第8話 逃亡

 宇軒を襲った男は、意外にも翌日には見つかった。


 物言わぬ骸から面布が取り除かれる。

「この男で間違いないでしょうか?」

 景都を管轄する錦衣衛が高指揮使と宇軒に問いかける。宇軒は込み上げる吐き気を堪えて答えた。

「顔の判別はつかないが、その手にある傷は私の首を紐で絞めた時の物だろう。衣も犯人の物と同じだ」

 水を含みぶくぶくと膨れ上がった男の顔を見て、遥か彼方の記憶が甦る。

「死因は見ての通り水死です。自殺か不慮の事故とも思ったのですが、検死医によると鴉片あへんを多量に含んだ底野迦てりあか※睡眠薬を飲んだ兆候があると」

「では、殺人か?」

 高指揮使の表情が一層険しくなった。

「断定はできませんが、その可能性は高いとのことです」

「引き続き景都の警邏を怠るな」

 高指揮使の指示が景都の錦衣衛に響き渡る。

「は!」


 安置所を出ると、同行していた東小旗が言った。

「一層、きな臭くなってきましたね」

「ああ」

 高指揮使が言葉少なに返事する。

「李殿、先程から顔色が悪いですが大丈夫ですか?死体は見慣れないのでは?」

 東小旗の言葉に宇軒ははっとした。

「あぁ、いや。大丈夫です……。都察院でも、死体の検死に立ち会うことはありますので……ただ……近親者を水難で亡くしておりまして、お恥ずかしい話水死体が苦手なのです」

 宇軒の言葉に高指揮使は不思議そうに尋ねた。

「?李殿の父君は官吏では?」

「ああ!河清事件。悪徳太守に殺されたご両親の無念を李殿が晴らした有名な事件ですよね!」

 それは自分も知っていると、合いの手を入れる東小旗に、余計なことをと高指揮使が睨みをきかせる。

「官吏だったのは、養父です。私は元は河清の農村の出でして。十四年前の長江の氾濫で家族が亡くなって路頭に迷っていたところを、養父が引き取ってくれたのです」

 苦笑いする宇軒に、東小旗は申し訳なさそうに言った。

「李殿は、十代までに実のご両親も義理のご両親も亡くされてしまったんですね……。悲しいことを思い出させてしまって申し訳ない……」

「いやいや、昔の話ですから。家族とは縁遠い星の元かも知れませんが、養父のお陰で官吏になれましたし!」

 宇軒がわざと明るく返せば、ぼそっと高指揮使が呟く。

「官吏をやっているせいで命を狙われた訳だが」

 宇軒は途端げっそりした。ぐぅの音も出ない。

「男に死なれてしまって、証拠が途絶えてしまいましたね」

 とほほといった感じで東小旗と顔を見合わせれば、高指揮使がまだ証拠は途絶えていないと言った。

「あの男だが、よく賭博場に出入りしていたらしい。賭博場で何か話を聞けるやも」


 三人はそのまま、賭博場に向かった。賭博場の店主は錦衣衛の飛魚服を見るや否や裏口に駆け出した。間髪入れず駆け出した高指揮使が店主を裏口から引きずって来る様を見て、宇軒は唖然とする。

「いつもこうなのか?」

 東小旗は困ったように頭を掻いた。

「指揮使は私達部下より手足が早くて」


 高指揮使が店主を吊し上げて情報提供を迫った結果、男の最近の動向はわりとすぐ分かった。男は棲みかを持たないごろつきで、最近は賭けに負けて金に困っていた。

 また、この賭博場には、ある人物もよく通っていたという。景都軍の万副官だ。店主は男と万副官は顔見知りだったという。

「うーん。そことそこが繋がるわけですね」

 宇軒が納得していると、そこに警邏に出ていた錦衣衛が駆け込んできた。

「大変です!景都軍への搬入物資がナイマンの襲撃を受けたようです」

 三人に緊張が走った。直ぐさま襲撃のあった城門に向かう。城門は閉ざされていたが、閉ざされた門の前には複数の負傷兵が身を横たえ、軍医の治療を受けている。そこには、高将軍と孫判官の姿もあった。

「どういうことですか、高将軍。我々は今日、物資の搬入があることを聞いていません!そのような重要なこと、どうして報告がなかったのです?」

 高指揮使が声を荒げると、高将軍は低い声で答えた。

「身内を疑えと言ったのは、李殿だったのでは?情報を知るのは極少数の方が良いと判断したまで」

 二人の間の空気が張り詰める。


 万副官の姿が見えぬことに疑問を抱いた宇軒は、孫判官に尋ねた。

「万副官はどうされたのですか?姿が見えませんが」

 孫判官の視線が困ったように左右に揺れる。

「それが……」

「それが?」

 宇軒が焦れたように言うと、孫判官は意を決したように言った。

「……万副官は昨夜から行方知れずなのです……」

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