5−3 家庭教師

 シャンは中庭に面するゆり椅子に座って、ちくちくと刺繍をしていた。


 刺繍なら、シャンはいつまでもしていられる。これはケルティス人の血なのだろう。けれど、シャンの白い肌の下には、母親とおなじ褐色のテリ人の血が流れている。


 アズマイラとトートがニワトリにまじってしゃがみこみ、庭の土をいじって遊んでいる。シャンはときどき影の位置をたしかめ、時間を確認した。


 やはり、今日はもうターシャは来ないかもしれない。そう思っていたころに、玄関ドアにカギがさしこまれる音がした。


「ノラ? お帰りなさい、はやかった――」


 シャンは玄関に走っていって、相手を認めるなり足を止めた。


 ノラではなく、エイダンだった。疲れ切った里親は、幽霊を見たような顔をして玄関の水がめに向かい、ばしゃばしゃと顔を洗って水を飲んだ。


「おかえりなさい。どうかしたの? すごい顔だよ」

「……ノラは?」

「市場に行ったよ。食べ物を買うって」


「そうか。シャン、外へ行くなよ」

「どうして?」

「しばらくはダメだ。あぶないから」


 エイダンはちらりと中庭に目をやって、地面を掘って遊ぶアズマイラとトートを確認した。シャンは、エイダンのそでに血がにじんでいることに気づいた。


「エイダン、怪我してる!」

「え? ああ、大丈夫。かすっただけだ」

「だれかとケンカしてないよね?」

「……してないよ」


 うそだ、と思ったそのとき、ドアをたたく音がした。


 エイダンはシャンをつかんで自分のうしろに引きよせると、ベルトからナイフを引きぬいて「だれだ」とするどい声を出した。


「私よ、ターシャ。アズマイラの家庭教師の」

「ターシャ、来てくれたんだ!」


 シャンはドアにかけよろうとしたが、エイダンにふたたび引き止められた。


 エイダンはきつい声を出した。


「だれと一緒にいる?」

「私ひとりよ。仕事の話で来たの。うそじゃないわ!」


 シャンは不安げに里親を見あげた。


 自分が叱られているときだって、こんなに彼をこわいと思ったことはない。


「シャン、はなれてろ。ドアをあけるから」

「でも……ターシャは顔見知りだよ?」


 そんなに警戒する必要などないのに、と思った。だが、エイダンはきびしい目つきでシャンを見た。びくりとしたシャンは、だまってさがり、中庭まで戻って立ちどまる。


 エイダンはシャンの位置を確認し、そろそろと手を伸ばしてドアをあけた。


 ぱあっと明るい笑顔を浮かべたターシャが、「ありがとう!」とうたうように言いながら入ってきた。エイダンがさっとドアをしめるのを横目で見て、こまったようにくすりと笑う。


「ぴりついてるね。まあ、むりもないか。すごいことになっちゃったね」


「ターシャ、ノラを見かけなかったか?」

「ううん、見てないよ。私は雇用主と話をつけて、まっすぐここへ来たから」


 ターシャ! と叫んで、アズマイラがかけてきた。突進する女の子を受けとめたケルティス人の女は、あははと豪快に笑ってアズマイラをだきしめ、「お行儀が悪いですよ、アズマイラ」とたしなめる。エイダンはドアにカギをかけ、ちょっと面食らったようにターシャを見おろした。


「こんな状況で、家庭教師の仕事に来たのか?」

「あら、混乱は長くはつづかないでしょ。このあとの日常のこともちゃんと考えないと」


 ターシャは立ちあがってアズマイラの頭をなで、エイダンに向きなおった。


「私、これからも引きつづき家庭教師として働くことになったの。もちろん、こちらが私を雇いつづけてくれるなら、ですけどね。ご主人さまはご在宅?」


「……いや」


 エイダンが目をそらす。その言い方に、シャンはいやな予感がした。


 ターシャは「なーんだ」と軽く言って肩をすくめた。


「じゃ、ことづてをお願いしてもいい? たしかあなた、文字が書けたわよね、エイダン。読めるだけだっけ?」


「そのことなんだが……」


 エイダンは目を泳がせ、じっと自分を見つめるシャンに気がつくと、「ターシャにお茶を出してくれ、シャン」とたのんだ。ターシャがなにかを悟ったような顔をして、アズマイラに笑いかける。


「アズマイラも、シャンのお手伝いをしてくれる? テリ人のあなたから、対等なおもてなしを受けたいわ。これからはそういう時代になるでしょうからね」


 ターシャにお願いをされたアズマイラは、うれしくて仕方がないらしい。「うん!」と笑顔になってシャンの手をつかんだ。


「シャン。お茶いれよ! 私がいれる!」

「う、うん」


 アズマイラに引っぱっていかれながら、シャンはターシャをちらちらと見た。


 ターシャの首には、奴隷の証、青銅の首輪がなくなっている。エイダンもそれに気がついたようで、シャンたちが視界からいなくなる前に「雇用主と話をつけたって、どういうことだ」とつめよっているのが、ぎりぎりきこえた。


 どうして大人たちは、子どもを追いやって自分たちだけで話し合いを進めてしまうのだろう。


 エイダンはずるい。ゆうべはシャンにも知る権利があると言っていたくせに、都合が悪くなると、これだ。


 私だって知りたい。


 外で何が起きているのか。

 これからどうなるのか。


 シャンは庭でもくもくと土をほじくっているトートをそのままに、アズマイラとふたり、台所に入った。


 ――こうなれば、大人の裏をかくしかない。シャンはにやりと笑った。

 いいことを思いついたのだ。


 シャンはいそいそと行動にうつした。天井からぶらさがっている鍋をとり、飲み水の入った水がめから乱暴に水をすくい取ると、朝からゆっくり燃えつづける炭の炉端の上におく。シャンは慣れた手つきで必要なことを手早く進めていく。五歳のアズマイラといっしょにやっていたら、作業はこの十倍も時間がかかると知っていた。


「アズマイラには、ひとりでお茶の用意なんかできないだろうなー」


 くるくると動きまわりながら言うと、アズマイラはむっと顔をしかめた。


「できるよ!」

「まさかあ。ひとりではむりでしょ?」


「できるもん! シャン、止まって! やらないで! 私がやるから!」


 子どもを動かすなんて簡単だ。


 シャンがお茶の用意をすすめるほど、アズマイラは地団駄をふんでくやしがった。シャンは茶葉の入った袋と茶こしをつぎつぎ棚から出してアズマイラの前に並べると、そこでやっと手を止め、にっこり笑いかけた。


「じゃあ、やってみる? どうせできないと思うけど」

「できるもん! シャンはあっち行ってて!」

「えー」

「ほら、はやく、あっち行って!」


 シャンは「じゃ、そうしちゃお」と笑って、そこをはなれた。


 ――ほんと、簡単だ。


 シャンは中庭をぐるりとかこう通路をこっそりとすすみ、玄関ホールのとなりにある物置にさっと身をすべりこませた。この奥の壁のひび割れから、客人の話し声がもれ聞こえるのだ。


 シャンは壁に耳をつけ、息をひそめた。エイダンとターシャが声を落として話している。それでも、ひび割れからなら、ぎりぎり言葉がききとれる。


 ターシャが自慢げに話している。うれしくてたまらないというように。


「……で、テリ人が受け取るのとおなじ額面のお給金をもらうっていう契約で、元主人と雇用契約を結んだってわけ。いままでより少しましな部屋をもらえることになったし、家事手伝いには別途お金を請求するわ。向こうは最初、テリ人の相場の三分の一に値切ろうとしたんだけど、王さまの命令は『テリとケルティスは対等』って話だったでしょ? だからこっちも強く出たの」


「……それで、首輪を外せたのか」


 エイダンの声はいつもよりも低かった。

 気をつけていないとききとれない。


「あなたたちだって外したほうがいいわ。むしろそれをつけたままだと、これからは同胞から白い目で見られるわよ」


 ちょっと笑って、ターシャは声のトーンを少しばかり変えた。


「それにしても、意外。ペトスコスさまは真っ先にあんたたちの首輪を外してくれる人だと思ってたけど。ほら、あの人って、なんかケルティス人にこびを売ってたじゃない? 奴隷に好かれようとして、ほんと勘違いさんよね」


 くすくす笑うターシャの声をきいて、シャンは困惑した。


 ターシャがペトスコスのことを、そんなふうに思っていたなんて。


 そんなふうに思う人がいたことすら、シャンにはショックだった。


 ペトスコスにはそれなりに地位があったし、シャンにとっては恩人だった。エイダンもノラも、彼には主人以上の好意を持っていたし、家の中では家族のように接した。幼いシャンは単純に、ほかの人間も、ペトスコスのことを好きなのだと信じてうたがわなかった。


 いい人間は、ほかの人間にもいい人間として好かれ、

 悪い人間は、ほかの人間にも悪い人間として嫌われる。


 それが当たり前だと思っていた。


「ペトスコスは……戻らない」


 エイダンが消え入りそうな声でつぶやいた。

 どういうこと、とターシャがたずねる。


 シャンは壁に耳をべたっとつけた。

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