第十三話 襲撃
氷室の夜は更け、日付は変わり、すでに明け方近くになっていた。黒龍神に娘を差し出す儀式。それは本日の正午に行われる予定である。
氷室氷華は最後の最後まで、志乃を救う道を模索していた。
大切な妹だ。死なせたくは無い。自身を陵辱し、目を抉り抜いた憎き黒龍神を倒すために。
彼女は必死に思考していた。
(……命をかけたところで、一矢報いる事も出来へん。志乃を助けるにも、あの子を逃がすこともできへん)
志乃の代わりに身代わりを立てるなどもできない。
他家への協力を秘密裏に打診することもできなかった。すべて父を含めた上層部が止めたのもあるが、下手に動きを察知されて、黒龍神に暴れ回られてはまずいと言う思惑もあった。
(あかん、もう夜明けや……。くそっ、うちはなんて無力なんや)
氷華は何も出来ない己に自己嫌悪していた矢先、それは唐突に現れた。
ズンッ!
「!?」
屋敷全体に不意打ちのように放たれた強烈な威圧感と妖気。突如として出現した何者かの気配。
「この気配は!?」
部屋から飛びだし、氷華は即座に屋敷を駆け、その気配の方へと移動した。
「氷華様!」
「理人か! 志乃は!?」
「悪いが置いてきた! その方が安全や! それよりもこの妖気の主や! こいつは!」
志乃の所にいたはずの理人も氷華と同じように強大な気配を感じてやって来た。二人にはこの気配に覚えがあった。
だがだからこそあり得ないと思った。それが意味することは……。
屋敷中、すでに騒ぎとなっているが、それらを無視して二人は気配がある中庭へと飛び出す。
「なっ!?」
「そんな阿呆な!?」
氷華は驚愕に目を見開き、理人もあり得ないと口にする。中庭には黒い穴が開き、その上に黒装束を身に纏った男――黒龍神がいたのだ。
「じゃらははは! 来てやったぞ、人間共! この俺直々にな!」
馬鹿なと氷華は思った。何故こいつが、それもいきなりこの氷室本家の中庭に現れるのか。
「この地に龍脈が通っていたのが、貴様らの不運だったぞ! おかげでこうやって、俺が龍脈を通り、ここまでやってこれたぞ!」
龍脈を移動する術は確かに存在する。しかしそれは精密な術のコントロールが求められ、下手に強力な霊力の流れである龍脈に身を沈めれば、あまりの力の奔流に身体がバラバラになるか、どことも知れない場所に流される、あるいは二度と出てこれなくなる危険を伴う術である。
だが黒龍神はその膨大な妖力で身体を守り、神域の奥からそれほど距離の離れていなかった、氷室の屋敷までやって来たのだ。
「むっ、おおっ! お前は前に俺を楽しませた女と先日遊んでやった小僧では無いか! じゃらははは! 女、随分と歳を取ったぞ! それと小僧、また俺を楽しませてくれるか?」
世間話でもするかのように、氷華の方を見ながら楽しそうに笑う黒龍神だが、氷華は憎悪の目を彼に向ける。
理人も忌々しそうに黒龍神を睨みつける。
「良い目ぞ。ふむふむ。あの時は見逃してやったが、今回は連れて行くとするぞ」
「何を言うてんのや、お前は!?」
突然のことと、かつての怒りが氷華から冷静さを奪っていた。理人はまだ冷静であったが、怨敵を目の前にして知らずに身体が強ばっていた。
「きゃぁぁぁっっ!」
「うわぁぁぁっっ!」
「な、なんや!?」
屋敷のあちこちから、不意に悲鳴や叫び声が上がる。何事かと周囲の気配を探れば、黒龍神の気配だけでは無い。他にも三つの特級クラスの強大な妖力が存在しているのに気がついた。
「お前! これはどう言う事や!?」
「じゃらはははは! もうお前達との約束を守るのも終わりと言うことぞ! これからは好きにさせて貰うぞ!」
黒龍神の言葉に氷華は顔を青ざめさせる。つまりそれは!
「これより貴様らは俺の眷族へと変えさせて貰うぞ!」
「ふ、ふざけんな! 誰が妖魔に何てなるかいな!?」
「その通りや! 死んでもお前なんぞに傅くかいな!」
氷華も理人も敵意を露わにして臨戦態勢を取る。
「じゃらははは! 貴様の意見など聞いておらんぞ! それにもうすでに三人はこちら側ぞ」
黒龍神の言葉に氷華は全身の毛が総毛立つような感覚に襲われる。
次の瞬間、黒龍神が動いた。
「がぁっ!」
理人が黒龍神に頭を鷲づかみにされ、そのまま地面に叩きつけられた。
「遅いぞ。なんぞ、お前、油断しすぎぞ」
違う。油断などしていない。なのに、身体が動かなかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように。
「じゃらははは! 俺の術ぞ! お前は中々に強いからな。また遊んでやっても良いが、また今度ぞ。今は」
黒龍神は理人の頭から手を離すと、そのまま足で理人の身体を踏みつけて身動きを取れなくする。
「こいつ!」
「ダメヨ、ヒョウカ。コノカタニ、サカラッテハ」
不意に耳元に囁かれる声。懐かしいような声に、一瞬意識がそちらを向く。
「なっ!?」
振り返り、氷華はさらに驚愕に目を見開く。
「な、なんで!?」
そこに立っていたのは一体の蛇型の妖魔だった。蛇の下半身を持ち、人の上半身を持つ異形の化け物。
だがその顔を氷華は知っている。
「アナタモスグニ、コチラガワヨ。アノコタチトオナジデ」
言われ、気がつく。その化け物の背後には、同じ様な姿の化け物が二体いる。そしてその腕には、それぞれに人が抱きかかえられている。氷室志乃と如月水葉であった。
「じゃらははは! まずはこの三人で良いぞ! 連れ帰って、我が物にするぞ!」
「ちっ! ふざけっ!?」
反撃しようとした瞬間、氷華は身体に痛みを感じた。見れば、妖魔の爪が彼女の腹部に突き刺さっていた。
「ダメヨ。アナタモイッショニクルノ」
「せ、雪花さん……」
氷華の意識はそこで途切れた。
「じゃらははは! では帰るとするぞ! おっとその前に……」
黒龍神が力を解放すると、氷室の屋敷を包むように結界が展開された。それは薄く包み込むような黒い結界。この屋敷から誰も逃げ出せないように、彼は地獄を作り出すつもりだったのだ。
「龍脈の穴は開けたままにしておくぞ。俺の領域に来るも良し。ここで震えるも良しぞ」
だが黒龍神は自分を楽しませる存在が来ることを願っていた。その方が面白いからだ。
「ま、待てや……」
理人は何とか起き上がろうとするが、身体が思うように動かない。
「じゃらははは! その術はしばらくは解けんぞ! まあお前は見所があるぞ! 他にも女どもを攫われて、躍起になってくる術者は見所があるぞ。そいつらも俺の眷族に加えてやるから来るが良いぞ」
じゃらはははと高笑いをしながら、彼は氷室の中庭に開けた龍脈を通り神域へと戻っていく。
「くっ、そおおぉぉぉぉぉっっっ!」
理人はその光景を見ながら、叫ぶしか出来なかった。
直後、巨大な地震が周囲を襲うのだった。
◆◆◆
氷室の屋敷は突然の強襲に浮き足だった。
黒龍神とその配下の三体の特級妖魔。何の準備も心構えも出来ていない所への攻撃だ。氷室の手練れと言えども殆ど何も出来なかった。
「っうっ……。水葉……」
屋敷の中で倒れているのは、水波流樹であった。突然出現した巨大な、それこそ感じたことも無い妖気に身体を強ばらせ、その隙を突かれた。部屋の中に現れた人間の上半身と蛇のような下半身を持つ妖魔。
その化け物も先日、自分が敗北した特級クラスの妖気を身に纏っていた。
水明も何とか反応したが、敵の速さと攻撃力はかなりの物だった。尾による一撃で吹き飛ばされ、流樹も冗談のように簡単になぎ払われた。
意識こそ失わなかったが、それでもすぐには立ち上がれないダメージを受け、その間に水葉は攫われた。
「く、くそぉっ……」
何とか立ち上がり、ゆらゆらと屋敷を歩く。屋敷自体にはそこまで大きな被害は出ていなかったようだが、それでも先ほどの強襲で何人もの退魔師が負傷したようだ。
「おい、何がどうなっているんだ! 状況は!?」
流樹は近くにいた氷室の術者を呼び止める。
「はっ!? 妖魔の強襲だよ! くそっ! 氷華様も攫われたんだよ!」
「なっ!?」
叫ぶように言う術者に、流樹はさらに困惑する。
「おい、お前。水波の次期当主様やで。もう少し言葉遣いには気をつけや」
と、そこに別の声がかけられる。
「お前は確か八城理人」
流樹は昨日、氷室志乃との顔合わせの際に紹介された男の名前を口にする。
「俺の名前を覚えてくれてたんやな。詳しい事情は俺が説明させて貰うわ。おい、お前はもう下がれや」
理人に言われ、その術者は顔を青ざめさせて下がっていく。理人はと言うと、苛立ちを何とか隠しているようだが、かなり焦っているようにも見えた。
「何があったんだ?」
「……黒龍神が現れた。で、氷華様含め、志乃とそっちの従者が攫われた」
「何だと!? どう言う事だ、それは!?」
掴みかからんばかりに、流樹は理人に詰め寄った。だが怒りを覚えているのは理人も同じだ。
「あいつは言うとった。眷族を作るって。このままやと三人は妖魔にされる」
「妖魔にだと!? 馬鹿な! そんなこと!」
自分を慕い、付き人として尽くしてくれている少女が妖魔にされる。流樹は言いしれぬ恐怖を感じた。
「そ、そんな事、させていいはずがないだろ!」
「ああ、そうや。せやから何としても助けるだけや」
理人はそれだけ言うと、どこかへ行こうとする。
「おい、どこへ行くつもりだ!?」
「今言ったやろ、助けに行くんや。例え犬死にでもな」
「一人でか!? 氷室の他の術者はどうしたんだ!?」
「他の奴らはこの屋敷に張られた結界の破壊にいそしんどる。それに現当主様も助けるよりも逃げる方を優先させるみたいや」
「何だと!? それでも退魔師なのか!?」
「何人かは助けに行くべきやって言うとるけど、ここには非戦闘員もおる。そいつらを逃がすためにも、そっちの方を優先するのも間違いや無いし、助けも呼べるからな」
詭弁でしか無いと理人は思う。確かに自分達だけで黒龍神に挑んでも無駄死にするだけだ。ならば何とかして脱出して、他家に助力を乞うのは間違ってないだろう。
しかしその間に、三人は間違いなく妖魔にされるだろう。いや、妖魔にされずとも悲惨な目に遭う可能性が高い。
理人もあの後、動けるようになったらすぐにでも助けに行きたかった。
だが何の準備も無く向かえば、ただ無駄に死にに行くだけである。死ぬのは構わない。だがならばこそ、少しでも志乃達を逃がせる確率を高めてから行くべきだ。
だからこそ、理人は逸る感情を抑え、必要な物を用意したのだ。
「説明はこんなところや。俺は行くで」
「待て!」
この場から立ち去ろうとする理人を流樹は呼び止める。
「僕も行く」
「やめとき。無駄死にするだけや」
「ふざけるな。僕は水波の次期当主だ。それが自分の付き人を見捨てて、自分だけおめおめと逃げ帰れるか」
流樹の言葉に理人はニヤリと笑みを浮かべる。
「ほなら、俺と一緒に行くんやな」
「ああ。来るなと言われても、僕は勝手に行くだけだ」
「分かったで。ほなら行こか」
理人は内心でほくそ笑む。氷室の術者を巻き込むことは出来なかったが、水波流樹を巻き込むことが出来た。
彼は弱くは無い。霊器を持つことからも、それなりの戦力としては期待できる。
(志乃を助けるためや。どれだけ汚くても、確率は上げるだけや)
こうして、二人は黒龍神の待つ領域へと赴くのだった。
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