第2話
ガラスの割れる音は部活動をしていた生徒全体に聞こえていたらしく、私の思惑は成功したかもしれない。彼が、高校二年生だというのを私は知っている。
内申が悪くなることをしては今後の進路に関わる恐れがあるから先輩はきっと私の申し出を飲むはずだ。一般的な生徒であれば少なくとも内申が悪くなるようなことから逃げたいはずだ。ガラスを割ってしまえば、両親にも知られてしまう。罪を被ってくれる人が居れば擦り付けたいとかんがえるのが妥当。
生徒指導室に連れていかれた私は美術部顧問の先生と生徒指導の先生に挟まれながら事情聴取をされた。怪我がないと分かったので、保険医の先生は職員室に報告に行くとその場を後にした。恐らく家にもすぐ連絡が入るはず。パートで週何日か仕事をしている母さんは直ぐに学校に来る。先生の前で本当のことも言えないし、ガラスを割った犯人役をするならもっと派手に割っておけばよかったかもと少し後悔している。
「小山田さん、先生は一人の方が描きやすいと思って教室使ってもらってたんだけど皆と一緒の場所で描いてもらうことになるわよ」
お願いをして一人部屋をもらったわけじゃない。先生は私の才能を認めてくれているというよりも「おじい様」が居たから特別扱いしているだけ。母さん達も私を特別扱いしないで欲しいとお願いしていたはずなのに。落ち着いてかけるならと教室を使わせてもらっている私が言える立場じゃないけど。
「先生達も君を全面的に庇えば他の生徒に示しがつかない。ガラスを割って許されると思っているのか」
生徒指導の先生は五十代手前くらいだろうか。困惑した表情も混じり、どう私に説明すれば納得してくれるか思案しているように見えた。
庇ってもらうつもりも何もない。私はただ己の欲に正直になった結果が「彼」を庇うだけなのだけど、どう説明をすればいいかな。
「小山田さんのお母様がいらっしゃいました」
保険医の先生が遠慮がちに扉を開くといつも身だしなみに気を付けているのに髪の毛がボサボサの母さんが目の前に現れた。
先生達が見守る中私の前にしゃがみ込んだ母さんは事情は聴いているからか、結論だけを求めてきた。
「本当に割ったの」
「割ったよ」
割ったのはボールだけど、と思ったけど母さんはこの返事だけで何かを察したのかギュッと私のことを抱きしめた。
「ごめんね、何か寂しいこととかあったの気づいてあげられなくて」
精神的に不安定になって暴れたことにされそうな勢いなので私は言葉を選びながら母さんの背中に手を回す。先生達にどう思われてもこの際いいや。特別今後の進路で大学に行きたいとか希望もないし、卒業さえできれば両親も納得してくれるはずだ。
「壊してみたら違う世界が見れると思って」
『体験しなきゃ描けっこない』がおじい様の口癖だった。画家だったおじい様の教えは普通のお祖父ちゃんが孫にするものとは少し違っているというのを小学生に上がるまで知らなかった。例えばおじい様が他の若い女性と腕を組んで外出しているのを見たことがある。無邪気だったころの私はおじい様に直接質問したら外出女性の件はおばあ様にはちゃんと許可を得ていると言い出したのだ。
私はどうしておばあ様がそんな許可を出したのか理解できず、これまたおばあ様に確認してしまった。二人で出掛ければいいのにとおばあ様に話したら『表現者の嫁になるときに心に誓った』のよと、楽しそうに笑っていたのを覚えている。体験しなきゃ伝える術を持てないと言うのなら、今の私に必要なのはおじい様にとってのあの時の女性のような立場の人。
私は知りたい。偶然彼を見たときから頭から離れないこの感情を何と呼ぶのか。表現することが叶えば気持ちの整理がつくのかどうか。
今日手にしたチャンスを逃さないために私は本当のことを口にしない。
私から離れた母さんは何かを察したのか、小さな子どもに言い聞かせるような口調になった。
「壊していいものと駄目なものの区別もつかなかったの」
先生達には母さんの表情は見えていないけど、長年娘をやってきた私には分かる。母さんは怒っている。おじい様の娘として育ってきたから私の突拍子のない行動には多少耐性はついていたとしても突然学校に呼び出されるような事件を起こしたことが無かった。
「弁償は私の口座からだして」
家に帰ればお説教コース確定。詳細を話さなければ学校に来ることを許してもらえないかもしれない。私と母さんとのやり取りとを先生たちは黙って見届けている。私が母さんになら事情を話すと思ってからなのかな。下手なことを話して彼の存在が明るみに出てしまえば作戦失敗なので私は余計なことをここで言うつもりはない。
「分かったわ。先生にお話しして帰りましょう」
嘘を突き通せば真になる。昔の人は的を得た言葉を生み出すのが上手いなと思いながら、私は母さんと一緒に先生に頭を下げていた。本来は無実だったのに、一緒に謝ってもらうのが申し訳ないと思いつつ、おじい様の子どもだった母さんはもっと苦労をしていたことを思い出した。
絵の才能を受け継がなかった母さんに対して、周囲には残念がっていたが、おじい様は他に色んな人生が選べていいなと心の底から話していたと教えてもらった。
生徒指導の先生が『他の生徒に示しがつかないのでこういう行動を取らないようにちゃんと指導してください』と言われている母さんが小さく謝る姿に心が痛んだ。
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