第五章 異様な光景
まゆ子たちが、製鉄所へ写経会を始めて、数ヶ月がたった。あっという間に季節は春から夏に変わった。いつでも冷房が必要になり、毎日至るところで暑い暑いという言葉が聞かれるようになった。どこかで花火大会とか、そういうイベントが起きても良い季節になった。
相変わらずまゆ子たちは、製鉄所で定期的に写経会を開催していたが、その利用している三人の女性たちに変化が見られるようになった。
まず、羽生さんが一週間に一度ではあるが、学校に通うようになった。彼女は勉強がとても遅れており、小学生くらいの勉強からしなければならなかったが、学校の先生が嫌がらずに教えてくれることや、成績で差別することは無いため、この学校、市川学園に通ってくれるようになっていた。もちろん、人間関係など悩みも多いが、スクールカウンセラーの先生や、保健の先生もおり、自分を支えてくれるとのべた。そういう穏やかになってくれた彼女を見て、前向きに通うようになってくれたとまゆ子は嬉しくなった。
次に、高本さんが、犬服教室に通い始めた。あの吉兵衛くんの服を作るようになって、本格的に犬の洋服を作ってみたいと思うようになってくれた彼女は、杉ちゃんの紹介もあり、犬服教室に通い始めたのだ。ミシンを買いたいと、ご主人を説得したときは、ご主人はとても喜んだという。ということは、なにかしたいといい出してくれるのを待っていたのだろうと、高本さんは初めて気がついたと言っていた。いずれは犬用のセーターを作ってみたいと彼女は言っていた。
二人の女性たちは、そうやって通う場を見つけていた。そうやって学校に通ったり、犬用の洋服を作り始めた二人は、ふさぎ込むこともなく、実にいきいきとして、少し見ただけでは病気とは感じさせない表情に変わっていった。製鉄所での写経会では、時々女性たちが楽しそうに笑っている声が聞こえるようになり、杉ちゃもジョチさんも安心してみていられるようになった。
そんな中、梅木さんだけが、自分の居場所を見つけられないでいた。まずはじめに彼女は、まゆ子を始めとして、他の女性の話をきこうとしなかった。まゆ子は女性たちに、仏様の話を聞かせて、前向きになれるように呼びかけるが、梅木さんは、その話を自分は他の人と、違うのだという理由で、聞こうとしないのだ。その理由を教えろと言えば、それは話しては行けないという。
それなのに、梅木さんは、まゆ子が主催する写経会にはやってくるのだった。一度も欠席したことはない。それもまた矛盾があるのではないかと杉ちゃんは思うのであるが、なんだかまゆ子も、他の女性たちも、梅木さんのことは、放置しているようであった。
その日も写経会が行われていたのであるが、梅木さんは、やはり写経をしているときも、手を止めて、天井などを眺めている時もあり、まゆ子が説法するときも、梅木さんは、嫌そうな顔をしているのだった。その日などは、他の女性が真剣に話を聞いているのにも関わらず、梅木さんは、イヤホンで繋いでいたけれど、スマートフォンを眺めていた。
「おいおい、お前さんさ。」
と、杉ちゃんは集会が終わったあと、梅木さんに言った。
「ちゃんと、まゆ子さんがお話をしているのだから、お前さんも聞かなければだめなんじゃないか?」
「ええ、でも私の家は、まゆ子さんとも、他の信徒の方々とも違うから。」
梅木さんはイヤホンをとらないまま言った。
「でもさあ、そういう事は、気にしないで話を聞くっていうことも必要だと思うけど?」
杉ちゃんが言うと、
「そうかしら。私は、何をしたって、他の信徒の方とは違うのよ。だから、話を聞いても無駄なの。でも、私は居場所が無いから、こうするしか無いの。」
梅木さんは、そういう事を言った。それは本当に梅木さんが喋っているのか、別の人が喋っているのか、わからない言い方だった。
「他の信徒の方とは違うといいましたね。」
と、ジョチさんが、梅木さんに言った。
「それはどういう違いなのか、できれば話してもらえませんか?」
「だめ!それを話したら、私は、殺されるわ!そんな事したら私、家に入れてもらえなくなる。そうしなければ私は生きていけない。死ぬしか無い!」
手のひらを返したように、梅木さんは言った。その言い方が、ものすごい恐怖に怯えているような言い方だった。本人が、本当に喋っているのか、どうなのか、よくわからないが、まゆ子も、他の女性たちも、こうなってしまうのを恐れているようだった。こうなってしまったら、私達には止められないという顔をしている。
「わかりました。でも、その事実は、話してもらわないといけません。それはある意味では洗脳と同じことかもしれない。そこから、開放されなければいけないんです。」
ジョチさんが急いでそう言うと、
「だめ!喋ってはいけないの!私を愛してくれるのは家族だけだから、それを話してはいけないの!それはいけないの!だからお願いここまでにしてください!」
梅木さんは、頭を床に何度も打ち付けるような仕草をして、そういうのだった。ジョチさんが急いで、スマートフォンをダイヤルし、パニックになっている患者がいるので来てくれないかとお願いした。梅木さんは、それをむしり取ろうとジョチさんに飛びかかったが、まゆ子がそれを抑えたため、成功しなかった。それから数分して、タクシーが製鉄所の玄関前に止まった。影浦先生が到着したのだ。
「医者を呼んだんですか!そんな事したら、家族がだめになります!どうか医者は呼ばないでください!そんな事したら、私が生活できなくなります!」
梅木さんはそう叫ぶが、まゆ子も、高本さんも、羽生さんも一生懸命梅木さんを押さえた。体の大きな人なので、梅木さんを抑えるのは難しかった。でも、三人は一生懸命彼女を押さえた。影浦が、急いで梅木さんの腕に安定剤を注射してくれたことによって、三人はやっと、梅木さんから離れることができた。
「梅木さん、正直に答えてください。あなたのご家族の間で何があったんです?人の話を聞かないほど、いけないことがあったのでしょうか?」
影浦がそう言うと、梅木さんは何も返事をしなかった。多分、薬の影響で眠ってしまったのだろう。水穂さんが、梅木さんの体に、タオルケットを掛けてくれた。
「しばらく眠ると思いますから、それが終わったら、自宅へかえってあげてください。一人で帰らせると、彼女は自殺を図る可能性もありますので、誰かが側についてあげてください。」
影浦がそう言うとジョチさんが、
「わかりました。では、小薗さんを呼びましょう。」
というと、
「待ってください。私達も一緒にいかせてください!」
と、いきなりまゆ子が言った。
「どうしてなのでしょうか?」
ジョチさんがそう言うと、
「私達も、彼女の住んでいるところを見てみたいんです。実は、梅木さん、これまでも、自宅の事を話してくれたんですが、それが合致した試しがないのです。すごく大きな家に住んでいるとか、アパートに住んでいるとか、いつも話すことはめちゃくちゃで。それなら、良い機会ですから、自分で確かめたほうが良いと思いまして。」
と、まゆ子が勇気を出して発言した。
「そうなんですか?」
ジョチさんがそう言うと、
「ええ、いつもそうでした。」
まゆ子はしっかり話した。
「わかりました、それでは、そうしたほうがいいですね。それなら、お二人さんで、彼女を自宅まで送り届けてください。」
「はい!」
ジョチさんに言われて、まゆ子はしっかり頷いた。
「大丈夫です。私一人で帰れます。このまま一人で帰してくれませんか?」
梅木さんは、そういうまゆ子を止めようとするが、
「いやあ、ここまで悪化している人を、一人で帰らせるというのはちょっと。道中でなにかあるかもしれないですし。小薗さん車を出させますから、乗って帰ってください。ついたら、僕らに電話をください。」
ジョチさんは彼女を制するように言った。
「そんな事。」
梅木さんは抑えられているのを振りほどこうとするが、影浦から打たれた注射薬のせいで、動きが鈍くなっており、それはできなかった。それと同時に、小薗さんが、車を持ってきたとジョチさんに伝えた。ジョチさんは梅木さんを、彼女の住んでいるところまで運んでくださいと言った。小薗さんはわかりましたと梅木さんに言って、彼女の手を引いて車に乗せた。梅木さんはごめんなさいといい、もうダメだという表情で、車に乗った。まゆ子は私も乗っていいですかと小薗さんに聞くと、いいですよと言ってくれたので、まゆ子は車に乗った。
そのまま、梅木さんは、右に曲がってとか、左に曲がってなど指示を出した。その指示通りに小薗さんの車は動いた。まゆ子は、梅木さんの住んでいるところは高級住宅地と聞いていたのであるが、そことはえらく違う光景が続いているのに驚いた。
やがて、梅木さんは、ある一軒の家の前で止まってくれと言った。確かにどこにでもありそうな、マッチ箱を2つ重ねたような一軒家だった。でも、花壇のようなものもなく、玄関に飾り物もなかった。家の前には猫の額くらいの小さな畑があった。それでまゆ子は、梅木さんが、よく野菜を持ってきてくれたのは、ここからだったのかとわかった。そして小薗さんが車を止めて、後部座席のドアを開けると、まゆ子は、梅木さんをなだめながら車をおりた。
「ありがとうございました。もうここで大丈夫ですから。」
梅木さんはそう言うが、まゆ子は玄関へ入ると申し出た。フラフラと玄関を入っていく梅木さんを、まゆ子は目が離せなかった。
「ただいま。」
呂律が回らないで、帰りの挨拶をする梅木さん。普通に帰ってきたのであれば、おかえりという言葉が帰ってくるだろう。しかし聞こえてきたのは、
「いつまでそういう事を繰り返すつもりなんだ!」
と怒鳴る老人の声であった。他の家族がいるのなら、彼を止めるはずだと思ったが、それは一切なかった。
「お前はお父さんやお母さんにいつまでも働かせて、一人で好きなことをやっているようであるが、そうはいかないぞ、いつまでそういう事をしているつもりなんだ!」
そう怒鳴りながら、玄関にやってきた老人は、もう80代から90代かもしれないくらい年を取っていたけれど、Tシャツとジャージだけの簡素な姿で、おしゃれなどとは程遠い格好であった。
「お母さんは?」
梅木さんがこわごわ質問しても老人は答えなかった。
「お母さんは!」
梅木さんは、ちょっと語勢を強くしてそう言ったが、老人は答えない。その代わり、梅木さんに向かってこう怒鳴りつけるのだった。
「いつまでそういう事を繰り返すつもりだ。金が無いのに、勝手に遊びにいきやがって、それでもお前は大人か!」
「ちょっと待ってください!」
まゆ子は思わずその老人に言った。
「梅木さんの質問には答えないで、ご自分の話を繰り返すというのはなんとも不公平ではありませんか!」
ところが老人はまゆ子の話を碌に聞かず、こういうのだった。
「全く、わしが金を出してやって、三人生活させてやっているのに、お前と来たら何も返さないで食べるだけで何もしない。そんなやつは生きている資格なんかない!わしが若い頃は食べることに必死で、いろんな事を足を棒にしてやって、それでやっと食べられたんだ。それなのに、お前は何も働かないで、食べるだけで何もしないのは、言語道断だ!死んでしまえ!」
「ちょっとまってください。実のお孫さんに対してそういう事をいうのですか?だって、梅木さんは、心が病んでいるんです。それでは、仕事もできないし、外出だってままならなくなることだってあります。それなのに、そのような事を言うなんて、梅木さんが可哀想だとは思わないんですか!」
まゆ子は、この老人は老人性難聴がひどいのかなと思いながら、できるだけ大きな声でそういったのであるが、老人は答えなかった。多分、聞こえていないのではなく、聞こうとしないのだ。その証拠に、聞こうという気持ちがあるんだったら、補聴器をつけるとか、そういうことをするはずだが、この老人はそれがついていなかった。
「今は、昔の、戦争の時代とは違います。だから悩みも当然違うんです。確かに戦争を体験した方からすれば、梅木さんは大したことで悩んではいないのかもしれません。ですが、もう人生の先輩なんですから、梅木さんの悩みを否定してやるのではなく、困難さを生きてきたのであれば、梅木さんに生き方のヒントをあげてやるとか、そういうふうにしてあげるべきなんじゃないですか!それを死んでしまえだなんて、人を否定してしまわないでください!」
まゆ子が、一生懸命そう言っても、老人は何も変わらなかった。もしかしたら、福祉関係者とか、そういう人からすでにそういう事を言われている可能性もあったのかもしれないが、とにかく、自分の意見が通らないので、怒っているのだろう。
「何か言ったらどうなんですか。無視していれば誰でも言うことは聞いてくれるなんて、そんな事、今の時代は通じませんよ。それなのに、まゆ子さんに、働かないで食べるのは言語道断というのであれば、あなたも人の話を聞かないで、自分の意見を押し付けるというのはやめたほうがいいと思います!」
「まゆ子さん、もう結構ですよ。こんな同しようもない女性のために、祖父を説得してくれるなんて、夢のようです。やっぱり私が悪いんです。私が、いけないんですよ。」
梅木さんはそう言うが、まゆ子は、梅木さんの家の中を覗いてみることにした。なんとなく家の中が臭いというか、匂いが充満しているようであったからである。それにたいして、例えば芳香剤を入れるとか、お香を炊くとかそういう対策を取ればいいのではないかと思うのであるが、そのような事は一切していなかった。まゆ子は、ふと近くにあった、蛍光灯のスイッチに目をやると、蛍光灯のスイッチは稼働できる状態になっていたが、その下の、換気扇のスイッチは、ガムテープが貼られていて、動かせないようになっていた。他のスイッチに目をやると、ほかも同様になっている。また、エアコンは設置されているのであるが、電源コードが抜かれており、テレビは主電源が切られていた。
「どうして、こんなに徹底的に電源を切られているのですか?」
まゆ子は、梅木さんの家にある、「異様な光景」を見てびっくりしたのを隠せない表情で、梅木さんに聞いてみる。
「あの、どなたか答えてください!」
まゆ子がもう一度言っても、老人は答えずに勝手にしろという表情で、居間へ戻っていってしまった。まゆ子はちょっと!と言ったけれど、やはり聞こうとしなかった。
「祖父です。」
梅木さんがそういった。
「いつも、この家はお金が無いから、節約しなければだめだと言って、ああして電源を切ってしまうんです。いくら、大した電力ではないとみんなが言ってもだめです。家族がいくらそう言っても、必ず電源を切ってしまう。他にも色々ありますよ、長時間お風呂を沸かすことだってできないし、トイレの電気だって、用を足してる最中でも切られてしまうし。食べ物だって、ここにある畑でとった野菜しか食べてはいけないし、スーパーマーケットで買ってきた野菜を出したり、季節に合わない野菜を出すと、怒鳴られるんです!洋食も中華も、塩分が高いからと言って作ってはいけない。マクドナルドやロッテリアは買ってきてはいけない。寿司も、ピザも、贅沢すぎるからって出前してはいけない!着るものは、おしゃれな格好も贅沢はするなっていって怒鳴られますし、自分のために習い事をしたいと言っても、家族のために働くのが先だって怒鳴られるし!旅行だって、わしをおいて遊びに行くなって怒鳴られるから、いけないし!もうできないことだらけですよ!自分の意思で行動するなんて絶対できません!」
「そうなんですね、、、。」
まゆ子は、梅木さんがさらされている恐怖とは、これだったのかとやっとわかったような気持ちになって、それだけ言った。
「梅木さんは、自分の身を守るために、家を出ることはしないのですか?」
まゆ子が梅木さんに言うと、
「そんな資金、どこにもありません。お金はすべて祖父が免出してるんです!」
梅木さんは泣き泣き言った。
「でも、お母様や、お父様がいらっしゃいますよね?」
まゆ子が言うと、
「そうであっても、祖父に取られてしまうから。この家のお金は、みんな祖父が持ってるんです。母や父は仕事してるけど、祖父の年金ほどでは無いですし。それは私のせいだから。私が、治療を受けなければ行けないせいで、父も母も長時間働けないっていう弱みを祖父が握ってる。だから、誰も逆らえないんですよ。誰かに相談しようにも、ただ、一緒にいいのでは無いかしか言われたことがなくて、もう他人に相談しても無駄だし、家で話し合うこと聞こうとする人ではないから、できない。もう、こういう生活をずっと続けていくしか無いんです。それしか無いんです!それが嫌だと言うのなら、私は死ぬしかありません。こんな生活がずっと続くのなら、もう時間なんていらないから、普通に換気扇をつけて、外で買ってきた野菜を食べられる生活がしたい!」
梅木さんは、涙をこぼして泣き始めた。
「わかりました。わかりましたよ、梅木さん。」
梅木さんの主症状である、解離性障害は、自分がここにいるという意識を無理やり消そうとするが、それができないがために症状が出てしまうという病態だとまゆ子は、本で読んだことがあった。まゆ子は、梅木さんがこのような生活を強いられているのであれば、自分がこの家にいるのではなく、別人がこの家にいると思わなければならないと思わなければならなかったのも、やむを得ないなと思った。
「これからも、ルピナスの会にいらしてください。きっとメンバーさんたちは、あなたを待っていると思います。」
梅木さんに必要な事は、これだと思った。
同時に、まゆ子のスマートフォンがなった。ジョチさんが、無事に梅木さんが自宅へ帰ったのかどうか、心配で電話をかけてきたのだ。
「大丈夫です。梅木さんは無事に家に帰りました。ただ、自宅は、最も安心していられる場所だと思いますが、彼女にはそれがありませんでした。」
まゆ子は、ジョチさんにそう報告したのであった。
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