第十二話 堕天使

「ではさらばだ」


 そう言い残し、真夜と共にこの異界へと転移してきた幻那は姿を消した。


「くそっ! やられた!」


 真夜は悪態をつき、苦悶の表情を浮かべる。


 まさか強制転移をさせられるとは思わなかった。異世界での経験で、この可能性も視野に入れておくべきだった。


 こういうトラップのような術や仕掛けを回避するのは、もっぱら真夜や仲間の大魔導師の仕事だったというのに、こちらの世界に帰ってきたことで、かなり気が緩んでいた。


 もしこれが異界ではなく、人間が生存不可能な空間や場所に転移させられていれば、その瞬間に真夜は死んでいた。


「完全に失態だ。こんな状況になったら、パーティーが全滅の危機だろうが!」


 あまりの失態に自分自身への怒りがこみ上げてくる。相手が一枚上手だった。ただそれだけだが、何の言い訳にもならない。


 異世界でならば、パーティーを守れず、守護者失格と言われても文句を言えない。


「朱音、京極、無事でいろよ」


 あの二人が心配だ。自分のことはいい。異界であろうとも人間が生存可能な空間ならば、生き抜く自信はある。


 しかしあの連中がいるであろう、向こうの世界に残された二人は決して良い状況ではないはずだ。


 あの匿名希望と名乗った男は、化け物と言ってもいい程の実力者。それでいて、決して驕らず、冷静な判断を下し、相手を一切見くびらない。


 あの二人ではどうしようもできない相手。さらにその仲間は三人もおり、全員がかなりの実力者である。


「……四の五の言っていられねえ。とっとと戻るしかない」


 だが真夜自身には異界と現世を繋ぐ術は習得していない。力任せに、無理やりこじ開けることはできなくはないが、下手に境界を繋げても、元の場所に繋がるかはわからない。


 ならば切り札を切る。


 グルルルゥゥゥゥ……。

 ニンゲンノニオイ……。

 メシダァァッ、オレノダァァッッ……。


 周囲から獣のうめき声や、片言の声が聞こえる。真夜を狙う、この周辺の妖魔である。


 だがどいつもこいつも、並どころか一流の退魔師でも一筋縄ではいかない化け物揃いである。


 最上級や特級の妖魔ばかりである。それも一体や二体ではない。


 現世から稀に神隠しのように異界に迷い込む人間がいる。そんな人間を狙う妖魔は多い。彼らにとって、人間とはこの上ないご馳走である。


 だからこそ、彼らは牽制しあい、真夜を喰らう隙を窺っているのだ。


 真夜はこの程度の妖魔達に後れを取るつもりは無いが、時間がもったいない。今は一刻も早く、現世へと戻らなければならないのだから、相手をしている時間は無い。


「……こんな連中に構ってる時間なんかねぇ。………喚ぶか」


 真夜は目を閉じ、自らの中に眠る存在を喚ぶための儀式に入る。


 純白の地平線がどこまでも続くかりそめの世界。その空間の中央に鎮座する一枚の巨大な扉。


 高さ五メートル以上、幅も二メートルはあるだろうか。


 黒い扉には赤い十字架が描かれており、その十字架の回りには文字のような刻印が無数に刻まれている。


 真夜はその扉の前に目を閉じたまま佇む。


 ゆっくりと扉は大きく開かれる。


 扉の向こう側。扉の内部は漆黒の闇で満ちていた。何も無い無間の世界。


 だがそこには、確かにある存在がいた。


 漆黒の堕天使。異世界にて、真夜と契約を結びし、最強にして最凶の存在。


 天より堕ち、黒く染まり、魔王(・・)の力をその身に宿す存在。


 堕天使にして魔王と喚ばれることになる、異端の天使ルシフェルこと堕天使ルシファー。


 その身体のあちこちには、銀色の鎖が無数に巻きつき、さらに両手も鎖により拘束され、左右に開かれている。


「……契約の名の下に、星守真夜が願う。俺に力を貸してくれ、ルフ」

「…………Aaaaaaaaaaaaaaa!!!!!」


 パキィィンッ! と甲高い音を立てて、彼女を拘束していた鎖がすべて千切れ飛んだ。三対六枚の翼を大きく広げ、彼女は真夜の言葉に反応する。


 真夜の目が開かれると、額に十字架に似た刻印が浮かび上がった。


 異世界にて、契約を結んだ真夜だけの守護霊獣、いや守護堕天使。


 これは星守の血の成せる業でもあった。真夜は異世界にて、星守の秘術を用いて、守護霊獣の契約をこの堕天使と結ぶことを成功させた。


 彼は確かに四年前には、守護霊獣の契約どころか召喚することもできなかった。


 しかしそれでも、彼にも星守の血は確実に流れ、その力は受け継がれていた。


 だからこそ、彼は強大な力を持った彼女と契約を結び、使役することができるのだ。


 契約の行使の下に、彼女は現実に顕現する。


 真夜が儀式を終えるのにかかった時間は、一秒にも満たない。異界に囚われた真夜の背後に、突如として魔法陣を伴って出現するルシファー。


「Aaaaaaaaaaaaa!!!」


 この周辺のを震わせるほどの咆吼。その力は覇級クラス。超級ならばまだしも、特級や最上級の妖魔ごときでは、足下にも及ばない。その力を感じ取って妖魔達は、一目散に逃げ出した。


 この場において、二人を害せるものは存在しない。


「……行くぞ」


 真夜の言葉に彼の願いを汲み、彼女は何も無い空間に手をかざす。


 今から始まるのは、彼女による異界と現世を結ぶ境界の破壊。それも元いた場所へと最短で繋がるように、彼女が調整する。


 彼女により道が作り出される。あとはそこへと向かうだけ。空間に罅が入り、彼女は現世の真夜の望んだ場所へと扉を開く。


 そして彼は現世へと帰還する。



 ◆◆◆



(真夜! 無事だったんだ!)


 真夜の姿を見た時、朱音は思わず安堵の涙がこぼれた。真夜の結界に守られていることもあり、緊張の糸が解けた。思わず彼の名前を叫びそうになってしまった。


(何よ、何よ! あたしをこんなに心配させて! あとで絶対に謝らせるんだから!)


 照れ隠しのように、朱音は心の中で呟く。だが安心したと同時に疑問もわき上がる。


 あの漆黒の堕天使はなんなのか。霊力の質がおかしい。幻那の妖気のように、不気味さや不快感は無いが、その威圧はそれ以上だ。


 それに今の真夜から感じる霊力は、昼間感じた物よりもさらに大きい。朱音が今までに感じたこともない、途方も無い霊力。人間であるのかさえ、疑うレベルだった。


 しかし真夜の霊力であることには変わりは無い。禍々しさも感じない。


 霊力の質は千差万別であり、指紋と同じで似ていても決して同じ物は無い。


 朱音が真夜から感じた霊力は、以前から感じていた物と同じである。


 だからこそ、彼が自分の知る星守真夜であると確信できた。


(急に強くなってるし、あんなのまで従えてるし! 本当に聞きたいことしかないじゃないの! でも……)


 彼が無事で本当に良かった。もう二度と会えないのではとまで考えていた。自分はここで死ぬか、死ぬよりも酷い目に遭う可能性まであった。


 だから真夜の霊符が自分達を助け、守ってくれていると理解した時、彼が異界から再びこちら側に戻ってきた時のうれしさは言いようも無かった。


 またそれは渚も同じだった。


(星守君。無事で本当に良かった。それにまた助けてくれた、守ってくれた……)


 ああ、本当に彼には助けられてばかりだ。彼への想いが、また強くなっているような気がする。


(それにしても、あの天使はいったい……)


 渚も朱音と同じように、あの堕天使はいったいなんなのか疑問が浮かぶ。並々ならない力を持つ存在。少なくとも超級の妖魔に匹敵するだけの強さを持っているだろう。


 しかし恐ろしいとは思わない。あの天使の声を聞いても、不思議と悲しさを感じたほどだ。


(彼の秘密がなんなのか、興味はありますが、それを聞くのはおこがましいでしょうね)


 彼にとって自分がどういう立ち位置なのかはわからないが、少なくとも隣にいる朱音ほどの距離感ではない。当然だ。自分は彼を覚えているが、彼は覚えていない。昨日初めて会った京極の娘程度の認識だ。


 だからこそ辛い。苦しくなる。隣の彼女が羨ましくなる。でも……。


(っ! 今はこんなことを考えている場合ではないですね。最低でも自分の身を守って、彼の足手まといにならないようにしなければ!)


 そう考え、呆然としてる幻那達の隙を突いて、朱音の手を引くと、彼らから距離を取った。幻那達はそれに気がつくが、動くことは無い。動けないと言う方が正しい。


 真夜と漆黒の堕天使相手に迂闊に動けば、致命的だということを理解しているから。


「! あんた!?」

「彼らから離れます。近くにいては彼の邪魔になりかねません。また人質にされては目も当てられませんから」


 渚の正論にその通りだと朱音も思った。守られているのに、これ以上足を引っ張ってしまう状況を作っては彼に申し訳が立たない。


 朱音は真夜の方を見る。今の真夜は圧倒的強者の風格を伴っていた。朱音や渚が彼の身を案じつつも、あいつらには決して負けないと感じるほどに。


「あいつ、大丈夫よね?」


 それでも心配はしてしまう。敵は自分達がどう足掻いても、手も足も出ないほどの存在。それを堕天使がいるとは言え、真夜は一人で戦おうとしているのだ。


「……はい。彼ならきっと大丈夫ですよ」


 朱音の呟きに、渚は万感の思いを込めて答える。


 渚は真夜ならば必ず勝利できると信じている。それだけの強さを真夜から感じたからだ。


 二人はそのまま、幻那達から大きく距離を取ると、真夜の戦いを見守るのだった。

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