第10話 指輪

「ねえ、これ指輪だよね」


「うん、中は見てないけど。たぶん」


「沙也加って確か……」


「その先は言わないで」


「わたしのことは気にしなくていいよ。これは凄いチャンスじゃん。あの山根康広だよ」


 言われなくても分かってる。迷う必要なんてない。少女に戻って何も考えず先生の胸に飛び込めばいいのだ。


「断ろうと思う」


「なぜだよ。撮影なんか全部忘れて飛び込むべきだよ。こんなチャンスは……」


「二度とないよね。分かってるんだよ」


「だったら!!」


 何も悩まずに飛び込んでしまいたい。


「わたしは先生の隣にいるべき女じゃ無いんだよ。少し前のわたしならできただろうけども……」


「でも、沙也加。山根先生好きだよね。振られた時あれだけ泣いたじゃん」


 わたしは山根先生がどうしようもなく好きだ。肩書とか関係なくて、山根康広の全てが好きなのだ。


「三年越しのオッケー。嬉しくないわけないじゃん」


「だったら!!」


「今、わたしが先生と結婚すると言ったらマスコミはどう報道するよ。祝ってくれると思うかな?」


「それは……」


「無理だよ。わたしは先生の隣に立つべきじゃない」


「でもさ、今じゃなくてもいいじゃん。同棲とかしてさ。きっと時間が解決してくれる」


 それも考えた。無理なんだよ。


「そして、マスコミにすっぱ抜かれてわたしは山根先生を追い込んでしまうんだよ」


「ねえ、制作スタジオに連絡して差し止められないかな」


「無理だよ」


 慌てて差し止めても知らない男に抱かれた事実は消えない。それに……。


「この道で生きていこうと決めたんだ」


「だからさ。もっと大切なことあるじゃん」


 人生の分岐点に気づくことは少ない。ずっと進んでから、あの時がそうだったと気づくことが多い。今回のように分かりやすく示唆してくれることなんて滅多にないのだ。


「今の仕事も悩んで決めたんだよ。それにさ……」


 わたしはきっと泣いてるに違いない。身体と心が切り離されてぐちゃぐちゃになってる。それでも、決心したんだ。


「わたしだけ幸せになんかなれない」


 わたしはきっと大バカだ。でも、わたしにだって譲れないものはある。未来を助けたい。それを無視することはわたしには無理だ。


 口論になんかなりたくなかった。未来ならば言われると分かっていたのだが。


「あまり、うるさいと追い出すよ」


 言ってから後悔した。わたしが放った刃は、未来を切り刻んでしまう。


「ちょっと待って、未来!!!」


 未来は走って部屋から出て行ってしまう。何をやってんだよ、もう。本当に大切なものなのに。失ってからでは遅すぎる。


 わたしはそのまま飛び出した。ここで未来まで失ったら、わたしは生きていけない。


 ただ、ひたすらに走った。わたしなら、未来に追いつける。


「……待ってったら」


 わたしは腕を掴んで引き寄せ、抱きしめた。


「未来、お願いだからね。行かないで」


「わたしがいるから沙也加は飛び込めないんだよ。わたしさえ、わたしさえいなければ!!」


「違う!!!」


「違うことないじゃん。今だって行きたいくせに」


「わたしには山根先生のところに行くより大切なものがあるんだよ」


「わたし、沙也加の重しになりたくない!!」


「違うんだよ。未来がいてくれるから、わたしは幸せだよ。こんな誰が敵か分からない世の中で、未来だけは味方でいてくれる。だからね、約束」


「約束?」


「うん、未来がひとりで大丈夫になるまでは、ここにいて。これだけがわたしの唯一の願いだよ」


「でも、それじゃあ、山根先生と……」


「もともと繋がらなかったんだよ。これは運命なんだよ」


「そんなことないよ。ふたりはお似合いのカップルだよ」


「ありがとう」


「あのね。こんなことあるかわからないけど、いつかわたしがひとり立ちして、何も気にする必要がなくなったら、山根先生の胸に飛び込んで欲しい」


 そんなことできるわけがない。それでも……。


「分かったよ」


 わたしは未来に正直にそう言った。そんなことがあったら良いな。しがらみなかんかなくて、初めて出会った幼い日の好きって気持ちのように、何も考えずに好きって言えたら、どんなに嬉しいことだろう。


「帰ろ。わたしたちの家に」


「うん、そうだね」


「お弁当じゃ味気ないでしょ。ご飯、作るから食材買いたいな」


「じゃあ、帰って、一緒にスーパー行こうか」


「うん! 昨日より美味しいご飯作るからね」


「昨日と一緒でいいよ。無理しなくていい。普通の未来の手料理が食べたいな」


「分かった」


「そういや、猫もお腹すかして待ってるだろうね」


「だから、猫じゃなくてさやちん」


「ねえ……」


「たまやポチじゃなくて、なぜさやちんなの?」


「うーん、そだね。寂しそうな雰囲気が沙也加そっくりだったんだよ」


「わたしって、そんなに寂しそうにしてる」


「うん、ふたりは似てるなあって思ったんだ。だから、変えないよ」


 そうか。だから、わたしはあいつを自分の部屋に迎え入れたんだ。ダンボールの中で媚びることもなく、じっとしていたあの時の猫の姿がわたしに重なる。すごくしっくりときた。


 空がキラキラと輝いていた。その景色を見て、世界がわたしの選択を肯定してくれているような気がした。



読んでいただきありがとうございます。

よろしくお願いします。

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