第7話

 変わった新入生がいるって最初話題になっていたのを今更になって思い出していた。使われていない教室の方にボールが飛び、ガラスが割れる盛大な音。放課後のグラウンドで俺たちは冷や汗をかいていた。


「わりぃ、俺が取りに行くよ」


 相手の取れないところに蹴った俺が悪いので真っ先に走り出した。普段使われていない教室のはずなのに一人の少女がボールと飛び散るガラスの中央に立っていた。


「貴方が蹴ったボール」


 俺は割れた窓の隣から教室に入る。ガラスが飛び散っていたため土足のまま。彼女の足元には大きな穴の開いた絵。絵の興味は無かったけど誰かが噂していた。天才絵師の孫が入学して美術室一室貸し切って放課後絵を描いていると。


 有名私立からも入学の誘いの話があったのに本人の希望でこの学校に入学したらしい。快く思う生徒だけではなく、時折話題になっていたのを覚えている。俺が放課後助人をしているときに時折スケッチブックを片手に部活をしている生徒たちを模写しているのを見たことがある。誰か知り合いを描いているというよりか、「スポーツをしている人たちを描いている」という様子の一つ年下の少女。長く真っ直ぐな黒髪。


 あまり表情の動かない少女は真剣な表情でハードルを飛んだりボールを追いかけている同級生や先輩を目で追っていた。毎日来ることもあれば日を開けてくる時もある。


 少女のことは知っていた。どこか他人と距離を置いていて、けれど人を良く目で追っている。


「ごめん、壊すつもりは無かったんだ。弁償できない代わりになんでもする」


 どれくらいの価値のあるかは分からない。俺のお小遣いで弁償できる代物でないことくらいは想像がつく。少女は一瞬目を見開く。どこかその瞳には嬉しそうな色が見えた気がした。


「君を描かせてよ」


 大声を出す印象のない少女は凛として、混じりけのない声。拾ったボールを握る手に汗がにじんでいる。俺は凍り付いたようにその場に動けないでいた。


「手に持っているボールが絵を壊したのは、見れば分かるかな」


 素人相手に何を言っているんだ。モデルにするのであればもっと違う人に頼むだろう。


「壊すつもりはなかったんだ。ごめん。弁償でも何でもするから」


 少女は一歩俺に近づいてくる。手にしていたボールが汗のせいでその場に転がり落ちた。彼女の視線から目を離せない。グラウンドで何度か遠目で視たことのあるその真剣な瞳に俺は動けずにいた。芸術を生み出すその瞳が捉えているのは俺だけで俺も彼女だけを見ている。


「何でもするって言ったもんね」


「絵を壊すつもりは無かったんだ」


 震えそうになる声を必死に抑える。見惚れそうになるのを堪え、足元に落ちたボールに視線を向ける。このまま時間が止まってしまいそうな、そんな感覚。


「君がモデルになってくれれば問題ないわ」


 絵描きの人が見たらきっと俺よりも今の君を誰もが描きたいと思ってしまうだろう。絵心が無いと美術の先生に言われている俺ですら君を閉じ込めて置ける手段があればそこにとどめておきたい。耳の奥に聞こえる鼓動が窓を割ってしまって慌てているからなのか君という存在を認めてしまったからなのか分からない。吸い寄せられる瞳から離れが無い何かを感じる。


「簡単よ、君を描きたいの」


 絵を描いている側の君がこんなにも魅力的だとは思わなかった。


「先生にも言わないから、お願い私の絵のモデルになってよ」


 モデルになるのは君の方じゃないかと言えれば良かったのに、喉の奥が乾き口を開くことが出来ない。


「明日この教室で待ってる。早く逃げないと先生来ちゃうよ」


 耳を澄ますとガタガタと数人の話声と一緒に足音も聞こえてくる。俺は入ってきた窓からそのまま立ち去ることしかできなかった。






「大丈夫だったか」


 ボールを片手に部室に戻ってみると心配そうにのぞき込んでくる顔があった。幼馴染だ。


「先生には見つからなかった」


 彼女が罪を肩代わりしてくれたことを伝えるべきか、でも恐らく直ぐに噂は流れる。ひいきされているとよく思っていない生徒も少なからずいる中で彼女は自分の信じるもののために真っ直ぐ生きていた。


 名前だけを知っていた後輩の女の子のはずだったのに、ほんの数分の間で彼女との距離が近くなった。雲の上の存在が俺の目の前に降りてきた。


 どうして俺をモデルにしたいのか聞きそびれてしまった。


「小山田郁香って知ってるか」


 話を逸らすために俺は彼女の名前を出す。いきなり名前を出したが、幼馴染は気にすることなく答えてくれた。


「入学式の時騒ぎになってたやつじゃない。町内で有名だよな。確か数年前にじいさん亡くなってて孫も絵描きで、特別に美術室一室貸し切りで使ってるって聞いたけどあるけど。なんかあったのか」


 俺はモデルになる誘いの話もかいつまんで説明した。窓ガラスを割った肩代わりにモデルをやって欲しいということ。俺は人が来る気配がしたため、正式な返事をする間もなく場を離れてしまったことを。


 口元を抑えた幼馴染。目元が明らかに細めている。俺の状況を楽しんでいるに違いない。十年来の幼馴染だ。ほんの些細な動作でも何がしたいのか理解してしまう。


「中々やれないチャンス、楽しめばいいんじゃない。代わりに怒られて変な噂まで立つことを予測しても、モデルで済むなら安いもんじゃん」


 明らかに楽しんでいる気もするが、悪いのは自分達。強く出る訳にはいかないが、正直どうするのが正解なのか分からない。逃げ出している時点で彼女の両親が呼ばれて説教を受けているは確定だ。


「断るべきかな」


 やったことが無いのを理由にしてもいいのか、正直に先生に謝りに行くのが正しいのか分からない。


「罪を擦り付けたくなかったら逃げ出さずに先生が来た時に俺がやりましたって言えばいい。逃げ出したなら彼女の話を飲む方が妥当じゃないか」


「俺が務まるのかな」


 外で体を動かしているのが性に合っていて、ジッとして居られる自信がない。プロが身近にいた彼女がど素人の俺で満足するはずがない。頼める人が居なかったから俺を指名したに違いない。


 幼馴染はニヤニヤする口元を隠すのを辞めて俺の両肩に手を置いた。


「弁償する、親に怒られるよりも俺は楽というか心は苦しくないと思うよ。代わりに怒られた小山田には悪いけど」


 明日待っていると言っていた。男として情けないことに逃げ出してしまっている俺。


 一番に彼女に謝らなければ。

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