相席失礼します
SEN
前編
私の名前は
最悪のルーティーンが出来上がってしまっている私は、もう一生社畜なんだろう。
そんな私は仕事を終え、いつも通っている居酒屋に足を運んでいた。ここは私の荒んだ生活の唯一の癒しであり、日々溜まった鬱憤を酒を飲んで忘れられる場所だ。
まさにここはオアシス。ビールを喉に流し込む瞬間だけが、私が生を実感できる時間だ。
こんな生活をしてていいのかと、恋人もおらず友達ともろくに会えない生活のままでいいのかと、一生現実逃避を続けるのかと、脳内にいる正常な私が叫んでいる。しかし、正気になったら心が壊れてしまう。
私は店員が運んできたジョッキを手に取って、ビールで自分の正気を押し流す。
「ぷはー! さいっこう!」
これでいい。これでいいのだ。枯れた社畜なんぞにはこんな壊れた生活がふさわしいのだ。そんな諦観を抱きながら暴飲暴食をしていた時だった。
「相席、いいかしら」
鈴の音が鳴るような声が、壊れた私の耳をそっと撫でた。食べていた焼き鳥を置いて顔をあげると、モデル級の美人さんがテーブルの隣に立っていた。
「あ、はい。どうぞ」
「ありがとう。失礼するわ」
イエスの選択肢しか持たない社畜の哀しい性ゆえに許可してしまったが、他にも空いている席があるのに何でこの美人さんは私と同じテーブルに座ったのだろうか。
「店員さん、私もビールを」
「はいよー」
彼女はあまりにも自然な動作で店員さんに注文をする。他の人から見たら、間違いなく彼女は私の飲み仲間と思われるだろう。
「えっと、私に何か御用ですか?」
突然現れた美人さんを警戒し、今更ながら質問をする。するとようやく彼女は私と目を合わせてくれた。
「別に、かわいい子がいたから一緒に飲みたいなって思っただけよ」
美人さんがそう言ってにこりと笑った。まるで花が咲いたかのような可憐な微笑みは、男女関係なく誰もが惚れてしまうだろう。あまりにも美人過ぎて私も警戒心を削がれてしまった。いやいや待ちなさい。初対面の人に可愛いとか言って突然相席してくるなんて、いくらなんでも怪しすぎる。
「褒めても何も出ませんよ」
「そう? さっきの照れた顔、可愛かったよ」
「は、はぁ!?」
彼女はいいものを見させてもらったと言うように冗談めかして笑った。その顔も綺麗だったからたじろいでしまって、また彼女が笑う。
「素直に顔に出ちゃうところもかわいいね」
「なんなんですか、ナンパはお断りですよ」
「あら、ふられちゃった」
彼女は芝居がかった身振りで口先だけの落胆を示した。なんなんだこの人は。こんな変な美人さんになんて会ったことない。
「はい、ビールです」
店員さんがビールを持ってきて彼女の前に置く。彼女はそれを居酒屋には似合わない綺麗な指を使って掴むと、まるでアフタヌーンティーでも嗜むように上品に口をつけた。
「これ来ちゃったから、せめて飲み終わるまでは一緒にいさせてね」
「まぁ、それくらいなら」
まったく、私の癒しの時間に変人に絡まれるなんてついてない。でもこれでようやくおさらばだ。なんて思っていたけど、飲むスピードが遅すぎる。かれこれ体感時間一時間ほど過ぎても一向に飲み終わる気配がない。
しかもさっきまでずっとしゃべってたくせに、今はうんともすんとも言わない。さすがの私もこの空気には耐えられず、彼女に話しかけてしまった。
「あの、おつまみいります?」
「あら、ありがとね」
彼女は何のためらいもなく私の枝豆を一個とって口に運んだ。私から提案したとはいえ、いくらなんでも遠慮がなさすぎる。しかもせっかくおつまみをあげたのに、ビールが減るペースは一切変化しない。相変わらず黙ったままだし、気まずい空気も嫌なので私から話を振ることにした。
「えっと、名前はなんていうんですか?」
「ふふっ、私に興味出てきたの?」
「あなたが黙ってるから仕方なく話してるんですよ」
嬉しそうな顔をした変人のたわごとを一刀両断する。しかし彼女はにこやかな表情のまま話を続ける。
「私の名前は
「そうですね。そういえばもをめちゃくちゃ沢山言う早口言葉とかありましたね」
「実は私、こんな名前だからそれ言うの得意なのよ」
「へぇ」
「やってみようか」
私の返事を聞かないまま、九十九さんはジョッキを置いて深呼吸をすると、宣言通り早口言葉を唱え始めた。
自信満々に始めただけあってかなり速く、しかも発音がはっきりとしていた。美人なだけあって声も美しく、ただ早口言葉を言っているだけなのに、まるで劇場の歌姫の歌声を聞いているかのような錯覚をした。
「どうかしら?」
「え、あぁ」
九十九さんに見惚れてしまって私は返事が遅れてしまった。一度咳払いをして気持ちを切り替え、平静を装って返事をする。
「上手ですね」
「見惚れちゃうくらい?」
「んなっ!?」
こうやって揶揄われるのが嫌だから誤魔化したのに、その努力もこの不思議美人には無駄だったようだ。楽しそうににやにやと笑って私を見つめる目も、きらきらと輝く宝石みたいに綺麗に見えてきた。
これはだめだ。いくら魅力的な美女であっても、こんな不審者に心を許してはいけない。ぶんぶんと頭を振って何とか冷静さを取り戻し、九十九さんを睨みつけた。
「うるさいです。早く飲んでどっか行ってください」
「あら、ごめんなさいね。気を害してしまったなら謝るわ」
九十九さんの謝罪は全く心がこもっていなかった。一日に何度も謝罪の声を聞く私が言うのだから間違いない。
「もうすぐ飲み終わるから待っててね」
「本当に待ち遠しいです」
この居酒屋で何も考えずに飲むのが私の人生で唯一の至福なのだ。こんな変人さっさとどっかに行ってほしい。というか、私の至福の時間を返しやがれこの野郎。
そんな感じで心の中で悪態をついていたら、いつの間にか彼女はビールを飲み干していた。おかしい。さっきまでのペースならまだまだ時間がかかるはずだ。それなのにもう飲み干しているということは、本当に申し訳なく思って素早く飲み干したのだろうか。
改めて九十九さんの顔を見ると、まるで先生に怒られた幼稚園生みたいな、反省の心を抱いた悲しそうな顔をしていた。さっきまで大人な魅力を見せていた彼女が覗かせた幼い表情に、私の脳がぐらりと揺れる。
なんだ。なんなんだその顔は。まるで私が悪者みたいじゃないか。悪いのは九十九さんなはずなのに、胸の奥からあふれる罪悪感が止まらない。
「それじゃあお邪魔したわね。さよなら」
寂しそうな顔をして席を立つ彼女を無言で見送ることなんて、彼女の魅力に頭をやられた私には不可能だった。
「佐倉藍」
「え?」
突然呼び止められた彼女は振り返った。その顔には困惑が見て取れて、頬には一筋の涙が流れていた。
「私の名前です。まだ言っていませんでしたから」
「そっか、うん、一緒に飲めて楽しかったわ。藍ちゃん」
帰る間際に彼女が見せたその笑顔は私の頭から離れてくれなかった。
九十九さんがいなくなったテーブルで、私はつまみの焼き鳥に手を伸ばす。一口食べてみると、大好きなはずのねぎまは味気なく感じた。
なんでだ。この状況は私が望んだもののはずでしょ。いつも通り一人で暴飲暴食して現実逃避するのが私の至福の時間のはずでしょ。なんで寂しいなんて、目の前の空席が物足りないなんて思ってるんだ。
「大将! 追加オーダー!」
私は何かを誤魔化すように大声をあげて追加のつまみとビールを注文した。運ばれてくる料理を次々と口に放り込んで、すべてをビールで流し込む。
味なんて感じない。でも、だんだんと酔いが回ってきて意識が朦朧とし始めた。そうだ、これでいい。これで今日のことなんて、九十九さんのことなんて忘れられる。
そう、思ったのに。
名前なんて呼ばれたの、久しぶりだな。
何を考えてるの。やめて。九十九さんのことなんて忘れて。
佐倉って上司に怒鳴られ慣れたから、あんなにやさしく名前を呼ばれたら忘れられないよ。
ちがう、ちがうちがう。
可愛いなんて言われたの、子供のころ親に言われた以来だな。
やめて、やめてよ。
もう一度会いたいな。
「うあぁぁぁぁぁぁ!!」
ドンっと机をたたき、頭を掻きむしる。むちゃくちゃだ、九十九さんのせいで私の心はめちゃくちゃだ。会いたいなんて、自分から追い出したくせに。
人に求められなくなって何年も経った私にとって、九十九さんの言葉は猛毒だった。
会計を済ませた後、ふらふらと安定しない足取りで店の外に出る。冷たい夜風が吹き抜けて、私の体を冷やす。
会いたい、声が聞きたい、名前を呼んでほしい。酔いつぶれて意識が遠のく中で、思考のすべてが九十九さんに乗っ取られていた。
一歩足を踏み出した瞬間、ふわりと体が浮いた。あっ、これはこけたと思って反射的に目をつむった。しかし、私は地面に激突することなく、何かに受け止められた。
柔らかく、酒の匂いがプンプンする私を覆うくらいの甘い匂い。何者だと確認するため、重い頭を上に向けると、やさしい表情で私を見下ろす九十九さんが立っていた。
「つきゅもしゃん……?」
「うん。九十九さんだよ」
呂律が回っていない私の言葉を聞き取って、九十九さんは優しく私の頭を撫でた。それがひどく気持ちよくて、なんでこんなところに帰ったはずの九十九さんがいるのかなんて疑問に思わなかった。
「あーあーこんなに酔っちゃって」
「つくもしゃぁん……」
「はいはい、いい子だね」
九十九さんに会いたくて堪らなかった私は、現状の不自然さに気付かぬまま彼女に甘えた。それを九十九さんは優しく受け入れてくれたから、私はさらに深みにはまってしまった。
「一人で帰れる?」
「むりぃ……」
「だよね。なら、私の家に行こうか。酔った女の子一人じゃ危ないから」
「うん……」
優しく抱きしめてくれる彼女の言葉を、私はすべて受け入れてしまった。彼女の表情を見ないまま、彼女が何を考えているか知らぬまま。
「はい、おんぶするからおいで」
「うん……」
もはや九十九さんに言われるがままの私は何も考えず彼女の背中に体を預けた。すべてを受け入れてくれる心強い背中と、彼女の甘い匂いで安心しきった私はそのまま眠りの世界に落ちてしまった。
「これで貴方は私のもの」
意識が途切れる直前に、歪んだ笑顔で呟いた九十九さんの言葉を、私は正しく認識することができなかった。
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