第22話:お供いたしましょうか?
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志度光悦がついに倒れて起き上がらなくなったのは、新年を迎えてしばらく後のことであった。真冬の身に染みるような寒さは、病人には辛かったのだろう。あたかも一生を鳴くことに費やし、そして終わればポトリと落ちてこと切れるセミのように、彼もまた剣を振るうことに邁進し、生涯の終わりを迎えつつあった。
「おい、光悦。客人だぞ」
石動がふすまを開け、骨と皮ばかりに痩せて床に臥せった光悦のところに一人の少女を案内した。
「お久しゅうございます、光悦様」
「……藤か。よく来た」
発熱の印紙と炭火が置かれた火鉢を避けて、光悦の布団に藤が近づいてきた。どうやら光悦が倒れたことは、吉原の荘子楼にまで伝わったらしい。よく外出できたものだ、と光悦は思う。
「ご容態はいかがでしょうか?」
「……見ての通りだ。もはや起き上がることもできぬ」
「お顔の色が良くないようで」
「……そろそろ、拙者の命も尽きる」
そう言う光悦の枕元に、藤は物怖じせずに近寄った。光悦の顔には、すでに死相が出ていた。生きながらもう死んでいるようなものだ。五体も臓腑も死を受け入れ、ただ気力だけが生を紡いでいる。
「光悦様の子を、成せずじまいでした」
残念そうな様子もなく、淡々と藤は言った。覚えていたのか、と光悦は苦笑した。
「……そういう定めであっただけのこと。拙者は所詮、剣の道に生きる者だった」
何もかも、巡り合わせがかみ合わなかった。藤の年齢、自分の業病、因果と宿縁。その全てが微妙にずれていただけだ。
「光悦様に抱かれましたら、さぞかし心地よかったでしょうに」
「……剣の扱いは箸より自信があったが、女の悦ばせ方はついぞ知らぬままだった」
光悦はか細い息をつく。思えば生涯女に触れることはなかった。禁欲だったのではない。四六時中この業病を背負った身で、婦女と戯れても楽しむことはできなかっただけだ。そしてそのまま――終わる。
光悦が布団から手を出すと、静かに藤はその手を握った。かつてこの鍛え上げた手は、己の手の延長のように刀を振るった。痩せ衰えた今の手に、その技量は何一つ残っていない。しかし、藤はまるで愛おしむようにその手をさする。小さく温かな手だった。
「光悦様は、こんな私のためにとと様とかか様の敵を取ってくださいました」
「……なぜ知っている?」
もはや隠すこともない。光悦は改めて藤に聞いた。あの夏祭りの日、藤は光悦に言った。「いいえ。何人かの血の混じった臭いです。……五人ほど、でしょうか」と。藤は本当に人の血を嗅ぎ分けるほど鼻がいいのか。それとも、自分が五人の盗人の首を吉原に晒すのを目にしたのか。それを知りたかった。
「人の口に戸は立てられません。まして、吉原は沢山の噂が集まる場所ですよ。『幽霊のような顔色の悪いお侍に雇われて、悪党の根城を探し回った』と、うちの廓で酔った殿方がおっしゃっていました。ずいぶんと日銭を弾まれたようですね。後日、五つの晒し首が吉原の入り口に並んでいました」
「……それだけで拙者の仕業だと?」
「あてずっぽうで鎌をかけてみたのですが、当たったようですね」
光悦はため息をついた。あの時藤は自分に密着していた。言い当てられた光悦の体の緊張、息づかいの変化、心臓の鼓動の高鳴り。それを藤は読み取ったのだろう。
「……拙者は未熟であった」
まるで藤は剣客のようだ。さらに藤は続ける。
「それに、夏祭りで見た光悦様の剣は、以前よりも恐ろしかったです。人を斬った刀とは、あんな風に閃くのですね」
「……それが分かるとは、お主はたいした目をしている」
改めて光悦は驚いた。人を斬った前と後とでは殺気が異なる。より暗く、より鋭く、よりおぞましくなる。それを藤は、剣など握ったことがないのに見抜いたのだ。
「心から感謝を申し上げます、光悦様。私は生涯、あなた様を忘れません」
藤は深々と頭を下げた。狂っているとは言え、藤は何も感じない人形ではなかったのだ。両親を殺した盗人を、ずっと恨んでいたのだろう。光悦によってその仇討ちはなされた。死者は生き返らず、覆水は盆に戻らない。しかし、藤の中で一つの区切りがきっとついたのだろう。
「……ありがたい。これで拙者も逝ける」
藤は光悦の目が閉じつつあるのに気づき、そっと立ち上がった。壁に立てかけてある彼の刀を手に取ると、重さに苦労しながら抜く。すでに人の血を吸ったことのある、怖気を振るうような白刃の輝きがあらわになった。見る者を狂わせるような輝きだ。
「お供いたしましょうか?」
それは、藤が自刃するという意味だ。あるいは、彼に斬られてもよいという意味か。普通の子供ならば絶対に言わない恐ろしいことを、藤は狂っているゆえに平然と口にした。
「光悦様の子を成せませんでしたが、私は私なりにご恩に報いたいと思います」
慣れない手つきで藤は柄を畳の上に立てると、何度も間違えながら刃を自分の首筋に近づける。
藤の目は据わりきっている。その目は覚悟を決めた人間特有の静謐さで満ちており、彼女の決心を如実に表していた。このまま柔らかな首筋を刃に滑らせれば、頸動脈が裂けて藤は血の花を咲かせることだろう。
「……藤よ」
自害さえ厭わない藤を見て、光悦は大変な努力を払って身を起こし、刀と彼女の首筋を引き離す。
「……黄泉路を一人で歩けぬほど、拙者は幼くはない」
濁った光悦の目と、ビードロのような藤の目が合った。死のうとするものが二人いる。方や自らの病で、方や自らの意志で。
「……死なねばならぬ者の前で、死なずともよい命を散らすな」
そこまで光悦が言うと、ようやく藤はうなずいた。再び重さに苦労しながら刀を鞘に収める。
「そうですか。では、私はもっと後から参ります」
一瞬だけ見せた執着心のようなものはもうなく、まるで飽きたかのように再び藤は彼の枕元に座る。
「……藤」
「はい」
「……お主の成長した美しい艶姿を、見たかった」
「私も、光悦様に白無垢を着るところを見て欲しかったです」
光悦は横たわりほほ笑んだ。生に疲れ切った老人のような笑みだった。
「……達者で暮らせ。よい男に身請けしてもらい、幸せになれ」
それだけ言うと、彼は目を閉じた。浅い呼吸がかろうじてまだ続いているのを見ながら、藤は立ち上がった。
「さようなら。光悦様。……本当に私は、光悦様が望むのならば、共に逝くのも厭わなかったのですよ」
彼女は涙一つこぼさず、部屋を出て行くのだった。
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