第5話:この鬼を斬る依頼、受けてくれないだろうか
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それから一週間後。ようやく雨の降る夜となり、光悦は一人で破れ傘と提灯を手に荘子楼を訪れていた。ぼんやりとした提灯の明かりと、そぼ降る雨の中の光悦は、まさに幽鬼と見まごうばかりの異様な雰囲気であり、すれ違った者はあるいは妖怪を見るまなざしを向け、あるいは念仏を唱えた。
「……御免。拙者、禿の藤にやとわれ、鬼を斬りに参った」
「ようこそおいでくださいました。私、神田庄吾と申します」
荘子楼の主人は、丁寧な態度で光悦を迎えた。丸顔で愛嬌のあるタヌキのような男である。
「……早速だが、話を聞かせてもらおう。なんでも、この廓に鬼が出るとか」
「ああ。徒桜にですか。あれは、うちの店の問題ですので、奉行所の方々のお手を煩わせるのもどうかと思いまして……」
「……どうでもよい。その太夫はどこにいる?」
光悦が尋ねると、庄吾は顔を曇らせた。
「実は、あいつもかなりの蓮っ葉で、自分の身は自分で守るって言って部屋に禿の藤と一緒にこもってるんです」
「……それはまた、肝の据わった女郎だな」
「まあね。ただ、その間は客は取らないって言うんで困ってたんですよ。……じゃ、こちらへどうぞ」
庄吾はそう言うと、光悦一人だけを奥の座敷に案内した。
「おい徒桜、お侍様が参ったぞ。客じゃない。藤が雇った用心棒だ。開けてくれ」
庄吾がそう言うと、すっとふすまが開いた。庄吾は目で光悦に合図して、自分はそそくさと戻っていった。光悦は大小を帯から鞘ごと抜くと、紐を解き、だらりと手に持ったままのっそりと中に入っていく。
そこはごく普通の妓楼の座敷だった。ただ、そこにいる太夫だけが異様だ。必要最低限の太夫のいでたちで、細かな装飾はつけていない。おそらく動きやすさを重視するためだろう。手元には凝った装飾の刀が一振り。その大夫は光悦を見て少し笑った。
「そなたが藤の言っていた侍殿か? 名を志度光悦というそうだな」
「……お主が徒桜か」
「ああ。今は女郎だが、こう見えて元は武家の娘よ。もっとも、妾腹だがな」
「……そうか」
光悦はそれだけ言った。
「だが、てて様もかか様も恨んではおらぬ。私はむしろ感謝しておる。おかげでこんな大見世で花魁として暮らせるのだから。それで、何が聞きたい? 何でも答えよう」
「……禿の話によれば、お主に鬼が憑いているそうだな」
「鬼か。いや、まあ、鬼というか、そうなのだがな」
徒桜はうなずき、話し始めた。
「――あれは、私の兄だ」
「……ほう」
「兄の貞盛(さだもり)は剣には長けていたが、いかんせん神仏への崇敬を持たぬ困った男でな。しかし、とにかく腕は立った」
光悦はわずかに興味を示す。神仏に強い関心はないが、これから斬りあう鬼の腕については知っておきたい。
「……流派は?」
「退捨(たいしゃ)流だ」
「……相手にとって不足無し」
光悦は昏い表情のままにやりと笑った。シン陰流を学んだ剣豪が編み出した剣術だ。豪快な部分だけが注目されるが、その実極めて実戦的と聞く。
「……それで? お主は拙者に兄を斬れと申すのか」
「ああ。なにぶん、今の兄は既に彼岸の住人故な」
徒桜は姿勢を整えて話し始める。
「兄はとある社の不帰の森に土足で踏み込んでな。神使である猿を面白半分に斬ったらしい。そこから帰ってから高熱にうなされ、やがて狂死した。天罰覿面とは言うが、無惨な最期だった」
徒桜は顔をしかめるが、光悦はじっと聞くだけで口を挟まない。
「兄の亡骸は荼毘に付した。しかし、兄は未ださ迷っている」
「……死ねなかったのか」
「兄は今わの際まで狂乱していた。恐らく、己が死んだことさえ分からぬのであろう。光悦殿、八丁念仏についてはご存じか?」
「……斬ったものが念仏を唱えつつ、八丁歩いてからようやく事切れたという逸話か」
ぼそりと光悦は、とある名刀のおぞましい逸話を口にする。
「ああ、兄も似たようなものだ」
徒桜は大まじめにうなずく。
「狂乱のうちに死んだのであれば、未だ成仏していないのもうなずける話だ。できれば不肖の兄を私の手で彼岸に送ってやりたい。だが、ここは廓。太夫が三味線も弾かずに抜き身をぶら下げていては沽券にかかわる。それに、藤たち禿にも迷惑がかかる。やはり手練れを雇わねば……と思っていた時に、そなたの話が舞い込んできたわけだ」
そこまで言うと、徒桜は改めて光悦に頭を下げる。
「身内の恥をさらすようで情けないが、この鬼を斬る依頼、受けてくれないだろうか」
美しい花魁に伏して願われても、光悦はさしたる感慨も抱くことなく、静かにうなずいた。
「……承知。もとより拙者は禿の藤をすでに買っておる。この剣の腕で代金を支払わねば」
真顔でそう言った光悦に対し、徒桜は言葉を探すように目を泳がせる。
「……え? 藤をか? それは、何とも……奇特な」
「……安心しろ。手は出しておらぬ」
「そ、そうか。それはよかった」
徒桜は明らかにほっとした様子を見せた。一方で光悦は聞きたいことだけを聞いて満足し、そのまま座敷の隅で鞘を抱いて座りこんだ。
こうしていると、まるで死体が転がっているかのような不気味な姿だ。もとより肺病を病み死に近い彼にとって、亡霊など隣人のようなものである。そんな光悦に、先回会って相手をした禿の藤が恐れる様子もなく近づく。
「……藤か」
「先日はご贔屓いただきありがとうございました」
藤はそう言って、馴染みの客のような親しげな様子で頭を下げた。
「……物怖じしないな、お前は」
「いろいろと慣れておりますので」
相変わらず、藤の態度は子供とは思えない落ち着いたものだった。つい、光悦は彼女の身の上を聞こうとした時だった。室内だというのに、鳥肌が立つようなうすら寒い風が吹く。
「……来たか」
にたり、と光悦が笑った。屍肉をついばむカラスの如き笑みだ。
「……藤、下がっておれ」
光悦がそう言うと、藤はうなずいて彼から遠ざかる。ふすまが開き、廊下に一人の男が立っていた。あばらが浮き出るほどにやせ細った男だ。土気色の肌はどう見ても死人のそれだ。らんらんと輝く両眼と、床に引きずるようにして片手に持った一刀を見れば、誰もが彼から遠ざかることだろう。
「未だ迷われたままか、兄上」
徒桜がため息をつく。
なるほど。こんな気色悪い亡霊が現れるようでは、廓も困るわけだ。客が興ざめどころか悲鳴を上げて逃げ出す。
「ああ……熱い……熱いぞ……。血が煮えたぎるようじゃ……おい、八雲」
男の片目がぎょろりと動き、徒桜を見る。彼女の名前は八雲というらしい。
「兄上、どうぞお帰り下さい。もう兄上がいるべき場所は、この現世ではありませぬ」
徒桜は正座してはっきりと兄の亡霊に告げる。しかし、貞盛には文字通り馬耳東風だったようだ。まるで聞いていない様子で、彼は顔を怒りで歪める。
「なんだそのふしだらな格好は。まるで遊女ではないか。貴様、家名に泥を塗る気か。この親不孝者が!」
貞盛の言動は完全に狂人そのものである。目の前の妹が花魁である意味が理解できないらしい。
「兄上のお叱りは甘んじて受ける所存です。しかし、今の私は吉原で生きる身ですが、そこに恥も迷いもありませぬ。これもまた、女の生きる道です」
「黙れ! お前が商売女でいる姿など俺には見るに堪えんわ! そこになおれ、叩き斬ってくれる!」
「兄上、どうかお鎮まりください」
徒桜は兄を諫めるが、彼は聞く耳を持たない。
貞盛は血走った目を見開き、怒りなのか高熱なのか分からない震える手で刀を抜き放つ。歯をカチカチ鳴らしながら徒桜に刀を振り上げた彼と徒桜の間に、ぬっと割って入った者がいた。光悦だ。
「……斬る相手を間違えているぞ、退捨流」
「退けい! 俺は不出来な妹を折檻せねばご先祖に申し訳が立たぬ!」
「……そうもいかぬ」
まともに狂人の殺意を浴びてなお、光悦は陰鬱な気配を消さない。背をややかがめ、酔漢のような足取りですり寄る。その手がゆっくりと刀を抜く。怒りに任せて激しく抜いた貞盛とは正反対の、ずるずると蛇が這うように遅い抜刀。ただし――脇差だ。
「なんじゃ貴様は! ふざけた真似を……!」
「……真剣勝負は初めてか?」
「なに?」
「……ならば、拙者の流儀に付き合ってもらおう」
光悦はそのまま、滑るように間合いを詰めた。まるで倒れこむような異様な動き。そのくせ、殺意をはっきりと込めた刀身が体に隠れるようにして中段から襲いかかる。
「むぅん!」
貞盛が刀を下段から振り上げる。狂っても退捨流の達人。その刀には躊躇も容赦もない。
火花が散った。弾かれた勢いで光悦の状態が泳いだ。まるで酔いどれがふらついているかのような動きで、はた目から見ればてんで剣術を学んでいない素人にしか見えない。だが、踏み込んだ貞盛の足元をじろりと光悦が片目で見た。手の中で脇差しが回り、逆手に握られると足の甲を狙って振り下ろされる。貞盛の足を畳に縫い付けるつもりだ。
それに気づいた貞盛が横に跳んだ。振り下ろされた光悦の刀が畳だけを貫く。真横に薙ぐ貞盛の一刀。そのままだと瓜のように頭を真横に両断される一撃。けれども躊躇せずに光悦は体を倒し、畳の上に転ぶ。明らかに慣れた動きだ。彼の頭の上を貞盛の刃が通り過ぎる。光悦はすぐさま上体を起こし、脇差の切っ先を貞盛の腹に突き入れた。
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