第6話 プールと人魚

海花の通う中学校には、広くて立派な室内プールがある。そこは、海花にとっては未知の場所だった。室内プールなので、一年中体育や部活で使用されているのだが、海花は、体育でプールがある日は必ず欠席している。プールの日は見学にすればいいと、海花が両親に申し出たのだが、


『見学していて、水がかかったらどうするんだ!』


と一喝されてしまったからだ。というわけで、今日が、初めてのプール棟デビューなのだ。


「お邪魔しまーす…。」


室内プール棟の重いドアを開けて、海花はそっと足を踏み入れた。入口で裸足になって、おそるおそるプールサイドに行ってみると、咲夜が先に来ていた。


「あ、加里野さん!」


咲夜は、軽く右手を上にあげて合図すると、笑顔で海花の方に歩いてきた。咲夜は、水着の上にジャージをはおっている。海花は、プールをなるべく大回りするようにして、咲夜の方に小走りで近づいて行った。


「加里野さん!プールサイドは走らない。」


咲夜はそう言うと、プールサイドの柱のポスターを指さした。


「あ!ごめんなさい。」


「ははっ。先生じゃないから、謝らなくていいけど。転んだら危ないよ。」


そう言って笑う咲夜は、さわやかで優しくてかっこよくって…海花は思わず見とれてしまった。


(天崎君が、女の子に人気あるの、わかるなぁ。)


海花は言った。


「はい。気をつけます。」


「うん。そうして下さい。加里野さん、今日は、ありがとう。せっかくのお休みにごめんね。」


「いいえ、そんな。それより、快君の具合はどうですか?」


「快?あぁ。もう大丈夫そうだけど、今日は寝てた方がいいみたい。ほら、明日は学校だしね。」


「そうですか。それは、きちんと休んだ方がいいと思います。」


「じゃあ、早速探しますか!加里野さんは、プールサイドを中心に探して。もし、プールの中に指輪らしきものが落ちているのが見えたら、僕が水の中に潜って確認するからさ。加里野さんは、制服だもんね。僕はばっちり準備してきたからさ。」


そう言って咲夜は冗談っぽく腰に手を当てた。


「ごめんなさい、水着、着てきてなくて。もし、水の中に見えたら、天崎君にすぐ知らせますね。」


「うん。そうして。じゃあ、始めようか。」


「はい!」


海花は笑顔で答えると、制服のシャツを腕まくりして、プールサイドの捜索に乗り出した。


「加里野さん、僕、ちょっと男子更衣室見に行ってくるよ。」


「はい。お願いします。」


咲夜は、プールから直接出入り出来るようになっている男子更衣室に入ると、近くに置いてあった椅子にゆっくり腰かけた。そして、そっとジャージのポケットから、指輪を取りだした。それは、快の物とは似ても似つかない、お祭りの屋台で売られているようなおもちゃの指輪だった。咲夜はその指輪を、いたずらに人差し指の先に載せながら独り言を言った。


「加里野さんには、指輪を、じっくり探してもらいますか…。指輪は、絶対に見つからないけど。本物は、快の首にちゃんとかかっているんだから。」


咲夜は立ち上がると、男子更衣室からそっとプールサイドを見やった。海花がしゃがみこんで、プールサイドにおかれた棚の中を一つ一つ確認しているのが見えた。


「いい頃合いで…そうだなぁ11時を過ぎたら、『見つかった』と言って、僕がこの指輪を遠巻きに彼女に見せる。そうして、家におとなしく帰ってもらいますか。快も、一時間以上待っても加里野さんが図書館に現れなければ、すっぽかされたと思って帰るだろうし。図書館デートなんかで、これ以上加里野さんとの仲を深められても困るんでね…。」


咲夜はそう呟き、いったんプール棟を出ようと、くるりとプールに背を向けた。


その時だった。


ちゃぽんっ


咲夜の背後で水音がした。いやな予感がしてプールサイドに戻ってみると、海花の姿が消えていた。プールを覗き込むと、海花がぶくぶくと沈んでいく姿が見えた。

咲夜は、以前快が言っていた事をふいに思い出した。


『海花は、水恐怖症?アレルギー?なんだそうだ。あいつ、プールの授業に来た事ないだろ?一度も泳いだ事ないんじゃないかなぁ。』


咲夜は素早くジャージを脱ぎすてると、プールに飛び込んだ。海花は気を失っているようで、スローモーションのようにゆっくりとプールの底に向かって沈んでいく。


すると、咲夜はそこに信じられないものを見た。


海花の二本脚が一つに閉じられたかと思うと、腰のあたりからドミノ倒しのように鱗が次々と現れ、下半身を包み込み、魚のそれと同じようなものに変わったのだ。尾ひれと言っていいのだろうか。それは、プールに差し込む光に当たると、淡いピンクや水色、紫、と色合いを変えていく。パールで出来ているかのような鱗は、繊細でなめらかだった。その美しいひれは、制服のスカートの下で静かに揺らいでいる。


(にん、ぎょ?)


咲夜は我に返ると、海花の脇の下に腕を入れて、水面へと持ちあげた。そこからはもう夢中で、咲夜はどうにかこうにか、プールサイドに海花の体を引っ張り上げた。しかし、海花は目を閉じたまま動かない。咲夜は海花に呼びかけた。


「加里野さん!起きて!!」


海花は、目を覚まそうとしない。額には、ぴったりと髪の毛が張り付いている。咲夜は、目元に張り付いた髪をそっとよけると、とりあえずプールサイドにおきっぱなしにしていたバスタオルを取りに行き、海花のところに戻ってきた。海花の体を拭こうと目を走らせると、鱗は跡形もなく消え、白い二本の脚があるだけだった。すると、海花がうっすらと目を開けた。


「加里野さん!しっかり!!」


咲夜が話しかける。


「あれ、天崎、くん?」


海花は、大きく目を見開き、ゆっくりと上半身を持ち上げた。


「加里野さん?よかった、生きてた!!」


咲夜は、力なく言うと海花の隣にぺたんと座り込んだ。海花は言った。


「すみません、ご迷惑おかけして。もしかして、天崎くんが助けてくれたんですか?私、プールの中に何か見つけて、よく見ようとしたら落っこちてしまったみたいです。」


「そっか。うん。いや、とにかく、無事でよかった。本当に、よかった。」


咲夜はそう言うと、座り込んだまま自分の両ひざを掴みうつむいた。落ち着いて、パニックになった自分の気持ちを整理したかったのだ。海花は言った。


「天崎くん、大丈夫ですか?天崎くん、びしょぬれですね。どうしよう…。」


海花は、自分にかけられていたバスタオルを取り上げると、そっと咲夜の髪の毛を拭き始めた。海花の一生懸命な顔が、咲夜に近づく。咲夜は、顔をゆっくりとあげた。海花の髪も肌もまだぬれていて、窓から入る光にキラキラと反射していた。咲夜は、思っていた。


(とても、きれいだ。)


咲夜は、そんな自分の感情を否定するかのように、海花からバスタオルをもぎとると、


「自分でやるから。」


とだけ言って、バスタオルの中に顔をうずめた。海花は言った。


「余計な事をしてすみません。さっきプールの中にあったのは、快君の指輪じゃなかったでしょうか?私、もう一度確認してみます。」


海花はまたプールに近づこうとした。咲夜は慌てて海花の腕をひっつかむと早口で言った。


「指輪、見つかったんだ。」


咲夜は、さっと立ち上がると、プールサイドに投げ捨てたジャージを拾い上げ、ポケットから例の指輪を取り出して、海花の方にブンブンと振って見せた。そして、さっとポケットに戻し、そのままジャージをはおった。


「よかったぁ。天崎君が見つけてくれたんですね。快くん、喜びます!」


海花は嬉しそうに笑った。咲夜は言った。


「僕、事情を話して、加里野さんのタオルや着替えを貸してもらえないか先生に相談してくるよ。」


海花は制服のスカートを、雑巾みたいにぎゅっと絞りながら言った。


「そうしてもらえると、助かります。」


咲夜は、さっき水の中で見た光景を思い出していた。プールの底で出会った人魚は、今は地上で咲夜に向かって笑顔を見せている。咲夜は言った。


「…加里野さん、脚、大丈夫?」


「脚、ですか?大丈夫です。」


❀❀❀


海花と咲夜がプール棟を出ると、もう時刻は12時を過ぎていた。海花は言った。


「もう、お昼になってしまいましたね。」


「そうだね。ごめんね、結局こんな時間になっちゃって。しかも、おぼれさせちゃって…。」


「いいえ。それは、私がドジなだけで。助けてくれてありがとうございます。指輪、みつかって本当によかったですね。」


二人が話しながら校門を出ようとすると、そこに息をきらした快が待ちかまえていた。


「快くん!どうしてここにいるんですか?寝てなくて大丈夫なんですか?」


心配そうに駆け寄る海花に快が戸惑っていると、咲夜が快の腕をつかみ、説明するようにゆっくり言った。


「快、お前は昨日から調が、もう元気になったんだな。具合が悪いから図書館にはって、昨日加里野さんには連絡しておいたんだよ。失くしたって言っていたも、僕たち二人で見つけたよ。」


快は手をふりほどくと、無言で咲夜を睨んだ。咲夜は、無表情のまま快を見ている。すると、快は海花の様子に気づいて言った。


「海花!髪、ぬれてないか?それに、なんで体操服なんだ?」


海花は、ハーフパンツにサイズの合わないぶかぶかの半そでの体操着、首にはタオルをかけていた。髪はまだ少しぬれたままだった。


「色々あって…ちょっとプールに落ちてしまって。体操服は、天崎君が先生から借りてきてくれました。」


「お前、何やってんだよ!水、だめなんだろ?風邪ひいたらどうするんだ!」


快はそう言うと、自分が着ていた水色の綿シャツを脱いで、海花にはおらせた。


「ちゃんと、あったかくしてろ!」


Tシャツ姿になった快に、海花はあわてて言った。


「快君!大丈夫です。快君こそ、体大事にしないと…」


海花がシャツを急いで脱ごうとすると、快はシャツを海花に着せたまま、両手で海花の両腕をはさむようにして言った。


「いいから着とけ!」


そんな二人の様子を、咲夜は黙ったまま見つめていた。


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