第23話:その娘の名は『藤』といったんだ
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光悦が鬼籍に入ったのは、その数日後だった。静かに、線香の火が燃え尽きるかのような最期だったという。葬式には外刀流の門下生らが参加したが、弔問客の数は少なかった。荘子楼から徒桜と藤も参加し、藤は無言で彼の霊前で合掌し、焼香をすませた。
(とと様、かか様)
心の中で、藤は呼びかけた。
(私の望みは叶いました。光悦様は、確かに仇を討って下さいました。あの方は今、安らかに眠っていることでしょう。私はこれからどうしたらよいのでしょうか?)
その答えは返ってこない。そして藤自身も、恐らく答えを望んでいなかった。もうしばらく経てば、そんな疑問を抱いたことさえも忘れてしまうことだろう。
「光悦殿は不思議な剣客だったな、藤」
隣の徒桜がそう言う。
「はい。私のような禿に興味を持たれるという時点で不思議でした」
「いや、そういう意味ではないが……。最後の見舞いに行った時、彼はなんと言っていた?」
「幸せになれ、と」
「そうか……」
徒桜は男泣きをしたらしく目の赤い石動に頭を下げつつ、葬式の行われた場所から出る。
「彼の遺言を守れ、藤。生きている以上、私たちは死者とは違い明日がある」
「はい」
「私たちも、いつ死ぬか分からぬ身だ。悔いなく生きよう」
「ええ。分かっておりますとも」
二人はそう言い合うと、葬儀の場から出て行った。葬式が終わると、志度光悦の名は一部の者たち以外から忘れ去られていった。あたかも、風に吹き散らされたかのように。
後に徒桜は三津屋の長男で、気立てもよく器量もいい若者に身請けされ、生涯をその店の発展に捧げた。のんきな若旦那に対し、男勝りでしっかりとした徒桜は周りから「よくできた姐さん女房」として慕われたという。徒桜は本名である八雲を名乗り、時に夫を立て、時に夫の尻を叩き、二人は仲睦まじい夫婦としてその後を過ごしたらしい。
そして、成長した藤はその後も遊女として人気を博した。何しろ芸事にも優れ、華やかな美貌の持ち主だ。しかも、どんな客にもなびくようでなびかない不思議な花魁だった。誰にでも話を合わせ、どんな座敷でも華やかにし、そして床にも共寝する。しかし、縁談や身請けにはまったく応じなかったのだ。
吉原に通う色男たちは「俺こそが藤を落として見せる」と奮起したが、結局誰も彼女の心を揺り動かすことはできなかったという。やがて、藤の名が江戸の庶民にまで知れ渡り、彼女が人気者になっていったその頂点で、彼女は今まで貯めた金で自分を身請けし、出家すると言ったのだ。突然のことに周りは驚いたが、藤の決意は固かった。
「……藤は、本当にこれでよかったのか? お前が望めば、裕福な商人のそばめとして生きる道もあっただろうに」
すっかり大店の妻としての立ち居振る舞いが身についた徒桜が言う。しかし藤は満足げに言った。
「いいえ。私はこのまま、仏の道に入りたいと思います。もとより私は天涯孤独の身となっています。尼として生きるのも必定でしょう」
彼女は惜しまれつつ、寺に入り尼となった。尼僧となった藤は子供たちに優しく、読み書きを教える傍ら、貧しい者たちのために炊き出しを行い、時には病人の看病も行った。誰に対しても優しく、彼女はいつも笑顔を絶やさなかった。そんな彼女の姿を見た人々は「まるで菩薩のようだ」と噂したという。その後、江戸の人々はこう語り合った。
「吉原に一人の美しい娘がいたんだってよ。その娘の名は『藤』といったんだ」
「知ってるかい。そいつには病身の侍がいてねえ。名前は忘れちまったんだが……」
「今となってはどうだろうなあ。もしかすると、本当は惚れてたのかもな」
藤の墓は今もその寺にある。そこには彼女の骨とともに、あの光悦の形見となった刀が埋められているそうだ。
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