第15話:血の臭いがします、光悦様



◆◆◆◆



 二人が橋の方にたどり着き、人混みの中で並んで空を見上げたころ、ちょうど花火が打ちあがり始めた。大きな爆発音とともに、空に光の花が咲く。見物人の歓声と「玉屋」「鍵屋」という掛け声が響き渡る。「鴇屋」という周りとは違うことをしたいひねくれ者の声も聞こえてきた。同時に笑い声も上がる。まさに江戸の夏の風物詩と言える一幕だ。


「とてもきれいですね」


 藤がうっとりとした声で空を見ながら言う。


「ぱっと空を彩ってすぐに消えていくのを見ると、儚さも感じます」

「……それでよい。消えぬ花火など眩しいだけだ」

「ふふ、その通りです」


 藤の手がそっと光悦の手に触れ、光悦は藤の顔を見下ろす。徒桜の真似事だろうか。


「また来年も、こうして光悦様と祭りを見て回りたいです」


 何気なく藤はそう言ったのだろう。しかしその「来年」という言葉が光悦の心に痛みを生んだ。他の門下生たちも、どこかで空を見上げているのだろうか。


「……来年、か」

「鬼が笑いますか?」

「……来年は、拙者はもうこの世にはおらぬかもしれん」

「え?」


 一瞬、藤の顔と声が年齢相応になった。藤の驚きに染まった顔を、光悦は初めて見た。


「……見ての通り、拙者は肺を患っておる。最近とみに心身の衰えを感じる時が多くなった」

「そ、そうですか」

「……思っていたよりも、死神の足音が近づいてきたようだ。来年の供は保証できぬ」


 藤は何か言いたげだったが、光悦はそれを遮るように言葉を続けた。


「……それでも、できることなら拙者は、お主とまたここに来てみたいと思う」


 未練がましいことを言う、と内心で光悦は自嘲した。死病は受け入れたはずだ。元より自分は剣客。生死事大、無常迅速。それを心に留めて刀を振るってきたというのに、童女一人の心の揺れ動きに懊悩するとは。剣客として未熟もいいところだ。


「……すまぬ。祭りの興に水を差したな」

「いいえ。そのようなことはありません」


 年端も行かない童女の顔は消え、そこにいたのは、あのいつもの不思議な落ち着きを見せる禿だった。


「では、今この時を楽しむことにいたしましょう。ほら、この騒がしさでは死神の足音も聞こえなくなるでしょう?」


 藤はほほ笑む。


「……そうだな」


 三尺玉が弾けて江戸の夜気を震わせるまで、二人は空を眺めるのであった。



◆◆◆◆



 祭りが終わり、藤を送っていく途中のことだった。


「どいたどいた! 待ていこのスリめっ! 神妙にしろってんだ!」


 手練れのスリと思しき男を岡っ引きが追いかけていく。走り抜けていくその体が、藤にぶつかったのだ。


「あっ……」


 よろけた藤が転びそうになるのを、素早く光悦は手を伸ばして抱きとめた。


 小さな身体だった。肉があまりついていない細身なだけでなく、骨まで細いのが触れた手から伝わる。わずかに力を入れただけで折れてしまいそうだ。決して栄養状態が悪いのではなく、そもそも童女とはそういうか弱いものだった。改めて光悦はそのことを感じた。


「……大事ないか」

「ありがとうございます」


 男の腕に抱かれていても、藤はまったく怖気づいたり、逆に恥ずかしがる様子もない。いつもの屈託のない顔で光悦を見上げる。


「申し訳ありません。私がぼうっとしていたので」

「……気にすることはない。お主に怪我がなくてよかった」


 藤を抱きかかえるようにして、そっと地面に立たせようとしたその時だった。


 藤がまるで仲睦まじい恋人のようにして、背伸びすると光悦の腕の中に身を寄せた。


「……藤」


 どういうつもりだ、と光悦は問おうとする。男にここまでするようにと姉分の遊女は藤に教え込んだのだろうか。


「血の臭いがします、光悦様」


 藤が光悦の首にしがみつくようにして手を回し、耳元で囁いた。


「……稽古の最中にどこか切ったのだろう」


 光悦は藤の意図が分からず、ただそう言った。鍛錬の際に傷つくのは日常茶飯事だ。刀を振るい続けて手の皮がめくれてようやく認められるのだ。あの時の光悦の傷ついた手に包帯を巻いた石動の大きな手はよく覚えている。彼は「これでお前も外刀流だ。よく耐えたな」と言ってくれた。血の臭いなど、あまりにも嗅ぎなれている。


 しかし、藤が首を横に振る気配がした。


「いいえ。何人かの血の混じった臭いです。……五人ほど、でしょうか」


 光悦の息が止まった。剣客にあるまじきことに、言葉だけで身がすくむ思いがした。藤は何を言っているのか。まさか、自分が斬った五人の盗人たちのことを言っているのだろうか。


 だとしたら、なぜ藤は気づいたのだ? 本当に血の臭いをかぎ分けたのか? 様々な疑問が膨れ上がっていく。しかし、藤は――


「冗談です」

「……なに?」


 藤の手が緩んだので、光悦はわずかに身を離す。間近に藤の顔があった。彼女の表情は変わらない。だが、それがかえって不気味だった。


「はい。冗談ですよ」


 光悦が何も言えずに藤を地面に下ろした時、岡っ引きが頭をかきながら戻ってきた。


「いやあすまねえ。本当にすまん。お前さん、怪我しなかったかい?」


 そう言って岡っ引きは藤に頭を下げる。


「ええ。頼りになるお侍様が転ばぬ先の杖となって下さいましたので」


 平然としている藤を見て、光悦はそれ以上何も問うことはできなかった。



◆◆◆◆



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