第4話 女二人のバスタイム

少し広めのバスルームには、今日はラベンダーの優しい香りが広がっている。

女子二人の、毎晩恒例のバスタイム中…。


円形のゆったりした作りのバスタブには、普通よりのバスソルトが入っており、海花と海花の母親・舞花まいかが体を伸ばしている。


「ああ。生き返る!」


舞花が気持ちよさそうな声で言った。


「本当だね~。体にしみわたるよね~。」


海花も首までお湯につかっている。


「海花のうろこ、何だかすごく綺麗になったわね。つややかで、透き通るような虹色…若いっていいわね~。」


舞花が海花の鱗をそっとなでる。


「お母さん!くすぐったいよ。」


海花は尾ひれをくねらせて、舞花から逃げた。小さくお湯しぶきがあがる。


「おかあさんの鱗はもうだめね。なんだか色がくすんできてる気がする。」


「そんな事ないよ。お母さんの鱗、とっても優しい色。ラベンダー色って感じだよね。」


「ありがとう、海花。だから、海花って大好き!」


そう言うと、舞花はちゃぷんっと自分の下半身をお湯の外に出し、しげしげと鱗の様子をチェックし始めた。


❀❀❀


これは、人魚二人が地上で生きていくための必須習慣。

一日に一度、塩たっぷりのぬるめのお湯につかって、体に塩分を取り込んでいるのだ。定期的に塩水を飲む事も欠かさない。


海花の母親は、れっきとした純正人魚。台風の日、地上に打ち上げられたところを、当時漁師だった父・つよしに助け上げられ、看病されているうちに恋に落ち…そのまま結婚したのだ。嘘みたいな本当の話。

つまり、海花は人魚と人間のハーフ。でも、海花は人生で一度も泳いだ事がない。

もし海花が近所の市民プールなんかで泳いだら、いつ何時なんどき人魚になってしまうかわからないからだ。小さい頃は、夏になると、近所の子供たちがうらやましかった。大きく膨らませた浮き輪を肩にかけて、プールに連れ立って向かう子供たちの後ろ姿を、アイスバーを齧りながらぼんやりと見送っていた。


(私も思い切り水の中で泳いでみたい!)


この気持ちは、いつも海花の中にある。でも、それを口に出したら、優しいお父さんとお母さんに悲しい顔をさせてしまうに違いない。海花はこの思いを、心の一番奥にしまいこんで、決して言わないと決めている。


人魚は、地上にいれば見た目は、人間と変わらない。普通に二本足で生活する事ができる。ただし、気をつけなくてはならない事がある。一番の危険事項は、“大量の水が下半身にかかると人魚の姿になってしまう。”という事。だから、剛が心配して、水に関する禁止事項を海花に発令したというわけなのだ。また、海の生き物ゆえに、魚や貝などは食べられない。魚や貝はあくまで仲間であり、「食べるなんてとんでもない」というわけ。海花は給食を食べられないので、毎日、野菜や海藻だけが詰められた弁当を持参している。ベジタリアンなのだ。


❀❀❀


ふいに、母の舞花が話し始めた。


「私を助けてくれた時のお父さんね、本当に男らしくて素敵だったのよ。『運命の人だ』って思ったわ。」


「お母さん、その話、もう何回も聞いたよ!」


「そうだっけ?」


「そうだよ!」


海花はこの話を聞くと、いつも心がざわざわする。この話をしている時の舞花は、急に“お母さん”から“女の人”になるみたいで…。それに、大きな波が心に打ち寄せてくるようで、苦しいのだ。その波は、わくわくするような怖いような、まだ知らない何かを運んでくるような気がして落ち着かない。海花は言った。


「でもさ、お母さん。」


「なあに?」


「誰かと恋をしただけで、ただ人を好きになっただけで人生を変えちゃうなんて…。迷ったり不安だったりしなかったの?海の中にいれば、こんな不自由な生活しなくてよかったじゃない。こんな窮屈なバスルームじゃなくて、塩たっぷりの海の中で、思い切り泳ぎたいって思わないの?」


海花は、バスルームの棚にずらっと並ぶバスソルトの瓶を見つめた。舞花は、

ちょっと笑いながら答えた。


「恋をしただけ?ねぇ。そりゃあ地上での生活は大変だよ?私、実は、泳ぐのすっごい好きだし、得意だし。スーパーで売ってる乾燥わかめなんかより、海で採りたてのわかめの方が何万倍も美味しいし。それにね、親友の人魚だっていたんだよ。私のお父さんとお母さんだって、海の中だし、ね。」


「…私のおじいちゃんと、おばあちゃん?」


「そうだね。一度も会わせた事ないけど、ね。」


そこで、二人の人魚は、ちょっと黙った。くもったバスルームの中に、ラベンダーのバスソルトの香りが、少し濃く感じられた。そこで、舞花が再度口を開いた。


「海の中の方がずっと楽だって、大切だってわかってたけど。でも、仕方なかったんだよ。だって、海とは離れて暮らせるけど、剛さんと離れて生きていくなんて無理だったんだもん。そんな風に思える人に出会えるって、奇跡だと思わない?」


「キセキ?」


「奇跡!」


舞花はそう言い切ると、急についっとバスタブのお湯の中を移動して、海花の隣に座って言った。


「それで、海花はどうなの?好きな人とか、気になる人、いないの?」


「え?そんな人、いないよ?まだ、クラスメイトの名前も全員は覚えられてないし。友達だって、まなちゃんと結君だけなのに……あっ!」


(一人じゃ、なかった。)


海花の脳裏に、快の顔が浮かんだ。快がはじめて笑ってくれた時、そして海花の名前を呼んでくれた時、なんだかとても苦しくて、同時にすごく嬉しかった。


(あの気持ちは、なんだったんだろう?)


急に黙りこくった海花を見て、舞花が言った。


「あ、怪しいなぁ。今、誰の事考えてたの?」


「え?」


気が付くと、海花の顔は真っ赤になっていた。


「あれ、海花。顔が赤いよ?誰の事考えてたか教えてよ~!」


舞花はそう言うと、海花の腕をつかんで揺すぶった。海花はその手から逃れようとしながら言った。


「赤いのは、暑くなったからだよ!のぼせちゃったのかも。何にも教えないよ!なんでもない!!」


海花は、舞花の手を振りほどくと、あわてて頭の上まで塩湯に潜った。


(私、なんで今快君の事、思い出しちゃったんだろう…。)


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