第三章 お行儀のいいお客様
その日、ジョチさんが用事を終えて戻ってくると、もうルピナスの会は終了していて、会員さんたちもまゆ子も帰っていったあとだった。会員さんたちは、皆車の運転ができないので、まゆ子が呼び出したタクシーで帰っていったと、杉ちゃんは言った。
「遅くなって失礼しました。審議官ときたら、久しぶりだからといって、寄り道したがるものですから。」
と、ジョチさんは、ちょっと疲れた顔で言った。
「それで、まゆ子さんの会は無事に挙行できたのでしょうか?」
ジョチさんが聞くと、
「ああ、結構重症な人が多かったよね。病名はちょっと忘れてしまったけど、なんか、可哀想な人達だなと思った。」
と、杉ちゃんが答えた。
「重症ですか。それでは、なにかわけがあるというか、そういう女性たちだったのでしょうか?」
「ええ。明らかに精神疾患だとわかる症状がある方々です。」
水穂さんが、ジョチさんに言った。
「しかも中には、住んでいるところがきっと不幸なところなのでしょう。それに自ら幕引きをし、虚構の世界の方へ自分を置くことで、自分を保ってきたという女性もいらっしゃいました。そういう女性は、非常に悲しいですよね。きっと彼女に誰も手を差し伸べることはなく、居場所をなくした女性だったのでしょう。そうしていくしか、彼女は生きる手段が無いと、自分でそう言っています。どんな家族構成なのかは、聞き出すことができませんでしたが、おそらく、なにか不幸なところがあるんだと思います。」
「そうですか。それは、もしかしたら、有名な書籍などでも言及されている症状なのかもしれませんね。中には映画化もされている症状でしょう。映画などですと、割と誇張して描くことが多いので、視聴者に恐怖を与えるようになっていますが、身近な解離性障害の症状では、そういうこともあります。それで、その女性たちは、なにか治療を受けているというような感じだったのでしょうか?」
ジョチさんが改めて聞くと、
「いや、そんな感じではなさそうだったぞ。ただお写経で心を落ち着かせるということしかできないような、そんな感じだった。まあ、精神関係なんて、みんなそうだけどさあ。薬だって、ぼんやりさせることしかできないだろう?本当は、そういう女性をなんとかするんだったら、具体的な居場所が無いとだめだと思うぞ。そういうところに漬け込む悪質な宗教団体もあるけれど、そういうことではなく、彼女たちが、生産的に活動ができて、構成員としてしっかりなにか作り出せる場所だ。」
と、杉ちゃんが言った。
「ええ。そうですね。先日死刑が執行された、あの悪質なテロ組織は、多分そういう事を巧みに使って、構成員にテロ行為をさせたのではないかと思います。本当は、それではいけないんですけどね。しかし、この日本で、一度脱落した人が、なかなか立ち直れないというものまた事実ではあるんですけど。」
ジョチさんは、考えながら言った。
「そうなんだよなあ。それをなんとかしようと政府も、何も動かないものなのかなあ。そのあたりは、あの女性たちをなんとかできる社会制度があってもいいと思うんだけどなあ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「まあ、できないことを考えても仕方ないですよね。理事長さん、彼女たちの活動を、こちらで許可してもいいかどうか。その、判断をお願いします。」
水穂さんがそういった。ジョチさんは少し考えて、
「そうですね。きっと、まゆ子さんたちも、他に居場所が無いのでしょうから、とりあえず許可しましょう。しかし、彼女たちが、本当に治療を受けていることもなく、居場所がないということが問題です。もしかしたら、彼女たちも悪質な団体に狙われてしまう可能性も無いわけではありません。それは、僕達も、ここに来てくれる利用者さんたちの事を考えれば、それはわかることでしょう。僕達も、なにか手立てを考えなければならないかもしれません。」
と言った。
「そうですか。それは良かった。決して、彼女たちに変な印象を与えることなく手を出していくことは、非常に難しいと思いますが、とりあえず、ルピナスの会が定期的に行われて活動を継続してくれるように、僕達もなんとかしなければならないと思います。」
と、水穂さんが言った。杉ちゃんのほうは、口笛を吹いて、きっとなんとかなるよという顔をしていた。
それから、数日経って、またルピナスの会のメンバーさんたちがやってきた。やはり、前回と同じように写経を行って心を落ち着かせ、そしてしばらくしたら、良いことがあったとか、頑張ったこととか、そういう事を話す。決して、危険な団体にありがちな、世界から切り離すとか、天変地異が起きるとか、そういうことを話しているわけではない。しかし、梅木さんは、話を聞いていても時々、変な方向を向いてしまうし、高本さんは、えらく落ち込んで小さくなってしまう事があり、羽生さんは、キーワード的な事を言えば泣き出してしまうなど、決して三人の女性たちは、平穏に会を行うことがなかった。必ず泣いたり、感情的になったりしてしまう。それで水穂さんが、布団から起きて慰めてやることも少なくなかった。水穂さんが、そういう事をしているので、かえって容態が悪くなってしまうのではないかと、杉ちゃんもジョチさんも心配した。そうやってルピナスの会は、頻繁に製鉄所で開催されるのであるが、彼女たちは、進歩をするわけでもなく、逆に退化することもなく、自分の思っていることを語り合うだけだった。梅木さんの言うことは、水穂さんが言ったとおり、よく考えると、辻褄の合わない事を言っているとわかることもあって、やはり、現実から逃れたく、虚構の世界に入りたがっていることがわかった。それを、羽生さんや高本さんたちは、薄々気づいているようであったが、彼女をどうしようか、については全く発言されることがなかった。ただ、話をして時間だけが過ぎていくだけだった。
ルピナスの会が、製鉄所に入ってきてから数週間後、その日も、ルピナスの会の例会が行われていた。三人の女性たちが、今日あった良いことなどを話し合っている際に、
「こんにちは、理事長さんと水穂さんはいらっしゃいますか?」
と、一人の女性が製鉄所のインターフォンのない玄関を開けた。製鉄所の玄関はインターフォンがないので、ノックするか、声を出して挨拶するしか無いのだった。それと同時に、犬の鳴き声がしたので、女性は犬を連れてきたのだと言うことがわかった。
「こんにちは。三年ぶりですが、山川清子です。私の事を、覚えていらっしゃいますか?もう三年前ですから、忘れてしまったかな?」
女性がそう言うと、応答したジョチさんは、
「ええ、覚えていますよ、山川清子さん。確か、こちらに通っているときは、仕事をされていましたよね。それで確か、職場で知り合った男性と結婚して、こちらを退所したのでしたよね。今は、ご主人と一緒に暮らしているのですか?」
と彼女に言った。
「はい。実は、先月から、家族が一人増えました。正確には一匹ですけど。こちらのわんこです。」
と、山川さんはにこやかに笑って、大きな犬を顎で示した。確かに犬であるのだが、体は紫色に近い黒色をしていて、犬によくありがちな、体毛が全く生えていなかった。
「へえ。毛の生えていない犬を飼い始めたんですか。確か犬種名は、」
「ええ。ペルービアン・ヘアレス・ドッグという長たらしい名前ですが、無毛の珍犬です。昔のインカ帝国では、暖房用具として使われていたそうです。あんか犬というべきですかね。だから、大きな子でも、抱っこされるのはなれているみたいです。誰かに触られても吠えないし、とても良い子ですよ。名前は、吉兵衛です。」
と、彼女は言った。そういうふうに人の話を遮って自分の発言をしてしまうくせがあるが、ジョチさんは、山川さんに発達障害があることを知っていたから、それについては何も言わなかった。
「吉兵衛ですか。なんか似合わない名前で、」
「ええ。そうです。吉兵衛です。私達、子供ができないということは、結婚したときにちゃんと話をしましたけど、でも、私が、主人が仕事に行っている間に一人で居るのはちょっと耐えられないといったところ、だったらペットを飼えばいいと言うことになって、この子を東京のペットショップで購入しました。」
ジョチさんがそういいかけると、山川さんは言った。
「そうですか。山川さん、せめて、相手の人が、話をし終わるまで待っていたほうがいいですよ。」
「はい、そうですね。」
そういう素直なところも、山川さんの特徴でもあった。
「ごめんなさい、私の悪い癖だわ。」
「そうですね。これからは、人の話が終わるまで待ちましょう。それで、尋ねるのは僕の方です。山川さん、あなたのご主人は、確かアレルギーを持っておりませんでしたか?それなのに、犬を飼うとは、大丈夫なんですか?」
ジョチさんがそう言うと、山川さんはにこやかに笑って、
「それが大丈夫なんですよ、この子、毛がないでしょ。だから、犬アレルギーの人でも飼育が可能だって、ペットショップの方から言われました。そのとおり、吉兵衛が家に来ても、主人は体調を崩したことがありません。」
と、でかい声で言った。声が大きいのも何故か発達障害の人にはよくあることであった。普通に静かに話すというのは難しいようである。山川さんの声を聞きつけて、杉ちゃんが誰が来たんだと玄関にやってきた。
「ああ、山川清子さんか。あまりにゲラゲラ笑うもんだから、誰が来たのかなと思ったよ。それで、豆腐みたいなこの犬は、お前さんのペットかな?」
と、杉ちゃんが言うと、
「はい。ペルービアン・ヘアレス・ドッグの吉兵衛くんです。」
彼女はにこやかに笑った。
「そうか。道理でペットウェアを着せているのかと思ったよ。」
と、杉ちゃんは言った。確かに、吉兵衛くんは、犬のくせに服を着ている。他の犬種でも服を着せる人は居るが、吉兵衛くんが服を着ているのは、なんだか納得できるものだと思われた。
「そうなのよ。冬場のお散歩ではセーター着たりして、夏は日焼けしないように浴衣を着せたりしています。そうやって毎日毎日朝起きると吉兵衛に服を着せるのは、私のモーニングルーティーンになっているわ。」
山川さんは更に笑った。
「夏は日焼けしないように、日焼け止めクリームも塗っているのよ。毛がないんだもの、服を着せたり、クリーム塗ったり、毎日お風呂に入れることも、必要よね。」
「はあ、人間並みだねえ。」
杉ちゃんは呆れて言った。
「それで山川さん、今日は何をしにこちらへ来たんですか?近くを通りかかったから、よってみようという方もたまにいますが、山川さんの現在の住所は確か駿河小山駅の近くですよね。そんな遠いところから、何をしにこちらへ来たのです?」
と、ジョチさんが言うと、
「ええ。ちょっとお願いなのだけど、私の着られなくなった子供用の浴衣をリメイクして、吉兵衛の服を作って欲しいのよ。」
と、山川さんは言った。
「犬の服か。悪いが、人間の着物なら仕立てた事があるが、犬の服を仕立てたことは一度も無いので、ちょっと無理かもしれない。」
杉ちゃんが言うと、山川さんは落胆の表情を見せた。こういう障害の人は、落胆すると立ち直りに時間がかかるのは、杉ちゃんもジョチさんも知っていた。
「そうなの。せっかく裁縫の専門家のところにこさせてもらったと思ったのに。それでは、なんのために、小山からこちらにこさせてもらったのか。わからなくなっちゃうわ。」
山川さんはそういった。発達障害の人は、何でも思ったことを口にする。それは、自分の中で湧いた感情を、成分化することが苦手であることを示している。そうなってしまう故にトラブルも起きやすいのであるが、杉ちゃんたちは、仕方ないとわかっていた。
「まあ、山川さん、これは、仏教の教えだから、ちょっと受け入れがたいかもしれないけど、事実はあるだけで、それについてどうすればいいか考えることが最善の策だと考えようね。それ以外に事実を曲げたり隠したりしちゃいけないよ。そんな事しなくても、吉兵衛くんはそこに居る。今お前さんにできることは、別の仕立て屋を探すとか、そういう事をするんだよ。」
と、杉ちゃんは山川さんにいうと、
「そうねえ。私にできることはそういうことか。それは仕方ないわねえ。私はなかなか仕方ないと思うことができないけど、できなくちゃいけないものね。」
と山川さんは言った。
「できなくちゃいけないじゃない。そういうふうに義務感にしちゃうから、お前さんは自ら障害というものを作り出している。そうじゃなくて、ただ、答えがかえってきたら、じゃあどうするか、を考えることをすればいいのさ。できなきゃいけないとか、そういう事は無いんだよ。だから、お前さんが劣っているとか、そういう事をしなくても、やってることはみんな同じだなと思えばいいのさ。そういうことだ。わかったか。」
杉ちゃんに言われて、彼女は、そうねえと小さな声で言った。じゃあ、別の仕立て屋さんを探そうかなといいかけたその時。
「あの、ちょっとよろしいですか?」
と、いきなり別の女性の声がする。
「はい。何でしょうか?」
とジョチさんが言うと、高本さんがそこにいた。
「お話は、玄関から聞こえてきたのでよくわかりました。そういうことなら、私がワンちゃんの洋服を作ってもいいです。そういうことなら、私、以前洋服の縫製工場で働いていた時期がありましたので、そう言うのを作るのは得意なんです。」
「へえ!お前さん、犬の服も作れるの?」
と、杉ちゃんが言うと、
「ええ。犬だけではありません。人間の洋服も作りました。まだ、うちに職業用のミシンがあったはずです。あれは、壊さないで取っておいて置きましたから。それに、ミシンがなくても手縫いで私作れますよ。その着なくなった布は、どんな柄なんでしょうか?」
と、高本さんはにこやかに言った。山川さんがこれなんですがと言って、カバンを開け、子供用の木綿の浴衣を取り出した。白い地に、トンボの柄が細かく乗せられていて、男でも女でも使えそうな柄だった。
「これなら、彼の洋服もちゃんと作れますわ。これをばらして、犬の洋服を作ることはできます。それでは、まず始めに、彼の寸法を測らせて貰えないものでしょうか?」
高本さんがにこやかに言うと、杉ちゃんが、メジャーなら僕が持っているといった。そこで高本さんは、杉ちゃんからメジャーを借りて、手早く吉兵衛くんの体長と、体の幅、胴回りを計測した。
「結構大きなワンちゃんなんですね。毛が生えてないから、すぐに測れるわ。」
高本さんは自分の手帳に、吉兵衛くんの体の大きさを書き込んだ。
「大丈夫ですよ、すぐお洋服は仕立てられます。一週間くらいお待ちいただけますか?すぐに作ることができますから。」
「高本さん、なんか完全に仕立て屋の顔をしてる。」
そういう彼女に杉ちゃんがでかい声で言った。
「そうかしら?」
と、彼女は信じられないという顔で言った。
「確か、職業は会社員と仰っていらっしゃいましたよね。それは、そういう衣類の縫製をする会社だったんでしょうか?」
とジョチさんが言うと、
「ええ。うつ病にかかる以前の会社は、そういうところでした。服の制作は好きでしたので、あのときは幸せでした。」
高本さんは名残惜しそうに言った。
「そうですか。それではなぜ、その服の製作をやめてしまったんです?」
ジョチさんに言われて、彼女は、こういうのだった。
「いえ、大したことありません。ただ、収入が増えるといいなと思っただけです。服の制作会社では、やっていられなくて、ちょうどその頃、主人と結婚したし、それなら私もちゃんと働かなければ行けないと思って。」
「はあ、大したこと無いなんて、そんな事言えるわけ無いと思うんだけどなあ。」
と、杉ちゃんが言った。
「そういうことだったら、お前さんは、嫌な仕事を無理やりやりこなせるようなタイプじゃなかったんじゃないか?少ない収入であっても、服を作って居ることのほうがお前さんらしくて、お前さんのいいところが、発見できるんじゃないかな。仮に、旦那さんに反対されてもだよ。うつ病になって辛い思いをしているんだったら、好きなことを一生懸命やっていたほうが、幸せだったんじゃないか?」
「いいえ、そういうことじゃありません。だって、好きなことをやるようなことでは、世の中やっていけないって、言われたことはあります。」
と、彼女は否定するが、
「それは、誰に言われたんですかね。それは、今のお前さんには、必要なことだろうかな?」
杉ちゃんがそう言うと彼女は、それはと言って黙ってしまった。
「本当は、好きな仕事につかせてもらって、自分のやりたいことを、しっかりやれるのが、一番の幸せではないでしょうか。うつ病になったということは、それを教えてもらっているのではないですか?」
と、山川さんが高本さんに言った。みんなそうだよねえと小さく頷いた。
「そういうことなら、ぜひお願いしたいです。吉兵衛の洋服を、可愛く作ってください。よろしくおねがいします。」
山川さんが、高本さんに頭を下げると、
「わかりました、とてもお行儀のいいワンちゃんですね。私、感心しましたわ。お躾がすごくいいんですね。そんなところ、私、すごいと思いましたわ。」
と高本さんは言った。山川さんは
「いいえそんな事ありません。あたしたちはただ、吉兵衛があたしたちの家族であることを、しっかり示したいだけですよ。外では礼儀正しいけど、家では結構やんちゃで、遊んでとアピールすると誰もが無視することができないんですよ。」
とにこやかに笑った。
「そうなんですか。本当はやんちゃ坊主でいてくれたほうが、自然なんだけどな。」
杉ちゃんがちょっと苦笑いした。本当は、誰でもやんちゃ坊主でいてくれたほうが、人間らしいと思われるのは、なぜなのだろうか?
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