第十一話 切り札


「な、何が起こったのよ」

「奴はあの方と共に異界へと移動したのだ」


 朱音の疑問に答えたのは銀牙だった。


「い、異界ですって!?」

「そうだ。あの方は自由にこちらの世界とあちらの世界を行き来できる。あの方はあちら側で戦おうとされている」


 ―――それは違うな―――


 銀牙の言葉に別の声が反応する。

 黒い魔法陣が再び出現すると、そこから幻那が姿を現した。


「お帰りなさいませ」


「ああ。よもや私が初手にて、このような手を打とうとはな。だがこれで奴も簡単には戻ってこられまい」


 銀牙の言葉に幻那は少しだけ緊張を解いたような声色で返した。


「あ、あんた! あいつをどうしたのよ!?」

「奴は異界に置き去りにさせてもらった。奴の強さならば異界であろうとも、簡単に死ぬことはないだろうが、ただ強いだけの妖術師でもない術者ならば、こちらへの道を簡単に開くことはできないであろう」


 幻那の狙いは真夜を異界に封じることであった。真夜が銀牙の言っていた術者であると知らされ、狂司と理人を一人で相手取った事実を考えれば、油断ならざる術者である。


 戦えばこちらも手傷どころか、致命傷を負いかねない。ならばどうするのか? 妖魔の溢れる異界へ封じれば良い。


 異界への行き来は簡単ではない。幻那とて今の一瞬で術を行使し、簡単に道を繋げたように見えるが、前準備や膨大な妖気や綿密な術式を用いて初めてできるのだ。


 幻那と言えども、何度も連続して気軽に行使できる術ではない。


「これでしばらくは異界を行き来することもできんな。だが奴にはそれだけの価値があり、脅威であったと言えよう」

「それほどまでにあのような小僧を評価されるのですか?」

「過大評価も問題かも知れんが、過小評価して自らが手痛いしっぺ返しを受けるなど、滑稽でしかない。ならば最大限に評価し警戒しておいて、実際は大したことがない方がいいであろう?」

「はっ。仰るとおりでございます」

「ああっ! あいつ! この僕が直接いたぶって殺したかったのに! ねえねえ! 僕ら全員でかかれば勝てたんじゃないの!?」

「貴様! 無様な醜態を晒しただけではなく、この御方にご意見するつもりか!」


 近づいてきた狂司に銀牙が怒りを露わにする。助けられた分際で、敬服する主に意見するなど到底許されず、見過ごせることではなかったからだ。


「よい。お前の意見も一理あるが、大事の前の小事とは言え、慎重を期しただけのこと。それに……」


 幻那はちらりと朱音と渚に視線を向ける。ビクリと、それだけで蛇に睨まれた蛙のように、二人はまるで金縛りに遭ったかのように身体が動かなくなった。


「な、なに……。か。身体が、動かない……」

「あっ、ああっ……」

「お前達もその年では術者としては優秀だが、この私の前では赤子も同然。結界の破壊と異界との往復で、妖力をかなり消耗したが、それでもお前達ごときを動けなくする程度、難なくできる」


 見れば、いつの間にか黒い妖気が二人に絡みつき、身動きを封じていた。視線で動きを止めただけでなく、別の方法でも二人を拘束していた。


「……ボス。そいつらはどうするんや?」


 理人が苦々しげに幻那に問う。できれば女相手に無体な真似をしたくはなかった。だが幻那が出てきた時点で、それも難しくなった。


「そうだな。京極の娘と火野の娘か。ともに霊力も高く、退魔師としても一流であれば、利用価値は高い。洗脳や妖魔と同化させこちらの手駒にするにも、妖魔の苗床や餌、あるいは術の生け贄に捧げるにも、どれであろうとも有効的に使えよう」


 幻那の言葉に二人は顔を青ざめさせる。自分達が待ち受ける絶望的な未来を想像してしまったのだ。


「はいはい! そこをなんとか僕にこの二人を譲ってもらいたいんだけど! あっ、別にどっちかでもいいからさ!」

「貴様! 何度言わせれば!」

「だってさ! 僕の身体、こんなにされたんだよ? 回復には人間を喰った方が早いんだよね。霊力も高い人間で女の子とか凄く栄養価も高いし、おいしそうじゃない! その前に色々と楽しむけどさ! 別に食べるだけが回復の手段じゃないし! 犯したり、拷問したりして、恐怖とか絶望とか負の感情を食べるだけでも相当回復できるからさ!」


 それは二人にすれば、ただ殺されるよりも恐ろしいことであった。


「あはっ! いいねいいね、その顔! ちなみにどんなことするか教えてあげようか? まずはね、普通に犯して、その後は二つある物を一つずつ削いで目の前で食べるんだ。その時の女の子の顔と声ったら! で、手足を全部食べて、そのまま生かしておいてまた犯して、絶望させるんだ」


 それは狂気の吐露だった。少なくともこの牛鬼である狂司は今までに、女性をそのような目に遭わせたと言っているのだ。そんな彼に理人は顔をしかめるが、幻那と銀牙は何も言わない。ただ興味がなさそうに狂司を見ている。


 朱音と渚は怒りと悔しさを滲ませた表情をするのがやっとだった。


「待てや。お前にこの二人は好きにさせへん」

「何? 八城ちゃん? 君がこの二人を好き勝手するっての? だめだめ。この二人は僕が貰うから」

「そこまでにしておけ。この二人は利用価値は高い。まずは私が預かろう」

「えー、ちょっとは分け前が欲しいんだけど」

「ならば私の役に立て。そうすればどちらか、あるいは両方をくれてやっても良い」

「さっすがぁ! 話が分かる上司はいいよね! 八城ちゃんも頑張って、この子達を貰えるようにすれば?」


 ニヤニヤと牛顔で笑う狂司に、理人は苦虫を噛み潰したような顔をする。


 朱音と渚は何の反論もできなかった。声を出せない。抵抗もできない。


(こんな奴らに言いたい放題させるなんてっ! でも身体も動かせない上に、霊術も封じられてる……なんで、なんでこんなことに……真夜もいないし、どうすればいいのよ……)


 理不尽とも言える状況に、無意識の内に朱音の瞳に涙が浮かぶ。理解させられたのだ。自分は目の前の男に抗うこともできないことを。このままこいつらの玩具にされると。


 最後まで心を強く持ち、チャンスを待つのが正しいだろうが、そのチャンスが訪れるのかさえも怪しい。


 それに異界へと転移させられた真夜のことも気がかりだった。朱音の心はほぼ折れかけている。


(……終わり方としては、最悪の部類ですね)


 渚も同じように、諦めを抱いていた。目の前の白髪の男は、真夜の危険性をいち早く察し、その対応を打った。それだけ頭の回転も速く、また彼の結界の破壊やその妖力、自分達を拘束する手際などを考えれば、抵抗しても無駄であると思い知らされる。


 仮に最後まで抵抗したとしても、状況は好転しない。いや、そもそも抵抗さえさせてもらえないだろう。


(……いいえ、それでも抵抗することが無駄であっても、たとえ何の意味が無かったとしても、ここで諦めてしまうのは、嫌です)


 目の前の相手達は、自分の考えを知れば笑うだろうか。愚かと言うだろうか。下らないと一蹴するだろうか。


 無駄な抵抗。悪あがき。諦めが悪い。なんと言われても良い。その結果、もっと酷い目に遭うかも知れない。


 抵抗しなければ、朱音のように心が折れ、諦めて何もしない方が良いかもしれない。


 でもそれは……。


(あの日、彼と約束したんです。彼は言いました。諦めないって。諦めるなって。だから絶対に、諦めません)


 幼い日の、他愛の無い約束。子供同士の口約束。でもそれは彼女にとって大切で、何よりも重要で、今なお、守り続けている誓い。


 だから……。


「ほう」


 幻那は感嘆の声を上げる。渚が未だに抵抗しようと、霊力を放出し拘束を破壊しようとしたからだ。


 その瞳には強い意志が宿っている。この状況であっても、未だに諦めていない。まだ心が折れていない。


「京極の人間にしてはいい瞳だ。強い意志を感じる。この状況にあって、力の差を理解しているであろうに、それでも抗おうとするか。嫌いではない。だが無駄であり、無意味だ」

「あぁっ!」


 妖気の拘束が強まり、渚の身体を締め付ける。痛みが全身を襲う。妖気が身体を蝕んでいくような不快な感覚が、広がっていく。


「諦めろとは言わん。抵抗したくば、抵抗しろ。最後の最後まで抗うが良い。結果は変わらんが、何もしないで後悔するよりはマシであろう。その果てに、絶望が待とうともな」

「そ、それでも……、わ、私は諦めません。死ぬ瞬間まで……。いいえ、たとえ死んだ後でもっ!」


 虚勢であり、自らを鼓舞するだけの捨て台詞。痛みに顔を歪めながらも、必死に抗おうとする。


「あははは! そんなに必死になって可哀想! でもそんな強気な心を折るのも楽しそう! そっちの子は、もう心が折れたみたいだし、君はまだまだ楽しめそうだね!」


 狂司は渚が気に入ったようだ。朱音は俯いたまま、何も言わないことから、彼の興味は渚に移ったようだ。


 しかし……。


「……っさい」

「ん?」

「うっさいって言ってんのよ! さっきから聞いてればごちゃごちゃと! 心が折れた? ええ、今の今までそうだったわ! でもね! あたしにも意地があんのよ! このまま好き勝手言われっぱなし、されっぱなしで終われるかぁっ!」


 朱音が吠えた。渚の言葉に心を奮い立たせた。全力で霊力を身体の内部に集中させる。このまま玩具にされるくらいなら、いっそ自爆してでもこいつらを巻き添えにしてやる。 


 たとえ相手を道づれにできなくても、少しでもこいつらのにやにやした面を歪めてやる。


「ほう、甘く見ていたようだ。だが……」

「あがぁっ!」

「自爆などさせるものか。お前達は実に素晴らしい。あの男もそうだったが、どうにも若い力が育っているようだ」


 朱音の霊力の高まりを無理やり抑え込む。術で彼女の霊力を霧散させ、吸収する。


 惜しいと幻那は思う。しかし自分の目的の前には邪魔者でしかない。いや、なんとかこちら側に引き込むのもありかも知れない。


 ニヤリと幻那は笑う。今宵は実に言い拾い物ができた。出会いもあった。満足だ。


「今宵はこれまでだな。あの男もいつの日か、再び我が前に現れるだろう。その時は……」


 ゾクッ


 不意に幻那は全身が総毛立つような感覚に襲われる。これまで感じたことも無いような、あるいは恐怖にも似た感覚。


「どうされましたか?」


 銀牙もそんな主の姿に怪訝な顔をする。だがそんな彼もすぐにそれに気がついた。


 カッとこの公園に残されていた、真夜の五枚の霊符が眩い光を放ち始めた。


 三枚の霊符により結界が再構築されていく。さらに二枚の霊符がそれぞれ朱音と渚の背中に張り付くと、彼女達を拘束していた妖気が霧散すると共に、彼女達の身体を別の防御結界が包み込んだ。


「こ、これって……」

「星守君?」


 二人を守るように展開する防御結界。暖かい光と熱が二人を包み込む。先ほどまでの緊張が、絶望が嘘のように心が温かく穏やかになっていく。


「な、なんや!? 何が起こっとるんや!」

「くっ! ま、まぶしいだけじゃなくて、この結界、三枚で僕達を囲い込むように展開してる上に、妖気を削いでいる!」

「主よ、これは!?」

「……来る」


 幻那は他の三人の言葉を耳に入れつつも、公園の一角、真夜が先ほどまでいた場所に目を向ける。


 ピシリと空間に罅が入った。その光景に、幻那を含め全員が絶句する。


 異界と現世が繋がる場合、空間がねじ曲がるような形で発生する。上級妖魔やそれ以上の妖魔が出現する場合も同じで、空間がねじ曲がる大きさが変わるだけなのだが、今彼らの目の前で起こっている現象は、空間がひび割れ、それが広がっていっていく。


「力で無理やり、境界をねじ伏せ破壊しようとしているというのか!?」


 幻那はその経験や知識でそれがなんなのかを理解したと同時に、これから出現する存在が並大抵の物ではないことも予想する。


 空間の亀裂がどんどん大きくなる。そしてついにそれは姿を現した。


 パリン!


 亀裂が弾け飛び、異界との境界が無くなった。そして出現する存在。境界が消失した瞬間、吹き荒れる膨大な力の奔流がこちら側へと流れてきた。


「馬鹿な、あれは……」


 幻那は見た。境界の狭間に浮遊する存在を。それは一枚の絵画のようであり、神話の一幕でもあるような光景であった。


 それは天使だった。だがただの天使ではない。


 漆黒の三対六枚の翼を持つ女性型の天使。流れるような長い漆黒の髪に、黒いドレス風の衣装に身を包み、頭上には真紅に輝く天使の輪がある。


 美しい顔立ちであるが、その目元には黒い眼帯が巻かれており、その瞳を見ることは叶わない。さらに首下にはチョーカーがまかれ、その中心部に金色に輝く宝石が埋め込まれていた。


 堕天使。天使より堕ちた存在。それも明らかに高位の堕天使だった。


「Aaaaaaaaaaaaaaaaa!!!!!!」


 漆黒の堕天使の口から声が漏れる。歌を歌っているかのような、しかし叫び声のような、だが聞く者を虜にするような美声。しかしただ声を発しただけで、音は霊力を纏った衝撃となり、幻那達を襲った。


「くっ! 嘘やろ!? 声だけでこれかいな!」

「あ、あり得ないんだけど! なんなの、いったい! あれって相当な化け物じゃん!」

「まさか、異界からあのような存在が出現するなど!」


 狼狽する三人を余所に、幻那だけは冷静にその存在を観察する。そしてその境界の向こう側の暗闇になっている場所に佇む存在に即座に気づいた。


 それはゆっくりと境界の向こうからこちら側にやってくる。


「あ、ああっ……」

「あ、あれは……」


 朱音と渚はその姿を見て、安堵し、歓喜した。だってそれは、彼は!


「……待たせたな」


 彼――星守真夜が悠然とその姿を現す。先ほどとは変わらぬ姿。しかし明確に違うのは、その額に十字架に似た刻印が浮かび上がっていることだ。


 真夜が境界を越え、こちら側にやってくると、堕天使も彼の背後に付き従うように浮遊しながら、こちら側へと出る。彼女が手を境界にかざすと、ひび割れていた空間がゆっくりと元通りになっていき、物の数秒で何事も無かったかのように境界は消えた。


「それじゃあ、続きと行こうか」


 真夜は不敵な笑みを浮かべると幻那達にそう宣言するのだった。


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