カスパーハウザー その2
朝日が顔を出して間もない頃。木々が両岸に立ち並ぶイザール川に、数隻の船がぽつぽつ現れはじめた。黒や茶色の外套を着た人間をいっぱいに載せた船は、街の方へ向かって進む。
乗船する人々は新聞を広げて他愛もない話をしていた。とある二人の若者が記事をめくって新しい話題をみつけたようだ。
「おい、最近話題になっている謎のみなしごだぜ。十六歳のくせして、言葉もしゃべれねえ、親も知らねえ、自分が何者なのかも知らねえんだぜ」
「二足歩行もほとんどできやしないんだろ。もうそれは猿じゃねえか。けど、市局はこいつを保護して色々やってるやっているんだろ」
「やっているって、何をだよ」
「あまりにもの痴呆っぷりに、教育学者、神学者とか法学者とかを招いてこいつに常識を与えているそうらしいぜ。ほらここの記事に書いてあるじゃなえか」若者の片割れが記事に指さす。
「世の中、どういうやつがいるか分からねえもんだよな。なあ、おっさんもそう思うだろ? 政府はやりすぎだろ」若者がたまたま横にいた男に話しかけた。男は赤い帽子を目深くかぶり、ニッと歯を見せた。
「私に質問しているのか? 君たち朝から話題が尽きないな。確かに、記憶喪失の人間よりも奇怪な人間が表れたら、政府も色々な学者を集めるだろうよ。私のような平凡な宗教哲学者でさえもね」
赤い帽子の男は、船を降りて街へ歩き出す。男がたどり着いた場所は市当局だった。白い外壁をした石造りの建物に入っていく。
日光が一切遮断された暗い小部屋にカスパーはいた。カスパーは机の前に座って、弱光のランプの下でパンをかじっていた。食器には水とサラダが載っていたが、サラダの方は全く減っていない。カスパーは口を開いた。
「このパン、いつもと違う小麦で作られているのか? まずくはないが、舌触りがいまいちだな」
「カスパー、分かるのか? パンの材料が普段のものと異なるのが」
壁際に男がいた。紫色のタキシードを着こなし、手には白い手袋がはめてある。
「アンゼルムさん、まさかわざと変えたの? 僕がいつものパンを好きだと知ってて?」カスパーは目に涙を浮かべた。アンゼルムという男はカスパーの手を握り、静か口調で答えた。
「そんなことするわけがないだろう。少しパンの仕入れが遅れたんだ。焼いている店はいつもと同じ場所だから安心して食べなさい」
カスパーはこくりと頷く。アンゼルムは「すばらしいぞカスパー」と言って部屋から退出した。
陽の光が差し込む廊下を歩いていると、赤い帽子の男に出会った。二人は挨拶を交わすと、並行して廊下を進んだ。
「ごきげんよう。アンゼルム」赤い帽子の男が言った。
「ごきげんよう。ゲオルク・ダウマーくん。いや、確か君にGDというあだ名をつけたんだった。ごきげんよう、GDくん。相変わらずの仏頂面だな」アンゼルムが言った。
「ふん。で、少年に何か変化はあったか? カスパーの面倒をずっと君がみているんだろう?」GDが訊ねる。
「劇的な変化はここ数日は見られない。GDくんの教育の賜物か、おかげで人と会話したり、小学生レベルの常識で物事を考えられるようになってきているよ。カスパーは未だに『神』の概念や、鏡に映る自分の姿を理解できていないが」
「そうか。食事のバランスに何か変化は?」
「特に変化なしだ。パンと水だけを好み、他の食べ物は一切口にしない。いや食べさせても、吐き出してしまう。一種の拒絶反応をもっている。しかし、彼は普通の人間にはない特異な能力をもっていることは確かだ」
アンゼルムが鼻毛を抜きはじめると、GDはひげをいじりはじめた。
「うむ。あの能力を持つ人間を見たのは私も初めてだ。誰かが言っていた『カスパーは長期間、それも幼児の頃からずっと闇の中で生活していたかもしれない』というのはいい推理だと思う。実際に闇の中で暮らしているからこそ身に着けた才能のように思える」
アンゼルムが鼻血を出した。指に大量の毛がつままれている。
「ええい。そのことでGDくん、君に伝えることがある。明日、カスパーの特異の性質を試す簡単な実験を行う。カスパーの教育者を務める君にぜひとも参加してもらいたい」
「なにをする気かね? 人体実験はお断りだぞ」
「彼を闇で覆う実験だよ。心配ないさ」
カスパーは夢を見ていた。男の顔が視界を占めている。自分の体は全く動かなければ、首を動かすこともできない。男は泣いていた。男の額からは、血が流れでている。何かを必死に語りかけてくるが、しゃべっていることが分からない。男の顔は黒い影に包まれ、カスパーの視界は全くの暗闇になった。
「おはよう。よく眠れたかい、カスパーハウザーくん。見ての通り君は今、光が一切差し込むことのない、完全な暗闇にいる。ちなみに私はアンゼルムだ。おっと、喋らず聞いてくれ。前回も似たような暗闇の実験を行ったが、今回は完全な暗闇だ。薄明りで行うものではない。昨夜私が伝えたとおり、君はこれから私がする質問に答えるだけでいい。それが終わったら、君が最近気に入ってくれた読書をするがいい」
カスパーは立ち上がり、周囲を見回した。
「アンゼルムさん、読書はこの状態でもできますよ。寝るときにいつも読んでいる聖書がベッドにあるので、読めます」
「なに? 本も読めるのか? 声に出して読み上げてもらっていいかな?」
カスパーは本を手に取り、音読した。
「はい。『人は、ドイツ語を話さなければならないようにラテン語文字を問題として扱うのではなく、むしろ家にいる母、路地の子供ら、市場周辺にいる庶民の男らに問いかけ、彼らが話すのと同じ口の利き方に気を配り、それに従って………』」
「OK! もういい。その文は私も知っている。内容に誤りはない。では次に私の言うモノを見つけてくれ」
「はい」カスパーは声の方向を向いて言った。カスパーには、声のする方角とどの穴を通じて声が通っているか分かっていた。
「君のいま立っている位置から五歩進むと、机にぶつかるはずだ。まず、机に向かってくれ」アンゼルムの言葉を聞いて、カスパーは間を空けて言った。
「アンゼルムさん、机は僕の右手側へ約十歩進んだところにあります。目の前に机などありません」と細い声で否定した。
「見事だ。完全な暗闇で机の場所を視認できるとは。では見えている机に行ってくれ。布が机上に置いてあるだろう? そいつらの色を当てることはできるか? どんけ近づいても良い」
カスパーは再び間を空けて、口を開く。
「動く必要はありませんん、この位置からでも色はわかります。右の布から順番に、赤、白、青、黄色、緑、茶色そして薄い茶色」
「驚いたな………。では聴覚の実験に移行しよう。次の質問に移るが──」
「アンゼルムさん、次の質問は『木箱に入っているオルゴールの音をあてろ』ですか? 同じ音が同じ調子で1秒間以上間隔を空けて、鳴っています」
暗闇に沈黙が訪れた。
「カスパー、どうして次の質問が分かった?」
「アンゼルムさんに誰かが今、耳打ちしたのが聞こえたからです。今の質問をアンゼルムさんに誰かが耳打ちしたんだ」
「聞こえた? そんなはずはない。お前のいる部屋の壁は石造りになっているし、隣の部屋にいる私以外の声は聞こえないはずだ。糸が音を伝達させる性質を利用して、お前に喋りかけているのだからな」
「でも聞こえるんです。アンゼルムさんの部屋に何人もの人がいますよね、その人達の息遣いまで聞こえます」
「そんな………ありえない」
「それに誰かが今、お酒を飲んでいる。さっきから、とても嫌な臭いがする」
「何? 臭いまでも嗅ぎ取れるのか?」
「このお酒の臭いは………僕には………」
「………どうしたカスパー?」
暗闇に倒れる音がした。カスパーが倒れた。
暗闇に光が差し込む。部屋のドアが開かれる。アンゼルムが真っ先に部屋に入った。アンゼルムが目にしたのは、気を失ったカスパーだった。
「カスパー! どうしたんだっ」
アンゼルムはカスパーを抱き起し、呼吸を確認した。駆け付けた他の人間がカスパーの顔を覗きこむ。
「その少年どうしたんだ? まさかストレスのあまり死んだんじゃないだろうな」
誰かが言った。アンゼルムは、カスパーの顔が紅潮しているのに気づく、
「顔が赤い。瞳孔の開き具合から察するに………。どうやら、酔っぱらっているらしい」
「何? 酔っているのか? まさかさっき少年が言っていたことか? 隣には確かにフタの空いた酒瓶があった。その臭いに反応して酔ったということなのか? 部屋を跨いでいるのにもかかわらず、臭いだけで酔いつぶれるのか、その少年は!」
アンゼルムは振り向く。
「彼の名はカスパーだ。そう呼んでいただきたい。もう実験は中止だ。とにかく彼の五感の全てが常人を逸するほど研ぎ澄まされていることがわかったろう。やはり彼は洞窟か牢かで長い間、誰かに閉じ込められていたんだ。そして生かされていた」
アンゼルムはカスパーを抱いて、ベッドに横たわらせた。
「誰がカスパーをこんなふうにしたのか? どうやらそこを調べる必要があるようだ。カスパーの出生を突き止めることで、何か重要なことが分かるかもしれない」
つづく。
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