6−2 青銅の首輪

 ノラはふり返って声の主を見た。こちらへゆったりと歩いてくる相手に、ほっと安心し、笑顔で応える。


「ケルヌン」


 彼は以前からよく顔をあわせる奴隷のひとりだった。


 ケルヌンの主人もペトスコスとおなじ官邸につとめていて、休みの日や仕事のタイミングがかちあうのだろう、市場や食堂で会うことが多かった。家内奴隷にしては筋骨たくましい大柄な男で、酒がまわると吠えるようによく笑う。


「まだ城下町にいたか。会えてうれしいよ」


 ケルヌンは力いっぱいノラと握手すると、ちらとテリ人の少年が店番をする品ぞろえを見やり、「せこい商売するくらいなら、さっさと引きあげな」と文句を言った。


 ケルティス人に不機嫌な言い方をされたことがないのだろう、テリ人の少年はびくりとして顔をふせた。なにか声をかけようとしたノラの背を押して、ケルヌンが歩き出す。


「行こう、ここにはろくなのがない。とにかく、会えてよかった。知り合いがつぎつぎいなくなってくからな。エイダンもいっしょか?」


「もちろん。結婚してるもの、はなれたりしないわ」

「そりゃわからんぞ。離縁する者も出はじめているそうだからな」


 ノラは足を止めてケルヌンを見あげた。

「どういうこと?」


 ケルヌンは少しばつの悪そうな顔をした。


「わかるだろ、みんながあんたらのように、いい結婚をしたわけじゃない。そりゃ、中には離縁するやつも出てくるさ。テリ人の器のせまい神とちがって、巫女さまは離縁も再婚もとがめないからな」


「それは……そうだけど」


 ケルヌンは肩をすくめ、太い笑い声を立てた。


「おれは当然の流れとみているがね。これから変化はどんどん起こるぞ!」


 そうね、とつぶやきながら、ノラはそっと胸に手をあてた。ケルヌンは「ま、あんたがたは大丈夫さ。このあたりじゃ、有名なおしどり夫婦だ」と言って朗らかに笑い、ふたたび歩き出す。


 ケルヌンは昔から気さくな人間だったが、自由を得て、折りたたまれた羽を思いきり伸ばすように生き生きとしていた。これほど楽しげではつらつとした彼は、はじめて見る。


 背の高いケルヌンと並んで歩くと、ノラは父親に連れられた子どものような気持ちになった。必死で追いついていくしかない、非力な小さい子どもに。


「それで、あなたも主人に雇いなおしてもらえたの、ケルヌン?」

「いや、おれは自立した」

「え?」


 ケルヌンはにっと笑って、通りの向こう、イスラの群れのひとつを指さした。


「あっちに部屋を借りたんだ。最上階の、せまい部屋だがな。仕事は新しいのをはじめる。平原区に行かずにイスラを借りるケルティス人は、けっこういるんだ。いまは仲間をあつめてるところさ」


「新しい仕事……? そんなこと、できるの?」


「なんだってできるさ! ケルティス人だけの食堂を作るんだ。客も従業員も仕入れ先も、テリ人はおことわりだ。いいだろう? 明後日にははじめられる。いま、壁に巫女さまの絵を描いてるところだ。かならず食いに来いよ」


「こんな時期に、食堂を?」


 ノラはちらりと活気のない市場を見た。ケルヌンが吠えるように笑う。


「魚は、ケルティス人の漁師をやとう。酒も穀物もくだものも、ケルティス人のほうがよほどうまいもんを作れる。舟や畑を少しずつテリ人から買い取って、完全にケルティス人だけで完結する流れを作るつもりだ。おれたちがはじめたら、まねする連中も出てくる。これからは、テリ人のほうがさもしい思いをする時代が来るだろうよ」


 ノラの背すじがゆっくりと冷えていった。


 なぜだろう。ケルヌンの計画は、おそらくケルティス人がきけば、だれもがすばらしいと言うはずだ。手を貸したい、流れに乗りたいと言う者も多いだろう。


 なのに、なぜか、ノラはこわばった笑みを浮かべていた。


 気さくで頼もしいケルヌンが、なぜか知らない人間のように見える。


「ところで、おまえさんはどうして、まだそんなもんをつけてなさる?」


 ケルヌンはノラの首輪に目を向けながら、つまらない顔をした。


 ノラはびくりとして、あわてて首輪に手をそえた。


「……ペトスコスが、投獄されて。カギがないの」

「よければ、腕のいい鍛冶屋を紹介するが?」


 ノラはあわてて首をふった。


「無理やり外すのは、こわいから」

「まあ、そうだな」


 ケルヌンはしぶしぶ認めた。


 青銅の首輪は幼いころに首にはめられる。成長するにつれて肌にぴたりと密着し、無理やり外すことはできなくなる。


 ノラのように小柄な女はまだいい。だが、ケルティス人の男は、テリ人よりも体格面で恵まれている。青銅の首輪はテリ人にとって、奴隷を生かしておいてもいいかどうか、命を測るための道具なのだ。


 首輪が首に食いこみ、苦しみ出すと、奴隷の主人は「強くなりすぎた」と考えはじめる。自分と家族の安全のために、最善の策をとろうと考えはじめる。


 ケルヌンのように大柄な男が人柱にもやられずに町を闊歩できていたのは、主人が官邸につとめる、平和ボケした役人だったからだ。彼が平原区で育っていたら、どこかでかならず危険視され、奴隷商人に売られていただろう。


 ケルヌンは、自分が生きているのは運が良かっただけだと知っている。


 だからノラはなんとも言えなかった。


 ケルヌンのことを批判できない。

 いや、批判したいとすら思わない。


 ただ、自分でも意外だったが、いますぐ彼のそばをはなれたい、と思った。


「私、そろそろ帰るわね。あまり遅くなると子どもたちが心配するから」

「ああ、そうだな」


 ケルヌンはノラから半歩距離をおいた。


 おかげで、ノラはほんの少し、安心した。


「あっちのイスラの一階で商売をはじめるからな。エイダンにも伝えてくれよ」

「かならず」

「ああ、それと、ノラ」


 きびすを返して歩き出そうとしたノラは、ケルヌンをふり返った。


「なに?」

「トートは元気か?」


「……なぜ?」


 ケルヌンはくつくつ笑っている。ノラは胸がざわついた。


「わかるだろう。いまが“変化のとき”だ」


 ケルヌンはまっすぐノラを見すえた。


 ノラの心臓が早鐘のように打っている。


 ――変化のとき。


 その言葉を知らぬ者はいない。


 テリ人に奴隷とされ、踏みつけられたケルティス人の最期の自由。


 それは信仰だ。


 木の言葉を重んじるケルティス人の信仰を支える、巫女の言い伝え。


「巫女さまが、“祝福された者”の中から“呪われた者”を指し示すときだ」

「……“変化のとき”が、今回のこととはかぎらないでしょう」


 ノラは笑ってみせたが、その顔はこわばっていた。そうかもな、と肩をすくめるケルヌンは、まったくそうは思っていない顔だ。


 だいたい、これが“変化”でないとしたら、いつが“そのとき”なのだ?


「……トートは祝福されてる。呪われてなんかいないわ。育てている私が、いちばんよくわかってることよ」

「ああ、そうかもな……だが、母親ってのは、子どもを愛しすぎるだろう?」


 ケルヌンはふくみのある顔で言った。


 彼はこう言いたいのだ。


 愛しすぎると、人はときに真実を見誤ると。


 ノラはだまってケルヌンに背を向け、歩き出した。


 歩調が自然はやまる。


「ノラ! またな!」


 ノラはふり返らずに手だけふった。


 彼が自分の背中を見つめつづけていることには、気づかないふりをした。

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