6 王家の伝説

6−1 魚市場

 王の命令から丸三日がすぎた。


 はじめの混乱はすぎ去っていた。それでも、町は以前と様子がちがった。


 道行く人々は急ぎ足で、うつむきがちに目的地だけを目指した。ときどき路上で立ち止まり、世間話をする者は、テリ人同士かケルティス人同士かのどちらかだった。


 彼らは油断なく周囲を警戒し、情報を交換しあい、すぐわきを異人種がとおりかかると、いったん会話を途ぎらせ、相手がききとれないくらいはなれてから、ひそひそと会話を再開させた。


 テリ人の子どものお守りをしているケルティス人はひとりも見かけない。テリ人の荷物持ちをさせられているケルティス人はひとりも見かけない。テリ人とあいそ笑いをしながら道を歩くケルティス人はひとりも見かけない。


 この三日間、ケルティス人のかたまりが荷物を背負って、城下町の外、平原区へぞろぞろと歩いていく光景を、いく度も見かけた。


 彼らは絶望の表情をたたえていたり、希望に満ち満ちていたり、さまざまだった。巫女や精霊をたたえる歌を歌いながら歩く者もいて、テリ人に苦々しい目を向けられ、それにめざとく気がついて、なにか文句があるのかと腕をまくり、そこかしこで流血沙汰のさわぎがおきた。


 ノラは肩にかけたカゴのひもをぎゅっとにぎり、顔をふせて石畳の道を急いだ。


 石畳の上には割れた陶器やガラスの破片が散らばり、くだものが散乱し、だれにも掃除されずに汚れたまましみを作っていた。しみのいくらかが妙に赤黒いことに、ノラは気づかないふりをした。


 それをさしおいても、気になることはいくらでもあった。


 イスラの一階の店が軒並み閉店中なのが気になる。路上の行商がほとんど姿を見せていないのが気になる。ロバや牛に荷を引かせる人がいないのも、水売りがいないのも、乗り合い馬車と一台もすれちがわないのも、ノラをどんどん不安にさせる。


 大通りをまがって魚市場につきあたると、ノラは落胆した。


 ああ、まだ。


 魚市場は閑散としていた。ほとんど商売など行われていない。


 ほんの三日前まで、あり得ない光景だった。城下町でいちばん活気があり、平原区につづく門まで広がる魚市場は、この国の観光名所でもあったのに。


 いま、魚市場はテリ人の葬儀場のように、暗くしんと静まりかえっていた。陰鬱さは日に日に増していくようだ。


 野良犬や野良猫がわがもの顔で歩く日よけの屋根の下には、数人のテリ人が座って店番をしていた。そこへ何人かの買い物客が近よっていっては、ろくに品定めもせずにはなれていく。


 ノラも近づいていって、どうしてだれも買おうとしないのかを理解した。


 小さな貝のかたまりがいくつかと、海草が少しばかり。ウロコや骨といった、出汁にしか使えない可食部分の少ない食材。広い魚市場で、ぽつりぽつりと店番をしている店の、どれもが似たようなものだった。


「あの……漁が再開する見こみは?」


 ノラはおそるおそる、店番をしているテリ人の少年に問いかけた。


 幼い少年だ。里子のシャンとあまり変わらない。


 少年はノラをちらりと見あげ、ぼそりと答えた。


「さあ」

「さあって……」

「漁師がいないんだ。人手がないと、舟を出せない」


 少年はノラから目をそらし、人見知りをするように、鼻の下をこすった。


 人手がいない? ノラはまゆをひそめた。


 この三日で、仕事を失ったケルティス人は大勢いる。みな新しい仕事を求めて城下町を去り、平原区へ移動しているではないか。失業者はあふれている。


 なぜこの少年は、はっきりと真実を言わないのだろう。


 人がいないのではなく、ただで働いてくれる奴隷がいなくなったのだ、と、なぜ言わない。働きに応じて正当な報酬を支払う、それだけの当たり前を行う気がないと、なぜ認めない。


 それとも……この子には本当にわからないのかもしれない。


 このテリ人の少年は、本気で人手が足りなくなったと信じているのだ。本気で、漁師がいなくなってしまったのだと思いこんでいる。ケルティス人が奴隷でなくなると困るのだと、信じているのだ。


 テリ人はいつもそうだ。


 なにもかもわかっているような顔をして、じつはほとんどなにもわかっていない。世の中の仕組みや構造を、なにひとつ正確にとらえていない。


 この少年を見ているだけで、わかる。


 この年頃のケルティス人だったら、もう少しましな接客をするだろう。客を怒らせれば、その奴隷はあとで主人からムチ打ちされるだろうから。


 おそらくこの子は、ろくに仕事をしたことがないのだろう。家の手伝いも、使い走りも、ちょっとした店番も、すべてケルティス人の奴隷にまかせていた。それが突然、親が奴隷を失った。人手がなくなり、その場しのぎで、働いたこともない息子に簡単な仕事を押しつけた。


 だからこの子はなにもわからないのだ。


 なにも知らずにすんできた。


 ノラはため息をついた。


 いまは店番ですんでいるが、この子は今後も、つぎつぎ仕事を押しつけられるだろう。これまで奴隷にさせていた家業を、給料の要らない家族が代わりに担うはめになる。これまで身をけずる必要もなく、余裕を持って暮らしてきたつけが、テリ人にまわってくる。


 テリ人の子どもたちのどれほどが、教育を取りあげられ、労働を押しつけられるか、ノラには見当もつかなかった。そしてノラは、そんなテリ人の子どもたちに心から同情した。


 ノラのように感じるケルティス人は少なくなかった。


 ノラはもの心ついたころから、ペトスコスの妻、ネフェルトの世話係として生きてきた。ちょうど、いまのアズマイラとシャンの関係にちかい。


 幼いころから家内奴隷としてそばにいて、こまごまとした世話をした。


 髪を結い、衣服を着せ、部屋を掃除し、ほころびを見つければ直し、食事の世話もお茶の準備も、なにもかもを代わりにひきうけた。


 はじめからそれが当たり前のように生きていると、もはや何も感じない。ネフェルトに対して、ずるいだとか、たまには自分でやればいい、などという感覚にはなりようがない。


 魚が水の存在に気づかず生きているように。全員が「当たり前」と信じていることを、渦中の人間が「おかしい」と気づくことはむずかしい。


 仮にそんな人間がいたとして、奇人あつかいされるのが関の山だ。


 ノラはむしろ、こう思っていた。

 ネフェルトは何もできない、だから自分がやってやらねば、と。


 テリ人の娘の世話をするのはケルティス人にとって当然のことだ。そう信じて疑わなかった。ノラのように、うっすらとした使命感と世話焼きの精神でテリ人をささえる奴隷は多い。奴隷であることを当然のように受け止めていた。


 なぜなら、これは罰だから。


 ケルティス人の祖先は、ボルグの民を滅ぼした。共生していた相手を裏切り、死に追いやったのだ。


 その罪を償うために、自分たちは奴隷として生きている。恥ずかしいまねをした先祖の尻ぬぐいをするのは当然の末路だと、ノラもどこかで思っていた。


 だからノラは、王の命令がくだされて三日がたっても、ペトスコスの家で彼の屋敷を守っていた。そうすることに、責務を感じていたから。


 ペトスコスは投獄された、と、夫のエイダンは言った。


 自分たちの主は、王に刃向かったらしい、と。


 いや、正確にいえば、すでに主ですらない。


 ノラはどうしていいかわからなかった。目の前が暗くなり、立ち往生した。夫のエイダンも、里子のシャンもおなじだった。この事実をアズマイラとトートにどう伝えるべきか。大人たちは決めかねていた。


 はじめこそノラは、新たに雇いなおされるという“手続き”をへて、ペトスコスの屋敷に住みつづけたいと考えていた。


 運のいいケルティス人たちはみなそうしている。主人の財力に余裕があれば、ケルティス人たちは住む場所と仕事を与えられ、自由を享受しつつ、これまでどおりの生活を送れるはずだった。


 だが、主人が投獄されたとあっては……。


 ペトスコスが死んだのであれば、アズマイラが彼の正当な相続人だ。ならばアズマイラの決定にしたがい、彼女を守り、屋敷を維持し、ときどき給金を受け取ればよい。ペトスコスは、アズマイラやノラたちが生きていくのに困らないだけのお金を残しているはずだ。


 だが、死んでいない場合はどうなるのか。

 この家は、アズマイラは、どうすればいい?


 自分たちがあれこれ手続きを模索して、アズマイラとこれまでどおり暮らせるように整えたとしよう。奴隷でなくなった今なら、自分たちが能動的に動いても文句は言われないはずだ。


 だがそれをはたしたとして、ほかのテリ人たちは納得するだろうか。かつての奴隷が幼いアズマイラを利用して私服を肥やしているなどと言われたら、どう申し開きをすればいい?


 奇妙な信条を持つペトスコスは親戚中と縁を切っており、ノラはどこへ相談すればいいかわからなかった。


 夫は、ノラとはちがう未来を思い描いていた。


 エイダンはペトスコスの屋敷を引きあげて、平原区へ出て行きたがっていた。


 平原区の外にある東の森は、ケルティス人にとって神聖な森だ。できるだけそのちかくに住みたいというケルティス人はほかにも大勢いた。


 エイダンはもちろん、家族そろって居を移すつもりでいた。ノラや、シャンや、トートを連れて。もしもアズマイラがのぞむなら、あの子も一緒に行けばいい。里子を育てるのもアズマイラを育てるのも、これからの時代は変わりゃしないさ、と。


 ノラにはとても考えられなかった。


 ペトスコスの屋敷には、思い入れがある。いっしょに生きてきた自分の半身のようなネフェルトが、人生の最期をすごした家なのだ。その家を勝手に引きはらい、ペトスコスの帰りを待たずにあの人の娘を連れて行くなど、あり得ない。


 だいたい、アズマイラを里子のように育てるなんて。


 あの小さな女の子を、ケルティス人のように育てる? 年ごろになったら家の掃除をし、洗濯をまかせ、炊事をさせるというのか?


 順当にいけば王都学園に通い、なんでも学べるはずの人生を送れる立場の少女に、井戸水をくませ、糸をつむがせ、刺繍をさせる? テリ人の娘が、ケルティス人のやっているような労働をする日が来る?


 頭がくらくらする。


 ノラにはとても、想像できない未来だ。


「ノラ。ノラか?」


 考えにふけっていたノラは、はっと顔を上げた。

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