第363話 しがない

 ローズやダルク、ヴェルヴェルディと別れ、キュルケース公爵邸をあとにした冨岡は、移動販売『ピース』ではなく教会に戻った。

 いつも通り、学園へと改装している工事の音が響いており、騒がしいはずなのだが何故か心地良い。指示の声、木材の音、作業員たちの足音、これらは全て冨岡の目標に向かう音だ。

 教会の敷地を大きくなぞる様に歩いていると、冨岡は背の低い老爺が工事を眺めていることに気づく。

 その老爺は花見でもしているかのような表情で、姿を変えていく教会を見守っていた。

 もしかして作業員の一人だろうか。この工事の責任者はミルコなのだが、彼の工房だけでは全ての作業を終えるのに何年もかかってしまう。そこでキュルケース公爵家のツテを使って、他の工房にも声をかけ、ミルコの下請けとして様々な人間が従事していた。

 当然、冨岡も一人一人の顔を覚えているわけではない。老爺の風貌からして、他の工房を持っている親方だろうか、と冨岡は老爺に声をかけた。


「作業は順調そうですね」


 突然声をかけられた老爺は、口髭を風に靡かせながら優しそうに微笑む。


「そうじゃなぁ、中々手際がいい。素晴らしいものじゃ。個の力がそれぞれ反発し合うことなく、群れとなりて、大きな流れを生む。流れる川が合流し、海となるが如く。ほっほっほ、見ていて清々しい気持ちになるのう」


 その口ぶりからして、工事の関係者であることは間違いない、と冨岡は確信した。

 関係者でなければ工事全体の流れなど見ないだろう。


「川が海に、ですか。さすがに本職の方はよく見ていますね」

「ほっほっほ。老いて視力は衰える反面、見るべきものがわかるようになる。自然のことじゃよ」


 老爺の言葉は思わず冨岡を頷かせた。

 大切なのは視力ではない。見るべきものを見て、正しく理解すること。どれほど見えていようが、認識していなければ意味がないのだ。自分もそんな目を養いたいと素直に感心する。


「俺もいつかそう言える日が来るよう、精進したいですね。あ、申し遅れました。冨岡と申します」

「名乗るほどの者でもないのだが、ノルマンというしがない爺じゃよ。若人の貴重な記憶を割くまでもないがの」

「ノルマンさん、ですね。つかないことをお聞きするんですけど、どこの部屋を担当されている工房の方ですか?」


 改めて冨岡がノルマンと名乗る老爺の素性を尋ねると、彼は優しく微笑んでから首を傾げた。


「ほっほっほっほっほっほっほ。ほっほっほ、ほ?」

「ほ?」

「ほ?」

「え?」

「何を言っておるんじゃ?」


 老爺に聞き返され、冨岡も首を傾げる。互いに向かい合って首を傾げた二人。まるで妙な儀式でもしているかのようだった。


「えっと、どこかの工房の方ですよね?」

「だから言っておるじゃろ。しがない爺じゃ」

「工事の様子を確認しているんですよね?」

「いや、眺めておる。なんかボロボロの教会があったのにスッゲェなぁと思うての」


 急に軽薄になる老爺の口調。そこで冨岡はまさか、と予感した。


「え、大工工房の親方さんとかじゃないんですか? ほら、息子に工房を譲ってその仕事ぶりを確認してるとか」

「いや、ワシ未婚じゃし」

「待ってください。このタイミングでこんなことお聞きするのは失礼ですが、誰ですか?」

「ノルマンというしがない爺じゃ」


 誰だよ。

 冨岡は心の中でやまびこのようにその言葉を反芻する。

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