第8話

 浮足立つ気持ちを抑えながら授業を受けるのは初めての体験。下校のチャイムと同時に教室を飛び出して、美術室に向かう。


 入り口に鞄を置き私はクロッキー帳を取り出す。どんなイメージを受け取れるか。キラキラした夏の香りのする先輩のイメージが強いがそれ以外の顔も見せてくれるのを期待している。


 いつも一緒に居る家族でさえも知らない顔がある。


 直勝は小さな子犬のようなときもあれば、成長していく姿に大人の影を見せるようになった。嬉しくもあり、あどけない表情は残していて欲しい。


「ごめん」


 息を切らせて先輩は教室に飛び込んできた。


 入ってきてすぐに先輩は私に頭を下げる。


「身代わりになってくれたこと一番に謝らなきゃいけなかったのに」


 モデルを断られるのかと思い、そっと胸をなでおろす。私は平然を装いながら準備していたクロッキー帳をめくり始める。


「先輩がここに来てくれたことが一番うれしいんで問題ありません」


 朝屋上で話したときも、一限目の授業に間に合うように急いで解散してしまったため、私の気持ちを一方的に告げた形になってしまっていた。二人きりで美術室に居ることを先輩に先に伝えなかったことについさっき思い立った。


「そういえば先輩彼女いました」


「なっ」


 慌てる先輩は顔を真っ赤にしている。耳まで赤くなる彼がとても素直で可愛らしい。


「いえ、彼女が居るのであれば二人きりなの誤解されたらまずいかなって」


 おじい様は豪快に遊んでいた話を聞いていた。妖艶な女性や無垢な女性の天使の絵や旅をしている絵を何枚も見たことがある。


 先のことは分からないけど、母さんにはおじい様のようにはなるなと注意されている。男遊びをするつもりはないけど、いろんな人を見ていきたい。


「いや、いないけど」


 足元に視線を落とす先輩。まずいことを聞いてしまったのかな。


「私は誰かを好きになったことがまだないので、先輩もし不都合があればすぐに教えてください改善しますから」


 自分はどう思われてもいい。絵を描いていられれば。不利になることはしない。他人にも迷惑をかけない。迷惑をかけてまで誰かに評価してもらおうと思うほど私は自己中にはなれていない。


「お互いに、何かあったら言い合おう」


 先輩が中央に置いてあった椅子に座る。先輩用に用意したもの。私は向かいに座る。


「ポーズとかどうすればいいんだ」


 眺めていることを許されている時間に私は満たされていくのを感じた。先輩を見ることに他人の目を少しばかり気にしていた時とは違う。閉じ込めたい人が目の前に居て、その人は今私の希望を聞いてくれる。


「まずは先輩の基本的なイメージを掴みたいので座っていてもらっていいですか」


 何度もこっそりと書いているから知っていると言えば知っている。


 私だけの時間。勝手にイメージしていた姿で描いてしまってもいい。表現者の自由に伝えたい感情やその場面をアレンジして伝えるの。


 輪郭、瞳をその動きから先輩の人となりを感じ取りたい。


「リラックスしてください。ずっと同じポーズだと大変だと思うので多少動いて大丈夫です」


 普通のデッサンとは違うのかもしれない。少しくらい動いても大丈夫。


 本格的な絵をいきなり描くつもりはない。先輩が途中で嫌になったとしたら時々絵を描きに行くことを許してもらえればそれでいい。


 横向き正面、生きている人は動かないつもりでもその表情が動いていく。


「慣れてませんか」


 見つめる先の先輩の表情が更に動く。


「ずっと見つめられているのに慣れてるはずない」


 先輩が恥ずかしそうに頬をかいた。私の頬よりもほっそりとしている。直勝よりも大人びているけど、父さんよりは子どもで、おじい様とは比べられない。生き生きとした十代のこれからを求めている表情。


 おじい様がその時にしか味わえないものがあると言っていたことを思い出す。


 私も絵を描き始めたときよりも背も高くなって賢くなった。視線が変わったからあの頃見ていた景色をもう二度と形にすることは敵わないけど。


「先輩少しだけ触ってもいいですか」


 私とも違い、知っている異性とも違う先輩。触れてみれば姿をより一層私の求める形で。


 おじい様がいろんな人に会いに行っていたように私もいろんな人に会えばいいんだけど閉じ込めたい人は先輩ただ一人。


「ちなみにどこを」


 椅子に座ったままの先輩の表情が強張る様に見えた。


「ほっぺたと、二の腕。筋トレしている人の触ったこと無くて」


 運動をしている直勝のものよりもしっかりとした筋肉がついている。考える素振りを見せてから先輩はそっと二の腕を差し出した。私は先に自分の二の腕を触り、差し出された二の腕を遠慮なく摘まむ。ぷにぷにとした感触はなく、肉がしっかりついている。


 次にそっと頬をつつき始める。目を閉じる先輩。男性にしては長いまつげ。頬は無駄なぜい肉が付いていない。直ぐに骨にぶつかる。


「いつまで触ってるつもりだ」


 遠慮なく突き続ける私の手を掴み先輩が上目遣いに私を見る。


「簡単に触らせてくれるなんて破廉恥ですね」


 言いながら触ろうとする私の手は先輩の力が強く触れることが叶わない。


「君が触りたいって言ったから許した」


 照れた表情。他の人にも見せたことがあるのかな。子どもの表情と言ったら怒られるかもしれない。年上の男性。一年長く生きていていろんなことを知っている。


「私はいろんな表情の貴女を知りたい」


 こっそり見ているだけじゃなくて、もっと内面も全部。私が抱いている先輩は一部だけ。


 授業中の先輩も気になる。体育だけは楽しそうに授業を受けているのを見られるけど。


「先輩は安易に条件を飲み過ぎです」


 流石に先輩の腕力に勝てる気がしなかったので私は突くのを諦める。


「初めてなんでね」


 私は先輩に詳しく条件付けをしなかったのは後で何か付け加えたくなっても問題ないようにと思っていた。束縛する間柄でもないので、条件を決めるべきなのかもしれない。


「毎日来てくださいって言いません。来れる時に来てください。基本的に私はここに居ます」


 ガラスを割ったことに対する対価がどのくらいのものが妥当なのか私には分からない。先輩の迷惑にならない範囲で最大限に構ってもらいたい。


「写生にも来るのか」


 部活動の一環でしていたのを指しているのかな。今までも邪魔はしたことが無かったはずだ。


「邪魔はしません」


 真剣に挑んでいる人を侮ってはいけない。人を射殺せそうな瞳を一度見たら忘れられない。目は口ほどにものを言うとは的を得たことを後世に伝えたと思う。


 キラキラとしている先輩と違う魅力を持つ人は沢山いる。


“二度”同じものを人は表せないから刹那を大切にしていきたい。会話をしているだけで先輩の表情は色々変わって本人の意図していない表情だってきっと混ざっているはず。


「先輩はサッカーを一番楽しそうにやっていますよね」


 私の受ける印象。一番初めにサッカーをしている姿を見ていなかったら私はこんなに先輩に惹かれなかった。


 独り占めしたい。私だけに見せて欲しい。


 私だけの時には決して見せてくれるものではないから、様々なタイミングで先輩を見ていきたい。


「俺楽しそうにやっていた」


 泣きそうな、困ったような感情が入り混じる表情。サッカーに関して何か触れてはいけない問題があったのかな。


「私が勝手にそう感じているだけかもしれません」


 多くを語り合わなければ先輩のことは分からない。昨日初めてコンタクトを取れたわけだから急がなくていい。慌てたらもしかしたら逃げられるかもしれないから。


「君が生き生きしているとき何してるとき」


 先輩が首を傾げて聞いてくる。私は自分が一番楽しいと思えることを思い出す。寝ることも好きだけど、先輩が聞いている好きとは違うから。


「絵が描けている時でしょうか」


 旅行に行くことも、美術館、写真展に行くこともインスピレーションをもらえるから好きかもしれない。悩み苦しみながら生み出すことが呼吸をするくらい当たり前で、私にとっては奪われたくない存在。


「人物画ほとんど書いてこなかったよね」


 先輩は私の絵を今までも見たことがあるのかな。おじい様が亡くなってからあまり展覧会に出品して居なかったけど、基本的に書いていない。


「おじい様が明確じゃない形を表現できれば己の中にあるものをいくらでも吐き出せるようになるって。人も動物も好きです。牙を抜かれた野獣達が本気を出せば人に勝てるのにそうしない理由を知りたくて」


 本当に逃げ出してしまえばすぐに自衛隊などが動き捉えられてしまう。彼らが本気になれば武器を持たない人間なんかあっという間に手負いになってしまうのに。


 先輩がすくっと立ち上がる。


「次の休み一緒に動物園行こうぜ」


「なぜ」


 私は手にしていた鉛筆を落としそうになる。どこか嬉しそうな先輩の笑顔。


「俺ばかり見ててもいいこと無い。好きなんだろう、動物」


 最近動物園に行っていなかった。去年までは一応受験勉強をしていた。天才でないから多少は努力しないといくら安全圏の高校でも何があるか分からない。


「そうですね」


 動物を見ている先輩の様子も見ることが出来るかもしれない。そうなったらとても楽しいかもしれない。普段見せない顔はどこに転がっているか分からない。


「約束決まりだぞ」


 先輩が少し嬉しそうに笑った。穏やかで日和のような見たことのないもの。


 先輩、今何を想って笑ったんですか。呆気に取られてしまい私は先輩に理由を聞くタイミングを逃してしまった。

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