第24話:お前は死に損ないなどではなかった



◆◆◆◆



 いつからだろうか。気がついたら、という言葉さえ適切ではない。光悦は、そこに座っていた。ずっと前からそうしていたのかもしれないし、今さっきここにたどり着いたのかもしれない。とにかく光悦はここにいた。「ここ」がどこなのかも分からない。今が「いつ」なのかも分からない。ただ、光悦はそこに座っていた。多くの人が通り過ぎていく。


 老若男女とおぼしいが、はっきりと顔や姿は分からない。連れ立って歩く者。一人で歩く者。逃げるように走る者。しきりに後ろを振り返る者。誰も、光悦に気づく者はいない。


(拙者は……死してなお迷っているようだ)


 自分はどうやら、死んだことにさえ気づかない幽霊のようなものになっているのだ。そう彼は理解した。


 そう思いながら、光悦はただ座っていた。ここから動く気はなかった。誰にも急かされることもない。ここが地獄ならば鬼や獄卒がやってきて自分を追い立てるはずだが、そういう風でもない。かといって、仏や地蔵菩薩が来て浄土へと導く様子もない。そもそも、人斬りが極楽に行けるなどとうぬぼれてはいない。


「光悦。こんなところにいたのか」


 やがて、誰かが自分の前に立ちどまり名を呼ぶので、光悦は目を上げた。


「お師匠様」


 そこにいたのは、彼の学ぶ外刀流の師匠である長谷川正忠だった。心なしか最後に見た時よりも背筋が伸び、足腰もしっかりしている。


「やはりと思ったが、まだここに留まっていたとは。あまり執着が過ぎると亡者になって現世に仇をなすぞ」

「申し訳ございません。しかし、どうしてもこの先に進む気が起きず、ここに座しております」

「やれやれ。まあ、生前のお主は肺病に長く苦しんだのだ。しばらくそこで休め」


 正忠は白髭を手で扱きつつ、最初から分かっていたかのようにため息をついた。


「儂はお前に剣を教えたが、どう生きるかまでは教えられなかった。不出来な師を許せ」

「そのようなことは決して」


 光悦は立ち上がって頭を下げる。


「このような死に損ないを最後まで見捨てずに教えて下さったこと、何と感謝を申し上げてよいものか」

「お前は死に損ないなどではなかった」


 正忠は苦悦の言葉を遮る。


「生き恥を晒してでも生き延び、外道と誹られても大義を成す為の剣、此外刀流の理なり」


 改めて自らの流派の根幹を正忠は口にする。


「死病に苦しみもがくお前を、我が流派が救うことができたのならば――――」

「拙者は救われました」


 光悦は改めて師を見る。異様な構えと異様な脚捌きを特徴とする外刀流には似つかわしくない、厳しく無骨で、真っ当で誠実な師匠だった。


「お師匠様は、拙者におっしゃいました」


 光悦はかつて正忠が発した言葉を思い出す。


「拙者の病苦を肩代わりしてやりたい、と。あの言葉に、拙者はどんなありがたい経文よりも救われたのです」


 そうだった。あの忌まわしく苦痛しかもたらさない肺病を、肩代わりしたいとまで正忠は言ってくれたのだ。あたかも衆生の苦しみを背負う地蔵菩薩のように。それは確かに、光悦の救いだった。


「長谷川正忠様こそ拙者の師匠であり、外刀流こそ拙者の剣であります。真に――真に――ありがとうございました」


 万感の思いを込めて光悦は言葉を発する。しばし正忠は沈黙した。やがて、静かにうなずく。


「儂は幸せ者だ。良き弟子に恵まれた」


 ほんの一瞬だけ、正忠の顔が好々爺のように弛み、しかしすぐにその顔は元に戻る。


「儂は先に行く。門弟が来たときにいちいち儂のことなど伝えるでないぞ」

「心得ました」


 光悦は素直に頭を下げた。そっと彼の手が光悦の肩に乗せられる。


「お前が何かをここで得るのを、祈っておる」


 それだけ言い残し、正忠は振り返ることなく去っていった。その潔い背を光悦は見送り、再び彼はその場に座り込み、視線を落とす。


「藤……」


 ぽつりと呟く。自分は死んだ。剣客である以上、死を恐れてはならぬ。死よりも恥を恐れるべし。しかし、外刀流は恥にまみれても生き延びる外道の剣術。それを学んだのは、死病に追いつかれる前に何かをつかみたかったからだ。あの藤という禿。両親を目の前で殺されたことによって狂った禿は、不思議と光悦の心をとらえていた。


 屈託のない笑顔と、痴れた故の度胸の据わったふるまいは、死病に追い立てられる自分とは対照的だった。余命いくばくもない時に彼女に「子を成せるか」と聞いたのは、一つは生きた証を残したかった故。そしてもう一つは――焦るような執着だったのだろう。生前常に共にあった大小が今はない。それでもただ、座ったまま光悦は何かを待ち続ける。



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