第4話
「窓ガラス割っちゃったのがその人だったの。黙っている代わりにモデルを頼んだの」
なんの返事もなく走り去っていった。私がガラスを割ったことにしたため、明日のホームルームで話題に上がる。奇行はしないようにしていたけど、夏休みを前にして変な噂が立たないことを願う。別に経ったところでそんなに気にしていないのだけど。
「罪を擦り付けられたの?」
母さんは焦げないように鍋をかき回しながら私の顔を真っ直ぐ見てくる。
「違う私から交換条件出したの」
「そんなことしなくても普通に頼めば」
町内では私が絵描きをしていることは有名で高校を選ぶときに有名私立などからも声がかかった。私は徒歩で行ける圏内に県立高校があったのでそこを受験した。偏差値もあまり高くない私が通えるレベルの高校。普通科ならば自由に絵が描けると思ったから。勉強に力を入れないと将来なりたいものになれないかもしれないけど、私の将来の夢は無い。一つ我が儘を言っていいのならば、絵をかいていられる環境であってほしい。
その為ならどんな努力だって厭わない。おじい様も絵を描くことが好きで仕事にしていた。頼まれて書くこともあれば自身が興味をひかれたものに命を注ぐこともある。
そこまではまだ分からないけど、高校で出会った彼が今一番書きたい人。
絵の中に閉じ込めたい。
「悪行を肩代わりはしちゃダメって前に教えたでしょう」
「そうでもしなきゃ私に興味を持ってくれない」
接点は同じ学校に通っているという点だけ。常に一緒に居るのは男友達でサッカーを放課後している確率が高かった。
青春って言葉が似あいそうな私とは正反対の明るい人。
友達が多くて学校の楽しみ方を知っていて、物語の主役のような人。噂だと女性遊びが激しいって聞いたけど「男女の恋愛」が多いと色気は増すとおじい様も言っていた。
「郁香のことは応援しているけど、脅しちゃダメじゃない」
母さんにしてみれば私が彼を脅したことになっているようだ。
「交換条件出したじゃない」
「ガラスを割って、弁償するどこが交換条件なのよ。郁香が断然不利じゃないの」
「不利かな」
断り切れない名案で絶対に乗ってくると踏んでいるのに。母さんはおじい様の影響をあまり受けていないのか現実的であった。慌てて学校来ることになった母さんには悪いことをしたけど、描きたい人を目の前にして簡単に去る事なんてできない。
「不利よ」
力が入ったからか、鍋の中で焼かれていた肉がじゅうっと音を立てる。
私はジャガイモの皮むきの手を休めて携帯を取り出す。
「大丈夫。こっそり先輩がガラス割ったところ動画に取ってるから」
「学校で一体何しているの」
母さんも急いで鍋の火を止め、私の手にしている携帯に視線を落とす。私のとった行動が意外だったのか、瞬きを忘れてしまっている。高校の入学祝いに買ってもらった白の携帯。持っていなくても不自由しないと主張したのに母さんの方が持つことを強制してきた。
「絵を描く工程を動画であげるの流行っているからやってみようかなって。ほら」
効果音などは後でつる予定なので私が後ろ姿で写っているだけ。絵が徐々に進化していく様が移しだされている。
と途中でサッカーボールが飛んできて絵に直撃する。私はスマートフォンを急いで制服のポケットにしまう。会話だけが録音されている。絵を描きたい私の主張。何でもすると発言をした彼の声。動画は先生に連れていかれる時にこっそり切っていた。母さんは口を大きく開けていた。
「郁香、貴女って人は」
「おじい様もよく言っていたじゃない。絵を描きたいからって自分に不利なことはするな。動画取ってたのは偶然だけど証拠として役に立ちそうだから交換条件だしたのよ」
「怖いわ」
母さんはそう呟くと鍋の元へと戻り、料理を再開した。副菜で作っているサラダの続きをすべく、携帯をポケットにしまった。
明日放課後美術室に来なくても明後日問いただせばいい。
どうしても描きたくて。
ひっそり眺めているだけじゃ物足りなくて、彼の魅力を描き切ることができるのかな。
ただいまと元気な声と共にリビングに飛び込んできた弟の直勝が私の姿を見ると、口をへの字に曲げていた。
「姉ちゃん、ガラス割ったって本当かよ」
中学三年生の反抗期真っただ中の直勝は私よりも運動神経が良い。
私はジャガイモを小さく切り刻む手を休めずに直勝の話に耳を向ける。隣の中学校にもすでに話が回っているということは先輩の耳にも朝のホームルーム前には『犯人は私』で入るだろう。
「犯人が私で話が進んでいるのかな」
重要なのはその点だけ。彼が割ったとバレていたら意味がないから。私と母さんに慌てた様子がないのが分かると察した直勝はリビングのソファーに足を進める。
「そう聞いて慌てて帰っていたら二人とも普通に飯の準備してるから拍子抜けてる」
直勝がリビングのソファーに寝転がりながらクッションを胸に抱いている。母さんが手際よく切っていた野菜を鍋に入れていく。辛いのが苦手な父さんのためにわが家は甘口と中辛のミックスカレー。上手く中和されて辛くも無く子供っぽい甘さも残らなくてとても食べやすい。学校の給食の少し甘めのカレーが懐かしくも思う。
「直勝は郁香のマネしちゃダメよ」
私が芸術の才能を持って生まれてしまったのか、直勝は絵に対する興味が一ミリも無かった。私の絵を見ることはあっても「何がそんなにすごいの」と他の人が言うような感想をもらったことは無い。
私の分の運動神経も引き継いだのか、同年代の子に比べると頭一つ分くらいは上手い身内の私から見てもと思う。
「母さん、ガラス割るほどの度胸は無いよ」
顔だけこっちに向ける直勝はソファーの上でジタバタする。
「それより姉ちゃん、学校にすごいサッカー上手い人いるでしょ。紹介してよ」
「運動苦手な私が仲いいわけないじゃない」
直勝が言っているのは彼のことだろうか。女遊びも酷いらしい彼を弟の直勝に紹介してもいいのか悩んでしまう。今日知り合っただけの彼に頼むのも難しいと思うので、様子を見て聞けたら聞いてみよう。
「郁香はやる気がないだけでスポーツもできるでしょう」
母さんが鍋に蓋をして火を弱火にしていた。私も話につられて止まっていた手を動かし始める。
段々といい匂いが部屋の中を満たしていく。私は付け合わせのサラダを作るべくジャガイモをつぶしていた。カレーにも入っているけど今日はポテトサラダが食べたい気分なので私は作る。例え直勝に文句を言われようと。
両親共に人並みに運動神経はある。私はジャガイモを潰す手を眺める。
「手を怪我したくないからスポーツはしないわ。足だったら座ってでもかけるけど腕とか怪我したら何もできなくなる」
「姉ちゃんは勉強もやる気があればもっと違うところ行けただろうって皆噂してるんだけど本当」
どこか疑うような視線に中学の頃先生は私が最終的に選んだ志望校に対して何度か説得してきたのを思い出した。両親は本人の希望を一番にしてくれていた。今後大学に行くとにだけを少し心配していたが、私はそんなに勉強は好きではないので心配されるほどではない。
「絵を描くことに必要な知識以上は私興味ないから」
知らなければ描けないことも多い。家族旅行に連れて行ってくれる両親には感謝している。コミュニケーションが苦手な姉を嫌うことなく温かく接してくれる弟。多くは望まない。私が一番欲しいのは既にそろっている。これ以上欲を言うと神様に怒られてしまうから。
来年になったら描く気力が残っていないかもしれない。描ける時に描きたいものを、全力で挑戦していきたい。時が経てば感情も成長する。大切なものが変われば、感じたものを描くとしても同じ作品を作り上げることはない。
大切なのは今何を描きたいか。
直勝が帰ってきたときと同様に、玄関が騒がしくなる。勢いよく開いたリビングのドアから一家の大黒柱が顔を出す。
「郁香がガラス割ったって本当」
いつもの帰宅時間より一時間も早い登場に母さんは「そういえば連絡し忘れていたわ」と口元を抑えていたのを私は聞き逃さなかった。童顔の父さんは二人も子供がいるようには見えない。私と並んでいると兄妹に見られるくらいである。慌てて来たのか髪は乱れ、眼鏡をかけなおしながら私のことをじっと見ている。
「おかえりなさい、松栄さん」
母さんは言い忘れていたことを無かったことにしようとしている。いつもより早いわねと焦げないように混ぜている鍋の手を止めないでいた。直勝はごろりとしたまま顔を父さんに向けていた。
「お帰り父さん」
「ガラスは割ったような、割ってないような」
私は歯切れの悪いまま、ジャガイモを潰す手を休めず、納得してもらえる答えを試案してしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます