後編
私が次に目を覚ましたのは、知らない天井の下だった。ガンガンと頭が痛んで、昨日無茶な飲み方をしてしまったことを思い出す。もぞもぞと自分が持つものより何倍もふかふかなベッドから抜け出して立ち上がると、自分が何も身に着けていないことに気が付いた。
「えっ……」
驚きのあまりその場で固まる。なんで私は何も着ていないんだ。なんで私は見知らぬ場所で眠っていたんだ。そんな疑問が次々と湧き出してきて、その答えが頭の痛みに収束する。昨日、私は何らかの理由で無茶な飲み方をし、何者かにここに連れてこられたのだろう。
自分の体に痛みはない。私が這い出たときについたシワ以外に乱れていないベッド。その他の様子から考えて、何かされたというのはなさそうでひとまず安心する。兎に角ここの家主を探さないと。そう思った時だった。
「あ、起きたのね」
透き通るような優しい声が私の耳を撫でた。その瞬間全てを思い出し、ベッドからタオルケットを引き抜いて体を隠すように巻いた。
「あぁ、スーツだと寝苦しそうだから脱がせたのよ。なにもしてないわ。だからそんな顔しないで」
警戒心マックスで九十九さんを睨みつけている私を横目に、下着姿の彼女はコーヒーを淹れはじめた。広いベッドに綺麗に掃除が行き届いたキッチンとつながっている広いリビング。ここが一軒家かマンションかは分からないが、私より遥かに優れた生活水準であることは確かだ。
「……とにかく、スーツを返してください」
「まぁそんなに焦らないで。もう少しゆっくりしていきなさい」
「今日も仕事なんです」
「今日は土曜日よ?」
「うちの会社にはそんなこと関係ないんですよ」
恵まれた人間にはブラック企業の常識は理解できないようで、彼女は目を丸くしてため息をついた。そして彼女は湯気が上がっているコーヒーカップをテーブルの上において、私に歩み寄ってきた。
「かわいそうに。もうそんな仕事やめてさ……」
タオルケットで体を隠す私は自由に動くことができず、追い詰められてベッドの上に尻餅をついた。九十九さんは私の上に覆いかぶさるように片手をついて、もう一方の手で私の頬を撫でる。
「私に飼われない?」
思わず生唾を飲み込むほど妖艶な笑みを向けながら、常識から大きく外れた発言をした。飼う。私の聞き間違えじゃなければ彼女は確かにそう言った。彼女は捨て猫でも拾ってきたつもりなのだろうか。私は人間で、ちゃんと仕事をして自立している。人に飼われるだなんてそんなことありえない。
「ふざけないでください」
「ふざけてなんかないわ。私はあなたが欲しいの」
「それがふざけてるって言ってるんです。はやくスーツを返してください」
早く仕事に行かないと上司に叱られる。今が何時でここがどこかは分からないけど、行かないよりはマシなはずだ。
「……それなら、なんで私を押し退けないの?」
彼女はそう言って私を押し倒した。ふわりと柔らかいベッドの感触が頭に触れ、吐息がかかるほど近くまで彼女の顔が接近する。
「なにを」
「あなたの服はキッチンの横の扉から入れる脱衣所にあるわ」
彼女は無表情で私が知りたかった情報を公開した。じっと私を見据える瞳の奥には得体のしれない何かが渦巻いていて、彼女の感情が分からなくなった。
「嫌ならあなたの手で私を押し退けて。そうしないと、私は止まらないわよ」
「何を言ってるんですか。そんなの……」
仕事に行くという社会人としての義務を果たすため、彼女の言う通り手で押し退けようとした。そう、私は思っているはずだった。
「……なにもしないの?」
私の体は動かなかった。酒で酔った私をお持ち帰りして、今にも襲おうとしている危険な香りがする美人から身を守ることを放棄していた。
「ちがっ、私は……」
私の弁明を聞き入れず、彼女はゆっくりと唇を近づけてきている。大して力を込めていない彼女を押し退けることは容易い。そう分かっている筈なのに、仕事に行かないといけないと思ってるはずなのに、私の体は動かない。そして、彼女の唇がいまにも触れようという瞬間に目を閉じた。
しかし、私が予測していた感触がくることはなかった。目を開けると、さっきまで目と鼻の先にあった彼女の顔は遥か遠くまで離れてしまっていた。
「やっぱやめた」
「え……」
その時、私は確かに彼女の言葉に落胆してしまっていた。彼女のふざけた行動が中断されて、これでいいはずなのに。まるで私が期待していたかのような自分の心の動きに、ほかでもない自分自身が困惑していた。
「同意もなしに無理矢理はダメよね」
彼女は今更常識に沿ったことを言い始めた。
「もう一回聞くわ。私に飼われない?」
もう一度、彼女は私に問いを投げかけた。こんな質問にはいと返事できるわけがない。でも、なぜか私はいいえとも言えなかった。
「ふふっ、そんなに目で訴えてもダメよ。ちゃんと言葉にしてくれないと」
彼女は私自身が分かっていない答えを知っているかのように微笑んだ。愛おしそうに私の頬を撫で、優しい目で私の答えを待っている。
そんな、ありえない。九十九さんに飼われたいだなんて思っている私がいるなんて。確かに私の今の生活は恵まれていない。ブラック企業に勤め、恋人もおらず、趣味もないし、そもそもそんな時間はない。日々の楽しみはやけ食いだけ。でも、人に飼われるだなんて、人としての尊厳を放棄するなんてありえない。
「……もう、じれったいわね」
はいともいいえとも言わない私にしびれを切らした彼女は、優しい手つきで私を撫でながらこう言った。
「私に飼われれば、ろくでもない会社で苦しまなくていいし、不健康な生活も辞められるわ。貴方は何も考えず私の愛を享受するだけでいいのよ」
愛、その言葉で私の心がぐらりと揺れる。怒号とクレームと嫌味を浴びせられ続けて、そんなものは忘れ去っていた。昨日の九十九さんの優しい言葉と、それを求めるようになる心の飢餓状態を思い出し、同時にその症状が再発する。私の顔に触れる手が私の中の熱を高め、少しずつ彼女に心が傾いてゆく。
違う、ダメだ。こんな怪しい奴の手に乗って仕事を辞めて飼われるなんて。そんなことをしたら、彼女の気分一つで私の人生が終わってしまう。何年も必死に頑張ってようやく自立できたのに、それをすべて捨てて彼女の愛にすがるほど馬鹿になれない。断ろう。いくら辛くても、人間としての尊厳を捨てることなんてできない。
「でも、もしあなたが断ったらもう私とは永遠に会えないわね」
「えっ……?」
「ん? 当たり前でしょ。こんな無理矢理なことをして断られた子と、また顔を合わせるなんてできないわ」
いやだ。
いや、違う。今私なんて考えた? この人に会えないのが嫌だなんて、それじゃあまるで、こんな出会って間もない変人を好いているみたいじゃないか。
こんな人に惚れるなんておかしい。趣味が悪すぎる。早く逃げよう。こんな人に飼われたら、絶対に頭がおかしくなる。逃げないと。
でも、もうきっとこんな人には出会えない。こんなにも私を愛してくれて、こんなにも優しくしてくれて、こんなにも私を求めてくれる人なんて。
そうか、これは神様がくれた最後のチャンスなんだ。
この人から逃げて変わらず死んだも同然な人生を送るか、人としての尊厳を捨ててこの人に飼われるか。まったく、なんて意地悪な二択だ。真面目に生きてきた人生の終着点がこのどちらかだなんて。
だったらもう、いいじゃないか。
「……てください」
「うん? なんて?」
私の声が聞き取れなかった九十九さんが改めて耳を傾ける。わざとらしい身振りで、この人は本当は聞こえていたのだとわかった。でも、小声だったのが気に食わなかったんだろう。はっきりと聞き取りたいがために意地悪しているのだ。
これがもう最後のチャンスだ。次の発言が私の人生のすべてを決める。これから私がやろうとしていることを止めようとする冷静な自分の声が聞こえる。それを振り切って、絞り出すように改めてこう言った。
「私を、飼ってください」
終わった。とうとう言ってしまった。でも、仕方ないじゃないか。だって……
「いい子ね」
私が私に言い訳するより先に、九十九さんに唇を奪われた。その瞬間、私の中で渦巻いていた思考はすべて吹き飛んでしまった。
傷つけないように優しく触れるようで、ちゃんと私を求めてくれているキス。あらゆる愛が欠乏し、飢餓状態に陥っていた私にとって九十九さんのキスは劇薬だった。
九十九さんへの警戒心という心を守る牙城は一瞬で破壊され、心が丸裸にされてしまった。そして九十九さんは容赦なくそれに触れて、愛を注ぎ込む。
私の思考はドロドロに溶かされて、もう全てがどうでもよくなってしまった。ただ一つ言えることは、私の選択は正しかったということだけだ。
私の息が続かなくなりそうになった時、彼女は私から唇を離した。身体中が火照って懸命に呼吸をする私の頬を撫でながら、九十九さんは愛おしそうに私を見下ろしていた。
「ふふっ、かわいい」
彼女の言葉一つで胸がキュッと締め付けられる。未だかつてないほどの多幸感に包まれた私は、自然と柄にもない甘い声を出していた。
「九十九さん……好き」
「ありがと。私も好きよ」
脳が溶けた私が吐き出した愛の言葉を、彼女は笑顔で受け入れてくれた。それだけで、私は満たされてしまう。好き。
ぽやぽやと意識が朦朧としていた私に、彼女はさっきより深いキスを落とした。好き。私の舌を絡めとり、受け止めきれないほどの愛に溺れる。すき。それでもまだ足りないわがままな私は、腕をのばしてつくもさんをだきしめた。そしたらうれしいって言ってくれて、もっとあいしてくれた。すき。
もうなんにもわかんないわたしは、だいすきなつくもさんにあいをただひたすらそそがれつづけた。
○○○
ベッドの上に生まれたままの姿で寝そべっている私は、息も絶え絶えで身体をビクビクと痙攣させていた。けれど胸の内は多幸感で満たされていた。
そんな私からいったん離れ、戻ってきた九十九さんの手には私のスマホが握られていた。彼女は電源をつけて、それを私の顔に向けるとフェイスIDによってロックが解除された。
「じゃあ、藍ちゃんが持ってる連絡先全部消しちゃうね」
「えっ……」
突然の彼女のおかしな行動に、動かない体の代わりに視線を向ける。しかし彼女は手を止めるどころか、私に冷たい視線を向けてきた。
「当たり前でしょ。私は飼い主で、あなたはペットなの。私はすべてを管理する権利があるし、あなたに拒否権はない。わかった?」
九十九さんにそう言われた瞬間、私は彼女の機嫌を損ねてしまったことにひどく恐怖した。九十九さんに捨てられる。それの可能性がよぎった瞬間、怖くて怖くてたまらなくなり、動かないはずの体を無理矢理動かして彼女にひれ伏した。
「ご、ごめんなさい」
「あぁ、いいのよ藍ちゃん。怖がらなくていいの。私は藍ちゃんのことが好きだから」
九十九さんは恐怖で震える私を安心させるように優しい声で語りかけながら私の頭を撫でた。私が頭を上げると、ほほ笑んでいる彼女と目が合った。
「藍ちゃんは私のこと好き?」
「は、はい! 大好きです!」
「そっか、よかった。なら私の言うこと聞けるよね?」
「うん。いうこと聞く」
「ふふっ、いい子ね。愛してるわ」
そう言って私の頬にキスをすると、私のスマホから連絡先をすべて消した。
「家族も友達も嫌いな上司もせーんぶいなくなっちゃった」
九十九さんは楽しそうに笑いながら、空っぽになった連絡先の画面を見せつけた。
「どう? 幸せ?」
今消された連絡先だけでなく、免許証も財布も家の鍵も全部彼女に握られている。つまり、私は完全に九十九さんのペットに身を堕としたのだ。そんなの、そんなの……
「はい、幸せです」
幸せ以外の何物でもないじゃないか。
こうしてこの日、佐倉藍という人間は死に、九十九桃は一風変わったペットを手に入れた。
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