第五話 母親
真夜の言葉に相変わらず清彦は沈黙したままだった。
時折、口を開こうとするようなそぶりを見せるが、そこからはすぐに口を閉じるを繰り返していた。
(……これ以上は無理か?)
真夜はもう自分が何かを言うことは出来ないと判断した。長々とこちらの主張を聞かせ続けたのだ。これ以上は余計に態度をより硬化させかねない。
清彦の様子を見れば、葛藤しているのがわかる。しかし後一手が、一押しが足りない。
何とか渚の前で語らせたかったが、無理強いも出来ず強攻策に出たところで二人のためにならないだろう。
(ここまでか? ……悪い、渚)
聖騎士ならばもっとうまく出来たかも知れないと、真夜は未熟な自分の交渉力を恥じると渚の方を見る。
すると渚も真夜の顔を見返すと、軽く真夜の手に自分の手を重ねてきた。
(渚?)
疑問符を浮かべる真夜に渚は微かに微笑むと、改めて清彦に向き直った。
「……お父様」
渚は真夜の手を握ったまま、凜とした声で清彦を父と呼んだ。
「何も仰らなくても構いません。ですが少し、私の話を聞いて頂けませんか?」
真夜と同じようにまっすぐに清彦の目を見ながら、渚は言葉を紡ぐ。
「私は真夜君が言ったことをすべて信じます」
「なっ……」
「お父様がそれを否定しても、たとえ違ったとしても私はあなたが私を愛してくれていたと思いたい」
それはただの逃避かも知れない。渚自身がそう望むだけの都合の良い解釈だけなのかも知れない。それでも渚は信じたかった。父が自分を愛してくれているという事を。
「私自身、お父様とどう接すればいいかわかりませんでした。ただあなたに認めて欲しくて、褒めてもらいたくて、必死に頑張ってきました」
しかし結局は直接的に認められる事も、褒められることもなかった。だがそれでも真夜の話を聞いた後では、今まで見えていなかった物が見えてきた。
「以前より私が退魔の場に赴く際は、必ず少なくない随伴者が居ました。今考えれば、そのほとんどが分家や門下生の中でもベテランでした。派閥などを考えれば、そういった方は兄達の方に回されるはずなのに」
失敗すれば京極家の名に傷が付くため、成功が当たり前の仕事にベテランを割り振るのは当然だが、渚が主体となった仕事の場合は必ずと言って良いほどベテランが随伴した。
真夜と再会した土蜘蛛の一件では分家の若手が一人だけだったが、それでも分家の中では将来有望のそれなりの使い手だった。
「功績に関しても、下手に私が功績を立てすぎては角が立つから、兄達に譲っていたとも考えられます。他にも、考え出せばすべて私のためだったと思える事が多くあります」
飛躍した理論であり、こじつけな部分は大きい。だが少なくとも先ほどまでとは違い父を信じることは出来るようになった。
「それを踏まえて私はあなたに伝えたい。これまでありがとうございました。これまでの事があったからこそ、私は今、とても大切なものを手に入れました。真夜君は昔、私を救ってくれた恩人で昔からの思い人でした。そんな人と結ばれ、私にはもったいないほどの友人も出来ました。今私はとても幸せです」
渚は真夜と朱音を見ると嬉しそうな笑みを浮かべる。京極家では決して見せることが無かった顔だ。
「それに真夜君のおかげで、お父様ともきちんと向き合える事ができます。たとえこの場であなたの本心が聞けなくても、あなたが私を娘として愛してくれていたと信じる事が出来ます」
これまでの事を水に流すということでもない。清彦との問題が解決しわけでも関係が改善したわけでもない。真夜がいて、朱音もいる。一人ならばこうやって自分の正直な気持ちを素直に相手に伝える事が出来なかったかもしれない。しかし真夜がお膳立てをしてくれて、朱音も後ろで見守ってくれている。
勇気をもらった。だから自分は父にはっきりと自分の気持ちを告げる。
仮に真夜の憶測が外れており、父が自分を愛していなくても構わない。
ただ伝えたい。これまでの自分の思いを。真夜や朱音の事を含めてこれからの自分の事を。
そうすることで渚は気持ちに折り合いを付けることは出来る。
「京極家での事は色々と思うところはありますが、今ならば良い経験だったと思うことが出来ます。だからこそ真夜君にも朱音さんにも出会うことができました。六道幻那から身を挺して守って頂いたことも、嬉しく思っています。だから改めてお父様に感謝を」
渚も父に対して思うところが多々あるが、恨みや憎しみと言った感情は無い。
確かに恨み節の一つも言ってやりたく思っていたが、真夜の言うとおり、京極家の当主と言うことで渚でも計り知れない重圧やしがらみがあったのだろう。それを告げて、清彦の心労を増やしたくは無い。
死に直面した時に身を挺して自分を庇ってくれた。その事実があるだけで、渚は清彦を信じようと思う。
渚の心に出来た余裕。自分の味方をしてくれる心強い恋人と親友の存在が渚の心を落ち着かせた。
「……私は、お前に感謝されるような親でもなければ人間でもない」
長年、交渉などで他者と関わってきたからこそ、渚の言葉が紛れもなく本心であるとわかったのだろう。しばらく清彦は何かを考えるように目を閉じていたが、不意に何かを懺悔するかのような重い口調で語り出した。その顔はいつものような仏頂面ではない。どこか苦しそうな、辛そうな顔であった。
「親として何一つしてやっていない。お前の努力も功績も何一つ褒めることさえしなかった。それはお前達が言うような理由があろうとも免罪符になりえん」
「だとしても、私は感謝を伝えたい。確かに私自身、他にもお父様へ言いたいことや聞きたいこともたくさんありました」
この機会を逃せば、もう二度と清彦に聞くことが出来ないかもしれない。真夜の言うとおり、あり得ないかもしれないが今生の別れとなるかもしれない。
それでも渚はただ清彦への感謝だけを口にする。我慢しているわけでは無い。相手を困らせないように気を遣っているのでも無い。ただ、自分でも不思議なくらいに気持ちが穏やかだった。
一度泣いたからだろうか。真夜の手を握っているからだろうか。それとも目の前の父が、苦悩しながらでも自分と向き合おうとしているのが伝わってくるからだろうか。
「ですが今はただ、お父様への感謝だけに留めておきます。ほかは次の機会にでも取っておきます」
せっかく真夜がお膳立てをして、この場できちんと話し合えるように説得してくれたと言うのに、渚はその努力を無為にするかのような事を言っている。おそらく次は無いだろう。
真夜には後で謝罪をしなければならないと思いつつ、それでも渚は次があることを望んだ。
「……次か。お前の母もそう言っていたな」
ぽつりと清彦は渚に向かいそう言った。
「お、母様ですか?」
「……そうだ。お前の母である京極澪(きょうごく みお)。私が唯一好きだった、愛した女性だ」
そう言うと、清彦は懐から古風な懐中時計を取り出して蓋を開けた。裏蓋には何も無かったが、霊力を込められると、そこに写真が浮かび上がる。写真には渚に似た女性とその腕に抱かれる赤ん坊が写っていた。清彦はそれを渚に渡し、見るように言う。
「この人が……」
初めて見る母の顔に、渚は思わず声を漏らした。
「そうだ。お前が生まれて一年後に亡くなったお前の母だ。澪も亡くなる少し前に私にそう言っていた」
ぽつりぽつりと清彦は渚の母について語り始めた。真夜と渚の言葉で、彼の中の何かが変化した。
「澪は京極本家の血を引いた私よりも年上の女性だ。だが霊力こそ高かったが生まれつき盲目の上に身体が弱く、ほとんどを屋敷の中で過ごしていたようだ」
清彦とは幼い頃はほとんど交流が無かった。霊力は京極家でも類を見ないほど高かったのだが、身体が弱く盲目では退魔師としては役に立たず、かといって補助系の術が得意かと言えばそうでもなかった。
式神の契約や扱いこそ上手かったが、高位の存在と契約を結び使役しようにも、身体が弱いため反動により、まともに使役できなかった。他家に嫁がせようにも盲目で身体が弱くてはもらい手も無い。
またこの場で渚達には語らず、隠し通し墓まで持っていく内容だが、澪と清彦は年の近い叔母と甥の関係であったのだ。清彦自身、それを知ったのは随分と後の事だ。
澪は京極家の先々代が高齢の時に分家の若い娘を孕ませて生ませた子であった。その存在はほとんどの者に秘匿され、京極の本家では無く別邸で飼い殺しのような扱いを受けていた。
「彼女と初めて会って会話をしたのは随分と大きくなってからだ」
京極家の当主になる前、まだ退魔師として前線に立つことが多く、全国を飛び回っていた清彦は地方の京極家の管理する屋敷で彼女に会った。
彼女の素性は後になって知ったのだが、清彦は彼女に出会い、そして恋をした。
「渚と同じように式神の扱いが得意だった。身体が弱かったので、低級以下の式神がほとんどだったが、その数は信じられないほどだった」
屋敷のあちこちに居る鳥や動物のほとんどが澪の式神だった。彼女は式神の目を通して、周囲の情報を見ていたと言う。
「だが彼女にはもう一つ特殊な能力があった。それは自らの感情が他者に伝わってしまうという物だ」
思考では無く感情なので、考えている事が相手に筒抜けにはならないが、半径五メートル以内の他人にはどれだけ取り繕うとも自らの感情が伝わってしまう弊害を抱えていた。
しかしそれが清彦には逆に救いとなった。
当主・清丸の嫡男として、また次期当主として、そして当主となってからも、醜くおぞましい権力や地位を狙う輩や自分や清丸に取り入ろうとする輩が常に清彦の周りにまとわりついてきた。
逃げ出すことも出来ず、ただ父に言われるままにレールを走り続けてきた。正妻と側室にしてもすべて清丸や長老衆が決めた相手でありそこに愛など一切無く、政略結婚であり京極内や対外的なパワーバランスを考えての物だった。
清彦自身にもっと退魔師としての力があれば、自分を押し通せたかも知れない。
しかし清彦の退魔師としての力はそれらをはね除けるほどでも無かった。ならば父のように策謀を張り巡らせようとも、父や老練な長老衆に及ぶべくもなかった。そのため自分を殺し京極家のために奮闘してきた。
そんな中、澪の存在が清彦の唯一の癒やしとなった。彼女は清彦と共にいる時は常に喜と楽の感情を向けていた。相手の腹の内を探ることが当たり前となり、父や長老衆はもちろん正妻と側室でさえも信じ切ることは難しく、自らの弱音も本心も見せることが出来なかった。
相手がどう思っているのかが恐ろしかった。自分の味方だと思っていた相手が実は裏切り者や内通者だったという事が幾度もあった。
人間不信になりかけていた清彦に取って、澪の存在はかけがえのないものだった。彼女の側に居るときだけが安らぎの時間だった。澪だけが疑う必要の無い相手だった。
だから恋に落ちた。澪は優しい女性だった。清彦の苦しみを察し、彼が少しでも心穏やかでいられるように献身的に接した。
何度も理由を付けて足を運んだ。無論、他の者に悟られないように。
だが京極一族は甘くは無かった。清彦の偽装工作など、そう時間をおかずに見破られることになる。
それでも策謀を張り巡らせ、何とか澪を手元に置くことに成功した。
澪の存在自体は京極一族内でも秘匿されており一部の者しか知られていなかったが、清丸や長老衆の一部はその存在を把握していた。戸籍の偽装や対外的には地方の霊力の高い娘を妾にしたとしたのだが、それがより彼女の立場を悪くした。
彼女は清彦の最大の弱点となった。
彼女の事を理由に清彦は清丸や事情を知る長老達からの命に逆らえなくなった。澪と共にいるためにも、また清丸や清彦と敵対する派閥や勢力に狙われないようにするためにも、清彦は彼らの命を聞き続けるしかなかった。
それでも彼女のためならば、澪と共にいられるならば、清彦は耐えられた。
「それが間違いだった。それは私の身勝手な願いでしか無かった」
弱点となった澪はそのことを悔やんでいた。それでも清彦が自分を必要としていることはわかっていたのだろう。自ら身を引く方が彼にとって良くない結果を招くと思い、彼の弱点であると理解しながらも側を離れることが出来なかった。
そんな中、澪は渚を身ごもった。 清彦は万が一を考え、澪には子供をあきらめても構わないと伝えた。しかし彼女は必ず産むと譲らず、清彦も不安はあったが、それを承諾した。
「出産に耐えられるか不安だったが、無事に渚が生まれた」
渚には澪のような先天的な疾患は一切無く、健常児として生まれた。澪も衰弱はしたものの順調に回復し、一ヶ月ほどの入院で退院することが出来た。
清彦は正妻や側室の子が生まれた時とは比べものにならないほどに喜んだ。
正妻や側室、その子供達の事もあるため、二人に会う時間はそう多くは取れなかったが、それでも清彦は何とか時間を作り、二人に会うようにしていた。
幸せだった。澪とその子供である渚がとても愛おしく、何としても二人を守ろうと決意した。
しかし幸せな時間は長くは続かなかった。
「だが渚が生まれてから一年後の事だ。澪が死んだのは。私のせいで、彼女は死ぬことになったんだ」
清彦はまるで罪人が懺悔するかのように、真夜や渚達に独白するのだった。
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