2 奴隷少女シャン
2−1 身支度
王都からいくらも離れていない城下町に、とある官吏の住む屋敷があった。
神聖なる高山を背にした王都は、王のすまいと
城下町は、劇場や公園、市場、商店、食堂、公衆浴場が並ぶ市民の街だ。平原区からやって来たおのぼりは、その町並みに目を見はる。
イスラには、上の階ほど身分の低い者が住んでいる。真ん中にぽっかりあけられた中庭の吹きぬけには、部屋を行き来できるように渡り廊下が縦横に伸び、バルコニーには住人がのんびりくつろぐ。町にはりめぐらされた上水陸橋は二階の高さまでしかまかなえない。よって、二階がいちばん人気があった。一階にも中庭の使える特権があるにはあったが、とかく通行人の喧噪が昼夜を問わず、また高層階の人間が面倒がって排泄物やゴミを窓から投げ捨てるので、住みたがる者はあまりいない。一階はおもに、商店や食堂が店をかまえていた。
王都のまわりを要塞のように守るイスラの群れ。
その中にあって、かの官吏の屋敷はちんまりと建っていた。
大通りからはずれ、ひっそりと奥まった影の場所。もともと、イスラを建てるのが流行った三世代前の地上げ屋が、土地を買いそこねて残った屋敷で、まだ若かった官吏は、相場を知らぬまま売り主から言い値で買った。あとで同僚があきれながらこのあたりの相場を教えたものの、官吏はあっけらかんと笑って「まあいいや。気に入ってるから」と気にするふうもなかったという。
石造りの屋敷は二階建て。敷地いっぱいに広がり、外をながめる窓はなく、中庭をかこむように設計されている。これはまわりに乱立するイスラとおなじ造りだ。敷地の半分は中庭となっており、いくつかの野菜とハーブが植えられ、生活用水に使う水がめとニワトリ小屋がある。中庭のまわりをかこむ柱廊にはひさしがついていて、庭をとりかこむように並んだ部屋を風雨から守っている。
本来であれば王都に住める身分でありながら、イスラのただ中というやかましい場所に住むその官吏は、変人とうわさされていた。
たしかにイスラの最上階に住む人間よりはゆとりある生活にちがいない。だが王都の人間なら、この五倍の広さの屋敷に、十人以上のケルティス人奴隷が所有されているのもめずらしくないのだ。
官吏は妻に先立たれ、まだ小さい五歳の娘とふたりきりの家族だった。だが、官吏の娘はちっともさみしそうではなかった。自分と父のほかに、四人の奴隷が家族のように住んでいたからだ。しかもそのうちふたりは、七歳のトートと、十一歳のシャンだった。
シャンは幼いころから家事手伝いに参加していた。きびきびと働くシャンは、のんびりした弟とは大ちがいだった。とはいえ、シャンとトートに血のつながりはない。奴隷の団結をふせぐため、テリ人はケルティス人に里子制度を徹底させていた。
シャンの仕事の大部分は、主人の娘の世話役だった。
悪知恵のはたらくお嬢さまは年の近いトートをさそい、いつもシャンを走りまわらせた。子どもたちは自由で、ちょこまかとうごきまわり、つぎのいたずらに余念がない。
「ほら、アズマイラさま。そんな格好じゃ、新しい王さまの前に出られないでしょ」
シャンはアズマイラをつかまえ、逃げようとするその頭から上衣をかぶせた。すそと背中に魔よけの刺繍をほどこした礼服は、縫いものの好きなシャンが自分で縫ったもの。
シャンの刺繍の腕前は大人も目をみはるほどで、太い糸はみだれることなく、色あざやかにアズマイラを守っている。そでで腕を守っているのは、ぐるりと一周まわって自らのしっぽに食らいつく黒の蛇。ひざまである上衣のすそにはびっしりと並ぶ白の貝。首元には魚の骨が銀糸であしらわれ、背守りにはアズマイラの好きな鳥が、群青から水色まで六種にも分けられた青い糸の翼を広げている。
「ほら、アズマイラさま。目の届かない背中は、鳥さんが守ってくれますよ」
「背中じゃ見えない。前に縫ってよ、シャン!」
「いい子でおとなしくしてください。今日はとびきりおめかしするんだからね」
「おめかし? ふふふ」
アズマイラはなにが面白いのか、てれたようにほおを両手でつつんで、くすくすと笑いつづける。シャンは慣れた手つきでテリ人の伝統衣装をアズマイラに着つけていった。
七分丈のゆったりしたズボンは、女の子がまだ未婚である証。ひざ丈の上衣は横腹に切りこみが入っていて、その下できつく巻かれた腹帯が、小さな子どもを魔から守る。手首には貝殻でできた腕輪をはめ、首には真珠貝とクシがつらなった首飾りをかける。
普段着であればこのくらいで終わるが、今日は祭りの日だ。
シャンはアズマイラの頭に頭巾をかぶせ、それをおさえる輪飾りを頭にはめた。輪飾りには、こめかみをすっかり隠す丸い飾り板を取りつける。平たい貝殻を黒い布でおおい、金糸で刺繍したものだ。アズマイラは前しか見えないと文句を言ったが、子どもは前だけ見ていればいいんですとシャンは返した。
「いいから、じっとしてて。おめかしするんでしょ?」
「やだこれ、おもいもん。取って!」
「ダメです。小さな子はちゃんと守られなきゃいけないんですよ。とくに今日みたいに人があつまる日は、魔物もよってくるんだから」
「だって、トートはしてないじゃん!」
「トートはケルティス人だから、守り方がちがうんです」
そもそも、テリ人とケルティス人では信じるものもおそれるものもちがう。
ケルティスを制してこの国をうばった当時のテリ王は、奴隷の反乱をあおらないよう、彼らの信仰を守った。彼らが神聖視する深い森には、テリ人の立ち入りを禁じたほどだ。
「たとえばアズマイラさまは、貝でできた腕輪をつけるでしょう。だけど私とトートは、すごーく長いそでの服を着て、手首と足首のところでぎゅっとしわしわにして、悪い精霊が服の中に入らないようにしてるんですよ」
「ふーん」
「それに、私たちは普段から木の耳飾りをつけます。ほら、アズマイラさまの金の耳飾りよりも、平凡でつまらないでしょ?」
「ううん、私もシャンとおなじのつけたい。ねえシャン、交換しよ?」
「うーん。あとでこっそり、ね。戴冠式が終わったら」
「ほんと? やったあ!」
シャンはじゃばらにたくしあげたそでの着物の上から、長い上衣を羽織っていた。体をすっぽりおおう上衣は前びらきになっており、テリ人とおなじように、すそにはお守りの刺繍があしらわれている。だが、奴隷の服の刺繍は糸を節制した簡素なもので、なんとか木や花とわかる図柄が縫いこんであるだけだった。
シャンは頭巾をかぶり、上から刺繍の入ったひたいあてを巻きつけて、赤みがかった金色の髪が目立たぬようにたばねている。彼女の首には、その所有者がきざまれた青銅の首輪がはめられ、彼女が奴隷だということをしめしていた。
「さ、アズマイラさまはこれで完璧です。ほら、次はトート、あんただよ」
シャンは中庭でニワトリを追いかけまわすトートのお腹をつかまえると、帽子を取ってくしけずり、顔や手の泥をぬぐい、服のしわを伸ばしてすそをきちんとズボンの中にたくしこんだ。
トートは言葉がおそい。「うー」とか「あー」とか「いやー」と言いながらも、顔はくすぐったそうに笑っている。ふざけて体をくねくねと動かすので、シャンはいつも弟の身支度にやたらと時間がかかってしまう。
「なんで? トートは、いつもとおなじ格好じゃん!」
アズマイラが「ずるい」と言いたげにほっぺたをふくらませた。シャンは「はあ?」と不機嫌な声を出しそうになって、なんとかこらえた。
特別な日におめかしできるアズマイラが、トートや自分をうらやむなんてあべこべだ。だが、ここで怒りだしても仕方ない。アズマイラは小さすぎるから、奴隷とテリ人の区別もついていないのだろう。奴隷とテリ人の区別がつかないのは、小さい子どもだけとはかぎらないけれど。
「トート、サンダルはきちんとはいた? ほら、アズマイラさまも」
「私はもう、完璧だもん! シャンに完璧にしてもらった!」
アズマイラはきゃっきゃと笑いながらニワトリを追いかけまわした。トートがそれを見て、わっと庭に飛び出していこうとするのを、シャンががっちりつかんで引きとめる。シャンはトートの鼻の頭をごしごしこすり、ほつれたすそを手早く縫って、ようやく解放してやった。
「きれいにしたとたんに汚さないでよ、トート! アズマイラさまも!」
庭にかけてきたトートを、おなじ背丈のアズマイラがつかまえて、ぎゅっとだきしめる。トートもまねをして、アズマイラをだきしめかえした。ぎゅうぎゅうだきあいながら、子どもたちはげらげら笑った。
まったく、とシャンは思った。アズマイラはわかる。まだ五歳だし、テリ人として育てられ、働く必要もないから、年相応に子どもらしくふるまいつづけられるのだろう。だが、トートは……。
シャンはあの歳にはもう、大人たちから仕事を与えられていた。子どもでいられる期間は長くなかった。七歳であれば、はきはきとものを言えたし、簡単な仕事も理解できたし、教えられれば文字も覚えた。書くことはいまだにできない――学び舎にかよっていたわけではないから――けれど、シャンは小むずかしい立法書のたぐいでないかぎり、たいていの庶民文字はつっかえながらも読める。
しかし、トートにはそれができない。体はすっかり大きいのに、あの子はいつまでも、三歳の子どものままだ。もしかしたら二歳かもしれない。アズマイラは自分より体の大きいトートを弟分のようにあつかう。五歳の女の子でも、トートが自分よりも幼いとわかっているのだ。
里親たちもほかのケルティス人たちも、それに関してはなにも言わない。むしろ幸せそうな目でトートを見ている。
もしかして、うらやましいのだろうか? シャンはときどき思う。
そうかもしれない。トートはケルティス人たちにとって、祝福された存在なのだ。精霊たちから加護を与えられた、真実自由の魂を持つ者だと。
シャンはふうとひと息ついて針と糸を片づけ、自分の身支度をととのえた。
髪をとかしてたばねなおし、あいた時間でこつこつ縫っていたひたい飾り――黒い糸で、ナナカマドの図柄を刺繍してある――を頭に巻きつけ、ぬらした布でサンダルをみがいて、少しでも輝いて見えるようにする。とはいえ、ヤギ皮のサンダルは、どんなにこすってもたいして見ばえは変わらないが。
玄関の木戸がひらいて、豆と果物の入ったかごをかかえたケルティス人の女が入ってきた。金というより黄色といったほうがいいような髪をあごの高さでみじかく切り、目は晴れた日の淡い空の色。背は低く、緑に染めた上衣を着て、同じ色のひたいあてを頭に巻いていた。円い木のピアスは顔の半分ほども大きいが、にこにこした大きな笑顔はそれくらいでは隠れもしない。
「ただいまー。いい子にしてた、子どもたち?」
「おかえり、ノラ。ちょうどいま、ふたりの準備ができたとこ」
シャンは走っていって里親のノラを手伝い、奥の食料庫までいっしょに野菜を運んだ。ノラはシャンにお礼を言って、中庭の子どもふたりが夢中で遊んでいるのをうかがってから、そっとシャンの手に砂糖菓子をすべりこませた。ひとつしかない砂糖菓子。本来であれば主人の娘であるアズマイラにまっさきにわたすべきものを、ノラは子どもの中でいちばん年長のシャンに与えた。
シャンは目をきらめかせてそれをうけとり、証拠を隠すためにぱくっと口へ運んだ。
「ふふ。ありがとう、ノラ!」
「あら、なんのこと?」
ノラはきょとんとした顔を作って、いたずらっぽく笑った。
「外はすごい人よ。みんなお祭りさわぎ。戴冠式なんて、私がうんと小さいとき以来だわ。私たちもこれをしまったらすぐに王都広場へ向かいましょ」
母親代わりのノラが小さいときだなんて、きっとものすごく昔にちがいない、と十一歳のシャンは思った。
シャンはヒヨコ豆、ヒラ豆、レンズ豆、エンドウ豆の袋をそれぞれの壺にあけ、ノラはくだものを扉のついた戸棚にしまってカギをかけた。家のいちばん奥まった場所にある食料庫の戸じまりをし、中庭で遊ぶ悪童ふたりをうまく言いくるめてニワトリをかこいの中に追いたてさせる。
よく晴れた日だったから、中庭に干した洗濯物をそのままに、家を出た。
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