無常の中で

増田朋美

第一章 おかしな女性

その日は、春というより夏になってしまったような偉い暑さで、なんだか雨が降ればすごく寒いし、晴れればものすごく暑くなるという極端な容器が続いていた。これが当たり前のようになってしまえば、地球は大変なことになるとか、そういう事を、偉い人たちは盛んに問いただしていたが、一般の人たち、つまり凡夫と呼ばれている人たちは、とてもそのような事はできないのが当たり前だった。だけど、そういう事はできなくても、不安ということを感じることはできる。それを利用して、福祉とか、そういうものが行われることがある。それ以外でも、この不安を利用した人間の活動というものが行われることがある。それはなんだろう?

その日、製鉄所ではテレビは設置されていなかったが、スマートフォンを通して、ある有名なテロ組織として活動していた男の死刑が執行されたというニュースが流れた。大体の人は自分は関係ないと思っているのだろうが、それでも、電車の中で毒ガスをばらまくとか、そういう事をしたというのだから、平和な日本ではありえないという話も随分聞いたし、また、そういう人の話に乗せられてテロを実行してしまった若い人たちが可哀想だという意見も多数寄せられたこともある。一応、10年以上たったその日、その事件の首謀者が死刑になったということで、事件は一応解決したと、日本の総理大臣が記者会見している映像が、テレビでもスマートフォンでも相次いで流された。それについで、やっと恐怖を与えた変な組織の首謀者がいなくなって良かったねという一般市民たちの声も流された。テレビと言えば、そういうふうに、市民が参加するようになっているんだけど、それはちょっと、変だと思う人もいなくはない。

前述したように、製鉄所にはテレビが設置されていないので、そのニュースを直接耳にすることはなかったが、それでも、スマートフォンで一斉にニュースが流されたため、製鉄所の利用者たちも、製鉄所を管理しているジョチさんこと曾我正輝さんも、そのニュースを知ることになった。製鉄所の利用者たちは、スマートフォンで入ってきたニュースを見て、こんなふうな話を始めた。

「まあ、良かったのかな。外国ではよくあるかもしれないけど、日本であんなすごい事件を起こした人が、一応始末されたと考えればいいのかな。」

製鉄所と言っても、鉄を作る施設ではない。ただ居場所が無い人たちが、勉強や仕事をするための部屋を貸している施設であった。利用者は、通信制の学校に通っていたり、あるいは通信講座で勉強したり、中には懸賞に応募するための小説を描くために利用している人も居る。そういう変わった使い方をする人もいるが、利用者は、自宅から通うものもいたり、製鉄所で間借りをする人も居る。と言っても現在、間借りをしているのは、磯野水穂さんだけであった。

「そうねえ。あたしも、あの団体がすごいなと思ったことがあったわ。」

小説を書いていた女性が、そんな事をいいだした。

「すごいって何が?」

別の利用者がそう言うと、

「だって、今だから言えるけど、当時の私は、すごいものだと思ったわよ。急速に信者を獲得して、大教団になっちゃったでしょ。そういうことができる人って、どんな思想なのかなって興味あったわ。あたしもさ、その当時は、仕事がなくなっちゃって、今みたいに小説を書こうなんて思ってもいなかったから、そういう教団ってどんなところなのか、見てみたかったわよ。」

と、小説を書いていた利用者は言った。

「はあなるほど。そうかも知れないわねえ。確かにしたことは悪いことだけど、そういう人が、居場所を求めて入っちゃって、その時の感動が大きいから、簡単にやめられなかったって、あたしも聞いたことある。」

と、始めに発言した利用者が言った。

「あたしは、あんな怖い教団に入ろうという気にはならなかったけどね。でもね、あの当時は学校教育だって、点数がすべてとかそういう事しかなかったし、あたしは、勉強もできなかったから、どっか学校以外に行くところが無いかなって、探してたわ。」

と、初めに発言した利用者が言った。確かに、それと並行して、学校教育がおかしくなっているという問題が提起されていたこともあり、多くの教師が離職してしまったという事件が起きたことがあり、それと教団の話を引っ掛けて偉い人たちが盛んに本を出版したりしていた。

「まあねえ。一応今はいい学校もできてるし、それに向かうための過渡期でもあったのかなって今は思うようにしてるけどね。それでも、すごい事件だったことは間違いないわ。その首謀者が、今回死刑になったことで、一段落ついたってことかな。被害者の人には、永久に忘れられないことになると思うけど。」

三番目に発言した利用者が、そういう事を言った。それが、一般の人達が感じていることである。被害者の人には関係ないとか、そういう事を言って、同情するとか、関心を持つとかそういう事はしない。

それと同時に、四畳半から、水穂さんが咳き込む声が聞こえてきた。利用者たちは、ああ、水穂さんがまたやってるわ、と顔を見合わせた。それだけはいくら世の中が変わっても、どんな事件が起きたとしても変わらないのだった。それと同時に、応接室からジョチさんとお手伝いとしてやってきている杉ちゃんが、急いで水穂さんの世話をしにいった。利用者たちは、自分たちが直接関わらないから水穂さんを可哀想だと思えるけど、杉ちゃんみたいに毎日お世話をすることはできないと、言い合っていた。やがてジョチさんが電話をかける音がして、それから数分後に、こんにちはと玄関先から声がした。多分、利用者たちは、河童みたいな顔をしている柳沢先生の声だといった。

四畳半では正しくそのとおりで、咳き込んでいる水穂さんに、柳沢裕美先生が、漢方をお湯で煎じた薬を飲ませていた。それのおかげで水穂さんはやっと咳こむのと、赤い液体を噴出されるのをやめてくれた。薬には眠気を催す成分があるのか、水穂さんは口元を拭くのをしないまま、眠ってしまうのであった。杉ちゃんが急いで口元をちり紙で拭いた。

「本当にありがとうございました。いきなり呼び出したりしてすみません。」

ジョチさんが、柳沢先生に頭を下げるが、

「いやあいいんですよ。水穂さんのような患者さんは、なかなか一般的な医者には見てもらえませんからね。」

と、柳沢先生はにこやかに言った。多分きっと、水穂さんのような人を見てくれるような医者は、柳沢先生しかいないと思うので、杉ちゃんもジョチさんも、すみませんといった。

「本当にありがとうございました。また次回もよろしくおねがいしますというのは、おかしいかもしれませんが、」

とジョチさんがそう言うと、玄関の引き戸がガラッとあいて、サザエさんに出てくる花沢さんに似たような声で、

「右城くん!ちょっと相談があってきたのよ。ちょっとさあ、相談に乗ってくれない?」

と、浜島咲がそう言っているのが聞こえてくる。

「ああ、はまじさんか。悪いけど、水穂さんは河太郎先生に見てもらったばかりだよ。」

杉ちゃんが返事をすると、

「ええ、大事な話があって連れてきたのになあ。右城くん、もうちょっと病気を治そうっていう気持ちを持たなくちゃあ。」

と咲は個性的な声でそういうのであるが、それと同時に女性の声で、

「すみません、やっぱり無理でしたよね。それなら、私他の施設を探します。」

と、言う声が聞こえてきた。ということは、浜島咲は一人で相談に来たのではなく誰かを連れてきたのだと言うことがわかった。

「そんな事ないわ。それにテレビのニュースで、あの有名な教団の教祖の死刑が執行されたって話が出たばかりじゃない。そういうこともあるから、どこの施設でも相手にしてくれなかったって言ったのは、まゆ子さんでしょう?」

咲の個性的な声で、その女性がまゆ子さんという名前なのがわかる。施設というから、なにかを探しているのだろうか?

「とりあえず、入ってもらいましょう。もう一人連れてきたということであれば、また内容が違います。」

ジョチさんがそう言うと、浜島咲はほら入って、と言って、製鉄所に入ってきた。とりあえず玄関先へ迎えに行ったジョチさんは、確かに色無地を着た浜島咲と、もうひとりの女性はちょっと異様な雰囲気をしているのが見えた。その女性は髪が生えていなかった。同じように色無地を着ているけれど、それは普通の着物ではなく、いわゆる僧侶が着る着物であった。でも、顔つきや身長から判断すると間違いなく女性だった。

「あれれ、はまじさんは、尼僧さんと友達だったのか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ。お琴教室の発表会で知り合ったのよ。えーと名前は、ちょっと変な名前かもしれないけど、丸野まゆ子さん。職業は、杉ちゃんの言ったとおり、尼僧さんです。」

と、浜島咲は彼女を紹介した。彼女は髪の生えていない頭を下げて、

「はじめまして、丸野まゆ子と申します。檀家の方からは、まる子ちゃんと名前が似ているので、まる子と呼ばれています。丸徳寺というお寺の住職をしています。」

と、自己紹介した。

「ああ、わかりました。とりあえず、食堂へ入っていただいて、それからお話をしてもらいましょう。」

ジョチさんは、彼女たちを製鉄所の食堂へ案内した。まゆ子さんと言われた尼僧さんは、製鉄所が昔ながらの建物であるので、すごいものだと言った。ジョチさんは彼女たちを椅子に座らせると、杉ちゃんが車椅子のトレーにお茶を乗せて持ってきて、二人の前においた。

「それで、お話ってなんですか?」

ジョチさんがそう言うと、咲にほら話したらと言われて、まゆ子さんは話を始めた。

「実は、私達は、丸徳寺で、長らく自殺未遂者当事者サークルをやっていましたが、今回会員が増えたので、もっと広い場所が必要ということになりまして、悩んでいたところ、咲さんがここでやったらどうかと提案してくださったものですから、お願いしてもよろしいかと言うことで、相談にこさせてもらいました。会の名は、宗教的な内容にしてしまうのは、ちょっと雰囲気に合わないということで、ルピナスの会というのですが。」

「ルピナス?」

杉ちゃんとジョチさんは、顔を見合わせた。

「ルピナスって、仏教とは何も関係のない花だと思うんですがね。それなら、蓮の会とか、そういうふうにしてくれればと思うのですが?」

ジョチさんがそう言うと、

「ええ、それは檀家さんにも言われています。ですが、すでに同名の会が多数あるので、それなら今までにない会を作ればいいと言うことになりまして。それに、バーバラ・クーニーのルピナスさんのお話は、よく私も法話の題材として取り上げてありますので。」

と、まゆ子さんは言った。

「はあ、そうなんだ。それはどういう内容の会なのかな?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ、まずはじめに、般若心経をお写経してもらって、心を落ち着けてもらい、その後で今の気持ちを話し合ったり、私が法話をするなどして、会員さんたちに自殺はやめてもらおう言う狙いがある会です。」

と、まゆ子さんは話を続けた。

「はあなるほどね。お写経ねえ、たしかにお坊さんにとってはすごい立派な修行だったと思うけど、一般の人がやるとなるとすごい大変だろうね。漢字ばかりでよくわからないよ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「でも、心を落ち着けるという事においては、非常に効力を発揮するんですよ。皆さん薬を飲んでいらっしゃるから、薬をのむより、心が落ち着くって言ってくれて好評です。」

と、まゆ子さんは言った。

「そうなんですか。確かに難しい漢字ばかりで成り立っている般若心経を描くというのは、心が落ち着いていないとできませんね。しかし、ここで、お写経の会をするということですか。まず聞きますが、会員さんは何人見えられるのでしょうかね?」

とジョチさんが言うと、

「はい。3人です。全員が女性です。小さな寺なので、机を三台おいただけで、寺がすし詰め状態になってしまうんです。会員さんには、正座ができない人もいますから、机と椅子を用意しないとだめなんですよ。」

まゆ子さんは、そういった。杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。

「そうなんですね。しかし、こちらは、宗教的な施設ではありませんので、このような団体様に部屋を貸すというのはちょっと、、、。」

と、ジョチさんが言うと、

「今日は、すごいテロ組織の主宰者が、刑罰を受けた日でもあるからなあ。」

と、杉ちゃんも言った。

「いえ、私達は、そのような事は望んでおりません。国家をどうしようとか、そうすることもありません。ただ私達は、精神疾患で居場所がない女性たちに、お写経をしてもらうことによって、心を落ち着けるのを目的としてるんです。それに彼女たちも、そのような、危ないことを考えている女性は一人もいません。どうかお願いします。この施設の部屋を貸していただけないでしょうか?」

まゆ子さんは、髪の生えていない頭を下げた。

「まあ、そういうことでしたらね。まずはじめに、会員さんが精神疾患とおっしゃいました。具体的な病名などもわかっているのでしょうか?それとも、単に自殺志願者でしょうか?」

ジョチさんがそうきくと、

「はい。うつ病と診断されている方が一名、統合失調症と診断されている方が一名、解離性障害と診断されてる方が一名です。三人とも、自殺を図ったり、大事な家族を自殺でなくしてしまったり、自殺と濃密な過去を持っていらっしゃいます。」

と、まゆ子さんは答えた。

「それは、檀家の方から公募したのですか?」

ジョチさんがまた聞くと、

「いえ、そのような事はありません。確かに檀家の方のお孫さんである方もいらっしゃいますが、基本的に、寺のウェブサイトを見て来てくれた方です。」

と、まゆ子さんは答えた。

「そうなんですね。つまり、自殺志願者とか、そういう人たちを、写経させることで救済しているということですかね。それは確かに、社会奉仕的なことでもあるし、とても素晴らしいことではあるとは思うんですけど、でも、それであれば、同業者として、偏見の目にさらされやすいということも、おわかりになりますよね。そういうことがありますので、ちょっと、そのような団体に部屋を貸すわけにはいかないんですよね。」

ジョチさんが、申し訳無さそうに言うと、水穂さんのそばにずっといた、柳沢先生が、食堂にやってきた。

「名案じゃないですか。僕は、宗教というものはあまり良く知りませんけど、それによって、救われている人は大勢います。ミャンマーでロヒンギャを診察していたとき、彼らの心を支えていたのは、宗教だったんですよ。宗教は、人間が、行きすぎないでストップすることができる唯一の手段でもありますよね。もちろん、先程言ったとおり、居場所のない人には素晴らしいものになってくれる事は疑いありません。ぜひ、やってくださいよ。」

そういう柳沢先生に、杉ちゃんも、

「そうだねえ。確かに偏見はあるかもしれないけどさ、それは誰だって同じでしょ。今更偏見があるからって言って、彼女の話を取り下げては行けないんじゃないかな。それこそ、そういう事をしたら、人種差別だぜ。」

と、でかい声で言った。

「そうですねえ、、、。」

ジョチさんは少し考え込む仕草をした。

「お仲間じゃないか。僕達とやってることはおんなじだと思うよ。僕らのところにやってくる利用者さんたちだって、心に病気持ってたりするだろう?それに、ここの利用者さんたちと交流が持てたら、回復するかもしれないよ。なんでも精神疾患の一番の薬は、人間同士で喋ることだって一番知ってるのは、僕らでしょ。だったら、同じお仲間としてだな、一緒にやればいいんだよ。」

杉ちゃんに言われてジョチさんはしかし、といった。

「いいじゃないかよ。製鉄所にとって、また新しい展開が始まるかもしれないぞ。それは恐れちゃいけないよ。そういう変化を楽しまなくちゃ。みんなそうなることを恐れてるみたいだからさ、変化することは楽しいことだって、僕らが教えてやるべきじゃないの?」

「そうですね。」

ジョチさんは、理事長らしく、少し考えていった。

「じゃあ、いきなり貸し付けてしまうのではなくて、まずはじめに一度、どんなサークルなのか見せていただいてから、こちらで判断することにしましょうか。それでは、明日にでも、会員さん三人を連れてきてください。よろしくおねがいします。それで、うまく行ったら、こちらの部屋を犯しすることにいたしましょう。」

「ほんとうですか!ありがとうございます!会員さんたちも、きっと新しい会場が見つかって喜ぶと思います!」

まゆ子さんは、にこやかに笑って、また頭を下げた。

「失礼ですけど、あなたは、丸徳寺のご住職様ですか?」

不意に柳沢先生がそう聞いた。まゆ子さんは、はいそうですと即答する。

「あれれ、ご住職は確か、丸野康隆という男性だったはずですがね?」

柳沢先生がそうきくと、

「ええ、丸野康隆は、私の夫で、もうこの世にはおりません。急に事件に巻き込まれて死亡してしまいまして、子供もいなかったものですから、私が髪を下ろして、住職になりました。」

と、まゆ子さんは答えた。

「そうか。つまり奥さんというわけだな。」

「ええ。だからまだ、僧侶としては半人前です。今でも、夫から見られているような気がしてなりません。だから、私がしっかりして、寺をついでいかないとね。」

杉ちゃんがそう言うとまゆ子さんは、にこやかに笑っていった。

「そうですか。じゃあ、新人お坊さんといえばいいかな?とりあえず明日、サークルの様子を見せてもらうかな。きっと楽しい写経会だと思うぞ。期待してるぜ。」

「ええ。本当にありがとうございます。じゃあ、明日一時くらいに、会員さんを三名連れてこちらに伺います。本日は、相談に乗ってくださってありがとうございました。」

まゆ子さんはまた頭を下げて、とても嬉しそうに言った。

「交渉成立みたいね!」

咲が、個性的な声で、一同をまとめた。


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