第四章 学校へ行こう
その日は雨が降っていて、寒い日であった。寒暖差が大きいというか、なんというか、おかしな気候になってきている。暑いときは真夏のような暑さになってしまうし、雨が降れば寒くて仕方ないと訴える人が続出してしまうくらいだ。そうなると、体がおかしくなると訴える人も居るが、それだけでは無いのかもしれない。
その日も、製鉄所ではルピナスの会が行われていた。その日も写経から始まって、メンバーさんたちが思い思いに話してもらう。その日は、自分の事を少しづつ語るということが行われていた。これをできるには、きちんと自分の事を笑って話せる人でないとできないので、慎重にやる必要があるのだが。
「それでは、今日はえーと、自分の良かったところを話してもらいましょうか。難しいところですけど、ちょっとこうだなと思えるところでいいです。それでは、お話ください。まず、高本さんから。」
まゆ子が、高本さんにそう合図すると、高本さんは、
「自分の良いところですか。何も思いつかないけど、強いて言えば裁縫ができることですかね。裁縫してるとね、何もかも忘れられるんですよ。こないだも、あのペルー何とかっていうワンちゃんのお洋服を作らせてもらったんですけど、そのときはすごく気分が良くて、本当に楽しかったです。でも、私は、好きなことがやれるような身分なのかなって言うとそうでもないですしね。そんな事、私にできることじゃないですよね。」
と、にこやかに笑っていった。
「それはどうしてそう思うの?」
と、まゆ子が聞くと、
「だって私は、そんな好きなことやる前に、まずはじめに親をなんとかしなければとか、そういう問題があるんですよ。親と言っても、主人の両親ですけど、もう父のほうが、足が弱ってきてるし、主人も帰り遅いから、私がするしか無いでしょう。だから、そういう好きなことをして、どうのということじゃないんですよ。」
と、高本さんは言った。
「そういうことなら、施設で世話してもらうとか、そういう事は考えられないの?」
まゆ子がそうきくと、
「いいえ、住み慣れたこの家で死にたいって言うから、そういうふうにしてあげたらいいかなと思っているんです。私だって、そういう望みはかなわないと思うから、それでは、夫の両親には、ちゃんと望みを叶えてもらいたい。それは、私ができないからそう思っているのでしょうか?」
と高本さんは言った。
「私も、いつかは高齢者になると思いますが、そういう望みはかなわないと思います。それだから、義理の父や母には、夢を叶えさせてやりたいと思います。」
そうやって笑う高本さんは、もう自分の人生は変えられないという顔をしていた。もう自分は、この家で静かに生きていくしか無いんだと、彼女の目はそう語っていた。多分、脱出したいと思うのであるが、それはできないんだと言うことも知っているのだろう。それくらい、彼女にとっては辛い生活なのかもしれなかった。
「そうなのねえ。高本さんって優しいのねえ。自分にはかなわない望みをご主人のご両親には叶えさせてやりたいなんて。そんな事、私だったら絶対に許せない。そういう気持ちには私はなれないなあ。」
梅木さんがそう言うと、いきなり、ギャーッと叫び超えがして、梅木さんの話は止まった。羽生さんは、自分の顔をギャッーと叫びながら、自分の手で殴りつけた。そして、彼女の右手の爪は割れて、爪からは血が出た。それでも、羽生さんは、叫びながら自分の顔を殴り続けるのだった。残りの三人の女性たちでは止めようがなかった。そのとき、偶然製鉄所に来訪していた、力自慢で有名な榊原市子が、食堂に飛び込んできて、彼女を押さえつけることに成功して、彼女の自分への暴力は止まった。
「どうしたんです?何があったのか、話してもらえますか?」
ジョチさんが食堂に入ってきて、市子に抑えられている羽生さんに言った。羽生さんは、なんだか狂ったゼンマイのような声で、
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。」
と、涙をこぼして言うのであった。
「そうじゃなくて、なにがあって、自傷に至ったのか、その理由を話して貰えないでしょうか?」
ジョチさんがもう一回聞いたが、
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。」
羽生さんはそういうのだった。もしかしたら、それしか言葉が思いつかないのかもしれなかった。
「もしかしたら、なにか急激に感情が湧いてしまったのかもしれませんね。あるいは、疲れが溜まって、もう限界だったとか、そういうことでしょうか。」
水穂さんがそう言うと、羽生さんは、水穂さんの事を見た。
「これは僕の推測ですが、多分、結構疲れを感じていたのでは?」
「いえ、そんな事はありません!」
水穂さんに問いかけられて、羽生さんはすぐ言った。
「それは思ってはいけないことだから、疲れたとしても思ってはいけないんです。口に出して言っても行けない。」
「それはどうしてなんでしょうね?」
水穂さんは、羽生さんにそう聞いた。それは興味本位で聞いているような言い方でもないし、変に同情するような言い方でもなかった。
「どうして、疲れたと口に出していっては行けないのでしょうか?」
水穂さんがそうきくと、
「身分が低いからです!」
と彼女は答えた。
「身分が低い。それはどういうことなんだろうね。今の時代は、法のもとに平等だと憲法で保証されているはずだけどね。」
杉ちゃんがそう言うと、
「いえ、そんな事は絶対にありません。身分が高い人と低い人は必ずいます。そして、身分が低い人は愛されることもいけないのです。」
彼女はすぐに答える。
「はあ、そうなんだね。身分が低い高いの基準は誰がどうやって決めたんだろうね?」
杉ちゃんという人は、すぐに人の話に入ってくるくせがあった。そういうふうにしてしまうのも、杉ちゃんの悪癖でもあるが、それがこういうときには長所なのかもしれなかった。
「誰のせいじゃありません。世界がそう言っているのです。テレビの中継だって、みんなそう言うじゃないですか。家族も、学校の先生も、皆身分が高くなることを目指して、一生懸命やる気を出させようとするけれど、私はそれができなかった。だから、もう幸せになることもできないですよね。だって、身分が低い人が、社会に出たら、犯罪者になるって、学校の先生が言ってましたもの。私は、そういうわけだから、身分の高い人には逆らえないのです。それだから、身分の高い人に不平は言えないんです。」
「学校の先生がそう言ってたんですか?」
と、水穂さんは聞いた。
「その身分の高い低いはどうして決まるんですか?」
水穂さんがそうきくと、
「ええ、成績が良い悪いで決まるんです。学校のテストで何点取ったかで決まるんです。それでどこの高校に行くかで身分の高い低いが決まるんです。身分の低い人はつかれたとか表現すると、みんな同じだって言われて、行ってはいけないようにされるけれど、身分の高くて成績のいい人は、いくらでもそういうことが言えて、保健室に連れて行ってもらうことだってできるんですよ。だから、身分が低い人は、何も言うことができないんです。学校で幸せになれるのは、勉強ができて運動もできる人だけです。そういう人しか、幸せな人生って用意されてないんですよね。そういう人は、学校の先生からも優しくしてもらえて、親御さんからも自慢の子だって言われて、やりたいこともできて、学校でも家庭でも幸せになれるんですけど、成績の悪い人は、いくら頑張っても、いくら努力しても、死ねと言われるだけです。」
羽生さんは言った。多分、こういう症状とも取れる言葉に嘘は無いと思う。ましてや、彼女は、人を騙しているようなそういう事をしているのであれば、もっと計算高い表現を使うはずだ。そういうしっかりした文体を作り出すことができないのなら、それはより真実に近いものと思われる。
「そうですね。でも、その様な教育制度で苦しんでいるのはあなただけではありません。以前、自殺してしまった生徒さんで、やはり教師が成績順で妙なあだ名をつけることにより、差別的に扱われてしまった生徒さんがいたそうです。確かに、そうやって成績で何でも決めてしまうことは良い教育とは言えませんね。本当なら、人間を差別しないで、平等に扱うべきなんですがね。」
と、ジョチさんが羽生さんに言った。
「確かにそうだと思います。だけど、みんな私が悪いんです。私が、そういう学校に行くと言ってしまわなければよかったんです。それは、自分の責任だから、もっと学校の情報を集めなかった自分の責任だから、もうどうしようもないんです。だから私は、死ぬしか無いんです。」
そうなるとまた別問題であるが、羽生さんは涙をこぼしながら言った。
「今日のことだって私も理由がわかりません。ただ、急に怖くなって、叫んでしまっただけで。理論的に考えれば、自分には関係ない話だってわかるじゃないですか。だけど私はそれができなかった。だから、もうだめですよね。死ぬしか無いですよね。私の人生は、おしまいですよね。」
「そうですね。御本人はそう思っていらっしゃるのでしょうが、客観的に見るとそうでないのかもしれないです。当事者はそう考えてしまうんでしょうけど、それは別のやり方で解決できる可能性もありますよ。」
ジョチさんがそう言うと、
「もうそんなもの無いじゃないですか。もうこんなに時間も経ってしまったんだし、今更やり直せない。みんな私が悪い。私が、身分が低かったから、そういうところしかできなかったんです。」
羽生さんは、そういうのだった。杉ちゃんたちは、それだけ彼女のつらい思いは強いのかという顔で彼女を見た。
「うーんそうだねえ。もし、悪い教育機関しか行けなかったのなら、もう一回教育を受け直すっていうのはどうだ?」
杉ちゃんがでかい声で言った。
「それしか、方法も無いと思うよ。最近は、通信制とか、そういうものもあるんだし、そういうところに行って、教育を受け直してだな。今度は成績で人種差別をしない先生に、ちゃんと見てもらうことじゃないのかな。それだけ傷ついているんだったら、そうするしか無いだろう。もしさ、時間あったら、そういう事情があるやつが行くような学校を探してだなあ。それでちょっと覗いてみたら?」
「そういうところ、本当にあるのでしょうか。家族からは、そんなところ、もう二度と無い、いい加減に諦めろって、そう言われました。その先生の事は忘れろとも言われましたけど、どうやって忘れたら良いのやら。さっぱり見当がつかなくて、それでよく衝突して、怒鳴り合ってたこともあります。」
杉ちゃんの話に、羽生さんはすぐ言うのであるが、
「いえ、たしかに杉ちゃんの言うとおりだと僕も思います。躓いたものは、同じものにもう一度触れたら解決できたっていう事例はよくあることです。」
とジョチさんも言った。
「偉い人はそういうわ。でも私はもうそういう事はできないし、第一時間もお金も学歴も無いんですよ。」
羽生さんは、そう反論するが、
「無きゃ作るしか無いだろう。そういう物は、意外と作れるもんだよ。確か、この近くにもあったよねえ。望月とか、市川とかさあ。なかったっけ?」
杉ちゃんがいきなり明るく言った。
「そうですね。望月はやや遠いので、市川のほうが近いのではないでしょうか。それに、バスも止まると思います。それに、市川の先生は、大変情け深くいい先生が多いと、聞いたことがありました。それはここを利用している利用者さんから聞きました。」
水穂さんがすぐに杉ちゃんの話に合わせた。
「それは誰ですか?きっと、どうせ曖昧なことでしょう?具体的に誰なのか、そういう話はありませんよね。それは家族も同じことしましたけど、私をなだめるためのただの手段でしょう。どうせ、私がパニックになったときだけ、ただ、私が叫ぶのを止めたくてそういう甘いセリフを言うだけで、実際は、私の事を消えてほしいと思っているんです。それはもう、何回も経験したから、わかることです。」
「そうなら、市川学園に行った人に話を聞いてみますか?」
ジョチさんがいきなりスマートフォンを出していった。
「確か、以前ここを利用していた方で、市川学園に行った人がいましたから。」
「そんな事、できるんですか?」
羽生さんがそう言うと、
「ええ、利用者さんの中に一人いましたよ。彼女も、同じことを言っていましたから、あなたの質問にも答えてくれるでしょう。」
水穂さんが優しく言った。
「それにさあ、人間できることといえば、同じことを繰り返すしか無いんだよな。それはもうしょうがないことだけど、でも、同じことを繰り返せるってのは、いいことなのかもしれないぜ。」
杉ちゃんに言われて、羽生さんはそうですかという顔をした。
「嘘だと思うんだったら、市川学園を見学されたらいかがですか?」
ジョチさんに言われて、羽生さんは少し考えて、
「そうですね。学校なんてどこもおんなじだと思うけど、せっかくのお誘いですし行ってみます。」
と、小さな声でこたえた。
「それなら早速、市川学園に電話してみます。」
ジョチさんはすぐに電話をかけ始めた。話はどんどん決まってしまい、市川学園を見学することになった。
翌日、杉ちゃんとジョチさんは、富士駅に行った。羽生さんは、まゆ子と一緒に富士駅に来た。とても緊張している様子であったが、杉ちゃんなんかは平気な顔をして口笛を吹いていた。障害者用のタクシーを借りて、市川学園まで乗せていってもらう。タクシーで、15分くらいのところにあるという。
その市川学園は、たしかに学校と言う感じで大きな建物だった。でも、他の学校と違い殺風景なところはどこにもなく、校舎の入り口には広い庭があり、たくさんバラが植えられていた。それに、鯉が何匹かいる、池もあった。
ジョチさんが、学校を見学させてもらいたいのだがと受付の人にいうと、受付は、ハイわかりましたと言って、こちらへどうぞといって中へ入らせてくれた。しばらくすると、年配の男性が現れて、
「ようこそ市川学園にいらっしゃいました。校長の市川と申します。それでは、早速、本学の授業をご覧になってください。どうぞこちらにいらしてください。」
と、優しそうに言った。なんでも、校長先生の言うことには、部屋はあっても、一クラスに数人しか生徒は来ないで、中には教師が生徒のお宅を訪問して授業を行うこともあるという。対人恐怖症などがひどい生徒さんなどがそれに当たる。以前には、がんセンターなどに入院していて、それでも勉強したいからと言うことで、がんセンターで授業をおこなったケースもあったという。
「私、中学校を出ただけで、何もできていないんですけど、それでも学べるのでしょうか?」
羽生さんがそうきくと、
「大丈夫ですよ。ひらがなもかけなかった生徒さんもいましたから、基礎から勉強したいという方もいらっしゃいます。」
と、校長先生は言った。
「そうなんですか。この学校には、志望校のこととか、試験の成績などが貼り出されていないのはなぜですか?」
確かに、偏差値がどうのとか、試験の順位表などは一切貼り出されていなかった。
「それはね、試験のことで、傷ついている生徒さんが大勢こちらに来ているからですよ。そのようなことで、自殺を図ってしまって、こちらでもう一回やり直したいと言って来てくれた生徒さんがいました。それはとても嬉しかったから、試験の事は、気にしないで来てほしいんですよ。」
そういって、校長先生は教室のドアを開けた。中には、生徒さんが4人と、先生が一人で、授業をしているのであるが、先生が一方的に授業を進めていくという雰囲気ではない。中には、変な答えを出してしまう生徒さんもいる。校長先生は、その人を、発達障害のようなもので、感覚がずれているのだと説明した。その人が、ちゃんと理解を示すまで、先生はしっかり説明する。他の生徒さんも、その人がそうなってしまうということはわかっているのだろう。変に急かすこともなく、先生の話を聞いている。そのため授業の進み方はものすごくゆっくりなのだが、それも気にしている生徒はいないようだ。羽生さんが、受験を目指している生徒はいないのかと校長先生に聞くと、そういう生徒さんはまた別のクラスで学ばせていると答えた。そういうクラスであっても、必勝とか、気合を入れるための貼り紙は一切していないとも答えた。
「受験で、良い学校に行くことだけが全てでは無いのです。大事なのは、人間を信じてもらうこと。私達は、それを生徒さんに取り戻してもらうことで、生徒さんの立ち直りを目指しているのです。」
そういう校長先生は、ずっとにこやかなかおをしていた。教室で勉強している生徒さんも、そこで教えている先生も皆楽しそうだった。そんな学校が、本当にあったなんて、と羽生さんは泣き出してしまった。
「ほら見ろ。ここでもう一度教育を受け直してもらったらどうだ。きっと、前の学校のように、変な事を仕込むことは無いぜ。」
杉ちゃんに言われて、羽生さんは、涙で返事ができなかったのだろうか。でも、首を縦に振ってくれた。
「ゆっくり考えてくれて結構ですよ。ここでは、怖い生徒も先生もいないし、いじめもありません。だから、安心してこちらに来てください。」
校長先生に言われて、羽生さんは今まで溜め込んできたものが溢れ出てしまったのだろう。更に声を出して泣いてしまった。でも、校長先生も、杉ちゃんもジョチさんも、彼女を止めなかった。授業をしていた生徒さんたちも、優しそうな先生も、何も文句も言わなかった。多分、みんなそれを経験しているから、彼女を責めるようなことはしないと思ったのだろう。彼女がいつまでも泣いているのを、皆誰も文句も言わないで、見つめてくれているのが、理想の優しさと言うべきなのかもしれなかった。
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