別れの予兆
賢治は会社の一年先輩だ。精密機械関連の会社で、啓子は総務部に入った。そこに賢治がいて二年間一緒だった。
その後、賢治は営業部へ移ったが、ある日偶然にk画廊で会った。
会社には催し物のポスターやビラが年中貼られている。
その中で、銀座のkという画廊で開かれている個展のポスターが悦子の目をひいた。
そこには、一枚の絵が印刷されていた。
西域トルキスタンの老人を描いたものだ。深い皺に刻まれた顔と、遠くを見る表情が何かを語りかけてくるような気がして、画廊を覗こうかと思ったのだ。
六月の日曜日。自宅のある行徳から東西線で銀座に出た。
画廊を覗いた後は、食事をして、デパートか八重洲ブックセンターに行こうと考えた。
画廊には四、五人の客がいた。他には受付の若い女性。画廊の奥の窓際にあるテーブル席に二人の男性がいた。
こちらも向いている男性がひょいと顔を傾け、手を振ってきた。かつての同僚の賢治だったので少し驚いた。
賢治はまるでここで待ち合わせしたかのように、自分の隣の席へ恵津子を促した。
そして目の前の男と引き合わせた。今日の個展の主、藤田泰三だった。
上着もズボンも青いジーンズで、年齢は四〇歳ぐらいに見えた。
「僕の叔父だよ」と、賢治。
藤田は名乗りながら名刺を出した。
「いやあ、よく来てくれました。いや、本当に若くて美しい人に絵を見てもらえるなんて、嬉しいですね」
やはりどこか賢治に面影が似通っていた。
「あの、私、まだ絵を拝見してませんので」
「どうぞご覧ください。後で批評もお願いします」
二人はまた雑談に戻った。
藤田の絵は、ほとんどが人物画だ。
風景が描かれた絵にも必ず人が配置されている。
ポスターにあった絵の前でしばらく佇む。
一〇〇号ほどの油絵。
その絵もほかの絵も何か物語性のあるものに思えた。
二〇枚ほどの絵を見終わるころ、藤田と賢治がそばにやって来た。
「とても素敵です。私、絵を描けないのですが、でも私も描いてみたいと思わせるような絵です」と感想を伝えた。
それは最高の言葉ですよ。そう思わせたら、しめたものだ。いや、ありがとう」
藤田は軽く頭を下げた。
「賢治さんも描くの?」と聞いてみた。
佐竹と呼ばず、普通に賢治と呼んでいた。
「うん。まあ僕のは、ナマクラだけど」と訳のわからないことを言った。
その日を境に二人は急速に近しくなった。もともとひかれるものを感じていたのだなと、恵津子は思った。
二人は週末に食事をするようになっていた。
部署が違うと、仕事の終わる時間もそれぞれで、なかなか普段会うのも難しい。
賢治の部署は海外との取引もある。こちらの夜が相手の朝だったりして不規則になりがちだ。
賢治の部屋で食事でも作ってあげられれば、と思わなくもなかったが、自分の方から口にするのも押し付けがましい気がして言えなかった。
画廊で会ってから五カ月も経つ頃になると、賢治は忙しさに拍車が掛かり、会社に寝泊まりということが多くなった。
「ごめん、一緒に食事したいんだが、帰れそうになくて」ということが重なった。
そんな日が続いて、少し寂しさを感じ始めたころ、嫌な噂を聞いた。
「佐竹さん、ほら、総務にもいたことあるでしょ?あの人、結婚するみたいなの」
いつも誰かしらの噂の絶えない更衣室での囁き。
自分と賢治のことを知っている者もいないはずだし、噂の相手が自分であるはずもなかった。
それからしばらくして偶然賢治を見かけた。
会社から飯田橋駅に向かう途中の喫茶店。
メインストリート一本入った通りだから、恵津子は普段は通らない道だった。
母の誕生日で、花を買って帰るつもりだった。
たしか花屋があったと思いながら、その通りに出た。
花を買って少し歩き始めると、通りの反対側に喫茶店があった。
店内の証明が明るい喫茶店で、外から客の顔がはっきりわかる。
窓際に賢治がいた。
向かい合っているのは、同じ営業部の小島京子という女性だった。
恵津子の一年あとに入社している。
その京子が泣いている・・・。
恵津子は、賢治に見られることを怖れ、足早に駅に向かった。
男と女が向き合い、そして女が泣いている。これは、どういうことを意味するのだろうか。
あの更衣室の噂話は本当なのだろうか。恵津子は暗澹たる思いのまま、歩き続けた。
「行徳といえば、海が近いね。そのうち、釣りに行きたいな」
賢治が言ったことがある。
見合いの話が持ち上がったとき、釣りに来た賢治を母に紹介しておけばよかったのに、と悔やんだ。
気乗りはしなかったが、話を持って来た叔母の顔を立てなければならない。
ましてや賢治は結婚するかもしれないのだ。
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