4−2 奴隷市場

 十年も前のことだ。


 エイダンは奴隷市場で売られていた。


 男の奴隷は、素っ裸にされて手縄をかけられ、家畜のように並ばされる。筋肉はあるか、不具はないか、健康か。年齢、上背うわぜい、全体のバランスからみちびきだされる、奴隷としての価値。それらを知るには、衣服などないほうがいい。


 木がらしのふく寒空の下、奴隷たちは裸体でふるえていた。テリ人の男たちがゆっくり歩きながらケルティス人を吟味ぎんみし、目の前であれこれと難癖をつけ、少しでも値ぎろうと、奴隷商人と交渉をかさねた。


 エイダンは、立っているのもやっとだった。


 彼は数日前にリンチにあい、生々しい傷あとだらけだった。顔ははれあがり、皮膚がやぶけ、あざだらけで、おまけに胸には焼きごてで刻印されたばかりの印がかさぶたになっていた。淫行の罪をおかした、けがらわしい異常者の印が。


 あれには、おそらく買い手はつかないだろうと奴隷商人が話していた。それでも、ほかの奴隷がよく見えるようにと、あえて市場に並べられたのだ。


 売れのこれば、近々建立こんりゅうされる公共の建造物の人柱にでもやってしまえばいい。奴隷商人は、エイダンの目の前で言って笑った。二束三文にしかならないが、売り手がつくまで食わせるよりは安くすむ。人柱におくれば、あの世で神々にほめてもらえるかもしれないしな、と。


 エイダンは、自分はこのまま死ぬのだと思っていた。


 ふるえながら、涙を落とした。


 エイダンは、道ゆくテリ人の女に色目を使ったとして、その夫や従者のテリ人にしたたか打ちすえられ、うったえられて、主人に売り捨てられてそこにいた。


 テリ人の女に色目なんか使っていない。だが、テリ人は信じてくれなかった。テリ人の女が、「あいつが見た」と言ったのだ。その証言をさしおいて、奴隷の言葉なんて、だれが信じる?


 エイダンは、十人男がならんでいれば、三番目か四番目には選んでもらえそうな顔立ちをしていた。力も弱くなかったし、仕事もできるほうだ。冗談を言うのが人より得意で、けれど相手がいやがることはけっして言わない。


 だからエイダンに恋するケルティス女は絶えなかった。当時、ちょっとした休憩時間に出かけた食堂や酒を売る店で、エイダンはひとりのケルティス女といい仲になった。


 エイダンは、主人の機嫌がいいときに、彼女との結婚を切りだし、許しをこうつもりでいた。主人が彼女を持ち主から買ってくれれば。あるいは、彼女の主人が、エイダンを買いとってくれれば、結婚できる。


 ケルティス人のほとんどが結婚相手など選べなかったが、ぜったいに希望が叶わないわけではない。話のわかるテリ人も中にはいて、奴隷に恩を売っておけばそれだけいい働きをするだろうと計算する者も多かった。


 エイダンも、主人には気に入られているほうだったから、勝算は十分あった。結婚できると思っていた。彼女と将来を語りあった。


 そんなとき、買いだしに出むいていた城下町の広場で、テリ人の女とすれちがった。そして、ふり返った女が、となりを歩く夫の肩をつかみ、叫んだのだ。


 あいつが見た、と。


 ――なにがなんだか、わからなかった。


 とつぜんエイダンは引きずりたおされ、殴る蹴るの暴行をうけていた。


 奴隷に弁明のチャンスなど与えられない。エイダンはののしられ、つばを吐かれて、持ち主の主人の家へ引きずっていかれた。エイダンの主人は自分の奴隷が無礼をはたらいたことをわび、エイダンをしたたかむち打ったあと、犯罪人の烙印を押して奴隷商人に売りはらった。


 いっそ、鉱山へおくられて、犯罪奴隷として一生を終えるほうがましだったかもしれない。そうすれば、少なくとも生きながらえられるから。


 生傷をさらして、風がふくたび痛みにふるえながら、エイダンは死におびえていた。里親や、恋人や、奴隷仲間たちの顔を思いうかべ、彼らに二度と会えないのだと思った。考えても仕方のないことばかり、つぎつぎ浮かんだ。


 あのとき、目をふせて歩いていれば。いや、あの女とすれちがわないように距離をとっていれば。城下町に行かなければ。風邪をひいて寝こんでいれば。あと少し、もう少しだけあの道を歩くタイミングがずれれば、いまごろは。


 そんなときだった。


 ひとりのテリ人が、しげしげと自分をながめていることに気がついた。


 エイダンは、血で固まったまつげをしばたたき、そのテリ人を力なく見かえした。彼にも、エイダンの胸に押された刻印は見えていたはずだ。淫行の罪をおかしたケルティス人。買えば家の女に危害をおよぼす。買う価値なし。その印。


 だが、テリ人はにこりと笑って、言った。


「きみが、エイダンか?」


 おどろきながら、エイダンは無数の怪我にひびかぬよう、なんとかうなずいた。そうか、と、ふたたびテリ人が痛々しげな笑みを浮かべる。本当は心から笑いたいのに、エイダンのありさまを見て、それどころではないらしい。


「おれはペトスコス。数ヶ月前、妻のネフェルトをむかえた」


 ネフェルト。きいたことがあった。前の主人の家からほどちかい、落ちぶれた氏族の娘。少し前、出世株の役人と結婚して家を出たという、テリ女の名前だ。いまは思い浮かべたくもない、テリ人の女。


「ネフェルトは、ノラといっしょに嫁いできたんだ。ノラを知ってるかい」


 エイダンはふたたび、弱々しくうなずいた。

 近所だったから、知っている。何度か食堂で言葉をかわしたこともある。


「彼女が、きみのことを好いてるんだ」


 ペトスコスは言った。エイダンをうかがうように。


「ずっときみのことを好きだったらしい。きみの話をきいて、ものすごく動揺してる。助けてくれって言われたよ。ただ、きみの意志をたずねないわけには……」


「買って、ください」


 エイダンはふるえながら、なんとか言った。

 わらにもすがる思いだった。


「その子と結婚します。お願いです。おれを買ってください」


 涙が、あとからあとからこぼれ出た。


 なんでもする。ここからぬけ出せるなら。なんとも思っていなかった近所のケルティス女が自分と結婚したいというのなら、そのとおりにする。生きていけるなら、なんでも。


「……エイダン。もしもきみがノラを好いてないなら、むりはしないでくれ。きみには選ぶ権利がある。きみのことは助けるよ。だけどそのあとは……」


「結婚します」

 エイダンは頭をたれた。


「させて、ください。ノラと、結婚させてください」


 ペトスコスは、そっとエイダンの肩に触れようとして、しかしその手を引っこめた。エイダンの体のどこに触れても、その傷にひびいて叫び声をあげそうだったから。


「……まっててくれ。商人と話をつけてくる」

「ああ、ありがとうございます、旦那さま。旦那さまのためならなんでもします。あなたは恩人だ。一生かけて……」

「お願いだから、そういうのは、やめてくれ」


 ペトスコスは苦虫をかみつぶしたような顔をした。


「奴隷じゃなければ、そもそもきみはこんな目にあってない。感謝なんて、しなくていい」




 ペトスコスは変わった主人だった。ほかのテリ人がいないときは、自分を呼び捨てにしてくれと頼んできたし、エイダンが命の恩人だとか、一生つかえつづけるとか言うと、かならず顔をしかめて「やめてくれ」とくり返した。


 ペトスコスがなぜそんなことを言うのか、エイダンにはよくわからなかった。


 だが、いまはわかる。

 これ以上ないほどはっきりと、ペトスコスの言葉の意味が。


 そもそも奴隷でなければ、エイダンはテリ人たちに打ちのめされることはなかった。すれちがったあの一瞬で色目を使ったなどと、わけのわからない言いがかりで暴力をふるわれ、裁判もなしに犯罪者の烙印を押されて、そのまま人柱にされかけるはずがなかったのだ。


 奴隷でなくなったからといって、ケルティス人がテリ人に感謝する必要なんてどこにもない。むしろ、ケルティス人はテリ人の謝罪をきいて、受けいれるかどうかを考えてやってもいい立場にある。そしてその謝罪をはねのけてもいいくらいの、正当な理由がある。それほどの屈辱を、味わわされてきた。


 白き王が即位して数時間。

 やっとエイダンは、自分になにが起きているかを理解した。


 エイダンは、生まれてはじめて、自由になったのだ。

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