第十二話 急転直下


 氷室家の神域。


 その最奥の寺院にて、黒龍神は今日という日を待ち焦がれていた。


 日付が変わり、本日の昼には新たな供物と生け贄が自らの下へと捧げられる。


 此度で四度目。二十年の歳月だ。


「じゃらはははは! 待ち遠しいぞ!」


 封印されていた頃から考えても、もうあと僅かな時間に過ぎない。


 ではあるのだが、この時間を待つのも飽きた。


 もう準備は調っている。


「……むうぅっ。暇ぞ。身体もなまって仕方が無いぞ」


 とは言え、暇なものは暇なのだ。先日、氷室の術者が愚かにも自分を倒そうとやって来た。戯れに遊んだが、そこそこ持ったので、ちょうど良い暇つぶしと運動にはなった。


「あのような事がまた起きないかのう。俺は退屈ぞ」


 かつて人間に不覚にも封じられてしまったが、それは自らが油断したのもあったが、その前に多少消耗していたからもあった。


 縄張りに入ってきた超級妖魔を相手取り、消耗したところを氷室の術者達に封印された。当時の氷室の術者達も弱くは無かった。むしろ現代よりも強い術者も多数存在した。


 しかしそんな彼らでも弱った黒龍神を封印するしか出来なかった。その理由は単純だ。ただ、黒龍神が強すぎたのだ。


 だからこそ人間を侮っていた。自分は強い。眷族も抱えていたが、その数はそこまで多くは無かった。


 自由気ままに暴れ回り、数多の人間や妖魔を襲い、喰らい、気まぐれに眷族さえも手にかけた。


 封印されてしまった当時は、自分以外に仲間はいなかった。


 だが今は違う。この大軍勢。数、質共に申し分ない。百鬼夜行と呼ばれる集団の十倍であるし、質も特級、最上級、上級を数多抱えている。


 これだけの軍勢、妖魔がまだ多数現世にて活動していた時でも、そうそうお目にかかれないだろう。


「これほどの軍勢と俺の力を持ってすれば、人間の退魔師共など恐るるに足らんぞ」


 かつてとは違う。龍脈より得た知識で、現代のこの世はかつてとは違い、強力な妖魔の殆どが消え去った。人間共が隆盛を極めているが、人間の退魔師達の数も質も、かつてよりは随分と落ちている。


 氷室一族がその証拠だ。かつてはもう少し歯ごたえのある術者が多くいた。二十年前と十年前の戦いで確信した。


 この時代には自分を圧倒できる退魔師は存在しないと。ならば質、物量があれば、何者にも負けない。


 そして黒龍神はこう思った。もうこれ以上、大人しく待つ必要があるのか、と。


 この二十年、黒龍神が待っていたのは、封印され弱っていた自身の力の回復と、眷族を増やしてどれだけの勢力を相手にしても勝つための軍勢を用意していたからに過ぎない。


 それさえ終わってしまえば、あとは外の世界に繰り出すのみ。


 今、自分への供物を準備している氷室の人間共を強襲すればどうだろうか?


「いいぞ、面白いぞ」


 ニィッと不気味な笑みを浮かべる黒龍神。生け贄の女も一人と言わずに、もっと大勢攫えば良いだけでは無いか。


 それをしなかったのは、ひとえに他の退魔師達の介入を防ぐためだ。氷室家だけでは無く、他の有数な退魔師達を総動員されては、流石の黒龍神もひとたまりも無い。


 だからこそ、今まで慎重に、最低限でしか求めなかった。


 優秀な眷族を増やすにも、強くするにも人間を餌にした方が効率が良い。ここまで眷族を増やすのには二十年と言う時間では苦労したが、逆にこの聖域にいる限りは、誰も邪魔をしなかった。


 かつてならば、眷族を増やしていけば人間の退魔師や他の妖魔達に目をつけられ、邪魔をされていた。しかしここでは二十年の歳月はかかったが、誰にも邪魔されること無くここまでの数を揃えられた。


 この地に龍脈が通っていたこと。この山の植生と野生生物がかなり豊富だったこと。眷族にする蛇の類いが多かったこと。二十年前と十年前に糧となる退魔師がやって来たこと。そして自分や眷族を脅かす存在が現れなかったこと。


 黒龍神にとって、様々な好条件が重なり合った結果、彼の軍勢は他に類を見ない程までに強化された。


「もう我慢することも無いぞ。眷族ももっと人間を襲い、増やせば良いだけのことぞ。優秀な退魔師の雌を手に入れれば、さらに数も増やせるぞ」


 四人目の生け贄が手に入った後に行動を移すつもりであったが、少し早まるだけでは無いか。


 普通の人間よりも、強力な霊力を持つ退魔師の女性の方が都合が良い。氷室を強襲し、すべてを奪う。


 この神域を足がかりに、この周辺を、ひいてはこの国を支配する。


 それはかつて、どんな強力な妖魔にも出来なかった偉業。覇道と言い換えても良いだろう。


「じゃらはははは! 面白くなって来たぞ! ではさっそく行動に移すとするぞ」


 こうして、氷室家にとって悪夢の一日が始まるのだった。



 ◆◆◆



 一夜明け、真夜達は氷室の所有する聖域へと移動した。正面からでは氷室に気づかれる可能性があるため、裏側の少し離れたところに車を止め、真夜と朝陽は車を降りる。


「じゃあ真夜。手はず通りに」

「ああ。油断はしねぇよ」


 黒龍神を封じていたこの山は、元々植生が豊かであり、人が殆ど踏み入れることが無いため緑の密度が濃い。


 結界は張られているが、そこまで強固でも無く気づかれずに侵入することは難しくないだろう。


「じゃあ俺達は行くから、二人はここで待機していてくれ」


 車の窓枠をのぞき込むように、真夜は後部座席に座る朱音と渚に声をかけた。


「わかったわ。真夜もおじさんも気をつけて」

「ご武運をお祈りしています」


 二人とも緊張し、真夜達を心配する面持ちで答える。


「ああ。とっとと終わらせて京都観光するぞ」


 真夜の言葉に、二人は吹き出しそうになった。


「何よ、それ。今から覇級の妖魔と戦いに行くって言うのに。昨日もだったけど、本当に真夜って緊張感無いわね」

「星守君には、覇級の討伐は観光よりも下なんですか?」


 呆れる二人に、真夜は肩をすくめる。


「当たり前だろ? 俺にとって見りゃ、観光の方が重要だ」

「ははっ。まったく真ちゃんは」


 朝陽も呆れたように笑うが、彼は戦いを前に息子が一切緊張していない様子に、頼もしいやら気が抜けすぎているのでは無いかと心配にもなってくる。


「心配するなって。相手を舐めてるわけじゃ無いから。必ず勝って帰ってくるってだけの話だ」


 それは自信であり、自負であり、絶対の意思でもあった。


 朝陽もそれを感じ取った。自分の隣に立つ息子は、歴戦の強者の風格を身に纏っていることを。飄々として緊張感が無いのでは無いのだと。


「んじゃあ行ってくる。万が一の場合は連絡してくれ」

「もう。私達も子供じゃ無いんだから、そんな事よりも自分の心配をしなさいよね」


 朱音の苦言に真夜はひらひらと手を振って答える。


「オーケー。んじゃまあ、行くとするか」

「そうだね。行こうか」


 真夜と朝陽はそのまま隠行の術を展開する。気配が消え、姿まで見えなくなっていく。よほどの使い手で無ければ、彼らを視認することも認識することも出来ないだろう。


 二人が神域へと向かおうとした矢先、異変が起こった。


 ゴゴゴゴゴッッ……。


 最初は微かな振動だった。しかしそれは次第に大きくなり、ついには激しい揺れへと変化した。


「地震!?」

「くっ! おい、二人とも車から降りろ!」


 真夜は即座に車の後部座席のドアを開けると、二人を中から外へと出す。


 神域を中心に激しい揺れが起こり、木々が倒れ、地表が割れ、地面が陥没する。見れば山の斜面も崩れていく。


 神域を囲っていた結界が音を立てて壊れていく。同時に吹き出す膨大な妖気。一体だけでは無い。無数の妖魔の気配。百や二百では無い。千にも届くほどの数だ。


 地震自体は一分もしないうちに収まった。


「おい、無事か!?」

「あたしは大丈夫よ!」

「私もです」

「こっちもだよ、真夜。しかしこれは予想以上に危険そうだね」


 真夜の言葉に全員が無事を伝える中、朝陽は神域を睨みつけるように見据える。


 膨大な妖気が山頂付近から感じ取れる。ひときわ大きな妖気に阻害され、正確な数は分からないが、大軍団と言っても過言では無い。


「ちっ。遅かったって言うのか」

「いや、まだそう考えるのは時期尚早だ。この地震の被害がどれだけかはわからないが、覇級妖魔の気配は山頂付近に留まっている。今ならばまだ、どうにでも出来るはずだ」


 悪態をつく真夜に朝陽は冷静に答える。焦りが無いわけでは無い。だが今、狼狽えたところで事態は好転しない。ならば出来ることをするだけのことだ。


「来てくれ、鞍馬」


 朝陽が短く呟くと、彼の背後に強大な気配が突如として出現する。


 真夜を含め、全員がその存在を認識する。


 それは赤い顔と長い鼻を持ち、山伏の格好をし、背中のは鷲のような一対の巨大な翼を持った存在だ。カランコロンと、一本足の高下駄を履いている。


 天狗。


 人々にそう呼ばれる存在であり、彼はその中でもさらに強力な力を持つ鞍馬天狗。かつて牛若丸に剣術を教えたとされる存在である。


 その力は超級の上位クラスであり、並の存在など歯牙にもかけない化け物である。


 ルフの件で多少の耐性は出来ていたが、それでも朱音と渚は突如として出現した強大な存在に身を強ばらせている。


(親父の守護霊獣……。久しぶりに見たが、すげえな。あの幻那と同じかそれ以上に強いんじゃ無いか?)


 改めて父である朝陽が契約を結んでいる存在の強さを肌で感じる。


 隣にいるだけでも凄まじい存在感だ。超級妖魔クラスと言うのは、一流退魔師からしても脅威の一言である。


「朝陽よ。どうやら状況はあまりよろしく無いようじゃな」


 鞍馬天狗は山頂を見上げながら、重々しく口を開く。その声は老人のようであったが、ルフと同じように声だけで周囲の者を震え上がらせる程である。


「ああ。どうやら私達の予想よりも早く動くようだ。それに眷族だろうか。その数も多い」

「なるほどのう。おそらく千に近い数であろう。その中でもひときわ大きいのが一つ。他には三つほど強いのがおるのう。おそらく特級クラス……」

「特級が三体!? 何よそれ! 覇級だけじゃ無くて、そんな奴らまでいるの!?」


 朱音が驚愕の声を上げる。特級と言えば赤面鬼や銀牙、弥勒狂司と言った相手と同格だ。


 真夜やルフはそれらを軽く倒していたが、どの六家でもそんな相手を同時に相手取るのはかなりの危険が伴う。さらにその後ろには覇級の妖魔が控えているのだ。


「それに千に近い数の妖魔ですか……。事態は私達の想像を遥かに超えて危険な状況なようですね」


 渚も額から一筋の汗を零している。千もの妖魔が放たれれば、この周辺は地獄絵図と化す。氷室の責任問題だけでは無い。どれだけの被害が出るのか想像も出来ない。


「そんな事はさせはしないさ。鞍馬、頼めるかい?」

「ふっ、お安いご用じゃよ」


 鞍馬天狗が懐から羽団扇を取り出すと、徐にそれを振った。


 ゴォッ!


 凄まじい突風と共に、神域に風が吹き荒れた。風が暴れ回ると、広域を包み込み巨大な風の帷を出現させこの周辺を覆い尽くした。


「これでしばらくは持つじゃろうて。雑魚程度ならば通しはせん」


 腕を組み、自信満々に言い放つ鞍馬天狗。風による結界を構築し、妖魔をこの神域より逃がさないようにしたのだ。


 山一帯を完全に覆い尽くす巨大な結界を単独で構築するその力は、真夜からしても頼もしい限りであった。


「流石だね、鞍馬。これで妖魔が拡散することは防げそうだ」

「だがあまり時間はないぞ。儂もそれなりに力を使って結界を維持するが、覇級妖魔が出張ってくればそう時間をかけずに破壊されるであろう」


 黒龍神が直接、結界の破壊に動けば如何に鞍馬天狗でも防ぐことは出来ないようだ。


「だが向こうから来てくれるなら、願ったり叶ったりだ」

「そう言うことだ。親父、結界の維持は任せれるか?」

「ああ。真夜は力を温存しておくように」

「おい、朝陽。まさかお主はこの小僧に覇級妖魔を倒させようとしておるのか?」


 朝陽の言葉に鞍馬天狗が怪訝な顔をしながら聞き返す。


「そう言うことだよ、鞍馬。今のこの子は強い。それに切り札もあるようだからね」


 ウインクしながら、真夜の方を見る。それに応えるように真夜も頷く。


「ああ。期待しててくれよ」

「と言うことだ。悪いが鞍馬、私達を覇級妖魔の所まで連れて行ってくれるかい?」

「……ふん、良いだろう。お主がそこまで言うのであれば、儂がお主らを運んでやろう。だがこの小娘達はどうするのだ?」

「この二人は……」


 シャァァァァァッ!


 不意に遠くから何かが音を立てて近づいてきた。それは巨大な蛇の群れだった。


「ちっ、黒龍神の眷族か」


 真夜は鬱陶しそうに呟くと臨戦態勢を取り、そのまま殲滅のために行動に移そうとする。


 カッと真夜の横を巨大な炎の塊が通り抜けると、そのまま大蛇達に襲いかかった。


「シャァァァァッッ!?」


 炎に包まれ、蛇達が断末魔の声を上げる。しかしまだ生き残った大蛇がいた。炎に包まれる仲間を尻目に、真夜達の方に迫ろうとするが、その前に大蛇の身体は真っ二つに切り裂かれた。


 真夜が振り返ると、そこには右手に炎霊器を召喚し、左手を前にかざしている朱音と、右手の人差し指と中指を立て、剣印を結んでいる渚の姿があった。


「状況が変わったから、あたし達も参戦させて貰うわね」

「この状況です。少しは手があった方がいいでしょう」


 二人はゆっくりと前に歩み出ると、真夜達の隣に立った。


「おい、お前らどう言うつもりだ」

「どうもこうも無いわよ。いくら真夜やおじさん達でも、千も妖魔がいたんじゃ消耗が激しいでしょ? だから雑魚は引き受けるって言ってるの」

「はい。雑魚を減らすだけでも消耗は大分抑えられるはずです。それに星守君の切り札は、星守君自身も負担が大きいはずです」


 朱音と渚は、真夜の切り札であるルフの存在を知っている。だがその反動が大きいことも、先の戦いで理解している。


 それに朝陽の守護霊獣である鞍馬天狗も、結界の展開で力を使っている。雑魚妖魔に二人が遅れを取るとは思えないが、数と言うのはそれだけで脅威である。


 だからこそ、雑魚を自分達が受け持つだけでも二人の負担が軽減されると考えたのだ。


「危険すぎるぞ。いくらお前らでも千体近い妖魔が相手じゃ」

「馬鹿。何も二人で千体近い妖魔を相手するわけじゃ無いわよ。あくまで露払い。二人の霊力の消耗を極力抑える為よ」

「はい。もちろん黒龍神との戦いには参加しませんし、その際は逃げますから」

「それにあたし達は退魔師なのよ? 危険とは常に隣り合わせ。それに千体もの妖魔をみすみす放って逃げるわけにはいかないでしょ?」

「朱音さんの言うとおりです。これでも京極の人間です。星守君に助けられてばかりで、大きな事を言える立場ではありませんが、少なくともここで逃げるようでは京極の人間としては不適格でしょう」


 二人の意思は固かった。不甲斐ない自分達でも雑魚くらいなら倒せる。いや、しなければならない。彼女達は覚悟を決めたのだ。


「真夜。ここは二人の意思を尊重するよ」

「親父!?」


 朝陽の言葉に真夜は声を上げた。だがそんな息子に対して、朝陽は笑みを消し、強い眼光を向ける。


「私達は退魔師だ。退魔師の仕事は妖魔を倒すことではあるが、それは過程に過ぎない。必要なのは無力な人々を守ることだ。そのために私達の力はある。無駄死にを肯定しているわけでは無い。だが、命をかけなければならない時があると言うだけの話だ」


 朝陽も出来ることならば二人には逃げて欲しいと思っているだろう。しかし状況がそれを許さない。


 数体の妖魔ならばまだしも、千もの妖魔が散り散りに放たれればどうなるか。一匹でも多くの妖魔を狩らなければならない。


 さらに奥には覇級、特級の妖魔が控えているのだ。万全を期すためにも、真夜や朝陽の消耗はできる限り抑えなければならない。


「二人に死ねと言っているわけではない。限界ならば下げさせる。だがそれまでは力を貸して貰うと言う話だ」

「だが!」

「真夜!」


 真夜の言葉を遮り、朱音が声を上げた。


「大丈夫よ。絶対に無理はしない。真夜の足も引っ張らない。危なそうなら引き際は誤らない。それくらいは今のあたし達にも出来るわよ」

「信じてください。そして少しはお二人のお役に立たせてください」


 二人の言葉に真夜は何も言えなくなる。確かにこの状況だ。黒龍神も千もの眷族を用意する存在と考えれば、その力もかなりの物であるだろう。ならば確実に討伐するためにも、ルフの力は温存した方が良い。


 ルフを召喚した時の反動を考えれば、短時間での決着が望ましい。


 ならば次善の策として自分が守れば良い。


 真夜は考える。自分は異世界での勇者パーティーではどんな役目を担っていたかを。


 自分は守護者だ。戦っている仲間を守る存在だ。ならばこの二人も守れば良い。自分は四年間、それを成し遂げたのだから。


「ああ、くそっ。わかった。けど絶対に無茶はするなよ」

「ええ!」

「はい!」


 こうして彼らの神域での戦いが幕を開けたのだった。


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