第二章 思いがけない事実
翌日、僧衣を身にまとった丸野まゆ子と、三人の精神障害のある女性たちが、製鉄所に来訪した。三人の女性たちは、ジャージ姿の女性、スーツ姿の女性、そして小紋の着物を着た女性がいた。それでも、三人とも、きちんと着るものは着ていて、変にだらしない格好はしていない。みんなそれぞれの思いを込めて、その格好をしているのだろう。三人の女性たちは、杉ちゃんに促されて製鉄所の食堂の椅子に座った。杉ちゃんたちは、たった三人の女性たちなのに、なぜ製鉄所の食堂のような広い場所が必要なのか、不思議がっていた。
「それでは、新しい会場が見つかりましたので、新しい会場の方へ、自己紹介をお願いします。皆さんのお名前と、いいたい人は病名と、あと、住んでいるところを述べてください。」
まゆ子がそう言うと、スーツ姿の女性が言った。
「はじめまして、名前は高本香織。年齢は35歳。富士市に住んでいます。病名はうつ病です。あたしはもともと、縛られるような狭いところが苦手で、それでまゆ子さんにお願いして、広い場所をお願いしました。あたしが病気になったのは、職場が変わって、新しい職場に馴染めなくて、誰も助けてくれる人もいなかったからです。それで自殺未遂も何回かしてしまっています。それじゃいけないってわかってはいるんですけど、やっぱりやりたくなってしまう。それをまゆ子さんにいつも叱ってもらっています。」
そう言ってスーツの女性は席に座った。まゆ子が、小紋着物を着た女性に自己紹介をするように促すと、
「はじめまして、私は、羽生由美子と申します。富士市に住んでます。病名は、統合失調症です。中学校までしか行っていません。高校受験に耐えられなかったのです。今の時点では、仕事も何もしてなくて、父母の収入で暮らしてます。福祉制度なども恥ずかしくて使えなくて、今は行くところもなくて、引きこもって暮らしています。このままどうするのか聞かれることもあるんですけど、何もすることが思いつかなくて、結局一人でずっと家に居るような感じです。時々おかしな事をいうので、自分でもまだ症状があって、まだまだ治っていないんだなと思います。もう40近くなるんですけどね。」
と、彼女は言った。杉ちゃんがでかい声で、
「可愛らしい小紋の着物だな。」
と、彼女を褒めると、
「ありがとうございます。着物を着ると、心が落ち着いて、とても楽しいです。」
と、羽生由美子さんは答えた。
「じゃあ、自己紹介をお願いします。梅木さん。」
まゆ子に言われて、梅木さんと呼ばれた女性は、ぼんやりした顔をしていたが、すぐに我に帰ったらしく話を始めた。
「私は、梅木、梅木正子と申します。正子は正しいに子と書いて正子です。富士市に住んでいます。病名は、えーと、自分でもはっきりわからないのですけど、解離性障害です。別に人格さんが複数とか、そういうわけではないのですが、時々記憶が曖昧で、自分がどこで何をしていたのかわからなくなるという症状があります。ちゃんと医者には見てもらってますし、認知症になるような年でも無いから大丈夫だって言われてますから、安心して下さい。今日は、久しぶりにこさせてもらいました。」
「わかりました。高本香織さん、羽生由美子さん、梅木正子さん。今日は久しぶりにルピナスの会全員が揃ったわけですから、般若心経を写経したいと思います。手本をなぞるだけの簡単な写経ですから、すぐにできますよ。」
まゆ子は、三人の女性の前に写経用紙を渡した。三人の女性たちは、思い思いに筆ペンを出して、写経を始めた。その表情は真剣そのもので、一心不乱という感じが見え隠れしている。しかし、途中から梅木さんの様子が変だなと杉ちゃんたちは思った。梅木さんは時折、写経するのをやめて、天井をぼんやり眺めているのである。
40分位経って、高本さんも羽生さんも写経が終わった。ところが梅木さんだけは、いつまでも終わらないのだった。時々、筆を止めて天井を眺める仕草を繰り返す梅木さんを見て、
「あの梅木さんと言う人は、なにか特別な事情でもあるのか?」
と杉ちゃんがまゆ子に聞いたくらいだ。
「ええ、ちょっと事情があるのです。それは、皆さんも同じことだと思うので、私達は認めています。」
と、まゆ子が答えた。そして、まだ写経の作業を続けている梅木さんをそのままにして、
「それでは、今日は、お話し合いを始めることにしましょうか。最近はなにかいいことはありましたか?高本さんからお話してください。」
とまゆ子が言う。高本さんは、ハイと言って、身の上話を始めた。
「わかりました。最近あった良いことはそうだなあ。一度も一ヶ月間怒らないで済んだことでしょうか。怒らないで、一度も家族に逆上しないですみました。」
高本さんがそう言うと、まゆ子と、羽生さんは拍手をした。
「私は、なにかあると、逆上してしまうのは、みなさんもよくご存知の癖だと思うんですけど。私自身も、よくわからないのです。家庭内暴力とか、そういう気持ちになっているわけじゃないですが、いくらそれを言っても、周りの人からは怒ってしまう私のほうが悪いことにしてしまうんです。そうかも知れないけど、でも、私だって、静かな生活を望みたいと考えているだけなんですが、それだけなのになんでって。私は、本当にだめな人ですよね。だから、この一ヶ月の間、一度も怒らなかったというのは、私にとっては、すごいことなんです。」
と高本さんは言った。
「ありがとうございます。それは素晴らしい進歩ですよ。高本さん、これからもご主人や子供さんに当たらないよう、頑張って生きましょうね。」
まゆ子がそう言うと、高本さんは、ハイとにこやかに笑った。
「じゃあ、羽生さんにお願いしましょう。よろしくおねがいします。」
まゆ子がそう言うと、
「はい。私がこの一ヶ月で起きたいいことは、、、。何も思いつきません。私は働いていないから、楽しいことを考えては行けないと思うんです。結局の所私は、養ってもらっている身の上ですし、そういう事を思ってしまったら、私が悪い人になってしまうような気がするんです。私は、高校受験の時によく言われました。受かるまで、喜んでは行けない、一生懸命勉強するんだって。それを果たせなかった私は、他の人よりもずっと劣っています。」
と、羽生さんは言った。まゆ子は、そのような事は絶対に無いと言うこともしないで、ただなるほどと彼女の話を聞いていた。
「そうですか。そのようなことが実際にあったのですね。でも、羽生さん、一番大事な命を落としてはいけないんです。それは、どの宗教でも同じこと。自ら、自分でこの世にさようならをすることは、絶対してはいけません。」
まゆ子が宗教家らしくそう言うと、羽生さんは、そうなんですかと小さい声で言った。
「あたしは、死ぬことで世の中のためになると思ったんですけど、それはいけないことでしょうか。私のような社会で役に立てそうな事は何もない人間に、幸せなんか来ることもありません。だから、私が、幸せになることは許されないんです。」
羽生さんがそう話すと、梅木さんが、やっと写経用紙をまゆ子に提出した。その写経用紙は、ところどころに誤字が見られ、なんだか小さな子どもが書いたような筆跡のところもあった。それは多分、梅木さんが、筆を持つことになれてないだけだと言うことで、そのときは片付けてしまったけれど。
「じゃあ、梅木さんにも、この一ヶ月間なにかいいことがあったかどうか、話してもらおうかな。」
まゆ子が言うと、
「えーと、そうですね。私は、えーと、なんだろう。それが、何も思いつきません。私は、どういう事になってしまうんでしょうね。私は、私は、、、。」
と、梅木さんは、一生懸命思い出そうとしているのであるが、思い出せない感じだった。梅木さんは、ああ、といきなり思い出したような顔つきになり、
「そういえば、こんなことがありました。家族で杉山バラ園に行ったんです。それで美しいバラを見つけて、家族が買ってくれました。ああ嬉しいなと思いました。」
と急いで言った。
「そうですか。梅木さんのいいことは、杉山バラ園に行って、美しいバラを見つけたんですね。それはきっとさぞかし美しかったでしょうね。」
まゆ子がそう言うと、
「はい。とてもかわいいピンクのバラでした。私の顔もそんなバラのように美しくなってくれたらいいなって思いました。」
梅木さんはにこやかに言った。そのにこやかな顔つきは、まるで普段と変わらないのであるが。
「じゃあ、皆さんのあった良いことをまとめましょう。高本さんは、一度も怒らずに済んだ事、梅木さんは、バラ園に行って美しいバラを見たこと、そして、羽生さんは、今いいことを探しているのですね。それでは、いいことがありますようにという意思を込めて、普回向を朗読しましょうね。願わくはこの功徳をもってあまねく一切に、、、。」
と、まゆ子が述べると、彼女たちはそれを追いかけるように普回向の朗読を始めた。それはきっと、彼女たちが自分たちの幸せを願って述べていることだと思う。
「はい。それでは、本日の写経会を終わります。遅くまで皆さんお疲れさまでした。」
普回向の朗読が終わって、まゆ子は、三人の女性たちと一緒に合掌した。それを食堂の外で眺めていた杉ちゃんが、
「いやあ、今日の会員さんたちは、結構大変な人たちばかりだったな。」
と、三人の女性たちに言った。羽生さんなどは、杉ちゃんの喋り方を聞いてちょっと、怖いという顔もしたが、
「何も恐ろしげな存在ではないよ。僕らはただ、お前さんたちの活動を、見させてもらっただけなんだよ。単なる傷の舐め合いだけではなくて、お写経したり、普回向を唱えたりして、一生懸命やってたじゃないか。まあ、人間にできることなんて、なにかあったあとで、何ができるか、考えるだけのことで、何も世界も変えることなんてできやしないんだ。そういう事をちゃんとわかってて、なおかつ、心の傷を癒やしてくれれば、すごいサークルになるよ。」
杉ちゃんがそう言うと、女性たちはにこやかに笑いあった。
「ありがとうございます。そういう事を言ってくれて。それでお願いなんですけど、ルピナスの会をここで定期的に開催してもよろしいでしょうか?」
とまゆ子がそういう事を言うと、杉ちゃんはそうだねえと言って少し考え込む仕草をした。その日ジョチさんは、用事があってでかけていたので、杉ちゃんがとりあえず、様子を見ておくことになっていた。
「それでは、とりあえずお写経をして、ちょっとお話をして、それで、普回向というお経の朗読をして終わったと、ジョチさんには報告しておけばいいかなあ?」
と、杉ちゃんが言うと、
「ええ。そうお伝え下さい。今、杉ちゃんさんが見てくれたとおり、私達は、単なるサークルで、悪質な物品を販売することも無いし、変に洗脳することもしません。ただ、お写経をして、心を落ち着けてもらうこと、そして、これからも自死は絶対にしないことを、約束してもらうことが、このルピナスの会の、狙いなんです。」
まゆ子は杉ちゃんに言った。
「会の、会員さんだって、変に洗脳されていることも無いですし、あのテロ組織のように、変な修行を強いることもありません。どうでしょうか、この製鉄所での開催を、認めてくださいますか?」
と、まゆ子が言うと、
「ええ。確かに変なふうに洗脳されていることもありませんでした。ですが、僕が聞いた限りでは、症状を示していながら、放置してしまっているような、そんな気がしました。」
と、水穂さんが食堂へやってきた。
「それはどういうことですか?私達は、何も悪いことはしていませんが?」
まゆ子が急いで、水穂さんに詰め寄った。まゆ子としてみれば、次もこの場所で開催したいと思っていて、それを行けないと言われてしまうことは、困ってしまうことだったのである。
「私達のサークル、ルピナスの会の何が行けなかったのでしょうか。水穂さん、指摘することがあるんだったら、してください。」
まゆ子が急いで言うと、
「はい。これは僕の考えすぎかもしれませんが、その、梅木正子さんという方の発言についてです。」
と、水穂さんは言った。
「どういうことでしょうか?」
とまゆ子が言うと、
「ええ、梅木さんの発言は、あまりにも出来すぎています。解離性障害というのは、不幸な家族構成であることで、発症することが多いと、聞いたことがあったので、そのような方がご家族と一緒に、バラ園まで本当に出かけるのかどうか、疑問に思ったのです。」
と、水穂さんは言った。
「出来すぎている?それはどういうことだ?ちゃんとありのままを話したんじゃないの、彼女は。」
杉ちゃんが言うと、
「そうですよね。僕の考え違いかもしれないですけど、それでも彼女の発言は、筋は通っていますが、信憑性が無いのではないかって思いました。それに、彼女がまゆ子さんが発言したあとに、勢いよく話を返した態度も気になりました。もしかしたら、梅木さんが、話を捏造したのではないかと思ったんですよ。」
と、水穂さんが言った。まゆ子さんは、小さな声でそうねと言った。梅木さんの方は、なんでバレてしまったのかという顔をしている。
「梅木さん、図星ですか?」
水穂さんが、梅木さんにそう聞いた。でも、彼女を見つめる水穂さんの目は決して怒っているような顔でもなかった。
「ごめんなさい、、、でも、そうするしかなかったんです。居場所がどこにもなくて、口に出してそうやって、自分をここにいないって気持ちにさせることで、私は、幸せなんだって、思うことしかできなかったんです。」
梅木さんは、涙を流しながら言った。
「これからもこうしていくしか私は生きるすべがありません。どうしたらいいかもわからなかったし、誰も自分の事を話しても、話を聞いてくれる人もいないから、ネットで相談したりすることもできないし、カウンセリング受けるにはお金がかかりすぎる。どうしたらいいのか私はわからなくて、もうどうしようもないんです。だから、もうそうするしか方法が無いんです。そうやって私はここにいない。居るのは別の人間がしていることだと思うことで、私は、この世に生きていられたんです。」
「わかりました。わかりましたよ。梅木さん。」
と、水穂さんはにこやかに言った。
「そうするしかなかったのなら、そうするしかなかったのでしょう。それしか生きるすべがなかったのなら、仕方ないじゃないですか。」
「でも初めの頃は、たしかに悪いことをしているという気持ちもありました。でも、事態はどんどん悪くなるばかりだし、それしか私は、自分を守る方法がなくなってしまいました。だから私は、他の人が、何かやっているんだと思うしかなかったんです。私だけが、ずっと一人ぼっちだったことや、何も仕事がありつけなかったことに、悲しくて仕方ないけど、誰も相談できる人もいなくて、私ではなくて、別の人間がやったと考えて、私はそれを遠くから眺めているようにすればいいって、そう考えるしかなかったです。」
梅木さんが泣きながらそう言うのを、羽生さんも、高本さんも、誰も嫌そうな顔をしないで聞いていた。まゆ子さんもその事を知っているかのように何度も頷いた。ということは、このグループの中ではもう彼女がそうなっていることを知っているのだろうか。誰も彼女が人を騙していることを責めるような顔をする者はいなかった。
「大丈夫です。私だって、家族がいなかったら、彼女と同じことをしていたと思います。私は、家族になんでも話してたから、そういう思いはしないで済んだけど、私がもし一人ぼっちだったら、彼女と同じようにしていたかもしれない。」
と、高本さんが言った。
「そうですよ。だから、梅木さんがわるいなんて思いません。梅木さんはよく、事実にない話をするけど、それは梅木さんが自分を守るためにやっていることであって、倫理的に許されることではなくても、そうせざるを得ないって私は思ってましたから。」
羽生さんも、高本さんのあとに続いた。
「でもオオカミ少年の話は、世界中に伝わっているぜ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「ごめんなさい。だから私、やっぱり死ぬしか無いですよね。もうこの世に居場所もないし、死んだほうがいいんだ。だから私は、何も与えられないんだ。」
と、梅木さんは、涙を拭くのを忘れてそういうのだった。
「そういうことであれば、梅木さんのしていることは立派な症状になりますよ。それは、解離性障害が引き起こしているのかもしれません。解離というのは、自分がその場所にいないと思うことで、心にやすらぎを図ろうとする症状ですから。それを、梅木さんは日常的にせざるを得なかったのでしたら、矯正しなければならないんです。もし、これ以上その症状を繰り返してしまった場合、その切り離した部分が人間になってしまうことだってあります。僕が読んだ本の中では、それが顕著になって名前も国籍も変わってしまう別の人間が、24人現れるという犯罪者もいました。それではいけないんです。だから、できるだけ早く、なんとかしなければならないですよね。」
水穂さんは、梅木さんのことを心配そうに言った。
「はあなるほど。いわゆる多重人格障害というやつか。確かにそうなったら、ゆくゆくは、本人が乗っ取られちまうということもあるみたいだし、たしかに、この時点で誰かに気がついてもらって良かったのかもしれないな。」
杉ちゃんは水穂さんの話を受けて言った。
「あたしたちも、」
今度はまゆ子が言った。
「彼女が、なんとかして元の彼女に戻ってもらうように、力添えをしたいと思います。」
杉ちゃんは無理だと言おうとしたが、水穂さんにそれは止められてしまった。まゆ子も、羽生さんも、高本さんも、その表情は硬かった。それはできる限り梅木さんを助けたいという表情だった。
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