5 シャン

5−1 翌朝

 シャンは寝台の整頓をし、着替えて中庭に出た。


 壺に溜められた水で顔を洗い、頭に布を巻いて頭巾をかぶり、上衣を羽織る。


 ニワトリにエサをやり、中庭をかこむ廊下をはき、卵をとり集める。卵の入ったカゴをかかえて台所へ行くと、ノラが一日ぶんの食事の仕込みをしていた。


「おはよう、ノラ」

「おはよう、シャン。トートはまだお寝坊さん?」


 ノラはいつものように明るくたずねた。うん、とシャンは答えながら、自分もおなじように明るさを取りつくろっている、と気づいた。


 何事もなかったように、シャンは笑顔でノラのとなりに立ち、作業を手伝った。野菜の泥を落とし、豆のすじを取り、軽く湯がいて石のすり鉢にうつし、ごりごりとすりつぶす。


 いつもどおりの、ひととおりの手順を踏めば、いつもとおなじ日常なのだと思いこめる。この日常はなにも変わらず、これからもつづいていくのだと。


「ありがとう、シャン。そろそろアズマイラを起こしてくれる?」

「わかった」


 シャンが手をふくと、ノラが「シャン」と呼びとめた。


「アズマイラには、もう『さま』をつけなくていいから」

「……わかった」


 自分たちしかいないときは、シャンたちはペトスコスのこともアズマイラのこともを呼びすてにしていた。ペトスコス自身がそうしてほしいと頼んでいたからだ。だが、アズマイラの前では「ペトスコスさま」「アズマイラさま」と呼びならしていた。


 アズマイラはまだ小さな子ども。もしも家の外でいつもとちがう呼び方をすれば、「どうしていつもは呼びすてなのに、『さま』なんて付けるの?」と、無邪気に問いかけてくるだろう。


 そのとき、近くでおせっかいなテリ人がききつけていたら、ペトスコスの奴隷たちはとてもこまったことになる。


 だが、それも昨日までの話。


 これからは、対等に呼びかわしていい。まゆをひそめるテリ人はいるかもしれないが、それが理由で痛めつけられることはないはずだ。王の命令は、国中に拘束力を与えている。


 シャンはアズマイラの寝室に出むいて日よけの布を巻きあげた。


 アズマイラの寝室はペトスコスの部屋のとなり。日の光がさしこみ、風のとおる、この屋敷で二番目にいい部屋だ。アズマイラが乳飲み子のときはノラがこの部屋に泊まりこみ、我が子のように世話していた。


 テリ人には、子どもは基本的に父親のものだという考え方がある。人間は、男の精子が女の体の中で固まってできる、と考えられているからだ。


 よって、母親は器であり、あくまで育ての親でしかなく、だれが育ててもあまり大差ない。だから、奴隷のノラがテリ人の娘を育てていても、主人であるペトスコスはうしろ指をさされることはなかった。ペトスコスがうしろ指をさされるのは、もっとほかの理由だ。


 主人のお嬢さまは、日の光にも動じずにすやすや眠りつづけている。


 いいな。シャンは思った。


 この子はいいな。

 テリ人みたいな見た目で。


「起きて、アズマイラさ……アズマイラ。お日さまがうんと高くのぼってるよ」

「うーん……」

「ほら、いっしょにトートを起こしに行こ。そしたらごはん」


 アズマイラは目をあけ、寝台のかたわらに座りこんでいるシャンをじっと見た。


 褐色の肌、黒くてまっすぐなこしのある髪、吸いこまれそうになる、黒い瞳。


 いっそ、にくらしい。


「ペトスコス、戻ってきた?」

「ううん、まだ」


 アズマイラは、半分もたげていた頭をぽすっと布団に落とした。


「じゃあ、まだ寝てる。帰ってきたら起こして」

「お父さんは、早起きのいい子のところにしか戻ってこないかもよ?」

「うそつき。シャンはうそつきだから、信じないもん」

「あらそう。じゃ、アズマイラのぶんも、ごはん食べちゃおっと」


 シャンが立ちあがると、アズマイラはうなりながら起きあがり、ごしごしと目をこすった。


「起きたよ!」

「えらいえらい。じゃ、着替えちゃお」


 アズマイラの身支度をととのえ、トートの眠る寝室へ行く。


 シャンはアズマイラをやさしく起こしてあげたのに、五歳の子にはそんな気づかいなどのぞめない。「起きてー!」と耳もつんざくほどに叫びながら、アズマイラはトートの上に飛びついていった。シャンが止めるひまもなく、あははははと笑いころげる。


 まったく。


 ゆうべ、おそくまでぐずっていた子どもはどこへ行ったんだか。


 トートは不機嫌に目を覚ましたが、五分後にはアズマイラと一緒になってけたけた笑いながら中庭をかけまわっていた。子どもたちの顔を洗わせ、髪をとかし、やっとのことで食卓につれて行くと、ノラが笑いながら朝食を並べていた。


「おつかれさま、シャン。いつも助かるわ」

「ほんとだよ、朝からたいへん。あれ、エイダンは?」


 一瞬、ノラの顔がくもったのを、シャンは見逃さなかった。


「市場に行ってるんだと思うわ。そのあとで、官邸に行くって。いいから、私たちで食べちゃいましょ」


「……うん」


 食卓につくなり、アズマイラは「イチジク食べたーい」と言い、トートも「イチジク食べたーい」とあわせて言った。


 トートの場合は、本当にイチジクが食べたいのかどうか、さだかではない。言葉がおそいかわり、意味もわからず人の言葉をくり返すくせがあるから。


 シャンはアズマイラにイチジクの乗ったカゴを寄せてやってから、トートに「食べる?」とあらためてきいた。トートはにこにこと「食べる?」と言いながら、ライ麦のパンを口に運んだ。イチジクなんて、見むきもしない。


 きくんじゃなかった。


 シャンは自分の皿にイチジクを取り分けながら、つまらなく思った。


「今日はターシャが来る日でしょ?」


 アズマイラが食べながら問いかけ、ノラとシャンは目を見かわした。


 昨日は戴冠式の日で、国の祝日で、なにもかもが休みだった。


 だが、今日はいつもどおりの平日だ。


 つねならばアズマイラの家庭教師のターシャが来て、簡単な文字とお行儀を教える予定だった。そのすきにシャンやノラは家事や買い出しをし、夕方にはみんなで公衆浴場に出むいて、そこでだけ、テリ人もケルティス人も対等なはだかの付き合いを結べる。


 だが、今日が本当にただの平日なのか、わかりかねた。


 ターシャはケルティス人だ。彼女が主人の命令を受けてこの家に働きに来ていたことをシャンは知っている。奴隷でなくなった彼女が、いつものように来るかどうか、わからない。


 それをいうなら、シャンたちだって、もう奴隷ではないのだ。アズマイラの面倒をみてやる義理も、ペトスコスの家を維持する義務も、すでにない。


 もちろん、合理的にはそうだとわかっていても、荷物をまとめていますぐこの家を出て行けるわけもない。だいたい、五歳のアズマイラをひとり放っていけるものか。


 小さな子どもというのは、何をしでかすかわからない。刃物にさわろうとし、走っている馬車にむかって走り出し、水をはったかめに頭からつっこんでいこうとし……目をはなしたら、あっという間に死にに行く。


 シャンとノラは、言葉をかわして決めたわけではないが、とりあえずはいつもどおりの生活をやることにした。ほかになにも思いつかないから、というのもあるが、実際に自由にふるまって、だれかに罰せられたらどうしよう、という恐怖が心の底にこびりついていたのもある。


 ふたりは自由を知らない。


 知らないものを急に与えられても、人はそれを持てあます。しばしぼう然としてそれを見つめ、遠巻きにしてほかの人間の出方を見守り、そっとそれに手を伸ばして、ようやく受け入れ、しばらくしてやっと、そのありがたみを実感する。


 ふたりはまだ、ぼう然としている段階だった。


「ターシャは、来るかどうかわからないけど、来てくれることを祈りましょう。シャン、ここでトートとアズマイラを見ていてくれる? 私は魚市場に行くわ」


「魚市場、やってるかな?」


 シャンが不安げに問いかけると、ノラはどきっとしたような顔をした。


「わからない。やらないなんてことはないと思うんだけど」


 ノラは答えつつ、ちょっと自信がなさそうだった。シャンに言われるまで、魚市場がやっていないかもしれないなどと、考えもしなかったのだ。


 いや、でも、それはさすがに……と、ノラはどきどきしながら考えた。


 漁や魚市場がストップしてしまったら、困るではないか? 魚はだれだって食べる。ここは島国なのだから。奴隷が働かないからといって、漁師が海に出ず、魚が食べられないとなれば……いいや、ことは、それだけではすまない。


 穀物も、豆も、くだものも、チーズも油も。すべては奴隷がまかなっている。それらが今後作られないとしたら、この国の人間は、どうやって食いつないでいけばいい?


 ゆうべ、エイダンがなるべく食料を買い占めるようにと言った理由が、ようやくノラにも現実味をおびて理解できてきた。こうしてはいられない。この状況のあやうさに、やがて国中の人間が気づく。いや、もうほとんどの人間が、それに気づいて行動にうつしているのでは?


 ノラは血相を変えて立ちあがった。


「私はもう行くわ。シャン、ターシャのほかにはだれも家に入れちゃダメよ」

「わかった。気をつけてね、ノラ」


 シャンは席を外してノラを玄関まで見送った。アズマイラが「私も行く! お外行きたい!」とさわいだが、ノラはろくに返事もしないでカゴと財布をつかみ、足早に屋敷を出て行った。


 里親の出て行くうしろ姿を見送り、玄関のドアに用心ぶかくカギをかけながら、シャンはふるえている手をもう一方の手で押さえこんだ。


 玄関ホールをぬけて、中庭から食堂へ戻っていく。


 高層住宅のイスラにかこまれた小さな屋敷とはいえ、ペトスコスの家は平原区の庶民の家とくらべると広い。中庭をぐるりとかこむ部屋のひとつひとつがしんとしずまり、大人の不在をシャンにひしひしと訴えかけてくるようだ。


 いま、なにか起きたら、助けてくれる人はいない。


 ペトスコスは戻らない。エイダンはどこかへ行ってしまい、ノラも外へ。


 シャンも外へ出て行きたい。ノラと市場へ買い物に行きたい。アズマイラとトートをつれて、噴水のある広場へ行きたい。


 木の下で小さなかこいを広げ、かわいいウサギを売っている行商を見物に行きたい。公衆浴場へ行って、顔見知りのケルティスの子たちとおしゃべりをしたり、湯船につかったり、大きな声で歌いたい。


 だけど、同時にこわい。


 いま外へ行ったら、どうなるだろう。


 胸がざわついているのは、どうやら年長のシャンだけだった。シャンが食卓につくかつかないうちに、食べ終えたアズマイラがトートをつついて「遊ぼ!」とさそった。トートは「遊ぼ!」とくり返しながらライ麦のパンにかじりつき、平然とアズマイラを無視する。アズマイラは地団駄を踏んでトートをにらみつけた。


「トートのばか! 遊ぼって言いながら、食べてる!」


 ぷくっとほっぺたをふくらませるアズマイラに、シャンはため息をついて笑いかけた。


「トートは食いしん坊なの。わかってるでしょ、アズマイラ。食べ終わったら遊んでくれるよ」


「知ってるよ。トートはほんとはやさしいもん」


 アズマイラはにこっと笑って、トートの椅子によじのぼり、食べている男の子にほおずりした。


「トート、だーい好き! トートはずーっと私が守ってあげるからね」


 シャンは疲れたようにイチジクを手に取った。


「そんな必要はないよ、アズマイラ。トートはどうせ、私が面倒みなきゃいけないんだから」


「ううん、シャンじゃなくて、私がやるの!」

「だって、アズマイラはトートのきょうだいでもなんでもないでしょ?」


 シャンは少し意地悪に言った。アズマイラを小さく傷つけてやりたかった。


 しかし、アズマイラはきらきらした黒い瞳をシャンに向けた。


「きょうだいじゃなくてもいーの! 私、トートと結婚するもん!」


 シャンはにこりと笑いながら、ちくり、胸が痛んだ。


 トートはにこにことして、否定も肯定もせず、パンを持っていないほうの手でアズマイラをぎゅうっとだきしめ返している。


 アズマイラがこう言うのは、いまにはじまったことではない。


 だが、いままでは、アズマイラが「トートと結婚する!」と言っても、笑っていられた。小さな女の子が「お父さんと結婚する!」と言うのとおなじだ。


 子どものざれ言。だれも本気にはしない。

 そんなことはありえないが、ほほ笑ましい。


 だが、これからもそう言えるだろうか。


 王さまは言ったらしい。テリ人もケルティス人も、おなじ人間だと。

 ふたつの民族にちがいはないと。


 ならば……異人種の結婚は、この先認められるのかもしれない。


 決して許されなかったことが、この先は、当たり前になるかもしれない。


 だれも問題にせず。

 だれも罪に問わず。


 むしろ、祝福される。


「……なにそれ」


 シャンは小さくつぶやいた。


 テリ人とケルティス人。


 信じるものも立場もまったく違う。そのふたりが、結婚する?

 そして、産む? 混ざり合った、混血の子どもを?


 シャンは自分の手を見下ろした。この白い皮膚の下を、どくどくと血が波打っている。この体に、全体に、めぐっている。真っ赤なうそで塗りかためられた、まぜこぜの血。


 私の血は、きれい? きたない?


 それとも。


「……気持ち悪い」


 口をおおって、シャンは吐き出すように言った。ふたりの子どもは笑って庭にかけ出していき、彼女の言葉を拾いあげることはなかった。

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