第七章 出会い

梅木さんが長らく抱えていた真実が明らかになって、数日が過ぎた。梅木さんは、一応写経会に来てくれるものの、あれ以来、一言も口を利いてくれない。まゆ子は、梅木さんがそうなってしまったのは自分のせいなのではないかと思うようになった。ああして梅木さんのことを、みんなに知らせればもっといい方向に言ってくれるのではないかと思ったのであるが、そうではなくて、今まで以上に、あの厳格すぎる祖父に、色々言われているのかもしれない。いずれにしても、まゆ子は、なんだか梅木さんに、悪いことをしてしまったと思いながらも、あとの二人の事もあって、写経会を続けていた。

その日も、まゆ子は、三人の女性たちに向けて、写経会をやっていた。日頃から梅木さんは、写経のときに手を抜くことが多かったけれど、最近は、写経用紙を眺めているだけになっているのが、まゆ子は、梅木さんが信仰心をなくしてしまったのかと思った。そうさせたのは、もしかして自分かもしれない。まゆ子は、そんな辛い思いをしながら、梅木さんに話をしようとした。

それと同時に、四畳半では、水穂さんが、ショパンのピアノ協奏曲第一番の第1楽章を弾いていた。水穂さんも梅木さんのことを心配してくれているようであるが、最近えらく咳き込んでしまうことが、みんなの心配の種であった。その時も、水穂さんは弾いている手を止めて、えらく咳き込んでいた。杉ちゃんやジョチさんが無理はしないでくださいよと注意しても、水穂さんは今日は約束があるからと言って、練習をやめなかった。大事な約束ってなんだろうと、杉ちゃんもジョチさんも呆れていた。

「こんにちは!右城先生いらっしゃいますか?今日、レッスンお願いしてありましたよね?約束を破るのはいけませんよ。先生、よろしくおねがいしますよ。」

と、インターフォンのない玄関の引き戸を開ける音がして、若い男性の声がした。

「あれ、誰だろう?」

と、杉ちゃんが言うと、

「右城先生、今日も居留守を使うのはやめてくださいね。今日ちゃんと、レッスンするって約束していましたから、しっかりやってくださいませんね。よろしくおねがいします。」

と言って、入ってきたのは、桂浩二くんであった。

「浩二くんが、レッスンを受けるのか?」

杉ちゃんが思わずそう言うと、

「いいえ違いますよ。こちらの男性にショパンのピアノ協奏曲を教えてくれると、約束していましたね。お願いしますよ。この人だって、いつでも来られるわけではないんですから、今日、しっかりやってもらわないと。」

浩二くんは、そう言いながら、どうぞと入るように促した。すると、浩二くんよりも、数年年上の、車椅子に乗った男性が現れた。

「はい、こちらの方です。名前は小宮山裕貴さんです。よろしくおねがいします。」

浩二くんが、その男性を紹介した。杉ちゃんはびっくりしてしまう。なんだか顔は紙よりも白いというより、青白くて幽霊のように力ない顔だった。

「小宮山裕貴。なんか聞いたことのあるような名前。それにしても、なんか亡霊みたいな顔してんな。そんなやつが弾けるのかな。お前さん、音大とか行ったのか?」

杉ちゃんがそうきくと、

「いえ、音大は出ていないんですけど、この日のために頑張って練習してきたのだそうですから、右城先生に見ていただきたいと思って連れてきました。それではお願いしますよ。お邪魔させていただきますね。」

と、浩二くんはそう言ってどんどん製鉄所の中に入ってしまった。小宮山裕貴と紹介されたその男性は、入るのを渋っているようであったが、杉ちゃんがまあとにかく入れといったので、車椅子を動かして中に入った。

「水穂さん、なんだか、亡霊みたいにボケっとした顔をしたやつが、お前さんのところにレッスンを申し込んできた。まあ見てやってくれよ。なんでも、こんなぼんやりした顔で、ショパンのピアノ協奏曲なんてやるらしいから、まあ、変なやつがいるもんだ。物好きな男だが、見てやってくれや。」

と、杉ちゃんが紹介すると水穂さんは、練習していたピアノの椅子から立ち上がって、

「お待ちしておりました。磯野水穂です。右城は旧姓で、現姓は磯野と申します。どうぞよろしくおねがいします。」

と、頭を下げて自己紹介した。

「堅苦しい挨拶は抜きですよ。先生、彼のこと、しごいてやってくれますね。じゃあ、しっかりお願いしますよ。頼みましたからね。」

浩二くんがにこやかに笑ってそう言うと、水穂さんは、

「とりあえず、一度弾いてみてくれますか。確か、第2楽章を中心にと仰っていましたけど、とりあえず、第2楽章を弾いてみてください。」

と、幽霊のような男性に言った。彼はわかりましたと言って、水穂さんに促されて、ピアノの前に移動した。そして、ショパンのピアノ協奏曲の第2楽章を弾き始めた。それは確かに演奏技術的なところでは、水穂さんに追いつかないけれど、音色はとても美しく、なんだかきれいな水晶や、真珠を連想するような美しい音だった。第2楽章はとても美しいものであるけれど、なんだか幽霊のような人間が弾いているとはとても思えなかった。

「お上手ですね。」

と、水穂さんは言った。

「とても美しい音色ですね。小宮山裕貴さん。それではもうちょっと音のバランスとかそちらの方もやってみましょうか。それから、体力が許すようであれば、他の楽章もやっていただけますと、より曲への理解が深まります。」

「そうですが、彼には無理ですよ。第2楽章を弾くだけで精一杯なんです。」

水穂さんがそう言うと、浩二くんがそういった。こういうところで、高名なピアニストとかだと、人を馬鹿にするのかと発言する人も珍しくないが、水穂さんは表情を全く変えず、

「わかりました。それでは第2楽章をやっていきましょう。じゃあ、始めからもう一度弾いて見ていただけますか?」

と言った。水穂さんが態度を変えなかったのを、小宮山さんは驚いているようであったが、彼は水穂さんに促されてピアノを弾き始めた。それを水穂さんは丁寧に聞きながら、和声的なこととか、演奏技術的なこととか、そういう事を話していった。

一方、製鉄所の食堂では、まゆ子と、三人の女性たちが、写経をし終えて、そろそろ提出というところだった。

「なんだか美しい音ね。」

と、羽生さんがつぶやく。

「どんな人が演奏しているのかしら。なんか凄いイケメンだったら、嬉しいわ。」

高本さんが、にこやかに笑っていった。

「そうですね。確かに、繊細で美しい音です。なんか、象が踏んだら壊れちゃいそうな、そんな心の持ち主が弾いているような音だわ。」

まゆ子も思わずそう言ってしまった。梅木さんは、いつもどおり誰とも喋らないし、写経の作業もしていなかったが、まゆ子たちは、小宮山さんが奏でている美しい音色を、楽しんでいるようだった。

「ほんとに、素敵な音ね。なんか、汚いものでも否定するような、そんな音だわあ。でも、そういう演奏をする人に限って、すごいソーセージ指であったり、ハゲ頭だったりするから。まあ、男なんてみんなそういうことでもあると思うけど。」

高本さんは、中年女性らしくそういうのだった。高本さんも羽生さんも随分明るくなっていて、女性らしく容姿のこととか、理想の男のこととか話すようになっていた。まあ、女性と言うものは噂話が好きだというのは、昔からあることだけど、それを話せないというのはやっぱり病んでいるということかもしれなかった。

「じゃあ、どんな人が弾いているのか、覗いてみましょうか?」

まゆ子が冗談でそう言うと、

「それならしてみたいわね。」

と、羽生さんが言った。全く大事な写経会なのにとまゆ子は言おうと思ったが、その言葉も忘れてしまいそうなほど、美しい音色だったということだ。まゆ子が許可しようか悩んでいると、我慢できなくなった羽生さんが、

「ちょっと覗いちゃおう!」

と言って、音を立てないように襖を開けて覗こうとした。それと同時に激しく咳き込む声がした。羽生さんは、すぐにふすまを開けた。もちろん、咳き込んでいるのは水穂さんだ。もう疲れ切ってしまったのだろう。座り込んで咳き込んでいた水穂さんに、小宮山裕貴さんが、医者に見せたほうがいいのではないですかといった。そして、車椅子のポケットからスマートフォンを取り出した。浩二くんが、ここにかけてと、一枚のメモを彼に渡すと、小宮山さんは、すぐに電話をダイヤルして、電話をかけ始めた。その言い方はとてもしっかりしていて、なんだか幽霊のような雰囲気はどこにもなかった。

「ありがとうございます。それでは、よろしくおねがいしますね。」

小宮山裕貴さんはそう言って電話を切った。

「柳沢先生に連絡しました。すぐに来てくれるそうです。」

思ったよりしっかりしている声だった。しかも、そうやって医者に連絡するとかそういうこともなれているような口ぶりだった。浩二くんが、水穂さんの背中をさすって中身を吐き出しやすくしてやっていた。中身は、朱肉のような真っ赤な液体である。もちろん、このような光景は、現代社会でなかなか見ることはない。だから、羽生さんや、高本さんは思わずきゃあと言ってしまったほどである。それでも、小宮山裕貴さんは、何も表情も変えずにいた。

「こんにちは。水穂さんは大丈夫ですか?」

と、柳沢先生がやってきた。なんだかその河童みたいな顔を見て、明るい感じの人達は笑いたくなるくらいであるのだが、それは、すぐに止まってしまった。柳沢先生はすぐに水穂さんのそばに近寄って、重箱から粉薬を一包取り出して浩二くんに渡した。浩二くんはすぐに台所に行って、薬を水の入った、水のみの中にいれて戻ってきた。

「そうです、それを。」

柳沢先生がそう言うと、

「わかりました。」

と、浩二くんが、水穂さんの口元へ水のみを持っていき、無理やり口の中に押し込んだ。中身を飲む音がしてくれて、水穂さんは、薬を飲んでくれた事がわかる。浩二くんが水のみを抜き取ると、水穂さんはやっと咳き込むのをやめてくれた。

「大丈夫ですか?」

小宮山さんが水穂さんに言った。水穂さんは力なく頷いた。浩二くんは水穂を無理やり立たせて、布団に横にならせた。

「今日、レッスンしてくださってありがとうございました。先生、とても嬉しかったんです。」

小宮山さんは、にこやかに言った。それが水穂さんに伝わったかどうか不明であるが、とにかく小宮山さんは、それをいいたかったのだろう。

「まあ、今日のレッスンはここまでですかねえ。それでも、お前さん音が随分綺麗だったな。なんか、透明な水よりもきれいだった。でもな、清水に魚棲まずって言うだろう。それもちゃんと考えるんだぜ。ちょっとだけ悪いやつが入っていたほうが、人間らしい演奏ができるよ。」

杉ちゃんが台所からやってきてそういう事を言った。

「とりあえず、水穂さんは僕が見てるから、お前さんたちはお茶でもして、帰ったら?」

杉ちゃんに言われて浩二くんはそうですねといった。

「そうですね。せめて第2楽章の最後まで見てもらいたかったのに。まあ確かに彼には、全楽章弾くことはできないとしても、でも、第2楽章を見てもらうことはしてもらいたかったなあ。」

浩二くんは悔しそうだった。

「仕方ないじゃないですか。でも、本当にありがとうございました。こんなどうしようもない男のために、レッスンを開講してくださるとは、本当に言葉がありません。ありがとうございます。」

小宮山さんは、そう言って、杉ちゃんたちに改めて頭を下げる。

「なんか亡霊みたいに頼りない男だと思ったが、そうでもないんだね。ちゃんと電話して柳沢先生を呼び出せるんだからよ。お前さんはしっかりしてるな。亡霊みたいな顔をしているのは、なにかわけがあるからか?」

と、杉ちゃんがそう言うと、

「ええ、たしかにぼんやりした顔で頼りないってよく言われるんです。それはもう仕方ないと思います。」

と、小宮山さんはにこやかに笑った。その顔は、なんだか青白い顔というより、薄紫に近いように白い顔だった。

「口調としては、随分しっかりしているようですが。」

不意に柳沢先生が言った。

「あなた、どこかお悪いところがあるのではありませんか?例えば、幼い頃、心疾患の手術をした経験があるのでは?その顔、多分ですけど、チアノーゼと呼ばれているものでは?」

「はあ、それはどういうことなんだろう?」

と、杉ちゃんがすぐ口をはさむ。杉ちゃんという人は、誰に対してもすぐ口を突っ込む癖があった。

「ええ。子供の頃、極型ファロー四徴症の手術をしました。それが、うまくいかなくて、運動は一切ダメということになって、今の生活をしているわけですけれど。」

と、小宮山裕貴さんは言った。

「そうですか。先天的な心臓の奇形のうち、最も重度と言われてしまうもので、以前は赤ちゃんのうちに死亡してしまうと言われていました。有名な国会議員の子供さんも、それで大手術を受けましたよね。かなり危険な手術だったようですが、それと、同じことでしょう。」

柳沢先生は、冷静に言った。

「ええ、そのとおりです。だから、本来は歩けるのかもしれないですけど、でも、今は歩いては行けないって、お医者さんにも言われています。」

小宮山裕貴さんは、ちょっと恥ずかしそうに言った。

「だから、第1楽章と第3楽章を弾いてはいけないと言われたんですか。確かに、全楽章弾いたら、すごい運動量になりますからね。」

浩二くんがそう言うと、小宮山裕貴さんは、はいと小さな声で言った。

「なるほど、そういうことだったのね。歩けるのに、歩いてはいけないか。なんか、ちょっと悪賢いと取られてしまう可能性もなくはないな。そう思わんの?」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「待って!」

と、女性の声がした。誰も聞いたことのない声だったので、杉ちゃんたちはびっくりして、その女性の方を向いた。

「はあ、一体どうしたんだよ。」

杉ちゃんが、急いでそう言うと、

「きっと、彼だって、好きで歩いてはいけない生活を強いられているわけじゃないわ。だから、悪賢いなんて言わないであげてください。」

発言したのは梅木さんだった。

「ああ、そうだねえ。すまんすまん。ほんと、失礼いたしました。ごめんねえ。」

反応の良い杉ちゃんはすぐに返事を出したが、他の人は、梅木さんが発言したのは久しぶりだったので、驚きを隠せなかった。

「どうしたのよ。あたしはただ、素直な感想を言っただけよ。そんなに驚いた顔をして、何が面白いの?」

梅木さんは話を続ける。

「良かった。」

まゆ子は、思わず涙をこぼした。

「梅木さんが、やっと喋ってくれた。」

「何を言っているの、あたしは、発言したいときはちゃんと言うわよ。それくらい、当たり前じゃないの。」

梅木さんはいつもと変わらない口調でそういったのだった。まゆ子は、梅木さんに、先日の事をごめんなさいと言おうと思ったが、梅木さんの笑顔を見て、それは言わないで置こうと思った。

「じゃあ、お茶でも飲んでくれや。せっかくレッスンに来てくれたんだし、なんかこんな形で終わっちまうのも嫌だからさ。」

と、杉ちゃんに言われて、全員食堂の椅子に座った。このとき何故か、梅木さんが、小宮山さんの車椅子に手をかけた。小宮山さんは、自分で動かしますといったのだが、この建物になれていなからと言って、梅木さんは彼の車椅子を押した。

梅木さんは、小宮山さんの隣りに座った。そして、手早く出されたクッキーを、小宮山さんの前へ差し出した。

「しかし、お前さん、音大本当に行ってなかったの?なんか演奏を聞いてたら、音大生でもあんな美しい音は出せないぞ。なにかわけがあるんだろう。」

杉ちゃんに言われて小宮山さんは、

「いやあ、そんなきれいなものじゃないですよ。ただ力が出ないので、そう見えただけじゃないですか。演奏技術だって、大したことありませんよ。」

というのだった。

「馬鹿に謙虚すぎる男だな。男なら、もうちょっと自分に自信を持って、こうだぜって主張してもいいはずなんだがなあ。本当にお前さんは、何もなかったわけ?違うだろ?誰か有名な先生にでも習っていたんじゃないの?一人でピアノというのは絶対ムリな話だぜ?」

杉ちゃんがそう言うと浩二くんが、

「いいじゃないですか。彼にはそれだけ演奏技術があって感性も良かったということですよ。大体、音大にいかなくたって、すごい演奏をするピアニストもいるでしょう?」

と、話をそらせようとするが、杉ちゃんという人はこういうところで黙ってはいなかった。

「いや、それは外国の話。日本では誰か有名な先生に師事して、拾ってもらわないと前に進められない。それに、クラシック音楽は自主的に勉強するだけでは、ありえない分野だし。なあ、誰か有名な先生についたんだろ?それとも、音大を出たのを隠してる?それともなにかあって、音大の先生から破門でもされたか?」

浩二くんは杉ちゃんを止めようとしたが、小宮山さんは、

「ええ、破門されたんだと思います。」

と小さな声で答えた。

「確かに、音大の先生にも習ってました。でもあまりにも出来が悪い生徒だったんで、追い出されてしまっただけなんです。」

「はあ、それはどこの誰なんだよ。そもそも、出来が悪い生徒があんなきれいな音を出すとは思えないぞ。多分芸大の先生とか、そういう人に習っていたが、期待に答えられず捨てられてしまった。違うか?」

杉ちゃんに言われて、小宮山さんはとても恥ずかしそうな顔をした。

「何も恥ずかしがることじゃないわ。」

梅木さんはそう彼に言った。

「それは、あなたを、期待どおりに動かないから、もう捨ててしまえと思った先生が悪いのよ。あなたが悪いわけじゃないわ。」

「うん、梅木さん鋭い。それはそのとおり。」

杉ちゃんが、クッキーを食べながらそういう事を言った。

「ほら、そう言っているんだから、大丈夫よ。これからも安心して水穂さんのところに習いに来てね。」

梅木さんはにこやかに言って、クッキーを、小宮山さんに渡した。小宮山さんは、ありがとうございますと言って受け取った。


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