十作品目「カスパーハウザー」

連坂唯音

カスパーハウザー その1

 幼児を抱えた男が大理石で囲まれた廊下を走る。男は涙を流して赤子にこう語りかけた。

「カスパー、すまない。こうするしかないんだ。………ほんとうにすまない。すまない………。お前は存在してはいけないんだ。すまない、すまない………」

 男は廊下の突き当たりまで進み、壁に衝突した。しかし、男は壁に弾き飛ばされることなく、姿を一瞬にして消した。


 一八二五年、五月二十六日のことだ。赤い三角屋根の建物が周囲に立ち並ぶ広場の中央には何体もの石像が噴水の水を受けている。青空の下で往来する人々は代わり映えのしない日常を送っていた。

 

 しかし昼下がりの刻、広場に奇妙な出来事が起こった。人々の訝しげな視線が噴水の方へ送られている。

 視線の先には、噴水の台座に隠れるようにして体を震わせている少年がいた。少年は、小汚いスーツ、踵の高いブーツ、酷くよれたフェルト帽子を身に着けて、四つん這いの姿勢でいた。人々は彼をみつめるだけで、誰も声をかけようとはしない。


 小剣を抱えた黒服の兵士が少年のもとへ歩み寄り、体を屈めた。

「おい小僧、そんなとこにうずくまって何している。酔っぱらっているんじゃないだろうな、おまえの──」警官が問いかけていると、

「ヌゥぅぁぁア!」と少年は奇声を発した。そのまま少年は四足歩行でその場から離れようとした。しかし兵士にすぐに追いつかれ取り押さえられた。


 日本の交番よりも一回り小さい『衛兵詰所』という建物に少年は連行された。建物の中にはあったのは、椅子2脚と鉄製のテーブルだけだ。黒服の兵士と少年を、中にいた衛兵が出迎えた。少年は落ち着きを取り戻している。

「どうしたんだ、そいつ」衛兵が少年をみて、黒服の兵士に尋ねる。

「ウンシュリット広場で私が話しかけたら、いきなり犬みたいに逃げ出した。不審に思ってこいつを捕らえたが、こいつ全く口がきけないようだ。私の言葉をほとんど理解できていない。おまけにこいつは自分の足で歩くどころか、立つこともできない」黒服の兵士が少年に、椅子に座わるよう勧めた。しかし、少年は困惑した顔で椅子から一歩離れて、しりもちをつく。

「その小僧、椅子も座れないのか? いや、座り方を理解していないようだな。ずいぶん困惑しているようだが」衛兵が少年を椅子に座らせる。

「小僧、字は書けるか?」衛兵が紙と鉛筆を机に置く。

 少年は鉛筆を手に取ると、ぎこちない手つきで紙に字をつづった。それを黒服の兵士が覗き込んで読み上げる。

「………カスパーハウザー………。おまえの名前か?」

 少年がコクリと頷く。少年は鉛筆を放した。

「ほかに何か書けそうか?」

 少年は眉をひそめた。兵士の言葉を理解できていないようだ。

「しかしひどく汚い字だな。他に何かお前の身元がわかるようなものはないか?」

 黒服の兵士は少年が着用している上着のポケットをまさぐった。

「む。なんだ紙が入っているぞ。手紙か?」兵士が取り出したのは、赤い刻印が入った真っ白な封筒だった。封筒を開けると二通の手紙が出てきた。

 手紙の内容を読むと、衛兵と兵士は顔を見合せた。


『ニュルンベルク駐屯第6軽騎兵隊第4中隊勤務のフリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒ大尉殿』と手紙の宛先に記されていた。


 数日後。

「牛が暴走しているぞ! 誰か止めるんだ!」 

 街に悲鳴が轟く。大通りを黒い塊が駆け抜けていく。それを追跡するのは馬を操る騎兵だ。黄金の光のごとく輝く装身具を身に着けた騎兵が四騎。騎兵は片手で馬の手綱を掴み、石畳の路を疾走していく。もう片方の手には剣が握られている。

 彼らの一〇メートル前方を走るのは真っ黒な牛。牛はあらゆる障害物を無視して猛進していく。路を歩く通行人は突進してくる牛を見るなり、目を丸くして間一髪でよけていく。牛はさらに人通りの多い広場に侵入。

 先頭を走る騎兵の一人が馬を加速させた。馬の呼吸も荒くなる。騎兵は牛と並走状態になるやいなや、剣を振り下ろす。

 牛は転倒し勢い余って生垣に頭から突っ込む。牛の動きが止まった。牛の首に切り込みが入っており、そこから鮮血が流れ出した。

「ヴェッセニヒ大尉おみごと! 一撃で狂乱の牛を仕留めるとは!」

 他の追いついた騎兵たちが、牛の首を裂いた騎兵に向かって言った。彼の名はヴェッセニヒ大尉というらしい。

「怪我人は?」ヴェッセニヒ大尉が馬から降りて牛へ近寄る。尋ねられた兵士は

「牛の世話人の男と通りを歩いていた婦人が軽傷を負ったそうです。牛を避けようとしたらしく」と答える。ヴェッセニヒ大尉は牛の首に手をあてて、

「そうか。ならお前たちにこの牛の始末は任せたぞ。私は国王からの召集命令で王宮へこれから向かうからな」と他の兵士に指示を出した。ヴェッセニヒ大尉は馬に乗ってその場を離れようとしたとき、二人の衛兵が彼のもとへ歩いて近づいてきた。

「なにかようか?」大尉が質問をする。衛兵は敬礼をし、

「大尉どの。先日、私たちがお送りした手紙は大尉の手許へ届きましたでしょうか。カスパーハウザーについての内容だったの思うですが。何かご進展は」と訊いた。大尉は、

「誤字や文法の誤りが酷いもんだったが、何とか読めたよ。急にウンシュリット広場に表れた身元不明の少年のことでいいんだよな。手紙を読むと、少年のファーストネームはカスパー、誕生日は一八一二年の四月三十日。身元の情報はそれのみ。彼が十六歳ということだけわかったよ。少年の父親は騎兵だったらしいがすでに死んでいるそうだ。差出人いわく、父と同じ騎兵に少年を採用してほしいが、手に余れば殺してほしい、と書いてあった。はっきりいって、私はそんな少年を持つ騎兵は知らないし、それに関する恩人の心当たりもない。よってそのカスパーとかいう少年の世話を申し出ることはしない」と淡々とした口調で言った。

「えっ。少年の面倒をみてくれないんですか」 

「当たり前だろう。悪いが私は忙しい、彼の身元調査をする暇がある人間を紹介することぐらいなら私にもできるだろう。では、ごきげんよう」

 大尉は馬を反転させ、走り去った。

 衛兵は顔を見合せて、肩を落とした。



つづく。



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