすぐに思いつくものでもないし、思いついたことが本当に正解であると言えるだろうか?

「下手な考え休むに似たり」

 というではないか、余計なことを考え、裏の裏を読み間違えると、後悔しても始まらなくなってしまう。

「思った通りにするしかないのかな?」

――後悔しないようにするにはどうしたらいいか?

 ということである。事の中心にいるのは浩司である。二人とも知っているのも浩司だけである。今更じたばたしても始まらないことは、浩司が一番よく知っていることではないだろうか。そういう意味では、二人を会わせるというのも、考え方としては間違っていないと思う。性格的には似ていない二人、それは当然のことかも知れない。好きになって付き合い始めた相手が似ていては、必ず比較してしまうに違いない。そうすれば、態度に出てしまうのは必至、今までうまくいっていたのは、性格の違いがあったからだろう。だが、そんな二人だからこそ、浩司のこととなれば、話が合うかも知れない。いや、それ以外のことで話が合ってくれる方がありがたい。あまりにも虫が良すぎる考えだが、そう願うしかない浩司であった。

 浩司は、里美を麻衣に会わせる前に、里美との思い出の場所を二人だけで過ごそうと考えた。里美に連絡を入れると、里美は意外そうな返事だったが、嫌な雰囲気は感じられなかった。

 里美といつも落ち合っていた場所で、少しだけ話をして、そのまま、里美の部屋に行くつもりだった。浩司としても、里美との思い出の場所に、ずっといられるわけもないと思った。最初辛いのは里美の方かも知れないが、滞在が長くなればなるほど辛くなるのは、浩司自身だと思ったからだ。

「女というのは、ギリギリのところまでは我慢するが、切れてしまうと、あっさりとしたものだ」

 と、聞いたことがある。

 付き合っている人と別れる時も、女性はギリギリまで相手に自分の考えを告げず、我慢の限度を超えた時、初めて表に気持ちを表す。要するに爆発されるということなのだろうが、男からすれば、実に勝手な感情だと思うかも知れない。

 もちろん、すべての男女が当てはまるわけではないが。一般的に男性の方が女々しいと言われるだろう、

 自分から別れを切り出そうとしても、その時々で楽しかったことが走馬灯のように頭の奥を巡り始めると、男の場合は、

「まだやり直せるかも知れない」

 と、決めたことでも、再度考え直すこともある。

 優柔不断なのは女性よりも男性の方が強い。それは、女性が我慢しているのを、どれだけ付き合っている相手の男性が気付いてあげられるかなのかも知れない。気付かずに苦しんでいるのを、そのまま声を掛けることもしなければ、女性とすれば、見捨てられたという感覚に陥ったとしても仕方がないことだろう。

 女性の最後の我慢は、男性にとっても、最後のカウントダウンを示しているのだ、どれだけ相手を大切にできていたかの答えを、女性は身をもって感じようとしている。まるで腹を痛めて子供を産む時の感情に似ているのかも知れない。

 里美のように冷静な女性ほど、思い詰めると何を考えるか分からない。取り返しがつかないことになるかも知れないという思いは、その時、頭の中が麻衣のことで支配されていたこともあって、分からなかった。一方だけでも大変なのに、板挟みになってしまっていることの本当の怖さを、いずれ知ることになる浩司であった。

 里美の部屋は、静かで質素だった。防音設備だけはしっかりしていて、少々の音楽を掛けても、まわりの部屋に迷惑を掛けることはない。里美は、ヘッドホンがあまり好きではなかった。ヘッドホンをしているために、気付かなければいけない音に気付かなかったというのが怖いからだ。火事が起こったり、不審者が忍び込んで来たりと、不安材料はいくらでもあった。

 オートロックも完備しているマンションなので、よほどのことがない限り心配はないはずだが、一度心配になると、静まることはなく、心配が募っていくばかりの里美には、心配してし足りないということはないのだ。

 浩司がこの部屋に来るのは、何度目だろうか。必ず泊まっていき、朝、里美が作ったベーコンエッグにトーストの朝食を摂るのが楽しみだった。

「ここは、僕にとってのオアシスなんだ」

 と、里美に話していた。

 付き合っている他の女性の部屋とは、明らかに里美の部屋は違う。質素な感じは、男性の部屋に見えるかも知れないくらいだ。それに比べて麻衣の部屋などは、ぬいぐるみにピンクのシーツ。かと思えばカーテンは真っ赤だったりと、可愛らしさの中に情熱がみなぎっているようなアンバランスさがあった。

――それぞれの性格が表れている――

 普段の麻衣の服装は部屋に比べれば質素なものだ。いつも華やかさに満ち溢れているようで、プライベートと公共の場でのいでたちに関しては、しっかりと心得ているのも麻衣だった。だから、まわりに敵を作ることもなく、誰とも明るい会話を保っていけるというところは、麻衣のそういう性格の表れであった。

 そういう意味では、里美は裏表のない女性だ。

 プライベートの公共の場でも、それほど変化があるわけではない。相手によって態度を変えることもないので、気が合う人とは話が合うが、会わない人とはとことん嫌われてしまうタイプだった。だからといって気が合う人すべてが味方だというわけでもない。里美のような性格は、大きな敵を作ることはないが、絶対に信頼し合える仲間ができるわけでもない。表から見ていると、無難な性格であり、だからこそ、冷静に見えているのではないだろうか。

 里美の部屋に癒しを感じ、麻衣の部屋には懐かしさを感じる。

 麻衣の部屋に感じる懐かしさは、「匂い」であった。柑橘系の香りが漂っていて、浩司の好きな匂いであった。匂いの趣味が合うのも、麻衣と一緒にいられることの喜びの一つである。

 味覚の好みは違っていた。甘党の浩司に対して、麻衣も里美も、辛党であった。ただ同じ辛党であっても、辛さの種類が違う。和洋の違いと言ってもいいが、和食の辛さを好む里美に対し、麻衣は洋食の辛さを好んだ。

 甘いものが最初は苦手だと言っていた里美も、最近では、浩司に合わせられるくらいに食べれるものが増えてきた。自分で作り、甘さを調節することで、一緒に食べられるようになったのだろう。

「里美の努力には頭が下がるよ」

 というと、

「私は努力とは思ってないんですよ。食わず嫌いだったんでしょうね。食べれるようになったら、嫌いだったのが嘘みたいなんですよ」

「いいことだ」

 と、口では言ったが、その言葉の意味を里美は分かっているのだろうか。食わず嫌いだというのは、男性の好みにも言えるのではないか。今までは嫌だと思っていても、実際に話をしたり、考えに聞く耳を持てば、嫌いだった人も好きになるかも知れない。今までは浩司一人だと思ってきた気持ちに、いつ変化が訪れるか分からないだろう。

 付き合っている女性の中で、一番心変りがなさそうなのが、里美だった。そして一番情熱的なのが麻衣である。

 麻衣の場合は、情熱的な中に、落ち着いた雰囲気が滲んでいる時がある。それがシルエットとしてイメージできた時、麻衣を、「本当の大人のオンナ」として見ることができるのだった。

 麻衣の中に感じた「懐かしさ」は、情熱的な中に存在する、大人のオンナの雰囲気なのかも知れない、

――麻衣は放っておいていい時と、危なっかしい時の二種類の顔を持っている。里美にも二重人格性を感じたが、それよりも分かりにくいのが、麻衣の方の二重人格せいなのかも知れない。

 麻衣には、浩司が一人だけになりたいと思って馴染みにしている店を教えているが、里美には一切教えていない。本当は逆ではないかと思うのだが、もし何かあって、やってくるとすれば、里美の方だと思ったからだ。

 麻衣は耐えることができる女性だと思っている。それだけに、麻衣が開き直って、別れを考えてしまったら、説得はほぼ無理に近いだろう。それに比べて里美は、あまり耐えることを知らない女性であり、なぜそのことに気付いたかというと、自分が記憶喪失であることの自覚さえ、すぐには浮かばなかったくらいである。

 楽天家というわけではない。悪いことはなるべく考えないようにしようと思っているだけで、考えてしまうと、自分が重圧に耐えられるかがまったく分からない。

――そのあたりが、里美を記憶喪失にした原因なのかも知れない――

 もし、麻衣と里美、どちらかが男だったとすれば、二人が付き合うというようなことがありえるであろうか?

 里美が男の場合を考えてみたが、浩司が見ていて、里美の男はイメージが湧かない。却って麻衣が男なら、さぞやダンディであろうと思われた。素直に自分を表現する力は、実は女性よりも男性の方が強いのではないかと浩司は思っている。

 麻衣の部屋に懐かしさを感じるのは、少女趣味の部屋の中に、感じる柑橘系の香り、大人の雰囲気を醸し出しているのは、男性的なホルモンが部屋の中に漂っているからではないだろうか。

 里美の部屋を訪れた後、麻衣の部屋に行ってみようと思うことはあっても、麻衣の部屋を訪れた後、里美の部屋に行ってみようとは思わない、麻衣の部屋で疲れ果ててしまうのもその理由であるが、麻衣の部屋を出た瞬間、頭を切り替えることができなくなってしまうのだった。

 そんな時、浩司は自分の部屋にさえ帰るのが嫌になったりする。麻衣は浩司を送り出した後、まっすぐに家に帰るものだろうと思っているだろうが、一度馴染みの喫茶店に立ち寄らないと気が済まなくなるのだった。

 麻衣の家から一番近くにある馴染みの喫茶店は、夜になると、バーの様相を呈している。夜の常連の客、昼は昼の常連客がいる。昼中心の客は、夜にも顔を出すことがあるが、夜の客が、昼に顔を出すことはほとんどなかった。店の雰囲気というよりも、時間の感覚が支配している空間に、自分が存在しえるかを、考えているのだ。浩司は昼中心の客なのだが、夜に来ると夜の顔になっているということが、他の客、特に夜の客には、分からないらしい。

 里美の家を訪れても、里美を抱かずに帰るのは初めてだった。次の日に、麻衣の部屋でたっぷり麻衣を愛してあげて、浩司は、一人になれる喫茶店で一息つこうと思った。前の日に、里美を抱けなかったこと、そして、妊娠している麻衣を抱くことの複雑な心境、浩司は今までにない不可思議な心境に見舞われていた。

 その日の麻衣は異常なほどだった。

 浩司にしがみつき、

「お願い。愛して」

 を、連発だった。

 愛し合いながら、何かを訴えるのは、麻衣に特徴ではあったが、涙を流しながら、ここまで懇願することはなかった。まるで、別れようとする相手を必死で引き留めているような気持ちさえ感じられた。

 妊娠している麻衣の身体を気遣わなければいけないという気持ち、さらに、すこしずつではあるが、妊婦の様相を呈している女に対しての性欲の微妙な低下など、本能によってどうしようもない感情が、表に出ていないとは言えないだろう、

 その気持ちを麻衣が感じ取ったとしても不思議ではなかった。麻衣も勘が鋭い方だ。いや、勘が鋭くなったのは、浩司と一緒にいるからだ。知り合った頃の麻衣は、ここまでではなかった。勘の鋭さは浩司に対してだけなのかも知れないと思うのだった。

 その日、いつもであれば、麻衣を愛した後、ゆっくりしているのだろうが、浩司は身体のほてりが戻ると、そそくさと、麻衣の部屋を後にした。自分でも分からない今のやるせない気持ちを、一人になることで、何とかしたかった。そのままいたら、鬱状態への入り口を見られてしまい、鬱状態に入り込むのを防ぐことができないと思ったからだ。本来の鬱状態への入り口は、一人の時であり、また鬱状態を回避できるとすれば、一人の時しかありえないだろう。もっとも、回避というのは、不可能に近いと思ってはいるが……。

 浩司は、ぐったりしている麻衣をその場に残していくことに、後悔を抱いていたが、あえて、そのままにしておいた。麻衣もその時、浩司を引き留めようとはしなかった。何とか服を着ることだけはできたようで、ソファーに座って、ゆっくりしていた。

 麻衣には、仕事のためと言って、麻衣の部屋を後にしたが、麻衣は浩司の言葉を最初から信じてはいなかった。

 麻衣の部屋を出る浩司を目で追いながら、一言も声を掛けなかった。ぐったりしていて、声を発するのも億劫なのだろう。

 浩司は、以前から、麻衣に自分の隠れ家である喫茶店の所在を知られていることに気付いていなかった。

 浩司の頭の中で、女性の整理をしようという考えが頭にあった時、麻衣には、

――自分が捨てられるかも?

 という危惧があり、密かに浩司をつけたことがあった。他の女のところに行くとでも思ったのだろう、

 それが意外や意外、一人でゆっくりするための喫茶店を持っていたとは、少し麻衣は拍子抜けした。しかし、安堵のため、胸を撫で下ろしたのも事実で、

――私が捨てられるというのは、思い過ごしだったのかしら?

 と思うようになった。

 女性の整理に違いはなくとも、自分が捨てられると思ったのは、少し自分の精神状態がおかしかったからではないか。麻衣は、次第に落ち着きを取り戻そうと、溜飲が下がってくるのを感じていた。

 浩司が一人で喫茶店に行くのは、浩司自身が、その時の麻衣のように、溜飲を下げたいからであって、それだけ麻衣との生活が浩司にとって、浮世離れしているものではないだろうか。麻衣にとって都合のいい考えだが、そんな麻衣を浩司が捨てるような真似をするわけはないという思いが根拠となり、浩司に対して、おかしな疑惑は抱かないようにしていた。

 ただ、それも麻衣が精神状態を普通の状態に持っていける時にできることであって。妊娠したことで、今までにない精神状態にある麻衣に、どれだけ平静を保つことができるかも麻衣自身が不安だった。浩司が今まで通りでいてくれて、麻衣の期待にそぐわなければ問題ないという薄氷を踏むようなものなのかも知れない。

 浩司も麻衣の前では、なるべく平静を装うよう、心がけていた。少なくとも、今までは問題なく付き合えた。しかし、男としての性で、どこまで身体が変わっていく麻衣を、変わらずに性欲を保てるか、自分でも自信がなかった。すでに変調の兆しは見え隠れしているではないか。

 麻衣に対してというよりは、浩司の中で、麻衣以外の女性に対して、どのように接していくかが問題だった。いきなり別れを告げられるような相手は、すでに別れていた。残った女性たちと、別れるにしても、このまま付き合っていくにしても、精神的にはかなりの部分をむしばむだろう。

「前門の虎、後門の狼」

 と言ったところだろうか。

 里美にも、自分が捨てられるかも知れないという危惧はあった。浩司と付き合っている女性は、皆それぞれ、捨てられるという思いを持って付き合っていたようだ。中には、

「捨てられるくらいなら、私の方から捨ててやる」

 と思っていた女性もいたようで、そういう女性は、

「あんなたなんて、こっちから、払下げだわ」

 と、捨て台詞を吐いて、去って行った女性もいた、

 浩司にとってはその方が気が楽だった。ただ、さすがに浩司が付き合っていた女性らしく、捨て台詞にも、情が籠っていた。気が楽ではあったが、一抹の寂しさはあった。少なくとも、

「せいせいした」

 などと思わせるような女性は一人もいなかった。

 もちろん、里美もそうだった。

 捨て台詞を吐くようなことはしないだろうが、もし、里美を捨てようとするなら、彼女なりに、浩司が別れの決意を鈍らせるような態度を取るに違いない。どんな態度を取っていくかなど、浩司に想像がつくわけもないが、ただ、別れるのは無理だろうと思わせるのだった。

 どのような態度に出るか分からないが、浩司を迷わせ、苦しめるであろうことは想像がつく。それは、きっと里美が単純だからであろう。

 単純というのは、

「パターンに嵌った」

 という意味ではない、

 どちらかというと、

「里美が取る行動が、里美の精神状態と同じリズムになっている」

 ということであった。

 彼女の行動パターンは分かりにくいが、一旦分かってしまうと、誰よりも分かりやすい行動パターンである。それは里美の考え方や精神状態が分かってくると、それにより、行動パターンが分かってくるからだ。

 里美には、麻衣のように、感情的になる部分がない。

 麻衣のような女性は行動パターンが分かりやすいが、急に何をするか分からないという危険性はない。しっかり性格を見つめていれば、里美の場合は、行動パターンが分かってくるからだ。

――もし、子供を宿したのが、逆だったら?

 つまり、里美に子供ができていれば、里美と結婚して、大切にしていこうと思うのは間違いないだろうが、その時に麻衣に対して、どのような態度を取るだろう?

 里美と違って、麻衣は感情をあらわにする。取り乱すくらいは当たり前で、里美に何かをするかも知れない。

 ひょっとしたら、自殺をほのめかし、浩司をゆするかも知れない。麻衣に対しては、麻衣を裏切るようなことになった時、どんな恐ろしい態度に出るか分からないという怖さがあった。

 ただ、そのことを浩司はなるべく考えないようにしていた。下手に考えると、苦しむのは自分だけ、損をしているように思うからだった。考えなくてもいいことは、なるべく考えないようにするのが、得策ではないだろうか。

 麻衣について甘く考えようとするのは、本能として当たり前のことなのかも知れないが、それが今後自分に不利に立ち回り、とんでもない事態を引き起こしてしまうのだということを、この時の浩司には、想像もつかなかった。

 いや、想像がつかなかったわけではなく、考えないようにしていたことすら、浩司には意識がなかった。

「本能から、麻衣について最悪なことを考えないようにしていた」

 と、後になって思うのだが、本能の何たるかを後になって考えても分からなかった。それはまるで浩司にとっての自己防衛が、本能であることを示しているのだが、一番認めたくないことだったに違いないからである。

 里美に自分の子供ができたら、さぞかし嬉しいと思ったかも知れない。麻衣には悪いと思うのだが、麻衣と自分の子供であれば。どんな子供が生まれるか、想像もつかない。それだけ浩司を麻衣とでは性格的にも隔たりがあるのだった。

 二人の間ではうまくいっているのかも知れないが。二人の間に生まれた子供となると訳が違う。性格の不一致ではないが、性格に隔たりがあるということは、

「どこまで行っても交わることのない平行線」

 が、二人の間にできた子には、産まれながら持ち合わせることになるのだ。

 里美の場合も、決して浩司は自分の性格が里美に似ているとは思わない。麻衣とのようにうまく噛み合っているわけでもない。ただ、個々を見ると、共通点は少なくない。それを一つ一つ見ていくと、子供の性格は分かってくるのだ。

 一つ一つの共通点は、浩司よりも里美の方が分かっているようだった。

「二人きりになって、楽しいのは麻衣で、落ち着くのは里美だ」

 と思っている。

 麻衣の場合は、性格は似ていなくても、行動パターンのあらかたが分かっていることで楽しく思い、里美には、自分のことを分かってくれていることから、癒しを感じ、落ち着くと思うのだった。

「麻衣に子供ができたことは、喜ばしいことではないか」

 元々、彼女たちの中から、結婚したい人を選ぼうと思っていた。麻衣も、もちろんその中の一人。麻衣のような性格の女性とは、結婚しない方がいいという人もいたが、浩司にはそうは思わなかった。確かに行動が露骨なところもあるが、それは根が実直なだけで、誤解されやすいタイプだからだと思う。実際に麻衣は、

「痒いところに手が届く」

 と言った感じの女性なのだ。

 浩司は、麻衣に懐かしさを絶えず感じていた。それは、まだ見ぬ自分の子供を自分なりに思い浮かべているからではないかと思うようになっていた。

 実は、最初に麻衣から、

「妊娠したみたい」

 と聞かされた時、一瞬ではあったが、

――本当に、僕の子供なんだろうか?

 と、考えてはいけない疑惑が頭を過ぎった。

 麻衣と別れることはできないと思い込んでいるのは、最初にそう感じたことへの罪ほろぼしのようなものなのかも知れない。

 だが、それよりも、自分が麻衣に対してというよりも、子供に対しての思いが強くなっていくことに戸惑っていて、それを自分で隠そうと、懐かしさという感覚が宿っているのかも知れない。

 麻衣が、浩司以外の男性と付き合っているということはないと思っていた。しかし、一度や二度の過ちくらいはあるかも知れないとは思った。それを浩司は悪いことだとは思わない。むしろ、自分には他に女性がいるのだから。過ちを犯してくれたくらいの方が。浩司にとって、精神的には救われる気分になったとしてもおかしくはないだろう。

 今まで、浩司は子供が好きではなかった。親に対して甘える態度や、ごねるような態度を取っているところも、それを見て親が、

「しょうがないわね」

 と言って折れるところ、あるいは、

「何言ってるの、さっさと行くわよ」

 と、ごねている子供をしかり飛ばしている姿。

 そのどれを取っても、浩司には醜いものにしか見えなかった。

 そんな泥臭い親子関係は、そのものズバリ、浩司にとって泥臭いだけでしかない。自分の子供の頃を思い出すと、その泥臭さをそのまま演じていたからだ。

――思い出すのも、けがらわしい――

 と、感じることが、子供を見るのも嫌だったことがあった理由だった。

 だが、麻衣に子供ができたと聞いた時、そして、それが自分の子供だと意識を始めた時。浩司には子供に対して、万感の思いがこみ上げてきたのだ。

 それは、父親としての思いに、麻衣が今感じている母性本能のようなものが分かってきたからなのかも知れない。今まで、自分が親から受けてきたような態度を、自分の子供には感じさせたくないという思いが働き。自分の親が、

「反面教師だ」

 という思いに至った。

 麻衣と一緒にベビーカーを押して、笑顔で買い物に出かけるイメージまで頭に浮かぶ。驚いたことに、すっかり母親の顔になっている麻衣の姿が、浩司には鮮明に瞼の裏に浮かんでくるのだった。

 それを思うと、自分の中で感じていた「懐かしさ」には、子供に対してだけではなく。麻衣に対しても感じていたのだ。

 浩司が麻衣にとって、これからどれほど大切な存在なのかということを、麻衣は知らないかも知れない。先に浩司が知ってしまったのは、麻衣の身体には一つの命が宿っているからだ。

 女は子供ができると変わるというが、男も子供の顔を見ると変わるという。まだ顔を見ない間にこれほどの想像が浮かんでくるのだから、実際に生まれたらどうなるのだろうか? きっとこれ以上変わることはないのではないだろう。先に感じたということは、感じなければ、最悪の決断を、麻衣にしていたかも知れないだろう。

 麻衣が里美と会う日がやってきた。最初、麻衣は里美と会ったら、何を言おうかと、いろいろ思いめぐらせていた。ほとんどが嫌みであったが、嫌みもたくさん思い浮かべると、次第に、嫌みが消えてくるようなおかしな気持ちになってきた。

――私は何を言いたかったんだろう?

 麻衣は、里美を目の前にすると、何も言えなくなってしまいそうな気がした。その理由は、

――もし、私が里美さんの立場だったら――

 という思いが働いたからだ。

 今まで、麻衣は人のことよりも、まずは自分のことだった。

――自分のことを大切にできないのに、他人を大切にできるはずはない――

 というのが、麻衣の考え方だったのだ。

 だが、里美のことを考えていると、その考えが薄れてくるのを感じた。会って話をしたこともない相手なのに、前から知っていたような気になってきているからだった。浩司という人間を中心に、自分や里美がいると思うからで、当の浩司のことを考えても、麻衣は里美に辛く当たることができないと思うようになっていた。

 しかし、同情ばかりしているわけにはいかない。人に同情したために、自分が不幸になっては仕方がないからだ。そのためにも、けじめをつけるという意味でも、里美に会う機会としては、今がちょうどいいのかも知れない。

「里美さんは、避けて通れない相手なんだわ」

 里美の記憶が戻るのであれば、それが一番いいことに違いない。麻衣は、単純にそう思っていた。しかし、浩司は違う。

――もし、里美の過去に、何か思い出したくないような何かがあるのであれば、無理に思い出すことはない――

 と思っていた。それは里美に対しての思いやりであるのと同時に、彼女を守ってあげられるのは、自分だけだという思いが、浩司の中にあるからだった。麻衣との考え方の違いは、男と女の違いというべきであろう。

 それは、まだ浩司の中に、里美を好きだという思いがあるからで、物事を単純に考えがちな麻衣でも、浩司の中の考え方は分かっていた。

「好きな人のことはよく分かるんだわ」

 というのも、ある意味単純な考え方によるものなのかも知れない。

 里美と浩司がどういうところを好んで利用しているのか、見てみたい気持ち反面、怖い気もした。まるで敵陣に乗り込む戦国武将の気持ちだった。

 麻衣は、女性の中では珍しく歴史が好きだった。

 いや、数年前に歴史が好きな女性がブームになったことがあったが、麻衣もその時に歴史に興味を持った口である。いろいろなことに興味を持ち、その中でどれだけが継続されるか、あまり多いわけではない。ただ、歴史への興味は、長続きしている方だ。

 愛が歴史に興味を持ったのは、戦国時代である、ゲームなどでもいろいろ出ているが、戦国武将が結構、「イケメン」に描かれているのが、麻衣の興味をそそったようだ。ゲームだけではなく、戦国武将グッズにも興味を持ち、通販で購入したりしていた。

 歴史に興味を持つことで、少し考え方が変わってきたところは少なからずにあった。浩司にもそのことが分かっていて。浩司も歴史が嫌いではないので、たまに歴史の話になると、激論を戦わせることも少なくない。

 浩司はそんな麻衣が好きだった。歴史に関しては、里美も興味を持っているようで、ただ、里美の場合は麻衣が興味を持っている時代とは違い、もっと昔に遡る。

 飛鳥時代から奈良時代に掛けて興味を持っていた。実に地味で、意外な時代であった。人に言わせると、

「玄人好みの時代だな」

 というに違いない。浩司もその時代にはあまり興味はなかったが、里美と話をするようになって、興味を抱くようになっていた。

「私の記憶を取り戻す術があるとすれば、意外と好きなものや、嫌いなものを掘り起こしていくと見つかるかも知れないわね」

 と、まるで他人事のように、里美が言ったことがあった。里美とすれば、

――そう簡単にはいかないわ――

 と思っていたかも知れないが。浩司とすれば、

――里美には、自分の過去を思い出そうとする意志があって、そのやり方も分かっているのかも知れない――

 と思わせた。

 さらに、好きな時代に、里美の記憶を取り戻すキーポイントがあるような気がして仕方がなかったのだ。

 戦国時代が好きな麻衣は、一つの危惧があった。

――徳川家康が、二条城で、豊臣秀頼に会見して時――

 それは、麻衣と里美のシルエットを見ているようで、何を意味しているか、麻衣には背筋に冷たいものを感じていた。

 飛鳥時代が好きな里美は、聖徳太子の時代あたりから、奈良時代あたりまでの戦乱に興味があるという。戦国時代のような、群雄割拠ではなく、大陸の影響により、日本の国自体の体勢が、定まっていない。統一という言葉には程遠いという意味では戦国時代も同じであるが、大陸から攻められるという意味で、頻繁に遷都を起したりすることで、混乱が深まっていったが、里美は宗教の違いによって、考え方の統一が図れないことで、起こる革命に興味を抱くと言っていた。

 大化の改新もその一つで、絶対勢力に対する一人の人間のエゴが引き起こしたとも言われているが、大陸との平等外交を行っていたことで入ってきた大陸文化や宗教に、我慢できない連中のクーデターに他ならないともいう。

 大化の改新で、引き起こされたクーデターは、実は日本の発展を百年遅らせたのだという説もあるが、里美はその説に賛成のようだった。

「どの時代にもエゴや嫉妬で戦争になったり、クーデターが起こったりするものだけど、どうしても避けられないのが、宗教の問題だと思うんですよ。特にあの時代は、世の中が混乱していて、宗教に頼る人が多かっただろうけど、特に昔からの日本にあった宗教からすれば新興宗教は、邪教にしかすぎないんですよね」

 今の世の中でも、胡散臭い宗教は蔓延している。一人のカリスマが引き起こす大事件もあったりするくらいで、現代の方が、余計に新興宗教を煙たがる。

 実際に、犯罪結社のような宗教団体もあったりして、どこまで信じていいのか分からないが、昔からの宗教からすれば、迷惑千万だと思っているに違いない。

「大化の改新には、とても興味があるの。どうして、あのタイミングだったのか、そして、あの時のあの場所だったのか、そして。どうしてクーデターを企てる必要があったのかですね」

 自分の記憶がない部分があることで、歴史認識を素直に受け入れられると話していた。確かにそうだと浩司は思う。

 聖人君子のような聖徳太子、そのあまりにも大きなカリスマが、のちの時代の混乱を呼んだのかも知れないと思うと、皮肉な感じがする。

「大化の改新のあの場面を思い浮かべると、恐ろしさの中に懐かしさを感じるんです。恐ろしさというのも、他の人が考えているよりも、よほどショッキングな恐ろしさなんですけど、その時のことを考えると、最初、何とも言えない頭痛がしてくるんですが、落ち着いてくると、今度は、スーッと落ち着いてくるんです。それはまるで気持ちよさを含んだもので、ひょっとして、私の記憶の断片が、歴史の中に隠されているように思えてならないんですよ」

「時代が記憶を呼び起こすのかな?」

「そうですね、呼び起こすというよりも、聞いた話を思い浮かべることができるという感じですね。記憶に引っかかった何かに共鳴していると思ってしまいます」

「僕は聖徳太子も好きだけど、中臣鎌足も好きですね。一人で仲間を集めて起こしたクーデターでしょう?」

「そうなんだけど、その中に、たくさんの暗躍が隠されていて、その証拠に集めてきた仲間を、大化の改新のあとに、粛清しているように思えてならないんだ」

 浩司も里美との話を合わせるために、飛鳥、奈良時代を結構勉強した。

――蘇我氏の滅亡で、時代が百年遡った――

 という説に共鳴していた。

 それはその時代だけではなく、他の時代のターニングポイントで同じようなことがあるからだ。

 源平合戦の前、平清盛率いる平家は、海外貿易を奨励し、海外との外交策船を取っていた。さらに、幕末の坂本龍馬も同じである。平清盛だけは暗殺ではなかったが、彼らを失うことで、日本の歴史が遡ってしまったと言われる。共通点は、

「海外貿易」である。

 蘇我氏にしても、平家にしても、坂本龍馬にしても、海外に目を向けていた、里美はそんな時代の中で、一番古い、蘇我氏の時代に目を向けたのだった。

「戦国時代で言えば、織田信長よ」

 と、麻衣ならいうだろう。

 麻衣は織田信長のファンである。性格的にもどこか、麻衣に似たところがあると思っていた。本人は否定するかも知れないが、カリスマ的なところに、浩司は共通点を感じた。離れられないという感覚は、織田信長との共通点も意識しているからかも知れない。

 麻衣が里美と会う約束をしたその日、浩司は、朝からそわそわしていた。前日まではそれほど気にしていなかったのに、その日になって、気になってきたのだった。

 朝の目覚めは悪いわけではなかった。前日ぐっすりと眠れたからなのだろうが、目が覚めてから、意識がハッキリしてくる間に不安がこみ上げてくるのだった。

 朝食は、近くの喫茶店でのモーニングサービス。そのまま会社に向かうには、まだ少し寝ぼけていたからだ。

 普段の浩司は、朝ごはんを食べることは珍しく、目が覚めて、家を出れば、そのまま会社に向かう毎日だった。

 朝から食事をするのは、気持ち悪かった。子供の頃に、食べたくもないのに。

「朝食はちゃんと摂らないといけません」

 という家族の暗黙のルールに乗せられて、嫌でも食べさせられていた。朝、目覚めの悪さは、朝食を無理やり食べさせられることにも原因があったように思う。

 それでも、最近ではモーニングサービスが、主流になってきた。それまではたまに寄るくらいだったが、店の常連になってしまうと、食事よりも朝のリズムを作り、それを狂わせたくないという思いから、浩司は毎日寄るようになっていた。

「どうしたんだい? 顔色が悪いよ」

 マスターが声を掛けてくれた。それに呼応するように頭を上げると、おいしそうなコーヒーの香ばしい香りが漂ってきて、

――どこか、懐かしさを感じるな――

 と思わせた。

 マスターの顔を見ていると、頭がフラフラしてくるのを感じた。

「おい、大丈夫かい?」

 と、遠くから声を掛けられるのを感じたが、自分でも身体が沈んでいくのを感じていた。そのまま意識を失うのも、悪くないと思っていたようだった。

 麻衣と里美が目の前で、話をしている。それを近くで見ているのに、声がまったく耳に入ってこない。それは声ばかりではなく、雑音もまったく耳に入ってこず。耳鳴りのようなものが聞こえているだけだった。

 二人の顔を見ると、見たこともないような真剣な表情を二人はしていた。主導権は麻衣が握っていて、それに里美も頷いているだけだったが、里美がキョロキョロしているのが気になった。

――こっちを見ている。目が合うかも知れない――

 視線が近づくと、思わず目を瞑ってしまった。しかし、里美は浩司に気付かない様子で、すぐに視線を麻衣の方に戻すと、また、話をしているようだった。

 主導権は確かに麻衣が握っているようだったが、言葉を発しているのは、むしろ里美の方だった。まるで、麻衣に諭されて、里美の知っていることを白状させられているかのように見えるが、立場はあくまでも対等にしか見えない、

「麻衣」

 聞こえないという確固たる自信があるわけではないのに、恐れを知らずとしか言いようのないが、浩司は声を掛けてみた、麻衣が気付くはずもなく、さらに里美を見つめていたが、今度は里美がまたキョロキョロし始める。

 里美の性格からすれば、怖がりなのだろうが、どこか、怖いもの知らずなところがあり、そのあたりの性格に矛盾を感じるのだが、里美に限っては、違和感がない。麻衣のように分かりやすい性格ではない分、何を考えているか分からない時もあったりするのだ。

 麻衣は里美の様子を必死に見ていた。里美の表情や話し方から、何かを読み取ろうとしているようだった。

――こんな麻衣は初めて見たな――

 と、浩司は思ったが、それは思い過ごしだった。普段の麻衣を、普段の浩司が見れば、麻衣の楽しそうで単純なところしか見えていない。要するに、麻衣のすべてを見ているわけではないのだ。

――そんな馬鹿な――

 浩司は、麻衣のことなら何でも分かっているつもりでいた。麻衣は自分に対して従順で、その性格は他の人には見せることなく、麻衣の本当の性格は、浩司だけのものだと思っていたが、どうやら違っているのかも知れない。

 真剣な表情の麻衣は、こちらを見ようとしない。まるで浩司がいるのを知っていて、目を合わせないようにしているかのようだった。

――二人とも、僕の存在に気付いているのではないか?

 と、感じた。

 浩司のことを二人して試そうとしているのかも知れない。一体何を試そうとしているのか分からないが、二人の関係が今までまったく存在していなかったなど信じられないほど意気投合しているようだった。二人の関係を見守っていくつもりだったが、二人を会わせることで、浩司の知らないところで独り歩きを始めるのではないかという危惧が、頭の中を巡っていた。

 麻衣と里美が一緒にいる光景を今までに思い浮かべたことなどなかった。

 浩司は自分の性格をよく分かっている。怖いと思うことは絶対にしないし、想像したりはしないのだ。

 子供の頃に、誰でも冒険したり、探検したりした経験があるだろう。浩司も冒険心は旺盛な子供だった。学校の近くに幽霊屋敷と呼ばれる廃墟が残っていたが、五年生の時、探検しようという話が持ち上がった。

「お前は嫌だとは言わないよな」

 言い出した奴に、今まで逆らったことがない。その時も同じ心境で、

「そんなこと言うわけないじゃないか」

 と言い返した。

 その頃はまだ、苛められるようになる前のことで、また浩司にも子供なりのプライドがあった。

 皆と同じように、浩司も幽霊屋敷の探検に出かけたのだが、出かけた時は七人いたのに、帰ってきた時には六人になっていた、言い出した奴が消えていたのだ、

 一気に皆凍り付いたように、恐怖に駆られ、大人たちは必死になって行方を捜した。実際には一キロほど離れた河原で発見されたのだが、本人には記憶がないという。だが、誰もそんな言葉を信じなかった。

「怖くなって、自分だけ逃げ出したんだ。それだけならいいが、まるで自分が被害者のように演技までして」

 と、完全に逃げ出したことになってしまっていた。

 だが、浩司には分かっていた。彼が逃げ出したのではないということを、

「本当に、彼は神隠しにあったんだ」

 と、浩司は思っていたが、そう思っているのは、最初自分だけだと思っていた。しかし、本当は他の友達皆がそう思っていたようで、

「逃げ出した」

 という噂を流したのは、

「誰も信じてくれないようなことを、言ったって仕方がない。それよりも下手に噂にして、今度は自分たちがあいつのようになるのは困るからな」

 というのが、本音だったようだ。

 浩司も同じことを考えていた。しかし、まわりの誰もが同じことを考えているなど、想像もつかなかったし、こんな突飛な発想は自分だけで、他の人に話すなど、恥かしいことだとさえ思っていた。

 しかし、後から聞いてみると、皆ほぼ同じ時期に同じことを感じ、同じ疑惑をお互いに誰かに話したいと思っていたようだ。ほとぼりが冷めてから皆が話をし始めた時、初めてその時の真実を垣間見る手がかりが出来上がったのだ。

 それはまるで、失った記憶をよみがえらせるようではないか。

――記憶をよみがえらせる?

 今の浩司には、里美という記憶を失った女性が身近にいる。

――そういえば、友達の一人に、当時、記憶を失った親戚がいるという話をしているやつがいたっけ――

 と、古い記憶がよみがえった。

 子供の頃の記憶はそれほど遠いものとは思えなかったが、記憶を失った知り合いがいると聞いた時の記憶は、さらに前だったような気がする。記憶の交錯が、浩司の中で起こっているようだ。

 漠然としてではあるが、今、小学五年生の時のことを思い出したのは、里美の記憶を呼び起こすための大きなヒントを浩司に与えてくれたのではないかと思っている。それは、記憶の時間的な交錯が起こった時に、記憶に狭間が出来上がり、それが記憶を喪失させる原因になっているのかも知れない。

 記憶の喪失と、回復は、それぞれに近いところにあり、隣り合わせではないかと感じたが、ただ、見ることのできないものだ。それはまるで次元の違い、すなわち、三次元と四次元の世界のような違いがそこには現れているのかも知れない。

 里美と知り合った時、そのことを思い出したような気がした。里美との出会いの時、里美が記憶を失っていることを知る前から、

「どこか変だ」

 という違和感があったが、それが子供の頃の記憶であり、懐かしさでもあった。

 懐かしさという意味では、麻衣にも感じている。麻衣にも何か自分の過去に関係のある記憶が、関係しているのではないか。浩司は、麻衣と出会った時のことを思い出してみようと考えた。

 麻衣には一見、違和感はない。里美のように記憶を失っているというような、浩司が麻衣に感じなければいけない一歩下がったようなイメージは、最初に出会った時も、今に至っても感じたことはない。ただ、いつの間にか麻衣に心を奪われてしまっていることをすぐに分からなかったのは。何か、記憶の中にわだかまりのようなものがあるからなのかも知れない。

 麻衣にとって、里美という女性はどのように写っているのだろう。里美には麻衣を嫌だと思っているふしはない。ただ、浩司の子供を宿していることには、相当なショックがあっただろう。浩司が見ていて、心配になるくらいだった。麻衣の妊娠について話をした時、顔面が蒼白で、血の気が引いていた。ただのショックなだけではなく、

――どうしたらいいの?

 という、困惑が顔に出ていた。まるで、自分が妊娠したような感じであった。

 里美自身が妊娠していた方が、困惑は違ったかも知れない。自分のことの方が分かりやすいというべきか、他人事だと思うと、余計にどうしていいのか分からなくなる。

 里美は、他人のことでもすぐに自分のことのように置き換えて考えてしまう。それは記憶がないことで、しょうがないことなのだろう。

 浩司はそんな里美を分かっているつもりだった。しかも、まだ見ぬ麻衣にも、すぐに分かられてしまうのではないかと思っている。会うのが怖い気もするが、会ってみたいという思いの方がさらに強かった。

 それは、麻衣にも言えることだった。里美と話をするのは、里美よりも本当は怖いと思っているかも知れない。自分のことばかりをいつも考えている麻衣なので、里美との会見は本当は怖いはずだ。それでも会ってみたいと思っているのは、ある意味では開き直りのようなものがあるからだろう。

 そんな麻衣の気持ちを浩司は分かっている。分かっているから会わせてみたいと思う。中途半端な気持ちでいさせるのは、麻衣にとって生殺しのようなものだと思うからだ。

 里美にしても同じだった。あまり気持ちを表に出さないのでそうでもないように思うが、実際には、里美は自己表現が強いところもある。逆に麻衣の方が、いざとなると隠そうとするようで、ただ、それも自己表現力の強さから、隠し通せるものではない。正直な性格は、里美より麻衣の方が強いのだ。

 里美の中で、浩司の存在を大きくしようという意識が働いていた。普段は無意識の行動だが、麻衣という女性を意識するあまり、自分から浩司を意識しないといけないと思うようになっていた。

 麻衣は最初から意識して、浩司の存在を考えようとしていた。それが素直な性格を表に出すことに繋がったが、その思いが、まだ見ぬ里美にも影響を及ぼしているかのようだった。

 麻衣の影響だということを、里美は分かっているだろうか。浩司を通じてでしかまだつながることのない二人が、浩司の知らないところで繋がろうとしている。それは、知らないと言いながらも、浩司が大きな影響力を持っていることをハッキリさせることであった。

 しかもそのことに浩司は気付き始めていた。ひょっとすると、浩司だけではなく、他の男性にも言えることなのかも知れないが、潜在能力はあっても、それを生かすためには相手が必要だ。浩司には、麻衣がいて、里美がいる。他にも付き合っている女性がいるが、他の女性ではそこまで感じることはできない。

 浩司が、麻衣と里美の板挟みになっていることから、いろいろ想像しているのだろうが、実際の二人は、まだ会ってもいないのだ。それなのに、浩司は自分の想像が、ある程度当たっているように思えてならない。もちろん、根拠があるわけではないが、言えることとすれば、歴史が好きだという二人の認識を考えての想像だった。特に里美には、歴史認識の中に、失われた記憶を解明するすべが隠されているように思えてならない。麻衣との会話の中で、解明されていくのであれば、それはそれでいいことだと思った。

 浩司は里美の記憶が戻ることを複雑な気持ちで考えていた。

 里美の記憶が戻り、過去の記憶の中で、浩司に対してよりも、さらに深い思いが存在していたとして、麻衣を選んだ浩司としては。後ろめたさが少しでも消えるのではないかと思う。ただ、それは一抹の寂しさを伴うもので、今考えているよりも、その時になってみれば、想像もつかなかったほど辛く悲しいことを感じているかも知れない。

 そう思うと、里美の記憶は、「パンドラの箱」に思えて仕方がないのだ。

――決して触れてはいけないもの――

 そのパンドラの箱を自らでこじ開けてしまってもいいのだろうか。麻衣の笑顔と、里美の悲しげな表情が走馬灯のように駆け巡る。まったく対照的な表情が特徴の女を同時期に愛してしまった浩司は、これ以上ないほど幸せな男であり、幸せと背中合わせの爆弾を抱え込んでいるのかも知れない。

 浩司の想像はあらかた当たっていた。

 待ち合わせには、浩司が麻衣を伴い、そして、里美が一人でやってくることになっていた。いつもここで待ち合わせる時は、里美が先に来ていて、浩司が後からくるのが定番になっていた。今回は、浩司が違う女性を伴ってやってきたのだから、店の人は大いに驚いたことだろう。浩司に対して、どう対応していいか苦慮したに違いない。

 さらに、浩司ともう一人の見知らぬ女性が、親しく話をしているならいざ知らず、一言も話さず、ただ奥のテーブルで座っているだけだ。しかもそこは、いつも里美と待ち合わせをする場所、不思議な空間が広がっていたことだろう。

 無言の空間を作るのは、この店では珍しいことではない。元々、この店は単独の客が多く、浩司が好んで探している「隠れ家」的な様相を呈したお店であった。実際に、最初この店を利用していたのは浩司で、「隠れ家」の一つだったのだ。そこに里美を連れていき、二人の間での「隠れ家」を作った。最初から浩司は里美との仲を、「お忍び」のようなものだと考えていたのだ。

 そう考えるように仕向けたのは、里美の態度だった。確かに里美は記憶喪失で、最初は意識がなかったにも関わらず、里美と一緒にいることで、浩司も次第に里美に染まっていった。元々出会いからして、普通ではなかった。行くところがないからと言って、浩司にすがってきた時のインパクトは衝撃的だったのだ。

 麻衣は、落ち着かない様子だった。見ていて、できればこの場から立ち去りたいという雰囲気が漂っているのが分かる。しかし、一旦自分で決めたことを自分から覆すことを最大の恥辱だと考える麻衣には、そんなことができるはずもない。きっと浩司に哀願してくるに違いないが、浩司の方とすれば、当事者本人なので、哀願されてもどうしようもない。中立の立場でなければいけないはずだ。分かっているはずなのだが、身体の震えが止まらない麻衣を抱きしめてあげたい衝動に駆られるのを、必死の思いで耐えているのが辛い浩司だった。

 約束の時間を十分過ぎても現れない里美に、浩司は次第に心配になってきた。

――会う約束をしたが、いざとなると、足が竦むのかな?

 と考えたりもしたが、いざとなると肝が据わるのが、里美であった。そこが、麻衣とは違うところだ。今麻衣の肝が据わっているように見えるのは、確かに開き直りもあるだろうが、それよりもお腹に新しい命を宿しているということが大きいのかも知れない、女性は強いと言われるが、命を宿した麻衣も、浩司が思っているよりも強くなっているだろう。ただ、それでも浩司を通してしか知らない里美に対しては想像以上の不安が掻き立てられる。想像以上の不安が自分の中のキャパを超えれば、開き直りが解放され、不安だけが増幅されて残ってしまうのかも知れない。麻衣の気持ちは浩司も何となくであるが分かる。寄り添いたいのなら、いくらでも寄り添わせてあげたいというのが本音だった。

 そろそろ一度連絡を入れて、所在をハッキリとさせないと、麻衣が精神的に参ってしまうと考えていた浩司だったが、

「すみません、お待たせしました」

 と、どこから現れたのか、里美が目の前に立っていた。拍子抜けしたように里美を見上げる浩司と麻衣。もはや浩司には、里美を叱責する気分ではなかった。時計を見ると、約束の時間より十五分遅れ、

――そうか、十五分が限度か――

 と、待ち時間と麻衣の精神的な部分を考えて、浩司はそう思った。

 それにしても悪びれた様子のまったくない里美は、いつものように冷静に見えたが、それは浩司と決別し、すでに他人であるということを身体全体から醸し出させているかのように見えた。浩司には寂しく感じられ、麻衣はそんな里美を不思議そうに見ていた。少なくともその日の麻衣は、普段の麻衣ではないことだけは確かだった。

 悪びれた様子のない里美は、その場に立ち尽くしていた。その様子はまったく隙のない仁王立ちに見える。その様子が浩司にも麻衣にも、叱責が感じられ、最初からペースをかき乱された気がしていた。

――目の前にいる里美は、もう僕の知っている里美ではないんだ――

 と思うと、寂しさ以上に、これからどう接していっていいのか、分からなくなってしまった。

 冷静な顔をじっと見ていると、時々、目が笑っているのを感じた。その瞬間、ゾッとしたものが背中を駆け抜ける感じがして、浩司も麻衣以上に震えあがってしまっていた。麻衣はどうしているのかと横目で見ると、顔面は蒼白になっていたが、震えが止まっているように見えた。その表情は挑戦的で、さっきまでの麻衣とはまったくの別人になってしまったかのように見えていた。

 浩司は、震えを抑えながら、麻衣の肩に手をやり、落ち着くように促した。その時に麻衣が浩司を振り返ったが、その表情は冷静になっているようで、

――これから、この女と対決なのよ――

 と言わんばかりに、浩司を見つめていた。それを見て浩司も、

――僕も腹を据えないといけないな――

 と感じたが、見下ろされている状態で、表情をまともに変えることもできず、引きつった顔になっていることは想像できた。

 静寂の中で早鐘のように胸の鼓動が交錯する中、見えない稲妻が一瞬の雷光を伴い、あたりの雰囲気とは一線を画したエリアを形成していた。そんな中で、やっと席に着いた里美を見ると、今度は人が変わったように小さく見える、背中を丸め萎縮した姿は、威風堂々とした先ほどの態度とは、まったく違っていたのだ。

「初めまして、里美です」

 萎縮したままの里美が先に口を開いた。その間、視線は浩司と麻衣を行ったり来たりしていて、少しだけ、麻衣に対して長く見ているように思えた。だが、浩司には里美の中では、麻衣を見ている時間が、自分を見るよりも相当長く感じられているのではないかと思うのだった。

「こちらこそ、初めまして。私が麻衣です」

 お互いに苗字を名乗らないのはなぜなのかと浩司は思ったが、この場ではどうでもいいことだった。ただ、麻衣が自分の名前を言う時に強調していたのが、少し気になっていた。

「麻衣さんは、浩司さんのお子さんを身ごもっていると伺いましたが、本当なんですか?」

 いきなり本題に入る里美だったが、その様子は萎縮していた。萎縮しているからこそ、余計なことを聞くよりも、いきなり本題に入った方がいいと思ったのかも知れない。時間が経てば経つほど、感じていた不安が解消されるわけではなく、さらに膨らんでいくからだ。

「ええ、子供を宿しています。そろそろ四か月に入ろうかとしていますが、無事に育ってくれています」

 その言葉を聞いて、里美は嘲笑したかのように見えたが、気のせいだろうか。

「それはよかったですね。子供を産むというのは、かなり精神的にも肉体的にも疲労しますからね。でも、その後育てることの方がもっときつい。私はそんな気がします」

 他人事のように話していたが、浩司には、その口調がまるで経験者の喋り方に見えて仕方がなかった。里美の中に時々感じていた安心感は、母性本能の表れではなかったと、その時の里美の様子を見ていて思うようになっていた。

 それを麻衣も悟ったのか、

「里美さんは、まるで自分が子供を産んで育てたことがあるようなおっしゃり方をなさいますが、私の気のせいでしょうか?」

 いかにも麻衣は挑戦的だった。

「ご想像にお任せしますは、私はそんなことはないと思っていますが、記憶のどこかに子供の残像が残っているのも事実なんです」

 浩司と麻衣は、お互いに顔を見合わせた。行動パターンは同じだが、考えていることはまったく違っている二人だったが、お互いの顔を見ても結論が生まれるわけでもなく、却って頭の混乱を招いていた。

 注文したコーヒーで喉の渇きを潤すが、声を出そうとすると、喉の奥に渇きによる痺れを感じ、まともに声が出せないように思えた。それは浩司だけではなく、里美も麻衣もだった。里美が特に冷静に話をしているように聞こえるのは、喉の痛みを最小限に食い止めながら話をしているからだ。声のトーンの違いこそあれ、元々トーンの高い麻衣でさえ、かなりオクターブを落として話をしないと厳しい状態だった。

 浩司は声を出せないでいたが、何とか振り絞るように、

「里美には本当にすまないと思っている。だけど、里美の記憶が少しでも戻るように僕たちもできるだけ協力したいんだ。それは麻衣とも話をしている」

 横で麻衣は浩司をじっと見つめながら、二、三度、

「うんうん」

 と頷きながら、里美の方を振り向き、今度は大きく頭を下げた。謝罪の気持ちから出たものだった。

「里美さんの記憶って、どこまであるんですか?」

 麻衣が話題を里美の記憶に変えた。話題をすり替えたというよりも、元々麻衣が里美に会ってみたいと思った大きな理由を口にしただけだった。

「そうですね。少しずつ思い出してきているように思うんですけど、暗礁に乗り上げたかのように記憶が固まってしまうんですよ。するとそんな時に限って、以前に思い出していたはずのことが、少しずつ消えていくみたいなんです」

「じゃあ、今の記憶が少しずつ消えていくということではないんですね?」

「そうですね。そういう傾向はありません」

「そうですか。私は記憶について少し調べたことがあるんですが、思い出すたびに、消えていく記憶もあると聞いたことがあります。そしてその時は思い出したことが消えていくわけではなく、記憶が亡くなってから、新しく生まれてきた記憶が断片的に消えていくって聞いたんですよね。それだと結構記憶を呼び起こすのって、勇気を必要とすることではないかと私は思うんです」

 麻衣は見かけによらず研究熱心だ。今まで浩司から聞いていた内容を麻衣なりに分析し、いろいろ調べたに違いない。もっとも自分に大きな影響があると思ったから調べたのであって、それだけ、里美の存在を気にしていたということだろう。

――それにしても、いつの間に調べたんだろう?

 麻衣に子供のことを告白されてからは、ほとんど一緒にいた。もちろん、会社で仕事している時は一緒にはいられないが、それ以外は一緒だった。

――妊娠する前から、気がかりだったのかも知れない。そこまで私は麻衣に気を遣わせていたのだ――

 と、浩司は麻衣の真剣な横顔を見ながら考えた。麻衣は正面から里美を見つめ、もうその頃には、喉の痛みもなくなったのか、声はいつもの麻衣に戻っていた。

 麻衣が研究熱心なのは分かっていた。それは、麻衣がたまに見せる「負けん気」に現れていた。自分中心で、マイペースな麻衣ではあったが、人に負けることを極端に嫌った。人からバカにされるのは、それほど嫌ではないという。

「だって、人をバカにする人ほど、自分のバカさ加減を知らないのよ」

 と、言って決して相手のペースに合わせようとはしない。マイペースであるということは、己を分かっていないとできないことで、相手のペースに乗らないことも大切だ。それ以外にも、相手を知ることで、吸収できるものがあれば、体裁など関係なく、吸収するくらいの気持ちが大切だ。

 麻衣と里美は、それからしばらく記憶についての話をしていた。浩司も少しくらいは入り込んだが、二人の会話に突っ込めるだけの知識はなかった。里美もだいぶ研究しているようで、心理学的な話から、医学的な話まで、話に花が咲いていた。

 浩司は、話の内容よりも二人の態度、特にそこから垣間見られる主導権、さらには優劣関係まで見ようとしていた。主導権は麻衣が握っているようだが、優劣関係に関しては、どちらが優なのか、分かりかねていた。主導権を握っている麻衣が、里美の返事に詰まってしまうシーンが何度も展開されたからである。

――里美が頭がいいのは分かっていたが、この状況で質問されて、テキパキと返事ができ、的確なタイミングでの返事でもあった。麻衣でなくとも、誰でも唸ってしまいそうになるというものだ。

――おや?

 浩司は二人の会話を聞いていて、何かおかしな感覚に襲われるのを感じた。会話は問題なく進んでいるのだが、どこかに違和感がある。それは浩司でないと分からない矛盾のようなものであろう。麻衣も里美も何も感じていないように話を続けている。

 話も佳境に入ってくると、話の辻褄が合わなくなってくることも、えてしてあるのかも知れない。だが、最初はどこから違和感が湧き出しているのか分からなかった、漠然としてであるから、しかも浩司にしか分からないことだというのは、最初から分かっていた気がする。

――どちらか一方を見つめてみよう――

 と思い、まずは。麻衣の方をじっくりと見てみた。

 麻衣の身になって話をしている感覚になってみる。そして、里美の話に耳を傾ける。しかし、どこにも違和感があるとは思えなかった。

 今度は里美のつもりになって麻衣の話を聞いてみた。麻衣の言っていることは至極当然で、頷いている気持ちにウソはなかった。

 そして、里美の話を自分がしているつもりになって聞いていると、

――おや?

 ここで違和感があったのだ。里美の言葉、一言一言のどこにも違和感を感じるような不可思議な言動はなかった。ただそれは、自分が里美の話を聞く立場になっていたからで、話す立場になってみると、違和感を感じずにはいられなかった。

――分かって話しているとしか思えない――

 里美の言葉には作為的なものがある。それが分かってくると、今度は、

――僕だから分かるのだろうか?

 と思うようになった。浩司が里美を見つめていて、違和感を悟っていることに気付いているようだ。それなのに、里美はそれを隠そうとはせず、違和感をわざと表に出すかのような素振りを示した。これは、好きな相手を諦めなければならないことへの無言の抵抗なのだろうか?

 考えてみれば、浩司は里美に対して、絶えず優位に立っていたと思っていた。里美も分かっていて、浩司に従うことが自分の生きる道であるが、別に嫌だとは思わなかった。嫌だと思っていれば、高杉が現れた時、彼にしたがっていただろう。

――好きになったから好かれたいのか、好かれたから好きになって行ったのか――

 まるで禅問答であるが、里美にとっての究極のテーマのような気がする。

 浩司に対しては、自分の死活問題が絡んでいた。必死にすがる思いが、愛情だと思っていたに違いない。間違いではないとは思ったが、途中で現れた高杉と一緒にいると、落ち着いた気分になれる。

――これが女というものなのかしら?

 薄れて行った記憶の中に、自分が女として意識した部分が見え隠れしていて、女を意識してくると同じ男性に委ねる気持ちでも、落ち着いた気持ちになることもあるのだと、まるで今までの自分がウソだったのではないかという感覚に襲われてしまう。

 今までの自分を否定することは、これほど辛いことはない。だが、里美には思わざる中に、自分を否定することで、生きていくすべを学んだ気がしていた。

 今までの里美を自分で振り返ってみる。今までの自分との比較対象が目の前にいる麻衣であった。麻衣は里美の持っていない女としての部分をほとんど持っている。ただ、それは里美自身も持っているはずだ。忘れてしまったのか、それとも潜在意識にしまい込んで、意識の中だけで存在しているものなのか、里美は迷いを抱いていたに違いない。

 麻衣という女性を考える時、性格を単純だと思ってしまうと、麻衣の術中に嵌ってしまうというのは、付き合っていると分かってくる。しかし、麻衣のような性格の女性と付き合う男性は、

「それでもいい。麻衣のためなら、自己犠牲もいとわない」

 という性格の男性が多いのではないかと思えた。

 逆にそんな男性でないと、麻衣のような女性と付き合うことはできない。

 だが、浩司が果たして、そこまで割り切れる性格であろうか。遊び気分で付き合っていたはずなのに、いつの間にか、彼女に陶酔していたのだろう。子供ができたのを知って、初めて陶酔したわけではないことは自分でも分かっている。そして、麻衣がそこまで「魔性」を背負った女性にも見えないのだ。

 まわりの人も、浩司が考えていたほど、彼女を「魔性」だとは思っていないだろう。

 では、里美に関してはどうだろう?

 里美を女性として、男性の部分を表に出して付き合ってみようという男性は少ないかも知れない。高杉などは例外ではないだろうか。浩司にとって、高杉の存在はまだほとんど小さなものだが、次第に大きくなってくるのが分かっていたのかも知れない。

――里美から身を引こうと考えたのは。麻衣の懐妊ということだけではなく、里美を好きになった男の存在が、自分の中で疎ましく感じられるようになったからかも知れない――

 里美という女性を好きになったつもりはないのに。いつの間にか惹かれていたことに気付いた浩司は、それが里美という女性の雰囲気に由来するのだと感じた。

――自分が独占しているんだ――

 という自覚を持つことで、自分の中に自己満足を感じることができるからでないだろうか。もう一人の男性の存在は、そんな自己満足を揺るがすもので、そのくせ、その男と張り合う気分にまではならない。

――相手がいるなら、別にいいか――

 と感じさせるほど、里美の存在は薄っぺらいものだった。

 浩司には複数の付き合っている女性がいるから、そう感じるのだと思ったが、それだけではないようだ。あくまでも付き合っているのは自己満足のためだと思うのは、里美の心が内に向いているからなのかも知れない。

 表を向かせたいという思いは、自分一人であれば、かなり強い気持ちを持てるだろう。だが、他にも同じ考えの人がいれば、譲っても構わない。それは、里美という女性に対しての気持ちよりも、自分の気持ちの如何が左右しているからだった。

 麻衣は、そのことを少しずつ分かってきているようだった。初めて会って、まだ少しの時間しか話をしていないのに、すごいものだと浩司は思ったが、麻衣の考えがどうして浩司に分かるのかということも、不思議に思えていた。

 里美から見て、麻衣は、

――浩司さんにならふさわしい――

 と思えていた。

 里美も一度、麻衣に会ってみたいと思っていた。それは嫉妬からではなく、

――きっと、浩司さん抜きでも仲良くなれそうだわ――

 という思いがあるのか、今まで一緒にいれば、話をする時でも、必ず浩司を意識して話していたのに、その日は、完全に自分の世界で話している。もっとも別れを告げてきた相手に義理立てする必要もなく。麻衣との会話は、あくまでも自分の考えを話せばいいのだった。

 浩司がそばにいることで、今まで考えていても言いにくかったことを、話してみたいという気持ちも里美にはあっただろう。別に皮肉を口にするわけではない。それは女性同士の会話であって、今まで記憶を失ってから後のことしかほとんど覚えていないことで、それ以前にしていたであろう女性同士の会話へ思いを馳せていた。

 女性同士の会話だけでなく、今まで会話というと浩司を通してでしか誰ともしたことがなかった。そういう意味では浩司と別れるというのは、非常に怖い。高杉とのことは、一晩のこととして忘れてしまうつもりであったし、高杉にもそう告げてきた。もし、里美が浩司と別れたことを高杉が知った時、高杉はどのような反応を示すであろう。それを考えると、たくさんの人の意見、特に女性の意見になるべく耳を傾けたくなるのも分からなくはなかった。

 浩司は二人の会話を聞きながら、里美のことだけを考えてみた。違和感は矛盾に繋がっている。矛盾は会話の中にあった。漠然と聞いているだけでは分からない。今日の会話の中だけで矛盾は考えられないからだ。

 だが、麻衣もどこかおかしいことに気が付いてるようだ。

 最初こそ、里美の答えをゆっくり待っている会話だったが、次第に質問が多くなり、答えを待つ前から次の質問を浴びせている。会話に違和感がなくとも、普通の会話であっても、これではパニクってしまい、答えがまともでなくなることは必至だった。

 質問を浴びせるたびに、麻衣は浩司を見た。浩司も麻衣の意図が分かっているので、アイコンタクトで、了解のサインを送ったつもりだった。それに対して笑みを浮かべる麻衣、これだけで二人の会話は成立していた。ここまでのアイコンタクトは最近になってできるようになったものだ。

――これでいいのね?

――ああ、君の好きなようにすればいいさ――

 声を出していれば、こんな会話だったに違いない。

 里美を見ると、孤立しているのが分からないのか、額から汗を滲ませながら、浩司を見ていた。哀願に近いまなざしだったが、敢えて浩司は無視した。

 今にも泣き出しそうな表情を見るに忍びず、意識して視線を逸らしたが。心の中が締め付けられる思いだった。この間までずっと一緒にいて、何ら違和感がなかった。

――いて当たり前、いなければ……

 と、浩司は自分に言い聞かせた。だが、ここで甘い顔は見せられない。

――里美を孤独にさせてはいけない――

 記憶がないということは、それほど浩司に対しては「武器」だったのだ。別に浩司が何かをして里美の記憶を消したわけではない。だが、浩司の中で、どうしても里美を手放すことができなかったのは。心の中に罪滅ぼしのような意識があったからだ。改めて考えれば、そんなものは存在しないのにどうしてなのか分からない。そこを麻衣も不思議に思っていたのだろう。

 里美に対して、自分の男を蹂躙している悪い女という意識を持っていれば、浩司が感じたような違和感を感じることができるのかも知れない。それを麻衣が証明してくれた。

――僕はどうかしていたんだ――

 と、里美に関してだけは思えてきた。

――里美は記憶喪失なんかじゃないんだ――

 本当にそれが証明されたわけではないが、限りなく事実に近いグレーゾーンであった。それを思うと、浩司が里美を今までのように見ることはできない。

「里美」

 浩司が、会話に一瞬声を掛けて、割り込んでしまった。

 麻衣も里美も我に返り、同時に浩司を見る。

「君は、本当に記憶を失っているのかい?」

 いきなり核心をついてしまった。さすがにこれには麻衣も驚いて、目を見張って浩司を見つめた。

「ええ。浩司さん、一体何を言い出すの?」

「あ、いや、僕の勝手な思い込みだった。すまない」

 そう言って、最初の言葉をいとも簡単に否定した。それに対してさらに浩司は、二人に恐縮して、

「ごめん、もう変なことは言わないよ」

 と、口を閉ざす素振りをした。

 麻衣はそんな浩司の表情に安心感を抱く溜息をついたが、里美がついた溜息は、まったく違っていた。

――何、余計なことを言ってくれるのよ――

 と言わんばかりだった。

 浩司は思った。

――ひょっとして、里美は、記憶喪失がウソだったことを僕が気付いていると思ったのかな?

 だが、浩司は再度、走馬灯の中の今までの記憶を掘り起こした。走馬灯の中には、麻衣とのものもあるが、里美とのことだけを思い出しただけでは、どうしても贔屓目で見てしまうので、全体から思い出そうとしてみた。

――どう考えても、最初はやっぱり記憶がなかったのに間違いはないんだよな――

 ということは、どこかの時点まで記憶がなかったのだが、途中から記憶が戻ったことになる。それも徐々にではなく、一気にではないだろうか? 確信はないが、浩司にはそう思えて仕方がなかった。

 里美にとって、浩司は心の拠り所であった。それには間違いないのだが、それなのに、記憶を失っているというウソをつき続けるのか、浩司には理解できなかった。何か浩司のそばにいたい理由があるのだろうか。

 ひょっとして、里美の記憶は完全に戻っているわけではなく、途上なのかも知れない。そして記憶を取り戻すカギを握っているのが浩司ではないかと里美が思っているとすれば、浩司から離れたくないのも伺える。

――ということは、里美は記憶を取り戻したいんだ――

 記憶を取り戻してしまうと、今まで持っていた新たに出来上がった新しい記憶が消えてしまうことを恐れるものだが、それを恐れないということは、記憶が残ったままで、さらに新たに過去の記憶で埋めようというのだ。

――危険な気がする――

 と、浩司には、一抹の不安があった。

 里美が記憶を取り戻したとして、どうしてそれを教えてくれたかったのだろうかと考えたが、里美の引っ込み思案な性格で、記憶が戻ったことにより、急にまわりが取って返したように態度が変わってしまうことが嫌だったのかも知れない。

 記憶がないままいれば、少なくとも浩司には嫌われることはないという女心だったのかも知れないが、そのことが、里美を苦しめたのかも知れない。時々、いつもと違う里美がいたのを思い出したが、浩司は、そんな里美が好きだった。いつもの里美を愛しながらも、雰囲気のまったく違う里美にも惹かれていた。どちらかというと、もう一人の里美に対しては従順だったと言えるだろう。里美の中に、正反対の相手を浩司は見ていた。それが次第に怖くなってきて、別れを考えていたのだった。

 同じ身体の中にまったく正反対の性格を見ることがある。表に出てくるのはどちらか一人、それぞれに、浩司は自分だけを愛しているように思う。同じ身体でも性格がここまで違うと、身体の反応もまったくの別人、恥じらいを押し殺すように控えめないつもの里美、もう一人は、恥じらいを表に出すことで、大げさに自分を見てほしいと自己中心的でもあるかのような主張の強い里美を見ることができる。

 浩司は、もう一人の里美を見つけた時、

――僕は、マゾヒストだったのかも知れない――

 と感じた。

 もう一人の里美が浩司を見ると時、それは、普段の浩司が麻衣に浴びせる視線に似ていた。その時、麻衣のことなど知るはずもない里美に同じような雰囲気を味あわせるのは、里美が浩司の性格を見抜き、浩司に会うもう一人の女性を作り上げているのではないかと思うことで納得に近づくことができる。

 浩司の視線によって、相手は自分の性格を変えられる。浩司はそんな特技を持った女性を好きになったのだ。

 好きになった女性がたまたまそんな技巧を持っていただけなのかも知れないが、偶然とは違うのかも知れない。浩司の中にある、滲み出てくる性格が、美のような女性を引きつけるのかも知れない、

 麻衣の場合は、裏表のない性格だ。これ以上分かりやすい性格はないと思わせる彼女は、まわりの人からは、分かりにくいと言われているようだ。

――どこが分かりにくい?

 と思うのだが、それは、麻衣が巧みに自分の性格をコントロールできるからかも知れない。

 裏表のない性格など、本当はありえないだろう。裏があって表もある。裏の裏を見ようとするから表しか見えていない場合もある。浩司はそこまで利口ではないので、麻衣が浩司にそう思わせるようにリードしているのだろう、女性を甘く見ていると、自分でも気づかないところで操られていることがある。だが、浩司はそれでもいいと思った。

――麻衣がそれでいいのなら――

 妊娠したのが麻衣でよかったと思っている。麻衣は浩司に対して従順だが、実は浩司も麻衣に対して従順なのだ。だからこそうまくいっている。その時々で、どちらを立てるか、お互いに暗黙の了解を形成していた。

 麻衣にはそれがある。お互いに相手を立てる気持ち、そして甘える気持ち、それが意識の差として現れることなく繋がっていると、決して離れることなどお互いに考えることがなくなってしまう。

 里美の場合には、いつもぎこちなさが間にあった。まるで油の切れた機械のようで、どこからかギシギシと音が聞こえてくるかのようだ。

 それでもうまく噛み合っていた。それは里美に記憶がないというハンディを彼女が持っているからで、お互いにハンディと感じているから、引くところは里美の方しかなかったのだ。

 引いたり押したりではなく、引いたり引かれたりの関係が里美との関係だ。力をお互いに出し合って相乗効果を生み出すという点では、はるかに麻衣と付き合っている方が求められる。

 そこには大きなエネルギーが存在している。麻衣にできた子供は、里美からすれば、どんなイメージであろうか。ひょっとすると、里美が浩司の子供を宿したかったのかも知れない。

 だが、浩司は思う。

――もし、里美が子供を望んだら、それは、自分の存在だけのためにほしがっているのではないか――

 ただ、子供が自分の身体の中で大きくなっていくうちに、母性本能が芽生えてくるかも知れない。従順なところは感じるが、自分の身体から力を全部抜いて、委ねてしまいたいという気持ちにはなりきれない。余計な力が入ったままで生まれてくる子供は、果たしてどんな子供なのだろう? 里美は、麻衣を見ていて、自分に子供ができた時のことを考え、少し不安にも感じてくるのだった。

 里美と麻衣の会見は、二時間ほどで終わった。内容のわりに、時間が掛かった気がしたが、内容が濃かっただけに、時間があっという間に感じられたのだろう。浩司の中にもいろいろと分かったことがあった気がして、収穫があったと言える。

 その後、里美は一人でゆっくりと家路についたが、浩司と麻衣は、もう少し表の風に当たりたかった。その日は、ここ最近寒い日が続いていたのに、結構暖かく、何かが出そうに思うほど、生暖かい風が通り抜けている。

 そういえば、里美と出会ったのは、雨の日だった。あの日は、急に雨が降り出して、最初に会社を出た時の天気が、今くらいだったのを思い出していた。

「あまりうろうろしてると、雨に降られるぞ」

「いいのよ、たまに雨の日にデートというのも乙なものよ」

 と言って、麻衣はカバンの中から折り畳みの傘を持ち出した。浩司と違って麻衣は用心深いところがあり、さらに用意周到なところもある。折り畳みの傘を持っていることは、最初から想像できた。

「でも、お腹の子供によくないんじゃないか?」

「関係ないわよ。それよりも歩くことで健康的な生活を送れる方がいいと思うわよ」

「それもそうだ」

 あまり歩くことが好きではなかった麻衣だが。子供が生まれると急に歩くことを始めた。やはり、母になるという自覚が芽生えてくるのだろう。

 麻衣に比べると、里美は歩くのが好きだった。歩くことで何かを探しているように見えたのは、浩司の思い過ごしだろうか。ただ、歩くことで、逆に何かを忘れようとしているようにも思えていた。

――里美は、過去に何か嫌な思い出があるに違いない。だから記憶を失ってしまったのだろう。そして、今の里美は、その嫌な思い出を思い出していない。思い出しているとするならば、記憶を失ったままの演技などできるはずがない――

 と、浩司は考えていた。

 ということは、里美の記憶は、肝心なところがまだ空白なんだ。だから、記憶を取り戻したというには程遠い。里美が誰にも言わない理由が分かったような気がした。

――里美がこれほど完璧主義者だとは思わなかったな――

 確かに石橋を叩いて渡るような慎重さが里美にはある。それでいて、いざとなると大胆さも兼ね備えている。

 麻衣には大胆さはあるが、石橋を叩いて渡るほどの慎重さはない。では、二人のうちでどちらが大胆かと言われると、里美ではないかと浩司は答えるだろう。それは大胆さが慎重な性格の上に成り立っているものだという考えがあるからだ。浩司が里美に惹かれた理由の大きなものの中に、おおらかな性格が垣間見えたからだ。おおらかさは大胆さと几帳面さの一見会いまみえないものが同居していなければ生まれないものだ。それが懐の深さというものだろう。

 里美には、懐の深さに母性愛を感じた。家庭的にあまり暖かさを感じたことのない浩司にとって、里美は母親に似たものを抱いていたのかも知れない。ただそれが完璧主義と結びついているとは言い切れないかも知れないと思った。

 そういう意味では、麻衣の中にある暖かさは、おおらかさとは違っていた。ピッタリと身体に嵌っていく感覚は、まるでセックスを思わせるものだ。麻衣には浩司の痒い所に手が届くようなところがある。本人は意識していなくても、浩司にとっては意識させられる有難さだった。

――心地よさは里美にあり、まるで羊水に浸かっているかのようだ――

 と、感じたのが母性愛である。

 ただ、母性愛は、浩司にとって永遠なものであり、セックスで感じるような快感は、一時的ではないかと思ったことで、浩司は麻衣よりも里美に陶酔しかかった時期もあったのだ。

 どれほどの期間だったか分からないが、浩司にはあっという間に過ぎたように思えた。里美にも同じだったかも知れない。それは二人の間にバイオリズムが存在し、ちょうど重なった部分を、お互い永遠だと思うほどの快感を味わっていた。おおらかさの中に、セックスで味わう、ピッタリと包み込んでくれる気持ちよさ。心地よさと気持ちよさの共有などありえないと思っていた浩司には、まるで目からウロコが落ちた感覚だった。

 しかし、一度合体したバイオリズムは、今度は離れて行くだけだった。一度感じた永遠さが、こうも簡単に離れて行くはずはないと思えるのに、なぜだろうか?

 お互いに、知ってしまった快楽を、他にも求めてしまうそんな時期があるのではないか。いや、何よりも、快楽があまりにも夢を見ているようで、その信憑性に、他の異性を求めることで、実際に浩司にとっての里美、里美にとっての浩司を確かめようとしたのかも知れない。

 浩司は、麻衣を知り、他の女性も知った。最初に知ったのが里美でなければ、ここまで何人もの女性を愛したりはしなかっただろう。里美への思いはそのまま、女性というものを究極に求める気持ちの表れではないかと、考えるのだった。

 浩司が里美に惹かれたもう一つの理由は、浩司が複数の女性と付き合うようになったことにも起因しているのは、何とも皮肉なことだろう。

 浩司は里美の中に、もう一人の女を見た。それは里美であって、里美ではない。二重人格と言えば言えなくもないが、浩司には二重人格だとは思えなかった。

――里美の中に、二人の女性が存在しているのであれば、二重人格なのだろうが、人格は一人なのだ。里美の人格の中に、もう一人がいるのだ――

 と思うようになった。

 もう一人の里美が表に出ている時も、普段の里美もそこにいる。葛藤が働き、自分を苛む里美がいるのだ。

 もう一人の里美を浩司は分かって見ている。それが耐えられず、内に籠ろうとするが、それを表に出てきたもう一人の女は許さない。

 だから、普段の里美を応援しようとする浩司に対して、もう一人の里美は、何とか自分に向かせようとするが、存在を知ってしまった浩司にはできることではなかった。

 もう一人の里美は高杉に食指を伸ばした。

 高杉は、浩司に比べて実直で性格は一本気だった。そのため、まんまともう一人の里美に心を奪われる結果になったが、浩司にはそのことが分かっていた。分かっていたからこそ、別れる気持ちになったのであって、それを分からせてくれたのが、複数の女性と付き合うことで身に付いた感覚だったのだ。

 最初に里美と別れる決意をしたのも、高杉がいることで自分の出番はないと、肩の荷を下ろした気分になったからだ。だが、もう一人の里美も浩司の考えていることくらいは分かってしまうようだ。

 もう一人の女性は性悪な性格だった。人間の心の奥底には、誰にでも持っている性悪な性格があって、時々顔を出したり、一度表に出してしまうと、おさまりがつかなくなったりしてしまうのだろう。元々の人間の性格は、誰も変わることはない。変わってくるのは、育つ環境が大きく影響していて。生まれながらに持っているものは、心の奥の性格ということになるのではないかと里美を見ている思う浩司だった。

 だが、浩司は、そんな里美と結局別れることができない。それは、何か生まれながらに離れられないものが存在しているように思えた。

 麻衣には、心の奥に潜むもう一人の女を垣間見ることができなかった。

――ひょっとすると、僕にだけ見えないのかも知れない――

 本当に性格の合う相手には、もう一人の自分が見えないようになっている。それは、本人の本能によるものと、好きになった相手の見る目が一直線だからであろう。高杉の場合は彼の見る目が一直線であっても、里美と本当に性格が合っていないのかも知れない。もし浩司の考えが当たっているとすれば、高杉は被害者ということになる。

――そんな二人が本当に幸せになれるだろうか?

 浩司は知らないが、高杉に祥子という女がいて、彼女が高杉に付きまとっている。それを知った里美は、本能的にもう一人の自分を表に出し、高杉を祥子の手から救ってあげようとしているのかも知れない。

 だが、元々自分自身も浩司から捨てられようとしているという感情があるため、どうしても性悪な性格が顔を出し、高杉に応対してしまう。高杉は、

――天の助け――

 のように感じたかも知れない。

 少なくとも、もう一人の里美は、自分が高杉を救っているという気持ちがある。これは自己満足から自己陶酔を引き起こすに十分なものだった。それを普段の里美が感じ取ることで、

「私は、高杉君が好きなんだわ」

 と思うようになった。

 浩司への惜別の念はあるのだろうが、それ以外に知り合った相手の新鮮さに触れ、里美は次第に高杉に惹かれていく自分を感じていた。

 里美と会った次の日から、麻衣はまた趣味であるデッサンを始めた。

 天気のいい日が続いていたので、近くの公園に出かけて、昼下がりのデッサンをしていたのだが、

「ありゃりゃ、これは、また全然違う風景だね」

 と、散歩をしていた老人から声を掛けられた麻衣は、ゆっくり振り向いて、ニッコリと微笑んだ。

「そうですか? 私は感じたままを描いてるんですけどね」

 と、スケッチブックだけを見つめて言った。老人は、スケッチブックとその向こうに見える景色のあまりの違いに、驚いたのだった。

 麻衣のスケッチブックには赤ん坊が描かれていた。優しそうな母親の腕の中で、静かに眠っている。まわりの光景も、どこか優しさが滲み出ているようで、微笑ましさすら感じられる。

「でも、なかなかの完成度ですな?」

 と、老人が言うと、麻衣の表情が少し曇った。

「いいえ、まだまだ未完成です。ただ、このまま描き続けると、失敗作になってしまいそうで、怖いんですよ」

 鉛筆を握る手が小刻みに震えている。

 老人は真後ろから覗き込んだ。最初に斜め後ろから見た光景と、今度はまた違っていた。老人は、自分の目を疑うかのように目を指でこすったが、そこには赤ん坊の姿はなく、母親だけが、寂しそうに佇んでいた。

 さらに、さっき感じたまわりの微笑ましさは完全に消え失せ、殺風景な雰囲気を醸し出している。先ほど感じた季節が春であるなら、今目の前に展開している絵は、冬であった。

「未完成というのは、どういうことなんですか?」

「家族が足りないんですよ」

 確かに最初赤ん坊がいた光景にも母親しか映っていない。麻衣は父親がいないことを家族がたりないと表現したのであろうか?

 真後ろから見た冷たさを感じた時、自分の身体が震えはじめたのに気付いた老人は、一刻も早くそこから遠ざかりたかった。だが、一瞬金縛りにあったようになり、身体が離れない。視線は、絵に描かれた女の右側、そこに集中してしまっていた。

――なぜなんだ? 絵に何かあるのか?

 老人は、思考を巡らせようとしたが、まったく機能していないようだ。

 すると後ろから声が掛かった。

「浩司さん」

 思わず後ろを振り向いた老人、その瞬間に、金縛りが解けた。振り向いたその先には誰もいない。浩司というのは、確かに自分の名前だが、今はその名前で呼んでくれる女性は誰もいなくなっていた。

――孤独な老人――

 若い頃には、たくさん女性と付き合っていたのも、今は昔の武勇伝。誰も自分のことなど覚えていないかも知れない。ただ、付き合っていた頃には、それなりに相手も自分も輝いていたことだろう。

 それから、何度春夏秋冬が通り過ぎたことか。老人には、それぞれの季節が同じだけの回数訪れたようには思えなかった。春が十回なら、秋が十五回あったのではないかと思うほどであるが、かといって、季節が一足飛びに飛んでしまっていたり、一つの季節だけが、極端に長かったりなどという意識はない、あくまでも漠然と思い出すだけだった。

「もう、そんなことはどうでもいいか」

 それは、自分と付き合った女性を思い出そうとしても思い出せない感覚に似ている。記憶の断片が、最近は毎日変わってきているようにさえ思えるほどで、

――毎日、再セットされている?

 と、頭の中をメカニズムとして見てしまっていることに驚かされていた。

――僕の記憶の中で、デッサンをしている女性の後ろに立って見ている光景があったんだよな――

 老人は、リフレッシュされた記憶を遡っていた。すると、絵を描いている女性の後ろから抱きしめたくなる衝動にかられたが、悲しいかな、すでに男性としての機能はなくなっていた。

 だが、記憶だけは、ついこの間のことのようで、次第に鮮明になってくる。絵を描いている女性の後ろ姿も、記憶をたどれば、知っている人のように思えてくるから不思議だった。

 その女が、麻衣という名前だったのを覚えている。

「結婚しよう」

「嬉しいわ」

 プロポーズの言葉は忘れたが、確か、夜の公園ではなかったか。お互いに相手を見つめあい。恥じらいを感じた麻衣が、恥かしさからか、老人の若い頃に抱き付いてくる。その時は暖かさというよりも熱さを感じ、やけどしてしまうほどだったと思うのは、決して大げさなことではなかったであろう。

 結婚を考え始めて、すぐの告白だった。麻衣も期待していたのだろう。彼女の顔に驚きの表情はなかった。

「まるで分かっていたかのようだね」

「ええ、今日が特別な日になるということは、最初から予感していたようなの。だから、幸せになれると思うわ」

 と、麻衣は、男の胸の中で呟くように言った。

 麻衣は、自分の記憶が飛んでしまっているのを感じていた、

――でも、今が真実なら、それでいいんだわ――

 この感覚は、自分以外の誰かから受け継いだ気がした。里美の顔が浮かんできたが、彼女が記憶の失った女性にはとても思えなかった。それなのに、どうして浩司は彼女が記憶を失っているなどと言って、麻衣に紹介したのか分からなかった。

 もし、里美が記憶を失っていない女性だったら、浩司は麻衣に引き合わせただろうか?

 浩司の性格から考えると、訳あり以外の女性を会わせることはないだろう。ひょっとすると、浩司は麻衣に対しても、何か訳ありの女性だという意識を持っていたのだろうか?

 麻衣には訳ありなどという意識は存在しない。時々、浩司のことを不安に感じるのは、浩司が自分をどのように見ているかということが気になっているからだった。

 麻衣が絵を描いていることを、浩司はやけに気に入っているようだ。

「僕にはない才能だからね。絵を描けるなんて素晴らしいと思うよ」

 と話してくれるが、実は浩司にも絵心があることは分かっていた。

 以前、麻衣がスケッチをしている横で、浩司も覗き込むようにしていたが、

「あまり覗かれると、恥かしいじゃない」

 と言うと、浩司は苦笑しながら、手持無沙汰で戸惑っていたので、

「何もすることがないんだったら。スケッチブック、もう一冊あるので、浩司さんも描いてみればいいのに」

 と声を掛けると、どうしようかと迷いながらも、色鉛筆を取った。

「僕は絵なんて描いたことないからな」

「でも、美術の時間とかあったでしょう?」

「うん、あったけど、適当に描いていただけで、先生も見放していたんだろうね。めちゃくちゃな絵を描いても、何も言われなかったからね、不真面目な生徒だと、呆れていたんだろうね」

 と、さらに苦笑した顔が歪んでいた。

「絵というものは、感性だって思うのよ。何が正しい、正しくないというわけでもないし、目の前にあるものを正確に描けばそれでいいというものでもないのよね。芸術ってそんなものでしょう?」

「そうだね、ピカソの絵なんて、その最たる例かも知れないね。あれを見ると、バカと天才は紙一重なんだなって思ってしまうよ」

 バカと天才が紙一重だという感覚は、浩司の中に持っていた。それは自分にも当てはまることではないかと思う。生真面目に、型に嵌ったことだけをしている自分が、無性に情けなくなり、何でもいいから爆発させるものを求めることがあるが、そんな時にギャンブルをしてみることがあった。

 普段であれば、ギャンブルに手を出す自分を情けないと思うのだが、その時は感性を磨いている自分を見ているように思う。同じ客観的に見ているのだが、バカだと思って見ている時は、ただの勘に頼っているだけに見えるのだが、情けないと思って見ている時は、感性を磨いているように見える。そんな時、奇想天外な発想が生まれそうに思い、それが天才的な感性に近づいていると思えることがある。そんな時、金銭的な収穫があるのだった。

 ただ、天才的な発想だと思えた時は。それ以上踏み込むことをしない。天才的な発想は、引き際も天才的なのだ。いや、何が難しいと言って、引き際を見極めることが難しいギャンブルで、きっぱりとやめることができる感性は、まさに天才的だと言っても過言ではないだろう。

 パチンコなど、一番分かりやすい例かも知れない。普段はパチンコをしない人は、ビギナーズラックに嵌ってしまうと、抜けられなくなるとよく聞くが、浩司の場合は、きっぱりとやめることができる。

 絵画にはまったく興味がなかった浩司だったが、麻衣と一緒にいると、遊びで描くようになった。

「なかなかいいと思うわよ」

 麻衣はそう言ってくれるが、麻衣の目は当てにしてない。それは、自分も絵画に勤しんでいるのだが、決してプロの目を持っているわけではない。そんな人が他人の作品を評価などできるはずもない。それは、自分の中に謙虚さを持っているからだ。

 自分がまだ発展途上なのに、人の作品を評価するなどおこがましい。ただ、絵画を始めてすぐの人には意外とそうは言い切れない。これからまっすぐに上を見て昇って行こうとしている人間なので、迷いがない。絵画をしている人の謙虚さの中には、迷いという要素が多く含まれているからであろう。

 そういう意味では、浩司はいつまでも初心者でいたいと思っている。深く入り込めば入る混むほど迷いが生じる。絵画をただの趣味で終わらせたいと思っている証拠であった。

 ギャンブルとは違うが、将棋や囲碁の世界にも通じるものがある。

「一番隙のない布陣とは、どのようなものか分かるかい?」

 と聞かれて、答えに苦慮していると、相手はしたり顔になり、

「それはね。最初に並べた布陣なのさ。一手指すごとにそこには隙が生まれる」

 と言われて、目からウロコが落ちた気がした。確かに手を動かすことで、穴が生まれるのだ。

 それは「風林火山」の考え方にも似ている。

「動かざること、山の如しである」

 芸術というものは、「動かざること」に近いのかも知れない。ただ、隙を見つければ、突進していくという積極性も兼ね備えていなければいけない。普段は冷静な観察眼を持つことで、目の狂いを生じさせないようにしていればいいのだ。

「私が絵を描くのは、自分を絵の中に隠してしまいたいと思うことがあるからなのよ」

 そう言っている麻衣を老人は想像していた。

「私も、若い頃は絵を描いたことがあったんだけどね。すぐに挫折してしまったんだよ」

 その言葉を聞いて、麻衣は指を止めると、後ろを振り返った。頭から足の先まで眺めていたが、すぐに前を向いて、また絵を描き始めた。

「私の絵の中に、あなたがいるような気がするんだけど、気のせいかしら?」

 おかしなことを言うものだ。絵を描いている人間に分からないというのはどういうことなのか?

「絵の中に私がねぇ。その絵は、今の光景を見たままに描いているわけではないんだね?」

「ええ、そうですわ。だから、見る人によっては、目の前の光景とはまったく違って見えると思うの。ただ、私は目の前に見えている光景を素直に描いているつもりなんですけどね」

 夢物語を二人は話している。これは誰かの夢の中で繰り広げられている光景を、まったく知らないはずの二人の会話を勝手に想像しているにすぎないはずなのに、実際には二人の中に通じるものがあったということは、ただの偶然として片づけられるものなのであろうか。

 絵を見ていると、老人にとって懐かしい思い出が走馬灯のように駆け巡ってきた。

――私は、もう長くはないのかな?

 過去の思い出がすべて美しいものとしてしか思えなくなると、死期が近づいてくるのではないかと、思うようになった。それは年齢的にも肉体的にも衰えが加速し始め、すべてにおいて、不安を感じはじめるからであった。

 老いてくるにしたがって思い出というものには不安が付きまとうようになっていた。実際に過去にいいことがなかったという思い出ばかりが表に出てくるからだ。楽しかった思い出が表に出てくると、死期が近いという意識が強いからかも知れない。なるべく思い出さないようにしていたからに違いない。

 麻衣の絵を見ていると、最初に見た時は、自分にまだ不安が宿っているのを感じていた。それは絵の中に自分がいることに気付いたからで、絵の中心にいるはずなのに、誰の目にも見えない。もちろん、自分にも見えないが、誰にも見えないわけではない。見えている人がいて、その人が老人の若い頃を探しているのかも知れない。

 麻衣にも、最初は絵の中に誰かがいるなど想像もつかなかったはずだ。老人がいつも間にか後ろに現れたことで、絵の中にあった不自然さが何だったのかを分かることができた。それでも最初は漠然としてしか分からなかったものが分かるようになったのは、老人が、角度によって見えているものが違うということを指摘したからであった。

 老人が、絵を見て安心し始めた時、麻衣は自分の作品に愛着を感じはじめた。ただ描いているだけのものだったが、愛着を感じると、それが絵に対しての自信にも繋がっていく。まだ、描き終わっていないのに、絵を描くのをやめようかと思っていた。それは、未完成である今が、一番の完成品に思えたからだ。これ以上描くと、隙が生まれてくるような気がして、将棋の最初に並べた布陣を思い起こさせた。

 麻衣は、キャンバスを片付け始めた。それを見た老人は、優しそうな笑顔を浮かべ、

「うんうん」

 と、頷いている。

 そそくさと片づけを行っている麻衣を見ながら、老人は黙って立ちすくんでいた。手持無沙汰という感じでもなく、ただ見つめているだけで笑みが毀れてくる自分が微笑ましいと思っているに違いない。

「絵は完成したようですね」

「ええ、これ以上は手を加えるつもりはありません。未完成だと思うかも知れませんが、私にはこれが完成品なんです」

「分かる気がしますよ」

 と言って、顎をさすっている老人は、優しそうな目で、麻衣を見つめていた。

 そこに写っている絵には、先ほど感じた赤ん坊の親がいない絵ではなく、今度は赤ん坊だけがいない絵に変わっていたのだった……。


 麻衣が里美と会ってからしばらくして、浩司の耳に、二人が時々会っているという話が飛び込んできた。二人を引き合わせたあの店に二人で顔を出すのだから、耳に入っても当然のことだった。むしろ、遅いくらいで、この遅さが実は致命的な遅さであることに、まだ浩司は気付いていなかった。

 あれから、浩司は里美とは会っていなかった。里美が会うのを渋ったからで、浩司もそれ以上会うことを強要しようとは思わなかった。

 里美に対して、抱きたいという欲はすでに失せていた。会ったからと言って、抱こうなどと考えるはずもないと思っていたのだ。それは里美にも分かっていただろう。だが、しばらくすると、今度は、里美の方から、

「実はお話があって、少しだけお付き合い願えませんか?」

 と、電話で告げてきたのだった。

 浩司は、一瞬、戸惑ってしまったが、断る理由も見つからず、会う約束をした。里美が指定したのは、麻衣を引き合わせた、あの場所だった。

 里美は仕事が忙しいらしく、すぐには会えないということで、約束は五日後となった。それまでに、浩司が約束の場所に一人で訪れたのだ。どうしてその店を訪れようと思ったのか分からない。二人を引き合わせたところに、一人でノコノコ出向くのは、滑稽な行動でしかないように思えたからだ。

 そこで、浩司は、麻衣と里美が時々出会っていることを聞いたのだ。世間話をしたつもりで、店の女の子が浩司に気軽に話したのだが、ビックリした店長に見咎められ、それ以上のことは話してくれなかった。浩司もそれ以上聞かなかった。聞いていれば、彼女を追い込む形になるし、彼女も店長から見咎められたのだから、それ以上の答えを期待できるはずもなかった。

「聞かなかったことにしといてあげようね」

 と、彼女に言ったが、この場合の返答として、的確であったかどうか、浩司にも自信がない。こういう場合は、本当は何も言わない方がいいのではないかと思ったが、言ってしまったものはどうしようもなかった。

 その場の雰囲気は決していいとは言えない。固まってしまった時間がその空間には存在し、これ以上いても仕方がないので、店を出ようと思った時だった。そこに二人の男女が現れて、固まってしまった空間を切り裂くように、店の雰囲気がガラリと変わってしまった。

 いつもの浩司なら、その場所から一刻も早く立ち去りたいと思っただろう。だが、その日はその場を離れることができなくなっていた。金縛りに遭ったような感じだというのも理由の一つだは、二人の男女のどちらも、どこかで見た記憶があったからだ。

 男性の方は、

――そう、確か里美に関係がある男だったと思うが――

 里美の会社関係の男性で、見た目はまだ子供に見えた。それは浩司から見てではあるが、年齢的には二十歳前後であろうか。

 女性の方は、その男と年齢的には同じくらいなのだろうが、実際には、もっと大人の雰囲気を漂わせている。微笑んだ時の妖艶な雰囲気は、それまでに知っているどの女性よりもあるが、ただ、浩司が付き合ってきた女性たちとは違った妖艶さがあった。

――僕なら、付き合おうとは思わないな――

 単純に好みの違いなのだろうが、浩司とは、平行線のような気がしてしかたがない。他の女性と違って、彼女の妖艶な微笑みを受け入れるだけの度量が、自分にはないと思うのだった。

 彼女は、自分を受け入れるだけの度量が備わっていない男性には、相手にならない気がしていた。少なくとも浩司には備わっていない。度量というのは、浩司の中にもあるのだろうが、違う種類の度量ではないかと思うからだった。

 最初に会った時も違和感しか感じなかった。なるべくなら、二度と会いたくないと思った相手だった。確か、電車の中だったか、見たくもない光景を見たような気がする。弱者に対して容赦のない態度だったような気がする。

 そのくせ、自分が女性であるということを武器にしていた。それは、男性を惑わすというよりも、自分が弱者だということを相手に示すためのもので、まだ、男性を惑わす態度を見せられた方が、随分と気分がいいことだろう

 吐き気を催すほどの厭らしさに、気分が悪くなるほどだった。

――こんな女がまだいるんだな――

 と感じるほどで、

――以前にいたことをどうして自分が分かったのだろう?

 と感じたのだが、その思いは初めてではなかった。過去にも同じような思いを感じたことがあったのを思い出したのだが、その時もあまり気分のいいものではなかったような気がする。

――一体、いつの時代なんだろう?

 と思うほど、現実離れした感覚だった。

 祥子という女性は。男性に付きまとって、搾り取れるものは搾り取ろうと考えているようだ。相手は誰でもいい、同時期に複数の男性を付き合っても、男性は気付かない。そんな男性ばかりを相手にするから、彼女にとって男性は、すべて自分の思いのままだと思っているようだ。

――世の中、そんなに甘くはないのに――

 と思うが、彼女は、いまだ怖いもの知らずなのだ。

 複数付き合っている男性の一人が高杉だった。高杉のように一直線な男性は、コロッと祥子のような女性に騙される。同じような境遇の男性が近くにいるとも知らずに。一人で苦しみを抱えている。そんな中で、里美だけが心の拠り所でもあった。

 最初に出会ったのが里美だったら問題なかったかも知れないのに、出会ってしまったのが祥子だったのは、高杉にとって、不幸だったとしか言いようがない。

 祥子が高杉に目を付けたのは、実は、高杉が里美と一度接触した時のことだった。

 高杉は覚えていないだろうが、心の奥で、

――可愛い娘だ――

 と感じたことがあった時だ。

 高杉は、自分では意識していないが、まわりから見ると、好きになりそうな相手が分かるようだった。祥子が高杉を気にし始めた時、一瞬でも里美を気にしている素振りを見せたことで、祥子の食指の目に引っかかったのだ、

 たった一回の偶然だったのだが、祥子の考えている偶然は、レベルが違うものだった。祥子にとってその時初めて高杉を意識したのだが、意識した原因は里美にあったのだ。

 祥子は以前から里美を知っていた。それは里美の消えた記憶の中にいるはずの人で、里美が祥子を見ても、俄かには思い出さないことだろう。今までに里美を知っている人が幾人里美の前を通りすぎて行ったことだろう。里美にはまったく意識のないことだった。

 里美は、すでに記憶をよみがえらせようという気持ちは少なくなっていた。今の生活が悪いものではなく。思い出すことで今の暮らしを失いたくあいという思いと、思い出したことで、どれほどの犠牲が自分に降りかかってくるかということが恐ろしかったのだ。

 祥子の頭の中には、

――あの女、記憶を失ったなどと言ってるけど、本当にそうなのかしらね――

 と、里美の記憶喪失を知った時から、完全に疑いの目を持っていたのだ。

 祥子は、里美に何らかの恨みを持っているようだった。高杉に食指を伸ばしたのは、きっと里美への復讐心が働いたからなのかも知れない。祥子という女は、自分を裏切ったり、害を及ぼしそうな相手に対しては容赦しない。徹底して攻撃も辞さない構えでいつも人と相対している。そんな祥子には、一体どんな過去があるというのだろう。

 里美が過去を思い出したくないという影には。祥子の存在があるのかも知れない。それは祥子自身が感じていることだった。それだけ、自分は里美に対して酷いことをしてきたという自覚を持っているのだ。

 もちろん、悪いことをしたという思いはない。祥子という女性は、自分が正しいと思えば突き進むタイプで、ある意味潔いとも言える。そういう意味では、里美に対して怖さは感じるが、臆する様子はなかった。

 里美は、祥子の存在に気付いたのかも知れない。里美の記憶が戻っているのかも知れないという思いは一部の人しか知らないが、そのことにまだ祥子は気付いていないだろう。最初に高杉を自分のものにしてから、里美のことは意識から外していた。だからこそ、里美と会うことを、祥子は避けているのだ。記憶が戻ったことを知らないかも知れないというのは、そういう意味でだった。

 浩司は、もちろん、そんなことはまったく知らない。どうしても好きになれない女が、自分たちの運命にかかわっているなど知る由もない。それを知ることになるのは、何かの偶然が重なってからのことだろう。

 祥子は浩司のことも知っているようだった。しかも里美と関係があることも分かっている。だが、それについて口を出そうとは思わない。むしろ、里美が浩司と一緒にいることを望んでいるからだ。それは、高杉との関係から考えても、浩司と里美の仲がいいのを邪魔するのは、筋違いだった。それを思うと、祥子にはおかしな関係で結ばれている自分たちを客観的に見ることが楽しく思えてきた。

――偶然が重なっただけなのかしら?

 祥子は自問自答を繰り返したが、他に何があるというのか。一番客観的に見て、すべてが見渡せる位置にいるのが祥子だったのだ。

 祥子が浩司を知っていると言っても、浩司の方ではまったく意識していない。祥子も浩司のことを知っているだけで、意識しているわけではない、だが、里美と関係しているとすれば別だった。祥子は何も言わないが、鋭い視線を送っていた。それなのに、浩司は一切気付かない。本当に気付いていないのだ。浩司の中で、祥子は別世界の人間に感じられた。

 祥子が浩司を見ている目線で、浩司は祥子を見ていない。どんなに鋭い視線を送っても、相手は気付くはずもない。目が見えないコウモリのように、跳ね返ってくる音波によって相手の存在を探るようなものであった。

 祥子が浩司を意識したのは、男性としてというよりも、浩司の中にある優しさを感じたからだ。

 祥子は優しさを求めているわけではない。自分の周りに優しさを感じさせる人がいないからだ。

「優しさって、何なのかしら?」

 と、自分に言い聞かせてみるが、答えが返ってくるわけがない。優しさを否定した女が自分だと意識しているからだ。人から受ける優しさは施しと同じで、必ず、後に見返りを期待されると思われてしまうのだ。

 人は損得で動くもので、「義」を貫くなど、絵空事に過ぎないと思っている。そんな聖人君子のような人間が、この世に存在することが信じられないのだ。

 祥子が毛嫌いしているのが宗教である。

 どんなにきれいごとを並べても、宗教の名のもとにやっていることは、人殺しではないか。神が人を殺してもいいものか? 解放と言いながら、相手を攻撃する。正当防衛と言えば聞こえはいいが、宗教によっては、明らかに侵略に近いものがある。

 人の言葉を神の言葉として、神を利用し、自分たちの主張を通そうとすることが、神聖な行為なのかに疑念を抱く祥子だった。

 そういう意味では、祥子には正義感がある。ただ、祥子の正義感は、明らかに偽善を嫌っていた。そのため、自分に正義感がみなぎっていることを自分でも気づかない。いや、本能が気付かせないのかも知れない。

 生半可な正義感を持っていたのが、里美だった。里美は記憶を失う前、自分の中にある正義感をひけらかすことで、まわりに不快な思いを与えていることに気付いていなかった。もっとも、ひけらかすという行為が、まわりへの不快感に繋がることすら分かっていないのだ。押しつけがましさは、自覚できるものだが、まわりが感じるひけらかす行為は、本人は分かりにくい。どこに二つの境界線があるのかも曖昧で、正義感という媒体を意識しているのがひけらかすことで、押しつけがましさは、漠然とした何か、行為の場合が多いかも知れないが、媒体を介さずとも他人を不快に感じさせるに十分なのではないだろうか。

「優しさを、ひけらかすと見るのか、それとも押しつけと見るのかを考えれば、おのずと、人間のタイプが大きく分けて二つに分けられるのが分かるというものだわ」

 祥子の考えでは、浩司は押しつけがましい方だろう。表に出すのがひけらかし、押しつけは却って、うちに込める方になるのではないだろうか。一見まったく違う言葉に聞こえるが、比較してみると似ているところがあり、似ているところが正反対であるがゆえに似ていると思うというところが、何とも皮肉なことだろう。

 相手に分からいところが陰湿な感じがする。祥子の中では浩司は、あまりいい印象の男性ではない。まわりからあまりいい印象を持たれていない人が感じることが、むしろ正論だったりすることがある。祥子の感覚はなまじ間違っていないだろう。


 祥子の存在を意識することもなく、里美や麻衣ともうまく付き合っていくことができている浩司は、安堵の念に駆られていた。麻衣のお腹は次第に大きくなり、女から母親へと変わりつつあったことに一抹の寂しさを感じながら、それでも自分が父親になる嬉しさとを比較すれば、やはり幸せな気持ちが大きくなってきていた。

 里美とはあれから会っていない。寂しさというよりも、不安が募っていた。

――まさかだが、あれが今生の別れなんてことはないよな――

 と感じたからだ。

 子供が生まれることで、浩司の精神状態は急変していた。毎日が有頂天で、不安などまったくなく、この気持ちが未来永劫続くのではないかと思ったほどだ。しかも過去の嫌だった思い出さえも、楽しいものに変わっていて、子供という存在がどれほど大きなものかを、痛感されられた気がしていた。

――やはり、麻衣に里美を会わせてよかったな――

 麻衣に里美を会わせたという考えになっていた。里美に麻衣を会わせたという感覚ではない。今となってしまえば、すべてが麻衣中心で、里美は、

――過去の女――

 となってしまっていた。里美に対して一抹の寂しさがあったのは、そこだったのだ。

 毎日を幸福に感じ暮らしていると、あっという間に過ぎていく気がした。

――何があっという間なんだろう?

 それは一週間であり、一か月であり、一年なのだろう。日々の暮らしはあっという間だとは思わない。むしろ、長くなっているように感じるほどだ。

 毎日の生活が充実していると、一日が長く感じ、一週間などの定期的な単位があっという間に感じられるようになるのだろう。毎日があっという間でも、一週間を長く感じ、なかなか時間が経ってくれないこともあったので、その頃のことを思い出すと、その時は、不安をいっぱい抱えていたのが、おぼろげに頭の中に残っていた。

 毎日が有頂天になってくると、香ってくる匂いまでも、甘いものに感じられる。金木犀の季節でもないのに、甘い香りを感じると、自分が幸せの絶頂だと思うのだ。以前にも同じ思いを感じたことがあったのだろう。だから、自分の中で確信めいたものがあるのだった。

 麻衣の姿を見ていると、まるで以前にも自分に子供がいたのではないかという気持ちになってくる。もちろん、付き合っていた女性の間に子供を作ったということではない、もしいたのだとすれば、麻衣に対してと同じように、結婚を考えたであろう。ただ、本当に結婚したかまでは分からない。少なくとも結婚を考えようと、前向きに見るはずだからである。

 麻衣に子供ができたということを聞かされるまで、浩司は子供があまり好きではなかった。電車に乗っていたりしても、うるさいだけし、まわりの迷惑など関係なく、我が者顔で立ち回る姿を見ていると、腹が立ってくる。本当は、うるさくしているのを咎めることをしない親に対して腹を立てているのが分かっているのに、子供に対しても鬱陶しく感じるのだ。

 それは自分が苛められっこだった頃のことを思い出すからなのかも知れない。まわりも自分と同じ子供なのに、やけに大人びて見えるのは、自分が本当に子供だと思っているからだ。

 その時は自分を客観的に見ることができなかった。見たとしても、それは苛められている自分が嫌で、表に出てきた気持ちだった。冷静に見れるわけではないので、客観的だとは言えないだろう。

 客観的に自分を見つめていると、自分という子供がわがままで、苛めたくなるような少年に見えたかも知れない。もしかすると、子供が嫌いだと思っている感覚は、子供の頃の自分を重ねて見ていることで浮かんでくる感覚なのかも知れない。そう思うと、嫌いなものというのは、自分に密接に関係しているものが、いくつか含まれているのではないかと思うのだった。

 有頂天な時期がいつまでも続くわけなどないということは、浩司にも分かっている。それでも、

――このまま、永遠に至福の刻が続くような気がしてきた――

 という思いもあった。

 もちろん、願望に過ぎないのかも知れない。だが、幸福な時期が続かないというのは、続かないものだと思っているから、続かなかった時に、それが定説になってしまうのであって、実際に続いている人も少なくはないのかも知れない。浩司にとっては未知の世界、不安だけで怯えていても仕方がないことだろう。

 だが、それも甘い考えであったことを、後から嫌というほど浩司は味わうことになるのである。

 順調にお腹が大きくなってくる麻衣は、以前にもまして甘えん坊になってきた。元々甘えん坊なところがあるが、それ以上にアブノーマルを好んだり、自分中心の考えなのに、それをまわりに感じさせないところがあり、甘えん坊な性格が薄れがちだった。

 それは悪いことではない。ただ、麻衣の表に出ようとする性格が、麻衣という女の最大の魅力だっただけに、魅力が薄れてきたようで、寂しさが浩司の中で膨れていった。その分、まだ見ぬ子供に対しての情に変わりつつあると思っていたが、まさか自分が子供を楽しみにするようになるなど、考えられないことだった。

――これも懐かしさから感じることではないか――

 子煩悩になるかも知れないと思っていたが、まだ生まれてくる前からこんな気持ちになるとは思っていなかったからである。懐かしい気持ちでもなければ、ありえないと思っていると、懐かしさを感じてきたのだ。

 感じてきたというより、思い出してきたのだ。おぼろげに見えているものが、どんどん形になってくる。これは今までにあった記憶に形ができあがってくる感覚なのである。

 まだ生まれていない子供の顔を思い浮かべようと試みてみた。真っ暗な背景にシルエットが浮かんでくる。

――思ったよりも大きな子供だな――

 と感じたが、シルエットというもの、実際の実像よりも大きく見えてくるものである。すぐにそのことに気が付いて、思わず苦笑したが、シルエットは、赤ん坊の輪郭に輪のような光を伴っていた。それはまるで金環日食のようで、

――世にも珍しいものを見た感覚と同じだな――

 と感じたのだった。

 腕には、子供を抱きかかえた時の感覚がよみがえってきた。腕にピッタリくるのは、自分の子供だという感覚があったからだ。その記憶まで自分の中にある。

――記憶を失っているのは、里美だと思っていたが、僕の記憶もひょっとするとどこか欠落したところがあるのかな?

 背筋がゾッとしてきた、自分にあるのであれば、他の人にもあるのではないかと思い、誰もが自分と同じ感覚を抱くことがあるのかも知れない。

 そういう意味では、誰もが無意識に共有した記憶の欠落があるとも言える。欠落した部分が、誰かと共有しているのだと思うと、その人が自分の知っている人だとは限らないだろう。

――知らない相手だからこそ、記憶から欠落している?

 と思うと、今までなら

――そんなバカなことはない――

 と考えたことを即行で打ち消していたであろうに、今は、打ち消すどころか、受け入れようとしている。子供の存在が、浩司の中で大きく変化を与えようとしているのだろう。

 時間が経過する中でシルエットの中の子供の顔がハッキリしてこない。想像がつかないことを示していた。

――やっぱり、見たことがなければ想像することは無理なんだな――

 本当はそうではないのに、そのことに気付かない浩司は、そう思って自分で納得していた。

 時間が経過しているつもりでいた浩司だったが、本当はあっという間であった。というよりも時間の感覚が時系列の概念がないのである。現実世界が、論理的に矛盾なく進んでいるのは、当然時間が規則的に時系列で進んでいるからであることは誰もが認めることであろう。

 時間の経過を感じさせない世界は、夢の中だけではなく、妄想している時も同じである。妄想を始めて、妄想から抜けるまで、自分としては、時間的な感覚があっという間だったとは思わない。だが、妄想自体を思い出そうとすると、あっという間なのだ。妄想自体が夢の世界への入り口のようなものだという考えも、あながち間違いではないだろう。

 麻衣の顔は妄想の中で浮かんでくる。手には可愛い赤ん坊が抱かれている。麻衣の満面の笑みが、浩司に癒しを与え、ホッとした気分にさせてくれる。そのまま視線を落とし赤ん坊を見ると、その顔が見えないのだった。

 手を伸ばして触ろうとするが、手が子供の身体をすり抜ける。妄想なのだから、すり抜けるという発想もありだろうと思うのだが、そのまま手を伸ばし続けると、麻衣の身体に触れることができる。

「あっ」

 その時の麻衣は、感じている時の甘い声を上げる。ただ、お腹に手が触れただけなのにである。

 麻衣が身体を微妙にくねらせる。それはおねだりであって、浩司の欲情をそそる。

「お腹の子供に悪いんじゃないのかい?」

「大丈夫よ。お願い、抱いて……」

 麻衣の欲情が、浩司を掻きたてる。もちろん、浩司も願ってもないことだった。

 身体が反応を始めると、身体の芯からこみ上げてくる想いを我慢できなくなる。荒々しく抱きしめると、着ているものを剥いでいくのだった。

 震えた手で、欲情を我慢しながら剥いでいくのは難しかった。服を破きそうな勢いに、麻衣は怯えたような表情を浮かべるが、それも一瞬で、すぐに安心感がみなぎってくる。

 その様子は浩司にも分かっていた。自分がケモノに変わっていきそうな雰囲気に、満月に吼えるオオカミ男を想像してしまう。

「男がオオカミだって言われるのは、オオカミ男のように豹変するところからきているのかも知れないな」

 と、今さらのように感じるのだった。

 浩司は麻衣に覆いかぶさる。本当であれば、体重を掛けないようにしなければいけないのに、すでに頭から、そんな気持ちはなくなっていた。

 不意に浩司の頭に、初老の男性が浮かんだ。

――誰なんだ? こいつは――

 見たことのない男性であった。

 雰囲気は紳士そのもの。紳士であると分かったのは、絶えることのない笑みを浮かべているからだ。

――こういう表情を、恵比須顔って言うんだろうな――

 と、思いながら浮かんできた老人を意識せざるおえなかったが、欲情が収まることはなかった。覆いかぶさった身体が、麻衣と重なろうとする。

「ああ、素敵」

 と、それを待ち侘びていた麻衣が、歓喜の声を惜しげもなくあげている。その声を聞きながら。浩司の興奮も最高潮を迎え、麻衣と一体になっている感覚に充実感が身も心も満足させるのだった。

 一緒に果てた二人はぐったりとして、声も上げられない。恍惚の表情を浮かべて、お互いに同じ天井を見つめている。

 静寂の中に、湿った吐息だけが響いている。麻衣を抱きしめる浩司だったが、

「あれ?」

 思わず声をあげてしまった。その声に麻衣は気付くこともなく、浩司を気にせず、天井を見つめているだけだった。

――こんなに痩せていたっけ?

 胸の膨らみやお尻の弾力に変わりはなかったが、抱きしめた瞬間に、まるで別人ではないかと思うほど痩せていた。しかも、妊娠していて膨れているはずのお腹に、まったく膨らみを感じないのだ。逆に入っていたものが急に消えてしまったかのようで、窪んでいるようにさえ思えた。

 麻衣は、恍惚の状態から、戻ってこようとはしない。完全に悦楽の世界に意識は飛んでしまっていて、

――心ここにあらず――

 の状態だった。

 こんな時に声を掛けるわけにもいかず、浩司も同じように天井を見つめるしかなかったのである。最初に二人で天井を眺めていた時とは、明らかに浩司の方での心境の変化があった。微動だにすることもなく、悦楽の世界に飛んで行ってしまった麻衣ではあったが、彼女も心境の変化がなかったとは言えないだろう。

 時間だけが無為に過ぎているように思えた。

――この瞬間が、あっという間に思えてくる瞬間なんだろうな――

 と、漠然と考えていた。そう思えば、妄想や夢の世界が、あっという間にすぎていると感じることの根拠なのかも知れない。

 興奮は、とどまるところを知らない。普段と違う麻衣を抱くという気持ちが、浩司の異常性欲をくすぐったのだ。

――あどけなさを感じる――

 麻衣には感じたことのない感覚だった。大人のオンナとしてしか見たことがなく、あどけなさと言っても、コスプレでセーラー服を着せてみることがあったくらいだったが、それでも今の興奮に比べれば、ただの遊びにすぎなかった。

「浩司さん」

 貪るように抱き付く浩司は乱暴だった。それでも嫌がる素振りを見せない麻衣を見て、どこか物足りなさを感じながらも、興奮は収まらない。

――どれくらいの時間が過ぎたんだろう?

 と、貪りながらも、そのことだけを考えていた。

――犯すというのは、こういうことなんだ――

 この感覚は初めてではなかった。興奮が最高潮に達したのを覚えている。相手は誰だったのか覚えていないが、明らかに抵抗があった。

「抵抗するんじゃない」

 と声を荒げる浩司、怯えで声も出せずに、顔面蒼白になっているはずの女の顔は浮かんでこないが、小刻みな震えだけは身体が覚えているのだ。

 最後の絶頂の感覚は、おぼろげなのだが、震えと、まるで向こうまで透かして見えるほど限りなく透明に近い柔肌の感覚だけは覚えている。

――本当に透けて見えたのかも知れない――

 その時の女とは、それから会っていない。なぜ会うことができなかったのか、記憶にはないのだ。ただ、自分の興奮を満たすために、してはいけないことをしてしまったのではないかという危惧があるが、どこからも咎めを受けているわけではない。合意の上でのことだったのだろうか?

 麻衣を抱きながら、浩司の気持ちは、その時の興奮とは裏腹に迷走を繰り返していた。それでも興奮に任せる身体は変わりない。熱くてたまらない身体をもてあまし、果てる前の絶頂がいつまでも続くのではないかと思うほどだった。

 浩司は麻衣の中に果てても、まだ興奮は収まらなかった。麻衣も同じようで、さらに浩司の興奮を描きたてようとする。容赦のない麻衣の攻撃に、さすがの浩司も悲鳴をあげる。

「ここからが、本当の快感なのよ」

 という言葉が、遠くで響いているように思えた。

「本当の興奮は、我慢することにあるのよ」

 その言葉は、以前、自分が吐いたことのあるセリフに思えた。ただ相手が麻衣だったかどうか、今では覚えていない。

 いや、その言葉を吐いた相手は、麻衣ではなかっただろう。麻衣であれば、今さら、そんな言葉を吐かなくても、お互いに分かっていたことのはずだからである。他の女性とアブノーマルなプレイをしたことがない浩司だったが、では、麻衣以外に誰から聞かされたセリフだというのだろう? 浩司の欠落した記憶が、その答えを抱えているのかも知れない。

 浩司も自分の記憶が欠落していることを知った。だが、不思議と驚きは少なかった。むしろ、欠落した記憶を持った里美と知り合った時の方がショックが大きかった。ひょっとすると、自分の記憶が欠落していることを、里美と知り合うことで、本能的に知ったのかも知れない。

 里美の記憶を取り戻そうという気持ちはあったが、必死になって取り戻そうとしていたわけではない。優しさが足りないのかと思ったが、そうではない。本能が、里美の記憶を取り戻させることを拒否したのだった。取り戻させてしまうことで、里美から今度は自分の記憶が欠落していることを看破されてしまいそうでそれが怖かったのだ。

 いよいよ、麻衣と浩司の子供が、この世に生を受けようとしている時が近づいてきた。完全に麻衣は母親の顔になっていて、浩司もその日を待ちわびていた。

 だが、浩司には麻衣に言えない秘密を抱えていた。秘密というには大げさだが、気になる女の人ができたのだ。

 声を掛けることもない、ただ見つめているだけだが、その様子は常軌を逸しているかのように思えた。ギロリとした視線を浴びせ、もちろん相手の女性は気付いているはずなのに、なるべく浩司と目線を合わさないようにしている。

 相手はまだ高校生、浩司の悪いくせが出てきたわけだが、ただ見つめているだけでは相手としてもどうすることもできず、さぞや、気を揉んでいたことだろう。

 彼女は父親に言えないと思う、祖父に相談した。彼女の祖父は元警察官らしく、眼光が鋭い。だが、それは昔のことで、今は幾分か丸くなり、表情も穏やかだった。

 孫娘の危機ということで、老人は、昔取った杵柄で、彼女を守ろうと、同じ電車に乗り合わせた。

 いつものように浩司は彼女の近くから、視線を浴びせる。もちろん、それ以上のことをするわけではない。浩司とすれば犯罪だからという意識ではなく、見つめているだけで十分だと思っていたのだ。もし他人に見咎められても、最初は自分のことだとは分からないくらいであろう。

 確かに見つめているだけでは罪にならない。それは老人が一番よく知っている。まずは、相手がどんな男性なのかを知らないと、対処のしようがない。同じ電車に乗り込み、まずは相手を観察することから始めようと思ったのだ。

 老人も初日から声を掛けようなどと思っていなかった。

「ただの偶然ですよ。何か証拠でもあるんですか?」

 と言われれば、それ以上何も言い返しができなくなるからである。いつも同じ車両の同じ場所、彼女も決して場所を変えようとしなかったのはなぜだろう。それを老人には一言も言わない。もし言ってしまえば、

「お前が場所を変えないから、相手も悪いことをしているという意識がないんじゃないか?」

 と言われるのが怖かったのだ。

 彼女も、頭がいい娘なのだろう。

――それくらいのことは分かっているわよ――

 と、感じながら、祖父に一言も言い訳をする素振りはなかった。そこで言い訳をしても、相手に与える印象に変わりはないだろうし、まずは追いつめられる一歩手前の状況でも、ちゃんと相手を観察できる能力を持っているからであった。

 老人は、浩司と同じ車両でも、孫娘と浩司と二人から少し距離を取った。少しだけとはいえ浩司も離れていることから、二等辺三角形が形成された。鋭利な頂点にいるのは、言わずと知れた老人だったのだ。

 彼女は老人にコンタクトを送っている。老人も彼女に分かるように合図を送る。それに対して浩司の反応はまったくなかった。

――これなら、私の存在がバレルことはないか――

 と思っていたが、実際には、浩司に分かってしまった。それは老人の存在というよりも、見つめている彼女の視線が絶えず老人に行っているのだ。じっと見ている浩司に彼女の視線の変化が分からないはずはない。そんな簡単な理屈が分からないなど、やはりありえないことだろう。

 老人にはそれでもよかった。分からないなら、それに越したことはなかったのだが、

――もし分かったとしても、手の打ちようくらいはあるさ――

 と、以前の刑事魂がよみがえってくる。

 もうすでに現役を引退してかなりの年月が経っているので昔のような鋭い眼光は見られないが、今度の場合はその方が都合がいい。このまま穏やかな表情でいてくれることを本人が願うのも、鋭い眼光を一番見せたくない相手に見せることを嫌うからであった。

――一番見せたくない相手――

 それはもちろん、当事者である孫娘であった。

 駅み電車が入ってくる時を待って、老人は浩司に近づいた。

――こいつなのか?

 と、老人が見た男は、落ち着いた雰囲気は何かを考えている様子はなく、無作為に立っていた。こんな男に女を凝視するだけの力があるのかと思えたほどだ。何を考えているか分からないというよりも、何も考えていないというのが、老人の目には歴然と映ったのだ。

 何も考えていない目は、冷静というよりも涼しげである。曇りがない目をしていて、ストーカーを働く男ではない。そういう男はなるべく何も考えていないような顔をしているが、実際には腹黒さが表に出ている。一番嫌なタイプの男である。

――女性に興味がないのか、それとも?

 老人は頭を傾げた。確かに女子高生を見て何か反応している様子はない。ただ、見ているだけで、自分の子供の小さい頃を思い出していた。それは思い出したくないものだった。あれは自分が刑事をしている時に捕まえた少年で、確かスリの疑いがあるということで、現行犯連行されてきたのだった。

 その時はまだ老人も若かった。家族のために一生懸命に働かなければいけないという意識が焦りになったか、やってもいない少年を犯罪者にしてしまった。その時の哀願する表情が、わざとらしく見えたからで、偏見がなかったはずなのに、頭から彼を犯人だと決めつけてしまっていた。

「彼の目が私には疑いのないものだという結論に導いた」

 と、自分に言い聞かせたが、冤罪には変わりない。罪もない少年の人生を狂わせたことが一生の悔いになってしまった。

――定年になって忘れていたんだ――

 今さら思い出してしまったのだが、忘れてしまっていたことを自分でも驚いている。

――現役の時は、一番忘れてはいけないことだと思ったのに――

 自分を十字架に掛けていた呪縛は、定年とともに解き放たれた。自分で無意識に解き放したのだ。

「もう、ここらでいいだろう」

 確かにそうかも知れない。今さら思い出さなくていいものを思い出したしまったのだ。老人は、少年を見てその時のことを思い出した。さらに言えば、その時の少年が、自分の子供の頃と重なって見えたのかも知れない。大人に対して反抗的で、いつも背伸びをしていた少年だった。だから曲がったことが嫌いで、警官になったのではなかったか。曲がった少年がいれば正してあげたいという思いが、警官の時に一番大きかった。それを刑事になっていつの間にか忘れてしまったのだろう。

――長いものには巻かれろ――

 の理屈で、巻かれたことすら、意識がなかったのである。

 その時の少年のことを思い出すと、浩司が悪いことができる人間には思えなかった。もちろん、思い出してしまったことでの贔屓目も幾分か含まれているのだろうが、やはり、自分が確認した目からは、力が感じられない。

 特に女子高生を狙う隠微な目ではない。そう思うと、また老人は自分の昔が思い出された。

 刑事と言っても一人の男。こちらの方が老人としては大きな呪縛であった。少年に対しての冤罪は重たいものだが、こちらの呪縛は深いものだと言ってもいいだろう。

 電車に乗ると思い出してしまう。それはまるで麻薬のようなものだった。麻薬などという言葉を使うと、自己防衛だと言われても仕方がないし、刑事としては失格の烙印なのだろうが、魔が差したという意味では、誰にでも一度はあることなのかも知れない。

 少年課の婦警から頼まれて一人の非行少女を公正させようと、説得したことがあった。その時は、殊勝にも素直に応じていたのだが、

「この私に意見するなんて」

 とでも思ったのか、満員電車に乗るのを見計らって、一人の大人しい少女を近づけた。本当に大人しい娘が身体を密着させて誘うような素振りをしてきた。本当に魔が差してしまいそうになるのを必死に堪え、何とか耐えたが、後で自分への逆恨みだと知った時、信じられないほどの自己嫌悪に陥った。

 実際に辞表までしたため、何度提出しようかと思ったか。結局は提出せず、

――この十字架は一人胸に秘め、あの世まで持って行こう――

 と誓ったのだ。その時から、鬼刑事が誕生したのだが、彼女たちにとっては、逆恨みが火をつけたという意味では、何とも皮肉な結果となってしまったことだろう。これも定年迎えるとともに、墓場まで持って行こうと思っていた感情が薄れ、呪縛が解き放たれ、本能として忘れてしまっていたのだ。

 そういう意味では、すでに老人となってから、鬼刑事の名をほしいままにしてきた現役時代とはすでに違っていた。孫娘に昔の顔を見られたくないという感情以前の問題だったのだ。

 浩司には、その時に耐えた自分を感じた。表から見れば、無気力で、何も考えていないという感覚は、実は、一度以前に必死に耐えたことがあり、それが免疫となって顔に現れる。普通の男だったら、性癖が邪魔をして、感情を押し殺すことは難しく、犯罪に走ったことがある人間は再犯を繰り返す人が多いが、浩司のように免疫ができてしまえば、もう大丈夫だった。

――あの顔は大丈夫だ――

 元刑事の勘というよりも、かつての自分を見ているようで、何よりもそのことは、本人である自分が一番分かっている。そう思うと、老人は浩司に対して、これ以上見る必要はないと思った。

 そして、これ以上見てしまうと、その時の感情がよみがえってきて、自己嫌悪に陥ってしまう自分が怖かった。

――もうこの年になって、自己嫌悪に陥る必要なんてないんだ――

 まさしくその通り、孫娘にも見せたくない。

 自己嫌悪に陥ってしまうのは、それだけ老人が真面目な性格だからだろう。曲がったことが嫌いな性格が自分の感情と戦って、発熱状態を引き起こす。一番の治療法は、無理に熱を下げようとするのではなく、一度熱が上がるところまで上げ切って、その後に下げるのだ。そうしないと、元凶を取り除くことができないからである。

 浩司に対しての老人の目が離れた時、浩司は一瞬、スーッと落ち着いた気分になった。

――おかしいな――

 と思ったのも当然で、老人が浩司を最初に見つめた時のことを、浩司が意識していないからだ。

 本当は分かっていて、無意識に気にしないようにしたために意識がないのか、最初から老人の目が気になっていなかったのか分からないが、浩司にとって老人からの呪縛が解けた時、身体を通り抜ける爽やかな風のようなものを感じたのだ。

 ただ、それも、最初に何かがあって通り抜けたことは分かっていた。それが何かがすぐには分からなかった。

 といって、後から分かるものでもなかったが、風がいきなり発生したものだという意識はなかったのだ。

 老人は、孫娘にどう説明しようか考えた。彼女の思い過ごしだと思うが、果たしてそれで納得してくれるだろうか?

「おじいちゃんが、そういうなら」

 と言ってくれればいいがと思って迷っていたが、案ずるより産むがやすしで、最後は正直に話せばいいという原点に戻った老人が話をすれば、孫娘はあっさりと納得した。

――私が考えているよりも大人なのかも知れないな――

 と思ったのだ。

 老人は孫娘が生まれた時のことを思い出していた。プレイボーイのように幾人の女性と付き合っていた息子が、その中で一人の女性が懐妊したと知らせに来たことがあった。

 息子はあまり人に相談するタイプではなく、一人で抱え込む方だ。その中でも一人だけ相談するとすれば、父親だったのだ。

 現役の刑事でありながら、息子には甘かった。いや、甘かったというよりも、性格が似ているわけではないのに、お互いのことが手に取るように分かるような親子だったのだ。

「隠したって、結局バレるだ」

 後でバレた時のことを思えば、最初に話しておいた方がいい。後になればなるほど、腹立たしさに苛立ちが混じり、怒りを買う。

「もっと早く話してくれていれば、手の打ちようもあったのに」

 というセリフは、言う方も聞く方もどちらに対しても辛いことであった。

 その息子が相談してくれた時、正直嬉しかった。相談してくれたことに対しても嬉しかったし、孫ができることはもっと嬉しかった。老人には。その時、孫は娘であることを直感していた。娘以外は考えられなかったのである。

 想像通り生まれた孫娘は目に入れても痛くないとはこのことだと言わんばかりの可愛がりようだった。時には厳しいこともあり、孫娘から、

「おじいちゃんなんて嫌い」

 と言われながらも、

――子供はすぐに忘れるからな――

 と自分に言い聞かせていた。微妙なところは違っていても、大体考えていた理想の娘に育ってくれているようだった。

 一番嬉しいのは、

「他の人のいうことと違って、おじいちゃんの言葉は、素直に聞けるもん」

 と言ってくれた。

「そうかい?」

 と聞くと、

「だって、一番優しく教えてくれるし、分かりやすいもん」

 という答えが返ってきた。

 老人が浩司を見て感じたのは、

――息子に似たところがある――

 というところだった。二人きりになれば、何でも話をしてくれそうな雰囲気が浩司にあった。浩司も父親へは偏見の念しか抱いていない。老人のような話を聞いてくれる人を父親にできたらいいのにと思ったことだろう。

 もっとも老人の息子も、学生時代は無表情で何に対しても無関心な時期があった。

――どんな心境になれば、何事にも無関心だという表情ができるのだろう?

 と、ずっと気に病んでいたが、実は考えていないように見えて、いろいろ考えているのだ。あそこまで無表情になれるのは、よほど自分の世界に入り込み、ものを考えている証拠である。だから、彼にはストーカーなどしている様子は見られないのだった。

 老人は、数日浩司を見張ってみた。生活を見ているうちに、やはり自分の息子に似ていることに気付く。浩司は老人につけられていることなどまったく分かっていないようだ。一つのことに集中すると、まわりが見えなくなる性格も、老人の息子に似ていた。

 浩司のことを見張るのを止めて、帰途に就く途中、公園に立ち寄った。

 デッサンをしている一人の絵描きの女の子を見かける。その後ろから一人の老人が覗いていた。その老人を見ると、日光に邪魔されて、顔がシルエットでしか浮かんでこない。

――孤独な老人――

 ただ、他人事とは思えなかったので、しばし見つめていたが、顔が見えないにも関わらず表情だけが想像できた。これ以上ないという笑みを浮かべるその顔は、今の自分を鏡で映したかのようだった。

――同じ顔は、同じ次元では存在できない――

 他の人がどのように見えているかが疑問だったが、ひょっとすると、他の人にはどちからの老人しか見えないのかも知れない。

――私の存在に気付いている人はどれくらいいるのだろう?

 これも昔に感じたことだったような気がする。同じ思いを浩司も、子供が生まれたその時に感じていたことを、老人は知る由もない。


 麻衣の死産が発覚したのは、あとひと月ほどで、いつ陣痛が起こってもおかしくないと言われていた時期だった。何が原因での死産だったのか、浩司には分からない。医者の話では、ごくまれにそういうことがあるという話だったが、二人のショックはかなりのものだった。

 麻衣は、しばらく放心状態で、気が付けば、産婦人科に姿を見せたこともあるくらい精神的に参っていた。神経内科に入院させたおかげで、戻ってきた時は、かなり明るくなっていた。

 また絵を描き始めたが。その時の絵が、赤ん坊を抱きかかえる両親が描かれていたが、両親の顔がシルエットになっていた。そして、同時に描いた絵が、絵を描いているシルエットの女を後ろからシルエットの男性が覗いている。その中に描かれた男女は、里美とシルエットの男であった。

 麻衣は浩司の性格の中で一番嫌いなところが、都合の悪いことはすぐに忘れてしまうことだった。

――まさか、浩司のその思いが高じて、私のお腹の中から、赤ん坊が消えてしまったのかも知れないわ――

 という妄想を抱いていた。そこには里美の存在が不可欠であり、描いた絵に、赤ん坊を抱いている里美が描かれていたのかも知れない。

 老人が見た浩司の無表情なさまは、将来の浩司を暗示していた。麻衣の復讐の念が憎悪となって膨れ上がり。浩司に何かの危害を加えようと暗躍していた。浩司自身も記憶が欠落したのではなく、まったくなくなってしまったところにできてきた記憶が今のすべてだった。

 それぞれ違う次元で同じ人を相手にしながら、欠落した記憶や憎悪を含んだ感情に揺れ動かされて、生きていた。それをある程度掌握していた女性が由香であったが、彼女の予言は予言ではなく本当のことである。なぜなら、欠落したすべての記憶を知っているのだから、当たり前のことだった。

 高杉や祥子も、二人の記憶の中では多くな役割を示している。本人には気付いていないだけだ。浩司が、老人くらいの年齢になった時、ハッキリすることも出てくるだろう。

 そういう意味では浩司は老人の年齢まで生きていることはハッキリしている。その時には孤独な老人になっていることだろう。もし、麻衣の子供が生まれていれば、孫娘がいるかも知れない。だが、孫娘が浩司の視線を気にすることはないだろう。やはり、子供が生まれていれば浩司が子煩悩になったのは間違いないことだからである。

 麻衣とだけの人生を考えれば、これ以上の人生選択の幅は広がらない。ただ、可能性として存在するということは、里美を選んだ場合の可能性が残されている。その時こそ、浩司は高杉や、祥子と正対した人生を歩むことだろう。懐かしさは可能性がもたらしたものである。

 この物語は、もう一つの可能性を問題として提起しながら推移してきた。子供が生まれる生まれないで、人生が一変している。複数の女性を愛するということを悪いことだと最後まで思っていない浩司は、いくつの人生にある選択肢に気付かずに来たのだろう。麻衣が宿した子供の冥福を祈りながら、浩司の運命は封印しようと思う。


――この物語りに登場したすべての人に幸あれ――


 と思うのは、無理なことなのだろうか……。


                 ( 完 )

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彷徨う記憶 森本 晃次 @kakku

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