第八章 紫色の笑顔
それから数日後。梅木さんは、珍しくショッピングモールにいた。本来ならめったに出歩くことも無い彼女が、ショッピングモールに居るのは非常に珍しいことでもあった。でも、どこに行くこともなく、梅木さんはショッピングモールを歩いているだけだった。どうせ所持金もすこししか無いのだし、なにか買おうという気にもなれなかった。とりあえず、本でも読んで気を紛らわせようと、梅木さんは二階にある本屋に行くため、エレベーターの前にたった。すると、後ろから、車椅子の男性が近づいてきた。彼もエレベーターに乗るつもりなのだろうか?どこかで見たことのあるような、この男性、一体誰だろうと梅木さんが一生懸命思い出していると、
「あの、すみません。ちょっとお願いがあるのですが。」
と、その男性は、梅木さんに声をかけた。
「僕が乗り終わるまで、エレベーターのボタンを押していてもらえませんか?」
この渋い声は、なんか聞き覚えがある。
「あれ、梅木さんではありませんか?」
いきなりそんな事を言われて、梅木さんはびっくりした。
「なんで私の名を?」
梅木さんがそう言うと、
「ええ、一度だけあの支援施設でお会いしましたよね。僕のこと、覚えてらっしゃいませんか?あの、小宮山ですよ。小宮山裕貴です。」
と、車椅子の男性、つまり、小宮山さんは言った。
「もう一度いいますが、僕が乗り終わるまで、エレベーターのボタンを押してください。お願いできますか?」
「わかりました。」
梅木さんはそう言うが、小宮山さんは一人で買い物しているのだろうか?誰か手伝ってくれる人はいないものか。梅木さんは周りを見渡すが、小宮山さんの周りに、手伝ってくれそうな人はいなさそうだった。梅木さんは、すぐにエレベーターに向かって、登るボタンを押した。そして、小宮山さんがエレベーターに入ったのを確認して、梅木さんはエレベーターに乗った。
「小宮山さんは、どちらのお店にお入りなんですか?」
梅木さんが聞くと、
「ええ。今日は、注文していた本が入ったと電話がありましたので。」
と、小宮山さんは言った。実に奇遇だった。
「そうですか。私も、本屋に行くところだったんです。そこまで、車椅子押して差し上げます。」
梅木さんは、小宮山さんが相変わらず幽霊みたいな顔をしているのが気になって、付き添ってやらなければだめなのではないかと思った。梅木さんは、小宮山さんの車椅子に手をかけて、本屋の入り口までそっと押してあげた。
小宮山さんは、本屋の受付に行って、本を取りに来たというと、受付は、ハイこれですねと言って、一冊の本を彼に渡した。その本はかなり分厚い本であるが、小宮山さんはそれをクレジットカードで支払った。
「ありがとうございました、またお越しください。」
本屋の店員はそういう事を言っている。小宮山さんは、本を車椅子のポケットに仕舞って、またエレベーターへ戻ろうとした。梅木さんは、それで終わらせてしまうわけにはいかないと思った。
「あの、お時間ありましたらちょっと、フードコートよっていきませんか。お茶くらいごちそうします。」
少ない所持金であるのにも関わらず、梅木さんはそう言ってしまった。
「そうですか、でも、女性からお金を取るわけにはいかないので、僕は自分で支払いますよ。」
と、小宮山さんはいうが、梅木さんについてきた。二人は、ショッピングモールに設置されているフードコートに行った。特に車いす用の座席が設けられているわけでは無いけど、こういうところであれば、何時間もいられるから好都合だった。梅木さんは、急いでコーヒーを2つ注文し、小宮山さんの前においた。
「今日は、なんの本を買っていかれたんですか?なんかすごい分厚い本だったけど、なにかの図鑑とかそういう本ですか?」
梅木さんが聞くと、
「いやあ、そういう学術的な本は苦手で、夢のある、児童文学ばかり読んでいます。この本は、月色の魚という本でして、ある女性作家が書いたものなんですが、とても繊細で女性らしい方です。」
と、小宮山さんは答えた。
「そうなんですか。なんか意外だわ。小宮山さんがそんな本を読むなんて。」
梅木さんが言うと、
「僕は漫画というものは苦手でしてね。それより、こういう無名の作家が書いた本のほうが面白いんですよ。文章のほうが頭の中で想像できるから、面白いんでしょうし。それに、主人公の顔だって、読者一人ひとり思い浮かぶ顔は違うのが、小説のすごいところです。と言っても、こういう楽しさをわかってくれる人は、なかなかいませんけどね。みんな漫画ばかり読んでますからな。」
と、小宮山さんは言った。
「そうなんですか。そういうところがあるなんて、びっくりしましたよ。あたしは、本なんてめったに読まないから、そんな楽しさもわかりませでした。どうせ本を読んだって、それに書いてあるとおりの事を、実践できるかということになると、また違いますしね。それができなくてもどかしい思いをするんだったら、本を読むのも嫌だなと思うようになっちゃって。」
梅木さんは、恥ずかしそうにそう言うと、
「いやあ、本の全部に従わなくたっていいのです。自分に関係するところだけ感動すればいい。すべての人に、本が良いことを与えてくれるような事はまずありませんよ。売れる本はみんなの心に刺さるっていいますけど、そんな事は絶対ありませんからね。そんな事あるわけないって、始めから思って読んでいけば、そのような事に悲観的にならなくてもすみます。」
小宮山さんはにこやかに笑った。
「例えば、僕みたいな人は、全く歩けませんから、主人公と全く同じように行動することはできません。それは、もう始めからわかっていることです。だから、それはできないけど、それ以外に学ぶことがあるんだくらいの気持ちで、本を愉しめばいいのですよ。」
「そうなんですね。小宮山さんは、そうやって割り切って考えることができるんですね。そんなことができるなんて、私、びっくりしました。私は、そういう事はとてもできないし、かといって家で起きていることを、誰かに話すということもできないので、無理なことだと思いますが。」
梅木さんは、小さな声で彼に言った。
「そうですか。それは具体的にどういうことが起きているんでしょうかね。家の中で、誰か問題がある人も居るのでしょうか?例えば、お父さんが、アルコールに走ってしまわれたとか?」
小宮山さんは、梅木さんに聞いた。そんな事と梅木さんは思った。いきなり、直球を投げつけられた気分である。梅木さんは、どうしても自分が甘えているとか、早く自立しろと言われるのを避けたくて、できるだけ変化球にさせるように仕向けてきたのだ。それが、いきなり、こんな事を言われて、梅木さんは困ってしまった。
「いえ、そういうことじゃないんです。」
思わずそう言うと、小宮山さんは
「じゃあ、何なんでしょうか?」
と聞いた。その顔は、梅木さんの事を本気で心配しているような顔で、決して変に同情しているとか、変に彼女を諭そうとしているという感じの顔ではなかった。これには、正直に答えなければならないなと思った梅木さんは、
「いえ、そういうことじゃないんです。父は、居るようでいない人だから、お酒に走るとか、そういう事はしていません。それより、母と祖父が、泥沼のように毎日ケンカしているのが問題で。それで、母はどうしても祖父のことを超えられないから、それで、私に当たり散らしたりして。私も、心の病気になって働けなくなったから、もう祖父は怒り心頭なんでしょうね。私を早く働かせろとか、そういうことばっかり言って。今日、ここへ着たのも、祖父に怒鳴られて、それでここにこさせてもらいました。家の中にいても、辛いだけで、何も変わらないし、変われないから。」
と、正直に話した。
「そうですか。僕は、お祖父様が居るような家庭ではなかったので、そのような問題はよくわからないけれど。」
小宮山さんは、そう話しだした。
「ええ、それならそれでいいわ。私だって、何回も人に話したのよ。精神科医とか、カウンセラーとか、でもみんな、偉い人ばかりで私の話を聞こうとはしてくれなかった。だから、私は、最近は話しても無駄と思うようになったわ。」
梅木さんは急いでそう言うと、
「いえ、僕は、偉い人が考えているような事は全く思いませんが、少なくとも、正子さんが、寂しい気持ちをしているのはわかります。そして僕も、寂しい気持ちを抱えて来た一人です。まあ、僕の場合は、父が僕が生まれて数ヶ月でなくなりましてね。母一人、息子一人で育ちましたけど、母も忙しい人でしたから、周りは医療関係者しかおらず、友達もいないで寂しい思いをしてましたけどね。」
小宮山さんは、そういった。
「小宮山さん、お友達がいなかったんですか?」
梅木さんがそうきくと、
「ええ。いませんでした。友達と一緒に遊ぶことは、心臓への負担が大きすぎると言うことで、できなかったんです。だから、いつも教室の中で、他の生徒さんが、楽しそうにサッカーをしたりするのを、ぼんやり眺めてました。当然のことながら、部活もありませんでした。だから、学生時代は、本当に寂しかったとしか言いようがないです。おとなになった今も、働くところが何もなくて、福祉制度に頼って暮らしてますけど、やっぱり、どこにも居場所が無いっていうのは、寂しいですよね。だって、どこにも所属できないんですから。そんな悲しい事、誰かと共有することもできないし。ほんと、心にぽっかり穴が開いてしまったようで、時間だけが膨大にあって、毎日つらいですよ。」
小宮山さんは、そう話してくれた。
「そうですね。あたしもそういう気持ちわかります。あたしも、仕事をなにかしたいと思っても、何もできないで、家族に頼るしか無いし、家族が居るから、大丈夫だろうって言われてしまって、祖父のこととか、話せる人もいないし。前は社会人サークルなんかに行ってみたこともあるけれど、それもやめてしまったの。だって、あまりにも家族構成とかそういうものが違うから、みんなについていけなくて、寂しい思いをするだけよ。」
「あまりにも違うというのはどういうことでしょうか?」
不意に小宮山さんが言った。
「そうね。自由が無いってことかな。何をするにも祖父の言うとおりにしなくちゃならない。例えば、冷蔵庫が故障して、それを新しく買おうとしても祖父の許可なしでは買えないのよ。それに、買う店だって、地元の家電屋さんでなければ買えないし。よくあるヤマダデンキとかそういうところには行けないのよ。みんなそういうところで買ってるのに、うちの祖父が、そういうところはお金を取るからだめだって。」
梅木さんは、正直に答えるが、小宮山さんは、表情を変えずにそれを聞いていた。
「そうですか。それはお辛いでしょうね。」
不意にそんな言葉が梅木さんに聞こえてきた。
「変な同情とかだったらいらないわ。偉い人は、そう言ってくれてるけど、本気で私のこと救おうとしてくれる人じゃないってわかるから、そういう事は言わなくていい。もう何回もそういうことも経験したし、馬鹿にされることも経験した。甘えるなと叱られることも経験した。一人で暮らしたらと言われることも経験した。でも、そんなことが、通じる家族じゃないのよ。だから、そういう事を言われたって、もう実現できることじゃないから、あとはようよう死ぬことを待つだけなのよ。それしか私にはできないわ。だから、もう何も言わないで。それはもう言わないで。」
梅木さんは、相手の顔も見ないでそういったのであるが、
「僕は別に、そのような事を言ったつもりはありません。ただ、僕も同じことをされたことがあって、どうしようもなかったことがあったので、そういいました。」
と言う声が帰ってきた。
「まあ、僕の場合は、昨年母がなくなって、完全に一人になったので、馬鹿にされることは激減してくれましたが、僕も母が存命だった頃は、同じことを言われたものです。家族が、生きていると、日本人はどうしても、家族に苦労させて遊び呆けているように見てしまうようですけど、真剣に辛い思いをしている人も、居るんですよね。それが、なかなか他の人にわからないだけですよ。」
「そう、、、なの?」
梅木さんは、始めて顔をあげる。
「はい。」
にこやかな顔をした、小宮山裕貴さんがそこにいた。
「ただ、家族がいなくなって、完全に一人になって、嬉しいと思えないのが、人間なんでしょうかね。なんか、寂しいという気持ちが湧いてしまうんですよね。なんでなんでしょうね。人間は、一人では生きていかれない動物だっていいますけど。」
「そんなこと、、、。」
梅木さんは、涙が止まらなかった。始めて、同じ経験をした人からの言葉をもらったのであった。なんだか今まであった緊張の糸が取れていくような、そんな感触を梅木さんは始めて持った。
「きっと誰かが悪いとか、そういうわけじゃないと思います。人間に解決できることなんて、ほんのわずかだって、あのときの右城先生も言ってましたよね。だから誰のせいでも無いと思います。みんなただ一生懸命やったんです。でも、その結果として、梅木さんのおじいさんはそういう頑固者になってしまったのでしょうし、梅木さんも心の病気になった。それだけの話しです。」
小宮山さんがそういうと梅木さんは一気に涙を流しながら、
「だったらどうしたらいいのですか。もう死ぬしか無いとあなたもお思いですか。それとも、家族を殺してどこかに逃げろとでもお思いですか。もうそんなメチャクチャなこと。」
と言ったのであるが、
「いやあ。そんな事ありません。僕も、あのときレッスンにいかなかったら、梅木さんと同じこと考えていたと思いますよ。それは右城先生が教えてくれたことです。あの先生は銘仙の着物しか着られない。銘仙を日常的に着ている人は、特定の身分であると、あのあと本で調べました。今でこそ、可愛いいきものとされているようだけど、昔はそういう差別的に扱われていた人でしか、着用できなかったそうです。」
小宮山さんは、梅木さんに言った。
「だから、僕もそう思い直しました。ああして、辛い思いと一緒に生きている人が居るんだなって。それまでの僕は、どうして自分だけが、こんな悲しい思いをするのだろうと思っていましたが、意外にそういう事を思っている人は、多いのかもしれないと考え直したんです。」
「じゃあ、じゃあ、あの人は。」
梅木さんは、返事に困りながら言った。
「ええ。そういうことですよ。本ってすごいですね。インターネットに書いてないこともちゃんと書いてある。古い本は、そういうところがやめられないんですよ。つまり、あの先生は、そういう身分だったんです。だけど一生懸命見栄貼って、ああしてショパンの協奏曲まで弾いているんですから、そこは、もっと評価してくれてもいいのになと思いましたけどね。それは、おそらく無理なことでしょう。だから、これからもそういう身分として生きていくしか無いんでしょうね。だから僕も、不条理な過去を乗り越えるとか、そういう事は辞めることにしたんです。それよりも、今ここで自分にできることをやろう。そう考え直しました。できることなんて、こんな体の人間に、何があるんだと言われたら、それまでですけどね。」
小宮山さんは、梅木さんにもう一度笑いかけてくれた。それは、たしかに、頬が紫色に近い色になっていて、とても痛々しい顔つきではあるのだが、どこか、何かが取れて、もう吹っ切れたような顔をしているのだった。
「でも、私は、あなたのように明るく考えられないわ。まだ、祖父には、なぜ働かないんだって怒鳴られっぱなしだし、母はお酒に走ってしまっているし、父は、居るようでいないで私を助けてくれる人はいない。あの家で私は、一人ぼっち。みんな私の事を、助けてくれるどころか、自分の体制を保つだけで精一杯なのよ。だから、私はあなたみたいに、もうそういうふうに悟りを開いたような事は、できないわ。」
梅木さんは、泣きながら言った。
「それでいいんじゃないですか。今は泣いてもいいと思います。ただ、助けてほしいということは、間違いではありません。それは、諦めないでほしいと思います。」
小宮山さんがそう言うと、
「でも、医者や、カウンセラーなんて、どうせ私の事は、ただの患者としか見てくれないし、どうせお金を払ってくれるただの患者にしか見てくれないのよ。」
梅木さんは、悔しそうにそう言うと、
「まあ、偉い人が、全て助けてくれるわけではありません。それより、助けてくれるのは、身近な人であるかもしれないし、あるいはそういう専門職の方かもしれない。今は、助けてもらえないと思うかもしれませんが、そういうときは、一生懸命助けてと叫んでもいいのではないでしょうか。そして、一番大事なことは、いちばん大事な命を落とさないこと。それをしてしまったら、大事な人に巡り合う可能性もなくなってしまいます。今は、お辛いと思いますけど、なにかが起こるのを待つ時期なんだと思ってください。そして、一生懸命、自分ではもうどうにもならないと叫んでください。」
小宮山さんはにこやかに言った。
「そうなのね。ありがとう。なんか、ちょっとでも夢のある話を聞かせてもらって、私も少し、気が楽になったわ。ほんの少しだけでいいの。一時私を開放してくれる人なら。それだけでいいからと思ってた。」
梅木さんは、涙をタオルで拭きながら言った。
「ええ、中途半端に泣いてはだめです。もっと、苦しいときは本当に苦しいんだと表現しないとね。中途半端に見栄をはらず、自分に正直になってくださいね。」
小宮山さんの言葉に、梅木さんは、なにか救われたというか、なにか変わろうと言う気もちになれた気がした。
「わかりました。」
梅木さんは、無理やり笑顔を作って、そういったのであった。
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