俊一郎の人生
森本 晃次
第1話
◇
一月も終盤に差し掛かった頃、もう正月気分などすっかり抜けきっている街は、ここ数年なかった暖かさに見舞われ、春さながらの陽気に、人の波が多く感じられた。
人が密集しているように感じたのには、訳がある。人の歩くスピードがそれほど速くないからだ。
急いで歩いていると、人は自然と人との距離も開けてしまう。一般道路と高速道路での車間距離の違いを考えれば分かることだろう。寒い時には、身体を温めようとして、自然と歩くスピードも速くなる。それだけ、人との距離を自然と取ってしまう。だが、最近の暖かさは、歩くスピードも鈍らせる。早く歩く必要がないのであれば、ゆっくり歩こうとするのが、人の常である。
誰かと一緒に歩いているのであれば、会話も弾むというものである。ザワザワとした雰囲気が人の多さを演出しているのだ。
――まるでクリスマス前のような賑わいだな――
師走というのは、どうしてあそこまで賑やかなのだろう。普段にも増してカップルが目につく。見たくないのに、勝手に見えてくるのは、あまり気分のいいものではない。
俊一郎は、ここ数年彼女がいなかった。今年三十歳になるのだが、就職してすぐくらいから、三年目の二十五歳くらいまでには、何人かの女性と付き合ったことがある。
付き合い始めはいいのだが、三か月を超えると、急に自分に中で冷めてしまうところがあるのに気付いてから、彼女ができなくなった。付き合い始めから最初の一か月くらいというのは、
――至福の刻を過ごしているんだ――
と思っていたが、次第に付き合っていることに何か疑問が浮かんでくるようになる。
その疑問というのは、毎回違っている。相手に対して感じる疑問の時もあるし、自分が考えていることに疑問を抱くこともある。女性と付き合いということ自体に対しての疑問も、あまり多くはないが、頭に浮かんでくることもある。
疑問が複数浮かんでくるということはない。なぜなら、疑問が浮かんできてから別れるまでのスピードが、あっという間だからだ。他の疑問を浮かべる余裕もないほどに、気が付けば別れていたというほどの早さであった。
「お前は今までに本当に女性を好きになったことがないから、そんなに簡単に別れられるんだ」
「そんなことはないと思うけどな。別れを感じるようになるまでは、本当に相手を愛しているとまで思っているんだぞ」
気心の知れた友達との会話は、お互いに遠慮がない。思ったことを気兼ねなく言い合えるので、却って話しやすい。言いたいことも言えるし、他の人は遠慮して言えないようなことも言ってくれるからだ。さすがにグサッと胸に突き刺さる気がするが、目からウロコが落ちた気分になることも少なくはなかった。
俊一郎は、気心知れた相手との会話では、自分が主役でないと気が済まないタイプだが、それ以外の人との会話を、自分から仕切る気はまったくなかった。仕切ろうとしても、相手から相手にされないのがオチだからである。
――俺はお山の大将なのかな――
と思ったが、それでいいのだ。気心知れていない人相手に会話をしても、それがどれほど有意義なものなのか、考えれば分かることである。仕事上での会話にしても、必要以上のことをいうと、相手にしてくれないのは、今までに分かっていることだった。
俊一郎は最近、一つ気になっていることがあった。誰か気心が知れた人と知り合う気がしていたからだ。それも男性ではない女性である。もちろん、信憑性があるわけではないが、そういう胸騒ぎがするのだ。
胸騒ぎが今までに当たったという記憶はさほどない。そのほとんどが、気のせいであり、胸騒ぎが、
――そのうちに当たったと思えば、その時から、信じることができるのかも知れないな――
と感じるのだった。
ただ、今までに感じた胸騒ぎは、一瞬で消えることもあれば、数日感じたままの時もある。そのほとんどは、胸騒ぎのレベルが上がるわけではなく、考えが堂々巡りを繰り返しているのではないかと感じた時、やっと消えるのだった。
だが、今回の胸騒ぎは次第に、大きくなってくるのを感じる。これだけが今までと違った感覚であり、俊一郎にとって、戸惑いとなって逆に心の中に残っているのではないかと危惧していたのだ。
俊一郎は、その日、仕事が休みだったので、朝から時間があった。休みの日にはなるべく趣味に勤しもうと考えていて、その日も朝早くから出かけるつもりだった。
朝早くと言っても、日の出の時間などというほどではない。普段仕事に出かける時間に、家を出ようと思っていただけである。
家を出る時間は同じでも、そこから急いでどこかに行こうとするわけではなく、まずは近くの喫茶店でモーニングを食べるのが、休みの日の日課だった。
俊一郎の仕事は土日が休みというわけではなく、日曜日だけは、普通に休みなのだが、もう一日は、平日のどこかに当て嵌められる。仕事の関係で、土曜日は自分にしかできない業務があるので、出勤しているのだ。
他の人から見れば、
「可哀そうに」
と見えるかも知れないが、俊一郎にとっては、それほど悲観しているわけではない。
――彼女がいて、デートするというのであれば、土曜の方がいいだろうが、普段休みを一人で過ごしている俺にとっては、平日に休みの方がありがたい――
と感じていた。
特に最近のように趣味ができると、余計にそう思うようになった。
趣味と言っても、それほど大層ものではないと俊一郎は思っている。スケッチブックを片手に、近場の公園などで、鉛筆を使ってのデッサンをするのが、趣味だった。
本当は油絵などできればもっといいのだろうが、最初にデッサンを始めようと思ったきっかけが、数年前に同じように平日の休みに家を出て、公園を散歩している時に見た一人の初老の男性だった。
定年退職している人にしては若く見えたので、まだ、仕事をしている人であろう。仕事をしながらできる趣味に対して、何かないかと漠然としてではいたが思っていたので、その人のことを遠くから見ていた。
きっと相手は気付いていないことだろう。それだけ集中しているのだろうが、その人の顔を見ていて、
――これだ――
と感じたのだ。
鉛筆でのデッサンを後ろを通りすぎるふりをして見ていたが、作品にイキイキしたものを感じた。その絵が上手なのか下手なのかは分からないが、イキイキしているのを見ただけで十分だった。
――俺にもできるかも知れない――
と思っていたところに、ちょうど、市のカルチャー教室のビラが駅に貼っているのを見て、通うことにした。
――こういう時、平日のお休みっていいよな――
曜日が三つあり、その中から選んで行けたのだ。
夜の講座ではあったが。仕事が普通に終わってからでは間に合わない。ちょうどよかったのだ。
受講料もさほど高くない。市が運営しているものだからである。さっそく講義を受けるようになったが、素人でも少しは描けるようになれるもので、同じ時期に入った人は、大体上達していた。
基礎さえ教われば、後は自由な発想と、自由な技法で描くことができる。それが趣味の醍醐味だと思っている俊一郎は、
――一人の方が、却って都合がいい――
と、今までの寂しさと退屈な休みが、一変したことを喜んでいた。
元々、芸術的なことは嫌いではなかったが、小学生から高校生の頃までは、まるで押しつけのようで、嫌だった。確かに芸術に触れるというのは、悪いことではないが、それが押しつけだと思ってしまうと、受験勉強と同じで、億劫になっても仕方がないだろう。
時に俊一郎は、飽きっぽい性格だった。ただ、それは持って生まれたものだとばっかり思っていたのだが、実際には、押しつけだと思ってしまったことが飽きっぽい性格に拍車を掛けていることに最初は気付いていなかった。確かに元々飽きっぽい性格だが、急に嫌いになったりはしない。芸術に関しては、大学に入学する頃までに、すっかり嫌いになってしまっていたのは、芸術と受験勉強とが頭の中でシンクロしてしまったからなのかも知れない。
それでも、見つけた趣味が「デッサン」だったのは、ちょうどよかったのかも知れない。それほど大げさなものではなく、お金も掛からない。場所を独占しないとできないわけでもなく、スケッチブックと、鉛筆だけあれば、それでいいのだ。
さらに、飽きっぽい性格だという自覚があるので、休みのたびに、毎回するわけではなく、一か月に一度くらいは自分で、「休筆日」としていた。時間も、毎日二、三時間程度にして、三十分に一度は休みを入れるようにしていた。自分のペースで、意気込みすぎないように自分でも気を付けているつもりでいたのだ。
デッサンを始めてから、俊一郎は毎日が少しずつ変わって行った。一気に変わったわけではないところが、俊一郎らしい。最初から一気に変わってしまったら、何が変わったのか、意識できないからである。意識できないと、前の自分との比較ができず、いい方に変わったという意識を持つことができないからだ。
少しずついろいろな小物も揃えていった。そのことも、一気に変わらなかったことが幸いしていると俊一郎は考えていた。
元々、形から入る方ではない。最初に形から入ってしまうのを却って嫌うくらいだ。大して上達しているわけでもないくせに、モノだけ先に揃えてしまうと、まわりからいかにも「画家」のように見られてしまう。
「画家さんですか?」
と、聞かれて、
「いいえ、そんな、ただの趣味ですよ」
という言い訳をするのが億劫なのだ。
言い訳が嫌だというわけではない。自分の目指したいものに対して、自分よりも先に他の人に見られているようで、それが嫌なのだ。
他人が見れば照れ笑いに見えるかも知れないが、相手が間違った思い込みをすることに、慌てて否定しなければいけない自分に自嘲しているのである。
そう思っている俊一郎が形から入るわけがない。最初は、デッサンが趣味だということをまわりに知られないようにしていたくらいである。
しかし、まわりに対して黙っておくことのできない性格でもある俊一郎は、最近では自分の趣味がデッサンであることくらいはまわりの人に話している。
「ほう、なかなか高尚な趣味だね」
「いやいや、遊びの延長ですよ」
と、言いながらも、我ながらでもないと思っているのは、毎日に充実感を与えられたような気がしてきたからだ。
デッサンを始めた頃に比べて、さすがに自分でも上達したと思っている。
他人にも見せたこともあるが、
「これはなかなかなものじゃないか」
と言われて、嬉しかったが、その気にはなれなかった。自分が相手の立場であれば、
――自分にできないことをできる人はすごい――
という意思が基本的に備わっているからだろう。この言葉をお世辞と取ってしまえば、相手に悪い。ひょっとしたら見たくもないものを見せられて、感想を言わないといけない立場になれば、きっと迷惑に思うに違いないからだ。
それでも、最近は少しずつ自分が変わってきたことを感じていた。一番大きく変わったのは、気持ちに余裕ができたことであろうか。絵を描いている時は一生懸命に描いているのだが、それ以外の時、充実感が長続きするようになったのを感じた。それは絵を描いた後の充実感だけではなく、普段の生活についても同じだ。特に仕事でも、業務時間が終わった後の充実感が、今までとは違っていたのだ。
――仕事が終わってから、何をしようか――
などと考えたこともなかった。
まっすぐ家に帰って、ハッキリ見ているわけではないテレビを付けて、ブラウン管から流れてくる映像を漠然と感じながら、寝る前までの時間を何事もなく過ごす。それが、趣味を持つ前のことであった。
絵を描くようになってから、サブの趣味として、読書をするようになった。絵を描くのは自分から何かを作り上げるという能動的な趣味だが、読書のように作られたものを読むという受動的な趣味も持ち合わせている。
絵を描くまでは、本を読むなど考えられなかった。短気なところがある俊一郎には、ゆっくり段階を踏むようにして読み込んでいく本は、苛立ちを感じさせるだけだったからだ。セリフだけを斜め読みして、まったく内容も分からずに、読み進んでしまって、
――なんだこの本は――
と、自分のことを棚に上げて、勝手に、
――面白くない本――
として烙印を押してしまっていた。
「それなら本など読まなければいいのに」
と人に言われるであろうことを想像していたが、まさにその通りである。
俊一郎にとって、気持ちの余裕などまったくなかった頃のことである。
ただ、それでも本を読もうという意思だけはなぜかあった。イライラしてくるのが分かっているくせに、
――読んでいるうちに、何かが変わるかも知れない――
という思いだった。
もちろん、他力本願なので、変わったとしても、
――自分が変えた――
という意識があるわけではないので、感動に値するところまではいかないのだろうが、気持ちに余裕を持つことができれば、描いている絵も、もっと上達するに違いないと思うのだった。
その根拠は、
――違った視点から、物事を見ることができるかも知れない――
と感じるからであって、見えている視点が今までと角度が違っていれば、それだけで、
――自分が変わった――
と言えるのではないかと感じるのだった。
ここ一年くらい前から、休みの日に通っている喫茶店では常連となっていた。その店が気に入ったのは、壁に数枚絵が飾られているが、そのうちの半分くらいは、油絵ではなく、いつも俊一郎が描いているデッサンであった。
「マスター、この絵は?」
「これは、以前ここの常連だった人がいて、その人が趣味で描いている絵だったんですよ」
まるで、俊一郎は自分のことを言われているような気がしたくらいだった。
「ほう、そんな人がいるんですね」
と、最初、まるで他人事のように聞いてみた。
「ええ、その人は女子大生だったんですが、そういえば、最近はほとんど来なくなりましたね。学校の方が忙しいのかも知れませんね」
「趣味で描いているということでしたが、専攻は違っているのかな?」
「そのようですよ。趣味と実益を兼ねている人もいるでしょうが、彼女自身、趣味は趣味で楽しみたいって言ってたのを覚えています」
「それは、マスターが最初に聞いたんですか?」
「ええ、私が聞いたことに、彼女が答えてくれたんです。私も、趣味は趣味で楽しみたいと思っている方ですからね」
「なるほど、実は私も趣味は趣味だと思っているようなので、よく分かります。ひょっとすると、このお店は、趣味は趣味で楽しみたいと思っている人が集まるところかも知れませんよ」
「そうかも知れませんね。でも、それなら、私はちょっと嬉しい気もします。そのうちに皆自分の気持ちを話すことがあれば、そのことで話も盛り上がるし、皆気心が知れてくると思いますからね」
マスターの言うとおりである。
常連と呼ばれる人たちは、何か一つでも共通した考え方を持っているが、理想だと俊一郎は考えていた。特に、デッサンを描いているという女性には興味があり、そのうちに会えたら嬉しいという気持ちになっていた。
いや、そのうちに会えたら嬉しいというよりも、会える可能性はかなり高いような気がする。会うことが運命づけられているという気持ちに近いと言ってもいいだろう。
最初は、黙っていた趣味も、しばらくして話をした。
「それはすごいですね。一度見せてください」
とマスターに言われて、絵を持ってくると、
「なかなかいい絵だと思いますよ、さっそく飾らせてもらおう」
と言って、彼女の絵はそのままに、油絵の数を減らして、そこに、俊一郎の絵を飾ってもらえることになった。
「君の絵は、近くで見るのと、遠くで見るのとでは趣きが違っているのを感じるんですよ。繊細な部分と、全体のバランスを見る時に見える絵の奥深さが、微妙な距離で別れているからね」
というのが、マスターの評価だった。
それは、俊一郎にとって最高の褒め言葉に感じられた。
――少なくとも、マスターは絵に対して、造詣が深い。結構いい目を持っているのかも知れないな――
と感じていたので、漠然といい悪いだけではなく、批評をしてくれたことが嬉しかったのだ。
「私の店は、元々アンティークな感じにしたいと思っていたこともあって、モノクロームな絵は、落ち着いた雰囲気を醸し出してくれるので、ありがたいんですよ。やっぱり、ここは、同じような考えを持った人が集まるところなのかも知れませんね」
俊一郎も同感だった。
ただ、どうしてもモノクロームの絵には暖かさを感じることができない。暖かさを補ってくれるのは、マスターの淹れてくれたコーヒーである。
モノクロームな絵を見ていると、部屋に充満したコーヒーの香ばしい香りが漂ってきて、「遠くから見る絵のバランスが、深みを帯びて見えるようになる」
と言ったマスターの言葉を思い出し、思わず頷いてしまうのだった。
「マスターのコーヒーは本当にうまい」
さらに、トーストや、タマゴの焼ける香ばしい香りが充満してくると、朝の時間が今までのここを知る前の時間とまったく違って充実したものに感じられてくることが嬉しかったのだ。
「そう言ってもらえると嬉しいです。ここを始めた頃から結構常連さんがついてくれたのは嬉しいです。あなたも、結構最初の頃からの常連さんですからね」
この店ができて、半年ほどで俊一郎が初めてここに来たのだという。すると、数枚飾られている女子大生の絵は、本当に短い間にここに飾られるようになったということだろうか。ますます、どんな女の子なのか、気になるところであった。
俊一郎は絵を描くことをただの趣味のように最初こそ思っていたが、ここで女子大生の絵を見たりしているうちに、
――まるで生活の一部になっているんだ――
と、思うようになり、仕事よりも自分の中ではウエイトが高くなっているのを感じていた。もし、絵画を邪魔するような人が現れたら、殺してやりたいとまで思うのではないかと、この頃から思うようになっていた。その思いは薄くなるどころか、次第に大きくなってきている。
――殺意を抱くなどということは、他人事だと思っていたのに――
と、実感は湧かないまでも、漠然とした気持ち悪さを心に抱くようになっていた。自分の中で絶えず意識していないわけにはいかなくなっていたのだ……。
同じ店に同じ日に複数回来るというのは、俊一郎には珍しいことではない。モーニングを食べて、一度街に行き、本屋やショッピング街をグルリと回って、昼の暖かさを堪能していたのだ。
俊一郎は、その日の暖かさもあって、喫茶店ではゆっくりとしていた。日が暮れるくらいにやってきて、いつも二時間くらいはいるが、その日は、そろそろ九時近くになろうとしていた。この店は九時半まで営業している店なので、ゆっくりできる。そこがまた常連が多い理由なのかも知れないが、さすがに九時前くらいになってくると、常連が数人いるだけのアットホームな店内になっていた。
その日は、前から読んでいた本がクライマックスに差し掛かる頃だったので、最後までは読もうと最初から心に決めていたこともあって、九時近くまでになったのだ。集中して読みこんでいたということもあって、まわりがまったく見えていない。一度店内を見渡してから、一時間以上は集中して読んでいたようだ。
ただ、本人の意識としては、十分ちょっとくらいの感覚だった。それほど時間の感覚と実際とに差があったのだ。
店を出ようと扉に手を掛け、開けようとすると、なかなか開かない。
「あれ?」
少し力を入れると、扉がやっと開いた。その瞬間、外から押し返されるような風を感じ、咄嗟に扉に掛かった手に力が入る。
――人間の反発力とでもいうべきものなのかな?
と、感じたが、風の勢いの強さにビックリしてしまった自分が、少し照れ臭くもあったのだ。
どうやら表はかなり風が強いようである。それは数時間前に感じた暖かさとはまったく違う強い力で、体感気温の低さを想像すると、何も考えずに表に出てしまったことを後悔したほどだった。それは、家を出てくる時、テレビをつけていたのに、その時にやっていた天気予報をもう少しまともに見ていれば分かったことではないかと思ったことだ。
ここ数日、極端な寒さはなかったが、久しぶりに暖かかった今日の昼間、何も考えずに信じてしまった自分がバカだったのだろう。
あまり天気予報を信用しない俊一郎だったが、最近の天気予報は、以前に比べれば信用できると思っていただけに、スルーしてしまったことが口惜しい。
それでも、最近の寒さのせいか、服装の上での寒さ対策はしてあったことだけは、幸いだった。ただ単に、服装を変えるのが億劫だったというだけなのだが、それでも不幸中の幸いが一つでもあったことは、救いに値する。強い風を、どこまで防げるかは分からないが、
――慣れてくれば、何とかなるものさ――
という考えを俊一郎は持っているので、さほど心配をしていないのも事実だった。
――店を出てから少し早く歩けば、そのうちに家に帰りつくさ――
と思い、後は、意を決して表に飛び出すだけだった。
一度風に押されて中に入ってしまったが、今度飛び出す時は覚悟の上である。一気に飛び出してしまえば、後は慣れるのを待つだけだった。
そのまま一気に表に飛び出した俊一郎は、扉で感じた反発力ほどの勢いを、表の風には感じなかった。
――これなら、何とかなるかな?
と思い、真っ暗な風の強い夜の街に飛び出した。
そこは、寒さと暗さの中に点々と灯っている住宅の明かりが感じられる。まるで宇宙空間を思わせるところだった。
――空気のないところに風も何もないものだ――
と宇宙空間を思い浮かべた自分に苦笑した俊一郎だったが、点々と灯っている明かりに暖かさを求めたい気分になりながら風を身体で受け止めている自分が、やはり早歩きをしているのを感じ、後ろを一旦振り返ると、さっきまでいた喫茶店が、点々と灯る明かりの中に消えて行ったことを感じたのだった……。
◇
俊一郎がデッサンするようになってしばらく経つが、趣味の世界でやっている時期が長かった。しかし、しばらくすると、
――生活の一部――
となり、趣味から一歩逸脱した感覚になってからは、まだそれほどしか経っていない。
それなのに、
――趣味でやっていた頃が懐かしい――
と、かなり遠い記憶のように感じるようになったのは、時間の経過というよりも、意識の違いが大きかったからに違いない。
趣味でやっている頃は、毎日が楽しかった。平凡にしか過ごしていなかった毎日に、新鮮な風が一塵吹き込んできたのだ。
新鮮な風は、毎日をあっという間に感じさせ、そのくせ、一週間などのまとまった単位になると、かなり時間が掛かったように感じさせた。
これが生活の一部に感じるようになると、逆に毎日が結構時間が掛かったように感じるわりに、まとまった時間の感覚はあっという間に過ぎてしまったようなのだ。
まとまった時間があっという間に過ぎるということは、それだけ毎日が漠然としているのかも知れないと感じた。
確かに生活の一部としてデッサンが入ってきたことは、充実はしているのだろうが、一部になってしまうと、自分の意識の外で、
――マンネリ化した毎日――
という感覚になっているのだろう。
デッサンは、どこかに出かけないとできないわけではない。やろうと思えば、写真を撮って来て、それをデッサンすることもある。本を見ることもできる。やろうと思えば、鉛筆とスケッチブックさえあれば、いつでもどこでもできる手軽な趣味なのだ。そう思ってずっとやってきたし、今も変わっていない。
趣味を持っていなかった頃に比べれば、どれほど充実しているか分からないが、いつの間にか生活の一部になっていることで、マンネリ化しないように、自分の毎日の生活を精神的に圧迫しているということに気付いていなかったのだ。
しかし、趣味だからといって、ただ、遊び心だけでやっているわけではない。スポーツなどでは大会に優勝したり、芸術的なことであれば、コンクールに入選するなど、形として夢を達成させられることもある。
俊一郎は、今のところデッサンでコンクールに応募するという気があるわけではないが、機会があれば、発表を目標に目指すものが見つけたいと思っているのも事実であった。
デッサンを毎日続けていれば、家にいる時間が漠然としたものになっていくのも事実だった。まず部屋に帰って、最初はシャワーを浴びたり、食事をして、落ち着いてからデッサンの時間を作っていたが、今は家に帰ればとりあえずデッサンに取り掛かる。それが終わってから汗を流し、食事を摂る。食事を摂りながらテレビを見るのも日課になっていて、テレビを見ているか見ていないか漠然としてしまったのは、この時からである。
要するに、
――やることを先にしておかないと、気が済まない――
ということであった。
この性格は、学生時代の頃からあったわけではない。最近身についたものであって、いいことなのか悪いことなのかよく分からない中で、充実感を求めるには一番いいと思って続けているのだ。
デッサンをしていると、他のことは目にも耳にも入らなくなる。気が付けば時間が過ぎている。しかし、デッサンをしている時、時間だけは気にしていた。
毎日家でデッサンする時間を決めている。一時間をめどにいつもしているのだが、一時間は、充実感を得るためにちょうどいい時間だった。
デッサンが終わると、少しだけ放心状態に陥る。シャワーを浴びていても、食事をしていても、あまり何も考えていないことが多い。実際には考えているのかも知れないが、
――気が付けば充実感に包まれている――
という感覚が至福の刻なのだ。
デッサンの時間と、その後の時間、同じ部屋で過ごしているのに、まるで違う部屋にいるようだ。いや、あるいは、同じ部屋にはいるのだが、そこにいる人は本当に同じ人間なのかと逆に考えてしまうほどとなっている。
今までのように先に何でも済ませてからデッサンをしている時期が懐かしく感じられるようになった。つい最近までしていたような気がする時もあるし、本当に懐かしいと思う時もある。デッサンに使う時間は同じなのに、その時の気分によって、使った時間が違って感じられるのは、デッサンが終わった後にどれほどの疲れが残ってしまうかということに掛かっているのかも知れない。
デッサンも毎日していたというわけではない。日課になってしまうと、生活の一部というだけではない、何か追いつめられる気分になるのが分かっていたからだろう。実際に今まで追い詰められたという気になったことまではないが、追いつめられた気分になってみたい気もする。その時に、本当に辛いと思うのであれば、デッサンを趣味の域から超えるようなことはないだろう。
一度くらいは、コンテストがあれば出してみてもいいような気がする。この間まではデッサンしていることを人に言うのも恥かしいくらいだったのが、今は公表しているくらいだ。
その公表が、果たして吉と出るか凶と出るかは、もう少し経ってからのお話であるが、少なくとも、人に隠すほどの恥かしさは、今ではなくなっていたのだ。
趣味として楽しむというのが、どのあたりまでをいうのか、俊一郎には分からなかった。一人でただ楽しむ分には趣味の世界なのだろうが、生活の中に食い込んでくると、さすがに難しくなってくる。
趣味をどこまでの範囲で捉えているかということである。普段の余った時間を利用して、リフレッシュのつもりでやっているのか、それとも、趣味をしないと、ストレスが溜まってしまって、まるで中毒のようになってしまうかなど、同じ趣味でも人それぞれではないだろうか。
中毒のようになってしまっては、すでに趣味ではないだろう。いわゆるギャンブル依存症のような場合は、もはや趣味とは言えない。
俊一郎は、ギャンブルをするわけではないし、スポーツをするわけでもない。何かに夢中になって、勝ち負けを争ったり、上達が実際に見えないと、ストレスとして溜まってしまったりすることもない。本当に普通の趣味と言っていいだろう。
生活の一部になったからといって、二、三日しなかったとしても、それはストレスになるほどではない。たとえば仕事が忙しく、仕方なくできない時などもあるが、別に苛立つこともなかった。
逆に落ち着いてから趣味をできる時というのは、却ってイキイキとしているのかも知れない。楽しいと思っていると、精神的に余裕が生まれてくる。まるで、ハンドルの遊びの部分のように、融通が利いてくるのだ。
――融通が利かないと、どうなってしまうというのだろう?
俊一郎は、自分に対して、そこまで考えたことはなかった。
元々、融通ということ自体、あまり考えたことはない。普通に生活していれば、融通など、自然と利いてくるように思えていたからなのだろう。
学校でも、職場でも、まわりからあまり流されない人というのは、一人はいるものだ。
「人畜無害な男さ」
と、冗談めかして言っていたが、まさしくその通りだ。
そういう人は今まで、それほど人に邪魔される人生を歩んだことはないだろう。それが一種の役得であり、その人の個性なのだろう。
だが、逆にそんな人を恨めしく思う人もいたりするものだ。その人の存在に気付いていない間はいいが、何かに引っかかるようにして、偶然にも気付いてしまった時、その人の本性が出るのかも知れない。
人畜無害と言いながらも、今までに意識したことがなかったので、問題なかったが、精神的な傾きによってどちらに転ぶか、俊一郎自身、知る由もなかった。人畜無害というメッキが剥がされるのか、それとも、メッキなどではなく、本当の金箔なのか、興味深いところであった。
俊一郎は、会社でもあまり人と話すことはない。
暗いというわけではないが、必要以上のことを話さない人として、まわりは認識しているようだし、俊一郎としても、まわりの人がしているような話は、どうも苦手だと思っている。
仕事の話をしないわけにはいかないので、仕事の話はしているが、そこから派生した話が生まれるわけではない。したがって、飲み会などに誘われることもなく、俊一郎の方でも、
――飲み会で、どんな話をしていいか分からないのに呼ばれたりしても困る。呼ばれなくてよかった――
と思うようになっていた。
そんな俊一郎が趣味を持ったのだから、それは、ただのリフレッシュだけだということはないだろう。さすがに中毒とまではいかないが、生活の一部だと言ってもいいようになったのだ。
しかし、俊一郎はそれを認めたくないという気持ちもあった。
なぜなら、趣味と実益を兼ねたくはないと思っているからだ。
仕事は嫌いではないが、仕事だけをこのまま続けていく気にはならない。
今は三十歳になったが、二十五歳くらいまでは、仕事が楽しくてたまらなかった。
二十五歳と言えば、俊一郎に彼女がいた頃だった。あの頃は、毎日が充実していて、仕事をすればするほど、自分の成果になって行ったような気がしたからだ。
実際にまわりの人から認められているような口調で話をしてくれた。
「君たちが第一線で頑張ってくれるから、仕事もはかどっているんだ」
と言われて、有頂天になったものだ。
上司から、面と向かって言われるのである。有頂天になって当たり前なのだが、
「君たち」
という言葉に、何の反応もなかったことが口惜しい。今なら、すぐに疑問を抱くはずなのに、それをスル―してしまうということは、よほど、社会人として、まだまだ甘かったのか、それとも、新鮮な気持ちだったのか分からない。本当は後者だと思いたいのだが、そう思えるほど、苛立ちはすぐに忘れられるものではなかった。
俊一郎は、学生時代から、おだてに弱い性格だった。
本当は短所なのかも知れない。だが、おだてに弱くても、勉強も仕事もきちんとこなしていたので、おだてに弱いことを短所だとは思わなかった。
「長所と短所は紙一重」
と言われるが、まさしくその通りだ。
俊一郎にとっての長所は、考えてみれば、短所の裏返しだと思える。裏返しが、そのまま紙一重に繋がるという発想は簡単に生まれることではないが、背中合わせだと思うと、理解できないこともない。
――見えないから、遠くに感じるんだ――
鏡でもあれば別だが、自分の背中を自分で見ることはできない。その思い込みが紙一重という発想に結びつけてはくれない。しかし、人の言う、
「長所と短所は紙一重」
という言葉を頭から否定するのではなく、自分なりに考えてみると、見えてくるものがあるはずだ。それが裏返しを背中合わせだという発想に転換することで解決できる簡単なことだという気持ちになればいいということだった。
おだてに弱いという性格をいいイメージで捉えていて問題なかった学生時代とは違い。社会人になると、おだてに弱いだけでは必ずどこかで壁にぶつかるであろうことを、意識してなかったのは無理もないことだが、実際に壁にぶつかった時に、どう考えるかが問題であった。
――何事に対しても、壁にぶつかって悩みを抱えているのは、何も自分だけではないのだ――
という気持ちになることができれば、気も楽になる。
悩みができれば、悩みに正面からぶつかっていくのも大切なことかも知れないが、壁にぶつかった時、いかにショックを最小限に食い止められるかという考えも必要である。それがまわりを見るということであったり、まわりから第三者の気持ちになって自分を見つめ直すというのも、一つの手ではないだろうか。
それが二十五歳という年齢を境に、
――人の言葉を全面的に鵜呑みにしてはいけない――
と思うようになったのだが、おだてに弱かった人間が、急に人の言葉を疑うというのは難しいものだ。
その頃から、仕事や上司に疑問を抱くようになった。
その原因が何だったかは分からないが、少なくとも、二十五歳の時に、いろいろな心境の変化があったように思えてならない。
付き合っていた彼女と別れることになったのも、その頃だった。
それまでは、一緒にいることに何ら疑問を抱いていなかった。
付き合っていた彼女は、一言で言えば、従順な女性だった。普段から口数が少なく、集団の中にいるタイプにはとても見えない。
いつも一人でいるのが似合っているという表現が適切かどうか分からないが、それまで女性とあまり深く付き合ったことのなかった俊一郎が、初めて付き合っていると言える女性だった。
学生時代にも彼女はいたが、交際期間は短かった。
いつも相手から別れを切り出され、
「どうして?」
と言うと、
「分からないの? それじゃあ、しょうがないわね」
と、俊一郎が別れに対して疑問を訴えた瞬間、相手は別れの決心は間違っていなかったと言わんばかりに、自分の中だけで納得し、さっぱりした表情になって、
「それじゃあ」
と言って、去って行った。
別れを一方的に切り出されて、それが分からないからと言って、納得されてしまっては、俊一郎にはどうすることもできない。理不尽な思いがストレスとして鬱積し、トラウマとなって残ってしまっても、仕方のないことだった。
大学を卒業し、就職してからは、
――彼女なんていらない――
と、仕事に集中しようと思っていた。
だが、就職して、仕事に少し慣れてくると、今度は先輩社員から、
「仕事にもだいぶ慣れてきたようだから、そろそろ彼女を作ってもいいんじゃないか? 彼女、いないんだろう?」
「ええ、でも、まだ僕には仕事一筋でいいですよ」
先輩の話は興味を引くものだったが、学生時代の経験からすると、彼女を作ることに抵抗を感じないわけにはいかない。
「そんなこと言わないで、彼女を作ると、人生が違って見えるぞ」
――人生が違って見える?
この言葉に反応した。
先輩は、あまり意識せずに言った言葉であろうが、俊一郎の中で、目からウロコが落ちたような感覚だった。
――確かに大学時代も人生が変わって見えていたのかも知れないな――
彼女がほしいと思う気持ちの中に、
――今までと違う人生を見てみたい――
という思いが含まれているのかも知れない。
だが、彼女と一緒にいると、そんな気持ちを感じたという気がしなかった。一緒にいることがまずは一番で、それはそれでいいのだが、そこで満足してしまっていたのではないだろうか。
要するに、進歩がなかったのである。
進歩がないということは、考えているつもりになっているだけで、何も考えていないということだ。
俊一郎は、自分の長所の一つとして、
――何も考えていないつもりでも、結構考えていたりすることがあるからな――
と、いうところがあったからだ。
それが進歩を呼ぶというところまでは意識はないが、見えていなかったものが見えてくるという感覚に繋がるということは、漠然としてだが、分かっていたような気がする。
先輩が話していた、
――人生が違って見える――
という言葉の裏には、
――今まで見えていなかったものが見えてくる――
ということが含まれていたに違いない。
それが進歩であるとすれば、学生時代の彼女たちから、
「分からないの? それじゃあ、しょうがないわね」
と言われたことが納得いくような気がした。
彼女たちには、俊一郎に対して、今まで見えていなかったものを見せてくれるような人生を期待していたのかも知れない。それなのに、何ら進歩がないのであれば、彼女たちからすれば、後退しているのではないかと思われても仕方がないだろう。
何しろ時間は前にしか動かないのだ。後ろに向かっているとすれば、それは、進歩がないということを派生的に考えているからであろう。
そういえば、デートしている時、彼女が急に喋らなくなったことがあった。そんな時、俊一郎は、何をどう話していいのか分からず、結局、何も言ってあげられなかった。きっと俊一郎に対して、何か試す気持ちがあったのだろう。
テストを受けているのに、解答を出せないのだから、白紙答案のようなものだ。合格以前の問題である。
学生時代を回想しながら、先輩の話を聞いていると、俊一郎は、
――彼女がほしい――
という感覚を思い出した。
胸のときめきは、学生時代と変わっていない。ただ、付き合い始めてからの自分がいかに今までと同じ轍を繰り返さないかということを、絶えず意識していないといけないだろう。
「俺が紹介してやるから、心配いらないぞ」
と、先輩が中に入って紹介してくれた。
実際には、先輩には彼女がいて、彼女の友達に彼氏募集の人がいて、ちょうど俊一郎に白羽の矢が立ったというわけだ。
きっかけなどはどうでもいい。まずは知り合うことから始めればいいのだ。一歩ずつ歩んでいけば仲良くなるまでは今までと一緒でも問題はない。
「お前は、付き合い始めるまではいいんだが、なかなか続かないからな」
というのが、学生時代に俊一郎の友達が、彼を見て感じたことのようだった。
最初は、グループ交際のような感じだった。
「まるで学生時代に戻ったようで、楽しいわ」
と、彼女がはしゃいで見せた。
俊一郎は、そんな彼女を見て、思わず笑みが毀れたのを感じた。
――そうだ。この感覚だ――
学生時代に付き合った女性とうまくいっていた頃の感覚を思い出したような気がした。相手を見ていて、微笑ましく感じる。それが、俊一郎が自分の好みとして選ぶ女性の条件だと思っていた。
容姿は別にして、性格的にはそれだけで十分だった。
――こんな女性が、俺のそばにずっといてくれたら――
という思いを抱かせるのだ。
だが、それだけでは、同じことを繰り返してしまう。
自分から相手に委ねる気持ちに陥ってしまう。
――俺がしっかりしなければ――
と思った時、何が大切か、分かった気がした。
――そうだ。自信が大切なのだ――
学生時代には、自信を持てるような材料が自分の中にはなかった。本当はあったのかも知れないが、
――確証を持てない自分など、ないに等しい――
と思っていたこともあって、自信がないまま付き合うことで、どうしても、相手への依存心のようなものが芽生えたのかも知れない。
そんな気持ちを女性は敏感に感じるのだろう。俊一郎には気が付かないだけで、次第に距離が生まれてくるのも当たり前というものだ。
だが、今は就職して仕事もしている。
しかも先輩からも褒められ、自他ともに自信を持ってもいいと思えるところに来ているのだ。
――仕事が自信に繋がるなんて――
仕事に対して、さらに楽しさを植え付けられた気がした。少々のことは我慢もできるだろうし、充実感がやりがいを生むだけではなく、やりがいが充実感を生むという考えも俊一郎には生まれた。
――どの方向から見ても、一度持ってしまった自信を妨げるものはない――
そう思うと、彼女との恋愛にも自信以外の何も生まれてこないことを感じた。
彼女は、そんな俊一郎に対して、委ねる気持ちを持ってくれていたようだ。
――やっとトラウマから抜け出せたような気がする――
そう思うと、今までの人生が何だったのかと思わずにいられない。
その時が、人生の中で一番充実していた時期だった。
――充実している時期が来るのを、最初から分かっていたような気がする――
そして、それがどれほどのモノなのかということも、想像できていたように思えた。今までの想像の域から考えれば、一気に膨らんだ発想に違いなかった。
社会人になってからの仕事が、自分への自信を復活させることになろうとは、確かに思っていなかったはずなのに、前に考えたことがあるような気分に陥っていた。
――まるでデジャブのようではないか――
俊一郎は、以前に読んだ本に書いてあったデジャブという言葉を思い出していたのだ……。
◇
デジャブというのは、
――今まで行ったことも、見たこともないはずのところなのに、見た瞬間に、以前から知っているという思いに駆られる――
ということだ。
そんなことをいろいろ考えながら歩いていると、すでに家の近くまで来ていることに気が付いた。
すぐに家に帰ってもよかったのだが、近くにある本屋に寄ってみようと思った。その日は、朝からのんびりしていたので、普段ほどの成果を何か挙げたわけではない。せめて本屋で何かいいものを探してみようと思ったのだ。
本屋には時々立ち寄る。デッサンに必要な知識や、人の描いたものを見て参考にすることがあったからだ。ただ、大きな本屋ではないので、種類は少ない。デッサンの本を探しにきたつもりで、結局買っていくのは週刊誌だったりすることも少なくない。それでも気持ちの中では、
――今日はどんな本があるだろう?
と興味を持って本屋に赴く。週刊誌であっても、見方によってはデッサンに役立つところもあったりする。デッサン関係の本以外でも、デッサンに役立つという観点から見ることができるようになったことを、俊一郎は、
――自分の成長なのかも知れない――
と思うようになったのだ。
本屋の中は暖かく、表の寒さがウソのようだった。
その日は、デッサンの本で、気に入ったものがあった。
気に入った本があったことで、余計に暖かさが身に沁みるような感じがして、少し他の本も見てみようという余裕もあった。
立ち読みなどあまりすることがなかったが、ゆっくりと読んでみると、他にも読みたい本がいろいろあることに気が付いた。
――今度、ゆっくりと見てみるか――
と、いつもよりも時間が遅いことで、あまり長居はできないと思い、目的の本を買って店を後にしたが、それでも思っていたよりも、本屋に長くいたようで、すでに午後十一時近くになっていた。
本屋は午後十一時まで開いている店なのでさすがに客は少なかった。ここから家までは徒歩で十分も掛からない。それでも風の強さはさっきよりも増しているようで、特に暖かいところから出てきただけに、余計に寒さが身に沁みた。
寒さは寂しさをも伴っているようだ。住宅街を通り抜けていくのだが、いつもよりも家から洩れてくる明かりがいつもよりも少ない。しかも、一軒一軒の明かりも普段に比べて暗く感じることで、不気味さすら感じさせた。足元から伸びる影もボンヤリとしていて、足元を見る気にはとてもなれなかった。
本屋を出てから最初に曲がる角の向こうに、誰かがいると感じたのは、角にある電柱に、影のようなものが見えたからだった。
――足元を気にしていたわけでもないのに――
それは、虫の知らせのようなものがあったからなのかも知れない。今までにも意識しないつもりでいたものから、何かに気が付くことがしばしばあり、それを、
――虫の知らせとは、こういうことか――
と、思ったこともあった。
その頃は虫の知らせというのは、神秘的なものだと思っていたので、自分に何か不思議な力でも備わっているのかとも思ったが、しばしばあるのに、何もご利益のようなものも、災いが降りかかることもないのを考えれば、他の人に比べて聡い性格なのか、それとも、ただの偶然なのかのどちらかに違いない。
ゆっくり歩いていると、自分の歩幅に同調するかのように。影が動いた。
――こちらの様子が分かるのか?
と思ったが、それこそただの偶然のようだ。俊一郎が止まっている間、相手が少し動いたのだ。それを見ると、ホッと胸を撫で下ろしたのだった。
本屋から家までの道を、夜に歩くことは珍しいことではないが、ここまで遅くなったのは久しぶりのことだった。
――一年は経っているかも知れないな――
懐かしいと思う反面、まるで昨日のことのように思い出されるのはなぜだろう? 目の前に見える影を、以前にも感じていたのかも知れないと思った。
角に差し掛かると、そこに一人の女性が膝を抱えるように座り込んでいた。寒い中、背中を丸め、丸めた背中をこちらに向けたまま、震えているのが分かる。
背中を丸めているその姿はまるでアルマジロのようで、可愛い小動物のように見えたが、アルマジロだと思って下手に触ろうとすると、棘のあるアルマジロだったりするかも知れず、気を付けなければいけない。
可愛いものであったり、綺麗なものには、棘がある可能性もあるので気を付けなければいけない。
そのことは、俊一郎も分かっているつもりだったので、背中を向けて震えている人が女性だと思った時、すぐには声が掛けられなかった。何をどうしていいのか分からないというのも本音の一つでもあったのだ。
彼女は、いつからそこにいるのか分からないが、震えを伴って身体を丸めている視線をずっと取っていたのだとすれば、全身の感覚がマヒしてしまっていると思っていいかも知れない。その証拠に後ろに俊一郎が立っていることも分かっていないようだ。じっと見つめていても、一向に後ろを振り向く素振りを見せないからだ。
どれくらい時間が経ったのだろう? 俊一郎も彼女を見ていると身体が固まってしまったかのようだった。その時間はあっという間だったように思うのは、後になってからのことだった。
後になってから、
――夢だったのかも知れない――
と感じることになるのではないかと、この時すでに感じていたのは、身体が固まった瞬間を感じていたからだ。
――このままではいけない。俺まで凍えてしまうではないか――
とりあえず、そのまま無視していくわけにはいかない。
「大丈夫ですか?」
さすがに身体が固まってしまっているせいか、彼女はすぐには振り向くことができないようだった。何とかこちらを見たと思ったら、その表情には不安が表れていた。だが、すぐに安心したような表情になり、笑顔になった。
笑顔にはなったが、唇が真っ青で、身体にも精気が感じられず、痛々しさだけを感じるしかなかったのだ。
「ありがとうございます。少し体調が悪いみたいで、ここで休んでいたら、寒さで動けなくなってしまっていました」
俊一郎は、コートを脱いで、彼女の身体にかぶせてあげた。そして後ろから抱きかかえるように立ち上がらせると、
「うちが近いので、寄って行ってください。誰か心配している人がいるのであれば、そこから電話すればいい」
そう言って、まずは彼女の身体を温めることを先決に考えたのだ。
彼女の背中は曲がったままだった。凍り付いている身体をむやみに伸ばそうとすると、壊れてしまいそうで、何とか背筋が曲がったままでもいいから、連れて歩くことを考えていた。
背筋は曲がっていても歩くのには問題がないようで、まるでムカデ競争をしているように、お互いに足がもつれないように気を付けながら、俊一郎は自分の部屋まで、何とか彼女を連れていった。
扉を開けると、少し冷気が流れてきたが、すぐに明かりをつけて、暖房を入れると、思ったよりも早く、部屋は暖かくなった。
彼女をソファーに横にならせると、俊一郎は、いつも帰宅してすぐに飲めるようにとコーヒーの作る用意はしてあったので、あとは電源を入れて、コーヒーができるのを待つだけだった。
殺風景な部屋なので、テレビでもつければいいのだろうが、彼女の疲れた表情を見ていると、せめて身体の凍り付きが収まって、呼吸が整うのを待ってあげようと思った。部屋に入ってくるまではさほど感じられなかったが、少し暖かさを外気に感じると、呼吸が荒いのに初めて気づいたのだった。
――思ったよりも、ハスキーな声だ――
だと感じ、彼女の顔を再度覗き込むと、まだ顔は厳しい表情になっていて、とりあえず身体が温まるのを待つしかないのだろうと感じた。
「大丈夫かい?」
と、声を掛けてみたが、まともに返事がない。やはり、かなり身体が冷え切っているに違いない。ここまで冷え切った人を見たことがないので、相当体力が消耗していることは想像できた。
――そういえば、俺も子供の頃に、吹雪の中を彷徨った記憶があったな――
と感じていた。
その時は、山奥の友達の家に遊びに行った時のことだった。
友達の家は豪邸と呼ばれるところで、親は会社社長をやっている。まるでお城のような屋敷が聳えたっていて、
――こんなところに人が住んでいるんだ――
と、一体何人の人が住んでいるのかを、まず最初に考えた。
屋敷の中には人は結構いたが、それも雇われた人たちで、それでももったいないくらいに何でも大きく作られていて、最初に感じたのは、壮大さよりも、その壮大さゆえに吹き抜ける風だったのかも知れない。
風は冷たくて、殺風景さが感じられた。ここまで寒さを感じさせる家を、その時までどころか、今でも感じたことがなかった。
友達の家で夕方まで過ごした。友達の部屋は確かに無駄に広かったが、それでも他の部屋よりもよほど暖かかった。やはり暖かさを作るものは、人なのだと、その時に初めて感じたのだった。
「また来てくれよな」
と、笑顔で友達は言ってくれたが、結局それから訪れたことはなかった。屋敷を出てから、すぐに後ろを振り返ると、来た時に感じた大きさとほぼ変わらない屋敷が聳え立っていた。
一度表から見て、中にも入って体験したのだから、もう一度表から見ると、今度は少しは小さく感じられると思ったが、あまり変わらなかった。それを感じた時、
――これほど大きな屋敷は、やっぱり俺の想定外の規格なんだろうな――
と思い、
――やはり、もう二度と来ることはないような気がする――
と感じたのだ。
二度と振り返ることもないだろうと思い踵を返すと、そのままバス停までの道を歩いていた。
屋敷を出る少し前くらいから降り出していた雪が、次第に気になり始めたのは、踵を返してからだった。それまでは屋敷の壮大さに自分が飲まれていたのかも知れないと思い、俊一郎は、早く自分を取り戻したかった。
雪を感じるようになったのは、それだけ普段の自分に戻ったような気がして、安心感があったが、少し強くなってくるのはいささか気になっていた。
バス停までは、それほどあるわけではないのに、なかなかバス停まで辿り着けるような気がしなかった。
――あれ?
足が重たく感じられ、それ以上前に進めないのを感じると、雪が一気に降り出した。
次第に風も強くなり、前を向いて歩いているつもりでも、
――本当に前に向かって進んでいるのかな?
と思えるほど、まともに歩けていないようだった。
――大丈夫かな?
一旦不安に陥ると、それ以上前に進めないような気がしてきて、完全に吹雪の中で止まってしまったようだった。
それでも歩くしかない。俊一郎は、前を向いて歩いた。前を向いてはいるが、目は半分しか開けられない。
――どこを歩いているんだろう?
と、思わないようにしていた。下手に不安に感じてしまうと、そのまま前に進めなくなってしまうように思えたからだ。
一度、真っ暗な世界で、前を向いて歩いていたつもりなのだが、真っ暗なのに、足元の道が、狭くなっていて、一歩足を踏み外せば、奈落の底にまっしぐらだというシチュエーションを感じたことがあった。
――これは夢なんだ――
と、直感したが、
――もし夢じゃなかったら?
という危惧がまったくないわけではなかった。そう思うと恐ろしくなって、前を向いて歩くことができなくなった。
しかし、後ろに下がるわけにもいかない。かといって、そのままそこでずっと立っているわけにもいかない。いずれ疲れてしまって、バランスを崩し、奈落の底に落ち込むのが分かったからだ。
――思ったよりも冷静なんだ――
やはり夢だと思っているからであろうか。
そんな夢を見たことを思い出していた。
吹雪の中で、まさか奈落の底があるわけはないが、身動きが取れないのは同じだった。あの時と同じなのは、そのままじっとしていても、結局疲れ果てて、そのまま倒れこんでしまうだけだということだった。
――同じだ――
さっきの彼女の様子を後ろから見ていて、
――これは、他人事ではない――
と感じたが、それは吹雪の時の自分が感じた思いを彼女に重ね合わせてみていたからに違いない。
吹雪が収まった時、雲の隙間から差し込んできた日に、虹が差したように見えた。それまで、どれほどの吹雪だったかというのを、意識は消えてなくなり、記憶として封印されたことを、子供だった俊一郎だが、分かった気がした。
吹雪など、それまではテレビでしか見たことがなかったはずなのに、吹雪を感じている時は、
――前にも同じ感覚を覚えた気がするな――
と感じていた。
よくそんな気持ちの余裕があったものだと思ったが、ひょっとして吹雪の中にいる間、
――これは夢なのかも知れない――
と思っていたのかも知れない。
夢であれば、前にも同じことを感じたとしても不思議ではない。ただ、夢で感じたことを、現実世界で感じるということがなかっただけに、全面的に夢だとして片づけていいものかどうなのか分からなかった。
元々、道端でバッタリと女性を「拾ってくる」など、想像もできることではなかっただけに、夢のような経験をした過去のことが意識としてよみがえってきたとしても、不思議ではない。
――今だからこそ、思い出せたことなんだ――
と思えば、それだけのことなのかも知れない。
そうこう考えているうちに、部屋も十分に暖かくなってきた。
俊一郎はすでに部屋の暖かさに馴染んでおり、本当であれば、風呂に入りたいくらいであったが、彼女を見ていると、そこまでできないのが分かったので、とりあえず風呂の用意だけはしておいた。
身体が冷え切っているので、いきなりシャワーはおろか湯船に浸かるなど、もっての他だろう。
それでも彼女を見ていると、すっかり身体の震えは収まってきているようだった。よく見ると真っ青だった唇に赤い色が戻ってきていたし、何となくではあるが、女性のフェロモンのような香りが、漂ってきているのを感じたのだ。
彼女は香水を付けているというわけではないようだ。甘い香りがするというよりも、酸味のある香りは、男性を惹きつけるに十分な香りであった。身体がだいぶ暖かくなってきたとはいえ、まだ少し違和感が残っている身体でなければ、酸味を帯びた香りに、男としてのフェロモンが放出されるかも知れないと思ったほどである。
「大丈夫ですか?」
再度声を掛けてみた。
「ええ、だいぶいいです」
と、やっとのことで声を返してくれた。
先ほどは、まったく顔を上げる気配がなかった彼女だったが、今度はハッキリと顔を上げて答えてくれたので、初めて正面から彼女の顔を見ることができたのだが、
――どこかで会ったことがあるような気がするな――
と感じた。見覚えのある顔だったのだ。
――今日は、前のことを思い出したり、見たことのあると思う人に出会ったり、そんな日なのかな?
と思ったが、まだその時は、ただの偶然としてしか思っていなかったのだ。
彼女にしても、見覚えがあるが、どこの誰だか分かっているわけではない。似たような人を以前に見たことがあるという程度のことなのかも知れないし、その日が、前のことを思い出す日だという意識の元に見るから、
――前に見たことがある――
と感じたかだけなのかも知れない。
「どうして、あんなところにいたんですか?」
俊一郎は、思い切って聞いてみた。
その時の俊一郎の心境は、目の前にいる女性を助けたことで、自分には聞く権利があるという思いでいたのだ。
人を助けたという感覚は優越感であり、少々のことは聞いても構わないと思った。ただ、それも事情を知らないと、そこから先どうしていいのか分からないという理由もあったからだが、少なくともその時に優越感に浸っている自分がいることを、俊一郎は自覚していた。
ただ、この思いを相手には悟られたくない。悟られてしまっては、助けたことが無になってしまうと思ったのだ。一旦感じた優越感を消すことは難しいが、相手に悟られないようにするのとどちらかが難しいだろう。
それを解消するには、俊一郎としては一つしかないと思っていた。自分を客観的に見ることで、どうすればいいかが分かってくるのではないかと思うのだった。
それは冷静な目で見るということで、俊一郎にはできると自分で思っていた。少なくとも、優越感を消してしまうことや、相手に悟られないようにすることよりも、容易にできると思っている。
彼女は黙っていた。
何も答えてくれない相手をじっと見つめていると、まるで自分が相手を責めているように感じられ、いい気分ではない。相手も萎縮してしまって、話そうとしても話せなくなってしまうようだ。こういうことは、最初に口にできればいいのだが、最初に言えなければ、後はどんどん言えない方の深みに嵌ってしまうようで、早めに切り上げるに限るのだ。
「言いたくなければいいですよ。話したくなったら遠慮しないでくださいね」
客観的な目で、冷静に自分を見つめていると、
――自分が何て冷たい言い方をしているのだろう?
と感じられた。口調もそうなのだが、抑揚もあまりない。感情が籠っているのか疑いたくなるほどだった。
――明るく聞けることではないしな。かといって、声が低いと、余計冷たさを感じさせて、せっかく温まった身体を、気持ちから冷やしてしまいかねないな――
と思った。
今までにあまり人と話をしていて自己分析をすることなどなかっただけに、この場の雰囲気がやはり異様であることを示しているのだと、俊一郎は感じたのだ。
彼女は、また少し黙ってしまったが、今度はさほど長くない感覚で、彼女の方から口を開いた。
「ありがとうございます。本当は、あのままでもいいと思ったくらいだったんですけど、こうやって暖かいところに戻してもらえると、やっぱり助けてもらってよかったって思います」
彼女の目からは涙がこぼれていた。その涙が、
「このままでいい」
と言ったことへの思いなのか、それとも、助かったことで安心感から自然と流れ出た涙なのか分からないが、その涙を見た時、
――この人とは、これからも関わりがあることになるような気がする――
と、感じた。
それは幾分かの願望を含んでのことだったが、それだけではない。
先ほど感じた優越感は自然と薄れてきたのを感じたが、まったく消えてしまったわけではない。彼女を見ていて、
――気の毒に――
と思っている間は、優越感が消えていない証拠だと思っている。
立場的には間違いなく優越感に浸ることができるものだが、優越感だけでは満足しないことも感じていた。
それは今までに優越感を感じた時には分からなかった感覚で、客観的に自分を見ることができるようになったことが幸いしているに違いない。
俊一郎は、学生時代にも同じように優越感に浸ったことがあった。
あの時も相手は女の子で、その時、その女の子は失恋してすぐだったのだ。
――まるで火事場泥棒のようだ――
と、今から思えば感じるのだが、その時は感じなかった。それだけ優越感に満たされていたのかも知れない。
優越感というのは、ある意味諸刃の剣ではないだろうか。立場が完全に確定すれば、どうしても抱いてしまう優越感。しかし、優越感がなければ、相手とどう接していいのか分からない。優越感が相手を助けることになるかも知れないが、一歩間違えば、どちらも傷つくことになる。
そこまで分かるようになっただけ、大人になったということだろうか。大人になったという定義を最近までは分からなかったが、今は分かる気がする。
――自分を客観的に見ることができるかどうかで決まる――
それが俊一郎が感じた、大人になったという定義だったのだ。
彼女がどこの誰だか分からないが、まったく知らない人ではないような気がする。ただ、見ていれば、何とかしてあげたいという気持ちが嵩じて、優越感を抱いたとしても、男としては無理のないことのように思えた。
女性の中には優越感を誰にでも抱かせるようなタイプの女性がいるのだと、俊一郎は思っていた。目の前の彼女が、その一人だということに気が付いたのは、彼女の唇に赤い色が戻ってきた時だったように思えてならない。
――好きになるという感覚に近いのかも知れない――
その思いが、優越感と背中合わせであり、一歩間違えば、諸刃の剣を抱え込むことになるのだということになると思う俊一郎だった……。
◇
不思議な力が備わっているということに、やっと最近気が付き始めた俊一郎だった。
趣味のデッサンは、すでに俊一郎には生活の一部になっていて、それを邪魔する人を、心の中で呪うようになっていた。実際に逆恨みに近いことではあるのかも知れないが。それに気が付いたのは、上司の課長が死んだ時だった。
上司は交通事故だった。
その時の状況を見た人は、
「その人は、前を歩いていて、フラフラしているなと思っていたんですよ。危ないなと思っていると、急に道路に飛び出して、走ってきた車に轢かれてしまったんですが、その時の様子は、まるで誰かに突き飛ばされたのではないかと思うようでした。でも、確かにそこには誰もいなかったんですよね」
上司は、酔っていたわけでもなく、体調が悪かったというわけでもなかった。五分前に仕事の帰り一緒だった同僚からは、
「普段と変わった様子は何もなかったですよ。気分が悪かったということもなかったですし、五分やそこらで急に気分が悪くなるということもないでしょうからね」
という話だった。
運転手側にも落ち度はなく、目の前に飛び出してきた人を轢いてしまったということで、本当に運が悪かったとしか言いようがなかった。
警察も不思議な事件ではあるが、形式的な手続きを取ることで、ただの事故として処理したようだ。
家族の心中を思うと、いたたまれない思いになったが、別に悲しくはなかった。
ただ、課長が死んでからしばらくして、おかしな噂が流れるようになった。
「課長は、ストーカーのようなことをしていたらしい」
というものだった。
独身なので、そんなことがあっても不思議はないが、仕事中の課長からは信じられるものではない。ただ、課長が意地悪なところは誰もが思っていたようだ。
「デートがある日に限って、残業になるような仕事をさせるのよ」
あるいは、
「家族サービスで、遊園地に行こうと思った時に限って、休日出勤の当番を入れたりするんだ」
と、課員のスケジュールを決めるのは、最終的に課長なので、課長の考え一つでどうにでもなるのに、まるで嫌みのようなスケジュールを組んでいた。
これは、俊一郎にとっても同じだった。
デッサンのスケジュールをめちゃくちゃにしかねないスケジュールを組まれることもしばしばで、何度、臍を噛んだことだろう。口惜しさを表に出さないようにしていたつもりだったが、隠せるほど器用ではない。きっと、誰か分かる人には分かっていたことだろう。だが、どちらかというと鈍感な課長には分からなかったはずだ。それなのに、示し合わせたようにスケジュールを組むのは、ただの偶然ではないように思えてならなかった。
――ちくしょう――
逆恨みなのは百も承知なので、心の中に閉まっておけばいいと思っていた。しかし、課長が死んだと聞いた時、
――まさか――
と思った。
その時の俊一郎の気持ちとしては、怒りが頂点に達していたのだ。
苛立ちがストレスとなり、ストレスが爆発すると、気持ちの中で抑えが利かなくなる。そんな時はふてくされて寝てしまうのが一番なのだろうが、その時はどうしても寝つけなかった。
「殺してやる」
思いが嵩じて、妄想になってしまった。気が付けば、それは夢で、いつの間にか寝ていたのだ。
――ということは、眠れないという意識の夢を見ていたということかな?
今までにはない経験だった。
目が覚めるとスッキリとした気分になっていた。俊一郎は、間違いなく夢の中で課長を殺していた。
その方法が、歩道を歩いている課長を、車道に突き飛ばすことだった。まるで夢と現実が交差した瞬間だったと思えてならなかったのだ。
課長の葬儀はしめやかに行われた。事件性も疑われたが、実際に近くに誰もいたわけでもなく、捜査はすぐに終了し、事故か自殺のどちらかが残ったのだ。
警察の捜査では、課長の身辺で、自殺するようなことはないだろうという結論だった。奥さんも子供もいることだし、表立ったところで、自殺を臭わせるようなところはなかったのだ。
すぐに遺体は返されて、葬儀が行われることになった。
会社の社員も何人か出席することになったが、俊一郎もその中の一人だった。
かといって何もお手伝いできるわけでもなく、ただ列席するだけだった。女性事務員がその役目を負うことになった。
女性事務員二人が呼ばれて、葬儀のお手伝い。お手伝いと言っても、葬儀会社がほとんどのことはするので、遺族の人についていたり、持ち込まれたお弁当やお膳を運ぶ程度だった。
彼女たちは、動きがあるから、さほど時間を感じなかったかも知れないが、ただ、列席しているだけの俊一郎にとっての葬儀は、やたらと時間が無駄に長く感じられたのだ。
しかも、夢の中で殺してしまったという負い目がある。夢の中と同じ死に方をしたと聞いたことで、さらに負い目があった。しかし、ここまで徹底していれば、負い目というよりも、開き直りがあったのも事実だった。
――課長がいけないんだ。俺の趣味を邪魔するような勤務体制ばかりを組んだりするからだ――
葬儀の間、そんなことばかりを考えていると、前半は無駄に長く過ぎてしまったと思っていた時間も、後半は無駄ではあったが、あっという間に過ぎたような気がした。葬儀も終わり、その日は一度会社に帰り、仕事をすることもなく、会社を後にすることになった。
会社に帰ってきた時、給湯室から女性社員の声が聞こえてきた。
「死んだ人の悪口を言うのは気が引けるんだけど、課長はあまりいい性格ではなかったようね」
「そうね、スケジュールの立て方も、まるで嫌みのような立て方だったものね」
「そうじゃないのよ。人から聞いた話なんだけどね」
「えっ?」
どうやら、給湯室にいる二人から会話が聞こえていた。何人いるか分からないが、会話の中心は二人だった。
――噂は本当だったんだ――
と、俊一郎は思った。
「課長は、誰か一人の女性を好きになって、ストーカーのようなことをしていたって話なの」
「そこまでするような人には見えなかったけど……」
「そうね。私もちょっと信じられなかったわ。あまり女性に興味があるような雰囲気ではなかったものね」
二人の話を聞いていて、立ち止まって考えていた俊一郎も、課長がそこまでするというのは少し意外だった。会社での勤務態度から見ている限りは、確かに女性に興味を持つタイプではない。見た感じは朴念仁に見えるのだ。
給湯室での会話はそこで一旦止まってしまった。それ以上会話が続かないのは、それだけ課長が朴念仁であって、想像の域をすでに超えているからだ。想像もできないのに、それ以上会話が進むわけはない。しかもそれが故人への悪口に当たるからだ。
俊一郎は、いつ給湯室から二人が出てくるかも知れないと思い、忍び足でその場を通りすぎ、事務所の扉を開いて入っていった。
――今の話、偶然に聞いたんだけど、本当に偶然だったのだろうか?
少し疑いたくもなるほどのタイミングだった。まるで、俊一郎に話を聞かせたいと言わんばかりではなかったであろうか。
死んでしまった課長は、あまり部下には慕われていないのは分かったが。家庭では、
――いい父親――
だったようだ。
親戚にも悪く言う人はいなかったし、マイホームパパの雰囲気しか、話しには出てこなかった。
それなのに、女性社員から聞かされた内容。ストーカーなどという言葉は、一体どこから出てきて、どのように想像すればいいというのだろう?
俊一郎が新入社員の時の飲み会でのことだった。
課長は、俊一郎の隣にいたのだが、あまりお酒を勧めようとはしなかった。
――どうしてなんだろう?
席順はあらかじめ決められていた。
というよりも、新入社員の隣には直属の上司というのが、まるでしきたりのように決まっているようだ。
「俺は、こういうしきたりは嫌いでね」
と、一言俊一郎に言って、一人で課長は呑んでいたのだ。
俊一郎には、他の社員や先輩がどんどん注ぎに来る。
「どうだい? 仕事には慣れたかい?」
「ええ、おかげさまで」
と、答えながらお酒を勧められる。
あまりアルコールの強くない俊一郎は、ゆっくりと飲んでいた。まわりの社員もさすがに課長の手前、大っぴらに勧めることもできない。
俊一郎にはそれがありがたかった。あまり呑まなくても済みそうだからだ。
その時は、課長に感謝した。課長が、こういうしきたりが嫌いだということで、
――意外と物わかりのある課長なんだ――
と思った。
確かに課長はそういう意味での、しきたりのようなものを毛嫌いする性格は、俊一郎だけではなく、他の課員にもありがたがられていた。しかし、それだけに、スケジュールの立て方の露骨さに、誰もが反発していたのだ。
「課長は物わかりがいいだけに、この露骨さにも、その人の信念が感じられるよな」
と、まわりから話が聞こえてきた。
課長の考え方は、誰もが嫌だと思うようになっていた。そのことを課長は分かっていたのかどうなのか。俊一郎は分かっていなかったのではないかと思っていた。
しかし、
――それは思い違いだったのかも知れない――
と感じた。
給湯室での女の子の会話を聞いて、課長のストーカー説が浮上してくると、俊一郎は、その中にある裏返しの性格を感じるようになった。
家ではマイホームパパなのに、ストーカーという噂も出ている。ただ、警察が課長の身辺を調査して、ストーカーという話が出てこなかったということは、話の中にどれだけの信憑性があるかということも考えないといけない。
しかし、ストーカー行為というのは、されている本人が勝手に思いこんでしまっている場合もあり、曖昧なところがあるのではないかと俊一郎は思った。
――課長にストーカーというイメージを重ねてみて、拭い去れないところもある――
結局、死んでしまった人のことなので、それ以上考えても堂々巡りを繰り返すだけである。これ以上、余計なことを考えるのは、やめた方がよさそうだった。
会社では、新しい課長が決まるまで、課長のポストは空いていることになった。課長の座っていた席には花束が飾られていたが、
――死んでしまったら、あれだけのことなんだ――
と、少し寂しくもあった。
新しい課長がくれば、すぐに撤去され、あっという間に皆の心の中から忘れられていくことになるに違いない。
俊一郎は、数日してから、またおかしな夢を見た。
死んだはずの課長が事務所の自分の机に座っている。仕事をしている姿は、今までと変わりはないのだが、机の端には花束が飾られている。
――課長は死んだんだよな――
もし、花束がなければ、夢の中での課長は死んだのだという意識はないだろう。死んだ人のことを、二度も夢に見るなど、よほど課長が気になっているのかも知れない。
――いや、いくら気になっているとしても、ここまでというのは、我ながら信じられない気がするな――
夢を見ている間、
――これは夢なんだ――
という意識は、しっかりとあった。
意識があるにも関わらず、夢の続きを見るというのも珍しい。今まで覚えている夢の中で、
――これは夢なんだ――
と感じた時、そのまま夢は覚めてしまっていたのだ。
――本当にそのまま夢から覚めたのだろうか?
というのも、夢から覚めたわけではなく、夢から覚めたという夢を見たのかも知れないし、それ以降を忘れてしまっただけなのかも知れない。ただ、
――その感覚が夢から覚める一つのキーワードだった――
という考え方も捨てきれない気もしていたのだ。
続きの夢としては、課長は定時になると、
「お疲れ」
と言って帰っていく。
課長が部屋を出たのを確認すると、俊一郎も、すぐに仕事を終えて会社を出た。
完全に課長の後を追いかけている。
もちろん、課長には気付かれないようにして後ろからつけていくが、課長は、少し行ったビルの影に隠れて、ビルから出てくる人の姿を目で追っているのだった。
「お疲れ様でした」
定時で勤務を終えた会社員やOLが幾団体にもなって、玄関から出てきて、それぞれの帰宅方向に散っていく。その姿は、どこの会社にも見られるものだ。
しかし、俊一郎は今までに実際に見たことはなかった。想像はしていたが、さすがに夢というもの、想像通りの光景だった。
わずかな隙間から課長はその姿を覗いている。それを見ると、先日給湯室から聞こえてきた、
「一人の人を好きになってストーカーをしていた」
という言葉が思い出された。
実際にストーカーがどのような行動を取るのかということは、これも想像でしかないが、やはり想像した通りの行動を課長がしているのだ。
――それにしても、似合っている――
朴念仁だとしかイメージになかった課長が、目の前でストーカー行為に嵩じている。それをストーカーとして想像し、イメージしているのに、似合っていると感じるのは、どういうことだろうか?
まだ、課長の好きな人は現れないようだ。
課長は、じっと待ち続ける。それを遠くから見ている俊一郎も固唾を飲んでいた。不思議な緊張感が空間を支配している。
――まだ出てこないのかな?
課長が待っているはずの女性が現れる雰囲気はない。一体どうしたことなのだろう?
――あっ、夢から覚めそうだ――
夢から覚めそうになる瞬間を、俊一郎は感じることがあった。それはいつものことではないが、こういう膠着状態の夢を見た時には感じることが多い。
しかも夢から覚める瞬間というのは、これは俊一郎に限ったことではないらしいのだが、どうやら、
――何て微妙なタイミングなんだ――
と感じさせるらしい。
夢から覚めたその時に、
――もっと見ていたい。結論が分からない状態で目を覚ますのは嫌だ――
と考える。
ただ、これは目が覚めて感じたと思うだけであって、目が覚めた瞬間には、
――夢から覚めてよかった――
と感じることの方が多いようだ。
――結局、課長がストーカーだったのかどうかも分からない。雰囲気だけでは判断できない――
と感じた。
確かに怪しい雰囲気ではあったが、相手の女性が誰なのかが分からない以上、本当にストーカーだったのかは、ずっと謎のままである。
夢から覚めてよかったと思ったのは、夢の中で課長が目指す女性を見てしまうと、それは自分の知っている人でしかありえない。誰であっても、あまり気分のいいものではないはずだ。そう思えば、夢から覚めてよかったのだろう。
夢というのは潜在意識が見せるものだというが、まさしくその通りである。夢が突飛であればあるほど、潜在意識以外のものであれば、今度は信憑性を疑いたくなる。そう思うと、どこかで、抑えのようなものが必要になってくるだろう。それが、潜在意識だと俊一郎は思うのだった。
その日、課長の夢を見た時、一人の女性と出会う気がした。夢がそのことを教えてくれているように思う。夢と現実の世界で彷徨っている感覚が今はあるが、それが課長が死んだことで、もう何も確認できないことの中に、その思いが隠されているのではないかと、俊一郎は感じていた。
それからしばらくは、課長のことを気にしていたが、ある日を境に、課長のことが遠い過去のように思えてきた。仕事で何かがあったというわけでもないし、新しい課長が決まったというわけでもない。
課長が決まらない時期がしばらく続いた。
「こんなに決まらないというのも、おかしいわね」
名目上は、部長が課長職を兼任ということで、課長の実務は、課長代理の人が行っていた。課長代理というのが実質では課長になるのだろうが、対外上の課長は、部長が兼任の方がいいのかも知れない。
俊一郎の仕事も、上からのしわ寄せで、増えていたのも事実だった。それでも趣味に勤しむ時間は自分で見つけてこなしていた。
――充実感があるからな――
と感じていたのは、課長に邪魔された時と、状況が違っているからである。
課長に邪魔されていたのは、明らかに悪意が感じられたからだ。本人は無意識だったのかも知れないが、それが感じられなかった。露骨な態度は表情にも出ていて、課長のしてやったりの表情は、今から思い出しただけでも気分が悪くなってしまう。
――もう、あの人のことは忘れてもいいはずなのに――
どうして思い出すというのだろう? すでに恨みもなければ、充実した毎日を送っている自分の生活に不満もないはずだと思うと、課長のことは過去になるはずだった。それを解決してくれたのが、一人の女性との出会いだった。
彼女を見かけたのが、本屋の帰り、つまり、身体を寒さで震わせていた彼女を家に迎え入れ、何をしたというわけではないが、
――どこか不思議な雰囲気を持った女性――
だと感じたことだった。
あの時、彼女は不思議なことを言っていた。
「あなたと一緒にいると、安心できるわ。あなたには、そういう不思議な力があるのかも知れないわね」
「不思議な力?」
「ええ、私にとっては不思議な力……。あなたに不思議な力があるというのは、すぐに分かったつもりだったんだけど、それがあなたと一緒にいると、私の中で微妙に違ってくるのを感じるんですよ」
それが、死んでもいいような話をしながら、それでも助けてもらってよかったと言っていた彼女の気持ちを違う形で表現したもののように思えてならなかった。
ただ、彼女の中の話として、最初から俊一郎に何か不思議な力があるというのを感じたというが、それはいつだったのだろう? 凍えてしまっていた時に、そこまで考えることができたということだろうか? それとも最初から俊一郎のことを知っていて、その俊一郎に不思議な力があることを分かっていうことであろうか? もしそうであるとすれば、出会ったこともただの偶然だと思えない。
――出会うべくして出会った相手――
だということであれば、それが俊一郎の不思議な力が呼び寄せたということなのか、それとも、彼女の中にもある不思議な力と共鳴したということなのかのどちらかではないかと思う。
俊一郎に不思議な力があるということを看破できたのも、それは十分に不思議な力に値するものではないだろうか。
彼女にも不思議な力が備わっていて、俊一郎自身にも気付いていないが備わっているとするならば、この出会いは偶然で片づけられるものではない。
どちらかが引き寄せたとして、そこに彼女の意志が働いているとすれば、俊一郎も彼女を意識しないわけには行かない。
――ひょっとして、遠い昔に知り合いだったのかも知れない――
ただ、俊一郎は記憶を引っ張り出してみようと試みたが、記憶の中から引っ張り出せた範囲で、彼女に該当する人はいなかった。
――やはり、知らない人なのかな?
とも思ったが、知っている人で忘れているのだとすれば失礼なことにもなるだろう。
ただ、彼女の中に懐かしさを感じるのが少し気になるところだったが、それがある日を境に、懐かしさを感じられなくなった。
その後だった。俊一郎の中で、課長のイメージが一気に薄くなり、課長の存在が遠い昔のことであったように感じたのはである。
――これも不思議な力の成せる業?
ただ、自分は見えない何かの力に動かされているように思えてならない。それが課長の亡霊を見ていたからなのか、それとも彼女と知り合ったことで、自分の中で何かが変わったのか、分からなかった。
彼女を助けた時のことと、課長がこの世からいなくなったこと。そのどちらも俊一郎には衝撃的なことには違いない。
それぞれに対照的なことでありながら、どこかで繋がっているように思うと、そこに不思議な力が介入してくるのを感じたのも無理のないことだ。
――そういえば、諸刃の剣のような感覚があったな――
不安定な精神状態の中で、危なっかしさを残している俊一郎にとって、今目の前にいる彼女を好きになりかけているということだけは事実であった。
それにしても、人の死に対して悲しいという感覚ではなく、引っかかりがあっただけで、さらにある日を境に遠い過去になってしまったことに対して、俊一郎は釈然としない思いを持っていたのだ。何とも言えない不思議な感覚に包まれて、俊一郎はどこに向かおうというのだろう……。
◇
俊一郎が知り合った女性、彼女は名前を若菜という。
彼女は、近くでOLをしていたというが、今は仕事を辞めて、コンビニでアルバイトをしているという。
「私は、以前から嫌いな人を引き寄せるところがあるようなんです」
若菜が落ち着いてくると、いろいろと自分のことを話すようになってくれた。若菜が死んでも構わないと思ったのは、嫌いな人を引き寄せるところに原因があるのかも知れない。だが、そこまで分かってしまうと、
「じゃあ、僕も嫌な人の一人なのかい?」
と、少し嫌味っぽく言うと、
「いいえ、そんなことはないんです。今まででこんなことはなかったんですけどね」
と、不思議そうに自分のことを顧みながら答えてくれた。
「そう言ってくれると嬉しいよ」
と言いながら、
「君が死んでもいいとまで思ったことで、何かが変わったのかも知れないよ」
という言葉が頭に浮かんだが、それを言うのはよそうと思った。それを口にしてしまうと、せっかく落ち着いてきた精神状態を、また荒波に投げ出すことになりはしないかと怖かったのだ。
若菜は、俊一郎よりも三つ年上の三十三歳だという。二十歳代に知り合った男性と、結婚したいと強く思った時期があったようだが、その気持ちは叶わなかったという。
最初は、相手の男性の方が、若菜と結婚したいと強く思っていたようだ。プロポーズされ、それまで結婚についてほとんど考えていなかった若菜だったが、いきなりのプロポーズでビックリしたのか、すぐには返答は控えていた。
元々、若菜には結婚願望などなかった。
若菜にとっての結婚願望は、好きな人がいてからのことだったので、結婚したいと思う相手がいなければ、想像すらすることはなかったという。
それでも、二十歳代の女の子が結婚を考えないわけでもない。まわりは自然と結婚という話題を持ち込んでくるし、家族や親戚も、
「早く結婚して、孫の顔を」
などと口にしていた。
「そんな、私なんかまだまだ先よ」
と言いながら笑っていたが、その気持ちはそのまま持っていた。他の女性であれば、
――まんざらでもないわ――
と、冷やかしに聞こえて、結婚を再認識するのだろうが、若菜の場合は、確かに結婚を意識はするが、意識するところまでで終わってしまう。具体的なことを想像することもなく、
――結婚適齢期というだけね――
と、ただそう思うだけだった。
結婚について今までまったく考えていなかったわけではないが、具体的なイメージが湧かないのであれば、考えていないのと同じである。親も親戚も無責任なだけだと思ってしまうと、それ以上、何も考えられなくなってしまう。
そんな若菜だったが、前の会社では、まわりから、
――お局様――
だと思われていたようだ。
まだ三十歳前なのに、そう思われるのは、三十過ぎの事務員が、ある時一気に辞めてしまって、まだ若い女の子と、中間年齢だった若菜が残っただけで、自然と若菜だけが一人年上に押し上げられたのだ。
――今までは先輩がいっぱいいたので、何とかなっていたのに、今では私一人が年上になってしまったなんて、本当に最悪だわ――
と感じていた。
辞めた理由の一つにはそれもあったのだが、若菜を密かに好きだった男性がいて、彼が会社を辞めてしまったことにも理由があった。
若菜は自分が好かれているのを知っていた。だが、自分から声を掛けることはしなかった。彼が声を掛けてくれるのを待っていたのだが、彼もそれに疲れたのかも知れない。仕事ができる男性だったので、どうやら、他から引き抜きがあったようだ。若菜のことが引き金になったのかどうかまでは分からないが、彼にとっては、それが最良の道だったのではないだろうか。
彼がいなくなって、若菜は自分の人生が転落していくのを感じた。仕事をしていても、まわりから見られている目が気になってしまい、着手した仕事も、何から手を付けていいのか分からないというほど、基本的なことすらできなくなっていた。
ストレスが溜まっていたのも大きな原因だが、一旦疑問に思ってしまうと、すべてに自信を失ってしまうところがあるのが若菜という女性だったのだ。
若菜は、そのことを分かっていて、俊一郎に話してくれた。
「俺もその気持ち分かる気がするよ。頭の中がパニックになってしまって、うまく行っていると思っていることが、急に自信がなくなってしまうんだよね。ふと、我に返ると、自分がどこにいるのか分からないような感覚に陥ってしまうんでしょう?」
「ええ、そうなんですよ。パニックになったから自信がなくなったのか。自信がなくなったからパニックになったのかは分からないんですけどね」
「きっと、パニックが先じゃないかな? 自分も同じようなことになった時、パニックから、自分を見失ってしまうような気がするんだ」
そうは言ったが、堂々巡りを繰り返しているとも考えられる。
パニックが自信喪失を呼び、そしてパニックになる。だから、また自信喪失になってしまうという繰り返しは、まるで、
――タマゴが先か、ニワトリが先か――
というのと同じではないだろうか。
俊一郎にも似たような経験はある。
学生の頃を思い出していた。
高校生の頃までは、友達と言っても男性の友達が数人いただけで、女性の友達はいなかった。大学に入ると、いろいろな女の子と会話するようになり、挨拶だけでも友達になれた気がしたくらいだ。
挨拶してくれると嬉しいもので、そんな中に一人気になる女性がいた。
彼女は、大人しそうな中に、大人の雰囲気を醸し出していた。だが、清楚な雰囲気が一番の魅力で、
――この人に汚いことなど、絶対に似合わないんだ――
と思える人だった。
入学してから数か月経つのに、彼女の笑顔を見たことがなかった。
――ずっと誰に対しても笑顔を見せたことがないのかな?
と考えていたが、それからしばらくして、
――彼女の笑顔を見てみたい――
という妄想に駆られてしまった。
彼女を見かければ、じっと後を追いかけていた。幸いにも彼女は俊一郎をあまり意識していなかったようで、少々遠くからであれば、まさか自分のことをつけているなどということに気付くわけもなかった。
電車の中でも隣の車両に乗ったりして気を付けていた。一人の彼女は、いつも電車の中では本を読んでいたが、それが何の本なのか分からなかった。
自分がストーキングしているなど、その時の俊一郎には意識がなかった。
――俺が彼女を笑顔にしてみせる――
という思い込みが、自分勝手な正義感となり、まわりが見えないのは当然のことで、誰も俊一郎のことなど気にしていないと思っていたが、本当は大間違いだった。
さすがに何日も毎日のように同じ電車に乗って、一人の女性だけを見続けていると、まわりもおかしいと思ったのだろう。
俊一郎自身は、日に日に自分の正義漢ばかりが膨れ上がっていき、もはや、
――俺は彼女に笑顔をもたらすことができる唯一の人間なんだ――
とさえ思うようになっていた。
彼女を追いかけている時、
「もしもし」
と、後ろから声を掛けられた。
そこに立っていたのは、制服警官で、自転車から降りて、懐中電灯で俊一郎の顔を照らした。
「君はここで何をしているんだね?」
答えないでいると、
「ちょっと交番までいいかい?」
捕まってしまったという意識から、一気に気持ちが萎縮して恐縮してしまった俊一郎は、警官に従うしかなかった。いわゆる、職務質問というやつである。
いろいろ聞かれたが、何を答えたのか分からないほど、緊張していた。とりあえず厳重注意ということで解放されたが、それから、彼女へのストーカー行為はしなくなった。
その時から、俊一郎は暗くなり、道で友達に出会っても挨拶をしなくなった。何か大きなものを失ったような気がして、見えていたものも見えなくなったかのようだった。それが鬱状態の入り口であるということを、その時の俊一郎には分からなかった。
ストーカーを止めてよかったと思ったのは、それから数か月してのことだった。
妙な噂が流れたのだが、それは、彼女が風俗でアルバイトをしているというものだった。
「あの娘ならありそうだぞ。風俗にいそうな顔だ」
と噂している連中の話を聞いて、
――何て無責任な発言なんだ――
と怒りを感じたが、自分の彼女でもないのに、ここで怒りを感じてどうするものかと俊一郎は思った。
――風俗にいそうだって言っていたけど、本当にそうなのかな?
彼女の大人の雰囲気の中に感じたあどけなさに俊一郎は参ってしまったのだ。風俗にいそうな女の子は、皆そんな感じなのだろうか?
俊一郎は、それまで風俗に通ったこともなければ、飲み会の後に風俗に誘われたこともあったが、途中で逃げ帰ったことがあるくらいだった。
――誰に気兼ねすることもなかったはずなのに、逃げ帰ったのは、どういう心境からだったのだろう?
俊一郎は、そう思うと、
――あの時、逃げ帰らずに行っていれば、俺の人生も少し違っていたかも知れないな――
と感じた。
少なくとも、ストーカー行為などしなかっただろう。
そう思うと、風俗に行ってみたくなったのだった。
一人で行くにはさすがに忍びない。以前に行こうと言ってくれたのを、
「俺はいいよ」
と言って、一人帰って来てしまったことを考えると、声を掛けてくれた相手にもう一度頼むのも忍びない。
そうこうしていると、また飲み会の後に、風俗の話が出た。
――もう、俺を誘ってはくれないんだろうな――
と思ったが、
「おう、俊一郎、お前も行くか?」
と、誘ってくれた。
その誘いは、一人谷底に落ちていく状態を気遣って、手を差し伸べてくれたように感じた。
「いいのかい?」
「何言ってるんだい。いいに決まってるだろう」
大げさに考えることはない。彼らは、過去のことなど忘れているのだ。
「一緒に来たいやつは連れていくだけだ」
と言わんばかりの態度は。その時、妙に頼もしく見えたものだ。
普段から暗かった俊一郎なので、まわりの人から煙たがられているようにしか思えなかったが、どうやら、そうではなさそうだ。
――余計なことを気にしていたのは俺だけだったんだ――
わだかまりなど最初からなかったことに気付くと、今まで暗かった自分が急に恥かしくなった気がした。
妙に頼もしい背中を見ながら後ろからついていくと、次第に胸が高鳴ってくるのを感じた。威風堂々として見えても、前を歩いている連中は、風俗が近づいてくると、緊張しているのが見えてきたようだ。
――きっと他の連中には気付かないんだろうな――
自分だから気付いたというのは、自分だけが特別というわけではない。今まで特別だった自分が、まわりに溶け込むことができたことでの悦びがあったからだ。
しかし、本当は人と同じでは嫌だと思っていた自分の性格が変わってしまうのを恐れている自分もいる。どちらが本当の自分なのだろう?
俊一郎は、まだその時、オンナを知らなかった。女性の身体を神秘的で、
――笑顔の裏にどんな淫靡な雰囲気が隠れているのだろう?
と思っていた。
煌びやかなネオンサインが見えてきた。
今までであれば、大通りを通るバスの車窓から見えているのを、見ないふりをしながら、横眼にはしっかりと捉えていた。それをまわりの人が悟っていたかどうか疑問だが、今さらそんなことはどうでもいいと思った。
――俺はこれから未知の体験をするんだ――
身体の反応とは別に、精神ではあくまでも「未知の体験」を主張する。なかなか淫靡な世界を自分と結びつけようとはしない自分がいる。
「ここにしよう」
一人が言うと、皆黙ってしたがった。
「あら、いらっしゃい。お久しぶりね」
最初に店を決めた友達は、あたかも今決めたような言い方だったが、実は常連だったのだ。ただ、本当に今決めたのかも知れないと思ったのは、ひょっとすると、
――この人は他にも知っている店があって、今日はここにしただけなのかも知れない――
とも少し思った。
しかし、それであれば、
――一体どれだけ金持ってるんだ?
という疑問にもぶつかる。
風俗がいくらほどかかるのか知らなかったが、そんなにしょっちゅう来れるほど安いわけはない。やはり、この店だけの常連なのだろう。
店の人から声を掛けられた友達は、少しバツの悪そうな表情をしたが、さすが常連の貫録なのか、
「今日は、いい娘いるかい? 友達を連れてきたんでね」
と、臆することなく話をしていた。一度や二度でここまで仲良くなれるわけもない。やはり常連なのだろう。
風俗に対して偏見がなかったと言えばウソになるが、もし風俗に対して偏見が薄くなったタイミングがあるとすれば、この時だったような気がする。
風俗のスタッフと気軽に話をしているのを見て、その様子がまるで街の八百屋にでも、その日の買い物に来た常連客のような雰囲気すら感じたからだ。
――俺もこんな会話ができればいいな――
と、正直思った。
今までは、何度か立ち寄ったことのある店でも、店員とこんなに打ち解けた会話ができるなど、自分には考えられなかった。
――この人なら――
と、感じたのも事実で、ただ、それが風俗のスタッフだったというだけで、これがきっかけで、自分も人と気楽に話ができるようになるのだろうと思ったのだ。
それにしても、ネオンサインの煌びやかさには少しビックリしていた。今はどこもネオンサインは大人しいものだった。パチンコ屋のネオンもさほど煌びやかには感じられなかった。
ただ、店内に入ると、怪しげな赤系統の暗い色の照明が灯っているだけだった。そのギャップがさらに淫靡な雰囲気を醸し出し、息苦しさを感じていた。
――ここは空気が濃い気がする――
呼吸困難に陥るのは、何も空気が薄い時だけではない。濃い空気の時にも息苦しさから咳が止まらなくなる気がしていた。それは風呂に入った時の湯気で感じたことであり、何度もむせた記憶があった。
空気が密封されているのを感じると、そこには風はなく、重苦しい空気が湿気を帯びて、気持ち悪さを感じさせる。
気持ち悪さを払拭しようとするからなのか、身体が暑さを感じ、汗が滲み出る。それは風俗という初めての経験への緊張感と重なって、最高潮の熱気を感じてしまうことになるのであった。
――これはたまらん――
と思いながら、なるべく身体を丸くしていた。顔を高い位置に持っていくと、それだけ空気の密度が高い気がしたからだ。ただの気のせいであるにも関わらず気になってしまうのは、それだけ緊張感が強いからなのかも知れない。
タバコを吸わない俊一郎にとって、喫煙者が多い今日のメンバーにもウンザリだった。皆が緊張の中でタバコを吸うものだから、密封した熱気を帯びた空気にタバコの煙が混ざったのでは、苦しさ以外の何も感じることはなかった。
「お待たせしました」
スタッフが中腰になり、頭を垂れている。
「じゃあ、お前からだ。相当緊張しているんだろうが、気楽にな」
と、最初に指名されたのが俊一郎だったのだ。
――助かった――
この場の苦しさを逃れられることに一番の安堵を感じた。
立ち上がり、暗い通路を抜けると、個室に案内された。
「いらっしゃいませ」
正座をした女性が頭を下げ、こちらに挨拶している。それを見たスタッフは、
――後は任させた――
とばかりに、修一郎が部屋に入ったと同時に後ろの扉を閉め切った。
さっきまでの嫌な空気は一変し、淫靡な雰囲気に包まれた時、俊一郎はこの雰囲気が初めてではないことを意外に感じていた。
「あれ?」
と思わず声を出すと、女性も顔を上げ、きょとんとしている。その顔はお茶らけているかのように見え、大人の雰囲気を十分に感じるにも関わらず、あどけなさすら思わせるその顔に対し、バツの悪さを感じた俊一郎は、頭を掻きながら、照れるしかなかったのだ。
「お客さんは、こういうところ初めてですか?」
「えっ?」
どこで分かったのだろう? 受付けで初めてだなどと話した覚えはない。やはりずっと男性を見ていると、すぐに分かるものなのか?
「どうして分かったのかって思っているでしょう?」
と、ニッコリ笑いながら彼女は言った。
「はい、どうしてですか?」
俊一郎も素直に聞いてみたいと思ったのだ。
「今、少し意外な感じが第一印象であったでしょう? それって、初めて来たはずなのに、前にも来たような気がしたからなんじゃないですか?」
「まさにその通りです。どうしてそんなことまで分かったんですか?」
「他の女の子はどうなのか分からないんだけど、私に初めてついてくれたお客さんは、まず最初に、初めてきたはずなのに、前にも来たような気がするんですって、不思議なんですけどね。だから、今のあなたの雰囲気で、この人は初めてなんだなって思いました。それでね」
「えっ」
ここで少し彼女は言葉を切り、照れ笑いをした。
それを見ると俊一郎も少しビックリしたのだが、彼女は続けた。
「お客さんは、童貞なんじゃないですか? 違ったらごめんなさいね」
ズバリ指摘されて、どう答えていいか分からなかった。今までなら、
「まさにその通りなんですよ」
と、ズバリ核心を突かれると、すぐに興奮して詰め寄るように声を荒げて話すのだが、その時はできなかった。
気持ちに余裕がなかったのか、それとも、金縛りにでも遭ったのか、声が出なかったのだ。
その代わり、照れ笑いをするしかなかったのだ。
少し、そこで会話が途切れた。
彼女は、立ち上がり、俊一郎に抱き付いてくる。
――ここからがプレイの始まりなのか?
心地よい雰囲気が身体全体で感じられた。
キスをしてくれると、身体がとろけそうである。しばしキスを味わうと、またしても、初めてではない感覚に襲われた。そう感じると同時に、彼女は身体を離したのだ。
俊一郎をベッドに連れていき、腰かけさせた。そのまま俊一郎の服を脱がせに掛かったが、ここまで来ると、身を任せるしかない。
そこから先は、時間があっという間だったのかも知れない。
――こんなものなのか?
童貞喪失という「記念」に感じた思いだった。
ただ、彼女への思いは、まぎれもなく、自分の最初の「オンナ」であるという思いだった。
風俗の女性に恋をしたというわけではないが、この感覚も、以前に感じたような気がした。ただ、それは、失恋という思いと紙一重のような気がした。
――恋愛経験もないのに、失恋もないものだ――
まさしくその通りだ。
恋愛をしたことなどそれまでにはなかった。好きになった人はいるが、告白したこともなく、片想いだけだった。
だが、この日をきっかけに、俊一郎の中で何かが変わった。彼女ができたのも、そのすぐ後で、ずっとそれを初恋だと思っていた。
できた彼女と一緒にいる時、
――前にも同じような感覚に陥ったことがあったな――
と感じていた。それは風俗の女の子に感じたものと同じなのかまでは分からなかったが、懐かしさという意味では同じだった。俊一郎にとって男と女の関係は、元から記憶の中にあるものを引っ張り出すためのものではないかと思うほど、記憶の中に封印している意識が気になって仕方がなかったのだ。
それが俊一郎の大学時代だった。
社会人になると、少しニュアンスが違っていた。
まずは仕事が中心で、それまでは恋愛をしてはいけないとまで思っていたほどで、懐かしさを感じたり、
――前にも同じような感覚に……
などということもなかった。
時々一人になると寂しさを感じたが、恋愛の最初に感じる前にも感じた思いというのは、その寂しさに対しての反動なのかも知れないと思った。
反動が最初にやってくるというのは、おかしな感覚であるが、無理もないことかも知れないと最近は思う。何か予感めいたもののかわりに、感じるのだとすれば、これも虫の知らせに近いものだ。
それに、この感覚は自分だけではないと思う。なぜなら、風俗の彼女が言っていたではないか。
「お客さんだけではなく、他のお客さんも同じことを思うのよ」
その話を思い出すと、デジャブという言葉が就職してから気になるようになった理由も分かる。学生時代には知らなかった言葉だ。
――なぜ知らなかったのだろう?
まるで自分にはこの話題がタブーだったのではないかと思うほどだ、デジャブなどというのは、誰にでも感じることで、その気持ちになれば、まわりからも話題として上りそうな気がしたからだった……。
◇
若菜が好きな人が辞めたことで、自分も会社を辞めたというのは分かったが、なぜ、こんなことになったのかということにはまだ繋がっていなかった。
「若菜さんは、デジャブというのをご存じですか?」
「えっ」
少し驚いた雰囲気だった。初めて会った人から、いきなりこんな話をされるとビックリするのは無理もないことだろうからである。俊一郎は、何を話していいか分からない中で、さっき思った学生時代の思いをそのまま話題にしただけのことだったのだ。
「すみません。何を話題にしていいか分からなかったものだからですね」
というと、少し若菜は苦笑したが、
「実は私も、今、デジャブを感じていたんですよ。初めて来たはずのこのお部屋なのに、以前にも来たことがあるような気がしていたんですよ」
「そうなんですね」
俊一郎は、さほど驚いた雰囲気はなかった。今までにも自分がデジャブのことを考えていると、まわりの人も実は同じように考えていたなどということは珍しくなかったからである。
「驚かないんですか?」
「ええ、今までにも同じようにまわりの人が考えていたってこと、結構ありましたからね」
「そうですか」
今度は、若菜が少し寂しそうな気がした。
「若菜さんにはそんな経験ありませんか?」
「ありますけど、本当に同じ思いであってほしいと思った人には絶対に同じことを考えていたってことはなかったんですよ。不思議なものですね」
「それは、結局はお互いが合っていないということの証明のようなものだったんですかね?」
「いえ、そんなことはなかったと思います。私はただの偶然だと思ってましたけど、偶然ではないにしても、合わなかったことと直接関係があるとは、私にはどうしても思えないんですよ」
「私も、学生時代によくデジャブを感じたものです」
というと、若菜は、
「私は学生時代というと、思い出したくない過去もありましたね。思い出したくないというよりも人に言えないと言った方がいいかも知れません」
人には一つや二つ、人に言えない過去があるものである。俊一郎も風俗に通っていたことも人に言えない過去の一つだった。
最初に連れて行ってもらってから、アルバイトでお金ができると、そのお金を風俗に使うことを覚えてしまった。
風俗に通っていた本当の理由は、そこに本物の自分を見つけることができると感じたからである。
――普段の自分が人と接する時は、本当の自分じゃないんだ――
と思っていた。
どこか自分を良く見せようという思いだったり、嫌われたくないという思いがあった。風俗嬢が相手でも同じであり、むしろ、その思いは強かった。
しかし、普段の自分は、もしまわりから相手にされなかったり、嫌われたりしても、
――しょうがない。そんな相手なんだ――
とすぐに諦めていたが、風俗嬢相手に嫌われたり相手にされなかったりすることを考えるのは、我慢のできないことだった。
――本当の自分は風俗嬢の前でしか見せることがない――
と思っているからだと、学生時代から思っていた。
それは、同じ良く見せようという思いでも、どれだけ相手が真剣に聞いてくれるかというのを見定めるからだ。
――相手が商売だ――
などと思うから、風俗嬢に対して偏見を感じるのであるし、また、情に流されやすい自分の性格をどこまで制御できるかということも、大きな問題なのかも知れない。
最初は決まった相手がいたわけではない。
自分の話をどれだけ真剣に聞いてくれるかということだけで、相手を見ていた大学時代。それは相手が風俗嬢でも、大学の友達でも同じ高さの視線だった。
風俗嬢の目線を感じると、大学の友達の目線が、どうにも真剣に見えてこない。元々大学生活自体が、生活感のあまりない雰囲気なので、人を見る目がどうしても軽くなってしまう。
軽いから気にならないだけで、真剣な目線を探そうとすると、まともにこちらを見ていないことに気が付いた。だからといって、風俗嬢に情が深まったというわけではない。最初に感じていた虚しさは次第になくなっていったが、彼女たちへの感情が深まることはなかった。
それだけ、最初から感情移入が大きかったのかも知れない。
すでに飽和状態の段階で、俊一郎は、自分の気持ちを相手にぶつけているので、彼女たちも俊一郎に対して、好感度はかなりあったのではないだろうか。自分でもそう思っているが、まんざら買い被りでもなさそうだった。
――一人に決めない方がいいのかな?
同じ人に何度か相手をしてもらったことがあり、二度目以降は最初に比べて、感情は最高潮になれた。ただ、それは彼女たちへの感情が深まったというよりも、
――近づくべくして近づいた仲――
だという気持ちになれたのだ。
会話はその分盛り上がる。まるで、彼女の部屋に帰ってきたような感覚だった。
――俺も彼女ができれば変わるのかな?
彼女がいないから風俗嬢に彼女を求めているのではないかという思いは、もちろんあった。しかし、風俗に通っているから、彼女ができないのだとは思わない。作らないと思っているわけではないが、いらないという思いはある。
逆に彼女ができたら、風俗通いを止めるかと言われれば、止めないような気がする。もし彼女に見つかって、
「私と付き合いたいなら、風俗通いを止めて」
などと言われたら、迷わず、付き合いをやめるだろう。
しかし、彼女が何も言わない女性であった時が、気になるところである。痛いほどの視線を浴びているような錯覚に陥るだろう。相手が何を考えているのか分からないということが、人間関係において一番難しいところだと思うからだ。いっそのこと、罵倒されてみて、その時に自分がどう感じるかということを考えた方が、よほど気が楽である。
少なくとも、風俗の女の子に、高飛車な女性はいない。そう思い込ませているのは、まわりの女の子で、
「私と付き合いたいなら、風俗通いを止めて」
などという言い方しかできない女性しか、まわりにはいないように思えるからだ。
「私、学生時代にアルバイトで、キャバクラにいたんです」
彼女は、おもむろに話し始めた。その目は、学生時代に自分の相手をしてくれた女の子を彷彿させるもので、
――どこかで見たという思いを、そのまま感じさせる視線だ――
と感じた。
きっと、若菜は今の俊一郎の心境を分かっていて、
――この人なら、話したら分かってくれる――
という思いに駆られたのではないだろうか。
もしそうであれば、俊一郎は、男冥利に尽きる。そう感じると、またしても、学生時代に感じたことを思い出した。
――これもデジャブなんだろうか?
若菜とは、真正面から話をしてみたいと感じた。照れ臭さから、凝視できないかも知れないが、それでも真正面から見てみたい。この思いは、最初に風俗に行った日を思い出させるものだった。
結局、その日は「オトコ」になることはできなかった。萎縮してしまってできなかったわけではない。間違いなく身体は反応していた。
――一生に一度あるかないかの経験――
と思ったのは、身体の反応を精神が抑えることができたからだ。
その時のことを思い出したということは、もし今日ここで若菜に身体が反応したとしても、精神で抑えることができるかも知れない。デジャブという意識は、感情すらも過去に誘うだけの力を持っているということであろうか。
若菜には、十分な女性の魅力を感じる。キャバクラでも人気があったかも知れないと思ったが、そう思った瞬間に、若菜にジロリと睨まれた気がして、
――この人は、相手の気持ちが分かるのかな?
と感じた。
それが、自分に対して偏見の目を向けた人に対してだけなのか、それとも相手が俊一郎だからなのか、それとも、誰であっても相手の気持ちが分かる性格なのか、すぐには分からなかった。ただ、俊一郎が若菜を助けたことは、今までとは違う若菜が出来上がっていくようで嬉しい気持ちもあったが、逆に、知り合う前の若菜がどんな女性だったのかということが分からないことに、不安があったのも事実である。
――俺の知らない過去を持っている女性――
その思いは、俊一郎の中でみるみるうちに若菜への思いが膨れ上がってくることを暗示させた。
子供の頃にやはり同じような思いを感じたことがあったが、それは一人の女の子が転校性として小学校にやってきたことだった。
最初は皆珍しがって、彼女にいろいろ話しかけてくる。俊一郎は、そんな時、わざと彼女に興味などないような素振りを見せる。自分までそこで集団に入ってしまえば、その他大勢の中に入りこみ、二度と特別な目で見られることはなかったからだ。
子供の頃は、特別な目で見られることを望んだ。過去を知らない人が現れると、特にそう感じたのだ。相手も同じように思ってくれるのを望んでいる。きっと、こちらが望めば、相手も同じように感じるに違いない。
まわりのほとぼりは、いずれ冷めるものだ。しかも、一気に冷めてしまう。それまでちやほやされていたその人は、きっと寂しい思いを抱いているに違いない。
ただ、皆が離れてから急に近づくと、あまりにも露骨に思われるようだ。そのせいもあってか、俊一郎はその女の子が自分の視線に気付くまで、声を掛けようとは思わなかったのだ。
彼女の視線が気になるようになると、俊一郎は、わざとソワソワしたような態度を取った。相手から声を掛けさせようという作戦だったのだが、それはうまくいかなかった。やはり自分から声を掛けなければ、相手は動かない。お互いに意地を張っていては先に進まない。そんな時は男から折れるのが本当なのだと、俊一郎は初めて気づいたのだった。
子供の頃から、女の子とのコミュニケーションは、シュミレーションだと思っていた。まるでテレビゲームをしているような感覚で、相手と自分との駆け引きが命のように思っていた。
――冷めた考えなのかな?
と思っていたほどで、今から思えば、ませた子供だったのだろう。
そのくせ大学時代の風俗初体験の時は、おどおどした態度を見せていた。ただ、今から思えば、それも計算ずくだったのではないかさえ思う。
――オドオドしていれば、相手の女の子が喜んでくれる――
という思いが最初だけではあるが、あったのかも知れない。
「私、キャバクラでアルバイトをしていたのがバレて、就職が決まっていたんですけど、内定を取り消されたことがあったんです。一番最初に人生の悲哀を感じたのはその時だったかな?」
若菜が話してくれた。
「それで、キャバクラでアルバイトをしていたことに後悔したのかい?」
「いいえ、全然。私は、キャバクラに対して偏見を持っているその会社が大したことのない会社なんだって思っただけですよ」
この質問は愚問だったようだ。若菜の考え方は、俊一郎に近いものがあった。
「そうだね。そんな会社、こっちから願い下げって感じだね」
声に抑揚があることで、興奮気味に話をしている自分に気が付いたが、それは若菜が自分と合うかも知れないという思いがあったからだ。果たして若菜がそこまで感じてくれているかどうか分からないが、俊一郎にとって若菜と知り合えたのは、プラスにしか働かないように思えてならなかった。
「それから、今まで勤めていた会社に就職したんだね?」
「ええ、会社なんて入ってみればどこも同じなのかも知れないと思いながら、ずっと仕事をしていました。テレビドラマなんかで見ている会社とは、かなりイメージは違ったんですけど、逆にその違いが、どこの会社も同じような感じなのだろうって思わせる原因になったようで、これって皮肉なものですよね」
若菜の言ってることは半分分かったが、半分は分からなかった。
なるほど、どこの会社も同じようなものだということは俊一郎も感じていた。だが、それをテレビドラマと比較して考えるところがユニークだった。
――もし、微妙なところで違っていたら、どこの会社も同じだなんて発想は生まれなかったんだろうか?
と、感じた。
ひょっとすると、普通の女の子では経験することのできなかったキャバクラという世界で、男性を見てくると、そこから、違う視線で、会社というのを見てきたのかも知れない。そして自分が考えていた会社のイメージと、テレビのイメージが最初から違っていることを感じていたとすれば、自分が会社の中に入ると、最初に感じた思いと同じであれば、そのまま、どこの会社もあまり変わらないという意識に確証が持てたのだろう。
――若菜さんは、人生経験をしたんだな――
と思って見ていたが、そんな彼女が死んでもいいなどというところまでの悩みを抱えていたのはどういうことだろう。
「人生って、思ったようには行かないものですよね」
若菜は、ボソッと呟いた。
それは、聞こえるか聞こえないか程度の蚊の鳴くような声で、それでも、しっかり聞き取れたのは、若菜に集中していたからだろう。
部屋の中は十分に静かだった。これだけ静かだと、却って耳鳴りが襲ってくるようで、キーンという普段聞き慣れないはずの音なのに、耳から離れないでいると、普段から聞いている音のように聞こえてきた。
若菜が話すことも、その耳鳴りに吸収されてしまうように思えるくらいだったので、俊一郎は、余計に集中して聞こうと思ったのだ。
若菜の声は、声の大きさに比例して、低くなっていくようだ。そのため、声が小さすぎず、大きすぎない微妙な声の時、耳鳴りに吸収されてしまいそうになる。微妙な声の大きさは、まるで図ったかのようで、本当に聞きたいことは、その微妙な声を発する時に口から放たれるようで、よほど集中して聞いていないと、聞きそびれるのであった。
俊一郎は、若菜に近づいた。その声を絶対に聞き逃さないようにしようという意志をしっかりと持っていた。
――聞き逃せば、若菜のことを永遠に理解できないかも知れない――
そこまで考えるほど、若菜のことが気になって仕方がない。
それは若菜が、キャバクラでアルバイトをしていたということを聞いたからだった。もし聞かなければ、ここまで意識したかどうか分からない。聞く前の自分の心境を思い出すことは今さら困難だった。それだけ、若菜がキャバクラでアルバイトをしていたという話は、俊一郎にとってインパクトの強いものだったのだ。
――それにしても、死んでもいいと思うのは、どういう心境なのだろう?
死にたいと思うのと、死んでもいいと思うのとではまったく違う。
死にたいと思うのは、死のうとする意志が働いているもので、死んでもいいというのは、死ということに意識を強く持っているということである。意志と意識では、能動的なものと受動的なものという意味で違っている。死というものに対してであれば、受動的な考えは、よほど何も考えられないほど、自分を苛め抜いた後なのかも知れないと思った。どちらにしても、俊一郎には死というものに対しての閾は高い、若菜をずっと見ていて本当に分かってくるのかということも疑問だった。少なくとも、今の若菜は死んでもいいとは思っていないようだ。さっき、小さな声で呟いたのを聞き逃さなかった。
「人間、そう何度も、死んでもいいなんて思えるものではないわ」
と、確かに言っていたのだった。
死にたいという思いと、死んでもいいという思いとでは、自分の中でつける整理のつけ方が違うのだということに気付いたのは最近のことだった。整理のつけ方というよりも、考え方の違いと言った方が分かりやすいが、やはりここでは整理のつけ方の方が、頭の中でスッキリできるような気がしていた。
「実は、気になっている人が死んだことで、死んでもいいと思うようになったんです」
と、若菜は言った。
「そんなに好きな人だったのかい?」
「好きな人……。うーん、そうかも知れませんね。でも、最初は好きだなんて思いもしなかったんですよ」
「でも気になっていたんでしょう?」
「ええ、気になっていたというよりも、気にしなければいけなかった人というべきかしら? その人が私に与えた影響は、かなりのものだったんですね」
どうにも話をしていて要領を得ない。
彼女が何を言いたいのか、そもそも、俊一郎に対して、聞いてほしいと思って口にしていることなのか分からない。
――ただ、口にしないと我慢できない――
ということもあるだろう。そう思うと、若菜に対して、俊一郎はどう対応していいのか、さらに分からなくなっていた。
「その人はどういう人だったんですか?」
とりあえず、そこから聞いていくしかない。漠然とした聞き方であるが、
――若菜にとって――
というつもりで聞いているのだが、若菜はそこまで頭が回っているだろうか?
「彼がどこの誰なのか、本当は詳しいことは何も知らないんです」
まったく予想外の返事が返ってきた。よく知らない人が死んだ。そのことが自分に影響を与えるとすれば、よほどのインパクトが残っているのだろう。
「一体、若菜さんとその人の間に何があったんですか?」
若菜は、少し俯き加減で、解答を渋っているのが分かった。
どう返事をしていいのか、まるで言葉を選んでいるかのように、恐る恐る口を開いた。
「私からのアクションはまったくなかったんですが、その人は、いつも帰りの同じ電車に乗っていたんですよ。私は最初はまったく意識していなかったんですが、そのうちにその人の視線を気にするようになったんです」
「遠くから眺められているような感じなのかい?」
「そうですね。私には今までそんな経験がなかったので、気持ち悪くて、電車に乗る車両を変えてみたりしたんですが、結局その人もついてくるんですよ。それも示し合わせたように同じところに乗っているんですね」
「じゃあ、その人は、若菜さんよりも前に電車に乗っているということですか?」
「ええ、ですから、まるで私の方が示し合わせているようで、余計に気持ち悪くなるんですよ」
自分の意志に関係なく、相手の方に近づいているように思うのは、本当に気持ち悪いことだろう。
俊一郎にも同じようなことがあった。
中学の時に、嫌いな友達がいて、自分は近づきたくないのに、いつも彼がそばにいるのだ。しかも示し合わせたようにして寄って行くのは、誰が見ても俊一郎の方だった。
「違うんだ。俺じゃないんだ」
と、心の中で叫んでも誰にも聞こえない。
もちろん、声に出すことはしない。声に出してしまえば、自分の中で認めていることを、言い訳,しているだけにしか聞こえないからであろう。若菜もその時の自分と同じ考えを持っているんだと思うと、俊一郎は、若菜という女性に、さらに親近感が湧くのだった。ただ、親近感が湧いても、それは中学時代の自分で、今の自分は中学時代とは違うということを意識しているので、湧いてくる親近感に対し、素直に委ねる気にはならなかったのだ。
「その人は、一体どんな人なんでしょうね?」
若菜は、少し困ったように俯いていた。その顔は紅潮していて、恥じらいが感じられた。どうやら、羞恥に近いものが二人の間にあったのではないかということは想像がついた。
おもむろに若菜が口を開いた。
「実は、その人からストーカー行為を受けていたんです」
聞いた瞬間、ショックで声も出ないかと思ったが、次の瞬間には、
――やはりそういうことか――
と、納得した自分がいたのだった……。
◇
若菜が俊一郎に告白してくれたのは、どういう心境からなのだろう?
誰でもいいから人に聞いてもらいたかったということなのか、もしそうだとすれば、死を目の前にして、どうでもいいというような気持ちにあるだろうか、助かったことで、どうして死のうとしたのか、誰かに聞いてもらいたくなったという方が心境的にありえることではないだろうか。
――やはりそういうことか――
と、感じたその次に、急に背筋が寒くなった。ストーカー行為は自分にも経験があるだけに、自分が若菜を知っていて、彼女にストーカー行為を考えたとしたら、どんな心境になるのだろうかということが頭を巡ったからだ。
若菜という女性は、どこか神経質なところがあるように見える。さっきまでまるで死んでいたような雰囲気だった女性なので、まだ精神状態がまともではないことで、神経質に見えるだけなのかも知れない。
だが、よく見ると、華奢な体つきは、今まで自分が知っている女性の中でも小柄で一回りは小さい感覚だ。
――抱きしめたら、骨が折れそうだ――
と思うくらい華奢な身体は、抱いてみたいという感覚にはならない。
――少なくとも、俺ならストーカーにはならないな――
と思ったのだが、若菜はまさか自分が打ち明けた相手に、かつてストーカー行為があるなどということを知る由もないだろう。
いや、逆に知っていて、わざと話をしたのかも知れない。
それはまるで俊一郎をけん制するかのようなイメージだが、何をけん制しようというのか分からない。
俊一郎は、明らかに若菜に怯えを感じていた。
自分が以前ストーカー行為をしたことを知らなくとも、一緒にいれば、そのうちに気付くかも知れない。ストーカーというのは、するよりも、される方が、よほど神経が敏感になっているはずだからである。
しかも、相手が違うとはいえ、加害者と被害者の立場であれば、明らかに被害者の方が立場は強い。今さら罪に問われることはないにしても、深い仲になってしまうと、お互いの立場は揺るぎないものになってしまうに違いない。
俊一郎は、若菜と知り合った時、
――この女性とは、これからもずっと一緒にいるような気がする――
という予感めいたものがあった。それは、若菜にも同じ感覚が芽生えているのを感じ取ったからで、いくらこちらが相手を気になったとしても、相手がこちらを気にしていなかったり、無視するような感じであれば、
――この人とは合わない――
と分かるだろう。
ただ、合うかどうかということは、慎重に判断しないと難しい。ある程度好きだという感覚に違いはないと思ったとしても、
――ずっと一緒にいて、果たして違和感がないかどうか――
それが問題だと思うのだが、知り合ったばかりの相手にそこまで感じるのは、なかなか難しいだろう。
俊一郎は、どちらかというと、すぐに相手を好きになる方である。ずっと一緒にいて違和感を感じるかどうかなど、知り合った時に考えることはなかった。それは、相手と一緒にいて楽しいという初対面の感覚は、付き合い始めてからの一緒にいる気持ちとは違うからだ。
――最初で、何も分からないからこそ、相手と一緒にいる時の楽しさが新鮮なのだ――
そう、新鮮さが大切なのだ。
知り合ってすぐは、人当たりもよく、会話の話題性にも事欠かない俊一郎は、自分に酔ってしまうところがあった。まわりが見えなくなって、自分だけが先行してしまう。
新鮮なイメージは純粋無垢なイメージだけではなく、活発な行動力を伴った感覚が新鮮さとして気持ちに残ることがあった。
相手の女性にとって、それは煩わしさでしかなかった。最初はゆっくり仲良くなりたいと思っている人には、そんな俊一郎の態度は、まるで初めての家に、土足で上がりこむようなものだという感覚になるに違いない。
ただ、俊一郎が考えたのは、自分のことよりも課長のイメージの方が強く残っている。なぜか今若菜と出会って、課長が交通事故で死んだことに対して大きな不安を覚えているのだった。
課長が交通事故で死んだことを最初は偶然だと思っていたが、ひょっとして、自分の趣味の邪魔をする課長を殺したいという、俊一郎の妄想が、まさか現実になったのではあるまいか。
俊一郎は、そのことを最近気にするようになっていたことを、若菜と出会って再認識した気がした。それは、最近読んだ本を思い出したからだ。
その本は、一人の男性が、女性と出会うところから始まっていた。
その男性はすぐに彼女に恋をする。そしてその女性に対していつの間にか言いなりになっていて、彼女のためなら何でもするようになっていたのだ。
彼は犯罪行為を犯し、警察に捕まってしまう。自分に容疑が向かないような小細工など一切することもなく、まるで衝動的な行動だったようだ。
男は彼女に一種の催眠状態にされ、操られていたようなのだが、彼女はそうやってまわりの男性を使って自分が生き延びてきたような女だったのだ。最後はその男性からオンナは殺されてしまうのだが、彼女は自分に催眠を掛け、死ぬことを怖くないと意識させていたという。
――これも自殺というのかな?
何とも後味の悪い小説だったが、少し強引にも感じられる話だった。
それを読んだ時、
――俺にも何か力がありそうな気がする――
と感じてしまった。
そして、それが課長が死んだことと関係があるような気がしてくると、
――いやいや、そんなことあるわけはない――
と、否定する方が、認めるよりも難しいことに気が付いた。
――そんなバカな――
これこそ、本の中の女の力、それを自分に使った時の自己暗示のような気がした。しかも、一つのことを思いこむと、俊一郎は頭から離れなくなる。これも不思議な力の呼び水になっているのかも知れないと思うと、さらに、否定する気持ちがどんどん薄れてくる。
そんな時に出会ったのが、若菜だった。
若菜との出会いも、本当であればただの偶然なのだろうが、ただの偶然として片づけられない自分を感じると、どうして偶然ではないかを考えるようになった。
不思議な力が作用しているのではないかと思ったところに、若菜がストーカーの話をしたことで、
――もはや偶然であるわけがない――
と思った。
これが偶然でないとすれば、いろいろと考えることがある。
――若菜と出会ったのは必然だとしても、なぜ今のタイミングなのか、そして、若菜が自分に対して、そして自分が若菜に対して、どのような影響を与えようとしているのか、そして、それが自分の力とどこまで影響しているのだというのだろうか――
俊一郎は、完全に自分の世界に入っていた。
――これも自己催眠になるのだろうか?
小説の中では自己催眠に掛けた女は、死を覚悟していて、死の恐怖から少しでも逃れようと自分に催眠を掛けたとのことであるが、なぜ自分を殺そうとしている相手に、再度催眠を掛けなかったというのだろうか?
考えられることは一つあった。それは、
――催眠を掛けられるのは、一人に対して一度だけという制約がある――
ということだ。
小説の中では、そこまで明記していなかったが、それが作者の読者に対しての挑戦だったのかも知れない。
そう思えば、少しは後味の悪さが消えてきたような気がする。それこそ作者による読者に対しての、
――主人公からの最後の催眠――
だったのかも知れない。
そういえば、小説のタイトルが、
「最後のメッセージ」
というものだった。
「最後の催眠」
というタイトルであれば、内容からしっくりくるタイトルだと思ったが、内容からタイトルを考えた時、しっくりこないものを感じていたが、タイトルの本当の意味が、読者に対してのメッセージだと思うと十分に納得できる。
そこまで感じるには、何度か小説を読み返す必要があるだろう。
しかし、最後まで読み終わった時点の後味の悪さで、どれだけの人が読み直してみようと思うだろう? それこそ作者の読者に対しての挑戦のようなものだったに違いない。本の後ろに書かれた概略には、確か、
「読者への挑戦」
という言葉が織り込まれていた。
これもどれだけの人が最後のあらすじを読んでから本を開くか分からないが、それよりも、読み終わった後、ほとんどの人はあらすじの内容まで気にしていないのではないかと思う。それだけラストは後味が悪かった。
作者は女性作家で、この人の作品は後にも先にもこれだけだった。
一作品を書いたのが数年前、それから文壇の世界より姿を消したようだった。元々この本もベストセラーになったというわけではないが、一部の読者の間では、少し評判になったようだ。ネットでもいろいろ書かれていて、賛否両論、真っ二つに意見は分かれていたようだ。
――こんな作家、他にはいないよな――
と思っていた。
実際に、今まで読んだ本の中でこんな作品は他にはなかった。俊一郎の中にセンセーショナルな意識を植え付けていたのだ。
デッサンしながら、この作品のことを思い起したことも何度かあった。
俊一郎がデッサンしている時というのは、決して何も考えていないわけではない。どちらかというと、いろいろ考えて描いている方だ。
その内容は、千差万別、その時の心境によることが多く、どちらかというと、心の中にポッカリと穴が空いた時、この小説を思い浮かべていた。
心の中にポッカリと穴が空くようになったのも、実はこの小説を読んだ後に急に多くなったことで、この小説が俊一郎に与えた影響は、決して少ないものではなかった。
俊一郎の心の中では、
――心の中にポッカリと空いた隙間に、課長への恨みなどが入り込んだところで、不思議な力が生まれてきたのではないか――
と思っていた。
それが小説の内容とどこで結びついてくるのか分からないが、キーワードは、
――自己催眠――
ではないかと思っている。
「人は、自分の能力の数パーセントしか使いこなせていない」
という話を聞いたことがある。残りの能力がいわゆる超能力であって、誰もが持っているのだとすれば、それを表に出すだけではないか。それが不思議な力として認識され、
――力があるはずなのに、それを発揮できないものだと思い込まされているんだ――
それは超能力というものとして、あくまでも特別な人間しか持っていないものだと思い込まされている。
マスコミや教育によって洗脳されていると言ってもいい。
そんな状態こそ、
――自己暗示――
と言えるだろう。自己暗示がやがて自己催眠に繋がっているとすれば、催眠術という能力を誰もが使いこなせているではないか。催眠術は特別な人間にしかできないという考えは、そこで違ってくる。
そこまで感じてくると、俊一郎は、
――自分にも超能力と言われるものが使えるような気がしてきた――
と感じた。
最初は根拠のないものだったが、それが少しずつ根拠として感じられるようになったのは、デジャブの感覚が頻繁に起こるようになったからだった。
デッサンをしていて、
――前にも同じようなものを見て、同じようなことを考えながら描いていたような気がする――
と、描きながら感じ始めた。
一度感じると、次回も、その次も同じように感じるようになってくる。自己暗示の始まりだった。
次第にその思いが強くなり、不思議な力だと思い始めて、その後に課長が交通事故で死んだと聞いた時、胸騒ぎが最高潮になっていたことに気が付いた。
ソワソワした気持ちは、課長の死の知らせによってもたらされたものではなく、それ以前からあった。
その時に、小説を思い出したかどうか、、咄嗟のことで覚えていないが、課長の死を聞いた時、今までの自分なら、なるべく意識しないようにしていたかも知れない。
肉親の死だというのであればいざ知らず、死というものをあまり深く考えないようにしようという思いが今までの俊一郎にはあった。
人の死について、あれこれ考えることは愚の骨頂だ。
「可哀そうに」
と、赤の他人の死に対してそう言う人がいるが、いかにもウソっぽい感想である。俊一郎は、
――人は、誰でもいつかは死ぬんだ――
という当たり前のことから、人の生き死にに関して、あまり気にしないようにしている。気にしてもキリがないからだ。
しかも気にしたところで、虚しさが残る。気にしてしまうと、いずれ自分の死についても考えてしまうかも知れないからだ。
――そんなもの、考えたくない――
死というのは怖いものである。
「人はいつかは死ぬんだ」
と自分に言い聞かせているのは、怖いことを忘れようとする本能のようなものかも知れない。
死が怖いものだということを再認識したのは、例の小説を読んだ時だった。その時に感じたのは、
――少なくとも、もう一人、死について怖いと思っている人がいるんだ――
ということだった。
そう、作者自身である。
彼女は小説を通して、つまりは主人公の女性が殺されることを自己催眠で少しでも和らげようとしたのは、死の恐怖に対してであろう。実は作者は小説の中で一言も、
「死の恐怖」
という言葉を書いていない。そのことを意識することなく読者は読み進んでいることだろう。
俊一郎自身も、課長の死というものに直面しなければ考えることではなかった。
作者としては、
「死に直面した時に、この話を思い出してくれればいい」
とでも思って小説を書いたのだろうか?
そこまで考えていたとはなかなか思えないが、結果として読者の中の少なくとも一人は考えたのであるから、作者に対して、
――してやったり――
という気持ちにさせてしまったのではないだろうか。
「死の恐怖」を実際に味わったわけではないが、違う意味での恐怖を味わうことになった。それは自分にも不思議な力が備わっていて、それが人を死に至らしめたのかも知れないという妄想だったのだ。
妄想なので、何をそんなに恐怖を感じる必要があるのかと、誰もが思うかも知れない。だが俊一郎には、
――妄想は不思議な力がもたらしたものだ――
という考えが浮かんだからだ。
妄想というのは、あくまでも頭の中で感じたこと。それが現実にならないから妄想であって、いくらでも思い浮かべることはできる。だが、それが現実になるのだとすれば、下手な妄想をしてしまってはロクなことがない。
今まで俊一郎は、
――妄想は自分の意志によるものではなく、潜在意識によるものだ――
と思っていた。
危険な妄想をしても、決して自分に危害が及ぶような妄想はしない。自分が嫌な気分になる妄想はしないというのが当たり前だった。
――自分が嫌なことは、妄想ではない――
と思っていたが、今は違う。
――妄想は、自分の意志や潜在意識に関係のないところによるものだ――
と、そこまで考えてくると、一つの仮説が浮かんできた。
――もう一人に自分の存在――
そう、もう一人の自分が心の中にいて、その男が妄想しているのだとすれば、恐怖の理由が分かってくる。
ただ、もう一人の自分の存在は、
――自分を守ってくれる存在――
なのではないかと思う。
それは風邪を引いた時などを考えれば分かる
「熱を出したりするのは、身体の中に侵入してきた菌と身体が反応し、禁を殺そうとしていることで熱が出る」
ここでいう「身体」は、無意識のものであるが、もしそれがもう一人の自分の存在であればどうであろうか。
もう一人の自分はあくまでも影であって、表に出ることはなく、しかも無意識に動いてくれているので、その存在はまったく本人の意識の中にはない。
ただ、これは表に出ている都合のいい発想であって、もし、もう一人の自分が、勝手に暴走を始めればどうなるのだろう。考えただけでも恐怖である。それが妄想と繋がれば、さらにハッキリと恐怖を感じる。それが、俊一郎の今考えている妄想に対しての考えである。
――今なら、俺もすごい小説を書けるかも知れないな――
と感じたほどだった。
しかし、小説を書いてみようとは思わない。
――きっと、もう一人の自分が許すはずがない――
と思うからだ。
もし、小説を書こうとしたとしたら、もう一人の自分が表に出ている自分を、抹消しようとするかも知れない。
――自分が表に出ようとするのかな? そうなるということは、二人の立場が入れ替わることになって、俺がもう一人の自分になってしまうことになるな――
と感じた。
だが、もし今の自分がもう一人の自分になってしまったら、どんな感情になるのだろう?
感情を持たなくなってしまうかも知れない。あくまでも表に出ている自分にとって、
――都合のいい存在――
でしかないかも知れない。
その時に意識がなければ、それでもいいかも知れないが、なまじっか意識が残っているとすれば、これ以上辛いことはないだろう。
目の前にいて、気持ちを身体で表すことができないのだ。じれったさなどというものではないだろう。
俊一郎は、鏡に映った自分を思い浮かべた。
鏡に映っている自分も、左右対称ではありながら、自分と同じ行動しかしない。そのことに、何も疑問を感じないのは、鏡の中の自分はあくまでも映っているだけだという意識に基づくからだ。
――もし、鏡に映った自分がもう一人の自分だとすれば――
と考えると、もう一人の自分は、現実世界の自分の思い通りにしか動かない。その時に意識を持っているとすれば、これほど辛いことはないだろう。
だが、逆に鏡の中の向こうの自分も、同じ世界を持っていて、相手は相手で、
――こちらが本当の世界――
だと思っているとすれば、二人の間に違和感はまったくない。それぞれに都合よく動いているだけだ。
そうなると、鏡という媒体がある時は、お互いに同じ世界になるように何かとてつもなく大きな力によって左右されていることになる。俊一郎は、ここまで考えてくると、それ以上考えるのを止めた。きっとそれ以上は堂々巡りを繰り返すことになるからだと考えたからだ。
その時、堂々巡りという考えを与えたのは、ある状況を思い浮かべたからだった。
それは、自分の左右に鏡を置いた時の発想である。
鏡に映った自分のさらに向こうにももう一人の自分がいる。それは、鏡に映った鏡が見せている光景で、それが、永遠と続いていくのである。
俊一郎は、その状況を思い浮かべたのだった。
――妄想に何かの媒体が絡んで来れば、そこには永遠に消えることのない堂々巡りが繰り返されることになる――
という発想が結論として浮かんできた。そうなってくると、妄想はそこで終わりである。いずれ同じ妄想を思い浮かべることになるだろうが、その時もきっと同じことを感じるに違いない。
俊一郎は、
――これこそ、自己催眠――
と感じていた。
発想すること、妄想することも一つの自己催眠だと考えると、小説を書いた作家の発想が他人事ではないように感じられた。
――この人と俺は、限りなく近いところに、発想を持っているのかも知れない――
と感じた。
危険な発想であるが、今の俊一郎には考える必要がある。課長の死に対してのモヤモヤした気持ち、そして、若菜と出会ったことが偶然であれ、必然であれ、納得できる何かが形にならなければ、頭の中がパニックになって、整理できなくなってしまうだろう。そう思うと、俊一郎は巡り堂々巡りを繰り返す寸前まで考えたことを後悔することはなかった……。
◇
「私、ストーカーされていたんだけど、その人のことが、次第に気になり始めたんですよ」
若菜がゆっくりと話し始めた。
「どういうことだい?」
「ストーカーされていたことは嫌だったんですよ。自分の生活を覗かれているようで、プライバシーもあってないようなものだからですね」
「それはそうだろう」
若菜は一体何が言いたいのか、すぐには分からなかった。
「でも、実際にストーカーがなくなってから、急に寂しさを感じたんです。まさか、自分がそんな風になるなんて想像もしていませんでしたから、ビックリしました」
ふと、さっき感じていた、
――もう一人の自分――
の発想が思い浮かび、もう一人の自分が今ここで出てこないように注意しながら、若菜の話を聞いていくことにした。
若菜は続ける。
「寂しさというのは、ストーカーをされていた行為ではなく、ストーカーをしていた人が気になっているということになかなか気付きませんでした。最初は、自分が人から見られていないと寂しさを感じるような、Mのような性格ではないかと思ったくらいだったんですが、どうやら、そうではなかったようです」
若菜にMの性癖があるかないのかは別にして、相手の男性を気にするというのは、若菜の中で、少しでも寂しさが浮かんでくると、我慢できなくなるところがあるのではないかと思えた。
――死んでもいい――
と感じたのは、その気持ちの表れではないかとも思えた。
「ウサギは、寂しいと死んでしまう」
という話を聞いたことがあったが、まさしくウサギの気持ちを若菜が持っているのかも知れないと思うと、
――寂しさの定義って何なのだろう?
と思うようになっていた。
俊一郎にとっての寂しさとは、
「お前は寂しいとどんな時に思う?」
と、以前友達に聞かれた時に、
「心の中に風が通り抜けるのを感じた時」
このようなキザな言葉を吐いたことがあった。
だが、
――心の中に果たして風なんか吹くんだろうか?
と感じたのも事実。寂しさなんて、漠然としてしか感じることはないのだ。
――あの時、素直に、寂しさは漠然としてしか感じたことはないと答えた方がよかったかな――
と感じたが、それも一つの後悔だった。
今までに何度も後悔を繰り返しているが、この程度の後悔なら、限りなくしていると思う。その中の一つだが、後から思い出す後悔というのも、珍しいことだった。
――後悔など思い出したくない――
と、なるべく思うようにしていたからだ。
――そういう意味では後悔ではないのかも知れない――
後悔というのは、思い出して終わることが多いが、
――思い出したことで、何かが分かるのではないか――
という思いもあった。何が変わるかは分からないが、少なくとも若菜に出会ったことで何かが変わる気がした。もう少し若菜の気持ちを聞いてみる必要があると、俊一郎は感じていた。
趣味であるデッサンも、
――ひょっとしたら、寂しいからしているのかも知れない――
と思った。
今は彼女もいないが、以前は彼女がいないと寂しくてたまらなかった。だが、最近ではたまにであるが、
――趣味をするのに、他に気が散る要素があると嫌だ――
と思うようになった。
もちろん、それが嵩じたのが、課長への
――殺してやりたい――
という思いなのだが、課長に対しての思いのような、自分がマイナスになるような思いとは別に、彼女がほしいと思っているプラスの思いにまで、
――趣味をするのに、邪魔になる――
とまで思うことがあった。
そのことを、人に話すこともあった。
たまに飲み会に顔を出して、彼女のいないことを人から指摘されると、
「俺には趣味があるからな。彼女なんかいらないさ」
と口走るが、誰も本気にしてはいない。
痩せ我慢としか思っていないに違いないが、本人は至って本気だった。
だがら、課長を殺したいという気持ちを持っていたことを他の人が感じたとしても、
「まさか、本当に殺すようなことはしないだろうし、あいつだったら、趣味を邪魔された相手が彼女なら、別れるとでも言いかねないやつなので、どこまでが本気なのか、分かったものではない」
と、いうことで話が終わってしまうだろう。
寂しさというのは、気持ちの上でのことから始まっているので、環境によっても大きく変わってくる。
それは自然というものが大きな影響を与えることもあるだろう。
特に季節などはそうである。
「秋は寂しい季節」
とよく言われるが、誰が決めたのだろう?
確かに葉っぱや草が枯れて行き、どんどん少なってくるのは寂しいかも知れない。
しかし、本当なら完全に散ってしまった冬の方が、ぐっと寂しいのではないかと思うのは俊一郎だけだろうか。
いや、真剣に考えるから、冬の方が寂しいと思うのかも知れない。秋のように、徐々に散っていく姿は、漠然として見ているから、
「昨日まであったものが、今日はなくなっている」
という、どんどん減ってくるのが寂しさを誘うのだ。
それは、不治の病に掛かっている人が、自分の余命を知ってしまうのと似ているのかも知れない。
「あなたは余命三か月です」
などと宣告されたらどうだろう?
ドラマなどでは、余命を悔いなく過ごすようにどのようにすればいいのかをまわりの人も一緒になって考えて、悔いのない人生を送ることが最後のほろ苦いハッピーエンドに結びついてくる。
そのことを俊一郎は、考えたこともあった。
――自分なら、どうなのだろう?
と考える。
だが、考えて結論が生まれるわけがない。だから、俊一郎は、この手の映画やドラマを見ようとはしない。自分に関係ないと思っているわけではないが、必要以上に考えて、せっかくの人生を悩みながら過ごすのが嫌だからだ。
そして何よりも、
――救いようのない苦しみに入り込みたくない――
という思いを感じる。
それは、
――永遠に解けない謎であり、どこまで行ってもゼロになることのない悩み――
となる。
――堂々巡りを繰り返すのは嫌だ――
と、考えるようになり、堂々巡りが自分の人生でどうしても避けて通ることのできない問題であることを再認識させられる。俊一郎は、決して抜けることのできない堂々巡りは、自分にとってのトラウマとして、一生消えない傷となって残ることが分かっているのだった。
若菜の話を聞いていると、どうやらストーカーをしていたのは、課長のようだった。
――こんな偶然ってあるんだろうか? それとも、偶然などではなく、俺自身が若菜を引き寄せた?
もし、偶然だとすれば、若菜へのストーカーをしていたのが課長だったということと、昨日若菜に出会ったことと、どちらが偶然性が高いというのだろう?
「ストーカーをしていたその人が、この間亡くなったって聞いたんです」
というところから、
――もしかして――
ということで話を勧めていくと、課長の雰囲気と、ストーカーの雰囲気が酷似していること、ストーカーと若菜の家が近いことで決定的になったのだ。
若菜にストーカーを知っていることを話そうかどうしようか迷ったが、結局話をしないことにした。本当は最初に話をしておかないと、後になればなるほど話がしにくくなるのだろうと考えたが、知っているということを何も話す必要はいと思ったのだ。
俊一郎は、その時はまだ、若菜と親密な仲になるということを、実感していなかったのだ。
ただ、それは自分が若菜を引き寄せたと考えたからだった。もし、若菜が俊一郎を引き寄せたのであれば、話は変わってくる。もし、そうであるとすれば、俊一郎は若菜に対して感じた第一印象から、かなり印象を変えなければならないだろう。もちろん、まだ知り合ったばかりなので、必要以上の感情を持つこともないし、余計なことを考えることもなかったのだ。
「私は、ストーカーに出会う少し前まで、一人の男性とお付き合いをしていたんですが、その人と別れてからすぐにストーカーに狙われるようになったんです」
若菜が寂しそうな顔をした。
若菜という女性は、寂しそうな表情をすると、
――この人の寂しそうな表情が、男を引き付けるんじゃないかな?
と感じた。
男性が女性に引き付けられる要素はいろいろあるだろう。
笑顔の素敵な人であったり、大人の雰囲気を持っている人、その中に寂しさが男性を引き寄せる女性がいてもいいに違いない。
ただ、今までに俊一郎は、寂しそうな雰囲気を持っている女性に引き付けられた経験はない。今まで、そんな女性が自分のまわりにいなかったからであろうが、なぜいなかったのかを考えると、自分にも原因があるのではないかと思う。
男性であれ、女性であれ、異性を引き付けるのは、その人の魅力だけだと思っていたが、それだけではないような気がする。いくら魅力を感じる人がそばにいても、実際に付き合ってうまくいくとは限らない。あくまでうまくいくかどうかは、相性であって、それは魅力を感じるだけでなく、会話が成立したり、身体の相性というのも重要だったりする。そのことは、少しだけではあるが、俊一郎にも分かっている。
今までに何度となく失恋をしてきたが、最終的に、
――相性が合わなかったんだ――
という考えが別れた理由に結びついてくるのだった。
それは共通したもので、会話が成立しなかったり、中には相手から身体の相性で別れを告げられたこともあった。
理不尽だと思いながら、悩んだりしたが、結局最後は、
――相性が合わない――
という共通した理由に行きついてしまえば、理不尽だとは思うが、別れの理由に対しては納得できた。
若菜が元付き合っていた男性と別れたのも、
「実際に相性が合わなかったのよ」
と、聞いてもいないのに、吐いて捨てるような口調で言った。よほど、別れた彼のことが気に入らなかったようである。
本当はお互いに別れるつもりだったようなのだが、先に彼の方から切り出されたことが、若菜にとっては、辛いところのようだ。
だから、彼の話題になると、吐き捨てるような言い方になり、
――言わなければいいのに――
と思ったのだが、若菜という女性は、それを口にしてしまわないと気が済まない女性なのだろう。
そういう人は俊一郎のまわりにもいる。途中まで話をしたのであれば、全部話さないと我慢できない性格の人はいるものだ。若菜という女性はそんな女性で、
――自分とも似たところがあるのではないか――
と、俊一郎はその時初めて若菜にそう感じたのだ。
――自分の言いたいことをついつい口走ってしまうのはなぜだろう?
自分にも同じようなところがあり、若菜にもあるのだとすれば、若菜を見ていれば、どうして自分がそんな性格なのかが分かってくるのではないかと思っている。それがいい性格なのか悪い性格なのか分からない。いい性格であれば、知っておく方がいいと思うし、悪い性格であれば、知ることが果たしていいのかは疑問であった。しかし、若菜と出会ったのがただの偶然ではないと思うと、知りたいと思うのも当然のように思えてきたのだった。
俊一郎はまず自分がどうして言いたいことを黙っておけない性格なのかを考えた。
最初は、それを素直な性格なのだろうと思っていた。それは学生時代に考えていたことで、素直な性格ならば、悪い性格ではない。
しかし、社会人になると、それが通用しなくなった。海千山千の先輩社会人を相手にしていて、言いたいことを素直に話してしまうと、相手の術中に嵌ってしまい、主導権を完全に相手に握られてしまう。営業なら致命的だった。
俊一郎は、幸か不幸か、営業ではない。管理部門での配属であったが、商談がないわけではない。業者とのやり取りにはなるべく気を付けるようにしているが、たまに言わなくてもいいことを言ってしまいそうになることがあり、ハッとしてしまう。今までに大きな問題にならなかったが、小さな問題はいくつかあった。
――仕事の時と、プライベートでは、自分を変えればいいんだ――
簡単にできることではないが、そのことを心掛けていると、意外と気が楽になった。大きな問題にならないのは、その気持ちがあるからで、今まで意外と何とかなってきたのも、俊一郎の特徴でもあった。
――気の持ちようで何とかなるものだな――
神経質にばかりなっていても、ネガティブになるだけだ。俊一郎には以前からネガティブに考えてしまうところがあったが、逆に何とかなると思うようになり、一度でも何とかなると、それを信じようと思ったことが、いつも功を奏しているのかも知れない。
若菜を見ていると、少し俊一郎とは違うようだ。
どうしてもネガティブに考えるところがあるというのは、今までの俊一郎の目から見れば分かることだ。
俊一郎は、少し前の自分を想像してみた。
――もし、少し前の自分と若菜さんが知り合っていれば、どんな関係になったことだろう?
お互いにマイナス要素を引き出すことになるかも知れない、今の俊一郎であれば、
「マイナスとマイナスを掛け合せれば、プラスになるさ」
と、能天気と言えるほどの発想をするに違いないが、自分がマイナス要素であれば、そんな発想に行きつくはずもない。
俊一郎は、前を歩いていて、後ろを振り向いている。前を向いている時は気配をすぐ後ろに感じていたはずの若菜が、思ったよりも遠くにいることに気付く。
――想像よりもネガティブな性格なのかも知れない――
と感じたが、それよりも、若菜に昔の自分を感じているのではないかと思うようになっていた。
若菜のいる位置が、以前の自分のどのあたりだったのか、前を向いて気配を感じている時は、さほど前ではないと思っていたのに、実際に自分の過去と照らし合わせれば、かなり遠いということは、今の自分から感じる彼女のイメージと、自分の過去とではずれがあるようだ。
そのずれが一体何かと考えていると、行きつく先は、
――寂しさ――
という感覚だった。
話を聞いているだけでは、さほど寂しさを感じない若菜だったが、自分の過去と照らし合わせると、彼女のような考え方をしていた時期は、俊一郎にとってかなり以前のことであり、その時には寂しさをハッキリと感じていたのだ。
逆に言えば、俊一郎が今の性格に行きつくまでに寂しさという感覚をずっと持っていたはずなのだが、思ったよりも、かなり以前に寂しさという感覚から脱皮していたのではないかと考えた。
寂しさがなくなっても、それ以外の要素から、どうしてもポジティブになれないところがあった。それは、俊一郎がデッサンを始めた時期が関係している。
デッサンを始めると、それまで感じていた寂しさはなくなった。
「彼女なんていなくていい」
と言っていたくらいだからである。
だが、心の中でどうしてもポジティブになれなかった原因は何かハッキリとはしないが、その間にあったものが一つの不安だったのではないかと思うようになった。
それが、趣味をしている時に、誰かに邪魔されないだろうかという気持ちである。
課長を殺してしまいたいとまで思った危険な考え、あれは、不安から生まれたものだ。不安がある程度現実になり。自分の趣味に関わってくるかも知れないと感じた時の焦りを思い出すと、何とも言えない気持ちになった。
若菜が自分のすぐ後ろにいると感じた時、若菜が自分のそんな気持ちを分かっているのではないかと一瞬不安になった。
不安になって振り向いた時、若菜の姿が、遠くにあったのを見た時、正直ホッとした気分になったのも事実だ。
――もし、若菜さんと自分が知り合うことは決まっていたとして、どうして今なのだろう?
俊一郎は、若菜とは知り合うことは運命づけられていたとして考えるようになった。その上で、
――知り合うにしても、タイミングが必ずあるはずだ――
という、以前からの考えを、若菜との出会いに当て嵌めてみようと思う。
――若菜は、自分が歩んできた道を、後ろから歩んでいるのだろうか?
と考えるようになった。
だが、すぐにその気持ちは否定された。
――同じ道を歩んでいる人なんて、いるはずはないんだ――
俊一郎は、後ろを振り返った時、若菜が歩いている道を自分の道だと思ったが、考えてみれば、こちらに向かっては来ているが、自分の歩いてきた道ではなかった。道は俊一郎のまわりに放射線状に広がっていて、そのうちの一つを若菜が歩いているだけだった。
――出会いという道を歩いているだけなのかも知れない――
俊一郎が若菜を意識したから見えた道、普段想像すれば、決して見えることのない道ではないかと思った。
ただ、その道はまわりには草一本生えていない道で、舗装もされていない。薄暗い照明がついているだけで、若菜に感じた寂しさは、道を見れば一目瞭然だったのかも知れない。
もちろん、これは俊一郎の妄想だった。
俊一郎にとって妄想は、
――相手を理解するための手段の一つ――
でもあったのだ。
だが、人は考え事をする時というのは、何かを思い浮かべるものではないだろうか。
たとえば、一日の中の時間を思い浮かべる時、アナログの時計を思い浮かべて、長針、短針の角度によって時間を想像し、そして情景を想像するものではにないだろうか。
その発展型として、一年を月で見る時も、同じ十二である。時計をイメージする人も少なくはないだろう。俊一郎はそうなのだ。
どこまでが想像で、どこからが妄想なのかというのも難しいところだが、俊一郎が今若菜に対して想い浮かべた発想も、妄想だと思っている。
俊一郎が、妄想だと思ったのは、若菜に対して寂しさを感じた時、ただの寂しさだけではないことを感じたからだ。
寂しさを感じる人は、寂しさを解消しようと、まず考えることは、
――パートナーを見つけること――
である。
恋人なのか友達なのか親友なのか、その時のその人の心境によっても違うだろう。だが、若菜を見ていて、寂しさを感じながら、パートナーがほしいというイメージが浮かんでこないのだ。
まるで、もうパートナーはいるのだが、その人が自分の手の届かないところにいるのではないかというのを想像してしまった。
――まさか、そんな――
俊一郎は、そこまで考えると、またしても妄想が膨れ上がった。
若菜の寂しさに触れようとした瞬間、若菜の感情にも触れた気がした。それは寂しさではなく虚しさのようなものがあり、それをどう処理していいのか、自分の中で整理しきれないでいたのだ。
――若菜は、そのストーカー、つまり、課長のことが気になっていた?
それが恋愛感情だと言えるかどうかまでは分からないが、寂しさからパートナーを見つけようとする気持ちではないことが分かったことで、理解できた気がした。
振り返った時、遠くにいる若菜を感じたのは、それだけ最初から距離があるということだ。
遠くにいてこちらを見ている若菜の目は、憎悪に満ちていたのかも知れない。すでに妄想から覚めてしまっているので、もう二度とその世界を覗くことができないのは、俊一郎にとって口惜しかった。
◇
朝まで若菜と一緒にいたが、二人の間に何かがあったわけではない。妄想とはいえ、若菜が気にしている相手が、自分が殺したいとまで思い、実際に死んでしまった相手だと思うと、急にそれまでに漠然としてではあるが、見えかかっていた若菜という女性の全貌が、急に霧が掛かったように見えなくなってしまったのだ。
朝になると、
「今日は、どうもありがとうございました」
と、言って若菜は俊一郎の部屋を後にした。
今までであれば、連絡先くらい聞いておこうと思うのだろうが、若菜との「因縁」を考えると、そこまでの考えはなかったのである。
――彼女とは、もう二度と会話することもないだろうな――
と思った。
若菜は、俊一郎の態度の変化に気が付いたようだ。課長の話をした後、態度が変わったことに気付いたはずである。
――彼女は結構聡明なのかも知れないな――
ただ、俊一郎と同じで、考えていることを隠すことができない性格なのではないかと思った。
その性格のおかげで、今までに何度も痛い目に遭ってきているが、痛い目に遭わせていたその人こそが、課長だったりする。
言葉尻を捕まえて、揚げ足を取ったような言い方をする課長に、何度憎悪の気持ちを抱いたことだろう。
――若菜さんも、揚げ足を取られるような言い方をされて、困ったことが何度もあるんだろうな――
特に女性同士というのは、男性よりも露骨なところがあるという話を聞いたことがある。もちろん、全員がそうだとは言わないが、露骨な態度を取られると、気の弱い人は、精神的に参ってしまうこともあるだろう。神経内科に通ったりする人も若い女性には多いと聞く。自分の性格が災いしている人も中にはいるに違いない。
――若菜さんは、課長のことを自分が気にしているのを分かっているのだろうか?
死んでもいいと思った気持ちが、本当はどこから来るのかを考えてみた。
課長は死んだのだから、もうストーカー行為に悩まされることはない。解放された本人が、
――死んでもいい――
などと思うのもおかしなものだ。やはり課長のことを気にしていて、その課長がすでにこの世にいないことで、自分の気持ちを確かめることができない状態になり、前にも進めず、後ろにも下がることができるわけもなく、まるで、両側が断崖絶壁の狭い道に取り残された感覚になっているのかも知れない。
もう二度と会うことはないと思っていた若菜が俊一郎の部屋を訪ねてきたのは、それから一週間くらい経ってからだった。
若菜は、部屋の前で俊一郎が帰ってくるのを待っていた。
「どうしたんですか? 何か忘れ物でも?」
忘れ物なら、翌日にでも分かるというもの、一週間という期間が長かったのか短かったのかはハッキリとしないが、俊一郎にとっては、中途半端な期間に思えてならない。
一週間経った今から、若菜がこの部屋にいたあの晩のことを思い出すと、まるで昨日のことのように思えるのだが、時間はあっという間だった。あっという間に感じるということは、まるで夢を見ていたという感覚に似ている。もしかすると、もっと後になって表れると、夢を見ていたという感覚ではないかも知れない。逆にもっとハッキリと思い出せたのではないかと思うくらいだった。
――そういえば、同じ曜日だったな――
曜日が同じだと、一週間を一つのサイクルだとして、感覚的にはそれほど期間が経っていないように感じる。中途半端だと思ったのは、そのためである。
今日は、仕事が終わって、そのまますぐに帰ってきたので、それほど待たせたとは思えないが、もし、本屋にでも立ち寄っていれば、もっと遅くなったことだろう。この寒い中、彼女はずっと待っているつもりだったのだろうか?
「ずっと待っていたのかい?」
「そんなに待っていませんでしたよ」
「もし、俺が遅くなっていたら、どうしていたんだい?」
「しばらく待って帰ってこなかったら、来週の今日、もう一度来るつもりでした」
と、若菜は答えた。
若菜を部屋に招き入れると、急に自分の部屋に寒気を感じた。
いや、寒気というよりも、ゾッとするような気配で、それが若菜から発せられていることに、すぐ気付いた。とりあえず、コーヒーを淹れて一緒に飲もうと思ったが、それまで若菜は一言もしゃべろうとしなかった。
「一体、どうしたんですか?」
「私、今自分がよく分からないんです。この間、もう死んでもいいと思っていたのかと思うと、今度は、自分以外の人に死んでほしいと思うようになっているのに気付いたんです。前にストーカーをしていた人がいたって言ったでしょう? 私は、その人に死んでほしいと思っていたら、事故で死んだっていうじゃないですか。最初は私がそんな風に思ったから、あの人は死んだのかって思っていたんですけど、でも、考えたら、その人のことだから、私以外にも恨んでいる人がたくさんいたんじゃないかって思うんです。だから、私以外の誰かが彼のことを殺したんじゃないかって思うようになって……」
俊一郎は、ゾッとした。確かに彼女の言う通りだ。自分の恨みなど、彼女がストーカーを受けていたことに比べれば小さなことである。それに、自分だけが課長を恨んでいたわけではないということは前から分かっていたが、まさかストーカー行為をしていたなどと思いもしなかった。
――でも、俺も昔はしていたんだよな――
相手がそこまで恨みに思っていなかっただけなのか、しかし、彼女の話を聞いていると、俊一郎も、他の人にどんな恨みを買っているのか、分かったものではない。ゾッとしたのは、そのせいだった。
若菜の話に対して、俊一郎は何も答えることができなかった。その日の若菜は、そのまますぐに帰ったのだが、なぜ一週間後に現れたのか、俊一郎は分からなかったが、一週間という単位は俊一郎にも気になる期間であった。
一日があっという間に過ぎる時というのは、一週間を思い出すと、結構長かったりする。逆に一日が結構長い日が続いた時というのは、一週間はあっという間である。
あっという間に過ぎた一週間でも、一週間前を思い出そうとするか、かなり前だったと思うのに、結構長かった一週間というのは、一週間前を思い出すと、今度はまるで昨日のことだったような気がする。それは、まるで、
――点と線の世界――
のようだ。
一週間というのが線であり、一週間前というのが点である。
しかも、そこに時間という概念が絡み合っていることで、見えていると思っている感覚が歪になっているのかも知れない。
この間思うに至った、人生のタイミングを感じた時に、自分の歩いてきている道を若菜は歩いているわけではないと思った感覚。それは自分にも言えるのかも知れない。
過去を振り返った時、本当にいつも同じ見日が見えているのかを疑問に感じることがあった。それを思い出していたのだが、それがその時の精神状態の違いによるものなのか、それ以外にも何か特別な感覚があるのか、俊一郎には分からなかった。だが、一週間という単位を、俊一郎だけでなく、若菜も感じている。
――ということは、若菜以外にも同じような感覚を一週間に抱いている人もいるはずだ ――
と思うようになった。
若菜と出会ったことで、今までに感じたことのないいろいろなことを感じるようになった。
それは、若菜と出会わなくても、いつかは感じることになるはずのもののような気もするが、若菜と出会ったタイミングが、ちょうど、俊一郎にいろいろなことを考えさせるタイミングであったのかも知れない。
――それは若菜にも言えることなのかも知れない――
若菜も一人でいろいろ考えるところがあると言っていたが、なかなか結論に至る考えが浮かぶことはないと言っていた。
それは俊一郎も同じだったが、若菜と出会うことで考えが繋がるようになった。
――人と考えが共鳴することがあるという話を聞いたことがあったが、こういうことを言うのかも知れない――
と俊一郎は思った。
人との出会いが自分にもたらすものは、一足す一は二にとどまることがなく、三にも四にもなるということを示しているのではないだろうか。
――若菜さんが媒体となって、いろいろ見えなかったことが見えてきた。ただ、それが俺にとっていいことなのか悪いことなのか、よく分からないな――
集団の中にいたくないという性格は俊一郎も若菜も同じだが、二人という世界にお互い分からなかったことを見つけ出すカギを見つけたのだった。
その日の夜、俊一郎は、
――若菜さんとは本当は初対面ではなかったんじゃないか?
と思うようになった。
ストーカーを繰り返していたというのが課長ということもあって、過去のどこかで俊一郎と若菜は接点があったのではないかと思ったのだ。それは、思い出したくない過去だったからなのかも知れないが、気になるのは、最近自分が忘れっぽくなってしまったことであった。
覚えていようと思うことを覚えられない。
「メモに書いておけばいいじゃないか」
という人もいるだろう。
しかし、メモに書いたとしても、書いたメモを見て、その時どんな心境でメモにしたのかを思い出せない。ひどい時にはどこに書いたかすら覚えていない。
メモに残すということは、それだけその時に感銘を受けたことであり、忘れたくないと思っていることである。その時は理解しているつもりで、
――後からメモを見れば、その時の心境も思い出すはずだ――
と思っていた。
確かにメモに残し始めた最初の頃は、メモを見るとその時の心境を思い出すことができるのだが、今では、その時の心境を思い出すことができないので、メモを見ても、何を考えて書いたのかというところまで行きつかない。ただの落書きと化してしまっているのだった。
それがいつ頃だったのだろうか?
デッサンを趣味にし始めた頃だったという意識を持つようになったが、それは、
――一つのことを手に入れると、何か一つ失うことになる――
という考えに基づいている。
その考えに根拠があるわけではない。だが、今までに何かを手に入れた時、何か失ったような気持ちになることがあった。
彼女ができた時でもそうだった。
嬉しくて有頂天になっていたが、手放しで喜べない自分がどこかにいたのだ。
――好事魔多し――
ということわざを思い出したが、それが不安から来るものであることは分かっていても、不安がどこから来るものなのか分からない。一つのことに行きつくと、さらにその先を見ないといけないのは、
――永遠に結論など見えない堂々巡り――
を想像しているからなのかも知れない。
――一体どこまで付きまとうんだ――
堂々巡りに関しては、普段から意識している。堂々巡りは不安とは背中合わせの切っても切り離せないものではないかと思うようになっていた。
――まるで、長所と短所のようだ――
長所と短所も背中合わせだと思っている。しかも、紙一重の背中合わせである。堂々巡りと不安は、また違っている。不安の中に堂々巡りが含まれるからだ。
そこまで考えてみると、
――長所と短所も同じではないか?
と思うようになった。
長所の中に短所が含まれているのか、短所の中に長所が含まれているのか、どちらもありのような気がする。
一つの大きな箱を開けると、そこには長所と書いてある箱があり、さらにその箱を開けると、今度は短所と書いてある箱が出てくる。またその箱を開けると、今度は長所と書いてある箱が見つかって……、そんなイメージが、俊一郎の頭の中に浮かんでいた。
俊一郎は、自分の長所と短所を考える時、鏡を思い浮かべた。鏡に映った自分に語り掛けるようにすると、鏡の中の自分は声には出さないが、答えを与えてくれるような気がしたからだ。
それは、鏡の中の自分は、違う自分だと思っているからだ。同じ自分ではあるが、違う世界の自分。そして、それは一人ではない。その時の心境によって、違う自分が鏡に映し出される。まるで鏡は、
――自分の心を映しているものであり、映し出された自分は、別の世界にいる、その時の心と同じ考えの自分なんだ――
と感じていた。
鏡の中の自分も、同じことを考えているに違いない。鏡の中の向こうには、どんな世界が広がっているというのだろう?
鏡の中の世界は、何も同じ時代である必要はないと思うようになっていた。過去に同じような経験をしたことで、鏡を見た時だけ、過去の自分が現れる。
だが、そのことに気付くのは、タブーである。
過去においては、かなり制約されたものを感じ、未来に関しては見ることは許されない。時間というものを感じると、そこにあるのは、
――現代の自分が関わってはいけないこと――
ということになる。
思い出として思い出す分にはいいのだが、疑問を抱いたりすることはない。普通であれば、過去に対して疑問など抱く必要はない。
――過去を変えることはできない――
という発想は絶対のものであって、過去を変えてしまうと、どこに影響がおよび、自分や自分のまわりにいる人が存在できない未来を作ってしまうかも知れないからだ。
俊一郎は、前にもこんなことを考えたような気がした。記憶が曖昧になったり、忘れっぽくなったのは、そんなことを考え始めたからだった。
――普通の人はこんなこと考えないよな――
SF作家であれば、いつもそんなことばかり考えているのかも知れないが、SF小説を読んだこともあったが、あの時の感想として、
――ここまで考えたのなら、もっと深く考えることができないものなのだろうか?
と、中途半端な気分になったのを覚えている。その時は、
――これ以上の考えはしてはいけないんだ――
と思った。
そう思うと、SF小説を読むことに興味がなくなり、それ以来読んでいない。
夢に限界があるように、人間の発想にも限界があるということなのだと思う。夢をそのまま表現することができれば、その人は十分に小説家になれるのではないだろうか。
目が覚める時に夢を忘れて行くというのも同じような発想ではないだろうか。夢には時系列も現在、過去、未来の感覚はあっても、現在と過去が入り組んでいたり、未来だと思っていたことが、実は過去だったりするものだ。
夢には限界があるのかも知れないが、限界を作っているのは、潜在意識である。そういう意味では潜在意識の介入しない夢などありえないというもので、夢を忘れてしまっているわけではなく、元々意識としてあったものがただ映像になっただけなのだ。起きている時には、それを見ることができない、だから、忘れてしまったような気になるだけではないだろうか。
俊一郎は、夢の中でも妄想でもいいから、過去に戻ってみたいという思いに駆られるようになっていた。
ただ、どの時点に戻っていいのか分からない。それが夢なのか妄想なのかで、かなり違うのではないかと思うのだった。
俊一郎は、人の死について、気になっていた。
特に最近、殺したいと思った課長が死んだ。まさか自分の思いが課長を死に至らしめたわけではないのだろうが、気になって仕方がない。
しかも、課長にストーカー行為を受けていたという若菜が目の前に現れた。状況としてはまったくの偶然だったのだが、本当に偶然で片づけられるのかどうか、気になるところだった。
若菜は、死んでもいいという心境になっていた。身体は冷え切っていて、その時の心境を物語っているようで、痛々しさが身に沁みた。
俊一郎は、若菜の話を聞いているうちに、若菜が課長を気にしているのを感じた。ストーカーをしている相手が気になるというのは、普通では考えられない。恋心ではないのだろうが、限りなく恋心に近いものを感じたのだ。
そして、若菜は、何か後悔と不安を抱えているように思えた。
それは、自分が課長を死に至らしめたのではないかという思いが強いということだった。それを感じると、俊一郎は、
――若菜さんが同じことを考えたのだから、課長は俺たち二人以外からも、殺してやりたいという思いを抱かれていたのかも知れない――
と思うようになっていた。
それが、今までに俊一郎のまわりに起こった現実と、それに伴った考えだった。
俊一郎が、自分の中で、
――消し去ってしまいたい過去――
というものをいくつも持っていることに気が付いた。
過去を振り返ったことは今までに何度もあったが、消し去ってしまいたいと思っている過去に目を瞑ってきたのではないかと思う。過去の記憶の中にはすべてが入っているとしても、過去の記憶として引っ張り出す時は、都合の悪いことは封印してしまっているのだろう。そして、都合の悪いことを思い出すのは夢の中だけである。それが戒めだとは言わない。戒めなら、夢から覚める時に、覚えていないということはないからだろう。やはり、潜在意識というのは、都合の悪いことには蓋をするようになっているものに違いない。
俊一郎は、もし戻るとすれば、自分がストーカーをしていた時に戻って、やり直したいと思うようになった。
あの時から自分は変わった。風俗にいそうな女の子を思い浮かべて、友達に連れられて風俗に赴くと、そこで、
――前にも感じたことがあるような――
というデジャブを初めて感じたような気がした。
学生時代のことを思い出すと、今までは、ついこの間のことだったように思えたのに、今過去に遡りたいと思ってから、急にかなり昔のことのように思えてきた。それは、一週間という期間を考える時、一日単位での考えを正反対であるかのごとく、過去を見ようと改めて思ったことで、遠い過去として感じるように、自分の中の何かが心境を操作しているのではないだろうか。そう思うと、俊一郎は、
――考えるのは夢の中ではなく、妄想になるのだ――
と感じた。
寝ていて考えると別の世界の自分が邪魔をする。妄想なら起きている自分が思いこむことなので、邪魔はないだろうと思うからだった。
ストーカーまがいのことをしていた大学時代に、妄想は遡っていた。
もう一人の自分が目の前の世界にいる。もちろん、こちらのことは分からない。マジックミラーのように、こちらからは見えるが、相手からは見えないのだ。それでも、
――そういえば、時々誰かに見られていると思ったな――
と感じた。
その感じたことが、自分のしていることをストーカーであると思わせたのかも知れない。
ただ、最初から何か悪いことをしているのだという意識はあった。意識したその時にやめることができなければ、時間が経つにつれて、やめることができなくなる。そのことを教えてくれたのも、誰かに見られているという感覚からだった。
同じような経験は、今までに何度もあった。
好きになった人に告白する時も、思い立った時に告白しなければ、次第に声を掛けにくくなる性格であった。だが、それは他の人も皆同じで、程度の差がどれだけ表に出てくるかによって、その人の性格が分かるというものだった。
時間が経つにつれ、いろいろなことを考えてくる。やめられなくなってしまうのは、後悔するのが怖いからではないだろうか。悪いことをしていると思いながらも、
――ここまでやったのだから、後戻りはできない――
という思いが頭を過ぎる。
そこには、意地とは違うものが存在していた。自分がストーカー行為をしているのは、相手も知っていることで、本当はここでやめてしまえば、それ以上問題が大きくなることはない。
もし、相手が気付いていなければ、やめていただろう。気付いていて敢えてやめないのは、見られることの快感のようなものが存在しているからだ。
やめるには、何かのきっかけが必要だった。警官に声を掛けられたことよりも、彼女が風俗でアルバイトをしていると聞いたからだ。
それまでの俊一郎は、悪いことをしているという思いよりも正義感の方が強かった。それも、勝手な思い込みの正義感である。
その時、俊一郎は、人生の分岐点を見たような気がした。風俗に連れて行ってもらった時のことを思い出していたが、あの時の胸の鼓動は、今思い出しても新鮮だった。風俗に対して持っていた偏見と自分がもう一度過去に遡りたいと思った時、ストーカー行為をしていた時を考えたのは、自分が考えたのではなく、何か自分の知らないところで力が働いたからではないかと思った。
さっきまで、妄想は自分の頭の中で繰り広げられていると思っていた。まるで夢のように潜在意識が働いて、過去のストーリーを都合よく変えてしまおうとしているのだと思っていた。
しかし、働いているのは、自分の中の意識ではない。ましてや都合よくストーリーが展開される舞台は整っていなかったのだ。
俊一郎が追いかけていた女の子は、まるで記憶にない別人であった。彼女は、まるで修羅のごとく、俊一郎を睨みつける。
――あの時、こんなに接近したわけではないので、彼女の顔をハッキリと見ていないが、悲しそうな顔だけが印象的だったのに、こんなに激情してしまうなんて、信じられない――
と感じた。
彼女に感じたのは、暗いというイメージより、大人の雰囲気を醸し出す清楚な雰囲気だったはずなのに、どうして暗いというイメージだけが残っているのだろう。それはきっと彼女が風俗でアルバイトをしているというイメージが頭の中に残ってしまったからに違いない。
――彼女がそのイメージを払拭させようと、俺をこの時に呼び寄せたのかな?
と思ったくらいだ。
そこは妄想というよりも夢の中だった。俊一郎は気付かないうちに眠ってしまって、夢の世界に入り込んでしまったかのようだった。
そこにいるのは、大学時代の自分と、大人の雰囲気を醸し出している彼女だったが、大学時代の自分は、もちろん、夢を見ている自分に気付いていない。
彼女を、大学時代の俊一郎はじっと見つめている。その視線に対して彼女は怯えを感じているようだった。それなのに、こちらを見ては、怪しげな笑みを浮かべている。
――その瞬間を大学時代の俺は気付いていないんだ――
その時の俊一郎は、ストーカーの気分になっていた。大学時代の自分がなりきれなかったストーカーである。
――どうせ夢なんだ――
という気持ちで見ていると、大学時代の自分にもその気持ちが乗り移ったのか、表情が変わってきていた。
もはや、そこには彼女の笑顔を見てみたいと思っていた自分はいない。夢の中なので何でもありだと思っている自分がいるだけだった。
――こんなはずではなかったのに――
何のためにこの時に戻ってみたいと思ったのか、やはり、彼女に呼び寄せられたというのだろうか。
「危ない」
遠くから、微かに聞こえたはずの声が、耳鳴りになって共鳴している。それは、夢を見ている自分も同じ時、大声を出してしまったからであった。
気付いて後ろを見た時には、もうすでに遅かった。恐怖に歪んだ大学時代の俊一郎は、後ろから走ってきた車に、あっという間に轢かれてしまった。
まるで人形のように宙に舞ったかと思うと、ドスンという鈍い音とともに、地面に叩きつけられた。即死である。
「じゃあ、今ここにいる俺はどうなるんだ?」
見てはいけないものを見てしまったと思った俊一郎は、そのまま意識がなくなってしまったのだった……。
◇
死んでしまった自分を見たというショックで、目を覚ますかと思ったが、まだ俊一郎はその世界にいた。
――まさか、このまま目が覚めないんじゃないだろうな?
少なくとも、死を見た瞬間に、自分が消えてなくなったわけではないので、目の前で繰り広げられた交通事故は、架空なのだろうと思った。
――自分だと思っているけど、実は違う人だった?
いや、さっきまで見えていたのは、間違いなく大学時代の自分だ。目の前には交通事故を聞きつけて、野次馬が集まってきている。そのうちに真っ赤なパトランプを光らせて、警察がやってくる。思わず、隠れようとしたが、
――相手には見えないんだった――
と思い返して、ホッとした気分になった。
だが、よくこの状況でホッとした気分になれたものだと思うほど、殺伐とした雰囲気が目の前に繰り広げられている。
それにしても、人の死というのは、何ともあっけないものだ。目の前で起こったことがあっという間に過ぎ去ったことで、あっけなさを感じるのだが、まるで他人事だ。何しろ自分は痛くも痒くもないからだ。
しかし、人影で見えないが、目の前に無残に横たわっているのは、紛れもなく自分なのである。
やがて、群がっていた人が、急にその場から離れようとしている。皆何かに怯えているようだ。その姿は、夢を見ている俊一郎を不安にさせた。
俊一郎には、何が起こっているのか、何となく分かるような気がしていた。しかし、それを認めることはできるはずがない。
ただ、目の前で繰り広げられていることが想像した通りであれば、信じられないことだが、理屈は通る。元々この夢だって、普通の夢を十分に逸脱しているようではないか。そう思うと、人が離れていくのを、固唾を飲んで見守る俊一郎だった。
そこに横たわっているのは、自分ではない。だが、見覚えのある顔だった。
――意識が交錯しているようだ――
その人の顔は、まさしく課長ではないか。
すると、大人の雰囲気を持ったその女性は、若菜だということになるが、果たして、少し離れたところで立ちすくんでいるのは、紛れもなく若菜だったのだ。
震えから一歩も前に踏み出すことができないようだった。だが、彼女が何にそんなに震えているのか、彼女のことを知っているつもりの俊一郎には分からなかった。
まるでどんでん返しのようだ。
歌舞伎などで、急に部隊が百八十度回転し、まったく違った様相を示しているようであるが、この夢の中では、舞台は同じで、人間が入れ替わっている。それもどんでん返しの一つとして捉えていいものなのだろうか。
夢の世界は、俊一郎の考えた通りに展開していく。しかし、夢というものはそんなに簡単に自分の考えた通りに展開していくものであろうか。ここでまた一つ、俊一郎に疑念が浮かんだ。
――これは本当に自分が見ている夢なのだろうか?
誰か他の人が見ている夢の中に、自分が入り込んでしまったような感覚である。まるで「夢の共有」とでもいうべきであろう。
若菜の震えが怯えだと思いながら、再度、倒れている人を見た。
――あれ?
今度は、そこに倒れている男の顔は、俊一郎の顔だった。それも大学時代の俊一郎ではなく、今の自分だ。鏡に映せば同じ顔を見ることができるであろう顔が、断末魔の苦痛を顔に浮かべて、虚空を見つめている。
再度、若菜の顔を見た。
今度の若菜は、震えていない。怯えなどどこにも感じない。俊一郎はその時、また突飛な発想が浮かんでいた。
――この夢の本質は、若菜の表情にあるのではないだろうか?
死んだ人が中心になっているかのように見えるこの夢の本質は、横たわっている男ではなく、若菜の表情なのだと思うと、さっき考えた「夢の共有」を説明することができる。
この夢を本当に見ているのは若菜であって、同じ夢を俊一郎は共有している。だが、俊一郎が見ている夢は、本当に若菜が見えている光景と同じなのかが疑問であった。
若菜の方に、その意識があるのかどうか、微妙な感じがする。もし若菜に意図があるとすれば、俊一郎を引き寄せる主旨がどこにあるというのか、考えないわけにはいかないだろう。
――若菜は夢の中で、二人の男性を比較しているんだ。課長に対しては、殺してしまったことに対して後悔の念で震えているが、俺に対しては――
そこまで考えると、それ以上考えるのが怖くなった。
若菜は、俊一郎を殺そうと思っているのだ。それは、課長を殺してしまったのが俊一郎だと思っているからなのか。逆に、俊一郎に、自分たちのことがバレてしまって、邪魔になって殺そうとしているのだろうか?
――邪魔になって?
邪魔という発想は、俊一郎と課長の間にも存在したものだ。この三人の間に存在する共通のキーワードは、「邪魔」という言葉であった。
夢の中ではあるが、こんな形で三人が繋がるなど、俊一郎には皮肉にしか思えなかった。
俊一郎は、迷っていた。自分の夢ではないという考えが浮かぶまでは、主人公である自分を第三者として見つめることが夢を見ていることだと思い、夢には介入できるものではないという意識だった。
夢が若菜のものだと思うようになると、確かに夢を見ている自分が介入できるはずはないのだが、誰を中心に見ればいいのかを考えるからだ。
――待てよ?
これが若菜の夢だということであれば、夢を見ている若菜もどこかにいて、夢の中の若菜を第三者の目で見ているのかも知れない。そう思うと、俊一郎は、夢の中だけではなく、夢のまわりにいるであろう若菜を探してみようと思ったのだ。
夢を見ている若菜は、そんなことを考えている俊一郎が、夢の外にいるなど想像もしていないかも知れない。自分の夢に誰かが入り込んでいるなど、俊一郎だって考えたこともない。
――人の夢に入り込む方が分かりやすいものなのかも知れないな――
と考えるようになっていた。
夢というのが潜在意識の見せるものであるとするならば、主人公はあくまで自分でなければいけないはず、しかし、この夢のように自分の知らないことが夢の中で繰り広げられると、さすがに不思議に思うだろう。
まずは恐ろしさを感じ、怖い夢だという意識を持つ。夢だと思って見ていると、
――どうせ夢なのだから――
という意識が夢を見ている自分のどこかにあるはずだ。それなのに怖い夢を見たという感覚になるのは、きっと自分の想像もしていないことを夢に見るからではないかと思っていた。
確かに夢から覚めた時に、怖い夢というのは比較的覚えていることが多いが、それがすべてではないはずだ。それなのに、怖い夢に限っては、それをすべてだと錯覚してしまうことが多い。それは、恐怖という意識が先に立っていることと、恐怖というセンセーショナルなイメージが、夢を忘れられないものにしてしまったと錯覚させるのだった。
夢に限らず、怖いものという感覚は、人それぞれに違い、同じ人でも、その時々で、怖いものの正体が違っているものだ。
夢の中の怖い部分は、本当は、誰かの夢に入り込んでしまったという意識を感じるからなのかも知れない。目が覚める時には、そのことを忘れてしまうので、恐怖からは切り離されるが、恐怖という感覚だけは残ったまま目を覚ますのだ。
ただ、人の夢に入っているということに恐怖を感じるだけで、本当に怖い夢だったかどうかは分からない。だから、怖い夢を見たと思い目が覚めた時に覚えている感覚は、一番最初に怖い夢を見たものと同じだったりする。
俊一郎にとっての怖い夢の記憶は、
――もう一人の自分――
であった。
それは夢を見ている自分ではない。夢を見ている自分はあくまでも第三者であり、夢の中の登場人物ではない。
夢の中の主人公以外に、もう一人、自分が登場するのだ。
それまで主人公の目線から見ることのなかった夢が、もう一人の自分の出現によって、主人公の目線で夢が展開される。
もう一人の自分が鏡以外で存在しているという事実は恐怖以外の何ものでもないが、それよりも、
――主人公である自分の視線で夢を見ている――
ということが、本当は一番の恐怖なのかも知れない。それを思うと、目が覚めて覚えている夢というのは、主人公である自分が見た部分だけに限られるのではないだろうか?
俊一郎は、若菜の夢の中で普段なら考えられないような発想を思い浮かべる。
――本当にこれは夢なんだろうか?
という疑念が浮かんできた。
夢の中でここまでいろいろな発想ができるなど、考えられなかったからだ。そういえば、夢にしては鮮明な気がする。
――ひょっとして、怖い夢だと思っているのは、いつもこういう感覚の時なのかも知れない――
だとすると、この夢もいずれ、忘れてしまうことになりそうだ。そう思うと、俊一郎は夢から覚めることが怖くなった。
この感覚は、今までに思ったことのあることだった。
それは、自分が体験したことではない。何かの物語だったような気がする。
――そうだ、おとぎ話の浦島太郎の話ではないか――
竜宮城に連れて行かれ、楽しい時間を過ごした。そして、その場を離れたくないと思って後ろ髪を引かれる思いで元の世界に戻ると、そこには知っている人が誰もいなかった。
少し捉え方が違っているかも知れないが、俊一郎はそういうイメージで心の中に残っていた。
夢が楽しい時間だったわけではないが、その場を離れたくないというイメージは、夢を忘れたくないというのと同じである。夢から覚めると忘れてしまうのであれば、夢から覚めたくないというのと同じではないか。
俊一郎はそう思うと、自分が見ていた夢を忘れないように、しっかり頭に叩き込むようにしていた。
だが、夢を見ている自分ですら、若菜の夢に入り込んでいるという意識はあれど、若菜が何を考えてこの夢を見ているのかということは分からなかった。
本当はそこが一番知りたいところであった。
ひょっとして、夢を見ている若菜を見つけると、分かってくるのかも知れない。だが、それは逆も考えられる。
夢を見ている若菜を見つけてしまうと、それが禁を犯したような結果になり、夢から一気に覚めてしまい、すべてを忘れてしまうのではないだろうか。それは、夢を忘れるだけではなく、若菜の存在自体まで忘れてしまうのではないかと思うと、俊一郎は迂闊なことはできないと感じたのだ。
――まるで玉手箱ではないか――
迂闊に開けてしまうと、歪んでしまったものを引き戻そうとする効果があるのかも知れない。
徐々にだが歪んでいったものを一気に引き戻すのだから、どんな現象が起こるか分からない。どれだけの期間にどれほどの歪みがあるのかなど、分かるはずがないからだ。
ただ、とりあえず俊一郎は、今若菜の夢の中にいて、俊一郎の位置で、夢を見ている。見えているのは、夢の中の自分と、主人公である若菜であった。
二人は、会話をしているようだった。会話の内容はハッキリと聞こえてこないが、若菜が俊一郎に何かを問い詰めていて、俊一郎は若菜の話を鬱陶しがってまともに聞こうとはしていない。
――一体どういうことなのだろう?
若菜はどんどん必死になってくる。それに比例して俊一郎の目は冷たさを帯びてきた。最初は、若菜を見る目に、
――何を言っているんだ?
という疑問の表情と、謂れのないことを言われているのか、困惑の表情が浮かんでいた。困惑の表情を浮かべているのを見て、若菜はさらに必死になった。それは自分が見捨てられているというような意識を持ったからであろうか?
知り合って間もない二人の間に、何をそんなに必死になることがあるというのだろう?
あるとすれば、課長が絡んでいることであろうか? 二人の間に共通して存在している課長。しかも課長は交通事故で死んで、もうこの世にはいない。
ということは、俊一郎にとっても、若菜にとっても、課長のことは、その間に時間が止まってしまったということでもあるのだ。
止まってしまった時間が存在する二人、それぞれに立場が違って課長を意識していたが、若菜の場合は、最初ストーカー行為を受けていて、途中で心境の変化があった。
いつ、どのように心境の変化があったのか分からないが、若菜のことを何も知らないはずなのに、夢の中の俊一郎は知っているのだ。
若菜の方はどうなのだろう?
夢の中の若菜は必死になっているが、夢を見ている若菜は、この状況を見て、自分が何をしているのか分かっているのだろうか?
若菜はこの夢から覚めた時、俊一郎が感じるのと同じように、
――怖い夢を見た――
と感じるのだろうか?
夢の中で、疑問が堂々巡りを繰り返している。
――夢の中というのは、堂々巡りを繰り返すものではないのだろうか?
と思った。
同じ夢を見たと思って目が覚めることがある。だが、現実には同じことはありえないのだ。夢だから同じことを繰り返すことができる。それは夢には時系列の概念がないからではないか。そう思うと、普段から堂々巡りを考えさせられているその裏に、夢という意識があるからなのかも知れない。あまりにも突飛な発想であるが、順序立てて考えてみると、放射状に膨れ上がる発想が、一点に結びついているようであった。
――これも夢の魔力のようなものかも知れないな――
俊一郎はそう思うと、若菜が何か迷いを感じているのではないかと思うようになっていた。
若菜が俊一郎を殺そうと考えていることが分かった。もちろん、夢の中だけのことなのだが、いくら夢の中だとは言え、人から殺されると思うのは、気分のいいものではない。
心当たりがあるとすれば、俊一郎が課長に死んでほしいと思っていたことだった。課長がいなくなったことが、若菜にとってどんな意味があったのか分からないが、若菜が課長を好きだったことには違いないようだ。そうでもなければ、いくら夢であっても、俊一郎を殺そうとまではしないだろう。
ただ、好きだからといって、課長の家庭を壊そうとまでは思わない。じっと見つめているだけでいいのだ。
そこまで考えてくると、若菜が次に考えていたことが分かってくるようだ。
これも信じがたいことだが、
――若菜は、自分の手で、課長を殺そうと思っている――
そんな発想が浮かんできた。
好きな相手だからこそ、邪魔はしたくないが、独占したい。この思いが、若菜を課長への殺意に駆り立てたのではないだろうか?
――やっぱり、若菜の夢の中にいるんだ――
普段であれば、ここまで発想が浮かんでくるはずのことではない。現実世界にいると、絶対に考え付かないことを夢では考え付くのだということを、今さらながらに知った俊一郎だった。
俊一郎にとって、ここまでハッキリしている夢を自分の夢としては見ることはできない。それは他の人も同じことであろう。人の夢に入り込んでしまったのは、自分が望んだことなのか、それとも相手が引き寄せたのか。どちらにしても、夢の中の自分や相手が画策したことで、現実世界の本人たちには想像もつかない。
それでも気が付いてしまったのは、何か気が付く前兆でもあったのか、それとも、気が付くように最初からなっていたのか、俊一郎は、最初から気付くようになっていたのだと思えてならなかった。
それは、あまりにも夢が見せる幻影が、俊一郎の発想と結びつくからであった。いくら夢の中だとはいえ、普段であれば、想像もつかないような突飛な発想がどんどん出てきて、それが頭の中で繋がってくるのだから、何かの力が働いているとしか思えない。何かの力というのが、
――人の夢に入り込むこと――
として、俊一郎は意識しているのだろう。
若菜は、いざ人を殺そうとしても、できないのかも知れない。
なぜ分かったかというと、俊一郎が課長に死んでほしいと思ったことで課長が死んだと思っていることだった。
若菜は、俊一郎が入り込む前の夢の中で、何度も課長を殺そうとしたのではないだろうか。試みては見たものの、いくら夢の中でも殺すことはできなかった。若菜は、
――考え方の違いがあるんじゃないかしら?
と思ったのかも知れない。
俊一郎は、
――死んでほしい――
と思っただけで、殺そうとまでは思っていなかった。そちらの方が気持ちが深くないと思われがちだが、殺したいと思うほど強い思いであれば、却って願いを叶えることは難しいのかも知れない。
俊一郎にとって、若菜の夢に入り込んだ理由が何か分からなかったとしても、これだけのことが分かっただけで十分であった。これ以上知ることは、ひょっとするといけないことなのかも知れない。そう思うと、そのうちにこの夢から覚めていくのではないかと感じるのだった。
だが、不思議なことに、夢から一向に覚める気配がなかった。なぜなのだろう?
若菜は、以前として俊一郎を殺すという妄想を抱き続けている。俊一郎は殺されないように、夢の中の若菜に出会わないようにしないといけない。
幸い、若菜が俊一郎を殺そうというオーラが発せられてから、俊一郎と若菜が出会っていない。最初に若菜の夢であることに気付かなかったのも、そのせいだったのであろう。
夢の中にしては珍しく、何事もなく空気が流れるだけの時間が過ぎていく。夢の中で時間が過ぎている感覚を味わうというのも、なかったことのように思えた。夢は時系列などあってないようなものだと思っていた。感じたこと、思ったことをいきなり情景として思い浮かべるのが夢だからである。
俊一郎がここまで分かっていることを知ってか知らずか、夢の中の若菜は、夢の中の俊一郎を見つけた。
手には、ナイフを持っている。今までの若菜から想像もつかない悪魔のような形相は、逆に断末魔の表情にも見えた。今にも心臓が破裂しそうな胸の鼓動が聞こえて来て、肩で息をしているのがよく分かる。
夢の中の俊一郎はそんな若菜に直視し、逃げることができなくなっていた。足は竦んでしまい。前にも後ろにも行けない心境は、一歩でも動けば断崖絶壁を想像した時とよく似ている。
「あっ」
今まで第三者として夢の中を見ていたつもりの俊一郎の目が、急にそこから離れ、あろうことか、夢の中の俊一郎の視線に変わっていた。
目の前には断末魔の若菜の表情。その時には不思議な感覚はなかった。
すると、今度は急に恐怖がスーッと身体から抜けてくるのを感じた。脱力感を感じると、怖くて凝視できなかった若菜を凝視できるようになっていた。
――死ぬのはお前だ――
と、視線を若菜に送った。
別に力づくでナイフを奪い、立場を逆転されたわけではない。その時、自分は間違いなく助かるという意識があり、若菜を凝視するだけでよかったのだ。
だが、その時に、本当は気付くべきだったのかも知れない。このことが、この後の展開で、自分がどうなってしまうかということをである。その時々を必死に感じるというのは、夢ならではの感覚なのかも知れなかった……。
◇
若菜の夢に入り込んだ一つの原因としては。課長が交通事故に遭う夢を見ていたはずなのに、いつの間にか死んでいるのが自分だったという結末を見た時であった。
怖い夢ではあったが、今までにも怖い夢は何度も見たことがあった。しかし、考えてみれば、今までどんなに怖い夢を見たとしても、自分が死んでしまうところを見たという経験があっただろうか?
それを思うと、突然、夢の中から魂が抜けだしてしまったような感覚になる。
人は死ぬ時、肉体と魂が分離するという。全面的に信じているわけではないが、他に説明のしようがない以上、これ以上の説得力というものはない。やはり死んでしまうということは、突然魂が吹っ飛んでしまうことと似ているのかも知れない。
死んでしまった後のことを考えたことはない。死ぬということを考えること自体、
――してはいけないこと――
というイメージを抱いていた。もし、死んでしまった後のことを考えてしまうと、本当に死を引き寄せるのではないかと思うからだ。死というものが理論的に解明されていない以上、説得力はないが、信じないというわけではない。理屈が少しでも通ることなら、発想として受け止めるに十分な説得力を持っているかも知れないからだ。
それは若菜の夢の中で起こるであろうことの前兆、あるいは、虫の知らせだったのかも知れない。
――若菜に殺される――
ということを暗示しているとすれば、きっと、若菜に夢の中の自分が殺された瞬間に、夢から覚めるだろう。
だが、人の夢から覚めたという経験は、当たり前のことだが、今までにはない。本当に若菜の夢から分離できるのかが疑問だった、
何よりも、そのまま夢から覚めるのであればいいが、元の自分の夢の中に戻らないと、目が覚めないというようなことにでもなれば、自分がどうなってしまうのか、怖くて仕方がない。
「夢の中を行ったり来たりできるとすれば、楽しいだろうね」
と、人の夢との共有について、子供の頃にあどけない発想を友達と話したことがあった。さすがに子供でも、
――そんなことができるはずはない――
と思っていたからこそ、
「俺にはこんな発想もできるんだぞ」
と言わんばかりに胸を張って、話を競ったものだった。
それがまさか今になってそのことを実感させられるなど、思ってもみなかった。
しかも、子供の無邪気な発想ではない。妄想だけで済むのか自分でも分からない世界に入り込んだのだ。
若菜の夢は、最初分からなかったが、自分の夢と似ていた。現実世界とは明らかに違っているので、夢の世界は、人それぞれに世界を持っているわけではなく、同じイメージの世界を作り上げているようだ。
それは、その人にとっての現実世界との背中合わせの世界なのかも知れない。だから、違う世界であっても、同じような光景しかないのだ。登場人物は同じであっても、夢の主人公が違えば、まったく違う人なのだ。
――ということは、この夢の中にも、自分は存在しているのだろうか?
それは若菜が意識していない限り、いないに違いない。しかし、俊一郎は、若菜の夢の世界でも、自分がいることに予感めいたものがあるのだ。
夢はまるで、本のページのような気もしてきた。
一枚一枚は厚みがないのに、重ねれば厚みが出てくる。夢も人それぞれにページの厚みしかない薄さなのに、重ねることで、平面が立体になっているのであろう。
若菜と俊一郎の夢は、ちょうど隣り合わせだったのだろうか? いや、それであれば、あまりにも偶然すぎる。隣り合わせだったとしても、そこに何らかの意図が含まれていれば、偶然は必然に変わってしまうであろう。
俊一郎は、ふと今自分の身体がどうなっているのかということに気が付いた。それは、展開されている夢をどこで見ているかということからの発想だった。もし、見ている夢は眠っている本人の頭の中で繰り広げられているのだとすれば、若菜の夢の中に入り込んでいる自分の元の頭の中に、自分はいないことになる。
――まわりから見れば普通に眠っているように見えるのだろうか?
ひょっとすると、魂の抜け殻のようになっていて、まったく起きる気配を示していないのかも知れない。それはいわゆるこん睡状態のようなものではないだろうか。
もし、そうだとすれば、急いで自分の身体に帰らなければ、自分は死んだことにされてしまうかも知れない。
女房子供はいないが、もし、自分が死んでしまったということになれば、親は悲しむだろう。自分の親が自分のためにどんな悲しみ方をしてくれるかということは想像もしたことがなかったので、今、再度想像しても、イメージが湧いてくるはずもなかった。
このまま目を覚ますわけにはいかない。人の夢の中にいるのだから、少なくとも、一度自分の夢の中に戻って、そこから目を覚まさなければ、元に戻ることができないように思えてならなかった。
――どうやって、自分の夢に戻ればいいんだ?
今俊一郎が考えていることは、若菜が目を覚ますか、それとも、若菜が自分のことを忘れてくれるか。あるいは、これは一番危険な考えだが、若菜が死んでしまうかのどれかしかないように思えた。
もし、若菜が死んでしまうと、夢はそこで中途半端に終わってしまい、俊一郎はそのまま夢の中に取り残され、どこにいくわけにも行かなくなる。
宇宙の墓場をサルガッソーというらしいが、夢にも墓場があって、夢の世界のサルガッソーが存在しているのかも知れない。サルガッソーというところは一度落ち込んだら二度と抜けられないというではないか。俊一郎は、それが一番怖いのだった。
若菜が俊一郎を殺そうと思った理由を再度考えてみた。
最初は、課長のことをイメージしたが、それだけではないような気がしてきた。死んだ人のことを思って、いくら夢の中だからといって、殺そうとまで思うだろうか?
そこまで思ってくると、もう一つの仮説が生まれてきたのだ。
――若菜は、俺を殺さないと、自分が夢から覚めることができないと思っているのではないか?
それなら、理屈は分かる。
自分の夢に俊一郎が入り込んでいることを知らないという仮説でずっと考えていたので気が付かなかったが、考えてみれば、課長が死んだことよりも、よほど切羽詰った事情ではないだろうか。このままずっと夢を見続けてしまっては、こん睡状態に陥り、まだ生きているのに、死んだことにでもされてしまったら、これ以上の恐ろしいことはないに違いない。
一人の夢の中に、他の人が入り込むというのは、タブーなのだ。だから、今までにそんなことを考えたこともないし、実際にありえないのだ。考えたことがないのは、誰かが考えてしまえば、人の夢に入ることのできる潜在能力を持った人が現れて、悲劇を生んでしまうことを恐れている何かの力が存在しているからであろう。
俊一郎には、潜在能力があったということであろうか。しかも、それを受け入れる相手がいたというのも、悲劇の始まりだ。
――このまま俺たちは、どうなってしまうのだろう?
すでに入り込んでしまっているので、尋常な精神状態でもなく、閃くほどの頭を有していない。
本当に考えることのできる頭は、元の身体に残してきたのだ。
今ここでは考えているのではない。考えさせられているだけなのだ。それこそ、何かの力によって、自分の運命と現状だけを最初から理解できるようになっている、要するに事実だけを見る目があるだけであった。
俊一郎は、そのまま何も考えない方が本当は幸せなのかも知れない。若菜の夢の中で、若菜が普通に目を覚ましてくれさえすれば、元の身体に帰ることができるのだろうが、若菜が疑問を持ってしまったことで、夢の中の状況が変わってしまっていたのだ。
俊一郎を殺そうと考えた時点で、すでに若菜は、夢の中に違和感を感じていたに違いない。ただ、殺してしまえばどうなるかという発想が、若菜にはないのだろう。
俊一郎は考える力はないと思っていたが、夢を共有している相手を殺したり、相手から殺されたりすればどうなるかということだけは考えられるようだ。それは戒めのようなものであって、考えているのとは少しニュアンスが違っているのかも知れない。そう思うと、何を考えればいいのか、方向性は分かってくるような気がした。
――考える力がないのではなくて、考える材料がないのかも知れない――
自分の身体の中にいれば、自分の経験から、いくらでも考える材料はありそうなものである。しかし、他人の身体に来てしまえば、考えられるだけの今までの記憶も環境も、どこにもないのだ。寂しさが不安に変わるのと似ているようなものだと、俊一郎は考えていた。
しかし、俊一郎は、それでも何とか考えようと思った。何もないところから何かを作り上げていくのが好きな俊一郎である。妄想も勝手に作ることができるのであれば、それは自分にとって持ってこいではないかと考えたのだ。
若菜は、それでも何とか夢から覚めようという意識を持っているようだ。最初は、これが夢だとは分かっていなかったはずなのに、どのあたりから夢を意識し始めたのだろう。
ひょっとすると、若菜は夢の中であれば、課長に会えると思ったのかも知れない。若菜の心の中にあるものは、課長に対しての自分の気持ちがハッキリとしていないことへのわだかまりであった。
今までストーカー行為をしていた相手を気にするなど、普通ならありえないことだ。若菜はそれを、
――恥かしいこと――
として認識しているようだ。
確かに、女性としては屈辱的なことだ。少なくとも犯罪行為であるストーカー行為をした相手が気になってしまうというのは、
――悪に屈した――
と思われても仕方のないことではないだろうか。若菜は正義感の強い女性だ。自分でもそのことは分かっている。分かっているだけに、課長のことを好きだとは、口が裂けても言わないだろう。
自分で内に籠ってしまうことが、若菜にはある。今の場合もそうなのだが、そのために、若菜は疑問に思った夢から覚めなければいけないと思いながら、内に籠ってしまうので、逆の作用が働き、目を覚ますことができなくなったのかも知れない。
俊一郎の身体が、今こん睡状態であるという胸騒ぎを感じたが、若菜の身体も、こん睡状態であった。若菜は自分の身体にいるつもりでいるようだが、実際には、表からしか見えていない。戻ることができれば、こん睡状態から抜けられるのだろうが、若菜は、自分の身体に戻ろうとすると、俊一郎が夢の中に存在していることを知ることになるだろう。
そうなった時、若菜はどう思うだろう?
殺してしまいたい相手である俊一郎が自分の夢の中に抱えこんでいる。そして、自分が身体に戻ってしまうと、俊一郎も自分の身体に戻るだろう。きっと困惑するに違いない。
しかも、困惑が続けば続くほど、袋小路から抜けられなくなり、本当に自分の身体に帰れなくなってしまうに違いない。
帰れなくなった時の若菜は、
――このまま死んでもいい――
と思うようになるだろう。
現実世界での若菜には考えられないことだ。それだけこの世界は現実と違っているのであり、そう思うと、今こうやって考えている俊一郎とは別の自分が、まわりの人から見えていて、実際に力を発揮できるのは、目に見えている自分だけではないかと思った。
――俺は目だけの存在なのか?
存在は目だけであるが、発想は明らかに自分の発想である。力を持っているもう一人の自分に、発想する力や、感情が備わっているかというと、備わっていないとしか思えない。もし備わっていたとするならば、それは今まで自分が気付かなかった心の奥の自分が、本当に存在しているのかも知れないと感じるのだった。
若菜は、俊一郎を殺そうと思ったが、俊一郎が自分の夢に関わってくることを最初から分かっていたと思うのは、突飛過ぎる発想であろうか。俊一郎のいることが、自分の人生の邪魔になるだけではなく、死活問題に繋がることを分かっていたのだとすれば、若菜が夢から覚めようとしないのも分かる気がする。
もし、このまま目が覚めてしまうと、俊一郎もまた自分の身体に戻ってしまう。すると、次に俊一郎が夢を見る時は、また若菜の夢の中ではないかと思うと、うかうか夢を見ることもできない。
夢の中に入りこまれた方は、かなりの精神的な苦痛を味わうのかも知れない。
――若菜は、今までにも誰かに夢の中に入られたことがあったのかも知れない――
若菜が、今大きな後悔の念に襲われているのではないかと、俊一郎は感じていた。それは俊一郎が、若菜本人には見えない夢の一部を見ているからだ。だが、それはあくまで一部であって、すべてを見通すことなどできないのであった。
俊一郎は、核心に近づいているにも関わらず、堂々巡りを繰り返している。そのうちに若菜の夢の中にも慣れてきたようだ。少し気が楽になってきた俊一郎は、若菜の夢から離れることができそうに思え、自分の抜け殻がどうなったのか、想像することができた。
俊一郎は、ベッドの中でこん睡していたが、身体に近づいた瞬間、パチリと目を開け、目を覚ましたようだ。
――えっ?
目を覚ました俊一郎の視線が、見えないはずの俊一郎を捉えた。そして、目をこするわけでもなく、完全に目が覚めているのだ。その間には瞬きするほどの時間しかなく、カッと見開いた眼は、虚空を捉えていた。
だが、その虚空には、身体の持ち主である、魂だけになっている俊一郎がいる。それを知ってか知らずか、目を覚ました俊一郎は、口元を歪めて笑みを浮かべたが、この世のものではないと思うほどの不気味なものだった。
なぜ、そんなに不気味なのか、理由は分かった。
――瞬きを一切していない――
本当の自分がここにいるのだから、抜け殻のはずの俊一郎は人間ではないという感覚がある。人間ではないのなら、瞬きをしなくても不思議はない。昔から妖怪や化け物の類の恐ろしさは絵やマンガで見てきたが、まさにそんな雰囲気を漂わせるのが、抜け殻になったはずの俊一郎だった。
不気味な笑顔は、バカな妄想をしている俊一郎を嘲笑っているかのようだった。
妄想など、勝手な思い込みであって、身体を離れてしまったことが致命的であるとでも言わんばかりの表情が見て取れた。
自分の身体の中にいる俊一郎を見て、
――これが本当の自分なのではないか? だとしたら今これを考えている自分は一体誰なんだ?
と感じた。
少しずついろいろなことが分かってきていることで、自分が万能なのではないかと思うようになっていた俊一郎は、
――妄想は、どこまで行っても妄想でしかない――
と思うようになっていた。
若菜の夢に、若菜の力で引き寄せられたのだと思ったが、実際には自分の中にもう一人の自分がいて、
「いつ成り代わってやろうか?」
と、表に出ることを虎視眈々と狙っていたのかも知れない。魂が表に出るなどありえないという思いが、
――夢の中なら許される――
という発想を持ってしまったことで、体よく追い出されたのかも知れない。しかもその時に、若菜の方からの引き寄せる力も手伝っていたとすれば、身体の外に出てしまったことで、すでにその時に、自分は前の身体に戻ることができなくなってしまっていたのかも知れない。
若菜が引き寄せたといっても、若菜の意志ではない。すると、他にまだ目に見えない力が働いているのではないだろうか?
自分の身体に戻れないことを察した俊一郎は、若菜の中に戻ってきた。
すると、先ほど、若菜がナイフを持って俊一郎に襲い掛かっていて、抵抗しようと思ったその場に戻っていたのだ。
若菜の表情は、情けなさそうに見えた。最初は必死だったように思えたのだが、自分の身体に戻ってから、違って相手が見えるようになったのかも知れない。
情けなさそうなのは、俊一郎も同じだった。
――若菜を殺さないと殺される――
というイメージが浮かんでくると、さっきまで考えていた、自分の身体に戻ることを断念した気分になっていた。
――どうせ、戻れないんだ。それなら、このまま自分が若菜に成り代わって……
とも感じたが、殺してしまうと、まったく過去のことを知らない人の身体の中で今後の人生を生きていくことになる。それがどういうことかということを考える余裕もなくなっていた。
助かりたい一心だったのだろうか?
もう少し精神状態が正常なら、今後の人生のことも考える余裕があっただろう。それも少しの時間で、それくらいのことは頭の中に描くことができるはずの俊一郎だった。
俊一郎は、若菜を殺そうとしたが、殺すことはできなかった。冷静な精神状態に戻れたからではない。若菜が俊一郎を殺そうとしているのに、俊一郎はなかなか死なない。俊一郎も若菜を殺そうとしているのに、死ぬ気配もない。
――この夢の中では、誰かが死ぬという発想自体がありえないものなのかも知れない――
と感じた。
若菜が最初に俊一郎と出会った時、
――死んでもいい――
という心境だったのは間違いない。その死んでもいいという発想が、若菜の性格であるとすれば、俊一郎が若菜の夢に入り込んで抜けられなくなってしまったことで若菜が死んでもいいという発想に至ったのは、頷けるところでもある。
見ている夢にも可能性があるのではないかと、俊一郎は感じてきた。一つのことを感じると、可能性は無限に広がってくるような気がしていたが、夢であったとしても、可能性を無限に広げないように、力が働いているのではないだろうか。
一つの夢を見ていると、浮かんでくる発想は一つしかなく、発想に向かって進んでいくのが夢の世界である。現実世界では、発想とは関係なく、進んでいるように思うが、実は発想も大いに影響しているのではないだろうか。理性という力が発想であるという意識を抑えていると考えれば、理屈としては成り立つような気がする。
俊一郎は、交通事故で死んだ夢を見たことで、若菜との夢の共有を感じた。交通事故で死んだのは課長だったはずだ。若菜の頭の中には、交通事故で死んだのは、俊一郎ということになっているのだろうか?
俊一郎と課長を混同して考えているとも考えられる。
そういえば、俊一郎も大学時代に課長のようにストーカー行為をしていた。本人にはその意識はまったくなかったので、課長も同じではないだろうか?
世間一般に悪いことをしているという人は、二つに分けられる。一つは自分が悪いことをしているという意識のない人。そして、もう一つは、分かって悪いことをしている人である。
後者の場合は、それがやむおえずにしているパターンである。
泥棒をしないと、餓死してしまうという人など、そのいい例であろう。それ以外は、確信犯で、悪いことだと分かっていてもやめられないという人がほとんどではないだろうか。
前者のように、悪いことをしているのを意識していない人は、まずまわりから孤立してしまう。まわりの見る目は、あくまでも、悪いことをしている人としてしか見ないからだ。それなのに、自分は悪いことをしていないと思っているから、どうしてまわりが酷い目で自分を見るのか分からない。そこでギャップが生じ、亀裂が走るのである。
そうなると、孤立は仕方がないことで、本人は捻くれた気持ちになってしまうし、まわりは、そんな本人に対して、
「反省の色が見られない」
と、言って、分かって悪いことをしている連中と同じような目で見るに違いない。
しかも、本人に意識がなく、捻くれているのだから、どうしようもない。お互いに歩み寄ろうとすることはなく、近づこうとすれば、余計に悪い方に向いてしまうに違いない。悪循環を繰り返すとはこのことで、堂々巡りよりもタチが悪いと言えるだろう。
俊一郎も、課長も同じ穴のムジナである。
ただ、俊一郎は、
――俺はあの人とは違う――
という意識を持っているので、他の人が見るよりも、余計に違った目で見ているに違いない。それは、自分のことを棚に上げて、蔑んだ目をしているに違いないということである。
だが、俊一郎には今、大学時代の自分を恥かしいと思い、ストーカー行為を繰り返したことに後悔の念を持っていた。課長もひょっとすると、どこかで後悔しているのかも知れない。もうすでにこの世の人ではないので、確認はできないが、もし、課長が生きていて、夢を見ているとすれば、その夢を覗いてみたいという衝動にも駆られていたのである。
そういえば、以前課長が夢に出てきたことがあった。それまで一度も夢に出てきたことがなく、また、それ以降も一度もなかった。
それから数日後に課長は死んだと聞いたので、夢を見たことを完全に忘れていたが、
それは課長が死んだということがショッキングだったことで、忘れてしまったのだと思った。
だが、思い出してみると、課長がやたらとリアルだった気がした。それは、その時の登場人物の中で、課長だけが宙に浮いた存在だったからだ。
夢の中に出てくる人は、それほどたくさんいるわけではない。必要以上の人はエキストラであっても、出てくることはない。出てきたとしても、黒子のような存在なのではないだろう。
もちろん、主人公は自分である。そして、夢の展開に必要最低限の人だけが登場するので、必ず、出てきた人には何らかの意味があったはずだ。夢の中ではそれを覚えている。しかし夢から覚める時に、夢の内容が記憶の奥に封印されてしまうのと同じように、夢で必要だった人も一緒に、まるでおもちゃ箱におもちゃを直しこむように、目が覚めるにしたがって、意識から外れていくのだ。
だが、その時の課長は、夢の中でどんな役割を演じていたのか分からない。ただ夢の中に存在し、夢にとって必要な人物だったわけではない。
そう感じた時、
――あの時の課長は、今回の自分のように、自分の夢に入り込んできたのではないだろうか? そして、それを最初から分かっていたので、何をするでもなく、ただ、そこにいただけなのだ――
と考えることもできる。
課長も、自分の夢に入り込んだ。そしてしばらくして、入り込まれた俊一郎も若菜の夢に入り込んだ。では、若菜は今度、誰の夢に入り込むというのだろう? もう課長はいないのだ。
――死んでもいい――
と思ったのは、無意識にそのことを感じていたのかも知れない。ただ、人の夢に入り込んで夢を共有するということにどういう意味があるというのか、それが分からないと、永遠に俊一郎は自分の身体に戻ることができないような気がしていたのだ。
◇
――俺は一体、これからどうなるのだろう?
最初に人の身体に入り込んだ課長は死んでしまった。
――最初に――
と言ったのは、俊一郎の知る範囲の中でのことであって、課長もそれ以前に、誰かに夢の中に入られたのかも知れない。
しかし、課長は交通事故で死んだ。それはひょっとすると、自分の身体に帰ることのできなくなった本人が、身体もろとも、自分の身体を占拠しているもう一人の自分を葬り去ることで、自分に戻れると思ったのかも知れない。
だが、死んでしまっては、戻る身体は荼毘に付されてしまう。結局戻ることはできないのだ。
テレビドラマやSF小説などでは、戻る身体がない時、身体が弱っている人の身体に入り込んで、急に息を吹き返すなどという話を見たことがあったが、それでも少しの間延命できただけではないか。それがいいことなのか悪いことなのか、本人にしか分からないだろう。
俊一郎は、自分がその本人になった時、どう感じるかということを考えてみたが、
――どうもしない――
としか言いようがなかった。
まったく知らない人の身体に入り込んで、一体どうやって生きていくというのだ?
それもさっき考えたことではないか、やはり発想や妄想もどこかに限界があり、結局は堂々巡りの発想を繰り返すだけではないだろうか。
堂々巡りを繰り返していると、俊一郎は、
――一体、課長はどうして死んだんだ?
と考えるようになった。
課長が俊一郎の夢に入ってしまったために、死んでしまったと考えるのであれば、俊一郎も、死んでしまうかも知れない。だが、それは身体が死んでしまうだけで、一緒に死ぬのは、身体を今占拠している「もう一人の自分」だ。
死んでしまうと、肉体と魂は分離して、魂だけは永遠に生き残るという発想があるが、それも魂が一つだと思えばである。
しかし、俊一郎はもう一つの魂の存在を知ってしまった。もう一つの魂があるということは、他にも魂があるかも知れない。きっと、死ぬ時に一緒に身体の中にいた自分だけが、肉体とともに滅んでしまうのではないだろうか。
――課長の夢を見たのって、本当はいつだったんだろう?
もし、課長が死んだ後だとすれば、夢の中に入ってきた課長は、弾き出された魂の一つだということになる。
そう感じた時、俊一郎も嫌な予感とともに、悪寒を感じた。
身体から離れた魂が、他の人の夢の中に入りこむというのであれば、俊一郎は、今本当に生きているのであろうか?
俊一郎も、知らない間に死んでいて、肉体から弾き出された「いくつかの魂の中の一つ」が、若菜の夢の中に入り込んでしまっているのではないか?
そう思うと、最後に見た夢の記憶の中にあった交通事故のイメージ、相当リアルだったのを覚えている。
若菜が俊一郎を殺そうとしていたが、殺せない。それはすでに死んでいる相手だからではないだろうか?
課長を殺そうとして殺せなかったのも、半分自分は死んでいたからなのかも知れない。
人が死を迎えるのに、いきなりというのはありえないと俊一郎は思っている。
必ず、どこかに前兆のようなものがあり、それが虫の知らせだったり、昔で言えば、下駄の鼻緒が切れたりした時に感じる「不吉な予感」である。
俊一郎は、次第に、自分の意識の中から課長が消えて行くのを感じた。それは時間の経過とともに、意識が薄れていくのと似ていたが、それにしては、違和感がある。違和感がどこからやってくるのか分からないが、俊一郎にとって前を向いていることに対して、違和感があるということを感じさせるものだった。
――何も見えてこない気がする――
過去を振り返るしかないということなのだろう。
――今のまま進んだら、近い将来、自分は死ぬことになる――
妄想の原点に戻って、大学時代を思い出していた。
あの時にも今と同じようなことがあったのをすっかり忘れていた。
俊一郎は、ストーカーをしていた時、交通事故に遭ったことがあった。あの時は命に別状があるようなことはなかったが、確か記憶が半分消えてしまったと言われたのだ。
消えた記憶がどれほど自分に影響があるのか、他人に分かるのだろうかと思ったが、その時は、医者の言葉を疑いながらも信じていた。承服していたと言っていいだろう。
頭を打ったということであるが、不思議とそれ以外はかすり傷だけで済んでいた。
「本当に奇跡的だ」
と医者は言っていたが、思い出しても、まさしくその通りだった。
一方的に悪いのは車の方であり、青信号で渡っていた交差点に、暴走車が突っ込んできたのだ。
どうやら、免許取りたての主婦のようで、ブレーキとアクセルを踏み間違えたという、珍しくもない事故だったが、命に別状もなかったということで、それほど大きな事件にはならなかった。
その時失った記憶について医者は、
「何とも言えないね。すぐに思い出すかも知れないけど、ずっと思い出さないかも知れない。でも、何かのきっかけで、一つを思い出すと、芋蔓式に、すべてを思い出すような気がするんだ。しかも、忘れていたということすら、思い出してしまうと、意識がない。つまりは、君は思い出したとしても、思い出したという意識がないから、結局は思い出したという事実は誰にも分からないだろうね」
まるで禅問答のような話だったが、何となく分かるような気がする。
「ということは、思い出しても、思い出さなくても、同じようなことなのかな?」
「決して、そうは思わないが、思い出したことで、君の環境が変わるとすれば、影響があったんだろうね。もし君が、自分の意識の外で、何か環境が一気に変わるようなことがあれば、その時は、記憶が戻ったのだと感じてくれればそれでいいと思うよ」
医者は、それ以上のことを語らない。俊一郎もそれ以上のことを聞こうとも思わないし、漠然とした話を聞いただけで、それ以上、その時に考えても仕方がないことだった。
あれから、十年近く経っていたが、それまでに思い出したという意識はなかった。
しかし、今回の課長の死から始まって、若菜との出会い、そして、頭の中で俊一郎は、果てることのない妄想を抱こうとしていた。
黙っていれば、どこまで妄想が発展していくか、分かったものではない。
俊一郎は、交通事故のことを本当に忘れていた。大学時代のことで思い出すのは、ストーカーをしていたことだけだった。
だが、交通事故のことを思い出すと、俊一郎の記憶の中に異変が起こり始めた。
それは、今まで自分がしたと思っていたストーカー行為は、自分ではなかったのではないかという発想に至ったことである。
確かに意識は鮮明で、妄想の中にもストーカーをしていたイメージがある。ストーカー行為と、風俗に通っていたことは、大学時代の思い出したくない記憶のはずなのに、その二つだけが、イメージとして大きく残っている。
風俗に通っていたことを思い出したくないと思っていたことを、今思うと、
――どうしてそんな風に思うんだ?
偏見を持たずに通っていたつもりだった。風俗に通うことで、気持ちも身体もリフレッシュできて、趣味のデッサンにも力が入ると思っていた。趣味のデッサンを思い浮かべた時に感じるのが、馴染みの喫茶店で見かけた女子大生が描いたという絵であった。
作者である女子大生とは、会ったことがなかった。会いたいと思いながらも、
「どうしてなんだろうね? いつも君とは行き違いなんだ。よっぽど相性が悪いんじゃないかい?」
と、マスターから茶化されていた。
「本当にこれを描いた娘は、この店にしょっちゅう来るのかい?」
と、冗談のように聞くと、一瞬、顔を曇らせたマスターは、寸時間を置いて、
「ああ、ちゃんと来てるよ」
と答えた。
――本当にそんな娘がいるのかな?
と思っていたほどで、今から考えると、その絵を描いた人は、その時すでに、この世にいなかったのではないかと思わせるほどであった。
もっともそう思ったのは、果てしない妄想が頭の中で堂々巡りを繰り返している中で、大学時代を思い出してしまったという意識があるからだ。
ひょっとすると、こんな妄想を抱くようになったのも、交通事故の後遺症なのか、それとも失った記憶が戻ってきた時の副作用のようなものなのか、俊一郎は頭を抱えたい気持ちになっていた。
たまに交通事故の夢を見ることがあったが、それが自分の大学時代への意識なのか、それとも、課長が交通事故で死んだということが頭にあるから見る夢なのか、特に最近多い交通事故の夢を見ることで、思い出したくない記憶を、近い将来思い出すことになるという意識が強くなっていた。
交通事故とは、一瞬のことである。すぐそばにいても、瞬きをしている間に、今まで元気だった人が無残な姿になり、物言わぬ塊として、横たわっているかも知れないのだ。そう思うと、俊一郎は交通事故の夢を見るたびに、自分の経験以上のものが頭の中に燻っていることを思い知らされるのだった。
交通事故が課長を思い出させるくせに、大学時代の自分とは結びつかない。
確かに十年という月日は長いものであるが、よく考えれば、つい最近のできごとだったのだ。
特に風俗に通っていた頃の意識は、最近の記憶に近い、二十五歳の頃まで付き合っていた女性のことを思い出すよりも、鮮明に思い出せるのだった。だが、その記憶も、今は曖昧な気がして仕方がない。クッキリと覚えているだけに、どこかに溝があって、ある一方からしか思い出すことができないようになっているとするならば、思い出す内容は、それ以上でもそれ以下でもない。毎回同じことを思い出すのだから、意識が近くても当然と言えるだろう。
一瞬で決まってしまう交通事故も、自分の記憶の中だけを思い出すのであれば、もっと頻繁に思い出してもいいだろう。ただ、別に交通事故に遭ったからと言って、何か新しいトラウマができたり、逆にそれまであったトラウマが消えたわけでもない。
――自分にとってのあの事故は、一体なんだったのだろう?
そう感じた俊一郎は、課長が交通事故で死んだと聞いた時、自分の中に何かの因縁があるのではないかと感じたものだ。
――やはり、あの時にトラウマが燻っていたのかも知れないな――
と、どの種類のトラウマなのか分からないまでも、必要以上の意識はなるべくしないようにしようと思うのだった。
彼女ができても、こっそりと風俗には通っていた。
――見つからなかったからよかったものの――
と考えていたが、本当は彼女には分かっていたのかも知れない。
大学時代に付き合っていた彼女は、従順だった。俊一郎がすることに対して、何も文句は言わない。ずっとそばにいて、見つめられていた。
恥かしさと、誇らしさの二つがあり、誇らしさから、
――俺は、彼女の前では何をしてもいいんだ――
というくらいに思っていた。
まさに、「役得」な気分であったが、いつまでもそんな状況が続くはずなどない。
薄氷を踏むような関係だったのかも知れない。少し体重を掛ければ、氷は割れて、そのまま寒水の中に真っ逆さまである。
だが、それも今から思えば妄想のようなものだった。その頃から、俊一郎の妄想が激しくなったような気がしていた。妄想がそのまま記憶として残ることもあるくらいだ。
普通なら、そんなことはないのだが、
――これも交通事故の後遺症なのかな?
と思うと、大学時代の記憶の一つ一つが怪しく感じられる。
風俗の記憶も、怪しいものだ。だが、覚えていたいという記憶には、意外と間違いがないように思える。大学時代の記憶の中で歪に歪んでしまったとすれば、思い出したくない記憶が、どのように意識の中に残っているかということが問題であった。
医者が言っていた、
「失われた記憶」
というのは、自分が意識して忘れようとしたものなのかも知れない。
医者は、
「何とも言えないね。すぐに思い出すかも知れないけど、ずっと思い出さないかも知れない。でも、何かのきっかけで、一つを思い出すと、芋蔓式に、すべてを思い出すような気がするんだ。しかも、忘れていたということすら、思い出してしまうと、意識がない。つまりは、君は思い出したとしても、思い出したという意識がないから、結局は思い出したという事実は誰にも分からないだろうね」
と言っていたではないか。
思い出したとしても、それは自分が意識できるかどうか、医者の話では、意識できないと断言していた。なぜそこまで断言できるのか、ひょっとすると、俊一郎以外にも同じような症状の患者を見たことがあったのかも知れない。そう思うと、医者の滑らかだった口調も分からなくもない。
俊一郎は、
――自分の不安定な記憶が錯綜し、おかしな妄想を抱かせているのかも知れない――
と感じた。
確かにありえないと思えるような妄想を、あたかも真実のように思い込んでいる自分を思い起すと、自分でも信じられない気分になる。妄想というものが自分に何をもたらしているのか分からないが、大きな影響を与えておるのは事実だ。
――覚えている夢は、何か理由があって覚えているんだ――
という思いを前から感じていたのだが、覚えているというのが、怖い夢が多かった。
――そういえば、交通事故に遭う前にも交通事故に遭った夢を見たような気がするな――
今だから思い出したのであって、交通事故の夢が、まさか正夢だったなど、意識したことはなかった。交通事故に遭うまでは、夢に理由があると思っていたが、交通事故から復帰してからは、そんな意識は消し飛んでしまった。交通事故は記憶だけではなく、意識まで吹き飛ばす、自分にとって大きな出来事だったのだ。
今までに交通事故に遭ったという意識はあったのだが、それがどれほど自分にとって大きなことだったのか、意識したことはなかった。
――ケガも治れば、精神も落ち着く――
と思っていた。記憶を失ったところがあるとはいえ、生活に復帰して失った記憶が影響してくるような問題はなかった。身体と精神は比例していることも、交通事故で実感したと思ったくらいだった。
最近、夢のことをいろいろと考えていたが、正夢を見ることがあったなどという意識は感じたことがない。夢に対して今考えていることが、昔からの考えだと思っていたのだ。大学生になるまで、その時々で節目があった。その節目には、必ず正夢を見ていたような気がする。もちろん、子供が見る夢なので、たかが知れているが、それでも子供心に、
――すごい夢を見たモノだ――
と思っていた。
夢が現実になったのか、現実に起こることを予知するかのように夢を見たのか、よく分からなかった。それは今でも分からない。多分、永遠に分からないような気がする。
ただ、それは、夢というのが、現実世界にいる間、疑問に思ったとしても、その疑問を解消するだけの答えを与えてはくれないものだということなのだろう。もし、その答えが分かったのであれば、自分のこれからの人生を最初から知ってしまったような気がするからだ。
「人生、先が分かったら面白くない」
という人がいるが、先が分かったら面白くないというよりも、分かっていることを忠実に生きていくだけなら、まるで自分は操り人形という意識を永遠に消せないまま生きていくことになる。これは面白くないというよりも苦痛である。
「あなたは余命五十年です」
と宣告され、しかもそれに逆らうことはできないということになれば、自分の意志はあってないようなものだ。
正夢がそこまで大げさなものではないのだろうが、正夢となって起こることは、そのほとんどが自分にとって悪いことなのだ。
交通事故が、その最たる例であり、他にも自分の努力で回避しようとしてもできなかったことがほとんどだった。
もし、他の人に言えば、
「お前の努力が足りないからだ」
と言われるに決まっている。それは、正夢ということ自体を信じていないからだ。
俊一郎も、正夢などということを信じていなかった。実際に何度か正夢を見ても、それでも信じられないと思っていたくらいだった。
やはり決定的だったのは、交通事故の時だろう。あの時はさすがに交通事故で死んでもおかしくない状態で、それほどのケガもなく助かったもだから、信じないわけにもいかない。正夢を見ていたからこそ、咄嗟の時に、身体が反応して助かったとも言えるからだ。
しかし、それから正夢を見たという記憶はない。
――今までに見た正夢は何だったのだろう?
と、思った時、自分が記憶を失っているという意識が初めて芽生えた。
医者から、
「記憶を失っている」
と、言われてもピンと来なかった。やはり自分の中で意識として湧いてこないと、俄かに信じられるものではないからだ。
正夢を見なくなったことと、記憶を失ったことに気付いたこと、その二つをほぼ同時に近い状態で感じたのは、偶然だったのだろうか?
思い返した瞬間は、
――偶然ではなかった――
と思っていたが、冷静になって考えてみると、
――偶然だったのかも知れない――
という思いの方が強くなった。
前は、偶然なんて、そう簡単にあるものではないと思っていたが、冷静になると、偶然の方が、必然よりも可能性としては高いのではないかと思うようになっていた。
必然には何かの力が働いていて、偶然は、何の力も働いていないという考えを持っていたが、偶然というものにも、何かの力が働いているように思うようになったのは、たった今だった。
偶然の方が可能性が低いと思っていたのは、
――力が働いていないものの可能性なんて、本当に低いものだ――
と感じていたからだ。
だが、偶然というものに力が働いているとすれば話は別である。同じように力が働くのなら、その時々でそれぞれ可能性の高さが上下したとしても当然である。
では、偶然にどんな力が働いているというのか。それは、偶然と思わせるために、偶発的な環境を作り出す力である。その力は、起こってしまった事実をその後、それ以降も本人に対して、
――起こったことは偶然である――
と、永遠に思い込ませなければならない。
偶然と必然というのは、その時に起こった状況だけでは単純に判断できないのだと思うと、事故で死んだ課長のことも、本当に偶然だったのかも知れないと思うようになった。
交通事故というのは、自殺や殺人以外では、そのほとんどは偶然である。課長も誰が見ても偶然だったのだろうが、皆が思っている偶然と、今俊一郎が考えている偶然とでは違っていた。
課長の交通事故に偶然を装わせるように働いた力が、その力を使った本人が意識してしまえば、その時点で偶然ではなくなる。そこにはれっきとした意志が働いているからだ。
ただ、それが殺意だったのかどうか、力を使った本人に意識がないから分からない。
その力を使ったのが、俊一郎なのか、若菜なのか、それとも他の誰かなのか分からない。
――まさか、課長本人では?
死んだ本人が無意識に力を使ったとしても、それは偶然である。それが本人の最後の力だったのだろう。
――ひょっとして、交通事故に遭う人の中には、自殺願望のようなものがあるのかも知れない――
そういえば、子供の頃に、
「あまり変なこと考えながら歩いていると、事故に遭うわよ」
と、おばあさんから言われたことがあった。
その時は、気が散ってしまうから危ないと言われていると思っていた。たぶん、他の人が聞いても同じことを考えたであろう。だが、今から思えばおばあさんは、何もかも分かっていて、忠告してくれたのかも知れないと思った。
それはおばあさんにしかできないことだ。
いろいろな人生経験の中で、見えない力の存在を認識し、それを遠回しに話してくれているのかも知れない。
まともに話しても信じられることではない。大人であれば、
「そんなバカな」
と一蹴されるだけであろうし、子供に話しても、まず理解されることのないものだからである。
もし、課長が事故に遭って助かっていれば、俊一郎と同じように、記憶を失ったであろうか?
失ったとすれば、どの記憶になるのだろう? ストーカーを続けていたという記憶なのか、それとも家族の記憶なのか、疑問に思う。
課長は、ストーカーを続けていた相手である若菜の気持ちが分かっていたのではないかと俊一郎は感じた。交通事故が偶然であって、見えない力を課長が知っていたとすれば、見えない力は、自分がしているストーカー行為の相手から好きになられたということを感じればどうだろう?
ストーカー行為をする理由がなくなってしまう。
ストーカー行為をするのは、相手が気になるからだという理由だけなのだろうか? ひょっとすると、ストーカー行為自体に快感を覚えていて、その快感を一番満たしてくれる相手が若菜だったというのであれば、相手から好かれてしまうと、本人は困惑してしまうだろう。
――だったら相手を変えればいい――
と、簡単に切り替えられるものでもない。若菜という媒体があるからこそ、ストーカー行為に勤しむわけである。そうであれば、簡単に気持ちの切り替えなどできるはずもないことだ。
それを性癖というのであれば、課長は自分の性癖を、無意識に自分の中の何かの力が抹殺したことになる。ひょっとすると「自殺」に近いイメージだったのかも知れない。それは見えない力が、自分の性癖の可能性もあるからだ。
もし、課長の中にある性癖が「自殺」したのだとすると、この時に生まれた力は、かなり強いものだったに違いない。
俊一郎、若菜の中の見えない力が働いたというよりも、こちらの方がはるかに可能性が高い。
課長の力が働いて、交通事故に遭ったからと言って、それは自殺ではない。実際に課長が、
――何をしたいか――
という気持ちと融合して起こった事故であれば、自殺と言ってもいいだろうが、自殺をする根拠がないのに、見えない力が無意識に働いただけでは、やはりそれは自殺ではないだろう。
――ただの偶然――
と、表に現れた事実とされることと同じ認識になるだろう。
俊一郎は、ひとまず、課長に対してそれ以上考えるのをやめた。妄想というものは結構疲れるものである。果てしなく続く妄想をどこかで整理しないと、支離滅裂になるからだ。すでに支離滅裂になっているが、一旦頭をリセットすることで、落ち着こうと思ったのだ。
――課長のことは、いずれ、また繋がってくるさ――
と考えていた……。
◇
俊一郎は、交通事故の夢を思い出したことで、妄想から抜け出すことができそうな気がした。
今自分が一体どこにいて、何を考えようとしているのか、考えてみた。
今のままでは自分の肉体に戻ることができない。しかも、肉体がどこにいて、何をしているのかすら、分かるすべを持っていなかった。妄想に入った時の状態が、自分でまったく覚えていない。
――多分、夢から入ったのだろうが――
夢の中で妄想を始めるということは、今までにはなかったことだ。夢の中での自分は、余計なことを考えられないようになっていた。考えることは、夢の中で決まっていて、その通りに考えさせられていただけなのだ。
夢自体が、妄想の一種のようなもので、ただし、夢は潜在意識の範囲内という制限がある。
――ということは、潜在意識というものは、案外と小さな範囲でしかないのかも知れないな――
と思った。
潜在意識というものは、考え方の原点であり、いつでも根底に広がっているものだと思っていた。見えている部分がどれほどの大きさなのか分からないだけに、全体が見えてこない。しかも、潜在意識は、自分の意志とは違い、ただ、意識として存在しているだけなのだ。
たとえば、空を飛びたいと思っても、
――人間は羽根がないのだから、空を飛ぶことはできない――
という思いがあるから、いくら夢の中であっても空を飛ぶことはできない。
それが潜在意識の成せる業であり、自分の中の考えの「抑え」でもあるのだ。
人の考え方が、無限に広がっているのだとすれば、必ずそれを抑えるための「薬」が必要になってくる。その「薬」が潜在意識であるとすれば、潜在意識の定義は自ずと生まれてくるというものだ。
潜在意識と理性では、明らかに違う。
理性には意志が存在するが、潜在意識には意志が存在しない。だが、意志の存在は、「力」の有無とは関係ないのではないだろうか。むしろ力が存在し、自分を含めたまわりに影響するのは、潜在意識の方だろう。
潜在意識に範囲があるという考えは、その秘められた「力」が表に出てきていない時に言えることではないだろうか。「力」が発揮されることで、潜在意識の活躍できる範囲は、ぐっと広がってくるに違いない。
夢の中で何かが暴走し始めるとすれば、それは潜在意識が力を持った時ではないだろうか。そう思うと、潜在意識の力が、誰かを自分の夢の中に引き寄せたり、あるいは、誰かの夢の中に入ってしまおうという意識を持ってしまう。
俊一郎が課長の夢に入り込んだだけなら、
――課長が引き寄せたのかも知れない――
と思うだけだが、若菜の夢にも入り込んだのだとすれば、潜在意識に力を持ったのは、俊一郎の方だったに違いない。
もちろん、若菜にも同じ力が若菜の潜在意識に存在したといえないわけではないが、そうなれば、若菜との出会いの偶然も潜在意識の力だと考えれば、納得がいく。
しかし、すべてを潜在意識で片づけてしまっては、
――片づけられないことがあれば、すべて潜在意識のせいにして片づけることになるのではないか――
という懸念を抱くことになってしまう。
そうなってしまえば、ある程度のことを理解できる気がしてくるのだが、それではあまりにも簡単に人生を見てしまうことになるだろう。なるべくそれは避けたかった。
いや、そんなことを最初から感じさせないように、人間の意志はなっていたはずなのだ。それなのに、俊一郎は余計なことを考えてしまったと言えないだろうか。余計なことを考えて、見えない力の存在に気付いてしまったことで、これ以上、自分が苦しい位置に置かれるのは勘弁してほしい。
――俺は、知りすぎてしまったのだろうか?
アンタッチャブルな部分に触れてしまったことへの報復が、今の状況だとすれば、俊一郎は頭の中をもう一度リセットする必要があると感じた。
――では、リセットって、どこまでリセットすればいいんだ?
これ以上考えることは、潜在意識ではなく、理性の問題に関わってくる。
今まで理性が表に出てこなかったのは、
――ここまで考えが発展してしまうと、理性の出る幕などないだろう――
という、理性を自分で考えたことが原因であろう。
潜在意識も理性に出てきてもらっては困るはずだし、理性も、潜在意識に触れたくはないと思っているはずだ。
――この二つは、平行線なのかも知れない――
決して交わることがないのが平行線である。
潜在意識も理性も、本人の中では、根底は同じものだと思っている。
潜在意識は理性よりも限界があり、さらに、理性と違って意志を持たない。理性は、限界がなく、意志は持つが、潜在意識のような「力」というものがない。
理性には、力があって発揮できないだけではなく、最初から「力」というものがないのだ。
ここでいう「力」というのは、理性にある意志であったり、限界のない広さというものではない。あくまでも自分だけに対してではなく、外部に対して向けられている「力」のことなのだ。
「理性が邪魔をする」
という言葉はよく使われるが、
「潜在意識が邪魔をする」
という言い方はしない。
それだけ、自分を含めた他の人の心の中に強く意識できるのは、潜在意識の方ではなく、理性の方なのだ。
「理性があるから、人間なんだよ」
という人がいる。
それは理性が欲望の反対語のように感じているからだ。確かにそれには違いないが、理性が欲望を抑える力だけだということであれば、そうかも知れない。しかし、理性の裏側には、常に潜在意識というものが存在している。表裏一体と考えてもいいかも知れない。
潜在意識が表に出ている時は、理性が裏にまわり、理性が表に出ている時は、潜在意識が裏に回っている。後者の方が圧倒的に率は高いと思っているが、夢の中ではそれが逆転するのだ。それが夢の定義であると考えれば、夢から覚める時、記憶に封印されてしまうことも、分からなくはないように思えたのだ。
――では、理性と欲望とは、どのような関係なんだろう?
俊一郎は、またあまり考えたことのないことを思い浮かべていた。
――欲望については、あまり考えてはいけないことだ――
と思っていた。
考えないようにするのは暗黙の了解のようで、考えることは余計なことであり、他の人に迷惑を掛けるからだと理解していたが、食欲、金欲、達成欲など、それぞれに生きる上で必要な欲もある。すべての欲望を否定してしまえば、生きていけないのは、一目瞭然ではないだろうか。
もし、自殺というものが、意志の働いているものと、無意識に自分の命を断つものと二種類あるとすればどうだろう?
俊一郎は、意志が働いている自殺を、理性によるものだと思い、無意識に自分の命を断つものを、潜在意識の中に存在している「力」によるものだと思っている。
理性が自分の意志に働いて、自分の命を断つというのは少し納得いかない気がするが、自分の意志が働いて死に至る時というのは、さらに、潜在意識の中にある見えない「力」が影響していると思うと納得がいく。
死を覚悟しても、死に切れる人が果たしてどれだけいるのかというのを考えると、普段であれば、決して一緒に表に出ることのない二つが、両方出てくる時というのが、死を決意して、死に至る時だと思うと皮肉なものだ。
それだけ死を迎えるということに対して「力」を必要とする。
それは自殺だけに言えることではない。病気で死ぬ時も、本当に死を迎える前には、本人に覚悟の時間が与えられるのではないだろうか。そう思うと、覚悟してから死に至るまで、潜在意識の持つ「力」と理性とが融合することで、死を覚悟できるだけの心構えができるのだと思える。
――どうして、そこまで分かるのだろう?
と考えたが、それは死を通らなければ分からないことであれば、俊一郎はすでに死んでいることになる。
――すると、今までの記憶や意識は一体なんだったんだ?
俊一郎は、本当は大学時代に起こった事故ですでに死んでいた。
その時に、覚悟を持って死に至るまでの時間があまりにも短かったことで、魂の中に、まだ自分が生きていて、大学時代までの記憶が残っていた。
そして、俊一郎の記憶の中に、最近同じように交通事故に遭った男性が入り込んだのだ。
その男は若菜と付き合っていた。
若菜が付き合っていた男性の会社の課長にストーカー行為を受けていたというのは事実である。若菜は課長を殺したいという妄想をずっと抱いていたのだが、彼にはその若菜の気持ちがよく分かっていたのだ。
課長も交通事故で亡くなった。課長が亡くなったのは、本当に事故である。ただ、若菜が殺したいと思って繰り返していた妄想が、こともあろうに付き合っていた男性に向いてしまったのだ。
それは若菜が抱いてはいけない妄想だった。そもそも人を殺したいなどという妄想は、簡単に抱いてはいけないものだった。やり方を間違えれば、違う人が犠牲になる。それが若菜の付き合っていた彼だったのだ。
彷徨っている俊一郎の魂が若菜の中に入りこんだ。
若菜は入り込んだ魂の正体を知らなかったが、状況から考えて、その頃にはまだ生きていた課長の夢が入り込んだと思いこんだようだ。
若菜は、課長を道連れに自殺するつもりだった。潜在意識の「力」を借りようとしたが、理性がその邪魔をする。一緒に存在しなければ死に切れないのを若菜は分かっていたのだ。
俊一郎に限らず、若菜の方も、
――死に至るためには、潜在意識の中に存在する「力」と理性とが、一緒に表に現れてこないとダメだ――
ということを分かっていた。
それは、妄想という世界の中で、強く死というものを意識するからで、課長だけがよく分かっていなかったのだ。
課長は、死など意識していない。自分が死ぬことなどありえないと考えているくらいだった。
だから、簡単にストーカー行為などできるのだろう。それを分かっている若菜にとって、彼を失ったこと、自分の人生をめちゃくちゃにしてしまったことでの課長への恨みは尋常ではなかったであろう。
俊一郎は若菜の夢の中に入り込んで時、俊一郎だけではなくなっていた。俊一郎と一緒に飛び込んだのが、若菜が付き合っていて。誤って殺してしまった彼だった。
俊一郎は夢の中で意識が交錯した。大学を卒業してからの意識は、すべて若菜の彼のものだった。彼なりに俊一郎の意識と記憶に、なるべく疑問を持たないように力を使っていたのだろう。
ただ、俊一郎が若菜の夢に入り込んだのは偶然ではない。若菜の彼が俊一郎の魂を見つけたからだろう。
俊一郎という男性が選ばれた理由は、
――課長と似た男で平行線を描いているような男性で、さらに、自分が死んだという意識が曖昧で魂が彷徨っている相手――
ということで選ばれたのだ。
なかなかそんな人はいなかったはずだ。それでも彼は見つけてきた。
もちろん、それは若菜のためである。
若菜の中には、彼に対しての一生消せない負い目があった。それを背負わせて生きていかせるには不憫だった。何よりも、彼女の気持ちを安心させてあげないと、自分がこのまま彷徨ってしまうことになる。それは本当は許されないことだった。
彼はまず課長の夢に一度入り込み、課長の理性を擽った。そして、課長が無意識のうちに自ら命を断つように仕向けたのだ。表から見るとただの事故だが。そこに誰かの力が加わったなどというのは、彼しか知らないのだ。
もっとも、彼にとっても、課長への恨みがないわけではない。デッサンを邪魔された恨みは、少なからずそのまま生きていたとしても、課長に対してなくなることはなく、むしろ蓄積して行くものだったはずだからだ。
――俺と課長は、平行線なんだ――
俊一郎が感じたことだった。
課長という人がどんな人なのか、彼の目から感じたことでしか分からない。自分が知っていてどんな風に感じるのかと思うと、少し疑問に感じられたが、俊一郎は課長という人物とは、決して交わることのない人だという認識を持っていた。
俊一郎がストーカー行為をしていたのは、間違いない記憶である。だから、彼が俊一郎を選んだのだろう。ただ、俊一郎と課長が平行線だということを、俊一郎が感じるとは思わなかったようだ。
そこが彼の一つの誤算だったのかも知れない。
俊一郎と一緒に入り込んだ若菜の妄想に対して、若菜の中で、
――気付かれてはいけない二人の存在――
に気付かれてしまったことだ。
若菜は彼が来てくれたことは分かったが、もう一人が分からない。課長だと思ってしまったのも仕方がないことで、課長であれば、夢から逃がすことなく、自分も死を選んでもいいと考えたかも知れない。だが、彼をも巻き込んでしまうと、死んだ後にも、永遠に彼と出会うことができないと思っているのだ。
彼にはそれが分かっていた。
――一体どうしたらいいんだろう?
と悩んだに違いない。
俊一郎だけを追い出すことができればいいのだが、一緒にはいりこんでしまったことで、簡単に追い出すことができなくなった。
方法がないわけではない。
若菜の潜在意識を操作して、若菜を課長のように、無意識に自殺させれば俊一郎の魂は彷徨うしかないからだ。
彼は迷っていた。その迷いが俊一郎に考える隙を与え、そのおかげで俊一郎は、自分が今どうしてこんな中途半端な意識でいるのかということを分かることができたのだ。
俊一郎は、若菜の記憶の操作を思いついた。
要するに、若菜の中にある彼を、自分が殺してしまったという意識を消してしまえばいいのだ。
俊一郎は、若菜の中にある課長がストーカーをしていて自分が殺そうと思ったことを消し去り、ストーカーをしていたのは、大学時代の自分であると思わせようと思った。
もちろん、若菜も同じくらい時代を遡ることになる。
すると、若菜の記憶のそれ以降は封印され、記憶をそこから先失ったまま今を迎えていると思うことになるだろう。
ただ、彼の記憶も消してしまうことにもなるが、彼も、それでいいと思ってくれるに違いない。そうすれば、きっと若菜が死んだ時、あの世で二人は再会できる。それを俊一郎も彼も分かっているからだった……。
「若菜、今日は綺麗な服じゃないか」
朝の出勤時に、若菜の後ろ姿を見かけた一人の男性が声を掛けた。
「ええ、今日はあなたの好きな赤にしたのよ。可愛いでしょう?」
「ああ、昔からお前は赤が好きだったからな。でも、いつも赤ばっかり着るんじゃないぞ。さすがに飽きちまう」
「あなたらしいわね。でも、私に飽きたりしたら承知しないわよ」
「簡単に飽きるくらいなら、幼馴染から今まで一緒にいたりしないさ」
「そうね、私たち、婚約したんですものね」
「そうさ。だから、今日は若菜の最後の出勤日だね」
「ええ、あなたのためにいい奥さんになるように努力する」
「頑張ってくれよ」
「ええ、ありがとう。じゃあ行ってくるね。俊一郎」
そう言って、若菜は会社のあるビルの玄関から颯爽と入って行ったのだ……。
( 完 )
俊一郎の人生 森本 晃次 @kakku
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