6−3 祝福された者
ケルティスの教えの中に、こんな言葉がある。
“変化のとき、精霊たちは祝福された者のただ中から、呪われた者を選り抜く。
彼は目覚め、復讐をはじめる”
言葉がなく、世俗を離れた魂の清らかな人びとを、ケルティス人は“祝福された人”と呼んでうらやむ。彼ら彼女らには罪がない。よって、巫女よりも精霊の国にちかい存在と考えられている。
トートもそうだった。
言葉が遅く、話すとしても他人の言葉をくり返すだけ。
悩みからはなれ、真実自由の魂を持つ者。
だれが見ても、トートは祝福されていた。
ノラもエイダンも、トートが祝福されているとわかったとき、たがいに身をふるわせた。
まさか、里子として自分たちに与えられた子どもにそんな誉れがあるとは。
もちろん、エイダンははじめこそ、ほんの少しだけ、がっかりした。
彼はペトスコスのために『役に立ちたい』と考えていた。ひとりでも多く働き者の子どもを産んで、主人に恩返しをしたかった。だが“祝福された者”は、ケルティス人にとってこそ誉れでも、テリ人にとっては要らぬ奴隷でしかない。
しかし、ペトスコスはまったく気にしていなかった。そもそも、彼は自分の利益のために奴隷を欲しがる人間ではない。トートがどんな人間でも、彼は普通に接した。手のかかるトートのために、特別な計らいをすることもいとわなかった。それに気づいたエイダンは、すぐにトートを心おきなく愛しはじめた。
もちろん、祝福された者の中には“呪われた者”も混じっている。だが、可能性はかぎりなく低い。この国のケルティス人のうちの、たったひとりが呪われた者ならば、トートがそのひとりだなどと、どうして思える?
同胞を奴隷としてテリ人に売った、罪深きケルティスの王。
その王を殺した、父親殺しの王子。
その血を受け継いだ子どもは、代々“呪われている”という。
見た目にはわからない。里子制度があるために、ケルティス人の血筋は三代たどることもかなわないのだ。予言にある“変化のとき”がきてはじめて、精霊の力を借りた巫女がその子どもを指し示し、教えをほどこすのだと信じられている。
ケルティス人ならだれもが知っていること。
“祝福された者”の中に、ケルティスを裏切った、王の末裔がまぎれている。
その子は本当には祝福されていない。祖先が犯した罪の呪いによって、頭にもやがかかっているだけ。いずれ“とき”がくれば、精霊によってもやがはらわれる。
そのとき、彼はケルティス人を本当の意味で救い出す。
テリ人に鉄槌を加え、復讐をはたすのだ。
アズマイラは中庭をのぞめる食堂のテーブルで、うつらうつらしていた。
ターシャに与えられた黒板をひざの上にのせ、文字を写し取る。ときどき、目を上げて庭をながめると、ターシャに手をぱちんとたたかれた。
「ほら、集中して」
「……はい」
十日前まで、ターシャは自分をたたくことなどなかった。
アズマイラは抗議したかったが、自分の味方になってくれそうな人が、いまはいない。
日陰で刺繍をしているシャンは最近信用できないし、中庭で土をほじくっているトートは人の言葉をくり返すばかりで、理解しているかもうたがわしい。エイダンとノラは新しい仕事を見つけたらしく、昼間は家にいなかった。
「さあ、アズマイラ。つぎはこの字を書いて」
アズマイラは急にさみしさがこみあげてきて首をふった。どうしたの、とターシャがけわしい顔で首をかしげる。
「昨日やったところよ、アズマイラ。これくらいおぼえないと」
「ペトスコスに会いたい」
アズマイラは小さくつぶやいて、わっと泣き出した。
ターシャがあきれたように目をぐるっとまわし、シャンが布を放り出してかけつけてくる。トートはあいかわらずだ。らんらんらん、と歌う声を大きくさせて、アズマイラの泣き声を自分の中から追いやろうとしている。
トートはいつもこうだ。悲しいことや、つらいことから目を背け、歌ってまぎらわせようとする。それが、アズマイラには許せない。もっともっと大きな声で、するどい叫びで、トートの耳をつんざいてやりたいと思う。
「アズマイラ、いい加減にして! わざと人を困らせるような泣き方は、大人にはちゃんとわかるのよ!」
ターシャのことは好きだったけれど、いまはきらいだ。
シャンがアズマイラをだきよせて、「かわいそうに」と甘ったるい声を出す。だが、アズマイラはシャンを押しのけた。シャンは傷ついた顔をしたが、アズマイラはそれを見ても、いい気味だとしか思わなかった。
シャンのせいで、アズマイラは先日、火傷をした。
火傷をした直後は自分のせいだと思っていた。お茶を入れるのが下手なせいで、自業自得で痛い目にあったのだと。だが、あとでシャンがノラにしかられているのを見て、自分は悪くなかったと気がついた。
アズマイラは、シャンがそばについていなかったせいで痛い思いをしたのだ。
だから、シャンは信用できない。
「いやだ、いやだ、いやだー! シャンきらい! トートもきらい! ターシャもきらい! ペトスコスに会いたいの!」
ぎゃーっとさけぶ少女に、ターシャは頭のわきで両手をひらひらふって「もう耐えられない!」とさけんだ。
「やかましいったらありゃしない! 今日は帰りますからね、シャン。そのわがまま娘をなんとかしておきなさい。まったく! テリ人はこれだからいやなのよ。甘やかされて、泣き虫で」
ターシャが自分のことをあけっぴろげに悪く言うなんて、いままでなかったのに。アズマイラはくやしかった。ターシャはいったいどうしてしまったんだろう。なんで急に意地悪になってしまったのか? アズマイラがなにをした?
ターシャが荷物をまとめ、シャンがおろおろしながら玄関まで送っていく。庭ではトートがほとんどさけぶような声で歌を歌いつづけている。歌詞なんてない、複雑性もまったくない、延々とおなじメロディをくり返すだけの歌。
らんらんらん、らんらんら、らんらんらん、らんらんらー。
トートなんて大嫌いだ、と、アズマイラは思った。
どっかへ行っちゃえばいいのに。
ペトスコスが戻ったら、トートを追い払ってもらおう、と、アズマイラは泣きながら思った。アズマイラの父親はこの家でいちばんえらいから、それくらいしてくれるはずだ。なんてったって、自分はペトスコスの娘なのだから。きっと父親は、娘の言葉を受け入れてくれるはず。
だがその父親は、十日経っても帰ってこない。
もとから忙しい人だった。
だけど、こんなにも長いあいだ家を留守にするなんて。
アズマイラはますます泣いて、庭に戻ってきたシャンをこまらせた。
「アズマイラ、お願いだから泣きやんで。私だってペトスコスに会いたいよ……」
「うそつき、うそつき、うそつきーっ!」
みんな信用できない。
きっとみんな、アズマイラのことがきらいなんだ。
アズマイラがそう思って絶望しかけたとき、玄関のドアをたたく音がした。
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