4 淫行の罪を犯した奴隷

4−1 口論

 シャンはまんじりともできなかった。


 むくりと起きあがり、寝台からそっとぬけだす。くりくりとした金色の髪をふりみだしたトートが、となりの寝台でかわいたいびきをかいている。天井にちかい小さな窓から入る星明かりをたよりに、シャンは冷たい石畳の上をなですさるように足をしのばせ、扉を押しあけた。


 家内奴隷の居室はたいてい食料庫のそばにある。そっと廊下を進むと、中庭からろうそくの灯がもれていた。中庭に大きくあけ放たれた窓から、食堂の明かりがもれているのだ。


 シャンは心が高鳴った。ペトスコスが戻ったのだろうか。ぼそぼそという話し声がして、里親たちも起きていることがわかった。


 窓から中をうかがったシャンは、がっかりした。ペトスコスはいなかった。六人がけのテーブルに、ふたりの里親がむかいあってしずかに話している。


 いつもほがらかなエイダンも、からから笑うノラも、別人みたいに疲れきっていた。血の気がひいたふたりの顔は、ケルティス人の白い肌をさしひいても、いっそう蒼白に見えた。


「だから、ヘルさまに確認してもらえば……」

「あの人はもういい歳したばあさんだ。この状況で王都を出歩かせるのは危険だよ。それよりおれが……」


「……ろうそく、つけてていいの?」


 里親たちは対話をやめ、はっとシャンをふりかえった。


 けわしい顔つきをふっとゆるませる。

 それでシャンは安心した。いつものふたりだ。


「起こしたか、シャン」

「眠れないの?」


 シャンはこくりとうなずいた。いつもなら「いいから、横になって目をとじていなさい。気がついたら眠っているから」とそっけない言葉をかけるのに、ノラはさみしげに笑って手を伸ばした。


「おいで。私たちも眠れないの」


 シャンは少しばかりうれしくなって、壁をまわりこんで食堂に入り、ノラのとなりに腰かけた。


 シャンはもう十一だ。里親に甘える年ごろではない。だが、ノラはトートやアズマイラにするように、両手を広げてシャンをまねき、だきよせた。その胸にもたれかかり、髪をやさしくなでてもらいながら、シャンは目をとじた。


 ときどき許されるこの瞬間が、シャンは好きだった。


 母親と一緒にいるように感じられるから。


「なんの話をしていたの?」


 シャンが問いかけると、里親たちは顔を見あわせ、エイダンが口をひらいた。


「ペトスコスがどうしているか、話してたんだよ。どうすりゃいいか、相談したいからね」

「いつもの仕事でしょ? ペトスコスはえらいから、いそがしいんじゃない?」


 シャンは首をかしげた。ノラがゆっくりと首をふる。


「今日は官邸がお休みだったの。王さまの戴冠式だったから。なのに戻らないから……心配してるの」


 そんなこと、昼間はひとことも言わなかったのに。ふたりは子どもたちにむかって、なにも心配はないとくり返してばかりいた。あれはうそだったのか。


「明日、もういちど官邸に行ってみる」


 エイダンがふたりをながめながら言った。


「今日はけっきょく、だれにきいてもわからずじまいだった。ペトスコスが宮廷に入っていったことだけはわかったんだ。見ていた人がいたから。だけど、そのあとは……」


「きっと泊まりこみで王さまと話しあいをしてるのよ。大丈夫。あの人はうまくやるわ。不思議な魅力で、人の心を溶かすようなところがあるから……」


 ノラの言い方は、そう信じているというより、自分が信じこめるように言いきかせているようだった。


 この中では、ノラがいちばん主人と付きあいが長い。もともとはペトスコスの妻の実家の出で、ノラは花嫁道具だった。エイダンは、あとからペトスコスに買われた家内奴隷だ。


「ペトスコス、王さまと話しているの?」


 シャンは不安げに問いかけた。たぶんね、とノラはなんとか笑ってみせた。


「王さまが命令したから、町の人たちがへんになったんでしょ?」


 シャンは言った。


「こわい命令をする王さまなんでしょ。ペトスコス、本当に大丈夫なの?」


 里親たちは答えなかった。

 ただ、不安げにおたがいの顔を見やり、だまりこくった。


 楽しいお祭りを楽しむはずの日だった。


 だが、戴冠の儀が終わり、逃げるようにペトスコスの屋敷に戻ってきた彼らは、そのあと息をひそめるように家の中ですごした。町の喧噪けんそうはますます不穏になり、家畜が泣き叫ぶ声や人々の怒鳴り声が一日中こだました。


 エイダンは護身用のナイフをしのばせて何度か外へ出かけ、情報と食料をたずさえて戻ってきたが、三度目になって「今日はもうよして」とノラにたのまれ、ふたりは口論をして、子どもたちは不安げに目を見かわした。


 シャンはアズマイラとトートのおもりに徹した。トートは普段と変わらずのんきにふるまっていたが、アズマイラはなにか察したようにときどきおびえ、寝る前は父親に会いたがって泣いた。


 ペトスコスは多忙で、アズマイラが起きているうちに帰らない日も多い。なのに今日は、父親の顔を見るまではぜったいに寝ないと言いはったのだ。


 けっきょく、五歳の子どもが起きて待っていられるはずもなかった。アズマイラはノラの腕の中で、泣きつかれて眠ってしまった。


「……おれたちも、先行きを考えておいたほうがいいかもな」


 ふっと、エイダンが空気をやぶるように言った。


 シャンは頭をもたげ、ノラはまゆをひそめた。


「先行きって? エイダン、なにを言ってるの?」

「戴冠石が叫んだんだ。みんな言ってる。あの命令には精霊の力が宿ってるって」

「だから?」

「だから……」


 エイダンはちらりとシャンを見た。シャンにはぴんとこない。ノラに髪をなでられて、気持ちよくて寝てしまいそうになっていた。それでなくとも、泣きわめくアズマイラの面倒を一日中みて、疲れきっている。


「……おれたちはもう、奴隷じゃないんだ」


 シャンはゆっくりと目をあげた。


 ノラの手が頭の上で止まっている。シャンは手を伸ばして、ノラの手をつかみ、自分の頭の上を行ったり来たりさせた。


 ずっとなでていてほしい。安心して眠ってしまうまで。


「……ペトスコスが戻るまでは、なにも決められない」


 ふたたび自分の意志でシャンの頭をなでながら、ノラが言った。


「……そりゃ、アズマイラのこともあるからな。だけど、ペトスコスが戻ったら……」

「エイダン。シャンがいないときにこの話をしない?」

「シャンだってあと二年で成人だ。知っておくべきだろ」


 シャンは困ったように里親たちを見くらべた。エイダンは生真面目な顔をし、ノラは不機嫌な顔をしている。


 ふたりとも、いつもとちがう。

 王さまの命令が、なにもかもをおかしくしている。


「シャン、おまえはどうしたい? ずっとこの家にいたいか? それとも……」

「エイダン! そんなこと、子どもに決めさせないで」


「シャンは本当の母親に会いたいんだ。そうだろ? うちに来たばかりのとき、あんなに泣いて、ずっと母親を呼んでたんだぞ。なあ、シャン、覚えてるだろ?」


 シャンはどきっとしつつも、こくりとうなずいた。


「会えるかもしれないぞ。いや、会える。里子省に問いあわせれば、実親の記録もとってあるはずだから――」

「ほんとに?」


 シャンは目をきらめかせた。ああ、とエイダンは笑顔になり、ノラにも笑いかけて――いそいで笑いを引っこめた。


 シャンが見あげると、ノラは怒っていた。シャンが見たこともないほど。


「寝床に行きましょう、シャン」


 ノラはシャンをかかえて立ちあがろうとしたが、シャンは自分で立った。さすがに、ノラにだっこしてもらうほど、自分はもう小さくない。


「待ってくれよ、ノラ」


 ノラは座ったままのエイダンをにらむように見おろした。大柄なエイダンと小柄なノラの目線の高さは、それほど差異がなかった。


「ノラ……おれはただ……」

「この話はもうおしまい。ペトスコスがいないときにする会話じゃないわ」

「なんで? おれたちはもう、あいつの所有物じゃない」


 ノラは今度こそ、エイダンをにらんだ。


「『あいつ』って言わないで。あの人は大恩人なのよ」

「感謝をするなと言ったのはペトスコスだ」


 エイダンはノラを見つめていた。

 夫も、妻をほとんどにらんでいた。


「そもそも、奴隷じゃなければ、救われることもなかった」

「……どういう意味よ」


 エイダンはばつが悪くなったように目をそらした。


 じっと自分を見つめる、妻の目線から逃れるように。


 彼を救ってくれとペトスコスに懇願したのはノラだった。ノラとペトスコスのおかげで、エイダンは命拾いをした。


 わかっていたが、エイダンは言わずにいられなかった。


「……ノラ、おれたちは自由なんだ。ペトスコスだって奴隷の解放をのぞんでいただろ。あいつはこの状況をよろこぶはずだよ」

「だからって、あの人がいないところで、この家を出ていく話をするの?」


「ノラ、自由なんだよ。わかる? おれたちは好きに生きていいんだ。家を出て行くか行かないかで、ペトスコスのお許しなんかいらない。好きに生きようよ。おれたちの本当の子どもたちをさがして、一緒に暮らしたっていい。いや、そうするべきなんだ。おれたちが人間だってことを、テリ人に示すためには」


「……エイダン。あなた、昼間外を出歩いて、そんな話をきかされてきたの?」


 ノラはあきれたように首をふった。


「奴隷の解放について、今日はじめて真剣に考えはじめたような人たちの言葉に影響されるなんて」

「そんな言い方はないだろ。みんな必死なんだ。おれたちだって真剣に……」


「じゃあ、きくけど。家を出て、そのあとはどうするのよ。おなじようなケルティス人が国中にいるのよ。住む場所は、働く場所は、どうするの? 生きていく方法もわからないのに、どうやって暮らしを立てていくつもり?」


「そうかもしれない……けど」


 エイダンは首をふり、頭をかきむしった。


「……おれたちだって、テリ人みたいに暮らせるはずだ」

「私たちはテリ人じゃないわ」

「ああそうだ。奴隷でもない!」


 エイダンがこぶしで食卓をたたき、ノラとシャンはびくっと飛びあがった。エイダンはすぐにわれに返った。自分でもぎょっとしたように首をすくめ、目をあげて「ごめん」と口走る。


「忘れてくれ。おれは……ちょっと、混乱してて」


 シャンの心臓が、ばくばくと波うっていた。


 こわい。


 エイダンのこんな姿を、はじめて見た。


 シャンはまだ幼く、真実に気がつけないでいた。こわいと思うその態度は、見たことがなかっただけで、一緒に暮らしている人がずっと前から持ちあわせている、ひとつの面でしかなかったことに。


 だれもがそうだ。どんなにほがらかでも、やさしくても、理解があっても。


 人はかならず、その身におそろしい一面を持ちあわせる。


 シャンはまだ知らない。ただ、うなだれる里親を見て、いったいどうしてしまったのだろうと混乱するばかりだ。


「……もう寝ましょう」


 ノラが泣きそうな声でつぶやいた。


「私たち、疲れてるんだわ。そうでしょ。いったん寝て、また明日考えましょう」

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