第九章 木瓜の花
なんだか遠い外国では台風が来ると言われていて、結構な被害もあったと報道されていたが、日本では基本的にのんびりと暮らしていた。もちろん、防災意識はちゃんとしていなければならないのであるが、天災は忘れた頃にやってくるというか、そういうふうに何に関しても最後まで防げないのが人間というものだろう。
その日、また製鉄所の食堂を借りて、写経会が行われていたが、写経が始まる前に、高本さんが、今日は大事な話があると言った。
「あの、今日は、大事な話があるんですが。」
高本さんはとても恥ずかしそうに言った。
「今日は、皆さんにお別れをしに来たんです。実は私、犬の服を作るのに専念したくて、こちらに通うのは、もう終わりにしようかと。」
「そうですか。」
まゆ子はそういった。こういう事は、人が集まっていれば、普通にあることであるが、でも、なんだか寂しい気持ちがしてしまうのはなぜだろう。
「もう、それでは、ここへ来られないということですか。」
まゆ子がそう言うと、羽生さんも、彼女に続いて、
「まゆ子さん。私も、ここをやめようと思っているのですが。本当は、もっと早く話すべきだと思うんですけどね。学校の宿題が結構多くて、こっちへ来るのが大変になっちゃって。まゆ子さん、今までずっとこちらにこさせてもらったんですけど、ありがとうございました。」
と、発言したのだった。まゆ子はそれは寂しいなという気持ちを抑えて、
「そうなんですね。それでは、あなた達は、新しいステップに向けてあるき始めたんですか。確かに悲しいこととは思いますけど、悲しむべきではなくて、喜ぶべきですよね。お二方、本当におめでとう。心からお祝いします。」
と、二人に向けていった。
「ありがとうございます。あたしたちも、新しい居場所でがんばります。」
「ここで培った事は、一生忘れません。まゆ子さん、私達をここにこさせてくれてありがとうございました。」
女性たちは、相次いでそういう事を言ったのであるが、梅木さんだけは納得いかない様子であった。
「何よ!」
梅木さんは、声を上げて言った。
「あなた達だけ、新しい居場所が見つかったからと言って、もうさようならですか。そんな無責任な事、私は認めないわ!」
「認めるとか、そういう問題ではありません、梅木さん。こうなってしまうのは、ある意味仕方ないことなんですよ。というか、先程も言いましたとおり、悲しむべきではなくて、喜ぶべきことよ。またメンバーさんは、SNSか何かで募集すればいいわ。また新しい出会いがあって、嬉しいことじゃないの。そうでしょう?」
まゆ子が梅木さんにいうと、
「あたしは、そういう事を喜んで居るわけじゃないのです。それより、ここでずっとお世話になったのに、それで、居場所ができたから、もう来ないですって!無責任よね!もし、ここを捨てるんであれば、例えば、まゆ子さんに義理をしてから捨てるべきじゃないの!」
梅木さんは、激して答えた。
「あたしたち、ちゃんとお餞別はするつもりよ。梅木さんにもそれなりにお返しはするつもり。もし、可能であれば、SNSで、募集文をかいたりするわ。それでもいけないの?梅木さん。」
高本さんが、すぐに訂正するように言うと、
「それに、梅木さんも居場所が見つかることだってあるはずだって、あたしたちはちゃんと思ってるわ。それに、梅木さんのことは携帯からサグ除することもしないし、これからも、SNSで繋がったりするわ。だから、そんなに寂しがらないでよ。」
と、羽生さんは、梅木さんをなだめるように言った。
「私は、そんな気持ちで言っているわけではないわ。」
梅木さんは涙をこぼした。
「私は、急にここを出てしまってもうさようならなんて、無責任だと言っているのよ。」
「梅木さん、そういう事言うんだったら、やっぱり寂しいんじゃないの?それなら、素直に言ったら?そうやって、責任を転嫁しないで、梅木さんの本当の気持ちを話したらどうなの?私、学校に行って、やっぱり自分で話さないとだめだと思うようになったわ。だから、梅木さんもいつまでも過去にしがみつかないで前向きに生きましょうよ。」
羽生さんは、決して悪い意味で言ったわけではないのだが、梅木さんはすぐ表情を変えた。
「そんな事!まさかここでそんな事言われるとは思わなかった。今まで私達は何をしてきたの?一緒に、つらい思いを共有したり、辛い気持ちを分かち合ったりしたじゃない!それはすべて帳消しなの?それはすべてなくなってしまうの!そんなのあんまりよ。あなた達が、もう居場所を見つけてしまったら、今まで私達を傷つけた人たちと同じような態度を取るなんて、なんてひどいこと!」
「梅木さん。変わるということも人間にとって、大事なことでもあるのよ。」
まゆ子は梅木さんに言ったのであるが、
「みんな、結局居場所を見つけてしまえば、平気で傷つけてしまうようになるのね。なんで、そんなふうに、居場所を見つけてしまえば、平気で態度を変えてしまうのかしら!今まで、一緒に辛かったけど、一緒に生きていこうって、支え合って生きてきたはずなのに、一度解決してしまうともうさようならですか!笑わせるんじゃないわ。そんな事、なんで、そんなことが!」
梅木さんは、バアンとテーブルを叩いた。そして、自分の顔を自分の手で平手打ちした。そうなると、他の二人は、梅木さんを止められないのだ。残りの三人が、梅木さんをつらそうな目で眺めていると、隣の部屋から水穂さんが現れて、
「梅木さん。」
と、弱々しいながらも優しく言った。水穂さんは、今までよりもっと窶れた、なんか痛々しい風情だった。多分それは、ご飯を食べていないせいだと思う。
「梅木さんも変わるときが来ます。それは、きっと、どんな人にでもあります。」
他の三人は、梅木さんが窶れた水穂さんを弾き飛ばしてしまうのではないかと思ったが、梅木さんはそれはしなかった。その有様を、ちょうど、水穂さんの元へレッスンにやってきていた、小宮山裕貴さんが、その有様を眺めていた。
「そんな事、私にはいつまで経ってもやってこない。皆そう言うけど、悪くなるばかりじゃない。世の中は全然良くなりそうな気配なんて無いし。私のような人間は、結局、捨てられるか、自ら死ぬしか無いのね。なんで、なんで私がそういう事をされなければならないんだろう。」
梅木さんは、殴り続けて真っ赤になった顔を拭くこともなくそういうのだった。
「きっと、梅木さんは、つらい気持ちを感じやすいんでしょうね。それは悪いことではありません。それは他人の辛さもわかってあげられるということです。」
水穂さんは静かに言った。
「そんな事、できるはずもないのよ。私が、できる事をしても、いつまで経っても変わることはないし、周りの人達ばかりどんどん変わっていって、私は、居場所にも仕事にもありつけない。なんで私は、そうなってしまうのかな。なんでわたしだけ、何も変われないんだろう。」
梅木さんは、そういったのであるが、返ってきたのは咳だった。もう、窶れて疲れ果ててしまった水穂さんは、それ以上梅木さんを慰めることはできなかった。
「水穂さん、もういいわ。お辛いのなら、布団へ戻りましょう。」
梅木さんは、申し訳無さそうに言って、水穂さんに肩を貸してやって、彼を立ち上がらせ、布団へ戻らせた。ピアノの前に自分で動くことができない小宮山裕貴さんがいて、梅木さんがそうするのを眺めていた。
「梅木さん。」
小宮山さんは小さい声で言った。
「梅木さん、もしよかったら、今日藤まつりがあるそうなんです。行きませんか?」
そう言われて、梅木さんは彼を見た。
「ああ、いいじゃないですか。ぜひ行ってきてくださいよ。お祭りは楽しいですし、浴衣着て、お祭りに行くのも気分転換になるんじゃないですか?」
高本さんが、そう言うと、
「そうですよ。楽しみに行ってきてください。きっと、楽しんで来れると思います。」
羽生さんも梅木さんに言った。梅木さんは、嫌そうな顔をしていたが、それでも
「そういうことなら行ってきます。」
嫌そうな顔をしていった。
それから、数時間後、梅木さんはレンタルで用意してもらった浴衣を着て、小宮山さんと一緒に富士市の中央公園にいた。小宮山さんは、まずはじめに、フランクフルトを出店で買い、公園のベンチで二人で食べた。梅木さんにとってはこういう事は新鮮だった。だって今までそのような事は殆どしたことがなかったのである。
「美味しい。」
梅木さんはにこやかに言った。
「でも、まだ5時よ。花火大会まではまだ時間あるわ。一体ここで何をしようと言うのかしら?店巡りにしては時間がかかりすぎるわ。ああ、それとも歩けないから、余裕を持って設定したのかしら?」
梅木さんがそう言うと、
「まあ、それもありますけど、それだけじゃありません。今からタクシーを呼んで、あるところに連れて行って上げたいんです。」
と、小宮山さんは言った。そして、公園の近くにある公衆電話で、タクシーを呼び出して、ワゴンタイプのタクシーに公園近くに来てもらった。運転手さんの手伝いで、小宮山さんはタクシーに乗り込む。梅木さんは、助手席に座った。運転手にどちらまでと聞かれると、小宮山さんは増田呉服店と答えた。呉服屋と聞いて、梅木さんはちょっと怖くなったが、
「大丈夫です。一般的な呉服屋さんとは違いますから。」
と、小宮山さんはにこやかに笑った。増田呉服店という小さな店は、梅木さんが想像しているような着物屋とは違っていて、立派な店がまえではなく、小さな洋服を売る店と同じような感じだった。小宮山さんは、運転手に手伝ってもらって車をおり、その店の中へ入った。店に入ろうとすると、ドアにぶら下がっているコシチャイムがカランコロンとなった。
「いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね。着物か何か、ご入用ですか?」
カールさんが、優しそうに言った。よくある呉服屋の人にありがちな、威圧的だったり脅かすような感じでもなかった。
「はい、あの、彼女に、振袖かなにかお願いしたいと思いまして。振袖は三種類あるんですよね?」
小宮山さんがそう答えると、
「まあ!もう20歳はとうに終わってしまいましたよ。35を超えて振袖なんて、もうありえないんじゃないですか?」
梅木さんはそう答えたのであるが、
「いえ。大丈夫です。40歳を過ぎても振袖を着ている方はいますから、今は30代はまだまだ振袖を着られます。いくつか出してきますから、少しお待ち下さい。」
と、カールさんは言って、売り台の近くにあった段ボール箱から、振袖を三枚ほど出して売り台の上に乗せた。
「あたし、流石に、もう35を超えているので、振袖と呼ばれるのはちょっと、、、。」
と梅木さんはそう言うが、
「はいわかってますよ。そういうと思いまして振袖は、三種類ございましてですね。振袖は、本振袖、中振袖、小振袖とございます。成人式や若い方の結婚式で着られるのは、本振袖ですが、それ以外の式典やコンサートなどで着られる、袖が膝くらいまでの中振袖と言うのもございます。それに、更に気軽な振袖として、腰から膝までの間に収まっている小振袖というものもございます。」
と、カールさんは説明した。
「じゃあ、小振袖を。」
梅木さんがそう言うと、
「いえ、梅木さんに小振袖は似合いません。中振袖のほうが可愛くなれるような気がします。こういう感じのものはどうでしょうか?梅木さんには、木瓜の花が似合うと思います。」
と、小宮山さんが白に赤い小さな花が散りばめられた着物を差し出した。
「ああ、こちらの中振袖は、木瓜の花ですから、縁起のいい柄の一つですね。木瓜を家紋にしている公家もいるそうですから。」
と、カールさんが説明した。
「でも、ぼけって、私まだ、ぼける年でもありませんよ。」
梅木さんがそう言うと、
「日本人の日本の文化の知らなさは、呆れてしまいますな。ボケときたら花ですよ。見たこと無いんですか。木瓜の花って赤くてかわいいじゃないですか。」
と、カールさんが半ば呆れていった。
「でも、こ、こんなきれいな着物、私には着られません。それより、これ、高いでしょう。そんな何十万するような着物、私、買えませんよ。」
梅木さんがそう言うと、
「いえ、そんな事ありません。こちらは振袖ですが、比較的小さいサイズなので、3000円で結構です。」
と、カールさんは言った。
「そうですか!じゃあ、本当に3000円で大丈夫なんですね。それに他のお金がかかることもありませんよね?」
梅木さんが思わずそう言ってしまうが、
「はい。大丈夫です。3000円だけ払ってくれればそれで大丈夫です。」
カールさんはしたり顔で答えた。梅木さんは、お代を払わなければだめなような気がして、財布を開けようと思ったが、
「いえ、大丈夫です。これは僕が買うと決めました。それでは、僕が払います。」
と、小宮山さんがすぐいって、カールさんに三千円を手渡した。
「領収書はご入用ですか?」
と、カールさんが言うと、
「はい。それでは、梅木裕貴様と書いてください。」
と、小宮山さんは答えた。
「うめきひろき?」
梅木さんは驚いてそう言うと、小宮山さんは、
「はい。そうです。僕は上様などと書かれる資格はありませんので、梅木裕貴と書いてください。」
と、にこやかに笑って答えた。
「わかりました。」
と、カールさんはそのとおりにした。小宮山さんはそれを受け取って、
「ありがとうございます。」
と、商品である白い中振袖を畳んで紙袋に入れた。
「またなにか必要なものがありましたらいらしてくださいね。こちらは押し売りのようなこともしないし、囲み商法のようなこともしませんから。買うものは何でもお客任せにしているんです。」
と、カールさんはにこやかに笑った。驚いている梅木さんを尻目に、小宮山さんはありがとうございましたと言って店を出た。そして、また障害者用のタクシーを呼び出して、梅木さんと一緒に、中央公園に戻ってきた。
「一体、どういうことなんですか。私に着物なんか買ってくれたりして。なにかわけがあるのかしら?」
思わず梅木さんがそういってしまうと、小宮山さんは、梅木さんを真っ直ぐに見つめた。そして、
「僕と、結婚してくれますか?」
と、言った。小宮山さんは車椅子に乗っていたので、梅木さんを下から見上げるようになってしまっているが、それでも梅木さんを真剣に見つめていた。
「先程、誓いを立てましたとおり、僕は、改姓するつもりです。どうせ障害者が、実家の名字を名乗ったって、意味がないと思いますから、それなら、改姓したって構わない。梅木さんが家を出て行けないと言われているんだったら、僕が梅木さんと一緒に暮らせばそれで解決じゃないですか。」
「そんな事、できるわけがないじゃないですか。うちはもうそういう事は、できやしないんですよ。それに、」
梅木さんは、あなたのような人がうちに来られても困ると言いたかったけれど、それを言うことができず、困った顔で言った。
「やってみなければわからないじゃありませんか。それに、お祖父様だって、何年かすればわかってくれるかもしれませんよ。僕はとにかく、梅木さんが、これ以上寂しい思いをするのは見たくないんです。それに、梅木さんが、他の人より繊細で優しくて、そういうところが、女性らしくて本当に素敵だと思ったんですよね。その気持ちを、梅木さんは、潰してしまうおつもりですか。それなら、梅木さんに意地悪をしでかした他の人達と変わらないと思いますよ。」
小宮山さんは、しっかりと梅木さんを見つめていった。
「小宮山さん、あなたそんなに私の事を?」
梅木さんはそう返してしまったが、
「大丈夫です。僕は、決して、変な事をするつもりはありません。確かに、婚約指輪も買えないで、振袖一枚しか買えないという、経済力は何も無いのかもしれませんが、でも、誰かの言葉を借りて言えば、僕は幸せになる自信はあります。それはきっと、大きな事を忘れることはできないかもしれないけど、きっと、気持ちが楽になってくれると思うんです。梅木さん、受け取っていただけますか。」
小宮山さんは、もう一度梅木さんに頭を下げた。
「でも、私の家族が、なんていうか。絶対に、あの頑固な祖父が認めてくださらないと思いますわ。それが現実ですよ。そんな夢みたいなこと、できるわけがないじゃありませんか。」
梅木さんがそう言うと、
「それもやってみなければわからないじゃないですか。やる前から、もうできないと言われてしまったら、僕が今まで努力してきたことが何になるのです。そういう事は、終わってからするものでしょう。もし、お祖父様がどうしてもだめと言うのだったら僕は諦めますよ。それくらい男ですから、それはできます。でも、男ですから、梅木さんの事を愛することもできるんです。」
小宮山さんはそういった。
「あたしが、所帯を持って結婚するなんて。そんな事、世間が許してくれるでしょうか。私は、これまでたくさんの人に、迷惑をかけて来たのに、それなのに、自分の力では何も解決することができなかった最低の人間ですよ。そんな人間に結婚なんて、許されるはずが無いじゃありませんか。」
「僕も梅木さんと同じですよ。」
梅木さんが戸惑いながらそう言うと、小宮山さんはしっかりとそういった。
「僕も、こういう体ですから、同じようなものです。だけど、許すとか許されるとか、そういう事は、やってみなきゃわからないじゃないですか。それだけでも許可していただけないでしょうか?」
小宮山さんの顔は真剣だった。梅木さんは、しばらく何をいっていいかわからないで黙ってしまった。それと同時に、打ち上げ花火がドカーンと音を立てて上がる。
「梅木さんは、梅というより、木瓜の花のほうが合うような気がするんです。だから木瓜の花のように可愛いです。」
小宮山さんが梅木さんの自傷で真っ赤になった顔を見てそういった。
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