第一話 日常


「……ようやく終わった」


 真夜は自宅の机に突っ伏した状態で、疲れた様な声を出した。彼は現在、白いブレザーの制服に身を包んでいる。


 異世界で四年の月日を過ごした真夜だが、元の世界では十五歳の高校生一年生。つまり学生である。


 七月中旬に差し掛かった今日この頃、真夜はこの世界に帰ってきて二度目の強敵との戦いを終えた。


 学期末試験。どの高校にも存在する学生達が恐れおののき、一部生徒からすれば修羅場、あるいは地獄の日々と化す魔の期間である。


「お疲れ様、真夜。どうだった?」


 真夜に声をかけたのは、同じような白い制服に身を包んだ火野朱音であった。


 私立(しりつ)天丿丘(あまのおか)学園(がくえん)。真夜達の通う高校で、偏差値もかなり高く県内でも五本の指に入る進学校である。そのためテストなども難しく、赤点だと夏休みに補習授業が組まれる。


 真夜達は今日まで、その学期末試験だったのだ。


「……中間試験よりは何とかなった。異世界から帰ってきてからじゃ、最悪クラスの強敵だったんじゃねえか?」

「あははは、それはご愁傷様ね」


 疲れた、もう今日は何もしたくないと真夜は珍しくぼやいた。


「お疲れ様です、真夜君。甘いコーヒーはいかがですか?」

「悪い、渚。淹れてくれ」


 黒い制服に身を包んだ京極渚が真夜に問いかけた。彼女の方は昨日、期末試験を終えていた。いつもは真夜が淹れてくれるのだが、今日は渚がコーヒーの準備をする。


「朱音さんはどうしますか?」

「あっ、あたしも頂戴。ミルク多めでお願い」

「分かりました。少し待ってくださいね」


 勝手知ったる真夜の家で渚は手際よくコーヒーを用意する。


「はい、どうぞ」

「わりいな。頂くぞ……。はぁ、糖分が身に染みる」


 真夜は甘いコーヒーを口に運ぶと、しみじみと呟いた。


「真夜って勉強もかなり出来たのに、やっぱり異世界帰りじゃ難しいのね」

「当たり前だろ。四年だぞ、四年。その間、碌に勉強をしてこなかったんだからな。進学校の勉強についていくのはキツイんだよ」


 中学時代、真夜は勉強が出来た。それこそ学年十番以内を常にキープするほどに。ただし真昼はそのさらに上を行き、常に五番以内をキープしていたりもする。何度か真昼に勝ったこともあるが、全体的には負け越していたため、あまり良い思い出では無い。


 だがそれでも四年もの間一切勉強をしなかった場合、どうなるかなど想像に難しくないだろう。


 何とか覚えていることもあるが、新しく覚えることは中学時代に習った応用も多数あるのだ。暗記した事もかなり曖昧になっていた。


 帰還してしばらくしてからの中間試験。それはもうボロボロの成績だった。赤点こそギリギリで無かったものの、入試では上位成績者だった真夜は、一気に下位にまで転落した。


 朱音や渚の手助けもあり、期末試験は何とかなったが、それでも多大な労力を費やすことになった。


「朱音と渚はどうなんだよ?」

「あたし? あたしはいつも通りよ。まあ五十番以内には入るんじゃないの?」


 朱音もこう見えて勉強も出来る。中学時代も上位成績を収めていた。


「私もいつも通りですね」

「渚って確かそっちの学校で中間試験は学年三位だったっけ? 凄いわよね。ええと、お嬢様学校って話だったわよね?」

「はい。ですが、偏差値は真夜君や朱音さんの学校よりも少し下ぐらいですので、そこまででは」


 謙遜するが、退魔業をこなしつつの三位なので大したものである。真夜や朱音などは期末試験の間は勉強に集中しての成績なのだが、渚の方はその間も何回か退魔の仕事をしており、その優秀さが覗える。さらに期間中は学校が違えど、真夜と朱音に教えられる範囲で勉強も教えるという獅子奮迅の働きを見せた。


「ほんとに助かった。まあ何とか遅れは取り戻せそうだし、二学期以降は大丈夫だろ。それにしても、あっちじゃ言葉には不自由しなかったのに、こっちじゃ英語の読み書きも苦労するとはな」

「残念だったわね。でも便利よね、異世界の言葉がすぐに読み書きできるなんて」

「まったくだ。報酬の一つとして残しておいてくれよな。マジであの神様には文句の一つも言いたくなってくる。せめて英語くらいは何とかなったら楽だったのによ」


 真夜は異世界に渡る際、向こうの言葉や文字が分かるようにとある術式を施された。異世界に転移した後に言葉が分からない、文字が読めないでは話にならないからだ。


 こちらの世界に帰ってきた際、その力は残っていなかった。いや、向こうの言語はまだ読めるし書けるから、ただ、あちらの言語をインストールされただけなのかもしれないが。


 だからこちらの外国語は対象外なのかもしれないが、ならついでにこっちの世界の主要言語も一緒にいれておいてくれと文句の一つも言いたくなる。


「けどこれで夏期補習は回避できた。何とか婆さん主導の強化合宿には参加できそうだな」


 真夜が明乃や朝陽から持ち掛けられていた提案。夏休みに真昼を含めた数名で、強化合宿を行うというものだった。三泊四日で他にも温泉や豪華な食事付き。明乃や朝陽としては慰労の意味も込めての誘いのようだ。


 しかも朱音や渚までお声がかかった。


「ですが良かったのでしょうか? 朱音さんはともかく私まで」

「良いんだよ、俺も星守も渚には世話になったんだ。婆さんに遠慮なんかする必要なんてねえよ」

「いつも言ってるけど、渚よりもあたしの方が申し訳ないんだけど。それよりもよくあたしや渚まで参加させようって話になったわね。明乃様って他家とはあまり繋がりを持ちたくないって方だったじゃない」

「まあ状況が変わったからな。それに婆さんも色々と心情の変化もあったみたいだし」


 またおそらくだが朝陽や明乃には多くの思惑があり、今回の件を画策したと真夜は考えている。


「それに渚を参加させるのは、兄貴と接触するって言う京極の思惑を一部だが達成させるって目的もあるんだからよ」


 渚の引っ越し騒ぎは京極のいくつかの思惑があった。六道幻那の残党に対して、行動を誘発しやすいようにすること。また真夜や朱音を懐柔して京極サイドに引き込み利用するために。そして真夜や朱音を通して真昼と接点を持つようにすること。


 明乃と朝陽は渚に与えられた指示を逆に利用して、今回の合宿に渚を参加させられるように策を練った。


「親父から俺に兄貴との合宿の打診があって、それに俺が朱音と渚を参加させるように無茶を言った。親父は快く話を受け入れたが、婆さんが待ったをかけた。本来は親父が監督役だったのに、監視や牽制の意味も含めて婆さんが監督役に変更ってストーリーだからな」

「はい。明乃様には随分とご迷惑をおかけしました」

「気にしなくていいぞ。どんどん婆さんに迷惑をかければいいんだよ。渚は星守の恩人みたいなもんだからな。これで京極の方には下手に疑いはもたれないだろうよ。朱音に関しちゃ、昔からの交流があるし、親父同士の仲も良いから火野の方ではそこまで問題にならないだろ」


 京極の方には渚から直接この話が伝えられた。朝陽も京極に正式に打診もしている。これだけならば向こうも何かしらの疑念を抱くだろうし、渚が懐柔されているのではと訝しむかも知れない。


 しかし当初の予定の朝陽から明乃へと監督役を変更したとすれば、星守は京極への警戒を緩めていない。少なくとも明乃に関しては渚のことを警戒していると思わせられる。


 さらに真夜と明乃が関係を修復しているという話は、未だに一部の人間にしか知られていない。星守でも完全な身内だけの秘密にしている。


 だから世間的に見て真夜と明乃は不仲であり、今回の件も明乃が目を光らせ落ちこぼれの真夜をこき下ろし、朱音や渚も同時にどうにかしてしまおうとしていると受け止められるだろうという考えがあった。


「明乃様って他家には厳しいって話だものね。そんな相手が出てきたら、渚を警戒してるって京極は受け止めるでしょうからね」

「だな。まあそれでも婆さん達は京極を警戒しているだろうよ。何でもこっちの思惑通りにはいかないだろうからな」


 現在の六家の当主の中でも、京極清彦は退魔師としての実力よりもその政治手腕が高く評価されている。政財界の海千山千の猛者を相手に立ち回り、京極の発展を支えている。


「確かに父は退魔師の実力は他の六家の当主に比べれば大きく劣るでしょうが、くせ者の多い京極を曲がりなりにもまとめ上げています。それ以外にも政財界との繋がりを強めている上に、策を巡らすのは得意のようです」


 実の父親相手に警戒をしなければならないというのは、渚としても悲しい所ではあるが、父に優しく接してもらった記憶は生憎と存在しない。


 父に認めてもらえるように、恥に思われないように退魔師としても学生としても努力を続けてきたが、労いやお褒めの言葉を殆ど聞いたことが無い。


(父にとって、私は何なのでしょうね)


 時々、真夜や朱音の事を羨ましく思う。家族、特に父や母の事を聞く時は。


 母親の記憶は渚には無い。幼い頃に死んだと聞かされている。また母は父の正室でも側室でも無く、妾の子だったと聞いた。だからこそ自分は父や一族から疎まれているようだ。


 なまじ渚が優秀であったのが災いしたのかもしれない。妾の子のくせに正室や側室の子と同等かそれ以上の優秀さを発揮してしまったがゆえに、余計に疎まれる原因になった。しかしもはや後の祭りであろう。


「渚、あんまり抱え込むなよ」


 はっと真夜の言葉で渚は我に戻った。


「色々あるだろうが、少なくとも俺も朱音も渚の味方だ。朱音もいつも言ってるだろ? 何かあれば言えって。俺や朱音に直接できることは少ないだろうが、今は婆さんや親父の後ろ盾もある。あの二人の権力を使えば大体のことは何とかなるだろうしな」

「そう言うこと。あたしは真夜みたいに強くも無いし、コネとかもあんまりないから大きな手助けは出来ないだろうけど、それでも話は聞けるし、真夜に言いにくいことだって同性のあたしになら言えることもあるでしょ?」


 真夜も朱音も渚のことを大切な友人だと思っている。それにこれまでも幾度となく色々な面で手助けをしてもらっている。だからこそ真夜も朱音も渚を助けるためならば労力を惜しむ気は無かった。


「……ありがとうございます。真夜君、朱音さん」

「気にすんな。渚には世話になりっぱなしなんだからよ」

「真夜よりもあたしの方が世話になりっぱなしの様な気がするんだけど」

「そんな事はありません。私の方こそお二人にはお世話になりっぱなしです」


 三人はそう言うと示し合わせたかのように笑った。何てことは無い。皆が皆、お互いを大切に思っているのだ。


「まあとにかく、今なら大抵のことは何とかなるだろうよ。だから気楽にしてりゃいいし、悩みがあるなら俺や朱音に相談してくれ」

「はい。その時はお願いしますね」

「オッケー。それよりも夏休みに入ったらすぐに合宿よね。色々と準備しとかないと。お父様は良い経験だから頑張って来いって言ってたわ」

「私の方も問題ありませんでした。父も他のご意見番も警戒はしていましたが、真昼さんと接点を持つという点では好機と判断したようです」


 火野も前回の共同の退魔で朱音と真昼が接点を持ったことを好意的に受け止めているようだ。中にはこのまま朱音と真昼の婚姻をと考える勢力もいるらしい。真夜としてはあまり面白く無い話だが。


 京極も明乃が出てきても、真昼と接点を作る方を優先したようだ。


「どっちの家も許可を出してくれたのは幸いだったな。二人にとっても今回の件は良い経験になるだろうよ。俺も婆さんや兄貴との手合わせは割と本気で行くけど」


 真夜としても明乃や真昼との手合わせを楽しみにしていた。そもそも明乃とは手合わせをしたことが無い。


 今ならば真夜の方が強いだろうが、百戦錬磨の歴戦の退魔師である明乃なら自分よりも強い相手との戦い方も十分習得しているだろう。


 前回の九曜との戦いでは後れを取ったようだが、一対一ではその限りでは無いだろうし、守護霊獣の八咫烏とのコンビネーションがあれば真夜が相手でも立ち回ることが出来るだろう。


「あたしも真昼との手合わせは楽しみだわ。自分がどれだけ成長したか、確かめたいしね」

「私もです。流石に勝てるなどと思い上がるつもりはありませんが、同じ刀の使い手として手合わせ願いたいですね」

「でもまあ今回の合宿は半分修行、半分遊びみたいな感じらしいけどな。俺としては温泉とかレジャーの方も楽しみにしてるんだよな」

「もう。京都の時もそうだったけど、真夜ってそういうとこ、こだわるわよね」

「当たり前だろ。異世界じゃ殆ど遊んでる暇なんて無かったんだ。こっちに帰ってきたら、それくらいは許してもらいたいもんだ」

「ふふ、そうですね。実は私も楽しみにしています。真夜君や朱音さんと旅行したり、遊んだりするのはとても楽しいので」

「もう。あたしだって楽しみにしてるわよ! よーし! じゃあ頑張って修行して思いっきり遊びましょう!」


 朱音の言葉に真夜も渚も夏休みの合宿に思いを馳せるのだった。


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