第6話:初めて刀を持つ手が震えた



◆◆◆◆



「があっ!?」


 苦悶の声を上げながらも、貞盛は突き入れられた刀身を足で蹴り上げようとした。臓物を抉ろうとする光悦はそのまま手を離し、ずるりと滑るようにして間合いを離す。苛立たし気に貞盛は腹に刺さった脇差を抜くと、そのまま床に突き刺した。


「浪人風情が……! なまくら包丁を振り回しているつもりか!」


 罵声を浴びせられても、光悦は陰惨な光をたたえた目で貞盛を見るだけだった。彼の剣術は華やかな御前試合や活人剣とは無縁の、戦場にて磨かれた外刀流である。重たい甲冑を着ることを想定した緩やかな動きの「陽」と、病人や盲人を装ったふらついてよろけるような動きを特徴とする「陰」を自在に使い分ける。およそまともな剣術ではない。


 光悦の目は、じっと貞盛の腹の傷を見ている。出血多量を狙うには浅い。失血により朦朧となるには時間がかかるだろう。そもそも亡者の貞盛が、血を失って死ぬかどうかは分からない。痛し痒しといったところだ。室内で振るうには脇差は刀身の短さが有利となるが、逆に短い故に肝を裂くには至らなかった。じろりと光悦の目が畳の上の刀を見る。


 その瞬間を貞盛が逃すはずがない。


「いぇああああっ!」


 猿が叫ぶが如き気合いと共に突進して刀を振り下ろす。得物を光悦に握らせる気はない。刀に注意が行かざるを得ない光悦の次の動きは、手練れの貞盛にとっては手に取るように分かるのだろう。しかし焦ることなく、無手のまま光悦は貞盛の振るう刀を紙一重で避ける。


 白銀の閃光が弧を描く。それにまとわりつくかのように光悦は避けるだけでなく、逆に間合いを詰めるかのように歩を進める。本能に逆らう異様な動きだ。常人ならば、一撃で骨まで断たれる刀身から少しでも逃れようと後ずさるはずだ。だが光悦は逆に近づく。恐怖を感じないかのように。梁や柱を盾にして、貞盛の刀を防ごうとするのか。


「侮ったなぁっ!」


 しかし、だからこそ貞盛は目を見開いた。一瞬だけその顔が狂人から武人に変わる。まるで光悦の動きに我慢の限界を迎えたかのように、大きく袈裟懸けに刀を振り下ろそうとする。室内でそうすれば、当然刀身が壁に当たった。だが、凄まじい気合いと共に振られたその刃は、壁を乾いた泥のように割りながら光悦に迫る。


 壁や柱が邪魔をするならば、それを叩き割る気炎をもって刀を振るえばよい。逆にそれらを盾と踏んだ相手はまさかの動きに隙を見せる。そのはずだった。光悦は驚くことなくわずかに息を吐いた。その片脚が持ち上がり、指が畳に突き刺さった脇差の柄を握った。空を裂くよりも、壁を割る時の方がわずかに速度は落ちる。それだけでよかったのだ。


 初めて光悦は後ろに跳んだ。片脚の膂力だけで全身を後方にやり、怒り狂った貞盛の必殺の一撃から逃れる。ふすまが彼の五体を受け止めて派手に破れる。器用と言うより昆虫のような動きで、光悦は右足の指で掴んだ脇差を手で持ち、貞盛に向かって投擲する。喉元に迫るそれを貞盛が刀で弾いた時――光悦は畳の上にあった刀を手に取っていた。


 五分と五分。誰もがそう思う状況と間合いだ。光悦が静かに刀を抜いた。一瞬一瞬が命を削るような死闘でありながら、光悦は死人のように落ち着いている。壁に寄りかかるようにして、光悦は刀を下段に構えた。座頭が杖で目の前を探るような奇妙な体勢だ。


「なんだ、その動きは。気でも触れたか」

「……参る」


 ずるり、と今度は光悦から動いた。


 躊躇なく間合いに飛び込む。その切っ先が狙うのはやはり貞盛の脚。甲冑を着ている相手も想定する外刀流だ。堅固な鎧に覆われた胴ではなく脚、それも太い血管が通っている箇所を執拗に斬ろうとする。それを貞盛の刀がことごとく弾く。なおも光悦は貞盛を追い詰めていく。弱った獣に群がる野犬のような、執念深い小刻みの攻撃だ。


 大振りの動きなど一つもない、じわじわと相手の命を啄むこの異質な立ち会いこそ、外刀流の真骨頂だ。


「いぇぇい!!」


 貞盛が刀を振り上げる。大上段からの一撃。一撃一撃が目眩ましも小手先でもない、人体を破壊する退捨流の体現だ。しかし、光悦の動きは異様だった。兜さえも両断する一撃を刀で受け止めると同時に、その手を離したのだ。


「なっ!?」


 手首をひねり、肩の柔軟な関節のしなりを活かしたその動きは、まるで貞盛の刀を自分の刀で絡めとるかのようだった。自然と振り下ろした体勢で地に引かれるようになった貞盛と、刀を離して身軽になった光悦との違いが現れる。光悦の右手が握られた。人差し指の関節を曲げて突き出すようなその握りは、大陸の拳法に通じるものがある。


 斜め横から、貞盛の喉笛に光悦の指が突き刺さった。


「ごぉっ!」


 気道が潰れる嫌な音と、貞盛の呻き声。苦痛に顔を歪めつつ、貞盛は刀をもう一度振り上げた。光悦の胴体を叩き割らんと力任せに逆袈裟を放つ。


「おおおっ!!」


 貞盛の一撃を光悦は一歩だけ退いて避けた。体を捻ると、左手で貞盛の右腕を掴む。


 そのまま、ぐいと腕を寄せた。右手が蛇のように這うと、貞盛の腰の脇差を抜いた。まるで抱き締めるかのように体を密着させながら、光悦は壁に貞盛を叩きつけた。その勢いで、心の臓へと脇差を深々と突き刺す。痴情のもつれから刃傷沙汰になった者同士のような、あまりにも泥臭く洗練とは程遠い殺し合いだ。


 貞盛が光悦を押しのけようと体重をかける。だが、光悦はびくともしない。じっと、光悦は貞盛の顔を見る。笑いも怯えもせず、ただ昆虫のような目で光悦は貞盛を見つめる。その生死の足掻きをすべて見届けようとしているかのように。怒りと苦痛で、まさに鬼のように歪んだ貞盛の顔がさらに歪んだ。口を開くと同時に、血が口から噴き出した。


「俺の名を……聞け」

「……聞こう」

「退捨流……茂野貞盛。覚えて……おけ」

「……あい分かった」


 ぎりぎりと歯噛みをしつつ、口の端から血の泡を吹きながら、ゆっくりと貞盛の体から力が抜けていった。ずるりと貞盛の体が壁から離れ、畳の上に倒れる。光悦は貞盛の死体をじっと見下ろしていた。


「兄上……」


 徒桜がそっと兄の体に触れた。


「……もう二度と、迷われませぬように」


 彼女は静かに嗚咽を漏らし始めた。神仏に対する敬意を持ち合わせず、戯れに神使の猿を斬ったことで狂い死にした男、貞盛。自分が死んだことさえ分からず、こうしていまだに迷っていた。確かに因果応報であり、天罰覿面と言えばそうだ。だが、あまりにもその姿は哀れだった。


 光悦は身をかがめると自分の大小を拾い上げ、抜いた時と同じくゆっくりと鞘に納める。


「……死闘を味わったのだ。今度こそお主の兄上は、自分が死んだことを理解しただろう」


 光悦は徒桜にそう告げる。その言葉に安心したのか、泣き崩れる彼女の姿に何も感じないほど、光悦の心は冷え切っていない。彼は部屋の隅にうずくまると息をついた。


 ゆっくりと貞盛の姿は薄れて消えていく。部屋に満ちていた血の臭いも薄れていく。光悦は刀から手を離し、自分の手を見た。貞盛の心臓を突いて血に染まった手も元に戻っていく。その手はわずかに震えていた。


「……藤」


 それまで死闘が繰り広げられていたにもかかわらず、平然とした様子の藤が光悦に近づき、正座して向かい合わせに座る。


「はい」

「お主を買った代金、鬼を斬って払い申した。これで文句はないな?」

「ありがとうございます」


 藤はそう言って深々と礼をする。


「鬼とはいえ、人を斬った心持ちはいかがですか?」


 しかし、頭を上げた藤は相変わらず、年端もいかない少女とはとても思えない落ち着いた声でそう言った。


「……外刀流を学んで早幾年。初めて刀を持つ手が震えた」

「まあ。恐ろしかったのですね」

「……人斬り包丁などと呼ばれようが、刀に違いはない。拙者は刀を抜くべき時に抜いた。ただそれのみ」

「ご自分にそう言い聞かせておりますね」


 ぶしつけともとれる藤の言葉に、徒桜が顔を上げた。涙をぬぐいつつ慌てて弁解する。


「おい藤、いくら何でも言いすぎだぞ。すまぬな、光悦殿。この禿は少々変わり者でな」

「……構わぬ。修羅道はいまだ遠いようだ。これにて御免」


 光悦は刀を手にぶら下げ、部屋を後にしようとする。


「また、来てくださいますか?」


 藤がそう言う。


「……お主が客を取る前にまた参ろう」

「楽しみにしております」


 光悦はその言葉に答えず、そのまま部屋を出て行った。それ以後、もはや徒桜の兄の亡霊は二度と現れることはなかった。



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