5−4 熱湯

「ペトスコスは……投獄されたらしい」


「投獄って……なんで?」

「わからない」


 エイダンの声は悲痛にひびいた。


「王さまにたてついたらしいんだ。なんでそんなことをしたのか、そもそも本当なのか……」

「たてつくって……王さまに?」


 ターシャは信じられないといった様子だった。


 エイダンの重苦しい息づかいがきこえた。


「そんなこと、するはずないと思うんだ。でも、どうだか……ペトスコスの考えてることは、おれにもときどき難しすぎて……」


「でも、王さまを怒らせたって、相当なんじゃないの」

「あるいは、王さまの誤解だと思うんだ」


 エイダンの推測に、ターシャは共感の言葉をかけなかった。


 ターシャはおそらく、“勘違いさん”のペトスコスよりも、自分たちを解放してくれた王さまを信じているのだろう、とシャンはなんとなしに受けとった。


 エイダンはつづけた。


「とにかく、くわしいことは、だれにきいてもわからなかった。そもそも、生きているのか、死んでいるのかも……いや、死んでいたら、王都広場でさらし首になるだろうけど。でも、この先はどうなるか。すべて王さまの機嫌次第だ……」


 いやな沈黙が流れた。

 シャンの動悸がはやくなる。


 ターシャの声はいやに落ち着いていた。


「なにかの間違いなんじゃないの? いきなり投獄なんて、あり得ないじゃない。だって、ペトスコスさまって、里子省のいちばん上なんでしょう?」


「王よりえらいはずの、神官の長まで投獄されたってうわさもあるんだ。わかるだろ。頭のおかしい王さまなんだよ」


「エイダン!」


「常識なんか通じない。だからこそ、あんな命令をくだしたんだろうけど……」

「なにそれ。とにかく、私の前で王さまの悪口を言わないで」


 シャンはひやりとした土壁にそえた手をにぎりしめた。


 ペトスコスが……戻ってこない?


 台所から大きな音がして、アズマイラの悲鳴がひびきわたった。


 シャンは飛びあがって台所にかけた。が、シャンのあとからかけつけたエイダンのほうがはやかった。シャンのすぐうしろを、ターシャが走りこんできた。


 台所では、アズマイラが床の上に尻もちをつき、声のかぎりに泣いていた。


「アズマイラ!」

「たいへん、顔が!」


 アズマイラのまわりには鍋と茶鉢が散乱し、床の上には大きなしみがついていた。わいたお湯を茶鉢に移そうとして手元をくるわせ、手と顔にお湯をかぶってしまったのだ。


 シャンは青ざめた。落ちた鍋から立ちあがる湯気を見れば、さっきまで沸騰していた熱いお湯が入っていたのだと、すぐにわかった。アズマイラの肌はみるみるうちに赤くはれあがり、ほうっておけばただれてしまいそうに見えた。


 エイダンはアズマイラの顔を冷たい水がめにつっこみ、泣いて逃げようとするその手をターシャが水で冷やした。中庭にいたトートが顔を出し、熱い鍋を拾おうとするのをシャンが止めてがっちりとおさえこむ。


 トートが「アズマイラー、たいへん、顔がー」とくり返しつぶやくのを、「やめろ、やめろ」とつぶやきながらぎゅうっと押さえこむ。


 ああ、ああ。


 とんでもないことをしてしまった。


 エイダンもターシャも、シャンがアズマイラをひとり残して盗み聞きしたことを即座に理解しただろう。その結果がどんなに取り返しのつかないことになってしまったか。この状況でわかっていないのは、トートくらいのもの。


 シャンが五歳の女の子をひとりにした。


 そのせいで、顔に一生残る火傷の痕を作った。


 ケルティス人の奴隷が、テリ人に傷をつけた。嫁入り前の娘の顔に、みにくい傷を。これが一日前なら、シャンはどんな目に遭っていたかわからない。


 たった一日。


 首の皮一枚で、シャンは助かったのかもしれない。


 だからといって、許されることではない。


 テリ人だろうがケルティス人だろうが関係ない。シャンは、小さな女の子の命を危険にさらしたのだ。見ていなければ死にに行くような小さな子どもから、目をはなした。


 トートの肩をぎゅうっとにぎりしめる。

「痛い!」とトートが他人事みたいに言う。


「痛い!」


 その言い方は平板で、本当に痛がっているようには聞こえないけれど、本人は本当に痛がっているのだ。でなければ、この子は他人の言葉をくり返す以外で言葉を吐かない。


 けれど、シャンはトートをぎゅっとつねるようにつかんだ。


 ああ、最悪だ。


 八つ当たりもいいとこだ。トートは何も悪くないのに。


 私は最低な人間だ。

 最低なのは、混血だから?

 血が汚れているから、私は、


「痛い! 痛い!」


 エイダンがふっと顔を上げた。

「やめろ、シャン!」


 シャンはぱっと手を放し、トートは中庭に逃げ出した。ぶるぶるふるえながら、シャンは泣きわめくアズマイラを見て、なにかがプツンと切れたように、わんわん泣き出した。


 ふたりの大人はアズマイラの処置が終わるまでシャンを放置した。


 青ざめて、陰鬱で、やりきれなくて、いやな時間だった。アズマイラの患部を充分に冷やしたあと、エイダンがアズマイラの火傷に軟膏をぬって、ターシャがあやしながら布をまきつけた。


 一時間はすぎたろうか。


 そのころには、アズマイラはけろりとして、ターシャのくれるお菓子をほおばって笑っていた。対するシャンは台所の壁に背をつけ、ひざをかかえてまだぐずぐずと泣いていた。


「シャン、ごめんな。さっき怒鳴っちゃって。こわかったろ」


 エイダンがそう言いながら、となりに座ってシャンの肩をやさしくだきよせる。


 シャンはなんとも答えられなかった。


 エイダンに怒鳴られたのは、たしかにシャンが泣き出すきっかけにはなったかもしれない。だがそれは、もとはといえばシャンのしでかしたこと。


 アズマイラに怪我をさせた。

 シャンが見ていなかったばっかりに。


「……ごめん、なさい」

 シャンはつっかえながら謝った。


「ごめん、な、さい。まさか、こんなことに、な、なるなんて……」


「いいや、シャン、謝らないでくれ。これはおれのせいだ。シャンも何が起きているのか知りたかっただろうに、追い払うようなまねをして悪かった」


 シャンは泣きながらエイダンを見上げた。


 悲しげな顔で、シャンを見下ろすやさしい里親。


 シャンは混乱していた。エイダンはいつもシャンにやさしかった。めったなことでは声を荒げなかった。いつもにこにこして、自分を安心させてくれた。


 けれど、ゆうべと今日とで、エイダンのおそろしい一面をかいま見た。


 なんでも単純に考えるシャンには、食い違うエイダンの印象にうろたえるばかりだ。


 この人は、いい人間なのか、悪い人間なのか?


「ペトスコスは……帰って、こないの?」


 シャンは小さな声でつぶやいた。部屋の向こう側にいるアズマイラにきこえないくらい、小さく。


 エイダンが長いまつげをまたたいて、うん、とうなずく。


 そっか、と、シャンはつぶやいた。またもや涙があふれてくる。止まらない。


 そうなんだよ、と言いながら、エイダンはシャンによりそってだきしめた。


「おれもね。泣きたいよ。これからどうしたらいいか、ぜんぜんわからないんだ」


 シャンはエイダンの腕をぎゅっとにぎりしめた。


 そうか。

 大人も、わからないものなのか。


 大人でも、泣きたくなることがあるものなのか。


「……エイダン」

「なに?」

「アズマイラを、守らなきゃ」


 シャンはこくっとのどを鳴らして、エイダンを見た。


「ペトスコスが帰ってこないなら、だれかが守らないといけないよ。私、アズマイラを守らないといけない。そうでしょ、エイダン。一緒に守ってあげようよ……」


 しゃくりあげながら、シャンはエイダンにますます強くだきついた。


 エイダンはしばらくなんとも返さなかった。ターシャと話しているアズマイラをじっと見つめ、ようやっと、シャンの髪をなで、自分の里子を見下ろした。


「そうだな、シャン。おまえは正しいよ」


 エイダンは足をくずしてあぐらをかき、シャンを自分のひざの上に乗せた。シャンは涙をふいて里親を見つめた。


「だけど、責任を感じて、自分の一生をいまここで決めなくていいんだ、シャン。おまえはもう、奴隷のふりをしなくていい。好きなように生きていいんだ。いやになったら逃げてもいいし、手放したっていい。それだけは忘れるな」


 エイダンの言葉の意味をすんなり理解できたわけではない。


 それでもシャンは、こくりとうなずいた。


 わからないことばかりにかこまれて、頭がごちゃごちゃと混乱している。けれど、本当はシンプルだ。


 好きに生きる。


 王さまの命令が許したのは、そんな、単純で当たり前のこと。


 泣き疲れたシャンは、エイダンの腕の中で眠ってしまった。


 一日半ぶりに、深い眠りの世界へ誘われた気がした。

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